今週の、というかこれを掲載する月曜日には「先週の」というべきか、ともあれ最近のシドニーは雨ばっかりでした。もう梅雨みたい。日本でも台風が来ていたらしいですが、同時多元中継みたいにこちらも似たような感じでした。
シドニーにも、そしてオーストラリアにも雨は降ります。上の写真のように、何となくカラッとした陽光あふれるイメージがあるのですが、いつも晴れてて降水量がゼロだったら、それはすなわち砂漠であって、こういう「緑豊かな」という植物相にはなりません。
まあ、でも混乱しますよね。オーストラリア=「旱魃で大変」というイメージがありますからね。でも、今年はQLD州もWA州も洪水騒ぎありました。「オーストラリアは旱魃が大変だって聞いたのですが」というメールと「オーストラリアは洪水が大変だって聞いたんですが」というメールが、それぞれ来たりして「どっちなんだ!?」という。
まあ、無理もないんですよね。とにかくオーストラリアは国土がメチャクチャ広いので、一律に論じようとするのが無茶なのでしょう。右に地図を貼り付けておきました。わりと面積が正確なグード図法の地図です。地図の上にマウスを置くと拡大します。
ねえ、アホみたいにデカいでしょう?オーストラリアをひょいと持ち上げて、地図のうえにペタンとタテに置いたら、日本・韓国からタイ・マレーシアくらいあります。こんなもん、同じ気候である筈がないという。
しかし、国土が小さい筈の日本だって、断片的に伝え聞く日本のニュースから、「日本は水不足で大変なんだって?」と言った舌の根の乾かぬうちに「各地で土砂崩れがあったんだって?」と聞いたりして、これも「どっちなんだ?」ですよね。
交通機関や情報技術の発達で、どうやら僕らは「本当のスケール感」というものを失っているのかもしれません。縮尺が狂っているというか。この現実世界の本当の大きさに対して、なんか自分の身体の大きさがゴジラくらい、いやいやゴジラの100倍くらい大きいと勘違いしてるというか。
日本にいる頃、友達に誘われて「歩け歩け会」みたいなもの(正式な名前は失念)に参加し、大阪の郊外の裏山あたりを散策したことがあります。楽しかったのですけど、これがまた結構歩くんですよね。大した距離じゃないんですけど、日頃こういう形で歩いてないから、やたら距離が長く感じる。ヘトヘトになりました。その際、淀川の川べりを歩くなど様々なコースメニューを見せてもらったのですが、人間が一日で歩ける距離なんかしれてるんだなと改めて実感しました。ヘタレの僕なんぞは及びもつかない健脚揃いの会員の方々ですら、地図でみたら大した距離しか歩かない。でも、今日自分がヘトヘトになったコースなんか、それに比べたら幼稚園コースみたいなものでしかない。
だいたい、普通に歩いてたら大阪から京都まで1日で歩けません。50キロありますから。1日50キロ歩くのは、かなりツライです。10キロ歩いただけでもふくらはぎがパンパンになるし、足の裏がヒリヒリ痛くなるし。それを50キロ!ありえない!と思っちゃいます。足の痛みと疲労度という実際の身体感覚に照らし合わせて地図をみたとき、「そうか〜、京都と大阪はこんなに離れているんだ!」と改めて思いました。新発見!くらいの感じ。
東京と横浜も似たような距離ですから、1日では無理でしょう。昔の東海道でも、お江戸日本橋を発ってから、一泊目はもう品川の宿だったりしますもんね。電車感覚だと、「え、もう?」と思うんだけど、歩いたら結構あるのでしょうね。次の宿場が川崎だから、そこまで歩くのは大変だし、まだ早いけど初日から無理はしないで今日は品川でってな感じだったのでしょう。先日の地震でも、首都圏で電車が止まって延々歩かされ、「ナマの距離感」を実感された方も多いかと思います。日頃の「ゴジラ的縮尺」が矯正されるという。
そういう時間感覚、距離感覚でいえば、昔の京都=大阪よりも、今の日本=オーストラリアの方がずっと近いんだなあと変なことに感じ入りしました。直行だったらシドニーで9時間、ケアンズで6時間かそこらで着いちゃうもん。しかし、オーストラリア9時間とかいったら、もうゴジラの比じゃないです。ゴジラだって一ヶ月くらいかかるんじゃないかな。
いやあ便利になったもんだと喜ばしい反面、こんな楽してるから本当の現実世界の感覚を失っていくんだなという恐さもあります。地図で見たり、脳内世界では「すぐそこ」なんだけど、いざ実際にやってみたら死ぬほど遠いという。
この発想を拡大すれば、情報やら技術やらの発達により僕らは段々現実の「質感」を失っている、とも言えるでしょう。早い話が頭デッカチってやつですね。ふる〜い言葉でいえば「青びょうたん」ですね。「うらなり」ともいいますな。夏目漱石の「坊ちゃん」に出てくる仇名です。が、これが古いと感じるのは、もう普通の家の普通の庭先に瓢箪なんかぶら下がってないからでしょう。それどころか瓢箪ぶら下がりライブなんか見たことないんじゃないかな。でも、昔はぶら下がってたんだよね。あんなもんが。それもまた凄いよね。なんかワクワクしますね。
それはともかく、僕らはみな「青びょうたん」になっているのでしょう。観念世界に遊び、抽象的な情報に憂き身をやつし、脳内世界では「イケてる俺」だったりしても、実際に現実に出てみたらドッパ〜ン!と木端微塵に玉砕!みたいな。足が痛いよ〜、もう歩けないよ〜ってすぐ泣きが入るという。
子供の頃、母方の千葉の実家に行ったとき、裏庭に火の見櫓と半鐘がありました。火事になるとスルスルと登ってカンカン鳴らすやつ。本当に小さな鐘が釣ってあったかは覚えてないのだけど、コドモだから興味本位でハシゴを登るわけです。でも、登れなかった。半分くらいまで登って、家の屋根を見下ろすくらいになったら足がすくんだ。もう本能的な恐怖にとりつかれて、どうしようもなく手足から血がすっと引いて、力が抜けていく。でも手を放したら死ぬというのはよく分ってて、まるで「死」というものが、タチの悪いいじめっ子のように、ニヤニヤ笑いながら肩に手を回してくるような感じ。「あ、これ以上登るのは絶対無理!」と思って、意気地無く降りてきましたけど、あんなところに登ることさえこんなにも恐いんだ、という良い経験をしました。下からみたら大したことないんだけど、「実際にやったらどんだけ難しいか!」です。貴重な体験でしたね。それが貴重なのは40年以上たっても、まだ画像とともに覚えているってことでも分ります。
こんなことを繰り返して、人は自分のナマの大きさというか、正しい縮尺と距離感を知っていくのでしょう。子供は危ない遊びが大好きですけど、ある程度はやらせてやった方がいいのでしょうね。犬や猫が、見慣れぬ物体に対してフンフンと熱心に嗅ぎ回るように、この世界を知るための本能的な行動なのだと思います。周囲の環境を出来るだけ正確に測定&理解するのは、生物にとっては何よりも重要な基礎スキルです。ここの査定が甘かったり、間違っていたりすると、油断していて天敵に襲われて死ぬか、みすみす獲物を捕るチャンスを逃して餓死するかです。精密な距離感の錬成は、まさに生きるか死ぬかの基礎スキルといってもいいのでしょう。武道でいうところの「見切り」ですね。
ほんでも、僕らは、やっぱり青びょうたん的につけ上がってしまって、同じミスを繰り返す。見切りを間違える。すぐに現実のスケール感を忘れてしまう。
これは距離だけのことではなく、量にも言えます。
例えば、日本の人口が1億人と簡単に言うけど、1億人って途方もない数です。
実際に目の前に一億人ズラリと並べて1秒に一人づつ数えていったら全部数え終るのに何日かかるか?というと、計算してみたらなんと1157日もかかる(間違ってるかもしれないから検算してください)。不眠不休で3年以上。マラソンの応援のように沿道にずらりと一列に並べると1億メートル。1メートルに4人詰めて並べたとしても、÷4だから2500万メートル。はあ?って感じですね。実感湧かない。2万5000キロ?日本一周どころか地球半周以上。
とまれ、「日本は」「日本人は」と僕もよく言うし、あなたも言うでしょうが、実際にはむっちゃくちゃ沢山いるんだわ。もう日本人の特徴を挙げよといわれたら、何をおいても「とにかく滅茶苦茶いっぱいいる!」と言いたくなるくらい。これだけの人数を一つの意思統一体として機能させようとか、もうそんなもん無理!無理!絶対無理!の世界です。だから、「国家」とか「社会」とかいうのは、本質的には「脳内ゴジラ幻想」なのでしょう。「政治」なんかも当然ながら幻想。これだけの数だもん、「国民ひとりひとりを大切にして」なんかできっこない。
だいたい数十人規模のマンション自治会で建て替えの決議をするだけで、あれだけすったもんだするのですよ。十数人のサークル内部でもゴタゴタあり、最小単位である「二人」であっても夫婦、恋人、親子で亀裂が走ったりするのだ。夫婦はまだ離婚があるけど、国家は「解散」がない。だから全然調和してなくても、てか最初っからまとまってなくても、いかにもあるかのように装う。存在しないものを存在するかのようにして振る舞うのが政治であり、幻想であり、トリックなのだ。
そして、そういうあやふやな幻想舞台だからこそ、摩訶不思議な権力関係が生じ、マスメディアによる洗脳やら方向付けがあり、群集心理がありという、奇妙キテレツな世界になる。積み木を積上げるようなわかりやすい物理世界ではなく、溶液一滴を垂らすと、あーら不思議、すっかり色が変わってしまいました〜という「化学」の世界なのでしょう。だから政治が分らんとか、難しいという感想になるのでしょう。逆にいえば、それが幻想であることをしっかり承知することが政治学の第一歩であり、オトナへの第一ステップなのでしょう。
だいたい1億人といえば、100万人集団が100個ですからね。
それを考えたら、本当は100万人くらい死んだってどってことない、それ以前に気づかない。あなたは、テーブルの上に仁丹を100個ぶちまけて、そのうち一個が消失しても気づきますか?トイレいって帰ってきて、「あれ、一個足りないぞ」と気づきますか?無理だわ、そんなの。今の日本で百万人死んだり消えたりしたら大騒ぎです。でもそれに気づくのは、正しい統計をとったり、マスメディアが報道するからはじめて知るのであり、もし統計操作したり、メディアがシカトしたら気づくことすらない。100人いるうちの一人くらい居なくなっても、気づかんよ。もしかしたら今この瞬間にも、100万とは言わないまでも、似たようなことは生じているのかもしれない。てか、まず生じていると思う。光を当てなければ闇は永遠に闇のまま。
「100万人集団が100個」というのは僕がよくいう喩えですが、あなたが何かの技芸に秀でていて上位1%、「100人に一人」レベルにいったとしても、同レベルの人間は日本に100万人もいるのだ。世界全体だったら6000万人もいる。さらに研鑽を積みあげて「1万人に一人」レベルまで上がってきたとしても、尚も日本全国であと1万人いることになる(1万×1万=1億)。
この日本で何か特殊技能を身につけてそれでメシを食おうとするなら、その職業人口をみるといいです。今の弁護士人口は急激に増えたので2万7000人くらいいますが、僕が受験を志した頃は1万人そこそこでした。だからまさに「一万人に一人」です。当時高校生だった僕は、「そうか1万人に一人になりゃいいのか」と思ったもんです。それで大雑把な難易度が分る。一つの高校に生徒が300人いるとしたら、大体30校ちょいで1万人くらい。30校をシメる大番長になるくらいの難易度かと。もちろん全員がそれに参加するわけもなく、医者や芸術家や官僚になる人もいるから計算よりもずっと優しいでしょうけど、それは高校生が全員ヤンキーになるわけではないので同じことです。ちなみに今の弁護士人口は2万7000人くらいだから、10校ちょいをシメればいい程度だから楽になったもんです。その分食えなくなったけど。医者は28万7000人くらいだから、さらにその10倍簡単です。一校シメればいいくらいですね。
そしてこれが、僕が小学生の頃憧れていた漫画家や、大学の頃狂ったようにやっていたギタリストになるのを断念した理由でもあります。だってギターで正味メシが食えている人なんか日本に何人いるの?スタジオミュージシャン、ギター教室、その他をひっくるめても1万人はいないでしょう。ましてや「売れている=食えている」ミュージシャンはリアルタイムで数十人、でも浮き沈みの激しい世界だから、10年以上、さらには定年までの40年間売れ続ける人は数人レベルだと思う。これはもう「1万人に一人」なんて甘っちょろいレベルではなく、それこそ1000万人に一人くらいの計算です。漫画家にしても10年売れ続けている人なんか数えるほどです。これも1000万に一人クラスです。いずれにせよ弁護士になるよりも1000倍難易度が高い。
それでも、馬鹿野郎、チマチマ計算してんじゃねえ、夢だ、ロマンだ!と思ったこともあるのですが、漫画の方は隣のクラスに比較にならないくらい上手な奴がいて、ギターの方は下宿の隣の部屋に比較にならないくらい才能のある先輩がいて、こんな半径数十メートルでもう負けてるようでは話にならん!と悟りましたね。あの種の芸事世界では、才能の差はもう残酷なくらいクッキリ分りますから。それこそ、無理、無理、絶対無理でした。なんぼロマンといってもね、という。それに表現者として世界に対して表現しなければならないほどの「何か」を持っていたわけでもない。なんというか、ほんとの天才というのは、例えばモーツアルトとかでもそうですが、神様のメッセージボーイみたいなもので「これ、地上の皆に伝えておいてね」と頼まれたんじゃないかなって思えてしまう。だからもう表現しないと死んじゃう!って感じで創作に打ち込むのでしょう。なんか妙なことを口走っているようですが、一定期間マジに創作世界に入った人には何となく分ると思います。で、「俺、頼まれてないし、、、」って。そのことは明瞭に分った。
で、仕方なしに才能の要らないイージーな道にいってしまったのです。なんせ1万人に一人ですからね。簡単ですよね。何しろ比べる対象が1000万人に一人ですから、何でも簡単に見えちゃいます。100万人で仁丹一粒なんだから、仁丹一粒の100分一カケラになればいいんだから、楽なもんです。この程度だったら、「頑張る」という方法論が通用しそうな射程距離です。仁丹レベル(100万人に一人)になろうとしたら、もう「頑張る」という方法論だけでは限界があって、才能とか運とかどーしよーもない要素が大きすぎます。
というわけで、このあたりでもゴジラ的縮尺が矯正された体験です。今でも、なにかの技術でプロの人をみると大尊敬しますね。普段は、リスナーやユーザーという反則的な特等席にいるのをいいことに、「今度のアルバムはイマイチ」とかクソ傲慢なことを抜かしたりするのですが、実際に会ったらもう大先生です。三尺下がって影を踏まずというか、子供みたいな知能指数になって「すげー!すげー!すげー!」を連発するでしょう。
そしてまた、あなたが何かのプロを志したら、なにはともあれ「百人に一人」にはなりましょう。これは最小単位だと思います。なんせ仁丹の100分の一のカケラの、そのまた百分の一のカケラなのですから。もう分子以前の原子みたいなものです。それ以下だったら、電子とか中性子になっちゃう。取りあえず「百人に一人」になれ、と。それが最小単位で、それがスタートラインで、話はそれからです。
しかし、でも、これって全然楽ですよ。なにも一つしか技芸がないわけではなく、それが100領域以上あったら(あるけど)、あなたがそれを志した瞬間にもう「100人に一人」にはなってますから。適当にバラけているから見かけの数ほど難しくはないです。だれもがヤンキーになるわけではないってことですね。
もちろん人気の疎密はあるから一概には言えないし、人気が高いエリアは競争率も激しい。誰もが思いつくような人気職業は、初動の100人の中に既に強力なライバルがいたり、成功ハードルが異様に高かったりもするでしょう。逆に誰も知らないようなエリアは競争率が低いから楽なんだけど、その代わりニーズも少なくて食えないかもしれないし、そもそも誰も知らないことは自分も知らないし。これって数学的に方程式や関数にできるんじゃなかろか。
距離にせよ、人数にせよ、そして人生難易度にせよ、何にせよ、そのあたりのスケール感を、ゴジラではなく1メートルなんぼの等身大の身体感覚でわかるようになるのが、まずは第一歩なのでしょう。
補足1:難易度というのは「難度」だけではなく「易度」もあります。「1万人に一人」って、一瞬途方もないように見えるけど、「死ぬ気で3年」やったらそこそこイケるんじゃないかな。「石の上にも三年」と言いますが、よく言ったもんです。3年必死にやればとりあえずその業界で「頭数」には入れてくれる。10年やったら微妙に一人前くらいの感じ。「どんだけ難しいか」の査定と同時に、「どれだけ簡単か」の査定もすべきでしょう。「自分が質量Aの努力をすると世間的には質量Bの効果が生じる」というカンドコロを知ることです。
補足2:これ、書いてて思ったのだが、異様にデカく誤解するゴジラではなく、異様に小さく誤解するミジンコ縮尺もあるのでしょうね。「どうせ俺なんかダメだあ」という。自分の身長が30センチくらいしかないように誤解しているという。それはそれで問題なのですが、今回はこのへんにしておきます。
文責:田村