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今週の1枚(02.05.06)







ESSAY/王道復古


前回の「過剰なる言い訳の日々」の続きを書きます。
 前回の最終部分で、


 どうも思うのですが、なにか悪い病気に感染しているみたい。
 それは、「自分に自信が持てない(持たせてもらえなかった)人間の卑屈で暗い情念」、そんなネガティブな怨念パワーみたいなものが空気の清浄度を汚している。こいつがウィルスのように蔓延し、社会全体の風通しやヌケを悪くしてるような気がします。これが究極の元凶なのではないか?と思ったりもするのですが、既に紙幅もとっくに尽きてます。また、別の機会に書きます。


 と書きました。「自分に自信が持てない人間特有の卑屈で暗い情念」、それによって構成されている「卑屈にねじ曲がった空間」、まず、これは一体何なのかです。





 例えばここにA君という男性がいます。A君には、いつも通勤途上の駅で見かける好きな女性がいました。でも、A君は自分がモテるタイプではないと思っています。だったらスッパリ諦めるかというと、そういうわけではなく、何らかの「接触」を保ちたいと願います。ここれで道は二つに分かれるのですが、@なんとかその女性をゲットするために、好かれる自分になろうとする、A最初から正攻法のアタックは諦め、”不正攻法”に走る、です。


 正攻法は、古来営々と我々野郎軍が悲しくもイジコくやってきた努力です。例えばカッコいいスポーツカーを買うとか、ボディビルに励んでマッチョな肉体にするとか、ファッション雑誌を買い漁ってキメようとするとか、男性雑誌の『これで彼女のハートはバッチリさ』的な御都合記事を読みふけって声のかけ方やデートの方法を考えるとか、、、、。

 結論的に言いますと、この正攻法の成功率は非常に低いでしょう。本人は超マジであっても、ちょっと離れてみたら微笑を誘うような努力だったりします。体育会系のボーズ頭に全然似合ってないブランドスーツを着て、レンタカーの高級車から、花束持って登場し、緊張で顔面神経痛のようにひきつった笑顔を浮かべながら、これまた緊張で手を足を一緒に出して歩み寄ってくるロボコップのような初対面の男性が、不自然に快活な声で「やあ、これからドライブなんかしちゃわない?」なんて誘ってきたとして、女性読者のあなたは「まあ、素敵」といってご一緒しますか?十中八、九せんでしょう。というか、万に一つも成功せんでしょう。まあ、気持ち悪がられるか、ブーっと吹き出されるのが関の山でしょう。

 じゃあ、こういう正攻法が無意味かというとそんなことは無いわけです。男族のハシクレとして言わせて貰うなら、こういういじらしい努力をして、結果的に笑いものになるという悲しい体験をしてない奴は、俺らの仲間じゃないですわ。ここまで極端じゃなくても、誰だって、後になって考えたら恥ずかしくて人に言えないような努力をしてるもんです。「独りよがりのデートの段取り」とかね。で、それでオトナになっていくわけです。


 男も女も、本気で人から惚れられるのは、結局は人間としての「美徳」だと思います。それは思いやりとか、優しさとか、勇気とか、知性とか、ユーモアとか、、、、。そういうのって、無茶苦茶沢山失敗して恥かいて、ツライ思いをしてこないと磨かれないんですよね。 自分自身が色々な気持ちを体験しないことには、他人の気持ちなんか分からない。他人の気持ちがわからない奴に、本当の優しさは生まれてこない。ハタからは小生意気にみえるような態度を取ってる人に対して、「あ、健気に無理してるな、こいつ」と深く理解できて優しいマナザシを送れるかどうかは、自分も同じような経験してるかどうかだと思います。

 だから、正攻法はやっぱり正攻法だということです。即効性はないけれども、「これでいいのだ」と。ボコボコホームランを打たれるかもしれない、狙っても狙ってもストライクが入らないかもしれない、でもストライクを狙いつづけること、です。

 正攻法を取れる人は、やっぱり自分に自信がある人だと思います。少なくとも頑張れば、自分に自信を持てるようになると思ってる人でしょう。ところがそういった自信が最初から欠落している人がいます。「どーせ、ダメに決まってるから」と諦めちゃってる人です。そういった人は、”不正攻法”に走ったりします。もうストライクは諦めて、ビーンボールやデッドボールを投げちゃう人です。

 どうするかといえば、ストーカーやってみたり、電車の中で痴漢してみたり、イタズラ電話してみたり、プライバシーを調べてインターネットの出会い系に嘘の投書をしてみたり。

 心惹かれる女性がいるA君としてもっとも理想的な状況というのは、その女性と愛し愛されることでしょう。彼女から「愛してる」と真摯に言われ、抱き合うことでしょう。それが本来の目標だとすれば、痴漢とかイタ電とかかけちゃったら、もう致命的に本来の目標を達成できないわけです。確かに、遠くから指をくわえて見てるよりは、物質的には接近するでしょう。その代り「彼女のハート」という本来の目標は絶対に達成できなくなる。言い換えれば、本来のまっすぐな目標を「あきらめてしまった」ことでもあります。





 古くから人間には王道とも言える快楽があります。それはすなわち、映画やマンガの主人公のように、魂が燃焼するような恋愛をし、世界を股にかけてスリリングな冒険をし、ハードで華麗な自己実現を果たし、正義のパンチで悪漢をやっつける、、、という、昔から何万回も繰り返し語られてきた物語です。あまりにも陳腐で今さら口に出すのも気恥ずかしいくらいですが、でも「王道」です。なんだかんだ言っても、未だに映画や小説ではこのパターンが踏襲されてますし、おそらく永遠に踏襲されるでしょう。

 おそらく人間という生き物が生きていく上で、これらのパターンなり価値というのは、もう生物的に圧倒的にナチュラルなことなのでしょう。それが圧倒的にナチュラルであればあるほど、圧倒的に強烈な快感を与えてくれるのでしょう。要するに、燃えるわけだし、気持ちイイのだと思います。

 誰だって映画の主人公みたいに生きたい。そして客観的には百万光年くらい離れていたって、主観的にその路線に乗ってる、あるいはいつかは乗るんだと思ってる限り、人はグレないし、イジケない。「あきらめない」限り、人は真っ直ぐでいられる。あくまで正攻法を目指し、不正攻法に走らない。

 諦めるか/諦めないかは、煎じ詰めれば、自信だと思います。セルフエスティーム、プライド、どんな言葉でもいいです。周囲の状況がどんなに逆境的であろうとも、自分は正攻法でやる、ストライクを狙いつづける。自分が卑劣な不正攻法を身をやつすことだけは許せないと思えるかどうかだと思います。




 
 だけど、正攻法で王道を目指しつづけるツライことでもあります。
 そうそう誰もがヒーローになれるわけではない。持って生まれた能力もあるでしょうし、環境もあるでしょうし、運不運もあるでしょう。だから多くの人はいつしか諦めていってしまう。「身の丈を知る」というか、思い知らされたりもするでしょう。ダメな自分を受け入れていくことも、大事な大人へのステップです。

 しかし、いくら夢破れ、挫折しようとも、それでも尚もストライクを投げつづけられるかどうかです。正念場というのは、多分ココだと思うのですね。どんなに打たれても、ストライクは投げつづける。絶対にビーンボールは投げない。卑劣な脇道に逃げない。自分のプライドにかけて、そこまで自分が堕ちることは許せない。そう思いつづけられるかどうか、です。

 ここが弱い人間、正念場で逃げてしまった人間というのが沢山います。諦めてしまった人たちです。
 ヒーロー・ヒロインになれなかったのは良いとしても、その鬱憤と心の隙間を、卑劣なビーンボールを投げることによって埋め合わせようとする人々です。確かに、自分の力の限界を知らされつつ、自分以上に優れた人間が近くにいたら不愉快でしょう。猛烈な嫉妬心も起こるでしょう。その嫉妬心を、「すごいなあ」という素朴な賞賛と、「よし、俺だって」という更なる研鑚に昇華させることが出来ず、嫉妬だけに凝り固まって、ひたすら優れた人間の足を引っ張ることに暗い喜びを覚えるようになる。





 前回のエッセイの最後のくだりで言いたかったのは、オーストラリア社会などに比べて、日本社会が今ひとつヌケが悪いのは、日本にはこの「あきらめてしまった人達」が異様に多いのではないか?その人たちの暗い怨念パワーが日本を覆っているから、なにをするにも風通しが悪いのではないかということです。

 例えば、優れた人間をイジメようという人間があまりにも多い。だから、優れた人間は優れた部分を自己防衛として隠そうとする。コギャル風に言うと、「あのコ、ちょっとカワイイじゃん」「カワイイと思っていい気になってるんじゃない?」「生意気、ムカつく」ということで、美人だというだけでイジメられるという。で、自宅の電話番号をインターネットで顔写真とともに公開されちゃったりする。大人は、子供ほど浅はかではないので、やり方ももっと隠微になります。子供が名門私立に入ったら、裏口じゃないか、肉体を提供したんじゃないかとかマンションの近所の公園で陰口叩かれる。仕事が残業で遅く帰っていると、「夜の仕事」をしていることにされてしまう。帰国子女は、英語が流暢だとイジメられるから、クラスではわざと下手な発音を心がける。

 暗い情念の矛先は、全然関係ない第三者に向けられるときもあります。八つ当たりのようなもので、周囲でドン臭い人間、ちょっと変わった人間がいたら、とりあえずイジメて苦しめて、カジュアルな楽しみを得るという。

 僕はソボクに思うのですけど、そーゆーことを嬉々としてやってる人達、何が楽しくて生きてるんだろう?自分に自信が持てないで生きているのは、さぞかし辛かろうよ。自分をそこまで、ゴミ以下の存在にまで自分を堕として、それでよく生きていけるな?と。

 そいつらに比べれば僕はまだまだ自分に自信があります。能力的に何が出来るとか、実績としてこれがあるとか、そーゆー具体的なものではなく、そこまで自分を堕したくないという最低限のプライドはあります。「意思」はあります。こう言うと、「こいつ、エラそう」と反感を抱く人もいるでしょうが、ゴミに何を思われても屁とも思いませんわ。だいたい、その種のプライドは誰にだってあって当然。無いお前が変なんだわ。どこで落っことしてきたんや?

 自分にプライドがある人間は、総じて自分のことに忙しい。正攻法でストライクを投げつづけるのに忙しい。
 他人を羨んだりしているヒマなんか無いわ。
 他人を見て、自分と同一化していい気分に浸ってるとかいう虚しいことやってる暇なんかもないわ。
 他人の人生を得々と解説してるヒマなんかないわ
 他人の噂話をしたり、他人の失敗を願ったり、他人の足を引っ張ったりしり、他人を笑ってるヒマなんかないわ。

 俺は忙しいの。ストライク投げるの。
 その圧倒的な気持ち良さを知ってしまったら、馬鹿馬鹿しくってビーンボールなんか投げてるヒマはない。なるほどビーンボールにも多少の快楽はあるか知らんが、そんなもんストライクの快感に比べたらゼロに等しい。大統領を暗殺する奴の人生と、その大統領の人生と、どっちになりたいか。坂本竜馬を暗殺した奴と、坂本竜馬本人と、なるんだったらどっちになりたいか?



 生まれてこのかたストライクの王道的快感を知らない人々がおり、それがイジけて、屈折して、ビーンボールを投げる以外に生きている楽しみが見出せないでいる。ストライクの快感からしたらゼロ同然の快感に、それでもミジメにすがって生きている人たちがいある。

 こういう人たちは、可哀想っちゃ可哀想だけど、でもビーンボール投げてる奴はやっぱりクソです。カスなことやってる奴は、百万言を費やして弁解してもカスだわ。そこはハッキリさせた方がいいです。浮浪者バットで殴り殺す連中、多勢に無勢で他人をボコボコにして喜んでる連中は、弁解の余地なくゴミですわ。弱いものいじめをする連中、卑劣な愉快犯に走る連中は人間のカスである、この単純な価値観は確立しておいた方がいいです。こういった連中が大手を振るって歩いてる社会は、やっぱりゴミタメみたいな社会です。これもハッキリさせた方がいいです。

 カスのスペクトルは幅広く、単に犯罪非行行為に走る奴だけではない。ある意味、カス的要素が皆無な人間なんかいない。どんな人でも完璧ではない。完璧ではないから、必ずや自分の限界に直面したり、挫折したりする不愉快な経験をするし、それを完全に昇華しきれず、醜い形でココロの中に残ったりもする。嫉妬も、全くしないってワケにはいかないでしょう。

 そりゃ誰だって、悪口の一つも言いたいだろうし、意地悪のひとつもしてしまうだろう。他人を逆恨みしたり、嫉妬したりもするでしょう。しかし、モノには限度があり、そこには自ずとacceptableな許容範囲というものがあり、越えてはいけない一線というものがあると思います。生理現象のように、ココロに醜いものが溜まってしまうことはあるけど、それは出来るだけ処理する。処理しきれないとしても、まあ、人前でオナラやゲップが出てしまう程度に留めておくのが、社会で生きているための最低限の資格であり資質でしょう。

 ところがそんな最低限の資質すら欠いている連中がいる。圧倒的な歓喜も知らず、自分を成り立たせる最低限の美学もない。最近の非行事件で胸クソ悪いのは、ワルになるほどの根性も無い「普通の子」が多勢に無勢で弱いものイジメをする愉快犯的な卑劣さです。なにかで読みましたが、「最近の若いのは〜」と某極道の人が言っていて、「昔は、少数で大勢を撃破したのが自慢になったが、最近では10人で一人をボコボコにしたなんてことを平気で自慢する。俺にはわかんないよ」と。ある意味、ワルの世界はカタギよりも見栄っぱりで、独特の美学があります。少なくとも社会に向かって「俺は悪者です」と看板背負って歩く覚悟はあるけど、それすらない。その種の素朴な価値観は、むしろ刑務所内の方がハッキリしていて、強姦など弱い者イジメをして入所してきた者は内部で徹底的なリンチを受けるとかよく聞きます。ワルの風上にもおけないと。

 以前も書きましたが、僕はソープ嬢に対しては一種のプロとして同格のレスペクトを感じますが、援助交際やってる女子高生はカスとしか思えない。なぜなら、「私は売春婦です」と看板背負って世間で歩いていく根性がないから。自分のやってることを引き受けられない奴はおしなべてカスだから。

 同じように、他人の足を引っ張ったり、嬉しそうに陰口叩いたり、八つ当たりのイジメをしたりしている連中も、自分のやってることがいかに卑劣かその認識すらない。その認識の無さ加減は昔よりもひどくなってるのではないか。「皆がやってるから」といえば何をしても許されると思ってる。自分を成り立たせるための最低限の価値判断も美学も無い。逆にいえばその美学を導き出す王道的な歓喜を知らない。




 こーゆーストライクを目指すのを諦めちゃった奴に、ストライクを目指そうと呼びかけたってあんまり効果を期待できないと思います。効果があるのは、「あきらめかけている人」とか、「諦めないで頑張ってるんだけど、周囲も理解してくれず、本当にこれでいいのか悩んでる人」に対してでしょう。そういう人たちとは、「人生、やっぱり王道だよな」と励ましあうことは意味があると思います。

 僕がここでひっかっかってるのは、「ストライクを諦めてしまった人」は古来どこの世界にも、日本にも沢山いるわけですが、それにしても、ここのところ日本でやたら増えてきてないか?ということであり、そういったアホどもに引っ張られて普通の人までもがなにがストライクなんだか分からなくなってきてないか?ということであり、ひいては WHY?です。どうしてそうなってるか?であり、さらに How?どうやったら良い方向にいくか、です。

 いきなり話はぶっ飛ぶのですが、「やっぱり人生、王道だよ”な”」と書きましたけど、これ、今だったら「王道だよ”ね”」という、「だよね言葉」が流行ってるような気がします。広告なんか見てるとやたら目立つ。「やっぱり、○○は○○だよね」みたいな書き方。ごめん、この言い方、僕、あんまり好きじゃないです。何が好かんかというと、「やっぱり」とか「ね」とか、常に誰かに同意を求めてるような、誰かに同意してもらわないと成り立たないような、周囲を上目遣いに窺ってるようなヒヨワな語調が嫌いなんです。なんか卑屈で、クニュクニャしてて気持ち悪いわ。意見が同じ人間でないと付き合えんのか、お前は、という。「やっぱり、ボクタチ友達だよね」とか言われて、肩に手なんか置かれようものなら、反射的にぶん殴ってしまいそうだわ。でも、この言い方、なんか象徴してるような気がします。



 それはさておき、ストライク/王道ですが、最近ストライク/王道が見えにくくなったという面はあると思います。そりゃ土地神話も、終身雇用神話も、戦後の日本人をハッピーたらしめていた分かりやすくも具体的・物質的王道が無くなっちゃいましたから、なにをどうしたらいいのか分からんという部分もあるでしょう。この途方に暮れちゃった度は、若い世代よりもむしろ上の世代に激しいのかもしれません。「マイホームさえ買っておけば大丈夫」「大きな会社に入っておけば大丈夫」という物質的な安定、そういった生活基盤に支えられて人生航路をわたってきたわけですから、それが崩壊しちゃうとツライでしょう。いまや、資産・就職・年金とどれもアテになりませんからね。グローバライゼーションの波で先進諸国の趨勢が押し寄せてくるとすれば、公務員の身分保障なんか遠からず消えるでしょう(オーストラリアでは公務員くらい身分が不安定なものはない。財政赤字になると政府はとっとと首切りに走りますから)。

 「王道」というのは、冒頭でも述べたように本来は抽象的なものです。「激しく燃え上がる恋」とか「華々しい自己実現」とか、もともと抽象的なものです。でも、物的・生活基盤が整ってた方が、なにかとやり易いのは事実です。でもそれはやり易さを実現するためのユーティリティに過ぎず、本来的なものではない。物的基盤が頼れなくなった今こそ、それこそ昔の武士道みたいに、本来の姿、ピュアな理念型としての王道が出てくると思います。そして、そのことは、上の世代よりも若い世代においてよく理解されていると思います。

 今の日本、若い世代であればあるほど、物質的に頼るものが無いです。年金のことを考えてみたらよくわかると思います。だから、人生に「安心」なんて無いんだという正しくもドライな認識でいると思います。また、腐っても鯛の日本経済ですから、上の世代が体験してきたほど、今日の日本では、多少物的基盤に欠けてたところで、そういきなり乞食になったり餓死したりするほど生活に困るものでもないです。つまり、物的神話の上に立ち、人生に「安心/安全」があるのだと虚妄を信じ込み、同時に物的基盤の喪失=地獄への逆落としとオーバーに思い込みすぎている上の世代には、この物的安定性に欠けるがゆえに抽象的なものに燃えていくしかない時代をリードするのは難しいのではないか、と思ったりもします。

 だけど、この「抽象的な王道に燃える」というのは、結構難しいです。
 なんせ上の世代が燃えてませんからね。未だに財テクとかやってて電卓叩いてますからね。お手本が少ないわ、時代遅れのメソッドを下の世代に強要するわで。



 しかし、考えようによっては、この抽象的な王道に生きていくというのは、物的王道に沿って生きていくよりもずっと自由で簡単なんだと思います。それに、ハッピーなんか元々抽象的なココロの問題ですから、抽象的なものを追いかけていた方がよりダイレクトにハッピーになれる利点もあります。だって、モノが豊か→便利→気持ちいい→ハッピーという廻りくどいルートを通るよりも、気持ちいい→ハッピーの方がよっぽど手っ取り早いでしょ?所詮モノなんか、ほんの少しのミニマムな分以外は、精神的満足のための小道具に過ぎないんですから、小道具が多少なくても、精神的満足に王手かけてたらそれで十分だったりします。早い話が、セックスは裸でやるものだから、愛する人と一つになれたら、別に高価な服なんか要らないということですな。

 諦めちゃった人達がかもし出すドヨヨ〜ンとした暗雲を吹き飛ばすには、あきらめる人を少なくすればいい。皆が諦めなくなるためには、物的王道に代わる、抽象的で理念的な王道がガンガン出てくればいいんですよね。それは、別に007やMI2のトムクルーズになるだけが能じゃないです。映画のヒーローだって色んなタイプがあるわけだし、色んな魅力的なキャラクターがあるわけです。「俺は風のように生きる」というのもアリだと思います。なんだかんだ言っても「愛」だぜ、これだぜ、というのもアリでしょう。

 抽象的な王道といえば難しそうですが、なんのことはない、自分なりに「カッコいい生き方」をすればいいんだと思います。あんまり余計なこと考えないでさ。他人からみたら阿呆みたいに見えるとしても、そんなことは気にしちゃいけない。ところで、あなたは、自分の生き方、カッコいいと思いますか?カッコいいと思ってる、あるいは今はイケてないくても、方向としてはカッコいい方向に進んでいると思えたら、自然に他人のことなんか気にしなくなるでしょう。



 そういう具合にゴキゲンに生きていけたら、多少の物質的窮乏はそれほど気にならなくなります。オーストラリアに来ると皆さん購買意欲が減るといいます。一つには店に並んでる商品が大したことなくて、購買意欲をそそるような物が少ないという面もありますが、大きな理由としては精神的に充足しちゃうから、それほど物に頼らなくても済む、という点があると思います。なんつーか、空が青くて、海が奇麗だったら、それだけで人間って他愛なくハッピーになれちゃうという部分もあるんですよね。そんなにヤヤコシイ手続きなんて実は要らないというか。

 それに、今からそんなに老後のことを気にしてたってしゃーないよ、と思いますわ。これは以前「老後を制するものは天下を制する」ということで書きましたが、日本人、老後のこと気にし過ぎ。世界の人達はそーんなに考えてないよ。まあ、オーストラリアでもスパーアニュエーションとか、アメリカで401Kとかやってますけど、そんなに日本人ほど強迫観念になってないと思います。もう少し技術的に言うなら、老後設計って結局は投資でしょ。インベストメントっていえば聞こえはいいけど、つまりはバクチでしょ。僕もそうだけど、日本人ってバクチがヘタでしょ。バクチって安全を求めた時から負けが始まりますからね。それに、日本の資産で投資に値するものって無いでしょ。もはや不動産なんかダメだし、株だってまだまだ旨みがないし。だから海外資産になると思うのだけど、これをやるには自分で英語情報を引っ張ってこれるくらいじゃないとしんどいんじゃないかしら。

 それに、大体このテのことって、心配すればするほど泥沼にハマるでしょ。生命保険入っちゃ生保会社が潰れて、マンション買ったら暴落して、企業年金入ってたらリストラで解散されちゃって、金を買ったらまた暴落して、、と。で、焦るほどに、詰まらない原野商法みたいな詐欺にひっかっかたりして。勿論、必ずそうなるというものではないですが、やればやるほど「安心」から逆に遠ざかっていく という面もあると思います。

 それに物的基盤を重視しすぎるが余り、物的基盤が乏しい人を不幸だと決め付けすぎるし、馬鹿にしすぎるという悪い風潮もなきにしもあらず。オーストラリアって、ある意味日本以上に貧富の差があったりすると思うけど、いわゆる日本における貧乏の卑屈さは不思議と無いです。金を持ってる人をいいなあとは思うだろうけど、エラいとは思ってない。貧乏であることを不自由だとは思ってるけど、恥ずべきことだとは思ってない。日本というのは、お金の有無と人格とのリンクが、先進国のなかでもかなりキツい国のような気がします。他はもう少し貧乏人が堂々としてるような。日本ってもともと精神的には清貧を尊ぶというか、お金と人格とを峻別してる文化だったと思うのだけど、戦後成長で物的基盤オンリーでやっていくうちに忘れてしまったのではなかろうか。




 このように物的基盤と幸福王道が固くリンクされてたら、物的王道神話が崩壊しつつある昨今の日本では、陽炎のように消え行く王道にしがみつくような、かなり虚しい生き方しか残されなくなってしまう。でも、何度も言うけど、そもそもその物的王道自体が神話なんだし、最初から嘘だったんだから崩壊もなにも無くて当然なんだけど。

 テストでいい点取って、いい大学、いい会社というルートだって、結局は物的王道でしょう。なんで子供を勉強させるかというと、「豊かな知識は人生を豊かにするから」ではなく、「金がたくさん儲かるから」というのが究極の理由でしょ。それって人間としてものすごく貧しい生き方だと思うわ。しかも、現在、そんな方法論の底が割れてしまってきている。単にいい大学だけだったら心もとなくて、スーパーエリートでもならん限り先行き不安だという。だから、実質的にはより狭き門になるから受験はより過熱する反面、早々と諦めてしまう連中が大量に発生することになる。これは実際に統計でも、開き直って全然勉強しなくなる層というのが増えてるそうです。

 人生のごくごく初期のステージで諦めちゃって、かといって他に代わる王道を呈示されることもなければ、人間スサみますわ。世間で自分を成り立たせていくつっ支え棒みたいなものが無くなっちゃえば、美学も価値観もないクラゲみたいな人間になっていってしまう。こういう人間は美学的なタブーがないからどんな卑劣なことでも平気で出来るようになる。カッコよく生きていこうという意欲もない。また、美学も意欲もないから、ちょっとツライことがあると乗り越えることが出来ない。すぐ楽な方向に逃げる。

 なんかこう書いていると、アメーバとかの原生動物みたいですな。自分の触手の範囲が世界の全てでそれ以上先には関心がないという自閉傾向にせよ、自分の触手の範囲内では「面白いからいじめる」「面倒くさいからやらない」という短絡的な快楽法則に反応しているだけだという。はたしてこういう人間を「人間」と呼んでいいのかどうかすら疑問だったりしますが、こういう手合いが増えてるような気がします。また増えるのも分かるような気がします。なんつっても王道がどんどん無くなってるように見えるだろうから。

 子供を早いうちから私立学校にやらすという傾向も、受験対策というよりはこの種の獰猛なアメーバ人間たちの魔の手(無差別的イジメ)からの「疎開」という側面も強いのでしょう。海外留学なんてのもそうかもしれません。



  夏休みの宿題で自由課題が一番書きにくいといいますが、自由課題こそ一番簡単で一番燃えるという人もいます。そういう人は、今のような時代になっても大丈夫というか、いっそうイキイキするでしょう。でも、そんな人はいいところ1割か2割。あとは白紙のレポート用紙を前に途方に暮れるでしょう。文部省の進める『総合学習』とかいうのはまさにこの自由課題ですけど、こなせるのは一部だろうと言われてますが、まあ、そうでしょう。

 しかし、文部省の肩を持つわけではないけど、自由課題が一番得意になるくらいでないと、これから先の時代、生きていけないとも思います。グローバライゼーションといっても、要するにウエスタナイゼーション(西洋化)なわけで、彼地ではこの自由課題を子供の頃から山ほどやらせてるわけですし、彼らはそれをこなして大人になってきている。だから自分だけの王道快楽/価値を見つけるのは得意だし、それをオーガナイズするのも得意。また、その自分の価値観を大事にするし、それを他人に恥じるという感覚が無い。そこに自立が芽生え、本当の意味での個人主義が成立するのでしょう。

 別に西欧風になるのがイイわけでもないですし、西欧風だからイイわけでもないです。
 洋の東西は関係なく、それが人間としてもっともナチュラルに王道を発見しやすく、ハッピーになり易い環境だということでしょう。
 日本がそうなりたいと欲し、そうなれるかどうかは、正直言ってわかりません。なれてる人はとっくになれているでしょう。問題は自由課題が不得意な人がまだまだ社会では多数派を占めており、この人々の動向にかかっているように思います。







写真・文/田村




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