人は旅に出ます。それも相当な数の人々が旅に出る。
だからこそ、旅にまつわる仕事、旅行会社や代理店をはじめとして、旅行のための書籍や雑誌、サイト、グッズなどが、世間で山ほど売られています。自動車業界、金融業界と並んで「旅行業界」という業界すら存在します。日本だけではなく、世界中のどこでもそうです。トラベル、ツアリズム、ホスピタリティ・インダストリー、、オーストラリアなどでは国家における一大産業になっています。
また、豊かな現代だけではなく、はるか太古の昔から人々はせっせと旅に出ています。シルクロードはあまりにも有名ですが、世界各国で昔から有名な「街道」があります。日本の東海道、ヨーロッパのロマンチック街道、全ての道はローマ通ず。
旅の目的は、商用出張もあろうし、外国との交渉、戦争、あるいは留学(その昔の遣唐使もそう)。宗教上の巡礼も大きなモチベーションでしょう。日本でもお遍路さんやらお伊勢参りがあります。そういった確固たる実用目的があるわけでもない旅も、観光旅行をはじめとして沢山あります。社員旅行や修学旅行、家族そろって夏休みの旅行。これらはまだ分かりやすいのですが、「ぶらり一人旅」みたいに、理由があるんだか無いんだかよく分からんジャンルがあります。しかし、これこそが旅の王道。「ここでないどこか」へ「行きたいからいく」というのが、もっともシンプルでもっとも純粋な旅なのでしょう。
で、なぜ行くのか?
それはまあ「行きたいから」に決まってるのですけど、なんでそんなに行きたいのか?
だって、旅/旅行って大変じゃないですか?とりあえずお金もかかります。会社の休暇を取ったり、留守中の戸締まりから何からダンドリも大変です。行くにあたっても、やたら朝早い時刻にせっせと駅や空港に出かけていったり、時間刻みのダイヤを乗りこなしたり、ときどき欠航やらダイヤの乱れに襲われたり。でもって、行ったら行ったで右も左も分からない土地で、文字通り右往左往する。これでお金が儲かるとか、任務が達成されるとかいうなら分かりますけど、誰から頼まれたわけでもないのに、全部持ち出しの赤字で、なぜにアナタは行くの?お金減らして、大汗かいて苦労して、なんで行くの?なんかイイコトあるの?
あるんですよね。イイコトが。
今回は旅をすると得られるかもしれないイイコトのお話です。
カマボコ板の自我
「ここでないどこか」という言い方のキーポイントは、「どこか」ではなく「ここでない」って部分だと思います。
とにかく「ここ」が鬱陶しい、メンド臭い。あれもこれもやらなきゃいけない。必要なことなのは分かっているし、ぜーんぶ自分で決めたこと、好きでやってるんだということも良く分かってるけど、でも面倒臭いものは面倒臭い。編み物をするように日々チマチマやって〜、やって〜、やり続けていると、時々「だーっ!」と放り出したくなる。逃避したくなる。だから「ここ」からちょっと離れたくなる。
そういう意味で、「ここでないどこか」、”Somewhere other than here”を求める。これは分かります。
僕もわかるし、おそらくはあなたも分かるでしょう。そういう気分になるときって、ありますよね。
しかし、何故そう思うのでしょうね。なぜ鬱陶しくなってくるのでしょう。
いろいろな理由があるのでしょうが、まず同じようなことをずっとやってると単純に「飽きる」という点があるでしょう。また「煮詰ってくる」という感覚もあるでしょう。だからパーッと気分転換をしたい。気分転換だけだったら、わざわざ遠くまで行かなくなって、近所を散歩、読書、映画、飲み会、カラオケ、スポーツ、趣味の世界にのめり込む、、なんでもあります。実際にもそういう事をします。やっていながらも、尚も旅行というオプションがあるというのは、旅行には旅行の良さというとか、他の方法では代替がきかない「なにか」があるのでしょう。
旅行の方が気分転換の「転換度数」みたいなものが高いからかもしれません。飲み会や読書くらいだったら、飲み屋を一歩出たら、あるいは本をぱたんと閉じたら、またいつもの日常がやってくる。気分転換といっても比較的程度の軽い「転換」でしかない。しかし旅行の場合は、自分以外の全てが総取っ替えになり、しかも日常の場から遠ざかれば遠ざかるほどこれまでの現実に復帰するのに時間がかかる。それだけに断絶感が強い。それがいいのかもしれません。
さらに思うのは、そこまで強烈な転換、断絶レベルの強烈な気分転換がなぜに必要なのか?です。そんなにしてまで日常の自分や環境をシャットアウトしたいと思うのはなんでなのか。
もしかしたら、日々の日常とかいうやつに、自我が侵食されたり変形させられていくのが気持ち悪いのかもしれません。
僕もあなたも、人間にはあらゆる可能性を持っています。いろいろな特技も、視点も、知識も、技術も、それらを得るための学習能力もあります。今、不動産業を営んでいるあなたは不動産業種に精通しており、不動産業者としての発想や行動を身につけているでしょう。しかし、あなたの可能性はそれにとどまらない。もしかしたら茶道家になりえたかもしれないし、モンテカルロあたりでジゴロやってるのが似合ってるかもしれないし、日本海側の街道沿いでガソリンスタンドを経営しているかもしれないし、童話作家として子供達の心をわしづかみにしているかもしれない。本当に色々な可能性があると思うのですよ。何かの巡り合わせでそれをやらなければならないスチュエーションになったら、結構上手にこなしているかもしれない。
そういったあらゆる可能性をあなたの精神と肉体は胚胎しています。それら全ての可能性と、可能性のタネみたいなものが、まさにあなたそのものなのでしょう。日常やっている不動産業は、あなたの数限りなくある可能性のほんの一つしか現実化していません。一つといっても大変な仕事であり、朝から晩までプロとして稼働することが要求されるし、実際にもやっている。ガンガン働くのはいいのですが、やればやるほど、自分の中の可能性が一つに固まっていってしまう。全方位ある円満な球体だった自分が、何か一つの地点、方向にだけ固定していってしまう。
思うのですが、それがなんとなく生理的に気持ち悪いんじゃないでしょうか?
あれもあり、これもあり、全部あってこその「自分」なのだけど、一つのことに固着していって、変な形に固まっていってしまうのが、まるでカマボコ板にくっついて一定の形しかとれなくなっていくような、その不自由さがイヤなのではないかと。
だから、これまでの日常という自我を締め付けている鎖を解き放ち、再びもとの自分に戻りたい。よそ行きの服、ネクタイやストッキングなどのように、キチンとはしているけど身体を締め付けていて不快なあれこれを取り払いたい。堅苦しい服を脱ぎ捨て、パジャマに着替えるように、もとの自分に戻りたい。そういう意識から、人は旅に出るのかもしれません。
素の自分
日常生活とは遮断された全く異なった環境におかれると、誰でも「素の自分」に戻ると思います。それが日常から断絶していればしているほど、そうなる。特に知人ひとりいない海外にポツンと一人でいると、日頃忘れていた自分が出てきます。
延長自我とでもいうのでしょうか、人間というのは自分の生身の肉体と精神以外にも、するすると周囲に触手を伸ばして、自我を拡大させていくといいます。例えば某有名企業・学校に所属しているプライドであるとか、何事か偉業をなしとげステイタスを築いた自分であるとか、社会的な身分関係であるとか、カッコいい服や車を乗り回している自分であるとか。あるいはその逆に世間的に認められていない、ダメダメな実績であるとか。でも、そういった偉業も地位も、別にオデキのようにくっついて身体の一部になっているわけではないです。全てはお約束の話や過去の話であり、いわば幻想のようにアヤフヤなものです。でも、エラいと思っている自分に、周囲もそれなりに敬意をもって接してくれるなど、自分の幻想に周りの世間も同調して反応してくれれば、幻想は現実になり、「自分とは○○」というアイデンティティが出来てくるのも自然なことです。でも、それは自我の根本にあるものではなく、どこまでいっても地域限定、時期限定、対人限定の属性に過ぎない。
それが幻想であることは、知人一人いない土地に行くとよく分かります。特に外国。「俺を誰だと思ってるんだ!」「同期では出世頭なんだぞ」と吠えたところで、誰も知らない。見向きもしない。そもそも日本語わからなーい。完全シカト。まあ、当たり前の話ですね。何の利害関係もない他国の人に見えているのは、今この場で目の前にいるリアルタイムの一個の肉体と精神だけです。素の自分、もともとの自分というのは、本来そういうものです。かくして旅先では、否応なくもともとの自分の姿に直面します。
もともとの自分−それは、小学生の頃の自分のようなものです。「気が小さい」とか、「忘れっぽい」「無鉄砲」「すぐ調子に乗る」「絵が上手い」「人の顔色をうかがう」「負けず嫌い」「おっちょこちょい」という、もともとの等身大の自分です。
余談ながら、素の自分に直面するのがイヤな人もいるとは思います。例えば現在結構エラい地位についている人とか。
一般に、長じてから社会地位を得たり、成功した人というのは、青少年期にガリ勉やってたようなタイプ、「お勉強の出来る子」が多いでしょう。特に日本の場合は、入試偏差値→社会的地位というリンクが強いのでその傾向が強い。でも、子供の頃に勉強ばっかりやってる奴って、総じてそんなに人気がないタイプが多い。異性にもモテない。もちろんスポーツ万能学業優秀という例外も多々ありますが、そうでない場合も多い。逆に、勉強も運動もダメだからと一芸(金儲け)に邁進して世間を見返してやるという強いモチベーションを得る場合もあります。いずれにせよ友達に恵まれ、楽しくやってたら、勉強もボチボチ、出世もボチボチになるのが「人間の普通」だと思います。超絶的な勉強とか努力なんか、よっぽどなんか無いとそこまでムキになってやらないでしょう。今の地点が快適だったら上昇志向なんかそうそう湧きません。だから上昇志向が強いというのは、裏には「なんか」があるのでしょう。素の自分のままだとどうにも不愉快で、何かが足りないから、サプリメントのように欠損部分を補おうとする。それがたまたま「他者の承認」(要するにチヤホヤされたい願望)であった場合に強烈な上昇志向が生またりもするのでしょう。全てがそうだというつもりは毛頭ないけど、ありがちなパターンだとは思います。
生まれながらに才能や愛情に恵まれていると、普通おっとり大らかな「いい人」になったりするもんですが、それでも中にはガリガリしたエリート主義がふんぷんとする人がいます。あれも屈折してますよね。例えば、名門の家柄に生まれちゃったら、絶えず自分よりも優秀な兄弟親族と子供の頃から比較され続ける日々だったでしょう。東大出ても首席じゃなかったら馬鹿呼ばわりされるというキツイ環境です。世間的には十分恵まれていても、その人の半径3メートルにおいては全然恵まれてない。だから何事かを成し遂げて見返してやるという、劣等感がバネになったりもします。あるいは、もっと核にあるのは自分の父親に認められていないという欠落感、「お父さんに褒めてもらいたい」という唇をギュッと噛みしめた7歳の頃の少年の姿だったりもするでしょう。やたらエラそげな人がいますが、エラそげな分だけ「なんか」あるのでしょうね。常に虚勢アクセルを踏んで全開でやってないと、なにやら奈落の底に落ちていってしまうのでしょう。思うに大変な人生です。
それはともかく、その人がどういう人かというのは、中学高校大学時代よりも小学校時代にこそ最も端的に現れるといいます。実際、僕もオーストラリアに暮し始めてしばらくは、やたら小学校時代のことを思い出しました。感覚がシンクロしてくるのでしょう。色気づいてくる中学以降は、勉強の成績やら運動やら容貌やらで、狭〜い世界の相対評価で立ち位置が決まり、それが後天的なアイデンティティになったりします。でも、こんなものは天ぷらのコロモのような「後付け」のアンデンティティに過ぎない。本質的にはそーんなに大したことではない。だけど同じ環境でずっとやってると、結局コロモだけがハバをきかし、そのコロモに自分も騙され、自分がなんだか分からなくなったりもします。
そういう意味で、日常からスッパリ断絶した場所へ旅すること、それも一人ぼっちで外国に長い期間行くなど、異次元空間にワープしてしまったかような体験は、素の自分に出会える格好の機会となるでしょう。カマボコの板が取れて、もとのムニュムニュした不定形な、それだけに可能性に満ちあふれた自分に戻れる。天ぷらのコロモが取れる。なお、業界の親睦旅行などの場合は、日本でのコロモ同伴になりますから、あまりその効果は期待できないかもしれません。
ちなみに、これも余談ですが、外国に行くと、"Who are you? What are you?"系の「あなたはだあれ?」という質問を数限りなく受けます。プロフィールを聞いている。でも、多くの場合、彼らが知りたいのは「素のあなた」です。そこを勘違いして、例えば生物学者をやってた場合、そのプロフィールをもって「オレ様は教授センセイなんだからそれなりに扱えよな!」という文脈で答えると外します。知りたいのは「なんでそんなことしてるの?」であり、「子供の頃から虫が好きでしてね、好きが嵩じてまだ顕微鏡覗いてますよ」みたいな部分です。少年のキラキラ瞳を知りたいのだ。その母国における社会的カーストとか地位とか、鬱陶しくも貧乏くさいことは聞いてないのだ。日本社会の場合、その鬱陶しい部分が幅を利かせる場合が多いかもしれませんが、こちらではいくら反っくり返ってエラそげに答えても、彼らの認識には「エラい人」ではなく、「エラそげな奴」「虚栄心の強い奴」としてしか残りません。あ、まあ、そういう意味では日本でも同じか。
旅の化学変化
さてさて上記の点は、旅における「日常からの解放」という「離脱」に眼目がありますが、旅の醍醐味はそれだけではありません。旅先の見知らぬ環境によって、何かを自分の中に得るという「インプット」もあります。美しい風景、異国情緒、一期一会の出会い、、色々な刺激を受けます。そして、それらによって自分の中でなにかが反応し、何かが変わります。そのあたりが面白いのでしょう。
このインプットも@思い出し系と、A新規入荷系に分かれると思います。まずは前者から。
思い出し系というのは、長いこと忘れていた自分の様々な感情が励起してくることです。
例えば、見知らぬ国のさんざめく市場を歩いていると、ふと子供の頃に母親に手をひかれて買物に行っていた気分を思い出すかもしれません。大好きなお母さんの手を握りしめ、物珍しいものが山のように積まれている楽しみなイベント、あのなんかワクワクした気分を思い出すかもしれない。あるいは、川沿いの堤防道を延々歩いていると、学校帰りに友達とチャリンコの走らせていた気分がよみがえるかもしれない。大地に太陽が赤く沈んでいくのを見ていて、遅くなるまで部活をやっていた頃の気持ちを。公園の昼下がりでポッカリ浮いた雲をじっと見ていると、転校して間がなくクラスにも馴染めず、昼休みに所在なげに校庭でボケーと空を見上げていた気持ちを思い出すかもしれない。
これらはカマボコ板や天ぷらのコロモが取れはじめてきた兆候なのでしょう。
そういったパーソナルな記憶だけではなく、民族的記憶みたいなものもあるように思います。
梅雨の霧雨のなか、幾重にも折り重なる山々を遠望する。墨絵のようにグラーデションがつき、しかしはっとするほど美しい濡れた緑で彩られていたとき、なにか胸をつかれるように「ああ、、」と思う。山を見ると何かを感じる。それはヤマト(=山処、山門、山跡など諸説ある)の国の民族の遺伝的な記憶かもしれません。あるいは海を見ると何かを感じるのは「わだつみの民」の遺伝なのかもしれない。僕らは山岳民族と海洋民族の混血であり、山幸彦と海幸彦の子孫なのでしょう。
はたまた、誰一人いない砂浜に隣接した古いお寺の境内にたたずむ。見事なばかりの巨大な黒松の林が、強い風にあおられてワンワン鳴っているさまを見ると、何かを感じます。まるで自分が時代劇の中にいるかような一瞬もある。レンゲや菜の花に一面彩られた田園風景や、今でもドジョウがいそうな小さなせせらぎをみると、特にそんな具体的記憶もないのに何故か懐かしく感じるとか。宵闇迫る下町の路地裏で、あちこちでテレビや炊飯の音が聞こえてくるとき。京都嵯峨野のカンと音がしそうなくらい無音の竹林。冬枯れの寂光がやさしい武蔵野。嘘のように幻想的な、巨木の夜桜。
海外に長いこと住んでいる僕が、旅行をしたいのはやはり日本であり、また僕が日本に求めるものは大体において千年前から変わらずにあるものが多いです。最近の事物には、実はあまり興味はないです。大阪駅再開発も、僕の出身高校の近くにたてられたというスカイツリーも、あらためて見たいとも思わない。日頃忘れかけている自分の一部、日本の風土に生まれ育ち、それが自分の血肉になっている部分を温め直したいと思う。
これらは全て、目の前の風景というインプットによって、心の中の何かが微妙に化学反応を起こすものです。自分が本来何者であったかがむくむくと起き上がってくる。その感覚が楽しいので人は旅に出るのでしょう。
「それだけ」感
Aの新規入荷系ですが、これは「新たに知る」ということです。この場合は、あまり懐かしくない風景、目新しいというか、自分の中にストックがない風景の場合の方がよく起きるようです。
オーストラリアの風景は、懐かしいという感情よりも、「ああ、そうだったのか」という感情の方が多いです。「そうか、空ってこんなに青かったんだ」「月ってこんなにも偉大なものだったのだ」「木がデカいというだけで、これほど心に迫るものがあるのだ」と。これらはシドニーに住んでいても日常的に実感できます。あらためてその意味をよく理解するという感じ。
これがカントリーに旅行にいくともっと根源的になっていきます。
周囲360度地平線が続いていると、もうそれだけで「わはは」と笑えてきてしまいます。半径数十キロ、人工的な照明は自分のクルマしかないという地帯を走っている心細さは、まるで海上、まるで宇宙空間のようです。あまりにもそのまんまの自然は、美しいとか綺麗とかいう以前に、ただ「恐い」です。夜の闇のなか、黒々と突っ立っている巨大な樹木は、それだけで恐ろしい怪物のように思えてきて、いい歳して足がすくみました。また、見渡す限りの星空と、見渡すかぎりの原生林の中にひとりでポツンといると、不慣れな間は、感動というよりも発狂しそうになります。
曇天の中、すかっと見渡せる大地と空、天から地へと落ちていく稲妻、そのあまりにもクリアな映像。稲光の細かいスジ一本一本がクッキリ見える。そしてそんな稲光が次々に天から大地に放射される。あるいは、雨上がりの夜の空に、月に照らされた真っ黒な雲が悠々と動きながら、四方八方に稲妻をほとばしらせている。不思議と音はなく(遠いのだろう)、恐ろしいばかりに美しい、まるでSFXというかCGみたいな風景。
特に夜明け前の強風のなかエアーズロックに佇んだときはそうでしたが、そのとき対話する相手は「自然そのもの」であり、「地球」だったりします。「地球があって、自分がいて、それだけだ」という。本当にそれだけ。話はとても簡単。「ああ、そうだったのか」と思う。
もし死後の世界があるとしたら、おそらく死んでから見るのはこういう風景なのでしょう。全宇宙というか「世界」があり、そしてそこに自分がポツンといるだけ、それだけ。大気中を浮遊している微細なホコリみたいな存在。ミもフタもなく、家族も友人も、仕事も趣味も社会的なあれこれも綺麗さっぱり何もなく、ただ自分がいるだけ。ただそれだけ。
まあ、考えてみれば当たり前の話ですよね。生まれてきた時もそうだったんだから。わずか0.1ミリの受精卵に始まり、何一つ持たず、誰一人知り合いもいないこの世界にたった一人で生まれてきた。こういうと何かおとぎ話のような気がするけど、100%事実でしょう?日頃実感する機会があんまりないから、ついつい改めて思わないだけで、これ以上確かな事実というのはこの世にないでしょう。僕もあなたも昔はわずか0.1ミリの存在だったという嘘のような真実。
それがどうしようもなく真実である以上、それが全ての原点になるでしょう。自分がいて、世界がある、それだけ。この徹底的な「それだけ」感が気持ちいい。ここにいたって、「自分とは本来何者か」がさらによく分かるという。まあ「座って半畳、寝て一畳」ってことなのですが、「本当にそうだよなあ」って思う。
知新の喜び
まあ、そんな哲学的なことだけではなく、もっと単純な話、とりあえず旅に出ると新たな見聞が広まります。
「へえ〜」とか「おお」とかいう事も多いです。分かりやすい例では、第三世界の貧困や内戦を目の当たりにすることで、世界の実相や輪郭が立体的になってくるということ等です。ただそこまで鮮烈なコントラストではなくても、得るものは沢山あります。乗り継ぎの関係で早朝に駅に行くと、普段は寝てるような時間帯でありながら、既に忙しげに立ち働いている人々がいて、「ああ、皆頑張ってるなあ」と思う。ただそれだけのことが実は大きかったりもするのですよね。
世の中には「知っているけど知らなかった」という物事が沢山あると思うのですが、活字やネットで知識としては知っていても、やっぱり現物を目の当たりにすると全然違います。「夜明け前から起き出して働いている人がいる」なんてことは小学校の社会科レベルの知識で、そんなことは当然知っているのですけど、でも身を切るような厳冬の早朝の空気に触れ、白い息を大量に吐きながら、駅や構内のあちこちで様々な音を立てて働いている人々。その温度とか音声とか身体感覚と共に伝わってくる認識というのは、単なる脳内知識とは違う。アニメと実写くらい違う。レストランのプラスチックの見本と実物くらい違う。
オーストラリアにしばらく居れば、「知ってたけど知らなかった」という物事がどんどん生きた実感に置き換わっていきます。取りあえず陽射しの強さと乾燥した空気、それによって色彩が鮮烈になることなんて、こっちに来る前には知ってさえいなかった。夜がとても暗いことも知らなかった。ある程度認識が進むと、「西洋とは何か」とか、「キリスト教とは何なのか」とか、分かっていたつもりの薄っぺらな知識がどんどん肉付けされてきて、ヴァージョンアップしていきます。移民国家とは知っていても、ふと街を歩いて人と出会えば、やれチリ人だったり、ニューカレドニア人であったり、ポーランド人であったりするわけで、「本当に色々いるんだ」とあらためて感じ入ります。また、これまでの自分のストックにはなかった生き方をしている人々を見ているだけでも自分の生きる幅は広がるでしょう。「ゆとりのある生活」「のびのび生きる」なんて言葉では知っていても、実際にそれがどういうことかは、現物を体験しないとなかなかピンとこないでしょう。
僕がオーストラリアを選んだ理由の一つにマルチカルチャリズムがあります。どうせ海外に行くなら日本では学べないものを学ぼうと思った。「違う人達と上手くやっていく方法」というのは、ともすれば単一民族的になりがちな日本ではついぞ学べないことですから。オーストラリアは世界的にも珍しく、あらゆる文化、200以上の民族が入り乱れながら、魔法のようにトラブルが起きないというのは日本にいる頃から知ってましたが、でもそれが具体的に「どんな感じ」なのかは、日本であれこれ想像してもついにはピンとこなかった。それが着いて三日くらいで、「ああ、なるほど」と得心がいきました。これを言葉で説明するのは難しいのだけど、頭で解釈納得するより前に、心と体が納得する感じ。見たり、体験したら一発で分かるようなことでも、知識だけでは中々理解しにくい。そういうことって沢山あると思います。
でも、それが「勉強になる」とか「役に立つ」という実利的な側面よりも(それも大いにあるのだが)、とりあえずはそうやって認識を新たにすることが面白いです。「故(ふる)きを温(たず)ねて新しきを知る」という温故知新という言葉がありますが、別に古くなくても、「新しきを知る」=知新は幾らでもあるのでしょう。それも「知る」といっても、全く新しいことを知るというよりは、「改めて知る」「ヴァージョンアップ」という感じが強い。目からウロコといいますが、そこまで激しい落差ではなくても、度の合わなかった眼鏡を正しい度数の眼鏡に変えたくらいの気持ち良さがあります。
旅の「情」
と、あれこれ旅や旅行を礼賛しつつも、僕自身は基本的には出不精で、実はあまり旅行が趣味ではありません。海外旅行なんて、海外に長いこといる現在ですら、そう大した興味もなかったりします。
にもかかわらず旅の良さは分かります。僕ですら分かる。
なぜなら、純然たる旅ではなくても、出張とか所用で出かける場合だって、旅の良さはある程度はわかりますから。旅行が趣味ではないのですが、それでも日本全国だったら結構アチコチ行ってます。一つは学生時分から遠距離恋愛が多かったので、会うためにあっちゃっこっちゃ行きました。また、仕事もなんか知らないけどやたら出張が多く、北は旭川から南は沖縄まで行きました。
行ったら行ったら面白いんですよね。本来の用件はしっかりあるのですが、用件というのはカッチリあればあるほど、終わりもまたハッキリしていて、意外とポッカリ時間が空いたりします。また、忙しいさなかにも、ボケーッとバスや電車を待ってる間とかに「忙中閑」が出来たりします。そこで「ああ、なんかいいなあ」って嬉しくなったりする。知らない土地にポツンと佇む感じが、なんかやたら楽しい。こんなことは、もともと旅行が趣味の人には言うまでもないことなのでしょうが、僕は趣味ではなかっただけに、「なんでこんなに楽しいのかな?」と逆に不思議に思ったりしたのでした。
「情景」という言葉があります。
今書いてて思いついたのですが、あれって「感情×風景」の化学反応なのかもしれませんね。ある風景、それ自体は純客観的なものでしかないです。でも、その風景を見る者の主観を揺さぶる力が何故かある。湧き起こったある種の感情と、その触媒となった風景とが渾然一体となって「情景」になるのでしょう。そういえば旅にまつわる言葉というのは、主観である「情」とつながるものが多いですね。いわく「旅情」、いわく「慕情」。慕情なんて主観ばっかりですよね。あと「風情」なんて言葉もありますね。旅とはちょっと違うけど、主観がリードする客観的状況という意味では同じです。
松屋芭蕉や西行法師など優秀なクリエーターが、晩年の老体になってから、ご苦労なことに旅をしていたのもそのあたりに理由があるのかもしれません。もう身体もしんどかろうし、縁側でひなたぼっこしていれば良さそうなものなのに、わざわざ山野を進む。全国地図を作った伊能忠敬もやり始めたのは56歳ですから、当時の平均寿命をはるかに越えています。今で言えば80歳過ぎてから、徒歩で全国一周をなしとげている。彼らには芸術欲求とか使命感があったのでしょうが、でもやっぱり楽しくなかったらやらなかったでしょう。旅にはそれだけの楽しみ、汲めども尽きぬ情を喚起させる何かがあったのでしょう。
まあ、ウザウザ長ったらしく書いてますが、一言でいえば「気持ちいい」のですよね。それで十分なのかもしれないけど。
さて、日本はそろそろ梅雨入りですか。梅雨が明けたら夏休み。もうこの夏の旅のご予定は立てられましたか?
文責:田村