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今週の1枚(2011/05/30)



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Essay 517 :仕事に「やる気」は必要か?

 写真は、Newtownの郵便局。
 オーストラリアのカウンターでは、人によって言うことがマチマチです。もうそれぞれが個人開業しているみたい。自信ありげの断定口調で大嘘言われたりすることもあります。だから、常に「引いて」構えておきます。「ふーん、この人の意見はそうなんだ」くらいに。で、シレッとして別のところに行って聞いてみるといいです。
 でもって、こういう人に限って、なぜか「やる気」ありげだったりして、そういう「やる気」だったらない方がマシって気もしますね。



 よく求人広告に「やる気のある人募集!」などと書かれています。普段は当たり前のように読み流しているのですが、ふと立ち止まって考えると、仕事の「やる気」って何なんだろ?と思ってしまいました。かすかな違和感というか、魚の小骨のようなひっかかりを感じる。今週は一発ネタといういうか、ただそれだけの話です。お気楽に。

@「やる気」の内容〜債務不履行

 もちろん、「やる気」のない人に来て貰ったら会社としても困るでしょう。仕事をしようとしない、やったとしても「やっつけ仕事」で出来にムラがある、やるにはやるけど全然周囲と協調しようとしない、そもそも出社しない、、、そんな人が職場にいたら戦力どころか、マイナスでしょう。だから「やる気のある人」を求める。それは分かります。

 しかし、それは「やる気」とかいう以前の問題じゃないでしょうか?
 敢えてドライ&法的に言えば、雇用契約における一方当事者である被雇用者の義務は、契約内容における業務を遂行することであり、その業務を遂行しないであれば、それは端的に「債務不履行」です。バナナを10本買ったけど8本しかくれない、くれたとしても腐っていたとか。あるいは食堂でカレーを注文したのにラーメンが出てきたとか、到底食べられるものではなかったとか。それは十分な対価給付がなされなかっただけのことです。こういったことは、主観的な本人の気分がどうであろうが、やったか/やらなかったのかという客観の問題です。仮に八百屋や食堂の主人が主観的にいかに「やる気」に満ちあふれていたとしても、そんなの関係ないです。いくら「一生懸命やりました!」と強調されても、不味いものは不味い。

 求人の場合も同じことで、マトモに仕事をしないのであれば、その客観的な状況だけを問題にすればいい。「仕事をする」という約束で契約したのに、仕事をしないのは約束(契約)違反であるという。

 だとしたら、「やる気のある人募集」というのは、「契約を守る人募集」「嘘つきはダメよ」という極く当たり前のこと、あらためて言うまでもないようなことであり、つまりは殆どなんの意味もないようなことを言っていることになります。

 しかし、そんな無意味なことを書くわけはなく、もっと他の意味があるのでしょう。

A「やる気」ある人なんかいるの?

 ここで、ふと、思ってしまうのは、いったい「やる気」に満ちて仕事をしている人など、この世にどのくらいいるのだろうか?ということです。
 仕事をしたくてしたくて仕方がない、仕事がしないと死んじゃうとか、無給でも働きたい、いやお金を払ってでも働きたい!なんて奇特な人がとのくらいいるか。そういうのはボランティアとかNPOとか、趣味の世界には幾らでもいるでしょうが、こと雇用の現場でどのくらいいるのか。

 基本的に仕事というのは、やっててそんなに楽しいものではなく、出来ればやりたくないものでしょう。僕だって、あなただって、仕事をしないで済むくらい大金持ちだったら良いのになあって思うでしょう。だから宝くじとか買ったりするのでしょう。楽しくて仕方がないようなことを、誰がお金を払って他人にやらせるか?ってことですよね。カスタマーサービス部局に配属されて、モンスターまがいのクレーム客に終日頭を下げ続けるようなことは、普通誰でもやりたくないですよ。

 また、自分が消費者として経験してきた記憶の中には、「やる気」があるのか疑わしいような従業員や会社も多々あります。昔から良く引き合いに出される「お役所仕事」なんか「やる気」の無さの典型ではないか。

 雇用にせよ、売買にせよ、一般に契約(有償双務契約)というのは等価交換なのですから、お金に見合っただけの「もの」を差し出さねばならない。お金を貰うプラスに釣り合うだけのマイナスを提供しなければならない。仕事においては、自分の「時間」「労力」「意思」「プライド」を差し出すことであり、つまりはイヤな思いをそれだけするわけです。そんなマイナス行為をするのに「やる気」のある人なんか原理的にいるわけがないとも思うのですよ。

 つまり仕事というのは、学校の宿題と同じで、基本的に「イヤイヤやるもの」であり、「やる気のある人」なんて存在しないと言ってしまっても良いかもしれない。そうすると「やる気のある人募集!」というのは、「半魚人募集!」「エイリアン募集!」という、この世に存在しないか、極めてマレな人を募集していることになるわけで、それもまた意味がないです。

 しかし、まさかそんな意味のないことを書くわけはないし、読んでる僕自身、そんな半魚人的な意味で書かれているわけではないことも分かる。じゃあ、いったいどういう意味なんだろう?

B「やる気重視!経験不問」

 ここで、もう少し分かりやすく「やる気重視、経験不問」と書かれている広告もあります。これは多少分かりやすい。

 過去に同種職歴や即戦力としての技術がなくても熱意があればOK、という意味なのでしょう。「ふむ、なるほど」と思いがちなのですが、よく考えてみたら、要するにこれって「経験不問」とだけ言ってるだけのことではないのか。

 なぜなら「やる気」について、@の「債務不履行」程度の意味ならばわざわざ言う意味がない。
 また「経験不足を補えるくらい”やる気”のある人」を求めるというのは、逆に言えば「やる気で補いうる程度の業務」ということでもあるでしょう。いくら「やる気」が100人前あったとしても、高度な専門職のような場合(例えばプロ野球の選手、脳外科医、破産管財人とか)は、それだけでは足りない。一定の技術や資格の必要な仕事には「やる気」では代替がきかない。だから経験不問というのは、「代替がきく業務」という意味でしょう。

 結局、「(経験があるに越したことないが)無くても何とかなる仕事」という意味であり、「経験者」でなくても採用を受け付けますよ、門戸を広げてますよという点にのみ実質的な意味があるのであり、つまりは「経験不問」といっているに過ぎず、敢えて「やる気」云々など言わなくても良い、ということにならないか。

 それともう一点、日本の企業は本当に「経験」なんか求めているのか?という問題もあります。
 A社において経験があったとしても、B社ですぐに通用するとは限らない。どんな業界にもその会社独自の「やり方」というのがあります。それを入社するやいなや、「前の会社はこんな馬鹿なことはやってなかった!」とかブーブー文句ばっかり言われたら鬱陶しいです。だから、妙な経験だったら無い方がマシ。まっさらな状態でゼロから仕事を覚えて貰った方が良いという場合も多々あります。「多々」どころか、むしろメインストリームと言ってもいい。なぜなら、日本の就職における最大機会は新卒採用だからです。当然のことながら新卒者には経験なんかありません。だから新卒採用は全部「経験不問」です。その経験不問の求人が日本において最大であるということは、日本の会社ではあんまり「経験」なんか重視していないってことでもあります。

 それに「やる気」でいえば、経験が無いのにもかかわらず応募してくるんだから「やる気」があるに決まってるじゃないか?って話もあります。もっと言えば、経験云々を問わず、募集広告に応募してくるだけで「やる気」はあるんだから、それでいいじゃないか。募集広告にわざわざ「やる気」なんて掲げる意味があるのか?という気もしてきます。

C「やる気」のある人の気持ち良さ〜メンタル的な価値

 以上、僕が書いているのは、いわば「屁理屈」です。
 平均的な日本人の場合、「職場における”やる気”」というものについて、上記の内容を越えたサムシングを感じます。

 職場で「やる気のない人」がいるのは不快なことだったりします。逆に快活明朗な人がいたら場の雰囲気も良くなります。終日ブスっとしてて呼びかけてもろくに返事もしないような人は、とりあえずムカつきますし、「はい!」と元気のいいレスポンスがあると嬉しいです。見るからにイヤそうに、時折チッと舌打ちしたり、全身からイヤイヤオーラを発散させている人が近くにいたら、本当にうざったいもんです。契約内容に見合った仕事をしていたとしても、やっぱイヤです。先輩や同僚にそんな奴がいるだけでもイヤなのに、ましてや部下にそんな奴がいた場合、上司としてはたまったものではないでしょう。

 で、ついにブチ切れて「やる気あんのか!」と怒鳴ってしまうという。
 当の本人は怒鳴られてもシレッとして、「やることやってんだから、「やる気」はありますよ。それで別にいいでしょう?」と言い返したりするのですね。でも、「別によく」はないのですね。やることやってられても、このうざったさは変わらない。やることやってるだけ=つまり債務をキチンと履行しているだけ=では何かが足りない。something missing.

 ではそのサムシングとは何か?
 職場における快活な雰囲気、積極的に皆がキビキビと動く雰囲気を、やはり僕らは好ましいと思う。誰も彼もが苦虫を噛みつぶしたような表情で座ってて、どよよ〜んとした職場だったら、僕だってイヤですよ。あなたもイヤでしょう。

 そういう意味で「やる気のある人募集!」と書くのは、分かります。職場のポジティブな雰囲気を壊さない人ってことです。

 でも、それも又疑問がないわけでもないのですよ。
 なぜなら、第一に、人間的な性質などは面接の場である程度わかるのであり、面接の場で既にドヨヨンオーラを出しているような人を弾いていけば済むだけの話です。

 第二に、これが肝心なところですが、生来的にやる気のある人/ない人がいるわけではなく、同じ人間でもやる気のある状況とない状況があるだけのことでしょう。どんな人でも腐ってしまうような、超詰まらない仕事、報われない仕事だけだったらやる気も失せるでしょう。面白くて、やり甲斐のある仕事だったら、普通「やる気」は起きます。誰でも自然にポジティブになれるような仕事でありながら、何故かそいつだけ相変わらずブスッとしているのだとしたら、それは「やる気」以前の人間性の問題だったり、あるいは面白いと思うツボが違う、職業のミスマッチだということでしょう。

 何を言ってるかというと、「やる気」というのは、応募者の個人的資質というよりは、業務内容や職場環境など諸要素の合成による生じる「結果」という側面が強いのではないか?ってことです。もっと言えば、社員に「やる気」があるかないかは、第一次的にはやる気を起こさせるような面白い仕事を与えているかという会社側の問題であって、応募者側の問題ではない、ということです。だから、「やる気のある人」=職場でも快活でポジティブな人=を求めたかったら、まずは社員が快活でポジティブで居続けられるような業務内容・職場環境を会社が作れということであり、問題はブーメランのように会社に返ってくるのではないかということですね。

 それはともかく、「サムシング」とかいっても、言ってみれば、職場の雰囲気を壊さない程度の常識的な社交性であり、そこそこ円満な人間性ということでしょう。

給料以上の搾取の構造

 ところで、日本のシビアな求職状況に馴染んでいる人は、「やる気」というマジックワードに、これら上に述べた以上の意味、隠された深い意味を見つけたりします。"hidden meaning"ですね。

 上の@で、給与に見合っただけの業務遂行をすれば足りるのであり、敢えて「やる気」など言う必要がないと書きましたが、それでも「敢えて」書いているということは、要するにその前提が間違っている。「給与に見合った労務提供で足りる」という前提ではなく、それでは「足りない」ということなのだ。

 つまりは「給与分以上に働け」という意味である、と。時給1000円だったら1500円分働けと。これは、逆に言えば「搾取しますよ」という違法宣言であり、平易な日常用語に翻訳していえば「つべこべ言わずに働け!」ということなのだと。

 職場における「やる気」と称されるものが、「搾取されても、それでもメゲずにガンガン働く」という意味であるなら、そんなものを求める方が間違っています。しかし、多くの日本企業の場合、その間違っていることが案外平気でまかり通っていたりもします。「滅私奉公」というやつです。

 滅私奉公というのは、自らを犠牲にしても他に奉仕することです。それは場合によっては気高い精神のありようでしょう。社会や公共のため、あるいは我が子や家族のために自らを投げ打ってでも何事かをなそうとする姿は感動的です。が!それが何で崇高なのかといえば、それに引き合うだけの大きな愛情や思いやりがあるからでしょう。滅私=我が身を滅ぼすこと=それ自体が美しいのではない。もしそれだけなら、自殺は全て美しく、賞賛されることになってしまう。滅私が感動を呼ぶのではなく、自分など犠牲になっても構わないという思わせるだけの「愛の大きさ」こそが感動的なのでしょう。

 しかし、この滅私奉公の美名や概念は、支配的な立場にある人にとっては、とても都合の良いものです。自分の従業員や部下が滅私奉公してくれたら楽ですもんね。どんな無茶な命令を下しても、文句も言わずに従順にやってくれるわけだし、早い話が「奴隷になれ」といっているのと変わりません。滅私奉公の精神(の押しつけ)を徹底させていけば、雇用における契約性や対価性すら否定されていき、そもそも給料なんか要らないだろうって話にもなるでしょう。

 高度成長時代のモーレツ社員にせよ、バブル時代の「24時間戦えますか?」にせよ、全てを投げ打って懸命に仕事をすることが、なにやら人間として一つの完成された姿であるように持て囃されました。しかし、24時間も本当に働いていたら、残業代がおっそろしく嵩んで仕方ないでしょう。24時間ヘロヘロになっても働かれて、マトモに残業代を払うくらいなら、最初から人員3倍にして3交代シフトにした方がずっと作業効率は上がるでしょう。こんな愚かな人事方針や労働環境が、いかにも素晴らしく雄々しいことであるかのように称えられるのは、要するに最初からキチンと残業代なんか払う気がないということであり、契約内容や労働法なんか守る気がないということですらあるでしょう。

問題の所在

 はい、ここで段々見えてきたような気がしますが、「やる気のある人募集!」になぜか引っかかりを感じたのは、

 @、労働契約や労働権を無視した、日本における搾取的な職場状況
 A、それを人間的な美徳(やる気とか)で誤魔化そうとすること
 B、そんな子供だましの歪曲レトリックが何故かまかりとおってしまう、日本の職に関する精神状況

 などの諸点に「うん?」という疑問を感じたからでしょう。
 結局はいつも書いているような話に帰着していくのですが、、、

 Aにしても、たかが仕事に人間の美徳のオンパレードですからね。さすがに「滅私奉公」などという大時代的な言葉は使わないでしょうが、それども「責任感」とか「リーダーシップ」なんてのも悪用されがちです。残業代もろくすっぽ払わないくせに、残業をしない従業員に対して「責任感がない」とかいう。そもそもが無理目な仕事を振っておきながら、四苦八苦してストレス性胃潰瘍になっている中間管理職に、成果が出ないと「リーダーシップがない」という個人的能力のせいにされてしまう。

 「求められる人間像」などという言葉がその昔に流行りましたが、責任感あふれ、上下関係を大事にし、円満な常識感覚や教養をそなえ、困難にもめげずに貫徹する心の強さを持ち、、、と、いわば人間としての理想型のような人材です。宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ、、」の世界です。そんなスーパーマンのような人間は滅多にいない、仮にいたとしても、そんな安月給で来てくれる筈がないだろうと思うのですが、それでもやたらと人間的美徳のオンパレードになる。「やる気」なんかもそのイチ類型なのでしょう。

 まあ、現実的にそれが叶うかどうかはともかく、求める側が条件を出すのは自由です。結婚相手の条件として死ぬほど高いハードルを数え上げているのと同じく、そりゃ、ま、言うのは自由です。ただそれが「言ってるだけ」になってないところが恐い。

美名による算術破壊と覇者の美学

 こういった「美名による誤魔化し」が恐いのは、本来が等価交換である契約の性格がボヤけてしまうことです。1+1=2という理路整然とした初歩の算数のような論理性が、「根性」とか「責任」とかいうファジーで文学的な言葉によってグシャグシャになってしまう。時給1000円で残業代は50%増しという前提で、3時間残業をしたら、1500×3で4500円の追加給与が支払われるべきです。それが初歩の算数です。しかしなぜか2000円しかつかないとか、場合によってはゼロだというのは、初歩算術の無視です。

 まあ、人間社会なんかそんな理屈通りいくわけもないのでそれは良いのですが、気に食わないのはグシャグシャにした挙句、得をするのはいつも力の強い奴だということです。同じように算数論理をぶっ壊すのならば、逆になぜか6000円残業代がついて儲かっちゃう日もあってもいいはずだけど、そんなことはまず無い。算数を壊されて損をするのは従業員側、弱い側だという。逆に、強い側=会社側なり首脳陣は、算数を壊して得をする。今回の東電だって、未だに馬鹿高い役員報酬や退職金を貰おうとしている。

 つまりは、力の強い奴が常に力の弱い奴を踏みにじり、そういった理不尽への歯止めになっている筈の各種法規制(1+1=2という透明で公平な算数論理)を壊し、そのレトリックとして人間のいろいろな美徳や美名を使う、その偽善性が僕にはケッタクソ悪いのです。戦前のファシズムにおいても、日本中の小学校に二宮金次郎の銅像が置かれていました。上の人間が下に対して理不尽な強制をしようとするとき、決まって唱えられるのは「忍耐」「努力」「辛抱」「奉仕」の美名です。お前らにそんな美しい言葉を使う資格はないし、崇高な人間美に対する冒涜だろう、と僕は思うのだ。おかげで日本においては「努力」という尊い概念が、まるでダサいこと、頭の悪い奴がやるようなこと、、という誤ったイメージすら植え付けられてしまった。この「美徳汚染」は放射能よりもタチが悪い。

 強い者が弱いものを虐げるのは、歴史の必然でもあり、自然界のオキテであるかもしれない。それを肯定はしないまでも、ある程度そうなってしまうのは自然の摂理という部分もあるでしょう。ジャイアン的構図はどこにでもある。しかし、強い者がそれをやるにしても、せめて堂々とやって欲しいものです。ジャイアンのように。覇者、強者として憎々しげに、力を誇示して行え。いくら何でも、それを誤魔化したり、小細工までする権利はないだろうと。人々の憎悪を一身に浴び、それでも君臨し続けるのが真の強者、真の覇者である。秦の始皇帝のように、ラオウのように。それを誤魔化すヘタレには強者・覇者たる資格はなく、したがってまた強者覇者にのみ許される果実も与えられるべきではない。ヘタレのくせしやがって、貰おうものだけは貰おうという卑屈な根性に腹が立つ。それこそ「やる気あんのか!」です。

子供だましの偽善を受け入れてしまう精神土壌

 ああ、だが、しかし、何か知らないけど日本社会には、この子供だましの小細工に乗ってしまう部分もあるのですね。何に対してもマニアックに凝り倒してしまう国民性か、仕事に対しても「仕事道」のように突き詰めてしまう。ゼニカネで仕事を計るのは邪道だ!みたいな。

 また、頑張ることに快感を覚えてしまう。確かに頑張ることは楽しいです。どんなことでも、やってれば多少は面白く感じられたりもする。大脳生理学でいう作業性興奮ですね。部屋の整理のように、最初はイヤイヤでもやってるうちにムキになってしまうという。また日本人独特の、他人への思いやりやら、全体が見えるという視野の(局所的な)広角性で、「今俺が抜けたら皆が困る」とか思ってしまう。

 それはそれで素晴らしい人間的美徳ではあるのだけど、そういった精神的な土壌が、強者達の子供だましの偽善を受け入れてしまうことにもなる。逆に言えば、個々の労働者の人間的美徳や弱者の善良さに、強者がつけこんでいる、とも言える。まあ、そこでつけ込めるくらいだから強者になれるのだけど。

 かくして、「残業は絶対やらない」とか言えない職場の空気になる。納期前で殺人的に忙しいなか、「子供が熱を出してるから早めに上がらせてもらいます」とも言えない。言おうものなら、皆の目から殺人ビームが発射されそうなくらいです。また、自分でそうした自己犠牲を払ってきているからこそ、堂々とそんなことを言う同僚や部下に、自分でも殺人ビームを発射したりします。そしてそのエネルギー源は「嫉妬」。

 そんなこんなで、弱者同士でより厳しく管理し、締め付け合うという、強者にとっては美味しすぎる状況が出てきます。この呪縛を抜け出して、正しいことをいう人には「自分だけ良い思いしようとしやがって」という嫉妬という醜怪な心情引力が働いて抑止する。この心情力学を巧みに利用したのが、戦前の「隣組」制度ですね。相互監視制度。自分が監視する番になると、権力の犬として無料働きされているにも関わらず嬉々としてやってしまうという。日本人の平等意識や他者への思いやりの強さは、容易に嫉妬の強さにネガポジ反転するのだ。そこへもってきて「どんなことでも頑張ってしまう」国民性が加わるから鬼に金棒です。さらにこの源流はなにかというと、なんか前回の話とリンクしていくのだけど、徳川幕府の5人組制度ですね。弱者を低コストで統括するには連帯責任と相互監視をさせたらいい。そういう意味では徳川家康というのは天才です。この天才がかけた魔法に未だに日本人はかかっているという。

   結局、なんでこんなバカバカしい構図になってしまうかといえば、日本においては、仕事以外に面白い行為に乏しいからでしょう。思いやりとか、忍耐とか、努力とか、連帯感とか、そういった人間が輝いていられる場面が、仕事の他には少ない。勿論ないことはないですよ。スポーツでもそうですし、趣味の世界でもあるでしょう。

 しかし、仕事に比べてみたら、まだまだ質量共に圧倒的に少ない。だから、仕事をろくにしていない人は、人間的に何か致命的な欠陥があるかのように受け取られる。また、仕事以外に「やる気」の発揮場所がないから、仕事ですらやる気のない奴はもう本当にどうしようもない奴、という見られ方をもする。

 だとしたら、この構図を逆転するには、仕事に対してちょっと距離を置いて、「しょせんゼニカネ」と割り切るような風潮が、見る人によっては「嘆かわしい風潮」が広まることなのだろうなって気がします。そして、仕事をしていないけど、あるいはあんまり燃えてやってないけど、仕事以外の局面で輝いている人を、仕事人と同じくらいレスペクトする文化があるといいのでしょう。

   なんでこんなにこだわるかというと、オーストラリア社会では(これも何度も書いてますが)、そういう文化とは違うからです。年収ン千万だろうが、感覚的には日本のフリーターと変わらない。生活のため、お金のためにやっていると割り切る。だからこそ労働法は比較的キチンと守られていますし、守らないと労働者が怒る(もの凄い怒り方をする)。オーストラリアでは夕方5時になるとバタバタ閉まってしまいますが(スーパーとかは夜中まで開いてたりするけど)、何故かというと残業手当が嵩むからです。いくら客が入っても人件費の方が高くついたら意味がないので閉店する。だから残業手当が高くなる土日は尚のこと営業時間が短いという。

 もちろんオーストラリアの求人広告でも、あるいは履歴書にも「やる気」という言い方はありますよ。"enthusiastic""energetic"とかね。でもそれは「言ってみただけ」みたいな部分が多い。実際にオーストラリア人が働いているところを見ると、全然エンスージアスティック(精力的)ではなかったりします。

 一方、オーストラリアでもとても情熱的に仕事をする人がいますが、それは自分のやりたいことと仕事が一致した人でしょう。一流のシェフを目指すとか、俳優になりたいとか。自分のテーマと仕事が「たまたま」一致しただけのこと。「仕事だから」一生懸命やってるのではなく、「やりたいから」やっているという。

 まあ、もともとがプロテスタントの気風もありますから、仕事の面白さとかやり甲斐を度外視し、職務を黙々とやることこそが尊いのだという倫理、日本における石田梅岩の心学みたいな精神的バックボーンもないわけではないです。"work ethics"って言葉もあるしね。しかし、日本の強迫的とも言える圧力とは雲泥の差だと思います。

さて、着陸

 さて、大分話が中天高く舞い上がってしまいました。高度を落として、そろそろ着陸しなければ。
 ということで、話をまた「やる気のある人募集!」に戻します。あれこれ難癖をつけているようですが、僕が募集広告を出すならば、やっぱり似たようなことは書くでしょうね〜。今見たら、一括パックの募集広告だって、同じような意味のことを書いてます(^_^)。

 それに、この種の「やる気重視!」系の募集広告は、大企業よりも中小、零細企業が多いと思うのですよ。雇用主も大きな意味では弱者です。そんな複雑な思惑とか、強者の偽善みたいな背景事情でやってるわけでもないでしょう。「やる気のある人がいいよね〜」って素朴で健康な発想で書いている場合も多いでしょう。だから、そんなところに文句を付けたいわけではないです。

 ただ、これまであまり働いたことのない人、端的にはこれまで引きこもってたり、そこまでいかなくても「なんか苦手、、」と疲れを感じている人にとって、あまりも「やる気重視!」と力強く言われてしまうと、やっぱりちょっと引いてしまうのではないかと思うのでした。日頃から世間に慣れている人だったら、「やる気」とか言われても、「まあ、言ってるだけだよ」「常識的なレベルでの話だよ」みたいなクールな受け取り方も出来るでしょうが、仕事に対して妙に距離が開いてしまったり、見上げるような感じで思う人にとっては、「やる気!」というのは「全身全霊を賭ける覚悟をあるか?」と厳しく問われているみたいに思えてしまうのでは無かろうか?

 まとめらしきものを言えば、「お金のため」と割り切ってやるのが「仕事」の本来の姿でしょう。それが原点だと思う。それ以上の生き甲斐とか、人生の意義とかいうのは、仕事以外のフィールドで探せばいい。もちろん生き甲斐と仕事が合致する人もいるでしょう。しかし、そういうケースは珍しい。レアケースを基準にすべきではない。また生き甲斐=仕事という幸福な場合であっても、多くの場合は、労務に対する金銭的報酬は少なくなる。大マスコミの体質を嫌ってフリーランスになった人の収入は、まあ普通は減るでしょう。自分の理念を掲げて何かをはじめたら、尊敬はされるかもしれないけど、そんなにガンガン儲かるというものでもない。僕だって前職に比べたら収入は激減ですよ。でも、それはしょうがないですよ。やりたいことをやるという最高に贅沢なことをやってるのだからさ。やりたくないことをやるからこそ、お金というのは入ってくる。ドブ掃除は誰もがやりたくないからこそ、お金を払ってやってもらおうとする。それが基本構図であり、仕事をして楽しいということは、原理的にあまり成り立たない。成り立たないことは原理にしない方がいい。

 しかし、ここが大事なのですが、「お金のためと割り切る」ことと、その仕事や職場を足蹴にすることとは次元が違うと思います。いかにお金のためであろうが、いやお金の為と割り切るからこそ、職場では常識的な社交性や、円満な人間性が求められるのだと思う。自分のとってはただの資金稼ぎに過ぎないクソ仕事に思えるようなことでも、それを正業にしている人だっているのだから、投げやりな態度で臨むことは、その人に対して「クソ仕事をしているクソ人生」と侮蔑することにもなる。それが人間的に正しいことなのか。「お金のため」と割り切るということは、プロであることを自覚するということであり、プロだったら綺麗に稼げよってことだと思います。それに「俺には夢がある」とかいっても、目の前の小さな仕事ひとつマトモに出来なかったら、夢とかいっても笑われるだけです。自分の夢に恥をかかせたらアカンで。

 「やる気」というのは、つまりはそういうことだと僕は思います。




文責:田村




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