古い本の面白さ
最近よく思うのですが、古い本って面白いな、と。
「古い」といっても古文書みたいなものではなく、数十年前くらいの本。初版が1970年代の随筆とか小説とか。別に厳密に時期が決まっているわけではないのですが、一昔も二昔も前の本。
何が面白いか?というと、例えば「今と大して変わらんのね」ところが面白いのですね。日本に関する問題意識や、ものの考え方など、それほど「隔世の感」があるわけでもない。むしろバブル期の「財テクのススメ」みたいなノリの本の方が隔世の感があります。
といって、特に探し求めて「古い本」を読んでるわけではなく、僕が中高時代から読んでた本を読み直すと自然に「古い本」になってしまうということです。例えば、大ベストセラーになった村上春樹の「ノルウェーの森」は1987年ですから、バブルが始まる前に書かれています。もう24年も前の話です。小松左京の「日本沈没」は1973年、司馬遼太郎の「竜馬がゆく」にいたっては1963年の発表されています。当時小中学生だった僕が、その鋭いツッコミを読んで「ほう、モノを考えるといのはこういうことか」と感銘を受けた星新一の「きまぐれ星のメモ」の初版は1968年、筒井康隆の「狂気の沙汰も金次第」が新聞に連載されていたのは1973年です。ということで40-50年前の本なのですね。十分に「古い」でしょう。
さて、先日、「歴史の零れもの」という17人の時代小説の作家の書いたエッセイ集を読みました。なにが良いって執筆者が皆さん古い方ばかりなのですね。それが良い。巻頭は吉川英治大先生で、1892年生まれですから19世紀生まれです。しかしまだ矢田挿雲先生など、さらなる先達(1882年生)がいたりします。もっとも各エッセイ(というか論文に近い)の発表時期は、1970-80年代と比較的新しいです。
ベテラン勢が有り余る知識をもとに独自の考察をしており、とても興味深い。例えば吉川英治先生は「武者修行とはリアルなところ何だったのか?」など、名作「宮本武蔵」の著書ならではの論考です。武者修行とかいうけど、ぶっちゃけあんなことして何で食っていけたのか?という経済的側面やら、武者修行をしてない剣豪も結構いるとか、修行といいつつ実は「就活」だったりもするとか、いつ頃からそういう風習が始まったのか等々。あと、「”座頭市”は実在したのか、史実ではどうなっているのか」(子母澤寛)とか、麻薬を吸わせて暗殺者に仕立てるからハシッシ→アサシンの語源になったという中東の暗殺教団(三好徹)とか、かつて日本では「海外=フランス」という時期があったことを窺わせる「パリ革命散歩道」(足立正勝)とか、普通に生活してたらあんまり思いつかないようなネタが満載されています。
矢田氏の「夜桜おきぬ」は実在の女性の一生を丹念に追いかけた一種のルポですが、冒頭の「紅梅焼の万年娘が持て囃されたのは明治25年頃から78年であったが、それ以前、明治の初年頃に浅草を代表した美人は、原田おきぬであった。銀杏茶屋のお仙、洗髪のお六、仲見世二十軒茶屋のうちでも吉野屋おゑん、島屋のお金などは、その時々の代表美人として観音様以上に渇仰されたものだが、幕末の頃、しばらく美人が種切れになって、、、」という一文でぶっ飛びます。ニアリーな時代に生きてないとこんな世相風俗は分からんでしょう。それだけに面白いです。いつの時代にも「アイドル」はいるのね、という。でもって、その美人の誉れが高かった(本当に綺麗だったらしい)おきぬさんですが、この人の生涯が凄まじい。一般に明治の人々の人生というのは、戦後の日本人の三倍濃縮くらいに濃いのですが、このおきぬさんの生涯はそれ以上に濃い、もう濃縮6倍くらい。三浦半島の漁師の娘がその抜きんでた美貌ゆえに数奇な運命をたどり、28歳で刑場の露と消えるまでのプロセスは、あまりにも濃すぎて毒婦なのか聖女なのかついには分からないという、映画にしようにもコテコテすぎて出来ないくらいです。
イッコイッコ照会しているだけで十分に2−3本書けてしまうのですが、その中でも「侍」という泰恒平氏の論考は目からウロコでした。そのこと自体もそうですが、そこから派生して、「僕らは”日本”という自画像を思いっきり誤解してるんじゃないか?」と日頃から思っている話につながっていきます。まあ、能書きはこのくらいにして。
まず、泰氏の論考の受け売りをします。要旨は2点あり、@サムライ=「侍」という言葉の本当の意味は、エラい人に仕え、臣従することであること、A「正座」という世界的にもケッタイな着座法は日本古来のものではなくかなり時代が新しくなってから出てきたものであり、本来的には奴隷的屈従を意味するポーズであった、という2点です。この2点から泰氏は近世以降の新日本人が無意識的に持っている「マゾ的体質」(そういう言葉では泰氏は言っていないが)にまで思いをめぐらせています。これらを起点に、自分でも調べたりしながら膨らませて書いていきます。
サムライ=メイド
@「侍」という言葉は、もともとは「さぶらふ」であり、意味としては英語の"serve"に近く、「奉仕する、仕える、世話をする」というものでした。だからこそ枕草子あたりの平安時代の宮中の女官の官職名に内侍(ないし)というのがありました。百人一首にも二人の「内侍(ないし)」が出てきます(小式部内侍、周防内侍)。内侍はいわばヒラの職で、さらに「尚侍=ないしのかみ=「かみ」は長を意味する」「典侍=ないしのすけ=「すけ」は次官」という上級官職がありました。
いずれにせよ宮中における天皇の身の回りを世話を焼く役職であり、西欧流にいえば王室に仕えるメイドさんのようなものです。ところが、洋の東西を問わず封建社会においては血縁至上主義を取るので、国家の最高権力組織=家族になり、国政は一種の「ファミリービジネス」になります。夫婦喧嘩や親子喧嘩がそのまま国を二分するような大戦争になるという、考えてみれば無茶苦茶なシステムです。そういうシステム風土においては、公私混同どころか公私一体化します。どこまでがプライベートで何がオフィシャルなんだか分からない。てか境界がない。天皇や王様の私生活と、公的な政治活動が殆ど同じになる。そうなると、本来は食事やら着替えやら寝所つくりやらの私生活の世話焼き係のメイドさんも、かなり政治的に重要な役割を果すようになります。
内侍は、もともと律令制制定の頃からある古式ゆかしい職で後宮十二司の一つに数えられています。12の部局というのは内侍司・蔵司・書司・薬司・兵司・闡司・殿司・掃司・水司・膳司・酒司・縫司らしいのですが、字面を見てもわかるように、基本的にはハウスキーピング全般です。筆頭は三種の神器の保管係という「天皇家の本業」に密接していた蔵司であり、内侍は食(膳司)、衣(縫司)の次にくるナンバー4でした。もっぱら秘書官というか連絡係というかパシリのような役割です。しかし、そのパシリの内侍が既に奈良時代末には蔵司以上の筆頭格として権力を増してきます。なぜか?察するに、奈良朝末期には既に天皇権力が衰退し、臣下であった藤原氏の権力が増大したからでしょう。天皇家の「外」の意向によって国政が左右されるようになったからこそ、その連絡係を司る内侍は、まさに権力のジャンクション(結節点)として権力を増大させていったと思われます。そういえば「薬子の変(810)」の薬子も尚侍でした。
平安時代になると12職全てが内侍所に一元化され、長官である尚侍は今日の官房長官のように重要な役職になっていきます。政体それ自体がファミリービジネスであるなかでの「政局」とは、要するに皇族内部の皇位争奪戦であり、有力氏族との外戚関係構築です。皇族はいかに有力氏族と提携して皇位をゲットするか、有力氏族はいかに天皇との血縁を深くして権力の中枢に入り込むかです。したがって宮中の要職たる尚侍も、摂関家という超有力氏族(権力の頂点を極めた藤原本家嫡流の五家=近衛家・九条家・二条家・一条家・鷹司家)の娘でないと採用されないという、思いっきり就活差別があるだけにとどまらず、実質的には皇紀に準ずる扱い、すなわち将来のヨメさん候補であり、長官たる尚侍の下の次官=典侍はおメカケさん候補という性格になっていきます。藤原氏没落→武家政権になる平安末期から鎌倉期ころからは五摂家の権威も失墜したのか、尚侍は任命されず、事実上典侍だけになります。天皇家から権力が去って久しい江戸期においてもこのシステムは存続し、江戸期の天皇の生母のほとんどは典侍だったそうです。最近では大正天皇の生母は典侍であった柳原愛子さんです。
明治維新後は、さすがに旧態依然とした宮中の改革が行われましたが、それとて公家の子女→華族(旧大名家)の子女まで門戸が広がった、就活差別が多少ゆるくなった程度に過ぎません。明治期の典侍の給与は小学校教員の初任給の約30倍だったというから、今で言えば月給600万円という超高級職です。これを廃止したのは、当時皇太子だった昭和天皇の宮中改革であり(そんなことやってたのですね)、昭和天皇に即位してからは自然消滅しています。
以上は内侍の歴史概要ですが、サムライという字はこの「内侍」から来ています。
サムライ概念の変遷
「内侍」が「うち・さむらい」である以上、「外侍」もいた筈です。それが男性職であるサムライの源流でしょう。「遠侍」とも言われていたようですが。「外」というのは、この場合屈辱的な意味合いもあり、「家の中にあげてもらえない」「身分の卑しい」という意味もあります。寝殿造りの敷居をまたぎ、廊下を歩けるのは「殿上人(でんじょうびと)」と呼ばれる身分高貴な一握りの人達だけであり、下級職員はそれこそ地虫のように地に這いつくばって奉仕しなければならなかった。「地下人(じげにん)」とも言われます。
平清盛のオヤジさんの平忠盛が出世し、地下人なのに昇殿を許されたとき、嫉妬に狂った貴族どもがあの手この手で意地悪をして、懸命に恥をかかせようとします。暗殺未遂はするわ、公衆の面前で身体的欠陥を笑いものにするわ(「伊勢瓶子(へいじ)は素瓶(すがめ)なりけり」と斜視であることを嘲笑した)。この「今に見ておれ」という屈辱やトラウマが息子の代の清盛に伝わり、彼は父親を馬鹿にした全ての貴族階級を足下にひれ伏させる太政大臣まで上り詰めた、という親子二代の復讐話は有名です。そういえば来年の大河ドラマは「平清盛」らしいですが、多分このシーンも出てくるでしょう。今のうちに予習しておこう(^_^)。
「侍」の本来の語義は、「武士」という意味ではなく、「さぶらう」「はべる」という動詞でした。それは「ご奉仕する」という意味で、もともとそれほど高貴な動作ではないです。「さぶらう」は忠犬のようにご主人様の命令に従うことだし、「はべる」は力ある者の横にベタリと座り込んで追従やらゴマすりやらをやる腰巾着的意味もあります。「サムライ」として名詞化するのは「さぶらう人」という意味であり、それは召使や下男などのメイド的意味であり、服従者であり、経済的にいえば給与所得者であり、要するにサラリーマンでもあります。
そのサムライが「さぶらう」こと=臣従することを拒否し始めたのが平安末期であり、歴史の教科書で「武士階級の勃興」と呼ばれる時代です。保元・平治の乱を経て、暴力的強大さで公家階級を駆逐し天下を取った平清盛。しかし平氏は従来の権力システムを簒奪したに過ぎず、真の革命は源頼朝の源氏政権によって完成します。頼朝は、奈良朝以降の律令制度を徹底的にコケにし、骨抜きにします。首都を京都から強引に鎌倉にもってくるだけでなく、自分自身は「令外(りょうげ)の官」(本来の律令制には存在しなかった特殊役職)に就きます。征夷大将軍です。征夷大将軍のもともとの意味は、かつて坂上田村麻呂我がそうだったように、東方軍事司令長官くらいの意味でしかない。そんな臨時職に敢えてついて、国家の最高権力者として暴力(軍事力)に基づく一大秩序を成し遂げたわけで、これは一種の革命でしょう。それまでの官職システムは放置プレイです。権力的実質を伴わない官職など「お飾り」に過ぎない。頼朝は、前支配階級であった公家を殺しもせず、システムも変えなかったのだけど、それらをそっくりそのまま時代遅れの遺物として立ち腐らせようとした。
イイクニ作ろう鎌倉幕府=1192年以降、天皇や公家は「一応居る」程度の形骸化した存在になり、歴史の表舞台から葬り去られます。いっとき後醍醐天皇の建武の中興と南北朝時代で時代のホットスポットになりますが、一過性のものに終る。以後、ときの権力者によって、思い出したように「そういえば天皇というのがいたな」と埃をかむっていた天皇を歴史の表舞台に担ぎ出してきて利用します。足利義昭を放逐するために天皇の権威を使おうとした織田信長、そして徳川幕府の以上の権威を持ってきて倒幕や新日本のシンボルに据えようとした薩長による天皇制制度。
それはともかく、サムライ一族が天下をとった鎌倉時代以降、サムライは彼らのアイデンティティになります。本来は蔑称に近いものだったにも関わらず、そこに新しい意味を吹き込みます。ただ、この過程も面白くて時代によって微妙に違う。鎌倉とか室町頃までは、公家勢力に対抗する実力・闘争集団の団結、組織内の倫理として使われていたような気がします。頼朝が京都から権力を奪い取ったとはいえ、まだ公家勢力の力は強く、後鳥羽上皇による内戦(承久の乱)なんてのもあります。団体内部をしっかり固めるという意味で、強調されたのは「さむらい」の本義である主従関係です。「公家に仕える地下人」という意味ではなく、「サムライ階級内部の上下関係」です。それは軍隊がそうであるように、強力な軍事力を維持するため、機械的に集団が動く鉄の上下関係が必要であるというところからも来ているのでしょう。「いざ鎌倉」という美談もそのあたりから来ていると思われます。身分の貴賤ではなく「忠義という美学」によって行動するという。もう一点は、そうやって服従するからこそ、親分が子分の生活の面倒を見るという経済的側面ですね。
ところが室町末期から戦国時代になるにつれ、身も蓋もない実力主義が広まり、この種の忠義や倫理は薄くなります。下克上、謀反、寝返りが横行し、「強ければそれが正しい」という修羅の世界になる。この時期、一介の土民(小作権を持っている下級農民よりもさらに下)だった豊臣秀吉が天下を取るように、「サムライ」という身分も定義も曖昧になります。ありていにいって「暴力的に強い人」くらいの意味でしかなかった。山賊や強盗集団のようなものも「野武士」といったくらいですから。
これが武士道に象徴されるように、高潔なる人間美学として磨かれていくのは、皮肉なことに武士の需要がなくなった平和な江戸期260年です。とりたてて戦場らしい大戦場もなかった江戸時代、サムライというのは武士という支配階級であるという事くらいしか社会的な意味はなかったのですが、だからこそ観念的になり、頭でっかちになり、サムライというものに過剰な意味づけをするようになったとも言えます。その集大成が幕末で、武士という過剰に観念的な美学が、彼らの行動をいやが上にも駆り立てたとも言えるでしょう。あの時代、無数の若者が腹を切りましたが、中には「ちょっと馬鹿にされた」ということで腹を切ってたりもする。また本来が百姓あがりの集団である新撰組において、苛烈極まる武士道倫理がまかりとおり、ちょっと敵に背中を向けただけで、「士道不覚悟」の名目で衆人環視の中で腹を切らされたという。おそらく戦国時代の武士だったらそんなことしないと思います。もっと実利的に動いていたでしょう。
サムライのDNA
こうして見てくると「サムライ」って何なのか良く分からんのですね。本来は内侍のように「サーブする人」というメイド的な存在だったのだけど、段々と意味内容が変わっていく。
ただ、変わりつつも、幾つかの(相矛盾する)共通の要素があるように思います。@上命下服の原理とAリアリズムです。@は、本来のメイド的意味もありますが、「主命は絶対」「忠義」という倫理になります。武士とは主君を持ってこその存在であり、主君を持たない武士は、浪人/牢人として、やや不完全なものとして扱われる傾向があります。
しかし忠義だけだったら文官や事務官でも同じなのですが、彼らサムライにはAリアリズムというもう一つの原理があります。なによりも「武」を司るものとして、「強くなければ意味がない」ということです。身分の貴賤や官位などだけではなく、「強い」ことに価値を見いだす。だからこそ平和な時代にも剣術や馬術など武道修練を怠らない。このあたりは非常にリアリスティックであり、この現実性があるからこそ1000年経っても軟弱な形式に陥らない理由でしょう。
でも、それだけではない。それだけだったら21世紀になってまで「サムライJAPAN」など良い意味で「サムライ」を使わないと思うのですよ。@は封建制度バリバリであり、今となってはそれ自体正しいのかどうか疑問であり、ほぼ廃れた価値観といってもいい。Aの現実的に強ければいいのであれば、それは要するに暴力団とか軍事国家になるのだけど、これも今は流行らない。にも関わらず「サムライ」という概念がもつ魅力は衰えていない。何故か?
多分、@とAが合体して化学変化を起こし、B行動美学という価値を生み出したのでしょう。@の忠義は、個別具体的な「人」「家」に対する奉仕というよりも、さらに高次な概念=人間の美学に奉仕するという感じになっていったのではないか。「武士にあるまじき振る舞い」と言われるように、人間としておよそ考え得る最高の状態に自らがなること、それは忠、孝、義、信という人間美学です。その美を体験し、奉仕し、殉じる人のことを武士、サムライというのだという具合になっていったと。かなり頭でっかちなのですが、でも一種の倫理美学でしょう。そしてAのリアリズムが常につきまとうから、そういった美学を口先で唱えているだけでは意味がなく、日々の行動、究極的には死をもって表現するのが武士であると。B強烈な美意識と、それをリアルな行動で表現すること、行動美学とでも言うのでしょうか。
そういえば何で読んだのか忘れましたが、江戸時代をリアルタイムに知っていた人の追想談の又聞きですが、「おさむらい」というものは、江戸の大通りを歩くにせよ、常にど真ん中を歩いたそうです。道の端を歩くようなことはしない。また角を曲がるときでも、ナナメに最短距離を突っ切るような曲がり方をせずに、道の中央をカクカクと直角に曲がっていたそうで、本当に「別格の人達」ってオーラが出ていたそうです。日常生活の一秒一秒に気を抜けず、常に美を表現しなければならないという、まあ大変な人達だったらしいですな。
もっとも、このような完成された美としてのサムライが、具体的な人間的実在として登場するのは実際にはマレだったと思います。いかに武士道教育が激しくとも、そんなに誰も彼もが完成された美を持つとも思えない。したがって未完成な存在も多々あったろうし、その未完成な状態こそが常態でもあったでしょう。@が未完成だと、要するに組織絶対の論理ですから忠犬的なサラリーマン根性に堕するでしょう。AのリアリズムやB行動美学にしても、一歩間違えれば、ハタ迷惑な独りよがりのワガママに堕落します。幕末で徳川幕府が倒れたときも旗本八万騎といわれた精鋭集団は何の役にも立ってないし、武者修行や志士とは名ばかりで実態はタダのゴロツキや強盗強姦犯でしかないという輩も大量にいたと言われます。
また、サムライが持つ忠義的組織的DNAと、行動美学的なDNAとは必ずしも一致しません。というか、多くの場合には相反するような気もいます。例えば勤務先の企業が汚職に手を染めているとして、その手伝いを命じられたとき、「主命は絶対」として従うのがサムライ的なのか、「それは美学に反する」として内部告発するのがサムライ的なのか、よう分からん部分もありますよね。人によりけりでしょう。
その意味でいえば、僕ら今の日本人は、過去の精神遺産である「サムライ」を分有して相続しているのかもしれません。江戸時代の藩の中の人間関係や行動原理というのは、現在の大企業の中の社会と酷似しているそうですし、ABはフリーランスや自営など非組織的な人々に継承されているのでしょう。
正座
泰氏の論考が非凡なところは、サムライという言葉と内侍の共通点をさらりと指摘したすぐ後に、ポーンと話を変えて、正座を「正座」と呼ぶおかしさを指摘するところです。
読んで僕も「なるほど」と思ったのですが、江戸中期以前の日本の肖像画でも彫刻でも「正座」しているものなど殆ど無いそうです。千利休の肖像も正座しているものはひとつもないと。「正座?だれが正しいと決めたのです。土下座とどこが違うのですか。朝鮮の人に聞いたことがありますよ。お国の人は、なんであんな罪人のような座り方をなさいますかって」という一文に端的に表わされているように、確かに、なんであんなに足の血行を阻害して健康にも悪く、何よりもしんどくて痛い座り方が「正しい」のだろうか?なんであれを「正しい」と僕らは思いこむのだろうか、と。
「正座というのは誰かへの謙譲ないし服従を示すボディランゲージ」であり、世界的にみても神や支配者の前に「ひざまづく、拝跪」の姿勢であり、「わが国の正座は、世界でも稀に見る孤独な坐法なのであって、この日本列島ですら、17世紀半ば以前は、皆無とは言わないが決して普通の座り方ではなかった」と敷衍した後、
「それはさておき、「サムライ日本」などと謂いも謂われもする我々のお国柄である。歴史の動きを眺めれば、武家は、本当は公家の侍でいるのがイヤで世の中をひっくり返した筈だ。それでいて同じ階層の内にまた「侍大将」だの「足軽侍」だのを作りたがった、それが人間の業なのかなんだか、ことに日本人はいつの時代にも自分よりも「下にいて」侍ふ存在が欲しいらしい。だが、そういう国民性だからか何だか、また安易に自分より「上にいて」それに対して自ら侍う存在をも、必要以上に自虐的に求めてきた気味も濃い。だれかさんの「侍」でいる方が、妙に安心できるらしい。痛い脚を折らせたり折ったり、つまり、「イジメ」が好きなのか」
と、「侍」と合わせて畳みかけて問いかけます。面白いでしょ?
こう書かれると「ふうむ」とアゴをさすって考えたくなっちゃいます。チクチクとそり残しのヒゲのように知的刺激に満ちた考察です。
なんなんでしょうねえ、確かにそういう部分はあるのかもしれない。泰先生は「イジメが好き」と書かれているけど、もっと敷衍すれば、歴史のどっかでマゾ的に調教されてしまっているのではないか?ってことですよね。
前にも書いたけど、儒教が日本に伝えられる過程で、意図的なのか無意識なのか分からないけど、大事な点が抜け落ちているらしいです。儒教というのは、主君には忠、親には孝というガチガチの秩序倫理であるようでいながら、一点もの凄い革命性があります。それは自分の主君、それは時の皇帝でもいいのですが、「天」に反する行いをしたときはこれを滅ぼしても構わない、さらに一歩進んで滅ぼすべきだという過激な暴力革命思想があります。易姓革命というのだけど、これがあるから儒教は人間の普遍的な哲学たりえるのであって、これが抜け落ちると、要するに「上の言うことは絶対的に従え」という奴隷教義になりかねない。これが時の権力者に逆利用され、絶対服従を正義とし、秩序維持に使われた。でも、ヘンだと思わなかったのかしらね、昔の日本人も。「上」が常に正しいなんてことは歴史的にも日常的にもありえないし、そんなの誰でも分かってることなのに。この「とにかく従う」というあたりがちょっとマゾ的に思えたりします。
同じように近代憲法が日本に移植されるとき、明治憲法でも戦後の現憲法でもそうですが、基本的人権のカタログの中に「抵抗権」が入っていないし、その旨の明文もありません。まあ「根底にある」ことになっているのですが、明文化されていない。「抵抗権」というのは時の政府が明らかに憲法に反する事をした場合、政府に「抵抗」するのは国民の大事な人権であるという思想で、ジョン・ロック以来脈々と受け継がれています。アメリカ独立宣言にも”That whenever any Form of Government becomes destructive of these ends, it is the Right of the People to alter or to abolish it, and to institute new Government”と明確に書かれています。まあ、アメリカの成立そのものが抵抗権(対イギリス)の所産なのですが。でも、日本にはこういう「逆らうことを正義とする」文化はあまり根付いていません。なぜ?
もう一つ、これもどっかで読んだのですが、日本人は死をもって「不幸」と言うのですけど、これは世界的にも珍しいマゾ的な発想だという指摘がありました。すべからく人は絶対いつかは死ぬので、もし死=不幸だとするなら、全ての人生は不幸になってしまうけど、そんなのヘンじゃないかと。確かに近親者の死は悲しいけど、不幸と決まったわけではない。キリスト教においては天や神の御許への回帰であり、本来の仏教である輪廻思想によれば「第○ステージ終了」であり、死そのもの自体は不幸でもなんでもない。むしろ喜ばしいことですらある。なぜ日本人は死を忌み嫌うのか。忌み嫌ってる証拠に葬式には「清めの塩」を配ったりする。まあ、死を嫌うのは病原体への嫌忌という神道衛生思想から来ているのかもしれないけど、どんな人生でも最後の最後には「忌み嫌うべき不幸」があるという死生観は、あんまり心楽しい発想ではない。なんかこの「最後は破滅するんだ」的な発想が、日本人がよく見せるペシミスティックな「日本はもう終わりだ」的な発想傾向、総じてネガティブにものを見るのが好きな傾向に通底している気もします。とにかく最後は不幸にならないと気が済まないというか(^_^)。逆に最後が不幸になって終っているアンハッピー・エンディングの物語は、平家物語にせよ、義経にせよ、古来から日本人のフェバリットだったりするもんね。
なんかこうしてみてると、武士道や侍へのマニアックなこだわりにせよ、脚の痛い服従姿勢を「正座」としたり(「正座」という表現は明治以降らしい)、江戸中期くらいから日本人は変わってきているような気がしますね。もともと僕らはこういうタイプの人間じゃなかったのに、「調教」されちゃってるみたいな。
江戸時代の徳川幕府も治世も、今から思えばかなり罪深いものがあったと思います。生き生きとした弾けんばかりの日本人のエネルギーを去勢してしまったのかもしれない。260年以上も「よらしむべし、知らしむべからず」という、民衆痴呆化→奴隷化政策が続けば、それは弊害もあるでしょう。華美なものは禁止、新規の発明も禁止、海外との交流も禁止、自由に諸国を往来するのも禁止、禁止、禁止ばっかりだもん。平賀源内や関孝和のように、もしヨーロッパに生まれていたら、ニュートンやライプニッツレベルに大科学者・数学者として世界史に名を残すような天才達を飼い殺した。信長の楽市楽座のように民衆活性化政策とは真逆の、とにかく地味に、とにかく自分の頭でモノを考えようとせず、ただただ強いモノに奴隷のように従い、そこに安らぎを見いだすという。
そう思えば、屈辱的な坐法である正座が「正」座として世間に広まっていったのが江戸中期あたりからというのも頷けます。もちろん正座の全てがダメと言ってるわけではないですよ。神仏や死者、心から尊敬する人に対して拝跪の姿勢をとるのは人間の自然でしょうし、権力的上下関係が明確にある場においてそれを示すのは当然です。西欧でも騎士は跪いたりしますから。また、正座にはピシリとした精神の凜冽さを感じさせるものがあり、それが日本人のストイックな美的センスに好まれたというのもあるでしょう。しかし、本来対等であるような一般庶民同士の間で改まって正座をしなきゃいけない必然性もないし、正座以外は全て基本的にだらしないとか、行儀が悪いとかいうのは明らかに行きすぎだと思う。
これは単に「脚がしんどい」というだけではなく、微妙に精神にも影響しているような気がします。正座が一般化し出したのが江戸中期頃だとするなら、このあたりから日本人の社交法に、過剰に謙譲的なものが入り込んできたのではないか。とにかく遠慮したり、出過ぎた振る舞いを極度に恐がるようになる。「空気を読む」というのもこのあたりから出てきているのかもしれない。
この精神傾向は、安定期の江戸時代における「お家大事」な保身傾向ともつながっていくのでしょう。社会の発展を意図的に抑制した江戸幕府は、財政難のために諸大名や臣下のアラ探しをして「お取りつぶし」というリストラを励行した。そのため社会そのものが減点方式で進み、ミスをしたらダメ、目立ったらダメという小心翼々たるものになっていった。かくして自分の頭で判断せずに大勢に従おうとする傾向も強まっていった。
幕府が倒れたら呪縛も消えるかと思いきや、その後の明治政府がまた西欧列強に追いつくためとはいえ、強烈な中央集権体制をしいて国民に過酷な義務を強いた。それが嵩じて第二次大戦末期になったら宗教がかったファシズムまでいってしまってます。この300年以上のマイナスの遺産は結構キビシイよなって思ったりもしますね。
で、常々思うのが、「日本人って本当にそうなの?」という僕らの自画像への疑問です。本当はもっともっとムチャクチャで自由奔放で、ラテン的で、いい加減で楽天的な民族だと思うのですね。もっと「ワンパク小僧」であると。だって遠いご先祖様にしたって、よっぽど楽天的で冒険大好きじゃないと、こんな海の彼方の離れ小島に移り住もうとは思いませんよ。四方八方から粗末な船で漕ぎ寄せてきて、三々五々集まって今の日本になったというけど、こういう性格傾向の連中の子孫がそんなに保守的な小心者になるとも思えない。そんな連中だったら最初っから来ないよ、こんな離島。
だから戦国時代とか幕末のように世の中が乱れると妙に生き生きして大暴れをする。暴れながらもひたすらメチャクチャになって衰退するのではなく、それでも一つの方向に収斂していき、新しい世の中にしていく。この動乱と秩序の絶妙なバランスが日本人の真骨頂ではないのかと。
だから思うのですが、一つは最近(ここ300年ほど)あまりにも去勢化調教が続いたので、本来の獰猛な自分達の姿を忘れてしまっているのではないかと。日本で集団組織が出来ると、とにかく締め付ける一方の治世システム、ようするにイジメシステムしかなく、自由ののびのびやりながらもトータルとしてバランスを取るというシステムが未開発なことです。学校の校則はやたら締め付け型だし、バブルがはじけて不景気になれば締め付け、携帯電話は車内で禁止、喫煙は深夜の誰もいない街中でも意味なく禁止、マンガ表現は禁止、大地震があれば自粛だのなんだの、とにかく身を縮めたり、禁止したりすることばっかりで、去勢化・保守化傾向が強まるばかりです。ええんか、それで?
そして日本人が本来的にマゾ的な資質に恵まれていたなら、それはそれでいいんです。厳しく調教されることを悦びに感じているのなら、それはそれで結構ハッピーな筈ですから。しかし、本来的にはそうではなく、ワンパク小僧だからこそ、それを不愉快に、息苦しく感じるのでしょう。だからこそ昨今では鬱が広がっているのでしょう。体質に合ってるんだったらそんなに変調を来すことはないと思うぞ。つまりやってることと体質が合ってないのであり、そのミスマッチはどこから来るのかというと、僕ら自身の自画像が間違ってるからではないかと思うのでした。
僕の意見では日本人は全然マゾ的ではないです。マゾヒズムの本質は、何か絶対的な存在に全面的に依存することです。全面的に依存すると何がイイか?といえば、自分で考えたり、判断したり、カッコつけたり取り繕ったり、要するに自分自身のメンテナンスから解放される悦びがあるからでしょう。ご主人様の言うことだけ盲目的に従っていれば良いというのは、これは精神的に楽ですよ。でも日本人はそうではない。なんでそう言えるのかといえば、第一に宗教的に不信心だからです。人類の90%以上が神を信じているのに、日本人はあんまり信じてない。つまり絶対的な超越者というものを想定するのがあまり好きではないんじゃないか?第二に貯蓄率の高さです。最近は不況で減ってるとは思うけど、貯蓄率の高さは、「お上への信頼度」と反比例します。政府が何とかしてくれるだろうと心から信じてたら貯金なんかしません。お上を全然信用していないからこそ、自分の身は自分で守るしかないと思ってるからこそ、貯金に走るのでしょう。オージーも投資はするけど、単なる貯金なんかしません。
ということで、身体に合わない政治社会システムがここ300年ほど続いているので、日本人もちょっとおかしくなっているんじゃないかって与太話でした。まあ、体質に合わない禁止&イジメシステムがあまりにも蔓延しているので、アレしちゃダメとか、これをしなきゃ恥ずかしいとか、無数の社会規範を追いかけキープし、「恥ずかしくない自分」のメンテナンスに疲れ果てて、それが原因で「もう考えたくない〜、楽な奴隷がいい」ってマゾ化するかもしれませんな。でも、それって一周廻ってそうなってるだけで、本質ではない。ああ、だから「調教」されているってことか。
文責:田村