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今週の1枚(2011/05/02)



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Essay 513 :快楽のススメ   

 写真は、Naremburnの住宅街。
 住宅街の平穏を守るために二つの仕掛けが用意されています。 
 一つはカマボコ板みたいな地面が隆起。通過する自動車のスピードを落とさせるものです。「スピード落とせ」と標識を立てるよりも、落とさないとガクン!という衝撃をクルマに与えた方が実効性があります。speed hump(ハンプ)といいます。humpとはもともと「(ラクダなどの)コブ」という意味。
 もう一つは、わざわざ道路の幅員を狭めてどちらか一台しか通り抜けられないようにしてあることです。
 実際に運転したら分かりますが、これらの仕掛けがある道路では、問答無用で減速せざるを得ません。

 今回のお題に即していえば、交通の効率を犠牲にしても、「住環境が静かで安全だと気持ちがいい」という快楽をあくまで優先させているということです。



快楽原則

 人間は(動物一般は)、不快を避け、快楽を求めるという「快楽原則」に支配されているといいます。これはもう自然現象のようなもので、誰も逆らえない。それは人間の「呼吸」が酸素を摂取して二酸化炭素を排出するものであり、根性では変えられないのと同じことです。「いや俺は二酸化炭素を吸って酸素を出してみせる!」なんてやっても無理でしょ?髪の毛が伸びるのを気合で引っ込めてみせるとか、無理。

 しかし「快楽」というと、「快楽に溺れる」などの表現に見られるように、あまり好ましい受け取り方をされてきませんでした。特に日本では、眉間に皺を寄せたり、苦痛をじっと辛抱することが「頑張る」ことであり、そのストレス耐性こそが好ましいことだという通念があったりします。それはそれで一理ありますし、一定のストレス耐性が無い人は何をやってもダメでしょう。それはその通り、That's for sure。でも、不快をガマンすることも快を追い求めることも、どちらか一つに傾斜して良いとは思えないのですね。両者はいわば車の両輪のようなものであり、じっと辛抱してストレス慣れするのと同じくらいのエネルギーで快楽を求めるべきではないのか、と。

 これは最近特に仕事してて思うのですが、今の日本では「快」が少ないのではないか、量の多寡だけではなく質もしょぼくなっていないか?と。前々から薄々感じてはいたのですが、「カルシウムが足りない」のと同じように「快楽・快感が足りない」と。今週はそのあたりの話をします。

快楽とは?

 「快楽」というと、何となく自堕落な雰囲気があります。極端にいえば麻薬吸ってぽわわ〜んとなっているような、人間として「しゃんとしてない」とか「まっとーではない」イメージがあったりします。また、「快楽」という単語に続く言葉も、もっぱら「耽(ふけ)る」とか「溺れる、惑溺する」「浸(ひた)る」などの用語が多く、どこかしらマイナスのイメージがあります。

 しかし、僕はこういう見方には反対です。むしろ「間違っている!」と声を大にして言いたいくらいです。
 そんなものが「快楽」だなんてとんでもない話で、「快楽を舐めんじゃねえ!」とデスクをドン!と叩いて主張したい。本当の快楽というのはもっと奥が深くて、宇宙的に圧倒的で、それゆえ質のいい「快」をゲットしようと思えば、鬼のように努力しなくてはならず、場合によっては「死んでもいい」くらいに思えるものです。

 ヘラヘラ自堕落系のイメージで「快楽」を見下すのは、それは快楽が悪いのではなく、快楽の「質」が低いからでしょう。レベルの低い快楽に浸っていたら、そりゃあ馬鹿にされても仕方がないが、それは「レベルが低い」という点に問題があるのであって、快楽そのものに罪はない。ここで先走って結論を言ってしまえば、なぜストレス耐性バリバリで不快をガマンするかと言えば、もっと大きな快楽を得たいがためであり、究極においては「不快をガマンすること」と「快楽を追い求めること」は同じことです。より大きな快楽のために小さな不快を殺すという手段→目的関係にある。そしてもし、辛抱が足らず、ストレス耐性がない「根性なし人間」がいたとしたら、彼/彼女の問題は、根性がないことではなく、(根性の起爆剤になる)快楽が足りない/知らない点にあると思います。

人生を操る快楽力学

 僕らがなにか好きでやってること、例えば趣味とか、ハマってる物事がありますが、それって何でやってるのでしょうか?まあ「好きだから」なんでしょうけど、なんで「好き」という感情を持つのか?「好き」ってどういうことなの?

 それはやっぱり「好きなこと」に触れていると何らかの気持ち良さ、すなわち「快感」が得られるからだと思うのですね。快感の内容は、例えばアドレナリンが沸騰するようなスリリングな快感かもしれないし、背骨の芯がほよよんと弛んでくるような安らぎかもしれず、その種類はマチマチなのだろうけど、とりえあず気持ちが良い。その快楽をもう一度得たいと思うから、反復継続してそれをやるようになり、いわゆる「趣味」と呼ばれるイトナミになる。

 また、その快楽があまりにも鮮烈で、生まれて初めてレベルに強烈だったり別次元の方向性を示すような場合は、もうそれを再現することが人生の目的になったりもします。かくして「これだあ!」「ライフワークが見つかってしまった」的な現象になる。一般に、簡単に得られる快楽よりも、なかなか得られない快楽の方が強烈だったりしますから、そこでまたムキになり、なんとしてももう一度と願う。

 快楽行動の方程式は簡単で、@思わぬ快楽に出会う→A味をしめる→Bまたそれを再現したいと思う→C中々再現できない→D余計ムキになってそれを求める、というものでしょう。僕らの日常的な好き嫌いから、ライフワークに至るまで、原理的にはコレだと思います。

快楽との出会いとセッティング

 ただ、それを「気持ち良い」と感じるためには、特に初めてその良さを感じるためには、それなりのセッティングがあります。ティーパックに湯を注げば紅茶になるというような簡単なものではなく、そのモノの質の良さや、その場の状況や、自分の精神状態など細かく数え上げたら数十数百の要素がオンになってないとだめで、それだけに優れた偶然が必要になるのでしょう。

 ある日あるとき、ある感情下において、あるモノ(音楽、絵、小説、映画、料理、人、その他なんでも)に巡り会い、それが不思議な化学反応を起こす。「あ、これ、いい!」とえもいわれぬ快感を味わう。失恋して心がウェットになっているときに、ふと流れてきた音楽に癒されてしまう。いつもは聞き流してしまう旋律、陳腐な歌詞であったとしても、そのときだけは素直に心に染みてくる。「ああ、なんていい曲なんだ」と感動し、その曲やミュージシャンが好きになる。あるいは何もかも閉塞していて鬱屈している思春期に、暴力的なロックを聴いて心の波長とシンクロし、ガビーンとなったり。

 あなたにも色々なお気に入りの音楽や小説などがあるでしょうが、なんでそれが好きなの?いつどういう経緯で好きになったの?と注意深く思い出してください。なんかのキッカケがあるはずです。「心の琴線に触れる」という表現がありますが、ある特定の精神状態にあるときに、ある特定の作品や事象に出会うと、不思議な共鳴と化学反応をひき起こし、エンドルフィンなどの脳内快楽物質が出てくる。それまで何度も聴いてた音楽でも、ある特定の瞬間に好きになったりもする。「琴線」というのは不思議なもので、叩けばいつも鳴るというものではない。なんらかの特殊の状況がないとピーンと鳴ってくれない。まるである条件下においてだけ出現する虹のように。

 個人的な音楽体験談でいいますと、僕はLed Zeppelinが好きです。でも最初から好きだったわけではない。僕らの世代では、最初はとっつきやすいDeep Purpleにいく人が多いし、僕もそうでした。パープルは、70年代ハードロック界のB'Zみたいなもので、とりあえず分かりやすい。また一種のハードロック方程式を作り上げており、誰でも入っていきやすい。90年代J-POPの小室みたいなものですね。でもZEPは違う。とっつきにくい。有名だし、評価高いし、一種の権威主義的な感じで聴くんだけど、パープル的に分かりやすくはない。あんまりポップじゃないのですね。この関係は、ビートルズとストーンズの関係にちょっと似てますね。

 それがある時、パープル以上にZEPが好きになった瞬間があります。「アキレス最後の戦い」という曲がありますが、僕はこの曲があんまり好きではありませんでした。10分前後あって長いわりには、音は無機質な上に全然ドラマチックな展開をしないし、はっきり言って退屈。「なにがいいんだ?」と思ってました。ところが、ある日、何かの大失敗をしでかしてやけ酒飲んで不貞寝しながらヘッドホーンで大音量で聞いていたら、ガビーンとその良さが分かりました。

 単調と呼びたいくらいのリズム隊もあそこまで繰り返されると不思議なトランス状態に誘うし、そこにガキコキした金属的なギターソロが始まる(3分40秒あたり)。一聴すると無機的な音なんだけど、半ばトランス状態で聴くと、実に表情豊かな叙情的な音であることがわかる。いかにもというベタベタした切なさではなく、カラカラに乾いた砂漠のような無機質さの中に、押し殺しても押し殺しきれない切々とした情念がチラチラ見え隠れする。「むせび泣く金属」みたいな不思議な触感。

 ものも言わずにいきなり斬りつけてくるかのような殺気のあるドラムス。重厚な疾走感を響かせるベース。時折なぜか挿入されるフランメンコ調のリズムパターンは脳天に杭を打ち込む。精巧な時計の部品のように何十回とオーバーダビングされた複雑なギターパーツ。まるで流れていく車窓の風景のように叙情的なんだけど聴いたそばから空に消えていくボーカル、それらが渾然一体になった曲想に引き込まれていくうちに、突然、「あ。今、死んだ」というのが見えるような気がした。戦場の埃と血の臭いのなか、傷つき、それでも戦い続け、やがて出血多量で意識が遠のき、天国の光の中に上がっていくような情景が見えた気がした。しかし、それでもなお無機的で単調なリズムは続く。自分が死んだあとも尚もお構いなしに殺し合いが続けられ、淡々と人が死んでいく残酷な戦場のように。壮大なアルベジオがフェイドアウトし一曲が終ったとき、酔いが醒めた。そして、「す、すげえもん見ちゃった」感が襲い、鳥肌が立ちまくった。

 「快感」と呼んでいいのかどうか分からんけど、この数分間で、自分の頭と心の中に何かすごいことが起きたように感じた。僕はZEPが本気で好きになったのはこの経験をしてからです。「そうかあ、そうだったのか!」という。「味を占めた」わけですね。そして、「あの感動をもう一度」的に、全アルバムを漁り廻って聞き込みました。しかし、それだけではない。

 「一点突破の全面展開」という現象がありますが、一つブレイクしたら、その化学反応はたちまちのうちに全面に波及していきます。単にこの曲の良さが分かった、ZEPが好きになっただけではなく、何となく音楽の楽しみ方がちょっと深くなって、新しい次元になる。口ずさめるような親しみのあるメロディ、一回聴いたら忘れないキャッチーなリフ、、、音楽というのはそれに尽きるものではない、と。そんなものはむしろ入り口に過ぎず、奥にあるドアを開けたらいきなり宇宙空間が広がってましたって感じ。というわけで、そこから先は他のバンドや他の音楽ジャンルについても漁りまくりました。それまでもハマっていたけど、ここでまた一段深みにハマちゃったわけです。どんどん快楽が深まる。いわゆる「ハマる」というやつです。「快感」の引き出し方を覚えた、増えたわけです。

 同じような経験は、料理にも酒にもあります。料理といえば、出張で行った三重県のとある料亭旅館で食べた朝飯は未だに忘れられないです。白いご飯に焼き海苔、味噌汁に豆腐というありふれた献立なんだけど、いちいちぶっ飛ぶくらいに美味かった。「海苔ってこういう物体だったのか」「味噌汁ってこんなに美味いものだったのか」と。一回そうやって快楽のピークを極めてしまうと、それがその人のスタンダードになります。僕にとっての「日本の朝飯」とはアレであり、あれが基準になる。実際、その後20年、あれより美味しい朝飯を食べたことがないです。もう一回食べたいけど、どこで食べたか忘れちゃったし、料亭というよりは純然たる旅館というかホテルみたいな感じだし、ネットなんかではまず分からない。それにあれから時間が経ってるから、ああいう本格的な仕事をしている店は潰れてしまったり、質を落とさざるを得なくなってる可能性もあります。

 同じように、「そ、そうだったのかあ」的な食べ物はたくさんあります。イチイチ覚えていますが、もう目からウロコというか「今までの俺は盲同然だった」と。日本でもそういう体験はありますが、オーストラリアに来てからの方が多いですね。昨年の収穫はラビオリです。あのギョーザみたいなパスタですね。それまで大して美味しいとは思わなかったのだけど、とあるところで本日のスペシャルになってるから試しに食べてみたら美味かった。具を食べるのではなく、パスタそのもののムニョムニョツルンとした食感を楽しむものだということが分かったのですね。そうだ、餃子で言えば、小麦粉で皮を作るいわゆる中国の北方餃子は、皮がやたら分厚いのですが、これも具を味わうのではなく、皮の食感を味わうものなのですね。同じ小麦粉製品の讃岐うどんと同じく、うどんそのもののツルツル食感を味わう。焼き餃子のパリパリ感は捨てがたいのだけど、中国ではむしろ水餃子の方がメインであるというのも頷けます。美味しいうどんは、焼うどんにするよりはやっぱり茹でた方がプリプリ感が分かって美味しいのと同じことなのでしょう。

 そういえば(いくらでも続くのだ)、シドニーに来た当初に食べて、「うわ、これはちょっと」と思ったモノも、しばらくして食べたら凄く美味しいことが分かったというものが色々あります。食べたときの精神状態やその一品の質にもよるのでしょうけど、最初に悪く思ってしまうと本当に損ですよね。滞在10年目にして実は美味しいことを発見したときは、「俺の10年を返せえ!」という気になります。ああ、今まで騙されていた(てか自分が馬鹿なだけだけど)、こんな美味いものを避けていたなんて、なんたる人生の浪費!と。もともと好き嫌いはない方ですが、30代、40代と過ぎるにしたがって限りなくゼロに近づいてます。まあゲテモノ系は未だにイヤだけど、でも、どっかの民族が何百年何千年と食べてきたものは、やっぱりそれなりの美味しさがあるはずです。美味くなかったら続いてないですよ。日本食には「日本人に生まれて良かった」的な食べ物がたくさんありますが、同じように「チェコ人に生まれてよかった」という一品は絶対にある筈なんです。それを知らずに死ぬのか、俺は、と思うと、いてもたってもいられないという(^_^)。

 20代はカロリー至上主義で、量さえあればいい、パワーが付けばそれでいいという感じだったのですが、それが段々と変わってきて、別にグルメというほどではなくても、なるほど「美味いメシ」を食うために人生を棒に振る人がいたりするけど、わかるような気がすると。明治時代のなんたら男爵が、食い道楽が嵩じ、財産を蕩尽して、一族から勘当されてしまったという話も、わからんわけでもない。確かに人生を破滅させるだけの「快」があるよね。それは恋愛のそれだけのパワーがあるのと同じ事です。

 話をそこまでマニアックにしてしまうと分かりにくいでしょうから、多くの人の共通体験に戻せば、例えば「初めてお酒を美味しいと思えた瞬間」なんかがそうですね。子供は味覚が発達してないから、とりあえず甘いものが好きで、お酒なんか「にが〜い」って顔をしかめます。僕もそうでした。ところが、大人になっていくどっかの地点で、あれだけ苦くて不味い筈だったお酒が、「う、美味い!」と思える瞬間があります。僕はハッキリ記憶してますが、記憶してない人でもどっかでもそういう地点はあった筈です。新しい「快楽」に出会った記念碑的な瞬間が。

なぜそれをやっているのか?

 僕らが日常的に好きこのんでやっている物事、それら全てについて「なぜそれをやってるの?」と問い質していけば、同じような快楽原理が根底に横たわっています。

 子供の頃に何をムキになって野球をやってたかといえば、バットの真芯にボールが当ったときのゾクッとするような快感だったり、自分の打球が空に向ってグングン飛んでいくときの全てが解放されるような気持ち良さなり、思いっきり突き出したグローブにボールがひっかかって「ファインプレーになってしまった」ときの沸き立つような達成感とか。そんなの滅多に味わえないのだけど、一回味わうと病みつきになる。もう一度味わいたくて、やるのでしょう。ギターを弾くのも、仕事をするのも、こちらで英語を喋るのも、やっぱり「キマったときの快感」「真芯に当ったときの感触」というのがある。

 また食い物の話をすると、僕は料理もコマメにやりますけど、同じ食べ物系でも味わうのと調理とでは快感の種類が違います。自分で作ったものはそんなに美味しいとは思わんし、似たような味ばかりで飽き飽きするし。だから調理の快感は美味快感ではない。じゃあ何の快感なのかといえば、錬金術師的な快感です。料理というのは本当に「魔法」で、そのままだったら萎びた野菜屑のようなものでも、一定の手順と加熱などの「儀式」を行ってやると、不思議と食べられるものに化ける。それが面白いのですね。でもって、手を抜いたり、ダンドリを間違ったらてきめんに跳ね返ってくるし、それでいて同じようにやってもいつも同じ味になるとは限らない。そのとらえどころのない難しさがソソるんですよね。

 書いていて思いだしたけど、「医龍」という漫画にも同じような表現がありました。外科医に限らず一流のプロというものは、すべからく素朴な快感原則に突き動かされてやっている。もちろん「人を救いたい」という想いに嘘はないだろうが、それだけではない。一流になる人間は「手術が好き」という感情、持てる技術を存分に発揮する快感が原動力になっていると。僕もそうだと思います。

 F1レーサーであれ、スポーツ選手であれ、株の相場師であれ、何よりもまず、それをやることの快感を深く知っている。いや「知っている」なんて生やさしいものではなく、もう「取り憑かれて」いる。そうでなければ地位も財産も十分すぎるほど得たトッププロが、なぜ命を賭けてプレイをするのだ。実際、絶頂期に事故で他界するレーサーは多い。冒険家でも、十分すぎるほどの偉業を成し遂げ、あとは本を書いたり講演するだけで一生食っていけるにも関わらず、どっかの難所にわざわざ挑んで消息を絶ち、遺体すら発見されないという。

 この「死ぬのはリングの上」みたいな奇妙な情熱はどこから出てくるのかといえば、やはり快感でしょう。ギリギリのところで命を燃焼させて挑戦する、身体が真っ白に消えてしまうような巨大な快感を知ってしまえば、財産や名声で得られる快感など屁みたいなものなのでしょうね、多分。

 「好きこそものの上手なれ」と言いますが本当にそうで、どんな技術も挑戦も、膨大な時間を必死に練習していけばある程度のところまでは行きます。それ以上に一流のプロになれるかどうかは才能という別次元の要素が必要ですが、そこそこのレベルまではいく。同じだけの行為(練習や勉強)をするのでも、快感に突き動かされてやっているのと、不愉快なのをガマンしてやっているのとでは熱の入れ方も違うし、同じ分量やっても浸透度が違う。また持続力も違う。快感でやっている人は、四六時中やるし、禁じられてもやる。それだけやってりゃどんな人でも上手くなります。

 したがって「好きなことを見つける」「快感を発見する」ことは、その後の数万時間の努力に匹敵するくらい重大なことだというのも分かります。

快感の発見と質

 えー、手を替え品を替え、長々と「人は快楽に支配される」ということを書いているわけですが、いや、これは強調しすぎてし過ぎることはないと思います。良い意味でも悪い意味でも、人は一度味わった快感をそうそう忘れてしまえるものではない。まず覚えているし、機会あればまた再現したいと思っている。そして、それが人生の、あるいは日々の生活の推進力になっていく。

 これは本当に良い意味にも悪い意味にも機能します。快感そのものに善悪もネガポジもない。エンドルフィンなどの脳内物質が分泌されるというただの生理現象でしかないのですから。もっとも、一般的にいえば、気持ちのいいことをやっておけば間違いがないというか、自然レベルでの「工場出荷設定」ではそうなっているのでしょう。例えば、身体に害を及ぼすような食べ物(腐ったものなど)は、強烈な悪臭をはなったり、食味がおかしくなったりしている場合が多い。匂いなんかただの化学物質でしかないのだけど、それを「悪」臭と感じるか、芳香と感じるかは、生まれながらの本能セッティングによるわけで、出荷設定では身体を守る方向に設定されている。抗いがたい恋愛パワーやセックスの快感も、すべては種族保存のためにセッティングされている。生殖行為が苦痛に充ち満ちていたら誰もやらなくなり、その種はすぐに滅びてしまう。新鮮な空気や雄大な自然に接して気持ちが良いのも、より生存に適した環境を気持ち良く感じるようにDNAにプログラミングされているのでしょう。だから気持ち良さを基準にすれば、そう大きな間違いはない。

 ところが、人類というのは知恵があるので、いろいろと余計なものを開発するのですね。典型的には麻薬などですが、とりあえず気持ちがいい。強い快感があるからハマる。しかし追い求めれば求めるほど身体も人生もボロボロになる。あるいは文明そのものが「余計なもの」なのかもしれません。朝から晩まで必死に飲み水や食べ物を探し回ってカツカツ生きていけるという自然設定のままだったら、人は生き残るためにイヤがおうでも身体も心も健康になります。不健康になったら自動的に死にますから。しかし、そこまで必死で生きなくても、豊かな文明のおかげで生きていけちゃうと、ダラダラするようになる。何をするのも億劫になったりして運動不足で糖尿病になったり、あるいは本物の刺激が少なすぎるために心の弾力が失われたり、お手軽な快楽に走ったり。

 かくして同じ「快楽」でも、人生を滅ぼす方向に働くものと、より充実させる方向に働くものとに分かれてきます。「良い意味にも悪い意味にも」というのはそういう意味です。快楽という言葉が往々にしてネガティブに語られたり、「溺れる」という表現で使われるのも、この間の事情によるのでしょう。

 どうせ快楽を求めるのであれば、より上質の快楽を求めたいものです。ドラッグのようなフェイクではない、オーガニックで本物の快楽。 深くて、高い快楽を知ることは、よき人生、QOE(Quality of Life)の大事な条件になるでしょう。よく「良いモノを味わえ」「ホンモノに出会え」と言いますが、本当に良いものに出会えば、そこで味わった至高の快感が自分のスタンダードになり、ひいては人生の質のスタンダードになります。

 「よいもの(快楽)」との記念的な出会いが、とても良い方向に作用する場合もあります。村上春樹の「海辺のカフカ」では、ホシノ君が名曲喫茶で流れているクラシック(ベートーベンの大公トリオ)に、ふと心が惹かれ、好きになる瞬間が書かれています。それまでクラシックなんか聴いたこともなかったのに、なぜかそのときはいいと思える。以前にもこの部分は引用したけど、重複を恐れず引用すれば、
 「じゃあひとつ聞きたいんだけどさ、音楽には人を変えてしまう力ってのがあると思う?つまり、あるときにある音楽を聴いて、おかげで自分の中にあるなにかが、がらっと大きく変わっちまう、みたいな」
 大島さんはうなずいた。「もちろん」と彼は言った。「そういうことはあります。”何か”を経験し、それによって僕らの中で”何か”が起こります。化学作用のようなものですね。そしてそのあと僕らは自分自身を点検し、そこにあるすべての目盛リが一段階上に上がっていることを知ります。自分の世界がひとまわり広がっていることに」
 というように、何かとの出会いで趣味嗜好が変わるだけではなく、人生や人間そのものが変わってしまったりすることは、マレではありますけど、誰にでも起きることでしょう。

マズロー説

 じゃあ、レベルの低いチャラい快楽と、深くて本物の快楽とは何か、何が違うか?ですが、それって別に解説するまでもなく、普通に分かることだと思います。また、その判断は、最終的にはその人次第でしょうし。

 ここで思い出すのが有名なマズローの欲求5段階説です。人間の欲求(=それが満たされたときに快楽)は、@生理的欲求→A安全の欲求→B所属と愛の欲求→C承認の欲求→D自己実現の欲求と段々高度になっていくという説です。食事とか排泄などの生理欲求が満たされると、次に生活の安定を求め、さらに社会的な「居場所」を求めるようになる。まあ、普通の文明国で暮らしていて@レベルでヤバいことは少ないでしょうが、Aは治安やら職やらで切実だったりします。Bの所属欲求が満たされていない状態が昨今よく問題になっている無縁社会や孤独化です。

 それらが満たされると今度はC自分が承認されることを求めるようになるそうです。これも二つあって、低いレベルは他人からレスペクトされたいという認知願望であり、高度になると「自分で自分を認められるようになりたい」という自己承認願望になる。前者でコケていると他人からチヤホヤされる快感だけに取り憑かれてしまい、異様までに肥大した虚栄心に振り回されたりするし、後者でコケると深刻な劣等感や無力感に苛まれる。これら@〜Cは欠乏欲求とも言うそうで、満たされる快適さや満足よりも、満たされない欠乏感として認識される場合が多い。

 さて、それも順調にクリアして第五面に進むと、いわゆる自己実現のステージです。Dの自己実現は、「ほんとうの自分」になりたいなど様々な表現がなされるようですが、まあ自分が自分であることに納得したい、納得できるような自分でありたい、それを確めたいってことなのでしょう。そのために、自分なりの軌跡や「作品」を求めてみたり。

 マズローは、さらにこの上にE自己超越の欲求というのがあると言ってます。このレベルまで来ると、自己実現欲求ですらチャラい欲求に見えるのでしょうか、要するに「俺が、俺が」の我執であり、それを超越し、大宇宙のなかにポンと自分が存在しているということで既に満たされニコニコしているというレベルですね。マズローさんは、ここまで来れるのは人口の2%程度しかいないと言ってます。

 まあ、マズロー説が絶対に正しいというつもりもないし、実際批判も多いです。この順番通りに進むとは限らないとか、西欧的個人主義に傾斜し過ぎているとか、実証性がないとか。もっともマズローさんも、ある段階が100点満点でないと次に進めないと言ってるわけではなく、@は85%で次に進め、Aは70%などバラバラであると言ってますし、またDまで達成すれば完璧だというわけでもなく、かなり人間的に問題アリでもDくらいまではいけると。

 僕もこれが絶対だと思わないけど、でも、いいヒントにはなります。それに段階説といっても、ブルースリーの死亡遊戯みたいに階段を上っていくと考えるとヘンな感じもするけど、満たされないときの不満感の強さはどれが激しいか?でいえば、確かに低層の方が激しいと思います。孤独だとか、チヤホヤされたいとかいう悩みのある人でも、@レベルの欠乏、つまり餓死しそうなくらい空腹だとか、欲も得もなく眠りたいくらい睡眠不足だということなれば、@が優先するでしょう。その種の優先順位みたいなものはあるように思います。

 そして今書いていることの文脈で言えば、他人にチヤホヤされる快感と、自分なりに「やったぜ」と満足できる快感だったら、後者の方がレベルが高いと思います。チヤホヤされてないときはあんまりそうは思えないかもしれないけど、実際に満たされてしまうとそんなに嬉しくないのでしょうね。有名人などでも世間からキャーキャー言われて嬉しいということよりも、今度の作品が自分でも納得できないというのが大きな問題になったりするのでしょう。「よい作品を作りたい」という欲求(快感)は、キャーキャー快感を凌駕する。売れてない頃は、とにかくプロとして認められたいとか、有名になりたいというのが最大の願望であり快感だったりするのだけど、次第にそんなことよりも、いかに優れた仕事をするかに重点が移ってくる。つまりそっちの快感の方が高いことが分かってくる。

他者実現と正義実現

 快感の種類は沢山あります。ゆったりくつろいだ快感だとか、白熱スパークする快感だとか。思うのですけど、例えば年の数だけ快感のストックが増えていくんじゃないかと。例えばあなたが25歳だったら25種類の快感を知っておけと。25年も生きているんだから、1年に一個ペースで「おお、これは気持ちいいぞ」というのを増やしていく。まあ、こんな数字にそんなに深い意味はないのだけど、でも生きているという「持ち時間」がそれだけあったら、それだけ新しい快感を発見できていなければ嘘だろうということです。同時に、同じ快感でも25歳だったら25階分の高さでそれを知れと。より高く、より深く、より極めろと。

 最後に、あんまり語られていないけど、「こういう快感はどう?」ということで示しておきたいと思います。

 案外語られていないのですけど、「他人を幸福にする快感」というのがあると思います。これって実はメチャクチャ強力なんじゃないかって。例えば、迷っている人に道を教えるという些細なことでも、他者を(ほんの少しだけど)幸福にしますよね、それって嬉しくないですか?気持ち良くないですか?僕にとってはこれは結構デカいんです。

 以前にも書いた記憶があるけど、必死こいて貧乏下宿で司法試験の勉強をやってるころでした。暗い京都の辻をサンダルをペッタラ鳴らして銭湯から帰ってくる途中、小さい子供と両親の三人連れが自動販売機でジュースを買ってました。当時(今も?)、一本買うとルーレットみたいに光が点滅して、上手く当ればもう一本という他愛のない自動販売機で(僕は当ったことがないのだが)、それに小さな子供がすごく一喜一憂して、それをご両親が微笑んで見ているという。まあ、ありふれた光景だったのですが、それを見たときズンと心に響くものがあったのです。何のために今自分が勉強しているか、突然クリアに分かったような気がした。それまでの僕は「こんちくしょう、今に見てろ」的な我執で勉強してました。絶対受かってやる、世間を見返してやるというセコい我執です。でも、法律というのはまさにこういった善良な人達を守るためにある。もしかして、将来この一家が何かのトラブルに巻き込まれ、ヤクザに追い込みをかけられ、一家離散とか悲惨な目に遭うかも知れない。それを自分の力で守ることが出来たら、どんなに素晴らしいことかと。ああ、「力」や「知識」というのはそのためにこそあるのだ。法律家というのはそのために存在するのだ、俺がやってるのはそういうことなんだって、なんか分かった気がしたのですね。心がすっごくポカポカあったかくなって、元気百倍になった。

 この話のポイントは、やっぱ我執だけでは燃えないってことです。「俺が俺が」パワーというのは一見強そうで、実は大したことない。なんかみすぼらしいというか、貧しい感じがして、自分でも薄々「それだけかい?」みたいな不足感はあったのですね。確かに「こんちくしょう」というのは何かを始めるときには大事な感情で、重要なモチベーションになるけど、発火材でしかない。点火プラグというか、チャッカマンみたいなもの。着火した後の継続的なパワーはそんなものでは続かない。もっと他の何かが要る。そして、それは自分自身ではなく他人にあったという。自分が何かしら利益を得ていい思いをすることよりも、他人が良い思いをする場合の方が実は嬉しいという。他人を蹴落としたり、支配したりする快感よりも、他人を良くしていく快感の方が実ははるかに強いのだと。

 で、考えてみたら、僕らの日常ってこればっかじゃないかと。ものすごいキレイゴトに聞こえるかもしれないけど、実は、世間はそれに充ち満ちている。例えば、医療関係者だったら、やっぱり患者さんに少しでも良くなって貰いたいという感情が根っこにあると思います。お医者さんでも看護士さんでも、苦しんでいる人が手当を受け、徐々に回復し、ハッピーになっていく、そういった「他人の幸福」が気持ちいいのだと思う。もちろん100%純粋にそれかというと、そりゃ経営もあるだろうし、色々あるでしょうけど、でも「金さえふんだくりゃ後はどうなってもいいんだ」って徹底的に割り切ってる鬼みたいな人は少ないと思いますよ。医療のように分かりやすい場だけではなく、ごく普通の仕事でも、あるいは仕事ですらなくても、他人に喜んで貰えるとやっぱりうれしい。他人を泣かせるよりは笑って貰った方がうれしいんじゃないんですか。

 親が子供を思う気持ち、貧しくて食事にも事欠くなか「私はいいから、お前がお食べ」と親が子に譲るのは、それは義務感であるとか、所有欲求だとか、延長された自己愛とか色々な解釈はあるだろうけど、やっぱ素朴な愛情だろうし、その愛情は「他者(我が子)が幸福になってくれるのが何よりも嬉しい」という快感だと思います。ボランティアなんかも同じ事で、いろいろとひねくれた解釈はあるのだろうけど、他人に喜んで貰うと取りあえず嬉しいという素朴な快感が原点になっているんだと思います。その意味で100%の利他行為でもなく、逆に偽善でもない。利他=利己になるという不思議な快感算術がそこにあるのでしょう。

 こういった種類の快感を何と呼べばいいのか分からないのだけど、自己実現をもじっていえば「他者実現」とでもいうのでしょうか。

   もう一つ、「正義を実現する快感」というのもあります。
 嘘臭く響くかもしれないけど、これが結構強烈にあると思う。理不尽なことが目の前で展開されるとモヤモヤしてくる。他人事ながら腹が立ってくるという感情です。「こんなことが許されていいのか?」という感情は、意外と原始的に強烈で、だからこそギリシャ時代の仮面劇からTVの水戸黄門や必殺シリーズまで、古今東西人類は勧善懲悪ドラマを愛してきました。数千年の歴史を誇るこのドラマツルギーは、「陳腐」なんて表現をとっくに超越している人類のフェバリットなのだけど、なんでこんなに受けるのかといえば、悪者がやられちゃったときに強烈なカタルシスがあるからでしょう。つまり「正義が実現する快感」です。

 弁護士の日常業務などでは結構コレが多いです。「なんだこりゃ、ふざけんじゃねえ!」みたいな事件が来るときもあるし、そういうときは燃えますね。市民運動とか住民運動やってる人も、原点はここだと思う。あるいは職場において、サークルにおいて、理不尽な慣行が横行していて「いい加減にしろ」という感情が立ち上がってくるのもコレだと思います。

 そして今回の地震の寄付金やボランティア活動などは、他者実現と正義快感がミックスしているのでしょうね。被災者の方々があそこまでヒドイ目に遭わねばならない理由がわからない。自然に理由なんてないんだけど、それでも納得できないという理不尽感がある。なんとか少しでもハカリを戻したいという欲求がある。そして、少しでも笑顔になって欲しいという他者の幸福を求める気持ち。それらが渾然一体となっているから、居ても立ってもいられないのだと思います。

 他者幸福と正義快感は意外と相性が良いようで、この両者は同時に出現する場合が多い。オーストラリアはこの種の快感が日本よりも多い社会なので色々と考える機会に恵まれるのですが、自己責任と優勝劣敗の厳しい西欧原理とボランティア大国のフレンドリーさは実は全然矛盾しないという。他人の幸福は自分の幸福という欲求が一方にありながら、同時に厳しい選別もするのですね。「この人が幸福になれないのは正義に反する」けど、「こいつを幸福にするのはむしろ正義に反する」という。一生懸命頑張っている人は、思わず助けたくなります。あれもこれもしてあげたくなる。しかし、自分では何にもする気がなく、寄生虫みたいに他人からやって貰おうだけ思ってる乞食根性のある人間にはビタ一文やりたくない。勝手に死ね、って気になる。「天は自ら助くる者を助く」というのはよくぞ言ったもので、天でなくても誰でもそうする。だから、他者幸福原理と同時並行して正義観念も走っているということです。

 これを裏から言えば、他人から優しくしてもらったときの礼節は、「素直に幸福になり、素直に喜ぶ」ことでしょう。自分がそれでハッピーになることが最大の恩返しになるということです。自分が幸福になった分だけ、やってくれた人は嬉しく感じるんだから。この素朴で深い人間洞察力のないアホが、時として「俺は施しを受けない、乞食じゃない」とか片意地張ったりするのだけど、それは「俺が俺が」我執レベルに留まっているということでしょう。「物悦び(ものよろこび)」という古い日本語がありますが、豊臣秀吉は物悦びの激しい人だったらしく、何かをして貰ったら全身で悦びを表わしたそうです。それは彼の根の明るさと、「人蕩(たら)しの名人」といわれた深い人間洞察力あってのことでしょう。そういえば、子供が最初にシツケを受けるのも、「ほら、ちゃんとお礼を言いなさい」ですが、ちゃんとお礼を言う、感謝の意を表わすというのは人間関係の超ド基礎であり、いい歳してこの基本が出来てない馬鹿野郎は、古来より「豆腐の角に頭をぶつけて死んじまえ」といわれているのでしょう。なんつっても、礼節の「礼」は「お礼」の礼ですもんね。

快楽道

 以上、まだまだ書けるのですが、要は「快楽」というものをもう少し真っ正面から肯定したら良い、そうした方がものが見えやすくなるということです。今回は「快感」というキーワードで論じましたけど、勿論別の言葉で論じることも出来ます。使命感であるとか、職業的倫理であるとか、人間的成長であるとか、思いやりであるとか、社会正義であるとか。それを敢えて「快感」というナマの生理的な概念で括ってみたのは、そう考えた方が、場合によっては誤解が少なく、ストレートに通じるからです。倫理とか成長という言葉を使うと、どっかしら嘘くささというか、キレイゴト感が出てきてしまうのですが、「要するに、気持ちいいからやってるんだわ」と言っちゃった方がスッキリするのではないかと。

 また、勉強でも仕事でも何かを行うときには、義務感とか欠乏感をメインに押し立ててやるよりは、快感メインにした方が遙かに効率がよく、楽しく物事が進むと思います。例えば英語を勉強するにしても、「出来ないと恥ずかしいから」という消極的な理由よりも、「通じたときのメチャクチャ嬉しい感じ」という快感をモチベーションにした方が絶対にいい。そして、その快感をまだ得てなかったら、片鱗でもいいから、まずその体験を先にするべきだと思います。

 つらつら考えてみるに、まっとーに快感を感じられる物事というのは、大体において「正しい」のでしょう。「快楽に溺れる」というのは一般にネガティブな言葉ですが、しかし、その快楽がまっとーなものであるならば、どんどん溺れて良いと思います。もっと溺れろ、と。まあ「溺れる」という表現は不適当かもしれないけど、もっともっと快楽追求に貪欲であっていいと思います。そしてシビアにその快楽の質にこだわり、より好ましい方向に向けてやること。快楽というのは生物のエンジン部分であり、場合によっては破滅に突き進むかもしれないけど、だからといってエンジンを出力を減殺して、去勢するのが正しいとは思わない。本当に必要なのは方向感覚とハンドリングだと思います。

 ともすれば日本の場合、快楽(欲望)を剥き出しにするのを「はしたない」と軽蔑する傾向があります。しかし、僕が思うに、それは快楽や欲望の存在そのものが悪いのではなく、それのハンドリングがヘタクソなだけであり、さらに言えば快楽のレベルが低いのだと。他人を蹴落として利得にありつこうとする奴は軽蔑されますが、それは自分だけ満たせばいいんだという低次元の快楽が、他人が幸せになってくれると嬉しいというより高次元の快楽から馬鹿にされているだけのことだと思う。

 もともと日本人にはマニアックに道を究める習性があります。どんなことにもあれこれ工夫を凝らし、少しでも良いものを作ろうとする。日本料理でも日本庭園でも「よくまあ、そこまで」というくらい工夫しまくっていますよね。これって逆に言えば快楽追求に貪欲であるってことでしょう。「こっちの方が気持ちいいぞ」「いや、こっちの方がもっと気持ちよくなる」と。それは文化とか美的センスとか他の言い方もあるけど、要するに気持ち良さの質に敏感であり、こだわるということです。そういう伝統を持ってる民族なんだから、もっと堂々と快楽を追求したっていいんじゃないの?と思うのでした。




文責:田村




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