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今週の1枚(2011/04/18)



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Essay 511 :「試練」は人を鍛え、「不安」は人をダメにする  〜東日本震災から1か月(1)

 写真は、バスの車窓。Cityのチャイナタウンのあたりです。



 東日本地震から一ヶ月以上経ちました。
 発生直後のエッセイでも書いたように、今僕らに出来るのは目の前の現実を豊かに充実させていくだけであり、起きてしまったことの評価や批判は、落ち着いてから資料も固まった時点でゆっくり緻密にやればいい。それは今も全くブレはなく、次に地震のことを書くのは半年後か1年後かなと思ってました。

 が、この一ヶ月余り、言いたいことが溜まってしまいました。ガス抜きしておきます。

メディアではわからない

 現時点で思うのは、「ニュース見ててもわからんな」ということです。もともとそれほど期待もしていませんでしたが、「あきらめがついた」って感じ。

 直後のエッセイでも触れましたが、一番気になったのは仙台以北の陸中海岸エリアの村々です。思いっきり津波かぶってるだろうし、自治体としての体力も乏しいだろうし、アクセスがかなり悪いから救援も届かないだろう。だけど原発のように複雑な話ではなく、水と食糧と医療というシンプルな援助でかなりの効果がみこめるエリアです。震源地を知って一番最初に気になったのはこれらのエリアであり、今尚気になってます。しかし、ヤキモキし続けて1か月、何がどうなっているのか未だによく分からない。これ以上待っても無駄だという気がします。

 メディア報道も直後はヘリを飛ばしてCGまがいの津波映像を撮っているのだから、地震後もあるだろうと思いきや、報道フィルターがかかってしまっているのか、よう分からない。僕が思うに報道フィルターは3つあって、@あまりも凄惨な光景は放映コードにひっかかる、A「絵になる風景/お話」を撮りたがり、報道したがる、Bそもそも報道陣も安全なエリアにしか行かない、の3点です。

 @は多分かなりあると思います。僕自身、かつて解剖立会や法医学講義などでいろいろな仏様を見させられましたが、プロ意識とか何らかの心の準備がなければ死体の写真なんか見るものじゃないです。これが被災地のリアルな現実なのだろうけど、見ることで一生のトラウマになる人だって沢山出てくるでしょう。誰もが冷静に受け止められるわけでもない。だから、これをオミットするのは分かります。

 問題はAで、「被災地の風景」というテーマ写真展みたいになって、「いかにも」画像・報道が多い。もちろんそれらも大事なのだろうけど、実際には「絵にならない」状況も多いだろうし、実際の比率でいえば1対99くらいに絵にならない方が多いでしょう。つまり、ぜーんぜん影響のないエリア、まったく日常光景と変わらないところも多々あるはずです。これはこれで報道して欲しいのです。後で述べる風評被害を最小限に抑え、毛細血管のような輸送を活性化させるためにも。

 Bですが、これもちょっと気になります。NZ地震の時も日本の報道陣が、取材マナーの悪さで地元の警察の怒りを買って逮捕されています。あまり日本で報道されていないかもしれないけど、例えばHerald Sun(2011/02/24)(別窓)では、”several members of the media were arrested last night for trying to break in and interview patients. A large number of those trying to get in were Japanese media.(昨夜、被災患者からインタビューをとるために不法侵入した数名のメディアが逮捕された。不法侵入をはかった報道陣の大部分は日本の報道陣だった)”、あるいはSydney Morning Herald(11/02/24)(別窓)では"two members of the Japanese press were taken into custody after trying to gain access to Christchurch Hospital in breach of a curfew overnight(夜間立入禁止を破ってクライストチャーチ病院に侵入した二人の日本人報道者の身柄を拘束した)"。

 メディアというのは、こういう場合にはやたら頑張る。泣き崩れる遺族にマイクを突きつけ「今のお気持ちは?」などと、他人の傷口に塩をてんこ盛りにするんだけど、今回は静かです。原発周囲の退避エリアの風景はおろか、福島県内や三陸のリアルな実情もわからない。大丈夫である筈の福島県の他のエリア(そっちの方がずっと広いはず)の風景すらあんまり映らない。当局の発表やら、ボランティアやタレントなど「行ってきた人」の談話を載せているものが多く、撮影クルーが福島県の大丈夫なエリアにいって、大丈夫ですとやっている映像も少ない。勿論無いことはないのだけど、「事実を正確に伝える」という観点からすれば散発的に過ぎる。NZの立入禁止区域には入れても、福島県の大丈夫エリアには行けませんかね。多くの人々が普通に生活してるエリアなんですけど。風評被害とかいうけど、情報があがってこないこと自体が既に一つの風評になっているのではないかしらん。

 地元ローカルの、例えばいわき市のサンシャインTV(別窓)などは沢山放映していますが、在京メジャーメディアが少ない。はっきり言ってYouTubeで動画検索した方がよく分かります。

 例えば右にリンクを貼っておきますが→
 いずれも普通の民間の方が撮影した動画です。
 左は震災後約一週間3月19日の福島県いわき市の状況。右はそのまた一週間後の3月27日に別の方が撮影したものです。左の動画をみると、いかにも「被災地」って感じがしますが、右の動画は、そのへんのスーパーの風景と全く変わりません。わずか一週間でこんなに復興できるわけがないから、同じいわき市でも場所によっては全然違うということです。これが第一点。

 このように既に先月の時点で生鮮食料品も豊富に売られているのですが、だからといって支援は一切不要なのかというとそういうわけではない。ライフラインの復旧が進まなかったり、支援物資の輸送や炊き出しも行われています。一見すると相矛盾するようなんだけど、全然矛盾しません。そりゃそうですよ。地震によって家が倒壊したり、財産を失った人は避難所で暮さないといけないし、そうでない人は日々の生活を頑張っていかないとならないし。被災地の人が全員毛布にくるまってるわけでもないし、スーパーで豊富に物が売られていたら全員ノーマルになったというわけでもない。だからもの凄くきめ細やかに見ていかないとならないということが第二点。

 ところで大手メディアでいわき市の記事を調べると「まるでゴーストタウン…」 市民が消えたいわき市(産経2011.3.25)(別窓)なんてのが出てきます。自主避難その他で人が減ってることは確かでしょうけど、ほんとこれだけ読むとSFみたいなゴーストタウンを思い浮かべてしまう。しかし、この記事とほぼ同じ頃、同じようなエリアで撮影されたのが上のスーパー店内の様子なのですね。一色に塗りつぶして見てはいけないということでしょう。

 また問題なのは風評被害で、タンクローリーがやってきても郡山で止まってしまって、そこから運転手と一緒に車ごといわき市まで廻してこなければならないという話を、別に動画でお聞きしました。風評被害は後でまた書きますが、ここでは原発に近いエリアであっても、現地の方々はこうやって普通に暮しておられる、この「普通に」というのが大事なんだと思うわけです。しかし、この動画、YouTubeではわずか1400人しか見てないようです。結局、なんというか、皆さんハデでスペクタルなものが見たいのでしょうか。

何がよく分かるか

 これはもうプロフェッショナルなNPO系が一番よく分かります。ここで「プロフェッショナル」というのは、報酬の有無ではなく、「一流の職業人的力量を備えた」という意味です。実際、給与という統制手段を持たずに寄せ集めの多人数をまとめあげていかねばならないNPOは、へたな営利企業よりも優れた統率力と実務処理能力がないと出来ないでしょう。ともすれば営利企業は金儲け主義で、ボランティアは片手間のサークル的でという、、マンガみたいな見方があったりするけど、そんな下らないカテゴリーの垣根は今日にでも改めた方がいいです。NPOと産・政・官・学界とで自由な人材の相互乗り入れが行われるべきだし、すぐには無理でもその方向を目指すべきだと思う。そもそも最大のNPOとは「国家」なのだから。

 ボランティアサイトは多々ありますが、ここでは助け合いJAPAN(別窓)を挙げておきます。見てお分かりのように、非常に分かりやすい。全体の構造が一目瞭然に分かり、且つ必要に応じて幾らでもズームして現場の状況を見ていくことが出来ます。よくぞ短時間にここまで作り上げられたと思います。散在する各団体と連携をとるだけでも大変でしょうに、内閣官房という政治中枢とも連携しています。

 実は政府や官庁も有益な情報を沢山提供しているのですが、いかんせんインターフェイスが悪い。○○省という大きな枠組みでしか動けない図体のデカさと権限の縦割りがアダになって、横断的に即戦力的に動けない。その点NPOは組織が柔軟なネットワーク系だから格段に自由度が違います。そして、「現場で本当に役に立つこと」という、ただ一点の機能に集中していけばいいから、話が早い。このあたりの事情は被災地の現状は刻々と変化している(別窓)に書かれていて、非常に興味深いです。

 その他、Googleの炊き出しMap(別窓)なんてもあります。


現場が一番「人間」らしいこと


 いわゆる「被災地の風景」ですが、これもYouTubeに一般の方々の投稿映像が沢山ありました。
 左は、石巻・気仙沼での炊き出し支援の様子、右は南三陸町志津川歌津の中にある馬場中山集落の会長の阿部さんのお話です。

 なぜに紹介するかというと、メディア的に編集意図や「つくり」がないことです。それだけにストーリー起伏もないし、説明もなくて分かりにくい。安部さんの話は、外国のメディア取材を受けての場のようですが、英語通訳、さらに東北弁の通訳まであったりして正直何を言っているのか半分くらいしか聞き取れないのですが(英語の方が分かるくらい)、だけどこれが本当の姿なのだろうし、「嘘がない」というのは強く感じます。

 そして何よりも、皆さん、メチャクチャいい顔をしているのですね。淡々と炊き出しをする人達(最後の1分あたり)も、また安部さんも、すごく人間的で、魅力的。じっと見てると見惚れてしまうくらい。

 僕らはついつい勘違いをしてしまうのだけど、「可哀想な被災者の方々」と無意識的にどこかしたら上から目線でものを見てしまいがちです。意識はしなくても、「助ける」という行為それ自体に立場の高低が入り込んでしまう。それはちょっと失礼ではないか。同じ対等な仲間じゃないのと。しかし現実の立場の高低感がどうしようもなくあるとしたら、せめて意識的にもバランスをとって、ちょっと下から目線で見るくらいでもいいのかなと。殆ど水平なんだけど、仰角3度くらい。

 というのは、今の時点では現場にいる人の方が、平均すれば人間的には上等なのではないかと思えるからです。あれだけの体験をしたのですから、なにほどか思うところもあったでしょう。人間の成長というのは、一般に厳しい試練を経て磨かれる=「魂が彫琢される」という言い方をしますが=あれだけ厳しい試練を受けていたら、磨き具合もかなり進んだのではないか。甘えなんか微塵も入り込めない現実に日々淡々と向かっているなかで、何が大切かという人生観も世界観も彫り込まれていったでしょう。だから僕らよりもちょっと「先達」になられたようにも思うのです。だから「助ける」というよりは「教えを請う」くらいの意識でいて丁度いいくらいではないか。といって被災すれば誰も彼もが聖人君子になるとか馬鹿なことをいってるんじゃないですよ。中にはダメダメな人もいるでしょうしね。だから「平均的にいえば」です。

 なぜこんなことを言うかというと、上のビデオを見ていてつくづく思ったのですが、「被災地に元気を」じゃなくて、元気じゃないのはむしろ被災地外であって、被災地の人の方が元気であり、あのビデオを見て僕の方が元気を貰ってしまったからです。映像の背景から聞こえてくるほがらかな笑い声とか、安部さんの滋味深い表情とか。「人間を信じていいよ」って言われているような気がして、ほんと元気を貰ったし、「教えていただいた」という気がするのです。

現場の外がおかしくなっていること

   むしろおかしくなっているのは被災地の外であり、特に首都圏。やれ買い占めしたり、風評被害を助長したり。風評被害は実際には愚かしいほどに凄いみたいで、福島県か避難してきた児童が学校でいじめられたりしているとか。

 話は子供世界だけではなく、例えば「原発の本当の被害4 〜私は福島県いわき市平で生きています〜」(別窓)という文章を見つけたのですが、「県外のガソリンスタンドで『福島県ナンバーの車、給油お断り』、福島行きのタクシー乗車拒否、レストランで入店お断り、ホテルでは宿泊お断り・・・こんな記事が4月9日付けの読売新聞・福島版に載っていました。またネットでは、いわき市に善意で物資を届けていただいた、ある運送会社のトラックが、取引先から「お宅のトラックは、いわきに行ったので荷物は頼めない」と契約を解除されたという記事が載っていました。何故、福島県の人たちを断ったのですか?何故、善意の運送会社を、称えていただけず 契約解除なのですか?」「県内外から、災害復旧に来ていただいている自衛隊・消防・警察そして、ボランティアの方々。本当に感謝しております。しかし、この方々も地元に戻った時 『あなたは福島県で、いわき市で災害復旧をしていたので、入店はお断り、仕事は解雇です』と言うことにはならないのでしょうか!」という事情が書かれており、やりきれない気分になります。

 また、「デマ・パニックの原因は「書かれてない」こと」(別窓)は秀逸なコラムで、川崎市が福島の木材などの粗大ゴミの引き受けをするなどして復興支援をすることになって、川崎の地元住民の不安と怒りがデマになっていく過程が検証されています。誰も放射性汚染物質なんて書いてないのにそういう話になり、2ちゃんや速報スレで火の手があがり、さらにどっかの教授がTPOをわきまえぬ発言をして火に油を注ぐという。

 多分こんなのは氷山の一角なのでしょう。似たような話は山ほどあるでしょう。
 「しかしね、、、」と考え込んでしまいます。なんかもう福島県はニュークリア・ゲットーみたいじゃないか。小学生の頃の「エッチ切った(”えんがちょ”とも言う)」を思い出した。ある特定の人間をエッチと呼び、汚物なみに扱い、その人に触れた人は感染するので皆でキャーキャー逃げまどうという、他愛がないというか、残酷というか、そういう遊びです。それとイッコも違わないという。知能指数が小学生並なのか。いわき市のスーパーで買物をしていた人はどうなるんだ?という。それに被曝がどうのといっても、ぶっちゃけた話、海外から見てたら、もう日本というだけで福島も東京も同じです。

 片や現地で逞しく頑張っている人がいる、片や一生懸命募金活動に参加している人がいる、片やいい歳してエッチごっこで騒いでいる人がいる、これがぜーんぶ同じ民族、同じ国民なのですからね。おそらくは同じ人物であっても、時期が違えば、3つの行動の全てをするかもしれない。人間なんかそんなもんだって言ってしまえばそれまでですけど。

 ただ、今回の一連の経緯で「人災」があるとしたら、東電や政府・官僚よりも、風評被害の方が問題が大きいように思います。この点は異論の多いところだと思うので、ねっちり書きます。コンパクトにいうために、噛んで含めるようないつもの書き方ではなく、ハードな文体にしているので、興味のある人だけどうぞ。

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 しかし、反面、東京をはじめとする首都圏の人の気持ちもわからないではないです。ある意味では「生殺し」ですから一番精神的にキツイかもしれません。分かりやすくドーンと被害を受け、目の前の現実が全てだといった方が、キツくはあるけど正体不明のヒッチコック的な不安はない。しかし、震度3程度のしょぼい地震が頻繁に起き続け、電気は止まるわ、駅で待たされるわ、放射性物質は飛んでくるんだかわからんし、水は飲んでいいんだかいけないんだか分からんし、、という、「宙ぶらりん」の状態に1か月以上置かれていたら、精神的に病んでくるのも無理はないとも言えます。その意味もあって、被災地の人の方が人間的にはマトモなんじゃないかと。

 つまり、被災地においては人を覚醒させ、マトモにならざるを得ない厳しい現実があり、片や首都圏においてはマトモではいられないような「不安」があると。これをさらに一般原理として抽出し、なんらかの教訓を学ぼうとすれば、「試練」は人を鍛えるが、「不安」は人をダメにする、ということでしょう。こうやって何でもかんでも教訓らしきものを引き出す態度が良いのか悪いのか議論はあろうが、この場合に関してはなすべきだと思う。なぜなら、亡くなった方々の犠牲を無駄にしないためにも、残された人間には全力で学ぶ義務があり、それが最高のはなむけになると思うからです。


再びメディアと中央のこと

 これはもう「勝手にやって下さい」って感じです。ちょっと前に予見したように、政界再編成を睨んでの布石の打ち合いがあったり、非難合戦があったり。また、メディアも、誰かがこんなこと言ったとか言わないとか、揚げ足取りみたいな報道をやってるし。これも小学校の頃を思い出しましたが、先生がちょっと言い間違えたら、鬼の首でも取ったように口まねをしたり、「○○だって〜!」と囃し立てる、どこの教室にも一人はいる、お調子者というか、頭が悪いというか、そういう小学生みたいですね。しかし、まあそういうことやって年収1000万とか2000万とか取っているわけねと思うと、ちょっと心が波立ったりして。

 でも、大きな話になりますが、ここ10年くらいでこれまでの日本社会を美しく覆っていたお化粧やら虚飾がどんどん剥がれてきている気がします。端的に劣化してる部分もありますが、「日本とは本来こういう国だったのだ」という骨格部分が見えやすくなっている。

 第一には権力構造です。「力あるものが力なきものを支配する」というどーしよーもない社会の現実。例えば電力会社。かつて事件で関西電力を相手にしたことがありますが、関西における関電というのは、まさに「関電帝国」ともいうべき強大な力がある。特に社長秘書室直属という人物と知己を得たので色々と内情を教えていただいたが、社員の交通事故のもみ消しやマスコミ操作という可愛いレベルから、送電線の用地買収、原発建設や運営における”政治”的なあれこれ、その力は闇の勢力にまで及ぶ。財閥系巨大企業といえども、電気という生命線を握られていること、さらに超大口顧客であること(発電所建設だけで数千億のビッグビジネスである)から逆らえない。大企業が逆らえなければ、大企業を顧客とするさらに川下に立つマスコミが逆らえるわけがない。

 これが単なる「おはなし」でないのは、例えば、歴代社長を見ても分ります。先日辞任した清水社長(11代)は経団連副会長、その先代(10代)は勝俣社長も経団連副会長、その先代(9代)の南氏は経済同友会副代表幹事。この3人はいずれも原発事故で辞職していますが、先々代の南社長が辞職した東京電力原発トラブル隠し事件(2002年)の時の会長荒木浩氏(8代)は経団連副会長、相談役の那須翔氏(7代)は経団連評議委員会議長、同じく相談役の有名な平岩外四氏(6代)は経団連名誉会長でした。経団連といえば財界の内閣のようなものであり、1年ごとにクビが飛ぶ政界の総理などとは比較にならないくらいその権力は安定しています。今回何かと非難されている清水社長は、圧倒的な東大閥の東電にしては47年ぶりに東大外(慶大)であり、また永田町や霞ヶ関とのパイプも乏しい地味な努力家で、言わば東電にしては異色な社長だといいます。彼が全権を持っているなどとんでもない話で、彼の上に真の力を持つ人物がゴロゴロいる。

 まさに雲の上の世界ですが、雲上界からみれば、僕ら庶民などアリンコみたいな存在であり、アリンコがいかに激しく非難罵倒してもなんの痛痒も与えられないでしょう。ゴマメの歯ぎしりってやつです。だからこそ非難罵倒することが「許されている」とも言える。許されない程度に影響力をもってきたら、それなりの「圧力」がかかると思っていい。マスコミの批判報道もまさに「許された限度内」のものという気がします。それ以上に踏み込んだ批判は、日本のメジャーメディアの正社員には無理だと思う。

 一方末端のアリンコである僕らの世界では、危険を伴う原発現場は下請けのそのまた下請けがやり、さらに防護服を着て行う危険な保守メンテは、山谷や釜ヶ崎のドヤ街で血を売ったり戸籍を売ったりしているおっちゃんが給料がいいからとやっているという話は聞いたことがあるでしょう。今回多くの人々が苦しんだり、またいかに批判が炸裂しようとも、電力会社はびくともせんでしょう。表面上、解体や組織刷新は行われようとも、国家の基幹部分(川上)を握っているという構造の圧倒的有利性が動かない限り、それは変わらない。それはバブル崩壊以降、さんざん国費を費やして救った金融機関が未だに高給を取っているのと同じ構造です。

 なんのことはない、やってることはヤマト朝廷で庶民が古墳造りに駆り出されていると同じです。ピラミッドの石積みこそがこの世の「強き者と弱き者」の構図であり、もういい加減ハッキリさせた方がいい。もややんとしたベールで美しく飾らず、ごつごつした剥き出しの社会構造の現実をハッキリさせた方がいい。「国民の皆様」とかおだてられても、その実態は奴隷と五十歩百歩であり、この日本という国では諸外国のように庶民革命が成功した試しはただの一度もないのだ。明治維新だって、下級とはいえ武士というエリート階級による政権闘争だったし。

 そしてそんなことは日本の大人だったら誰でも知ってることで、だからこそお受験が一向に下火にならないのでしょう。
 この日本では「科挙」のような入試&入社を潜り抜け、社会的階層を上り詰めることだけが唯一の「天国への階段」であり、階段からドロップアウトしたら、あらゆる局面で風下に立つ。銀行は金を貸さないわ、結婚式では末席に座らされるわ、ホテルに電話しても部屋が取れないわ。僕だって高校の時に悟ったもん。それなりの力を得なければこの国ではやっていけないと。しかし、実際にささやかな「力」を得て、背伸びして雲上界を垣間見てさらに悟ったのは「上もそんなにいいもんじゃないな」ということであり、この階段や構造そのものがクソだということでした。

 話を戻すと、ここ10年くらいで日本のそういった「メッキ」が大分剥がれてきたなということです。日本で庶民革命がなかったのは、日本人に覇気がないというよりも、日本人独特の優しさと助け合いで、全体として豊かになってきたからでしょう。諸外国のように激しい身分差別や人種差別も少なく、それがゆえに激しい憎悪という爆薬が蓄積していかなかっただと思う。しかし、その優しさがアダになって、国家システムをとことんシビアに見つめ続けるという努力を怠った。そして、全体が豊かだったバブル破裂以降、徐々に国が痩せさらばえていくにしたがって、本来の階層格差がわかりやすく露出し、ごつごつした骨格が浮かび上がってきたように思います。例えば、ここ数年の検察の国策捜査迷走にしても、権力がいかに権力を守るために恣意的に使われるかの好例だったと言えるでしょう。

 僕が懸念するのは、今回も又これまでどおりの生あったかい予定調和に落とし込まれていくことです。儀式のように政府・東電批判が燃え上がり、儀式のように首相のクビが飛んだり政界再編成が起き、儀式のように東電の組織刷新が行われ、かくして庶民のガス抜きが行われ、日を追う毎に徐々に平常に復し、そして被災地は忘却の彼方にさようなら、です。

 じゃあどうするの?ですが、ああ、もう紙幅がないっ。
 一つだけ言えば、オーストラリアの電力会社は自由化され、供給会社と販売会社とで二分割されています。これは電話会社も同じですが、インフラ部分と販売部分とを分割する。そして外資系の自由参加を認めています。これまでシドニーの電力を全面的に司っていたEnergy Australiaは、True Energyという会社に買収され、さらにTrue EnergyはCLPという中国系企業の傘下にあります。

 外資参入の是非はあるでしょうが、要は根幹部分は政府の許認可権でガッチリ押え、その政府は国民が定期的にクビにするなどしてガッチリ押えるという「力の流れ」が透明かどうかです。ここが不透明で流動性に欠けると、利権や癒着構造がセメント流し込んだように固まってしまう。もとを遡れば、明治政府が急造の「新国家」を作るとき、特に国家の基幹インフラ部分を立ち上げる際に、あり合わせに民間の力を借りたのが発端でしょう。今日ある財閥がなんで財閥になったのか、なんで岩崎家というイチ個人商店が三菱財閥になりゼロ戦まで作っていたのかといえば、国策産業×政商という構図です。戦後の財閥解体において一回潰れますが、それでも再びグループ企業としてこれらの構造は生き残り(ただし弱体だった自由な時期があったので、ソニー、トヨタ、松下などの新興企業が成長した)、今日に至ると。

 まあ、国家生成時の開発利権という新興発展途上国によくあるパターンですけど、そうなると結局、川上(基幹)を握ってる奴が勝ちという「初期設定」がなされてしまい、あとはもう詰将棋のように論理必然的に徐々に川下が埋まってきて、結果的に夜の公園を小学生が進学塾に通うという風景になっていく。電気なんかかなり根幹に関わる国策産業ですからね、強い筈です。東電の記者会見でどことなくエラそげに感じてしまうのは、明治の気風(官尊民卑)が幾分かは残っているからなのかもしれません。明治というのはそういう時代だったのね。

 今なされるべきは、この根幹構造の変革でしょう。既に国策の本体であったお家芸の繊維(富岡製糸場以来の)や重厚長大産業(造船など)は時代の流れによって花形ではなくなり、国鉄はJRになり、電電公社はNTTになり、郵政は民営化され、徐々に明治時代のフォーマットは書き換えられつつあります。逆に、軽視されて国策リストから外され、それゆえに自由だった自動車産業や家電産業が戦後の日本を引っ張っていってくれている。しかし、現在も尚これらの「明治の遺物」は残っており、JRやNTTが純然たる民間企業になったかというと疑問だし、郵政はまた元に戻そうとしているし、金融は相変わらず国の護送付きだし、JALはご存知のとおりだし。根幹に近いほど動きが鈍く、むしろ日本経済のお荷物になっているように思います。

 それでもこの基幹構造を変えないと、いつまでたっても「古墳造り」に駆り出されるし、それがイヤだから小学校の頃から塾に通う。なんで子供が夜の公園を歩いているかと言えば、要するに「未来の東電社長になるため」でしょう。しかしなあ、あんなもん(失礼)になりたいかなあ?首相であれ東電社長であれ、この根幹構造のパペット(操り人形)に過ぎない。人形を燃やしても構造を変えないと、幾らでも第二第三のパペットはいる。

 既にこの先も書き上げたのですが、あまりに長すぎるので(読み疲れたでしょう?)、今回はこのくらいにしておきます。以下次回。

文責:田村




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