今週の1枚(02.04.29)
ESSAY/過剰なる言い訳の日々
インターネットで日本の新聞を見ていたらこんな記事がありました。つい最近の事件ですので、ご存知の方も多いでしょう。ちょっと長くなりますが、ほぼ全文を以下に引用します。
**************************************
「テレビまね」パンを早食い、のどに詰まらせ中3死亡
愛知県尾西市三条の市立第一中学校(吉川優校長、生徒数849人)の3年生の男子生徒(14)が、給食の時間に同級生とパンの早食い競争をしてのどに詰まらせ、死亡していたことが27日分かった。一緒に競争した生徒らは「正月にテレビ番組を見てやろうと思った」と話しており、同市教委では市内の小、中学校に対し、早食い競争をしないよう指導した。
同校などによると、事故があったのは男子生徒が2年生だった今年1月15日。男女6人ずつのグループに分かれて昼の給食を食べていた。メニューは焼きそば、サラダ、ミニロールパン、牛乳で、生徒はほかの男子生徒2人とミニロールパンの早食い競争をして、一口で食べたという。
その後、生徒はサラダを食べ、牛乳を飲んだところで教室を飛び出し、廊下の手洗い場で苦しみながら倒れた。
教諭らが生徒ののどに詰まった食べ物をかき出すなどして、救急車で病院に運んだが、すでに心肺停止状態だったという。その後、息を吹き返したが、重体の状態が続き、3年生に進級した今月24日に死亡した。
同校が、一緒に早食い競争をした生徒たちから事情を聴いたところ、「正月のテレビ番組を見て面白そうだからやろうと思った」などと話したという。
また、同校が事故後、全校生徒853人にアンケートをとったところ、51人が早食いをしたことがあると答えた。同市教委は、市内の学校関係者の会合などで注意を呼びかけたほか、事故直後の1月21日には市内の七つの小学校と、三つの中学校に対し、早食い競争は事故につながるのでやめるよう書面で指導した。
同市の教育長は「予想もできない事故が起きた。何とか快復してほしいと願っていたが残念な結果になった。子どもたちには食べ物はゆっくり、よくかんで食べること、早食い競争などしないように指導している」と話していた。
◇
テレビ東京広報部は「番組をまねたことが事故の一因となったことに対して、大変遺憾に思います。亡くなったお子さんのご冥福を祈ります」とのコメントを出した。山口真名部長によると、この番組では、視聴者にまねしないよう注意する表示などはしておらず、「事故を教訓に表示を入れるなどの安全対策を検討したい」としている。(朝日新聞 2002年4月27日 17:41)
**************************************
最初この記事を見たときは、ちょっとビックリしました。「ふーん、そんなこともあるんだ」と。と同時に、不謹慎ではありますが、クスッと笑ってしまいました。なんか信じられないというか、意表をつかれて意味がよく飲み込めず、ギャグを言われたみたいな感じで、「おいおい、冗談だろう?」という。お腹一杯ゴハンを食べたあとなどは、よく「もう食えない、死ぬ〜」などと言いますが、まさか本当に死んでしまうとは、、、。しかし、もちろん笑い事ではなく、数瞬遅れて本人や遺族も無念に思いを致せば、もちろん笑い事ではありません。ご冥福を祈ります。
次に気づいたのは、事件が起きてから落命されるまで随分と時間があったということです。すなわち事件が起きたのが1月15日、お亡くなりになったのが4月24日ということで、その間3ヶ月以上もあります。これはどういうことなんだろうか?よく正月にモチを喉につかえて死亡される人がいますが、原理はそれと同じなんだと思います。喉の食物がつかえ、気道閉塞による呼吸困難、窒息、脳の酸素不足→脳の破壊→死亡ということになるのでしょう。いわゆる窒息死ですね。本件の場合、窒息して心肺停止になってから、蘇生術を施し一旦は蘇生したものの、既にこの時点で脳に致命的な損傷があったのでしょう、延命措置を施しつつギリギリのところで持ちこたえていたのが遂に続く無くなったということなのでしょう。この点も、「そんなこともあるんだ」と思いました。
ただモチの場合は粘着性がありますから気道粘膜などに張り付いて取れなくなるということもあるのでしょうが、今回はミニロールパンとサラダと牛乳ですよね。特に最後に口にしたのが牛乳ということで、それほど粘着性が高いとは思えない。ということは、かなり詰め込んで食べたのかな?とも思いますが、そのあたりはどうなのでしょう。文面では、「ミニロールパンの早食い競争をし、一口で食べ、そのあとサラダと牛乳を飲んだところで、、」となってますから、最初に一口で食べたミニロールパンが喉に詰まって窒息した可能性が高いでしょう。が、窒息しながらも、そのあとサラダを食べ、さらに牛乳を飲めたりするものなのか?という気もします。飲み込めると思ってパンがまだ口中にある間にサラダにとりかかったのでしょうか。はて?
もしかしたら一回嚥下して胃袋までおさまりかけたパンを急に戻してしまう過程で窒息したのかもしれません。そういえば吐瀉物を喉に詰まらせて死亡する人は多いですよね。ドラッグやりすぎたジミヘンもそれで死んだと記憶してます。よく大学の新歓コンパなどで、メチャクチャ酒を飲ませて酔いつぶれた一年生の介抱は二年生の役目で、一年生が夜中に吐いてその吐瀉物で窒息しないように、ときには口に指をつっこんでゲロ掃除をせなならんとか言います。食べたものが食道を下る際に詰まったという嚥下系ではなく、胃の内容物が吐瀉される過程で喉に詰まったという可能性もなきしもあらずです。しかし、このあたりの死因は新聞記事ではよくわかりません。最終的な死因の「急性心不全」は事実上何も言っていないに等しいですからね。心臓が止まれば「心不全」、急激にそれが起これば「急性」なだけで、つまりは「急に心臓が停止した=死亡した」ということを言葉を換えて言ってるに過ぎず、本当の意味では「死の原因」ではないです。
さて、以下段々本題に入っていくのですが、人命を失ったこの事故の教訓として我々は何を学ぶか、です。記事によりますと、市の教育委員会は、「早食い競争を禁止するように小、中学校に指導した」そうですし、テレビ東京は「事故を教訓に表示を入れるなどの安全対策を検討したい」としているようです。ま、テロップで『危険ですので真似しないでください』というのが流れるのでありましょうか。
まあ、これで終わりなのでしょうか。でも、僕はこれではあんまり意味がないと思います。
この「禁止すればいい」とか、「テロップを流して注意すればいい」という解決方法は、非常に日本的であると思います。別に学校もTV局も「それでいい」とまでは言ってないのでしょうが、この種の「禁止」「注意喚起」というのは、日本によくある「反応」だと思うのです。そして、それが対策としてどれだけeffectiveなのか、規制に伴うデメリットがどれだけあるのか、そのあたりの検討吟味というのがあまりなされないのも「日本的」といっていいのかもしれません。
思いますに、万に一つの事故がおきたら、なんでもかんでも全面禁止にしてしまうというのは、やり過ぎであり、はっきりと「誤り」と言ってもいいのではないか。しかし、前述のように、日本人の大好きな解決方法なので、この種の例は沢山あると思います。ある高校生がバイクで通学中で事故で死んだら、バイク通学禁止。自転車事故を起こしたら自転車通学禁止。スーパーで万引きしたら、子供だけでスーパーへの立ち入りは禁止。とある官庁で、お歳暮を隠れ蓑にして贈収賄が行われているのが明るみに出たら、全庁あげて贈答禁止。なんでも聞いた話ですが、「違う教室に立ち入ってはダメ」「授業終了後学校に居残ってはダメ」なんてのもあるようです。この種の、あまりに過剰な規制であるのに、実効性という点ではピントがズレているという規制/対策の例はいくらでもあると思います。
しかし、そんなことばっかりやっていくとどんどん世の中住みにくく、自由にやりにくくなります。それが故にストレスもが嵩ずるでしょうし、半病人も増えるでしょう。もっと恐いのは、そういう具合にしか物を考えられない、リスク管理能力が極端に低く、知的に退化した人間が増えることであり、馬鹿も集まればパワーになりますから、馬鹿に引きずられて世の中どんどん歪んできてしまうということです。このあたりのことをもう少し噛み砕いて言います。
この過剰&ズレた規制に対する脱力感は昔から抱いていたところであります。
ちょっと長くなりますが、自分自身の体験を書きます。
僕がその昔担当した刑事事件で、神戸のケースワーカー(生活保護担当者)が、自分の担当ケース(保護受給者)の老婆を殺害してしまった事件がありました。この事件の深層にあるのは、生活保護の厳しくも寒い現状です。もともと線が細く、ナイーブだった被告人は、県庁に就職後、生活保護課に配属されます。僕も事件を契機に関係者から話をうかがったり、本を読んだりして勉強しましたが、生活保護の現場は並大抵のものではないです。大蔵省経由で予算削減のために、「自立」の美名のもと保護打ち切り求めてくる上からのプレッシャー。そして現場では、保護受給を受けるために脅迫、泣き落とし、色仕掛け、ありとあらゆる手段が使われます。福祉事務所のカウンターでは怒声が飛び交ったりするのも珍しいことではありませんし、訪問に行ったケースワーカーが監禁ないし軟禁状態にされたりするのもありうる話だそうです。この事件の数年前も、新潟かどっかの福祉事務所の課長さんが、事務所内でいきなり出刃包丁で刺されて殺されていました。
このような海千山千の申請者達にもまれているため、福祉事務所は警察のように殺伐としてくるといわれます。福祉関係の会報のような新聞に、現場の人たちが投稿している川柳が載ったりするのですが、今でも覚えてますが、例えば「”金がない?” それがどうした馬鹿野郎」とかケースを罵倒する川柳やら、ケースが死んだという知らせを受けてホッと胸をなでおろしたりする川柳が沢山投稿されていました。これは、かなりショッキングな内容だったので当時の新聞ネタにもなりました。
別に福祉担当の人々が、日本人の平均よりも冷酷なわけではないと思います。むしろどちらかといえば思いやりが深い人々かもしれません。それが、ここまでスレてしまうということは、要するに誰がやってもスレてきてしまうというわけで、それだけ現場の状況はシリアスだということなのでしょう。その結果、ズ太くて厚顔な連中はゴリ押しで生活保護を受けられるけど、本当に受給されてしかるべき弱者は撥ね付けられてしまうことになりかねない。札幌で、そして東京でも、生活保護を受けるのを拒否した母子が餓死したという事件がありました。覚えておられますか?「死んでも二度と福祉事務所の門はくぐらない」と書き残してあったそうで、どれだけ屈辱的な扱いを受けたかがしのばれます。おそらく「それがどうした、馬鹿野郎」くらいは言われたのかもしれない。
誤解して欲しくないのは、現場の大多数の人々は懸命にやっておられます。「よく、そんなに出来るよな」というくらい必死で頑張ってます。しかし、現場の修羅場度はさらにハンパではないことなのでしょう。事件のために意見を求めた当時花園大学の中川教授にお話を聞きましたが(彼は京都の福祉事務所の最前線で30年現場を踏んできました)、福祉というのは人間の一番汚いところに頭までどっぷり浸かることだ、と。中川教授も現役時代、訪問したケースの家で監禁状態にされ、包丁を突きつけられたそうですが、そのとき「ああ、俺はいま福祉の宝石箱に手をつっこんでるんだ」と思ったそうです。こんなこと思えるくらい腹の据わってる人はマレでしょうが、でも、そのくらい思えるくらいで無いと勤まらないとも言います。福祉を志しておられる方、よく心しておかれるとよろしいと思います。弁護士でも、警察でも、新聞記者でも、医療でも福祉でもなんでも、まあ職業全般にわたってそうだと思いますが、現実社会のリアリティにとことんメンチ切る職業の場合は、それなりの風景が目の前に展開されることになります。もちろん美しい光景もありますが、それは、まあ、泥に咲いた蓮の花みたいな感じです。
繊細でナイーブな被告人が、福祉の現場に廻され、しかも間の悪いことに彼の担当は神戸の中でも最も「処遇困難ケース」が多い長田エリアも含んでいました。いわゆる同和地区です。同和か同和でないか関係なく、親子三代全部生活保護という家とか、子供を小学校にやらそうという気が頭からない人達とか、本当に実在するそうです。これは長田に限らずどこでもいますけど、比率で言えばやはり多かったそうです。そういった連中相手に「自立」を説き、自立のためのお手伝いをしようといっても、空を切るように虚しかったりするでしょう。また、これもどこでもいるそうですが、年老いた親の面倒を一切見ないで生活保護を受けさせ、死んだあとの後片付けすらろくすっぽしないくせに、謝礼が貰えるから遺体を医大に解剖用に献体すると言い張る子供や親族。親の死体で金が稼ごうという腹ですな。鬼畜みたいな連中がやっぱり沢山いるわけですね、今の日本にも。
当然というかなんというか、被告人はボロボロになります。繊細なくせに、根が几帳面・マジメで適当に誤魔化すということが出来ない性格が裏目に出て、どんどんハマっていきます。殺害してしまった老婆にも、暇があったら訪れて話を聞き、休日を潰して引越しを手伝ったり、私用のついでに訪ねたりしていたようです。事件さえ起こさなかったらかなり献身的で優しいケースワーカーであったと思います。しかし、無理を重ねて頑張ってしまったのでしょう。耐えて耐えて、ついに細い線がプッツンと切れてしまったのでしょう。「なんで俺ばっかりがこんなことしなくちゃいけないだ!」と絶叫したいような気持ちだったと思われます。介護ノイローゼや育児ノイローゼみたいなものでしょう。無理を重ねていくと、最後には張り詰めた精神がクラッシュして制御不能になるという。不幸なのは、ブチ切れたとき、たまたまそこに可哀想な老婆がいたことです。
警察ならびに新聞では、当初、この全く動機が不可解な殺人(被告人が老婆を殺して得るものなど何もない)に無理矢理動機をつけるため、実は男女関係があったのではないかなど荒唐無稽な説が飛び交って、実際に初期にはそのような新聞記事も出ました。すぐに、そうではないことが判明しますが。
この問題の根は深いです。被告人の罪を責め、その弱さを責めるのは簡単ですし、またやらねばならないし、実際に刑罰は課せられています。が、問題は、どうしたらこのような不幸な事件を防ぐことが出来るか、です。ひとつは、この福祉の現状をもう少しなんとかすることであり、より適材適所を配慮することであり、精神的ケアを十分に整えることでしょう。
が、この事件のあと当局が行ったのは、「今後ケース宅を訪問するには二人一組で行うことにする」というものだったらしいです。これを聞いたとき、ちょっと唖然としました。そんな対症療法ですらないような施策など大した意味がないではないか。ただでさえ件数過多でひーひーいってる現場のワーカー達が、いちいち二人一組でやってたら、身体がいくつあっても足りないではないか。というか、結果としては訪問回数が減るだけではないか。ワリを食うのは、結局、現場の第一線の人々であり、最終的には保護受給者ではないか。そりゃ確かに、二人一組で動けば衝動殺人のようなことは防げるかもしれない。しかし、こんな事件なんか何千何万件に1件というレアケースではないのか。そんなレアケースを基準にして全体を変えてしまっていいのか。「角を矯めて牛を殺す」と言いますが、まさにそんな感じです。そのとき思いました。ああ、これが日本という国の解決方法なのね、と。
長くなりましたが、万に一つのレアケースの不祥事を未然に防止しようとする挙句、全体の視点がぶっ飛んでしまうという構造。何のために何をやっているのかという全体の論理性も整合性も何もなく、ただもう「臭い物には蓋」をするかのような解決方法。それだったら、交通事故を防止するために日本で自動車を全面禁止したら宜しい。出刃包丁で殺人が起きたら、日本全国で包丁の使用を禁止したらよろし。電車で飛び込み事故がおきたら電車を廃線にしたらよろし。火事が起きたら火の使用を全面禁止したらよろし。人間が犯罪を犯すのだったら最初から人類を皆殺しにしてしまえばいいではないか。論理の飛躍ということでは同じことではないか。
「早食い競争禁止」も同じことだと思うのです。
早食い競争なんか、古今東西どこでもやってます。それで死に至るというのは、不幸ではあるが極めて稀なケースに過ぎない。極めて稀なケースが起きたからといって全体を見誤ってはならない。そこをエモーショナルに過剰反応してはならない。それは政策なり立法において要求される最低限の理性ではないか。早食い全面禁止は明らかに行き過ぎであると思いますが、それ以上に無意味であり、ごまかしであると思います。
第一に、禁止したって実効性に乏しい。子供相手に禁止したって、やる奴はやる。むしろ面白がってもっとやる。それでこそ子供。というか人類ってそういうもんでしょう。先生が睨んでるから給食中はやらなくなるかもしれないけど、そんなもん家でやるかもしれないし、塾の帰りでやるかもしれない。いくら禁止っていったって実効性に乏しい。言わば対外的に「すぐに手は打ちました」と言いたいが為のパフォーマンスに過ぎないし、対内的にはただの自己満足に過ぎないのではないか。
第二に、規制・立法の初歩の初歩だが、規制というものは-特に「禁止」という強力な自由制限を伴うものは、その規制が、@危険防止のために合理的に必要な範囲に限られ、且つA規制の方法が最も効果的な実効性を持ちうるものであること、の二大条件を満たす必要があるのですが、早食い全面禁止はこのどれをも満たしていない。
第三に、自由というのは大事なものである。自由は、自己実現のための大事なキャンバスである。自由があるから人は試行錯誤をし、成長し、自己を充実させていくことができる。したがって他人の自由の制限は、他人の自己実現の機会の制約であり、侵害である、という認識が無さ過ぎる。同時に、自由は強烈な自己責任がつきまとう。自由にやっている最中になにかが起きて自分が損害を蒙ることになっても、それは自業自得である。自由は無秩序ではないし、甘えでもない。自由は豊かでそして峻厳なものである。それを子供の頃から教えるべきである。無論子供の発達段階にもよるが、中学生程度の発達段階だったら、かなりの程度の自由とその表裏にある自業自得の厳しさをことあるごとに教えた方がいい。それを教えず、自業自得になるべきものを未然に回避させすぎてしまうのは、一面では子供の自由の侵害であり、他面ではただの過保護である。
では本件においては何が求められるのか。
それはまずもって、「食べ物が喉に詰まって窒息する」ということの医学的なメカニズムだと思います。
今回の場合、最終的な死因は食物による窒息です。しかし、冒頭にもしつこく書いたように、それが嚥下された食物によるものであるのか、それとも胃袋からの吐瀉物なのか、あるいはその両方なのか、そこはこの新聞記事からは明らかになっていません。
また、食べ物が気道に入ってむせたり、しゃっくりがでたりすることは日常茶飯事なのですが、では、なぜ我々はそれで死なないのか?なぜこの場合に死んだのか。生命の危険にまで及ぶ窒息と、日常的にむせ返りとどこがどうメカニズム的に違うのか、僕はそれを知りたいです。おそらくは、ある一定の条件が重なり合ったときに、シビアな窒息が生じるのであろう。その一定の条件とは何か?それはどういう自体によって惹起されるのか、それを知りたい。
そして、それを知ることが真の再発防止の第一歩になるのであり、ここを明らかにしないまま早食い競争だけ禁止しても意味がないのではないか。なぜなら、早食い「競争」ではなく、ただの早食いをする場合は日常幾らでもあるからである。遅刻しそうな朝など常に早食いをしているといって過言ではない。多忙な職務にある人は、早食いが習性になったりもします。なるほど競争の場合は、テンパってるから「最速」に食べるであろうが、それだけが問題なのではない。
つまり早食いの何が危険なのかであり、窒息は何故生じるのか?である。
早く食べることか、競争は、なにか致命的なメカニズムを発動させるひとつの誘引に過ぎず、致命的なメカニズムそのものではない。では、それは何なのか。
例えば、食道直径よりも大きな固形物を飲み込むからいけないのか、そのときに水分と一緒に飲み込めばいいのか、大きさは問題ではなく咽喉内でほぐれにくい食べ物の硬度のことなのか、それともモチのように粘着性があるとかという食べ物の性状によるものなのか。あるいは食道は閉塞されても、気道が空いていたら問題はないわけで、食道閉塞が気道閉塞をも伴うのは一体どういった場合なのか?また、これは中学生だから生じたのか、それとも大人にも共通して言えることなのか。中学生の身体の未発達さが、この窒息現象をより惹起させるのか?
そこで、例によってちょっとネットで調べてみました。
例えば、「おもちなどによる窒息事故を防ぎましょう!」
出演 東京消防庁 本田消防署 救急隊長(救急救命士) 葛飾保健所 歯科医師によりますと、以下のように記されていました。
都内で平成11年度中に窒息事故で救急車の扱いを受けた件数は、餅によるものが72件、肉・ご飯・飴玉によるものが224件でした。
( 窒息事故を起こしやすい食べ物は)一番は餅ですが、餅の中でも、鏡餅のように硬いものより、つきたてやお雑煮のように軟らかい餅の方が窒息事故を起こしやすいようです。次いで肉、ご飯、飴玉、その他の食品となっています。
その他の食品のなかには、かまぼこ・ちくわ・パンなどの軟らかく弾力がありよくかまないと飲み込めない食品がおこしやすいようです。 また、窒息事故は食べ物だけでなく、乳幼児の場合には、おもちゃの部品・ビンのふた・硬貨などによる事故が多く発生しています。
ふむ、柔らかい餅が窒息事故を起こしやすいのはわかるのですが、肉、ご飯、飴玉、かまぼこ、ちくわ、パン、、、となると、どういう法則性があるのかわかったようなわからんような気がしますな。ただ、たしかにパンも挙がってますね。他のページでは、パンは水分が少ないために嚥下しにくいという指摘もあり、介護老人施設ではパンを出すのをやめているところもあるそうです。ところで、野菜が入ってませんね。野菜はいいのでしょうか?
しかし、調べてみると、気道異物に対する救急隊員並びに市民による異物除去の検討
(平成11年度自治省消防庁委託研究 報告書)には、
異物事故の原因は、餅18.5%、ご飯10.1%、果物・野菜9.0%、菓子(飴を除く)7.4%、肉5.1%などであった(図2)。異物タイプ別に多変量解析すると、その中で餅がオッズ比:0.56(95%CI:0.39-0.79)
と他の異物に比べ生存率が56%と有意な影響を与えた。
となっていて、果物野菜も大丈夫というわけではないようです。
どうもこのあたりは良くわかりません。ただ、他のページも廻ってみた感じでいえば、食べ物そのものがどれだけ喉につまりやすいかという特性だけではなく、「噛むのが面倒くさかったり、丸呑みしやすいので、ついついいい加減に噛んだまま飲み込もうとする傾向のある食べ物」というのもポイントのようです。幼児の場合、よく指摘されていたのがコンニャクゼリーでした。普通のゼリーと比べて、弾力性が強くやや固く、その傾向は冷やすと一層高まること、弾力があるので噛み切りにくいこと、口中で溶けにくいこと、カップから直接吸い出して食べることが多く、強く吸い出そうとした時勢い余って喉の奥にまで達するケースがあるなどの原因があげられていました。
ところで、CDC(国立疾病予防センター)レポート
/窒息事故についてによりますと、
窒息事故は日本、アメリカともに0歳児の不慮の事故による死因の第一位 にあげられており、日本では年間144人、アメリカでは376人の0歳児が窒息により死亡しています。
(中略)
アメリカでは1995年1月より小児の窒息を防止するために「3歳以下の小児には直径が1.75inch(4.45cm)以下の玩具を販売することを禁止する」という法律が施行され、その結果玩具による窒息が減少と報告されています。日本でもこのような法律ができることを望みます。
となっています。アメリカの規制法案が良いのかどうか僕には直ちにわかりませんが、「3歳以下の小児」「直径4.45センチ以下」というあたりに、対象をよく研究し、「合理的&最小限」で且つ「効果的」な立法をしようという姿勢、その後の効果があるかどうかを追跡調査するあたりは評価されていいと思います。
概ね調べたところでは、「食べ物窒息」は、小児ないしは老人の事故として顕著であることがわかります。また、「吐瀉物窒息の回避」という点でいえば、もっぱら「酔っ払いの介抱」という観点で語られていました。意識不明の間に吐瀉し、それで窒息することを防ぐために、仰向けではなく横向きに寝かせておくと。皆さんも超泥酔したときは、仰向けではなく、横向けに寝るように心がけたらいいと思います。といって、泥酔沈没中にそんなこと思ってられるかどうかわからんですが、少なくとも意識が残っていたらそのように注意されたらいいと思います。
しばらくネットを巡回していましたが、食べ物が喉に詰まるというのはどういうことなのか、さらに詳細に説明してくれている文献にはたどり着けませんでした。つまり嚥下は食道であり、窒息は気道なのですが、どうして食道で起こった渋滞が隣の気道に影響するのか、「気道圧迫」とか書いてあるものもありますが、それがどうやって圧迫されるのか、個人的にはもう少し知りたいなと思います。
ところで、食べ物による窒息に限らず、僕らの日常には危険は絶えず潜在的にあります。道を歩いていたって、ふとした段差に足を取られて転倒し、後頭部を打って死亡するかもしれません。階段から転げ落ちて死ぬかもしれません。海水浴で溺死するかもしれません。
自然災害と死/ 情報誌『デス・ウオッチング』88.8より
というページでは、以下のように記されていました。
不慮の事故および天災などによる死亡の種類は様々ですが、そのなかでも自動車事故が1万2660人と最も多く、42.8%を占めています。次いで墜落(4006人)、溺死(3196
人)、食べ物による窒息(2597人)などとなっています。この数字は年令によって割合が変わってきます。特に顕著な例では、乳児の場合窒息による死亡が最も高く、1才から4才までの幼児は溺死が最も高くなっています。15才から29才の青年では、自動車事故が75%を占めています。65才以上になりますと、自動車事故が1番で29.2%、ついで墜落が22.4%といいます。この墜落は、その半数が階段などでの転倒によるものといわれます。
これを読んで分かるように、食べ物による窒息死は年間2600人もいます。意外なほど多い数字です。年間2600人、10年間で2万600人も死亡しているわけですが、そのうち「早食い競争で死亡」というケースはいったい何件あるのでしょうか。おそらく新聞記事になるくらいだから、かなり少ないと思われます。もしかしたら今回が初めてのケースかもしれません。いずれにせよ、それほど危険な行為であるとは思えない。少なくとも直ちに全面禁止しなければならないほど危険なものなのだろうか?という疑問は残ります。
ちなみに、転落・墜落死が4000人もおり、溺死を上回っているのも予想外です。半数が階段等からの転落だと言いますから、いかに階段というものがリスキーな存在か、それも足腰の弱まった人にとって危ないか、です。
思いもかけない不幸な事故は、毎日毎日これでもかというくらい発生しています。僕らがその痛ましい犠牲から何を学ぶかといえば、いつにかかって「危険の構造」だと思います。何が、どのようなメカニズムをたどって人間を殺傷するのか、その徹底的な理解だと思います。
自動車事故の場合はありふれているだけに、危険とその予防についてかなり細かいところまで議論され、周知徹底がはかられていると言えるでしょう。飲酒したときの反射神経の減退程度と血中アルコール濃度、時速60キロと80キロとの制動距離の差と安全な車間距離などなど。その危険に対する規制や技術革新も国を問わずいろいろなされています。NSW州では、連休になるとスピード違反の減点ポイントが二倍になるダブルデメリットポイント制を導入してます。僕もこれにひっかかって免停になりました(^^*)。しかし効果はあります。あるいはエアバッグの開発やら、ABSなど。そういえば、小耳に挟んだだけですが、キーのところに呼気検査装置が装着され、息をふきかけてアルコール濃度が一定以上だったらエンジンがかからないというシステムも開発されているとか。それ、僕、欲しいですな。自分でもどれだけ酔いが醒めたか客観的に知りたいですし、エンジンがかからなかったら無理に酒を勧めるアホな風習も減るかもしれません。
重ねていいますが、「早食い競争で死亡」という事故を受けて何が求められるかといえば、そのリスクの徹底解明だと思います。そして解明されたリスクを皆で共有すること、さらにそのリスク予防のために何をすればよいのかを考えること、そのために必要なスキルがあるなら(蘇生術とか)学ぶことなのでしょう。
もちろん、学校や市教育委員会当局も、あるいはテレビ局も、僕がいま書いたことくらい先刻ご承知だと思います。わかっていながら、どうして「早食い競争の全面禁止」などという過剰であまり意味のない対策を取るのか、あるいはテロップで「真似しないようにしましょう」みたいな気休めを流すのか?問題はココだと思うのですね。彼らが心底それでOKだと思ってるアホだったら状況はまだ明るいわけです。でも、リアルに考えてみた場合、そんなアホばっかりであるわけないです。だから話は深刻なわけだし、だから僕がこうして長々書いてるわけです。
結局、これって「政治的解決」なんだと思います。つまりこういう事故が起こった場合、やれ学校の管理責任とか、やれテレビの道義的責任とか唱える、やたら声の大きな阿呆(これは真正のアホ)がいるんですよね。こういうアホが日本全国津々浦々に、まるで河童のように棲息していて、ギャーギャー喚いてうるさくてかなわんから、責任者的立場にある人間としては、アホ対策にとにかく何かやっておかないとならなくなるわけです。ポーズであれなんであれ、とにかくやったフリくらいはしておかねばならない。
はっきり言って、日本で人の上に立ったり、人前でなんかやろうと思ったら、その全エネルギーの半分以上はこの種の阿呆対策に費やされるわけです。それだけで疲れきってしまって抜本的なことをやろうと思っても出来ない。あるいはやろうと思っても、阿呆にはその複雑な因果関係や構造分析が理解できないから、表面的で部分的なことだけとりあげて「それじゃ不公平だ」「○○が可哀想だ」とか愚にもつかないことをいって折角のプランをぶち壊しにする。
あなたにも経験がありませんか?アホに振り回されて疲れた経験。例えば旅行や宴会の幹事を担当するという些細なことであっても、無理難題言ってくるアホがいるわけです。不可抗力であっても文句いう奴。スキー場いって雪が積もってなかったら文句を言い、そのくせ降ったら降ったで雪崩が起こるから危険だを連発する奴。現実的な話を真剣に詰めている最中に、「生命は尊い」とか誰にも反論できないような最終的な飛び道具を使って、話をメチャクチャにする奴。
彼らがアホである証拠は、「全面禁止」や「テロップ」みたいなお座なりな過剰且つ言い訳的のような糊塗的対策で満足する部分にも端的に現れています。その実効性の薄さや過剰規制のデメリットまでにはおよそ頭が廻らない。考えてみれば学校の校長なんて因果な商売だと思いますわ。子供の数だけ爆弾抱えて、その上で寝てるようなものですからね。修学旅行の引率なんか、もう薄氷を踏むような思いでしょう。なんせテキは不可抗力でも文句いいますからね。「死んだ子供が可哀想じゃないのか」「親の悲しみがわからないのか」とか本筋と関係ないことを平気で言いますからね。だから、なにか事件が起こるということ自体が既に致命的なわけで、当局が事なかれ主義に陥るのも、まあ無理ないといえば無理ないのでしょう。とにかく実効性があろうがなかろうが、どれだけデメリットがあろうが、全面禁止にしておけば「最大限やることはやった」という雰囲気は作れるますからね。
いずれにせよ、日本からこの種のアホのパワーを一掃、、は無理でも、相当程度減殺しておかないと、マトモなこと一つできないと思います。そして、実際出来なくなってる。正しいことをやっていても、ヤクザの因縁のようなアホの無理難題をあらかじめ想定しておかないとならない。結果として、現実にはこの世に存在しないくらいおっそろしく頭の悪い奴を前提にした、実際の役には立たない「言い訳」のような規制が増えてくる。
駅に行けば、電車が来るから白線の内側に下がれとか親切にいってくれるし、電車のドアには手を挟まないように注意と書いておいてくれる。そんな注意を聞いてはじめて「おお、そうだったのか、よく言ってくれた」と感謝する人なんか日本にいったいいるのか?デパートいけば、エスカレーターに乗れば小さなお子さんは手をつないで乗れといい、降りるときにはお足元にご注意くださいと言ってくれる。プールに入れば、時間がきたら全員あがらされて体操やらされたり(これを日本で目撃したオーストラリア人がぶったまげていました)。
もう、いいじゃん。もう少し大人になろうぜ。そんなことは自己責任で処理すればいい、、って、殆ど誰もが思ってるとおもいます。日本人って、その程度の自己責任が果たせないくらい知能程度の劣る民族であるワケはないと思います。皆ちゃんと出来ますって。それで文句言う奴がいたら、文句言う奴が悪い。アホには毅然と対処するしかないです。
実際はこの種のアホは日本だけの特産品ではなく、全世界至るところに広範に分布しています。アメリカとか中国なんか日本以上にはびこっていそうな気がします。それでも、まだアホに引きずられる前に、アホを撃破沈黙させられるだけの知的パワーとアホをなだめる老獪さがあるように思います。つまり、アホもパワフルではあるが、アホに対する知的カウンターパワーもまたパワフルだということです。
しかし、日本ではそうは中々なってくれない。なってくれてたら、くだらない駅のアナウンスなんかとっくに止めているでしょう。そうならないのは、ならないだけの根深い理由があるのだと思います。
ひとつは、論争や対決を避けたがる(日韓型)儒教のバックボーン。面と向かってその場で文句を言う習慣やスキルの欠如。これはやっぱり世界でも日韓スペシャルな特徴だと思いますし、それはこちらの語学学校に入ればすぐにわかるでしょう。他の国の連中は言いますもんね。先生から授業の進め方について何か不満があるか?と尋ねられても、日韓人は「別に無いでーす」とか言ってお茶を濁しつつ、休み時間になると陰で文句を言う。他の国の連中は教師の目の前で、「あんたのココが悪い」って言いますもんね。そして彼らは、後になってブチブチ言う日韓人を「嘘つき」「卑怯者」として軽蔑したりするわけです。日韓人の「そりゃ面と向かって言えないよ〜、悪いじゃん」っていうメンタリティは世界には通用しない。日韓的な「思いやり」は世界ではただの卑怯にしか写らなかったりすることは肝に銘じておいた方がいいと思います。その場でOKとagreeしたら最後、後で文句をいうのはルール違反なのだということ。そりゃタクシー料金の交渉だけのために、炎天下の下で何時間も言い争うインドみたいになれとは言わんけど、もう少し是々非々をその場でつけるような、「日々是戦場」のような緊張感は持っていてもいいと思います。
だから日韓人の場合は面と向かって文句を言われることに慣れてない。文句を言われるときは、もう「宣戦布告」のような人間関係の最終段階だったりします。アホが高飛車にアホな事を言ってきたら、さらに高飛車に出てはるか上空から急降下爆撃のように「アホは黙っとれ」とはよう言えない。言えたところで、言う奴は嫌われちゃう。何にも悪いことしてないのに、むしろプライバシー侵害の被害者ですらあるのに、記者会見で「世間をお騒がせして」とか謝らされてしまう。「どう責任とるんですか?」と尻馬に乗って責めたてる芸能リポーターに向かって、「てめーにゃ関係ねーだろ、ひっこんでろ、この出歯亀野郎!」なんて言えない。言ったらもっと叩かれる。
もう一つは、江戸時代を通じて日本人の骨の髄まで染み込んでいる「無事これ名馬」的な発想なのでしょう。 なにもモノゴトが起きないことが最上なのだという処世術(ひいては人生観)。モノゴトが起きたというだけで、その人間になんの落ち度がなくても、そのモノゴトの周囲にいたというだけで「有罪」とされてしまう。警察庁に入庁したキャリア官僚は、若くして各地の署長を勤めますが、在任中にその署で不祥事が発覚したらそれだけで出世にはマイナスになるといいます。その不祥事が自分の前任者時代のことであっても、とにかく騒ぎになったというだけでバツ。性犯罪の被害にあったというのに、そのことを周囲から面白おかしく取りざたされ、さらに深く傷つく人達。こんな理不尽がいっくらでも日本ではまかりとおっている。
そして、その最大の元凶は、それを暗黙のうちに支持している国民。特により積極的に、嫉妬心からそれを支持しているやつもいます。自分よりも明らかに有能で、美しく、裕福で、ラッキーな人を引きずり下ろすことに暗い情念を燃やしている人達。そういったゲスどもに奉仕している人々。そして、そういった理不尽なことに公然と異を唱えないのは、結局は黙認と一緒であるから同罪と言えます。つまりは僕たちひとりひとりも、批判だけして涼しい顔をしていて許されるものでもない。 We are all guilty. だから、僕もあなたも死刑(^^*)!でも僕はまだ死刑になりたくないから事あるごとに異を唱えようとは思ってます。 願わくばあなたも公然と反旗を翻してください。出来る範囲でいいですから。
言うたら国民一丸となって、このくだらなくも理不尽な社会を作っているようなものです。自分に自信が持てない人間特有の卑屈にねじ曲がった空間のような、1+1が2にならないような奇妙な時空間を作っている。そこでは、当たり前のことが当たり前にならない。だから、不幸は天災のように襲ってくる。他人からの非難中傷は、まるでイジメのように予測不可能であり、非論理的である。
こんな社会におったら おっかなくってしょうがないです。だんだんビクビクして他人の顔色うかがって暮らすようにもなるでしょう。 生きている全ての日々において、周囲に対して防衛的になり、常に「過剰なる言い訳」で身を固めざるを得なくなるでしょう。
だって正しいと思うことをやったり言ったりしたらイジメられるんだもん。早食い競争で死んだ事件でも、校長さんとしては「自業自得」だと思っても、そんなフレーズは口が裂けてもいえないでしょう。言ったら最後袋叩きにあいそうだもんね。でもこれハッキリ言って自業自得以外のなにものでもないですわ。僕も死者に鞭打つ気はないし、レスペクトを欠くつもりもないから、敢えては言い募るようなことはしません。が、だからといって物事の道理は道理。それは絶対に揺るがせてはならないと思います。また、こんな歪んだ空間でマジメに考えていたって始まらないから段々真剣に考えるのが馬鹿馬鹿しくなって、しまいには物を考えることを放棄してしまいそうだからです。だって、こんな理不尽なワイルドカードみたいな「変数」がウヨウヨ浮遊してたら、計算しきれないもん。
どうも思うのですが、なにか悪い病気に感染しているみたい。
それは、「自分に自信が持てない(持たせてもらえなかった)人間の卑屈で暗い情念」、そんなネガティブな怨念パワーみたいなものが空気の清浄度を汚している。こいつがウィルスのように蔓延し、社会全体の風通しやヌケを悪くしてるような気がします。これが究極の元凶なのではないか?と思ったりもするのですが、既に紙幅もとっくに尽きてます。また、別の機会に書きます。
写真・文/田村
★→APLaCのトップに戻る