性能と幸福の非相関関係
先週はアンチウィルスソフトの更新をやってたらパソコンがメチャクチャになってしまって、週の後半から大汗かいて再構築しています。ゼロからフォーマットやりなおしているという。まあ、ウィンドウズは一定期間使ってると色々とゴミが溜まるので定期的にオーバーホールした方がいいし、このところ大分重くなってきたので「そろそろかな〜」とは思ってたので、丁度いい機会だったのかもしれません。
しかし、インストールをやりながら思ったのですが、パソコンというものは、この20年間本質的な意味で進化しているのかどうかよう分からんです。確かにスペック的には性能は上がってます。それも天文学的に上がっているといっていい。カミさんは僕以上にパソコンに詳しく、"Windows"以前にまだ"MS-DOS"とか呼んでいた時代から、真っ黒な画面にコマンドライン打ちこんで使いこなしていました。その頃だったか、外付けハードディスクが、なんだったかな3メガかそこらで8万円くらいしたという。3メガなんか今だったら高画質のデジカメ画像一枚の容量です。それを保管するためにわざわざ数万円出して外付HDDを買っていた。今はメガ→ギガ→テラで3テラのHDDもありますからね。メガからギガにあがって1000倍、そのまた1000倍ですから、いくつだ?100万倍?すごいですねよね。「天文学的進化」といのはそういうことです。
しかし、じゃあ当時に比べてパソコンは100万倍使いやすくなったのかというと、別にそんなことはないですよね。容量や処理速度があがっても、平行してタスクも増えているからインストールの面倒臭さはそれほど改善されてません。まあ20枚のフロッピーを順次差し込んでた時代に比べたらマシにはなったけど。なんか「性能は上がったけど幸福に結びついていない」という意味では、なにやら人類のイトナミ一般を象徴していますね。一事が万事そうなのかもしれないけど、容量が100万倍に増えたから幸福が100万倍になるわけではない。東海道を徒歩で歩くしかなかった昔に比べたら、新幹線や飛行機で移動速度は画期的に速くなっているけど、速い分だけ幸福が増えているのかというと微妙。日帰り出張が増えてしんどくなってるだけかも。インターネットも、膨大なホームページやブログが増えて充実してはいるけど、このHPを始めた1997年とかそのあたりの方が個人HPは面白いのが多かったような気がします。お手本も何もないから、本当に皆の個性丸出しで、「荒削り」というよりももっと荒々しくて。トップページのタイトルを画像処理するだけで燃え尽きて、あとはどのページも工事中になってたり、「ウチの家です」「愛犬ポチです」というコンテンツだけの本当の「ホーム」ページだったり。なんか牧歌的で面白かったですね。今は決まり切ったお手本どおりみたいなところがあって、いいっちゃいいんだろうけど、なんか「荒々しさ」がなくてちょっと物足りなくもあります。
考えるのを止めずに宿題保留
というわけで今週はチンタラやります。ただの雑談。
書くネタは結構溜まってます。日常的に「なるほど、そういうことか」と思いつくことは多いのですが、書き留めておかないから、いざ日曜になって書く段になると何にも出てこずウンウン唸っているという時期がありまして、「これはアカン」とメモ癖をつけるようにしました。今手元に10本くらいあるのかな。書きだしてみましょうか。
●美人とブスと静止美と変化美/造形美ではなく、造形の変化美にこそ感動がある
●幸せの三大要素は、2400年前にプラトンが言った「真・善・美」に尽きている
●本質は常に変化の過程の中にある。ゆえに優秀な動態視力が必要。
●ムニャムニャ口ごもる人の方が、何でもサクサク断定口調で言う人よりも実は賢い場合が多い/考察という知的作業と、決断という精神作業を混同してはならない
●インターネットの恐い副作用〜大いなる恩恵もあるが、大いなる毒性=生きてて詰まらなくなる=もあるような気がする。
●英語学習のために留学中に日本語を「喋らない」を実践しても、ネットで日本語サイトを見てたら意味がないという盲点
●恐怖の自己模倣〜成功パターンは未来の大失敗のための撒き餌、米粒を拾い歩くスズメの図
●「○○で成功した」よりも「○○で失敗した」方がむしろ味わい深い人生になったりする
●時間がかかること、かからないこと、かけてはいけないこと、かけなければいけないこと
●尊敬愛と憐憫愛
●清潔×便利×安心は一種の去勢×退嬰×怯懦という腐敗過程ではないのか
●絶望とは変化のないことである
●理詰めにやって良いのはレベルの低い雑事
●同じ字をずっと書いていると字には思えなくなるのはなぜか?
●必ずやってくる「もういいじゃん」お化け
●極端な立場の方が安住しやすく、それが社会の進歩を阻害する。進歩は常に千鳥足。
この一行ネタで大体一本かけます。まあ読めば大意は分かると思うのだけど、書いているうちに二転三転するのがミソです。これだけで良いなら別にエッセイ仕立てではなくツイッターで十分なのですが、「なるほどね」と分かった気になった所を出発点として、「なんでそうなの?」と理由を考えたり、「でも、待てよ?」とひっくり返していったりする作業が面白いからです。考え続けるのを止めないというか、人間って「分かった気」になった瞬間から馬鹿になるような気がして、それが恐いのです。なんでも最後は「うーん、よう分からん」と宿題保留にしておく。固めてしまわないで浮かしておきたい。いつでも「続き」が出来るように。
なんでこんなややこしいことをしているかというと、うーん、多分前職の影響もあるのでしょう。裁判というのは原告と被告という相対立する当事者がいて、それぞれが思いっきり自分の立場を述べるわけです。だから火花が飛び散るくらい双方が真っ向から衝突する。離婚事件なんかもそうだけど、一方当事者からだけ話を聞くと、それなりに首尾一貫して完結しているし、「なるほど!」とすごーく分かった気になる。真相も全貌も掴めたような気がする。しかし反対当事者から話を聞くと、これがまたイチから十まで違うストーリーになり、そしてそれはそれで首尾一貫していて「なるほどお!」とか思ってしまう。どっちも本当っぽく聞こえるけど事実は一つ。はて、ホントの所はどうなんでしょうね?という。桃太郎の鬼ヶ島の話だって、桃太郎から見たら正義の英雄行為だけど、鬼からしたら桃太郎は大量虐殺者ですわ。おとぎ話だけではなく、十字軍遠征なんかまさにそれでしょ。
VS構造=対審構造という叡智
近代司法が対審構造になっているのというのは、ほんと先人の深い叡智だと思います。あ、「対審構造」というのは、原告VS被告、検察VS弁護人みたいに、なんでも「VS」という対決&闘争形態になっていることです。それを第三者たる裁判官が眺めて判断する。今はそれが当たり前だからそうでない形態が思いつかないかもしれないけど、昔は違いました。「遠山の金さん」のように「お白州でのお取り調べ」方式です。検・弁・判の三角構造ではなく、弁護人がおらず、捜査訴追機関が「きゃつめは○○という大罪を犯し」と糾弾し、お奉行さまが「その方、まことか?」と問いただして判決を下す。まあ、クラスルームのチクり→先生の叱責と構造は似てます。ちなみに金さんになると、もっと凄くて、金さん自身が目撃証人だったり、ひどいときには当事者の関係者だったりする。人類は大体そういうやり方でやってきたのですが、近代になってからは「それはアカンぜよ」ということに気づき始めた。
何がアカンのかというと、これはシンプル。間違えるからです。ミスジャッジを犯しがちだと。一方の話だけ聞いてたら、どうしてもそっちに引っ張られるのです。「そこは十分に配慮して」なんていうけど、そんなこと出来っこないですよ。まず引っ張られる。先入観の出来てしまった人間ほど愚かな存在はなく、一回「こいつは有罪」という先入観が入ってしまったら、いくら白州の罪人が「お奉行さま、それは違います!」と絶叫しようとも、「見苦しい言い訳」にしか聞こえなくなる。いや、常にそうなるとは言いません。クールに判断できる人もいるでしょうが、出来ない人だっている。また同じ人間でも常にクールであり続けられるわけもない。ということはいつか必ずミスを犯し、冤罪を犯すということになる。
人は必ずミスをする 〜そんなに賢くないって
なぜ引っ張られるのかというと、これは私見ですが、人間の脳味噌のCPUがそんなに優秀ではなく、メモリーもそれほど大容量ではないからなのでしょう。それに加えて「感情」という知的作業の大敵がいる。また社会的立場とかモロモロの利害関係もからむ。日本の捜査機関は優秀だといいますし、実際そうだと思いますが、それでも冤罪は犯す。あとで冤罪事件の記録を調べてみると、唖然とするほど杜撰なことをやっている。なんでそうなるのかといえば、大量の捜査員を動員して、血のにじむような努力の末にようやく犯人を逮捕し、マスコミに大見得を切ってしまった手前、「あれ?」という証拠が出てきても、感情的にはそれを軽視したくなるのでしょう。こいつが犯人だ、そうに決まってる、そうであって欲しい、今更間違えましたとは言えない、担当者の首が飛ぶ、警察の威信が、、という思惑がグルグル廻って、無理矢理押し通してしまうという。ヒドいケースになると、証人を脅迫したり、証拠を捏造したりします。ほんと、そこまでやります。常にやるとは言わないけど、追い詰められたらそこまでやる。現にやっている。これは別に警察だけではなく、官僚も大企業もそうだし、別にそういう特殊な立場にある人だけではなく、僕ら一般市民だって職場で、家庭で似たようなことはやってます。生まれてから今まで一度も判断ミスをしなかったという人、いますか?
思いこんでしまった人間には、いかなる論理も証拠も説得も無力です。あなたも、思いこんでしまった人を前に、「こいつには何を言っても無駄だ」という無力感を抱いたことの一度や二度はあるでしょう。なんで思いこむとそこまで人間は頑迷になるかというと、人間の脳味噌はそこまで優秀ではなく、またその愚かさを助長するように感情が働き、利害関係が働くからでしょう。余談ながら、以前にも紹介したと思いますが、人間の脳の作用が偏見や先入観に弱いのはそれなりに理由があるらしいですね。日常生きていく中で大量の情報処理をしなければならないのだけど、機械のように馬鹿正直にやってたら時間が幾らあっても足りない。外敵に襲われたときなど、そんな生真面目な情報処理をしていたら死んでしまう。だから偏見という大鉈を振るって、バッサバサと処理すべき案件を減らしていかないとまともに生きていけない。だから偏見や先入観というのは、生き延びるために必要な、情報処理の優先順位決定システムという、それはそれで優秀なものらしいです。
いずれにせよ僕らの脳味噌は、僕らが思うほど、事務的に正確でも誠実でもない。だからもう必然的に間違える。でも、人の一生に関わるだけに裁判でそうチョコチョコ間違えることは許されない。どうしたらいいか?で、「人間は必ず間違える」という前提でシステムを再構成し、その結果出てきたのが対審構造です。利害の異なる当事者が「真っ向から偏見をぶつけ合う」と表現されたりしますが、極論VS極論みたいにする。ほんとに「どっちもどっち」と聞いてる方がうんざりするような状況においてこそ、もっとも真実が見えやすい。どちらにも感情移入せず、利害関係もない純然たる第三者が、「夫婦喧嘩は犬も食わないというけど、ほんとだね」くらいの無感動で聞いていた方が、「まあ、多分、こういうことじゃないかな」と一番立体的に見えやすいってことです。ホログラフのように。
極悪人こそ最強の弁護を
よく世間で凶悪事件があると、弁護人に対して、なんであんな犯人を弁護するんだ?という声があがったり、僕も「そういう場合、どうするんですか?」とかよく聞かれます。極悪人に弁護なんかする必要ないでしょう?と。でもそれは違う。大間違いのコンコンチキというやつです(死語か)。極悪非道な被告人だと皆が思っているからこそ全身全霊で弁護しなきゃいけないのだ。なぜか?だって本当に「極悪人」かどうかなんか誰にも分からないからです。なぜそんなことが分かる?ナニサマ?神様?やってるところを見たんか?
見もしないことをなぜそう思うのか?といえば、結局の所マスコミがそう報道したからでしょう。では、マスコミ報道は絶対なのか。別の局面ではマスコミはダメだとか、警察はアテにできないとか言う癖に、こういうときだけ警察の記者クラブ発表を鵜呑みにして、センセーショナルに感情をかき立てて部数を伸ばそうとする三流マスコミの手に他愛なく乗ってしまって、見たこともない事件、会ったこともない一人の人間を死刑にしろと叫ぶのが、理性的な人間のすることか?過去の冤罪事件だって、当時のマスコミも世間は「死刑にしろ」の大合唱だったのだ。だからこそ捜査機関もメンツがかかって無理押しせざるを得なかったという部分もある。皆がそう思いこんでるとき、思いこみたいときこそ、一歩下がってクールにバランスを取り、可能な限り真実に肉薄するためには、先入観に引きずられて物事を進めてはいけない。
それに、万が一間違ってたときどうするんだ。それで死刑にでもしようもなら、取り返しがつかない。誰が責任取るのか?結局のところ誰も責任を取らない。可哀想に死に損です。あー、だからもっと責任取らせるシステムが出来たらいいんですよね。捜査機関や裁判官以外にも、尻馬に乗って騒いだマスコミ、そしてその他の機会で同じように尻馬に乗った人々(実家に石を投げるような馬鹿ども)を可能な限り個人単位で突き詰め、情状によっては死刑にするようなシステムが出来たらいいです。だって「人を殺した奴は殺されて当然」「目には目を」という理屈を通せば、死刑というのも殺人の一つだから、その死刑執行に有形無形の何らかの助力をした者は、殺人教唆ないし幇助犯として処断されるのがスジってもんでしょう。理由はどうあれ他人を殺せと主張する者は、己の命も賭けるべきでしょう。世間/他者に対してモノを言うというのは、その種の覚悟あってこそでしょ。その覚悟もなしに人の生死に関して安易にモノを言うのもいかがなものかと僕は思う。何の責任も取ろうとせず、絶対安全なところにいて一人の人間の生死を決めようとする、それも「正義」を振りかざして、、ってのはどうよ?
しかし、司法報道の問題点=集団リンチの見世物ショー=は、もう何十年も論議されながらもいまだに十分に是正されたとは言えない。こんなに数十年かけてダメだったら、一歩進んでもっとドラスティックな手段を取るべきではないかという気もします。上の殺人教唆論は、極論的冗談ですけど、本来他者の人生にかかわるシリアスな出来事を、暇つぶしの娯楽のように扱うのは罪なことだと思うし、品格的にも下劣なことだと思う。少なくとも興味本位の報道をなした者にはそれなりの制裁があってしかるべきでしょう。例えば他者のプライバシーを暴いた者は、自らも暴かれるべきで、司法的訴追はともかく、記者や直属の責任者の実名や顔写真をネットで公開して、自分も集団リンチの対象となりうるようにするとか。あるいは最初から全ての報道機関は実名・所属を一般公開し、それをしていない人間は報道できないとか。さらに個人レベルでも心ない野次馬的言動を取るものは防犯カメラで全部撮影しておいていざというときに備える。ちなみに火事の現場では野次馬を撮影しているといいます(放火犯逮捕のため)から、無理なことでもない。ネットの心ない書き込みをした者についても同様。話は簡単で、一人の例外もなく、自分の言動には責任を取って貰うだけのことです。こんなことイチイチやらねばならないこと自体が情けないのだが。
話を戻せば、だから極悪非道な事件ほど全力で弁護すべきだし、それをするのは弁護士冥利に尽きると思います。それにどうせ全力でやっても、イチ弁護士の力など知れたもので、なんかの魔法を使って黒をシロと言いくるめることなんか出来っこないです。それこそ決定的な無罪証拠でも出てこないことには結論は変わらない。心配せんでも、「言いくるめる」なんてことは相手(検事、判事)も同力量を有するプロなんだからありえない。しかし、どんな事件であろうとも感情に流されず、出来るだけ公平公正にシステムを動かし、動かそうとしたその到達点こそ、その国の文明度や民度を計るものだから、日本国の名誉にかけて全力で弁護すべし、です。それによって世間から撲殺されようとも、なすべきことななすのが真の職業人であり、日本中を敵に廻して戦うことこそプロの本懐でしょう。
しかし、ま、こんなことはここで僕が力むまでもなく、司法の現場では当たり前に遂行されています。これもご心配なく。法学部に入って一番最初に叩き込まれることだし、プロのイロハといってもいい。世間でギャンギャン報道がなされようとも、法廷それ自体はシンとしていて、結構超然としています。世間の風潮に押されて判決が歪んだ、、等と言われることくらい、プロの裁判官のプライドを傷つけるものはないでしょう。それに、実際の事件記録一式(場合によっては段ボール数箱以上)からすれば、マスコミに流れている情報など数百分の1くらいに過ぎません。大枠では合っていてもニュアンスがまるで違う。止むにやまれずやったのか、面白半分にやったのかで話は違うし、その人間心理の過程を精密に追っていけばいくほど、安易な感情が入り込む余地はなくなります。
中世人と近代人
でもなあ、こういう風潮があるということ自体、まだまだ日本は中世レベルの教育をしてるんか?と思ったりします。中世と近代を分ける分水嶺は批判精神だと言われます。「本当にそうなのか?」と疑問を発すること。中世は素直に信じてしまう時代だから、「天国に行けないよ」と言われると必死になって戒律を守る。「なんで?」とか疑問を発すると周囲から「バチ当たり」としてボコられる。それが近代になって健康な懐疑主義というものが芽生え、その懐疑の矛先はまず自分自身、人間自身に向けられた。
前回も書きましたが、近代(現在)における最高価値は個人の尊厳であり、近代は人間をもって至高価値に置きました。しかし、人間の能力そのものについては懐疑的で、むしろ「人間とは(能力的に)アホである」という大前提に立ちます。アホで信用できないからこそ、「名君」などというあるんだか無いんだか分からないものをアテにはせず、最小被害の観点から民主主義が編み出された。裁判についてもしかりで、善良で優秀な捜査機関が懸命に捜査をすれば必ずや真実は浮かび上がるという「おとぎ話」を信じないところから始まる。多くの場合はそのとおり進んでもどっかで必ずミスはする。人は必ずミスをする。絶対無謬の人間など存在しない。同じく一人の人間がそうそう何もかも理解できるわけはないと考え、必ずやどっかで偏見とか、自己都合で歪曲してモノを見ている可能性があると考える。100%善意で全力でやったとしても、それでも尚かつミスはありうる。
人間の無謬性を信じず、「いつかどこかでミスをする」という大前提にたって全てを構築していきましょうというのが中世→近代の転換点です。対審構造や三審制度(それでも尚も間違えるかもしれないから3度チャンスを与える)とか、三権分立(どっかが暴走するのを他方が止める)、行政不服審査のシステムなどなど、全ての法体系は「ミスらないために」&「ミスったときどう救済するか」というプロテクト&リカバリーシステムとして成立しています。だから、マスコミや警察が「こいつが犯人、こんなにヒドい」と発表したら、それを鵜呑みにして感情を波立たせるのは「中世」的発想に近い。
これは民主主義の実践においてもそうで、「立派な政治家がなんとかしてくれるだろう」という「おとぎ話」を信じない。もう徹底的に信じない。なぜならそれは「立派な殿様がなんとかしてくれるだろう」という中世的奴隷的発想につながるからです。選挙においてはベストな人材を選ぼうとするが、それだけではダメで常に不断の監視は行うし、何よりも市民一般の政治知識とセンスの高さが究極的にはモノをいうのだという。民が受動的に安住することを許さず、常に主体的・能動的に動くことを求める。これはちょっと前にシリーズで書いた「性賢説と性愚説」にオーバーラップしてきますが、「人はみな名人になれる」という人間の可能性を信じ、至高を求める日本人の性向は一面では尊いのだが、両刃の剣で消費的立場にある者にあなた任せの受動性をも生む。名人が何とかしてくれるから客は安心してまかせておけばいいという発想が、妙なカタチで政治にも及んで、国民を「客」かなんかと誤解させてしまう。この話をしだすと又ぞろ長くなるのでこのくらいにしておきますが、いずれにせよ「極悪人こそ最強の弁護を」という、認識の誤謬性やバランス論は小学校で教えておいても良いと思います。まあ、教えているのかも知れないし、世の大人どもがそれを分かってなかったら意味がないのですけど。
そういえば、どっかで読んだ記憶がありますが、ユダヤ商人の掟というのがあって、「会議において全員一致で賛成した案件は否決すること」という一条があって、「こいつら凄いな」と思いました。ユダヤ商人はしたたかだと言われますが、したたかであるために努力もしてるのですね。なんで全員一致だったらダメなのか、これは分かりますよね。全員一致というのは場に反対意見が出てないということです。物事には常にプラスとマイナスの両面があり、それらを慎重に吟味しないとバランスの取れた判断は出来ない。もしここで一人でも反対者がいたら、その者から反対意見(逆のモノの見方)を提示され、皆それを考えただろうし、それでもなお決断するならそれでよい。問題なのは、全員がマイナスに気づかず浮かれて決めてしまうことです。致命的な失敗というのは、えてしてそういう場合に起こりがちです。もう全員が安心しきっているから、いざ事が違ってきたらパニックになって、さらに悪い判断をして二次災害、三次災害を招き傷口を深くする。事前に反対意見を通じてマイナスの見通しを頭に入れておいたら、ダメダメな事態になってもそれなりに対処できる。いずれにせよ全員一致というのはヤバいということです。それを明確にオキテにしている彼らは、やはり侮れないなと。
これなんかシャンシャン会議で終りがちな日本で導入したらいいかもしれませんね。「ではこの件について、ご異議ございませんか?」で場がシーンとしてたら、「では、この件については否決ということで」と何も決まらなくなってしまう。誰かが反対意見をブチ上げないと進まないので、会議は活性化するでしょう。もっともそうなったらそうなったで、「形式的に反対意見を言う人」という役割が暗黙のウチに決まって、皆さん空気を読んで儀礼的にやっちゃうかもしれませんね。
ところで、無限の旅
ところで、何で僕はこんな話をしているのでしょうか?もう忘れてしまっただろうけど、何についても「分かった気」になりたくないということでしたね。「なるほどお!」という何かを発見しても、信じない。そこで終わりにしたくない。間違ってるかもしれないなあって常に浮かしておきたいと。「いや待てよ、ほんとか?なんでそうなるの?」と、エンドレスに考えたい、考えるべきだと。その程度には近代人になりたいですから。
お読みになっている方には失礼な言い草かも知れないけど、ここに書いていることに一番異論があり、一番信じてないのは多分僕自身でしょう。別に心にもないことを書いているわけではなく、全て思ってることなのですが、所詮はアホな人間のやること、この無限の旅が終るわけはないでしょうってことです。実際、「ん?」と考えていくと幾らでも「続き」が出てくるのですよ。キリがない。その旅のプロセスを切り取って、「あーでもない」とヨタヨタと考えが進んで(?)いくさまをこのエッセイでは書いているつもりです。だから結論的にどうというのは、それほど重要ではなく、「なぜそう思うのか」「ほう、そういう考え方もあるのか」という部分、読んでるうちに脳味噌がでんぐり返っていく過程をお楽しみいただければと思います。
だから、まだまだ書けるのですが、ま、このくらいにしておきましょうか。なんかチンタラ書くつもりがムキになってしまった。このままじゃ、なんかバランスというか、空気の抜けが悪いので、ぜーんぜん関係ない話題を一つ。
ハガレンと「ここでないどこか」
「鋼の錬金術師」という漫画&TVアニメシリーズがあるのですが、僕は機会があってその全てを見ました。日本の友人が「これ、面白いぞ」とくれたのですね。「鋼の錬金術師」=通称「ハガレン」のTVアニメは二つあって、一作目は原作漫画とは途中から全然ストーリーが変わります。原作が終らないうちにアニメ放送に結末をつけねばならないという前提で始めたのでそうなったのでしょうが、二作目はオリジナル原作に忠実です。二作目名は「鋼の錬金術師、Fullmetal Alchemist」とタイトルの最後に英語がくっついてきます。
これがまた良くできたアニメで、確かに今の日本で一番世界に誇れるのはアニメかもしれないなって思ったりもしますが、その二作目のシリーズ最後の方の主題歌、それも最後に流れる第二主題歌の、一番最初に出てくる画面、、、っていっても分からんので、キャプチャーした画面を右に貼り付けておきます。
これが何か?というと、この背景の風景です。最初にこの画面を見たとき、「あ!」と思いました。キました。
このイメージって、まだ僕が日本にいた頃、海外に行きたいな、「ここでないどこか」に行きたいなと漠然と思っていた頃の海外のイメージを猛烈に喚起させてくれるのです。
実際に良くできた絵で、明らかに日本ではない異国の風景。地中海を彷彿とさせる白を基調とした石造りの建物群、あるいは中東とかそのあたりかもしれない。いずれにせよ「ここでないどこか」。そして何よりも絵から窺いしれるのは、強い陽射しとカラリと乾いた空気。
今現在、当時からしたら僕は「ここでないどこか」にいるわけですけど、確かに日本にいる頃よりはこの絵にでてくる質感に近いところに住んでいるのですけど、それでも尚、この絵を見てたら「どっかに行きたい!」と思ってしまった。
以前、シドニーで働いていた方が今はイタリアにいます。ときどきメールのやりとりをするのですが、イタリア半島の付け根のあたりの海岸沿いの小さな町に暮らしておられます。最近はGoogle Viewという便利なものが出来て、そのあたりを見てみたら、いいんですよね、これが。「いいな〜、行ってみようかな」とか思っちゃいました。
僕がこちらに来たのも、あれこれもっともらしい理由は沢山あるのですが、主要な一つに、この「どっかに行っちゃいたい」願望があります。ぜーんぜん知らないところ。そんな町があるなんて行くまで全然知らなかったようなところ。目算も勝算も生計のアテもなんも無いけど、ただ行くという。アテなんかあっちゃイケナイんですよ。純度が汚れる。手つかずの感じがいいんですよ。真っ白な未来、純白の未知。いいなあ、ワクワクするなあ。
そんな気分を思い出してガビーンときてしまいました。
あ、これからオーストラリアに来ようという方は、第二ハガレンの最終回なんか見るといいかも。兄弟それぞれが西回りと東回りで世界に旅立つところで終るのですが、あの「もっともっといろんな世界を知りたい、いろんな人に出会いたい」という「もっともっと」ワクワク感はシンクロするのではないでしょうか。MegaUploadなどで見れます、、、が、全然知らない人がそこだけ見てもピンとこないかもしれませんな。一回全部見たことある人がもう一回見るくらいなら、いいかも。
しかし、アニメの絵一枚にここまで感動できる自分は、なんて安上がりなんだ!って思ったりもしますね。でも、昔から絵は好きだし、年食ったらもっと好きになったし。以前紹介した「蟲師」の絵なんか、あの美しさだけでしばらく堪能できます。そういえば、宮崎駿の「千と千尋」の絵も良かったですね。夕暮れに電車が進んでいく風景は、いつか見た夢の風景というか、生まれる前から知ってたような風景で、あれにもヤられました。原風景を描かれてしまったというか、よくあんな絵描けるよな、凄いよなと思ってしまうのでした。
まだ20-30代で、年を取っていくことに漠たる不安を感じておられる方は多いと思うのですが、そんな心配せんでもいいと思いますよ〜。若い頃に見過ごしていた事も、年を取ると楽しめるようになる。何てことない、ありきたりのものでも、自分でそこから情報をどんどん引き出してきて楽しめるようになる。多分感度が良くなるからかもしれないし、味わい方のノウハウが増えるからかも知れない。よう分からんけど、楽しくなるのに、大がかりな素材や装置が要らなくなります。ああ、これって料理の腕に似てるな。下手な頃ほど、料理本(ガイドブック)にらめっこで、大がかりに材料を買い込まないとダメだけど、上手くなってくると冷蔵庫の残り物でチャッチャと作れるようになる。「腕」っつのーは本来そうしたものでしょう。料理や技術に「腕」があるなら、生きることや、ハッピーになることにも「腕」があるんだろうね、多分。
文責:田村