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今週の1枚(2011/02/21)



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Essay 503 : 西欧社会の声なき悲鳴  

 

 写真は、Strathfield。ストラスフィールドは有名な韓国人の街でしたが、最近ではインド系の人も多くなってきました。ここからパラマッタの間、特にHarris Parkあたりには多いといいます。右の写真など典型的に韓+印って感じですね。

 と言いつつも、ウチの近所であるノースも多いですね。特にCrows NestからSt Leonardsあたりにかけてはインド料理屋が多い。今調べたら14軒もあります。でも僕らはインド人だと思いこんでるけど、聞いてみたらネパール人だったというケースも多いです。行きつけの銀行の知り合いのお姉さんも、スーパーのレジでお話しした人もネパールでした。見分けるのは至難。まあ、よそから見たら日中韓の見分けなんか至難なのでしょうね。




世界の多極化と世界史的「普通」

 ルネサンス〜大航海時代以降のここ数世紀、世界は西欧の価値観と力を基軸として廻ってきました。しかし、それもそろそろ転換点にさしかかってきて、それを無意識的にも感じているのか、西欧社会の声なき悲鳴のようなものが聞こえるような気がします。

 1980年以降、切り込み隊長だった日本を筆頭に非西欧圏の経済パワーが徐々に台頭していきます。韓国や台湾というアジアの小龍達が日本に続き、そしてBRICSという恐竜たちが立ち上がりはじめ、さらに周辺へと追走する国々が増えていく。よく言われている世界の多極化です。これがどうなっていくのか僕はとても興味があります。生きてる間には見切れないだろうけど、それでもどこまで行くのか見てみたい。

 大体、人類の長い歴史からしたら、西欧が覇権を握ったのはたかだか直近数世紀のことに過ぎず、本来世界はもっと多彩&多極でありました。アジアでは黄河文明以来の中国を舞台に漢民族と満州族が取った取られたのシーソーゲームをしており、それ自体が小宇宙のようなインドでは古来のバラモン〜ヒンドゥー文化にイスラム文化が入り込んでムガール帝国が作られています。一方欧州はといえば、東はオスマントルコ、西はスペインまでイスラム国家勢力に支配され、またときどき思い出したように中央アジアから強烈なアタックを受けます。ゲルマン民族大移動の引き金となったアッチラ大王の攻勢、本家でお家騒動が起きなければ全欧州を征服されたであろうジンギスカンのモンゴル帝国の侵攻など、とかくヘナチョコなエリアでありました。

 また、さらに古い時代に遡れば、紀元前4世紀にはアレキサンダー大王がいます。ギリシャ文明と古代オリエント文明が融合したこの時代を、岩明均氏が「ヒストリエ」という漫画で描いていますが(アフタヌーンで現在も連載中)、キリスト教もイスラム教も影もカタチもなかった時代が妙にすがすがしいです。この清々しい時代は、さらに紀元前6世紀のペルシャ帝国、紀元前13世紀のアッシリア大帝国、その前の紀元前16世紀は人類最初に鉄器を使ったハイテク最強集団ヒッタイト帝国、紀元前19世紀はハムラビ法典を作ったバビロニアと続き、さらにゆるゆると紀元前90世紀まで農耕文明をはじめたシュメール文明まで遡ります。

 何を言いたいかというと、人類においては西欧文化や価値観が世界の中心であるべき必然性はない、ということです。欧州方面だけに絞っても、100世紀を超える長い歴史の圧倒的な大部分は「古代オリエント」と呼ばれた現在の中東エリアが中心地であり、西はせいぜいがローマ帝国どまりでした。それより西はフランスもイギリスも蛮族の住む野蛮なエリアでしかなかった。それが変わったのは十字軍・ルネサンス・大航海時代以降のわずか数世紀に過ぎず、この間に世界覇権はスペイン・ポルトガル→オランダ→イギリス→アメリカと徐々に西に向っていき、ここ100年ばかりは英米アングロサクソン支配になっているわけで、だからこそ僕らは英語をやっているわけです。でも、そんなのは単なる「最近の流行」であり、一過性の現象に過ぎないのだろうということです。

 また自然の状態に戻せば、各エリアの各カルチャーがそれぞれに栄えるようになるだろうし、現にそうなりつつある。この数百年間そうならなかったのは、ひとえに西欧諸国の強大な軍事力が世界を引っかき回していたからです。大航海時代→世界の植民地支配における帝国主義と砲艦外交、第二次大戦後は米ソ冷戦構造という軍事力によって世界各国の内政は歪められ、経済成長も抑制されていたに過ぎません。鎖が取れれば徐々に本来の姿に戻っていくでしょう。

西欧の不安

 だから思うのですが、西欧人には自分達が徐々に世界の中心から滑り落ちていくという不安心理を抱えているのではないか?と。その感覚は、いっとき Japan as No.1まで上り詰めながら、ここ20年間なすすべもなく世界の二流国に落ち込んでいく日本に似ている。その閉塞感と不安感が何となく似てるのではないかと。もっとも、日本の場合は、上り詰めるのも早いがコケるのも早いという「いつもの花火パターン(日露戦争→敗戦もそう)」であり、変化が急なので分かりやすいけど、西欧の場合は数百年スパンなのでもっともっとカーブはゆるやかです。でも不安心理というのは、ゆるやかな方が恐いし、より内向していくような気がします。ある意味では、西欧人の不安心理は、日本人が今抱えている不安心理なんかよりも、もっともっと根が深くて、病的なのではないか。日本人の場合は、なんだかんだ言っても、心の底の底では「なーに、また這い上がればいいのさ」という復活神話を確信しているあっけらかんとした所があると僕は思う。なんせ展開が早いから、前回のゼロリセット→復興を経験した世代がリアルタイムにまだ居るし、その記憶も生々しく存在している。

イスラムへのヒステリックな態度

 なんで僕がそう思うのかというと、西欧諸国のイスラム教に対する不細工なまでにバランスを失した取り扱いです。これはオーストラリアでもそうで、「なんか、こいつらビビってるな」と思っちゃうんですよね。キャンキャンとヒステリックに吠えるのだけど、それは内心の恐怖の裏返しではないか。例えば、イスラム教徒の女性が頭からすっぽり被っているブルカを禁止しようとか、その旨の立法化をしようとか、日本人をはじめ他の非西洋民族からしたら「別に好きにさせておけばいいじゃん」というようなことを議論している。フランスでは既に禁止が立法化されていますが、オーストラリアでは公的にキッパリ否定されています。しかしそういうことを言う人もいるし、先日も野党の移民担当のモリソン議員のイスラム系移民に対する差別的な発言をめぐって議論になってます。

 ま、そんな個々の事柄よりも背景にひそんでいる心理です。ご存知のように2001年の911テロ以来、西欧VSイスラムという図式が延々続いています。第二次イラク戦争やアフガンへの軍事侵攻のほか、もうほとんどイスラム教徒=テロ予備軍みたいな扱いで、西欧諸国にいた中東系の人達は差別を受けたりしました。2005年にはシドニーのクロヌラでレバノン系の若者と地元オージーとの間でドンパチあったりしました。最近は大分沈静化しつつあるといいながらも、上は戦争から下はローカルの小競り合いに至るまで、西欧とイスラムの間に緊張関係があります。でも、もっぱら西欧人がピリピリしてイスラム系にアタックをするという一方通行がメインで、逆方向はアルカイダなどが時々テロをやるくらいの散発的なものです。つまり民族全般の不安心理というのは西欧系の方が深い。

 早い話が「イスラム=恐い」という感情があると。日本のメディアも欧米メディアの追従が多いから、その種の感覚を抱く日本人も多いとは思います。でも、これよく考えると、「まんじゅう恐い」に近いくらいナンセンスな発想だし、そんな発想を受け入れること自体「洗脳」に近かったりすると思うのです。世界史的に見ても、最も戦闘的で攻撃的な宗教はダントツにキリスト教でしょう。熱心に布教するし、布教とセットで世界植民地化を推し進めるし、内部においてもユグノー虐殺などカトリックとプロテスタントで血で血を洗う抗争をしているし。それに比べれば仏教はまだしも穏健だし、イスラム教に至っては布教もろくすっぽやりません。マホメット以来強力なイスラム国家が周囲を併合して強国化していきましたが、あれも宗教的情熱でそうなってるというよりは単なる戦国時代の国盗り物語であり、イスラム国家であったオスマントルコは非常に寛容な社会を作ってます。なおキリスト教の名誉のために言っておくと、もっとも戦闘的であると同時にもっとも博愛&慈善的なのもキリスト教でしょう。なんというかアドレナリン分泌度が高く、人を行動に駆り立たせ、また良きにつけ悪しきにつけ他者への関与をしたくなる宗教なのでしょうね。

 キリスト教のアクティブさに比べればイスラム教なぞ眠ったような宗教であり、「朝起きたら歯磨きをしよう」みたいな日々の生活を律する戒律と法律の集大成です。自らの生活をどう律すべきか、その集合体としての国家をどう律すべきかという戒律宗教であり、それが故に自律自足的であり、内向的です。世界最大のイスラム教国家は、教徒数なんと1億7000万人!を抱えるインドネシアです。人口の76%以上がイスラム教徒なのだけど、イスラム教を国教にすらしていません。オーストラリアがもし本当にイスラム国家を恐れるなら、オーストラリアのすぐ北隣にあり、10倍の人口を抱えるインドネシアこそ恐れるべきですが、両国において問題になるのはもっぱら難民船問題と、東チモールくらいです。

 アルカイダ、アフガンのタリバン、古くはイランのホメイニ師のような熱狂的で、いかにも「イスラム」って感じのイメージばかりがメディアで流布されますが、あれはほんの一部でしょう。どんな集団にも過激派や原理主義者はいる。オウム真理教は仏教をベースにした新興宗教ですが、あのサリンテロ事件をもって「仏教徒はテロ集団」と世界に報道されたら、僕らのように自分が仏教徒なんだかどうかも決めかねている(家に宗教用具=仏壇=があるんだから、外人からみたら立派な「教徒」なのだが)が迷惑します。それと似たような感じなのでしょうね。

なにがそんなに不安なのか〜過去の負い目

 もちろん西欧人も馬鹿ではないので、このくらいの理屈と事実は先刻ご承知でしょう。わかっているのに何でそんなにヒステリックになるのか?ってあたりが、非論理的なもの、すなわち「恐怖感情」があるんじゃないか?と推測するゆえんです。そして、その恐怖感情は何なのかというと、@自分らが世界の中心からずり落ちていく恐怖と、Aこれまでヒドいことをしてきたという後ろめたさなのではないか、思います。

 Aについては、あまり語られないのですが、実はけっこう根深いんじゃないかな?って睨んでます。なんせ植民地時代さんざん好き放題やってきましたし。日本人だって先の戦争でアジア諸国に結構ヒドいことをしてきたという負い目があります。日本の場合は、比較的最近の話だし、期間も短い分だけ、その記憶や非難はシャープで鋭かったりするけど、ま、それだけっちゃそれだけです。西欧人が世界でしてきたことに比べたら可愛いものです。大体、人道的な見地で言えば、アメリカもカナダもオーストラリアも現地住民を暴力で支配して作った国であり、建国の神話=不法占拠だったりするわけです。南米なんかスペイン&ポルトガルによる虐殺大会だったし。また戦後の冷戦構造では、せっかく人民が立ち上がって民主的な政府を作ろうとしても、米ソ反対陣営の介入でグチャグチャな内戦に引き戻される。中東なんか石油利権の争奪戦で、アラビアのロレンスをスポークスマンとしたイギリスの三枚舌で騙しまくって、テキトーに国境線を引いて傀儡国家を作り、可哀想なクルド族なぞ自分のエリアを三国に分割されどこにいっても少数民族で迫害されている。アフリカに至っては、タテはイギリス、横はフランスという滅茶苦茶な草刈り場。ベルギーのレオポルド2世のコンゴ支配などは世界史悪人列伝があるとしたら上位にランクアップされるくらいの極悪非道ぶりです(西欧のアフリカでの悪行はESSAY368:世界大戦前夜(2)〜帝国主義の世界侵略(別窓)をごらん下さい。まあ、ヒドいこと、ひどいこと。

 戦後になってその莫大なツケを払わされ、過去植民地にしていた国の面倒を見たり、また移民を認めたりして国内でネオナチ的排外運動が起きたりしています。でも、第三者的に冷たく言い放ってしまえば、自業自得ですわ。オーストラリアがアボリジニに対してあれこれ心を砕く反面、そこまで卑屈になる必要はないと声高に言う国内勢力もあってウザウザやってたり、アメリカでアフリカンアメリカンや中南米移民に対する差別解消策が延々続けられながらも、一向に差別がなくならず社会不安が常態化しているのも、自業自得っちゃ自業自得です。

 光は必ずや影を生み、光が強烈なうちは影をも覆い隠すくらいの勢いがありますが、一旦それが陰り始めたらキツイ。支配階級が被支配階級に対して有する漠然とした後ろめたさと不安が頭をもたげてくる。不安はほっておくと自己増殖し、やがて不安の源泉となる被支配者に対してより強い嫌悪や憎悪を抱くようになり、また不安を解消するために都合のよい正当化論理を声高に叫ぶ(ナチスのアーリア人優越説とか)。早い話がビビってるわけです。ビビってるから強がっている。激しくビビるほど、激しく虚勢を張ろうとする。

 だから、西欧人のイスラムへの過剰反応も、内心の負い目とビビリがあるのではないか、と。だって、欧米って中東イスラム圏でろくなことしてませんからね。

民主主義と自由主義の広まりが逆に優越性を損なう皮肉

 現在世界を席巻している西欧的価値観は、民主主義、自由主義(資本主義)です。日本もこれをベースにしていますし、僕ら自身の普通の価値観もまたそうでしょう。「いや、俺は西欧にそこまで染まってないぞ」と豪語する人でも、例えば首相が非民主的、非自由主義的な言動に出たらムカつくのではないですか。「下層階級は身の程を知れ」「お前の職業は国が決める。黙って働いてりゃいんだよ」と発言したり、選挙で負けても軍隊を出動させて強引に居座ったりしたら、やっぱ怒るんじゃないですか?なんで怒るの?といえば、やっぱり民主主義と自由主義に反しているからでしょう。封建社会や共産主義だったらこれが正義なんだから。

 しかし日本人である僕らがなんとなく思ってる以上に、民主主義や自由主義に対する西欧人の思い入れは激しく、深いようです。その分民主的なところや自由なところは徹底していて、学ぶべき点も多々あります。が、同時に、そうでない状況に対するムカつきは、僕らの比ではないくらいムカつくみたいですね。もう金科玉条のように信奉していると言っていい。

 それは別に悪いことではなく、賞賛されるべきことなのでしょうが、落とし穴もある。過度に何かを信奉するということは、往々にして視野狭窄や偏狭さをも生みます。また、西欧人には民主主義と自由主義はウチらが本家であるという本家意識も強いし、優越意識も強い。確かに本家であるのは事実だし、優越感を持っていいくらいの実質もあります。それは「柔道は日本が本家」という僕らの本家&優越意識と同じ事です。実体が伴うのであれば、とやかく言うほどのこともない。

 ただ、それがオーバーランして、自分達の正義、自分達の感覚、価値観、風習が他の世界よりも一歩優越しているのだという、鼻持ちならないエリート意識につながるのならば、それはおかしい。おかしいのだけど、この微妙に際どい悪魔の誘惑から逃れられる人間は少ない。偏差値的に高い大学や企業に入ったというだけで何やら人間的にも上等なのだと勘違いするなど、自分に都合の良いように際限なく拡大解釈をしていく。しかし、それは僕ら弱く愚かな人類のデフォルトの属性というか、まあ、しょうがないよね〜って気もしますな。自分だってそういう部分がアリアリなんだし。

 昔の西欧人はこのあたりかなり傲慢なところがあった。「世界の猿どもは必死にカッコいい俺達のマネをしてりゃいいんだよ」みたいな。しかし、段々とそうも言ってられなくなってきているのが世界の現実でしょう。小面憎い黄色い猿である日本人に経済的に侵略され、台湾、韓国が追随し、巨竜中国が起きていた、、というのは冒頭で書いたとおりです。もうそんな愚にも付かない優越意識だけでは立ち行かなくなっている。優越意識といえば、フランス人は誇りにかけて英語が出来てもわざとフランス語しか話さないとか言われてましたが、どうも最近はそんなこと言ってられないようで、英語をはじめとする多国語教育を積極的にやっているそうです。フランス人ワーホリも良くオーストラリアに来るようになったし。

 最初は「戦勝国クラブ」に過ぎなかった国連も、現在では加盟国が190カ国を数えます。拒否権をもってる五大国の仕切り放題という状況も徐々に変わりつつあるようです。コケてはいるものの国連改革が上程され、かつてのようなアメリカの私物化に対する抵抗も強くなっていくでしょう。国際問題でいえば延々激論が続いている捕鯨問題なんかもそうで、あれが何で感情的にギクシャクするかといえば、根っこには「鯨を食べるのは野蛮だ」という感情があるからでしょう。その昔はその感情丸出しで議論してた(出来た)のは、西欧人の価値観優越があったからですし、それを感じるからこそ言われる側がムカつくという。しかし、現在では少なくともオフィシャルではそういう感情論は言えなくなってますし、もっぱら海洋資源論にのみ絞り込まれていってます。

 しかし、非西欧圏諸国が伸びているのは、まさに西欧人が唱える自由主義(資本主義)と民主主義の広まりによるものであり、いくら世界の諸国が台頭しようが、家元である西欧は安泰なのではないか?という視点もあります。が、これはそうではないと思います。

 なぜかというと、民主主義も自由主義も文明の利器という一種のツールであり、そのツールを使ったからといってカルチャーまでくっついてくるわけではないからです。これは何度もいってる「文明」と「文化」の違いであり、文明は民族を超えて広がるけど、文化は広がらない。電気や自動車などの文明は世界に広がるけど、だからといって発祥国のカルチャーが広まるわけでもない。便利だから使うだけであり、だから便利である限度しか取り入れない。日本人がカレーやパスタを食べるのも「美味しいから」という功利性の限度で取り入れるだけで、カレーを食べたからといってヒンドゥー教徒になるわけでもない。だから、いくら自由主義や民主主義が世界に広まっても、だからといって西欧的なカルチャーや価値観がそのまま広まるというものではない。

 いい例が日本です。日本は明治維新の文明開化や戦後のアメリカナイズで徹底的に西欧社会を模倣したと言われますが、でも日本人は全然日本人のまんまです。民主主義や資本主義が根付いてはいるのでしょうが、それは日本的な民主主義であり、日本的な資本主義です。本家のオリジナルなものから比べたらかなりカスタマイズされている。そして何よりも、日本人が西欧人みたいになるわけでもない。「いいな」と思う限度では取り入れるけど、だからといって変わってしまうわけではない。パスタもハンバーガーも食べるけど、蕎麦や天丼を捨てたわけではない。日常的にシャワーは使うようになったけど、でも温泉や露天風呂の優越性はビクともしない。

 だから中国やインドに資本主義や民主主義が広まっても、それは中国式、インド式のそれになるでしょうし、現にそうなっている。今回、チュニジアやエジプトで「民主化」が進んだと言われていますが、アラブ圏内で民主化が進むと、結局西欧人の嫌いなイスラム化が進むだけだという指摘があり、僕もそんな気がします。もともと中東における石油利権と国益保護のために、アメリカなど西欧諸国は各国の親米政権をサポートしていたわけであり、親米政権が権力を維持するために、国内で軍部と結びついて長期にわたって非民主的な政治をしていたわけでしょう。そこを「民主」的にやってしまって、一般市民の多数決で物事を決めたら、数で圧倒的に勝るイスラム教の国になってしまう。かつてイランにおいて親米的であり開明的に近代化を進めたパーレビ国王が民衆の「革命」で亡命したあと、出来た政権は過激なホメイニ師のイスラム原理主義政権だったわけです。

 民主主義というのは、皆がそれを望めばそれになってしまうシステムのことですから、民主主義=西欧化になると決まったものではない。というか、そうなったら不思議なくらいです。どの民族だって、西欧以上の長い長い民族の歴史とカルチャーがあり、それに誇りをもっているのですからね。つまり、西欧人が信奉する民主主義が広まれば広まるほど、西欧人の文化や価値観にそぐわないエリアや人々の発言力が増えるという、なんとも皮肉なことにもなります。

 これは資本主義や自由主義という経済システムについても同様で、これらが浸透したからといって西欧的になってくれるわけでもない。中国なんか典型的ですが、今や資本主義的共産主義というワケの分らない存在になり、あんまり西欧的価値観を共有してくれてません。相変わらずネット検閲など締め付けは厳しいわ、著作権など丸っぽ無視状態だわ、それでいて米国債の保有額は日本を抜いて世界一位だわで、欧米からしたらセッセと不気味なモンスターを作り上げているようなものです。また自由主義経済ルールが広がり、世界中が経済発展するということは、西欧のライバルをせっせと増やすということを意味します。安価で優秀な労働力や流通ルートによって、欧米の失業率は10%の高止まりです。もちろん欧米から新市場に売りにいって儲けることも出来るし、現に出来ているのですが、それで得をするのは結局のところ西欧の中でも巨大企業だけです。早い話が、中国の至るところで中国人がマクドナルドのハンバーガーを食べるようにはなっても、人権侵害など西欧的に許せない出来事は一向に減らないということです。

普遍価値の追求か、趣味の押しつけか

 東西冷戦は自由主義の西側の勝利に終り、少しづつ民主的な大勢は世界に根付き始めている。にもかかわらず、西欧が憂鬱であろうことは想像に難くないです。冷戦勝利といっても、ソ連や中国をはじめとする東側諸国が消えてなくなるわけではなく、それどころかロシアや中国という強大な経済ライバルを産み出してしまった。また、中国やベトナムは相変わらず社会主義の看板を下ろさずに経済発展している。つまり勝利が勝利になっていない。

 ソ連なきあと唯一の軍事超大国になったアメリカは、世界の警察、世界の人権監視員になりました。折しも911テロへの報復でイラクやアフガンに侵攻し、フセインを逮捕処刑し、民主主義を広めると大見得を切ったものの、これがベトナム戦争のような泥沼と化しました。英雄扱いだったブッシュ二世も、任期の終わりの頃には「(次期大統領は)ブッシュでなければ誰でもいい」(anyone but Bush)とまで酷評されました。膨大な金食い虫と化したイラクとアフガンが泥沼化した頃、高らかに宣言されていた資本主義の先祖帰りのような新自由主義経済もサブプライム、リーマンショックでぶっ壊れ、アメリカを始め西欧は今なお高失業率に呻吟しています。それでも昨年の世界経済は逞しい成長率を記録し、今年も伸びが予想されているのは、先進国ではなくBRICSをはじめとする新興国の伸びが爆発的だからです。今や世界の経済は、新興国の皆さんに引っ張っていただいているような格好になっている。

 結局、西欧が信奉する自由主義や民主主義が広まれば広まるほど、相対的に西欧の地盤が沈下していく。もともと強力な南北格差があったのが徐々に是正されていっているということは、彼らが信奉するこれらの理念やシステムが人類普遍のものとして正しかったという証明にもなるのですが、喜んでばかりもいられないという。そして自由と民主を唱えながらこれまでどうして西欧の覇権が維持できたのかといえば、背景に強大な軍事力があり、冷戦という大きな言い訳原理によって、裏では非民主的にこれらの軍事力を活用できたからです。しかし、今となっては軍事力も無用の長物と化しつつあります。世界一、それもダントツに喧嘩が強い筈のアメリカが、イラクやアフガンのゲリラや原理主義勢力を一掃することも出来ない。これは拳銃でシロアリ駆除をやろうというようなもので、激しい砲撃で首都を占拠しても、だからといってどうなるものでもない。ビン・ラディンはまだ捕まってないし、イスラム勢力が衰退したという話も聞かない。これってなんか高校生の就職みたいですね。高校時代は喧嘩が強いということで校内を仕切って良い思いをしてきても、いざ卒業、就職となると喧嘩が強いことは大したメリットにもなならない。世界が平和になり、商業活動が活発になればなるほど、喧嘩が強いという価値が下がっていく。

 かくして西欧という少数支配が、民主主義という多数支配の原理に置き換わっていけば行くほど、西欧の地盤沈下は避けがたい。先進国が「先進」でなくなっていくのですから、当然といえば当然の話です。たかだか数世紀の「一過性」の西欧支配から、古代オリエントや黄河文明以来連綿と続いてきた「世界の普通の姿」に回帰していく。そうなれば、西欧の存在など軽いものになります。単純に人口レベルでも欧米合わせて6億程度ですから世界の10%くらいのシェアしかない。中国の半分もない。一方、中国+インド(+華僑・印僑)は約30億人とも言われ、世界の半分を占めます。もうこの時点で勝負あったって感じですよね。イスラム教徒は世界で11億人、既に2006年段階でカトリック信者数を超えてます。今後も出生率の高さと平均寿命の伸長により増大が予想されます。


 そうなってくると、西欧人にとってはカンに触る出来事が増えてくるでしょう。中国は相も変わらず共産主義の旗を降ろしていないし、人権問題については今なお問題が多い。インドは、民主主義という点では優等生ですが。およそ人権思想に相容れそうもないカースト制という昔ながらの伝統習俗を捨ててはいない。イスラム系は、一夫四婦制というこれまた西欧の価値観にそぐわない伝統を持っているという。

 思い起こせば80年代、日米構造協議でアメリカがムキになって日本を叩いてました。あれは、同じ資本主義を標榜しながら日本独自のやり方で全然市場に入っていけないアメリカが業を煮やしたからです。「非関税障壁」とか言ってましたよね。「お前らの資本主義は資本主義じゃないよ」と。ま、確かにそうなんですけどね。株式は相互持ち合いだわ、シャンシャン総会だわ、配当ゼロだわって、あれは株式会社じゃないですわ。江戸時代の「藩」みたいなもの。でもそれが日本流のやり方なのでしょう。その噛み合わなさにアメリカがイラついていた。大汗かいて日本を脅しあげても、結局、牛肉もオレンジもアメ車もそんなに売れなかったし。

 それと同じ事が今後どんどん増えていくでしょう。中国との噛み合わない感じは、ある意味では日本の比じゃないでしょうし、どこの国もその国なりの文化とシキタリがあり、そんなに思うように話が進んでくれないでしょう。そうなってくると西欧的には「それは本当の民主主義、資本主義じゃない」式の批判が強くなるでしょう。

 さて、そこが難しいところです。「民主主義を根付かせる」という錦の御旗で他国に介入しているわけで、それに携わる方々の善意は善意として尊敬しますが、同時に彼らの趣味に合わないことを、民主主義などのタテマエで干渉、強制しようという人々も居ないわけではない。普遍的な価値を持つであろう民主主義を善意で勧めているのか、それとも気にくわない部分を修正させようとして=言わば「趣味の押しつけ」をしようとして、民主主義を持ち出しているだけではないかと。

 しかし、日本もそうですが、中国その他はもっとそうでしょうが、「清濁合わせて呑む」というやり方があり、それが最も被害を小さく済ませるやり方だったりもします。多少は悪いこともするのだけど、それには目をつむり、大きく整合させていくという。小さな子供が多少のイタズラや悪いことをしても「腕白だ」ということで目をつむるけど、人間としてやっちゃいけないコトをしたときはビシッと叱るという、「遊び」を残しておくやりかた。このファジーなやり方はアジア人の人治主義的伝統には合います。しかし法治主義には合いにくい。中国の天安門事件のときも、ケ小平などの首脳部は、国中がメチャクチャになることに比べたら多少の被害はやむをないといい切ってますし、被害が100万人程度で済むなら安いものだくらいの勢いで「外野は口出しするんじゃねえ」と西欧の干渉を撥ね付けてます。それが素晴らしいと言うつもりはないけど、わからんでもないのですよ、同じアジア人としては。

 一方、西欧人、特に英米などピューリタンの流れを汲む人々はときとして異様に潔癖症なところがあります。それが彼らのピュアな良さでもあるのだけど、非現実的に頭が固い部分でもあります。あれだけドラッグが蔓延していながら、喫煙に対しては叩いて叩きまくるのも、なんか精神の均衡を失している気がするし、教育で体罰を絶対に認めないという部分もなんか宗教がかっていて僕には気持ち悪く感じる。なんせ彼らには、禁酒法というお馬鹿な法律を作った前科がありますし、クリントン大統領の不倫なんかでも国を挙げてワイワイやってました。ときどき気が狂ったように潔癖になるという変な性向がある。

 それが例えばイスラム教のブルカ問題なんかもしれないなと思ったりもします。別に誰が何を着ようが、それこそ個人の自由であり、自由主義でしょうと思うのだけど、なんか許せない、気持ち悪いのでしょう。合理的に説明するために、「覆面をしているのと同じだから犯罪の温床になる」とか「女性の権利を侵害している」とか言うのでしょう。しかし、前者についてはそもそも覆面をしてはいけないという法律自体がないし、覆面レスラーの立場や過剰な化粧で化けている人はどうするのだという問題があります。後者については傾聴に値するけど、それでも「なんびとも他者に服装を強制してはならない」という一般原則で十分だし、それを広報教育で徹底させていくのがスジでしょう。自分が他者に強制してどうするという。だから理論的には破綻していると思うのですが、それでもくすぶっている。

 捕鯨問題だって、初期の頃は「可哀想だ」「野蛮だ」という露骨な趣味の押しつけをしていたけど、段々そうも言ってられなくなって一般的な議論になりつつあります。が、承伏できない連中もまだまだいます。そうこうしているうちに、インドのヒンドゥー教徒あたりの発言力が非常に強くなってきて、「牛を食べるのは罰当たりだ、野蛮だ」という趣味の押しつけを西欧にするかもしれませんな。

 

補足

 別にこう書いたからといって、西欧人の全てが優越根性に浸っているイケ好かない奴らで、頭が固くて、エキセントリックに潔癖な奴らだというつもりはないです。そんなのは一部に過ぎない。Nobody is perfectで、誰だって完璧ではない。彼らにも欠点はあるが、いいところも沢山あるし、最大多数の最大幸福を目指し、個々人の生活水準を高くしていく方法論や努力については確かに学ぶべき点は多々あります。そこはもう素直にレスペクトしてます。

 結局、○○人がどうというか問題ではなく、自分と「違う」人々がいるのを、面白がって受け入れられる人達と、受け入れられない人達がいるだけで、それは民族国籍とは関係なく、個々人の個性の問題なのでしょう。トレラントな人とイントレラントな人がいると。どこの国でも似たような比率でいるのでしょう。イントレラントな人達は、なんだかんだ理屈をくっつけて排斥しようとすると。だから本当の問題は、どうして彼らはそんなにイントレラントになるのか、どういう経済社会状態がどういう人間性向を作り出すのか、なのでしょうね。
 だから西欧の悲鳴といっても、悲鳴をあげているのはイントレラントな人達だけで、こういう傾向を諸手を挙げて歓迎している西欧の人も沢山いると思います。そしてそれは西欧に限らない。


 世界が多極多彩になっていくに従って、求められるのは「色んな人がいるけど、でも仲良くやっていく」という姿勢であり、スキルであり、生き方なのだと思います。その奥義は「気にしない」ことでしょう。オーストラリアのマルチカルチャリズムも、ネガティブに見ようと思えば幾らでもネガティブに見れるけど、逆にポジティブに見ようと思えば幾らでもそう見える。大事なのは、他者を色分けしたりグルーピングしないことだろうし、誰とでもフラットに接していく、そういう日々のノーマルな生活態度なんじゃないかと思うのでした。また、僕らのように非西欧圏でありながら英語を使って生きている移民達が、いい緩衝クッション材になっていけるだろうと。

 それに○○人がどうのという硬直した見方というのは、自分が国際結婚して子供でも生まれたら一気にぶっ飛ぶと思います。アジア人である自分と西欧人である配偶者との間に産まれた子供は西欧人なのかアジア人なのか?と。もうこういう問い掛け自体がナンセンスというか、しょせんはその程度の問い掛け、赤ちゃんひとりでぶっ飛んでしまう程度の問題でしかなかった、というのがよく分かるでしょう。



 もう一点、これはカミさんの意見の受け売りなのですが、「民衆」という錦の御旗です。エジプト見てて危ういなと思ったのは「民衆の勝利」を至高のものとしていく流れです。いや、それだけだったら悪いことではないのだけど、賢い奴が自分の思惑を通すために「民衆」という仮面を被ることもありうるなと。そして、今、民衆の代名詞はインターネットであり、ツイッターだったりするのですが、ネットだったら常に自由で、常に正しく民衆を反映しているのか?というと、そうも浮かれてられないなって気もします。インターネットというのは元々がアメリカの軍事回線をベースに作られているし、その運営活用技術はアメリカが一歩も二歩も進んでいるでしょう。サーバー回線の大上流を押さえてもいるでしょう。だとしたら、アメリカがもし本気になったらネット情報も操作できるかもしれない。恐いよなって。エジプトも、その前は中国がネットを全部遮断しましたけど、もしかしたら彼らにはその懸念があったのかもしれません。ま、推測ですけど、ネットだからといってあんまり安心は出来ないなってことです。軍事予算からしたら微々たる金額、ファントム飛ばす10分の燃料代で、数万人を雇ってサクラの書き込みをさせることだって出来ますしね。日本でも、自民党の世耕議員がチーム世耕でネットの書き込みで世論形成を企図していた話もありますし。

 旧来のメディアが凋落し、これからはネットの時代だ!とは素直に思えない部分もあります。なんだかんだいって旧来のメディアには骨のあるジャーナリストもいるし、権力に対抗するノウハウもそれなりにある(権力に迎合するノウハウはもっとあるかもしれないけど)。しかし、ネットの場合は、もとを質せばひ弱な一人一人の戦い慣れていない人間です。かつて冷戦時代にCIAなどがやっていたレベルを想起したら、裏に回って抑圧することなど赤子の手を捻るようなものでしょう。影響力のあるブログリーダーがいたとして、その個人や住所を割り出すことなど造作もないだろうし、これ見よがしに1ヶ月も尾行を続ければ大抵の人は発狂レベルに追い込まれるでしょう。そういうことをやらせたらメチャクチャ上手そうだし。御用学者、御用新聞があったのと同じように、知らないうちに御用ブログになってたりして。でもそれをチェックし反撃するノウハウもシステムも未開発ですから、将来的にはそういう点をもっと議論&試行しても良いのかもしれません。



文責:田村




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