今週の1枚(02.04.22)
ESSAY/ケダモノの世代
今週の一枚のエッセイ編も今回で50回目です。月日が流れるのも早いもので既に1年になろうとしているわけです。ちなみに削除してませんから、バックナンバーも読もうと思えば読めます。URLのアドレスをいじくればすぐに見られます。また、雑記帳のトップページの下のほうにバックナンバーのインデックスを付してあります。
ちなみに「エッセイ編」の前は、写真ばっかりを載せてました。文字通り今週の「一枚」だったのですが、一枚だったのはほんの初期だけで、あとは今週の20枚とか30枚とか載せてました。これがかれこれ160回弱続いていました。よくやるよな、我ながら。
シドニーのいろんな町をあれこれ撮ってきた写真で出来上がっているわけで、簡単なその町への思い入れや解説も付していましたから、まとめてみたら結構なシドニーの解説資料になっているのかもしれません。でも、この時期のものはサーバーから全部削除してしまっていますのでありません。だって、容量が膨大なんですもん。自分のパソコンのハードディスク内に置いてありますが、調べてみたら全部で235MBもあります。ちょとねえ、無理メな数字ですよねえ。まあ、もう少し時間がたって、サーバーの無料ホームページ容量が軽く1ギガを超えるのが世間で当たり前になったならUPするかもしれません。
しかし、毎週毎週50本、雑記帳入れたら150本、一本平均原稿用紙30枚としても4500枚、いったい何をそんなに書くことがあるのか自分でも不思議です。はっきり言って「これは書きたい!」と思って書いてたのは雑記帳の最初の20本くらいでしで、あとは「書かねば」という惰性と義務感でやってます。毎週毎週「ひねり出す」という感じです。
それが曲がりなりにも続いてきたのは、皆さんの励ましのお便りの存在が大きいです。「おお、読んでいてくれる人がいる」という確認は大きな励みになりますし、さらには何らかの形で「読んでスッキリした、救われた」とおっしゃっていただくこともあります。ありがたいことです。まあ、中には「このアホ!」みたいなメールもきますが、そーゆーのは思った以上に少ないです。
どういう傾向の書き物がウケがいいか、換言すれば「どういう感じでウケてくれるか」というと、「オーストラリアやシドニーのことが良くわかって参考になりました」というものではなく、「自分で漠然と感じていた感情を、的確に言葉にしてくれたのでスッキリした」という系統です。「言語化カタルシス」みたいなものですね。
ちなみにこの言語化カタルシスというのは、弁護士の実務の重要な一部分であったりします。これは民事でも刑事でも同じ事ですが、依頼者の人が素朴に抱いているのは、整理された冷たい法的主張ではなく、もっと温度も湿度も高い、沸騰せんばかりの感情エネルギーです。弁護士に要求されるのは、依頼者のエモーショナルな「言い分」を、一方では法廷用に緻密にクールに整理するとともに、他方ではその感情エネルギーを解放し昇華することです。早い話が「思う存分言うだけ言ってスッキリしてもらう」ということですね。
刑事事件、離婚事件、破産事件などは、性質上その人の半生が絡んできます。長い長い事情聴取をして、その人の気持ちを忖度し、準備書面、陳述書、弁論要旨という形でその主張をしたためます。その人をして「まるで自分が書いたみたい」と思っていただけるように書けたら、まあ合格というか、とりあえずの水準にはいけてるのでしょう。その場合、言葉一つ一つの「温度」「格調」「切れ味」に配慮しつつ構築していくわけですが、ここが結構力の入れどころという気がします。もっとも、弁護士によっては、こういったエモーショナルな部分はサラリと流して、淡々流麗にやっていくタイプの人もいます。このあたりは各弁護士の「やり方」というか個性ですよね。僕なんかはわりとネチっこくやるタイプであり、それが売りでもありましたが。
余談ついでにいうと、こういうエモーショナルな修飾部分というのは、裁判官は嫌うのですね。「グタグタ余計なこと言ってないで端的に本題を言え」という、まあそういうぞんざいな表現では言いませんが、そんな感じ。「法的に意味ある事実(「要件事実」と言いますが)のみを的確にピックアップし主張すればよろし」ということです。まあ、裁判官は、証拠上認定される事実に法律を当てはめて結論を出すのが役目ですから、「そのとき私はこんなに悔しい思いをした」なんてのは「余計なこと」だったりするわけで、裁判官がそういう姿勢になるのも、それはそれで職務に忠実だったりするわけです。
ただ、まあ、世の中それでは収まらないわけです。「紛争解決」という意味からは、当事者の感情的満足・納得というものも、現実的には大きなウェートを占めるわけです。また、依頼者が感情的に納得しなかったら、代理人たる弁護士も立つ瀬がないし、職責を果たしたことにもならない。そこはもう目の前で依頼者と付き合い、依頼者からお金もらって生活してる弁護士と、壇上から眺めている裁判官の違いだとは思います。が、裁判官の中にも、そのあたりの事情をよく分かってる人もいて、審理に大きな妨げにならない限り、当事者の感情の解放に留意してくれます。あと、判決文の書き方なんかにも細やかな心遣いをしてくれたりします。「原告の主張を認めるに足りる証拠はない」でバッサリ切られたら切られた方は納得できないのですが、そこを「万人をして原告の主張を納得させるに足るだけの十分な証拠は、本件全記録を精査しても遂には発見できなかった」という書き方をするわけですな。この言い方一つで随分当事者の感情は変わってきます。そういう判決文を貰うと、弁護士としては、「ああ、この裁判官はデキるな」と思ったりするわけですが、以上は余談。
言語化カタルシスというのは確かにあります。こうして書いていてふと気づいたのですが、結局、僕は今も昔も同じようなことをしてるのだなと思ったりもします。
さて、オーディエンスの受けがいいと、どうしてもそれを意識して演ってしまいがちなのは悲しい人間のサガであります。オーストラリアやシドニーのことを書くよりは、日本のこと、日本で生活している中で生じてくるモヤモヤした気分に焦点をあてたものが何となく多くなっていきます。
しかし、何度も言ってますように、僕はこの2年半以上日本に帰ってません。もちろんこのエッセイ編50本の間も、一度も日本の土を踏んでいないです。今の日本のリアルタイムな状況も知らない人間が、どうしてそのモヤモヤした感覚を言語化できるのか?これはちょっと興味深い問題でもあります。まあ、ぶっちゃけた話、そんなに言うほど日本は変わっていないということでしょう。僕が感じていた10年前と今とで、そう大きな差はないということです。だからこそ本質的な部分では浦島太郎にならないで済んでいるわけです。まあ、そんなに簡単に浦島太郎になってたまるかってのもありますけど(^_^)。
そうは言いつつも、日本もこの10年で変わってきているとは思います。ただその変わっていくベクトルは、僕がいた10年前頃から存在してもので、それがより一層分かりやすくなってきた、顕在化してきているんじゃないかと感じる部分もあります。
なにが浮上してきたかというと、「生きる」ってことの意味性みたいなものだと思います。
僕が日本に居たときも感じていたのですが、一言でいえば、「”生きる”ってのは、何というのか、こんなもんじゃないんじゃないの?」という感覚。もっと、なんかゴツゴツした、しっかりしたものなんじゃないの?まるで人生ゲームをやってるような、紙一枚隔てた現実感の無さ。ルールを守って、お約束を守って、皆して高度で複雑なゲームをやってるだけで、そーゆーのは「生きる」って言わないんじゃないの?なんかしらんけど、どっかしら「嘘くさいな」と感じてました。
その嘘臭さを打破したくて、強制的にタイム!をかけて、ボストンバッグ一つでオーストラリアにやってきたわけですけど、来て見てわかったのですが、やっぱり嘘臭かったです。嘘臭いというよりは、やっぱり嘘だったのねという部分もありました。
なにがそんなに嘘臭かったのかというと、これはすっごく表現しにくいです。
それでも無理矢理表現しようとすると、うーん、これは文化とか社会システムとかいう面倒くさい話になるのですが、、、えーと、世界各地でいろんな民族がいて、いろんなカルチャーがありますけど、およそ人類だったら誰でも持っているような普遍的で素朴は世界というのもあると思うのですね。例えば、呼吸をしないと死んじゃうとか、メシ食わないと腹が減るとかいうところからはじまって、愛する人が死んじゃったら悲しいとか、人と人とがわかりあえると何かしら温かいものがココロに生じるとか、なにかをやり遂げるとうれしいとか、理不尽で残酷な現実に翻弄されつつもそれでもやっていく健気さであるとか、、、、
こういった人類普遍の世界みたいなものを素朴な下部構造として、その上にその時々の時代性やらカルチャーやらで偶然育まれた「お約束」が沢山乗っかっています。これを上部構造というとすると、例えば、平安時代は目が細いほど美人であるとか、アフリカのどっか部族では首が長ければ長いほど美人であるとか、中国では足が小さければ小さいほど良いとか、違った時代違った部族から見たら「なんで?」と言いたくなるような、全く普遍性もなければ合理性もないような、その部族だけの「お約束」があります。これが上部構造。これに対して、どんな時代でもどんな部族にも通じる「美」というのはあります。それはキラキラした透明な瞳、染みとおるような笑顔、若々しい精気を発散させているオーラ、慈愛に満ちたやすらぎの眼差し、みたいなものが下部構造だとします。
その社会が複雑に入り組んでくるほど、またカルチャーが発達するほど、上部構造が肥大化し、下部構造が相対的に減ってきます。「お約束ばっかし」という感じですな。江戸時代の武家階級では、若い男女が道端で立ち話をすること自体がタブーだったといいます。もう道端でセックスしてるくらいの羞恥心がかきたてられたとか。インドの複雑に分かれたカーストでは、一生同じカーストでいなければならないし、異なるカースト間で結婚することも出来ない。
こういった上部構造のお約束カルチャーも、発生した当時はそれなりに合理性があったのでしょうが、時とともにお約束だけが一人歩きし、場合によってはグロテスクなまでに発達し、本来の下部構造を大きく侵食してしまうのでしょう。戦乱の世のように、下部構造が荒々しく獰猛な時代は、それを統制するために上部構造も厳しく律せられたでしょう。しかし平和な世になるにつれて、形式ばかりが一人歩きをはじめていき、下部構造はやせ細り、人々は野性を失っていく。
日本にいたときに感じたのも同じようなことです。日本社会には沢山のお約束があります。ありますが、その数や複雑さは、他の民族に比べて決して多くもひどくもないと思います。それどころか世界的に見ても、かなり自由な社会だと思います。もっと不自由で非人間的でガチガチのカルチャーはいくらでもあるでしょう。アフガニスタンのタリバン政権下の女性の自由制限の例をひくまでもなく、色々ややこしいカルチャーは沢山あります。
だから日本ひとりが非難されるべきでもないでしょうし、僕もそのつもりはないです。
ただ僕が気になったのは、上部構造の多さという点よりも、下部構造が痩せ細り過ぎているのではないか?という部分です。ナマモノとしての人間の普遍的な部分がスポイルされ、あるいはバランスを崩しているのではないかと。
「生きる」という実感は、不自由か自由かだけで決まるものでもないと思います。とても自由な社会なんだけど、生きるという実感を持ちにくい社会というのも又存在するでしょう。それは、どれだけカルチャーなりシステムという上部構造に「騙されているか」「調教されているか」どうか、逆にいえば、お約束に頼らなくても自然に湧いてくる人間本来のナマの感情と納得感がどれだけ豊かか/貧しいか、だと思います。
その正反対に、めちゃくちゃ不自由な社会なんだけど、生きているという実感をバリバリ感じるスチュエーションというのもあると思います。極端な例だと、無人島に漂着して、ナイフ一本だけでサバイバルしなきゃいけない状況。これはメチャクチャ不自由です。容易に死んじゃうかもしれないくらい不自由ですが、木の枝にナイフを括りつけモリにして、何時間もかかって魚を突いて食べたとき、生きている実感はバリバリあるのではないでしょうか。はたまた、宗教団体などは厳しい戒律があり、とんでもなく不自由な社会だったりします。妻帯を禁じる宗教も多いです。しかしそこでは、だいたい農作業やら肉体を使う雑務が山盛りあったりして、また通例自然の豊かなところが修行地になってたりしますから、巧まずして土と格闘し収穫する喜びや、清澄で厳しく美しい大自然に日常的に接したりするもんですから、えらく生きている実感が湧いたりもするのでしょう。
日本も戦後から経済成長時期までは、下部構造と上部構造が渾然一体になっていたように思います。国も俺達も貧しい→だから頑張って働こう→生活がどんどん豊かになるということで、自分のやってることと、その結果と、国全体との関係性がかなりクリアに見えていたのではないでしょうか。日本人同士、いまよりも素朴に「仲間」と感じていたのかもしれない。微かな記憶ですが、東京オリンピックやったり、新幹線が開通しましたという時期には、シンプルな興奮や熱気というのがあったように思います。
それがいつしか段々薄れていった。人と人とは疎遠になり、メシたらふく食ってりゃハッピーだったのが健康食品だなんだというのが出てきた。たっぷり働いて夜は泥のように寝てればよかったものが、ヒーリングだなんだと出てきた。オーストラリアのように店のレジで見知らぬ者同士フランクにお喋りしたりもせず、道端で出会った知らない人ににっこり挨拶もせず、オーストラリアよりも100倍も人口密度が高いくせに人との付き合い方に悩んだり、人ごみの中で能面のような表情で周囲にバリアはっていながら、駅のベンチでチマチマと携帯電話で出会い系サイトにメールを打ち込んでそれを「コミュニケーション」とか呼んでる人々は、はっきりいって病気だと思う。出会いたかったら、そんなシチ面倒くさいことしとらんと、ベンチの隣の人に話しかけたらええやん。iモードがなんぼのもんじゃい。道具に頼るんじゃねえ。それって、ものすごく根本的なところで嘘臭くないか?と。
10年前に比べて日本は二極分化していくと思います。それは貧富の格差ではないです。上部構造派と下部構造派です。
日本の上部構造のシステムは、とにかくお勉強が良く出来て(それが真の知性を意味するかどうかはともかく)、受験で点が取れて、それなりのステイタスのあるポジションに行けば、実際にどれだけ仕事が出来るか有能かはともかく、そのストリームに乗ってしまえば、あとは社会的なベネフィットがどんどんくっついてくるというものです。それが「日本ゲーム」だったりすると思います。
とにかく生まれてから20代後半くらいまでにどこまで初速を稼げてどこまで高く遠く飛べるか、です。一定のところまで飛べたら、あとは上昇気流に乗りますから、よほどのミスをせん限り、役得、コネ、裏金工作、天下り、年金、恩給、、、で、死ぬまで飛んでいけます。言うたら、スキーのジャンプ競技というか、「大砲ゲーム」みたいなもので、最初にドーンとどこまで発射できるかですね。
で、素朴にふと思うわけです。そんなの馬鹿みたいじゃん、と。そんなことが「生きる」ってことなんかい?
「勉強が出来る」ということは、それは確かに知性、理解力、記憶力に優れ、アタマの回転が速いという人間にとって重要な美徳の傍証にはなるだろうけど、それって他に数ある人間の美徳を押しのけてまで優遇されるべきものなのか。思うに、アタマがいいということと、「気は優しくて力持ち」ということと、別にどっちがどれだけエラいとか尊いとかいうものではないでしょう。どちらも等しく尊い人間の美徳ではないか。等しく貴重なものならば、等しく報われねば嘘ではないか。
この地球という惑星は、人間にとって必ずしも優しい環境ではないから、人間が生きていくためにはそれなりのハードシップを乗り越えないとならない。人が居ないエリアは自然環境がハードだし、自然環境が良くて人が群れているエリアでは人間関係がハードです。そのハードさを乗り越えるためには、筋力、記憶力などの能力と並んで、性格などの人間力も求められる。それが総合的な「生存能力」になるのであり、その生存能力を発揮しているという確かな感覚、そして能力発揮→生存という因果関係がクリアに見えれば見えるほど、人は生きているという実感を抱くのだと思います。
しかし、初速ドカンゲームばっかりやってたら、人間が本来持っている獰猛な野性と生存能力はスポイルされちゃうでしょう。早い話が、あるとき突然いきなり仕事も地位も失って、見知らぬ異国にポンと投げ出されたら生きていけなくなっちゃうでしょう。それでも俺はやっていけるぜという自負、生きていくための生存能力の自覚、そこがなんだかアヤフヤだと、もう生きていること全てが何処となく嘘臭く思えてしまうという。
僕にはそれが嘘臭かった。だから、ポンと見知らぬ異国に投げ出されてみたかった。生存能力の自負と自覚を奪回したかった。
今、日本の上部構造は以前にも増して揺らいできています。「寄らば大樹」といっても、なにが大樹かわからないし、大樹であってもいつポッキリ折れるかもしれない、大樹もまた昔ほど身内に優しくなくなった。
こういった情勢下において、人々が取る方向は二つ。より強烈な初速を稼いでより遠く高く飛ぼうとすること。上部構造がアテにならなくなっただけに、上部構造の中でもより信頼できるコアな部分に肉薄しようという方向。受験が以前よりも苛烈になっているのはその一つの現れでしょう。もう一つの方向は、アテにならない上部構造には見切りをつけて、人間の原点ともいうべき下部構造に回帰しようという流れです。その二つの方向に二極分化していきつつある途上にあるのではないか、と感じたりします。
ところでオーストラリアにくるとき、テーマソングのようにずっと頭の中でなってた「Punky Bad Hip」という曲(またしてもブランキーで悪いのですが)があります。今にして思えば、どうしてあれがそんなにハマったのかというと、今書いたようなことだったのですね。
古い世代の奴らは 金でなんでも買い漁った
だけど、俺たちは 自然の掟の中で生きる ケダモノの世代さ
アーティストというのは偉大なもので、僕が200行以上クダクダ書いてきたことを、たった2行で僕以上に言いあわらしてしまうのですね。そうです、ケダモノ性の奪回をしたかったんですよね。
で、奪回できたか?というと、出来たと思いますよ。
全然嘘臭くないですもん。なんで今俺はこうして生きているわけ?と自問自答したら(することもないですけど)、言えるもん。もう100%細部にわたって、どうして来客用のサンダルはアレなのかという点から言えますもん。
生きている実感が欲しくてリストカットする人がいますが、僕にはそういう趣味はないですが、オーストラリアに来た当初「なんでお前は生きているの?」と聴かれたら、おそらくこう答えるでしょう。「そりゃ、お前、英語が通じなくて大恥かきながらも、なんとか食糧をゲットできたからじゃねえか」って。
質問の趣旨からすると全然外れているわけですけど、そうなっちゃうんですよね。はぐらかしてるわけではないんです。でも、自然とそう思えてしまうのですね。つまりその答えを得たときは、既に問い掛ける必要も無くなっているわけで、問い掛けること自体無意味に感じられたりするものなのでしょう。
「どうして生きているの?」「馬鹿だな〜、メシ食ってるからに決まってんじゃん」って。
写真・文/田村
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