今年もまた就職が大変のようで、僕の日常のメール相談も、留学・ワーホリというよりも就職&人生相談になる傾向があります。それはむしろ歓迎すべきことで、留学やワーホリという海外体験を、就職などの日本におけるタイムラインから切り離した「人生の飛び地」として捉えるべきではないと思います。仮にそれが疲れを癒す「ホリデー」という色合いが濃いものであったとしても、小学校の夏休みが学校を離れては存在しないように、全体の中の一部であるから意味があると。
というわけでパコパコとキーボードを叩いてお返事を書いたりするのですが、これが結構難しい。いい加減なことは書けませんしね。前職と同じように、他人様の人生にいささかなりとも影響を与えるかもしれないとなると、自分でもウンウン唸って考え込みます。「今こそ海外で資格を取ってキャリアアップ!」みたいな一直線なことも言えない。大体、APLaCという、字ばっかりで、わりと容赦なく難しい熟語とか使っているサイトを読んでメールをしてくる人というのは、真剣度や知能レベルの高い人が多く、全力投球でお答えするのが礼儀であろうし、そうでないと許されない雰囲気もあります。
で、パコパコとキーを叩いて思うのが、今の若い人達にとっては「分かりにくいだろうな」「悩ましいだろうなあ」ってことです。遠景、後景、前景と三段階くらいレベルの違う状況があり、これに加えて日本独自のツイストがあります。一過性のものでもなく、また日本だけのものでもなく、世界レベルでそうなってる。しかし日本ローカルの特殊性もある。ややこしいんですよね。
既に過去に似たようなことをあれこれ書いており、似たような題材で何度も書くのもどうかと思うのですが、考えているうちに「ああ、なるほど、そうかも」と又新しいことを思いついてしまうので、すいません、忘れないうちに書かせてください。
先進国の宿命〜中間層の没落
まずは復習ですが、なんでこんなに就職がキツイの?なんでこんなに日本は景気がパッとしないの?論です。
これも書き出すと本が三冊くらい書けるのでしょうが、今から10年位前に日本での格差社会が議論になり、今も尚続いているとは思います。常態化したのでセンセーショナルな取り上げ方は少なくなったでしょうが、かといって格差が劇的に改善された!という話も聞きません。この切り口は色々あるのですが、ここでは中間層の減少という点を捉えます。日本では、この10年余で年収600-1500万円の層が20%も減ったそうです。
5人に一人というのはやはりスゴイことで、何事かが起きていると思うべきでしょう。そもそも「増えてない」というだけでも問題です。経済がヘルシーだったら年間3%くらいのインフレがあり、10年スパンだったら年収も1.5倍くらいになってなければ嘘です。これは、「物価も上がってないからトントンでいいのだ」という問題ではない。仮に物価上昇率がゼロでも国の借金(国債)の利率がゼロになるわけではないから負担は益々キツくなる。また、日本はトントンでも世界で物価が上がってるからキツくなる。まあ、この点は円高という別の要素で見えにくくなってますけど。
しかし、中間層の没落は、日本よりもむしろアメリカなど他の先進国において顕著です。つい先週もイギリスの大学授業料値上げで数千人の若者がデモで騒いでましたね。ネットで調べていると、「ルポ 貧困大国アメリカ (1、2)」という本があります。海外の悲しさですぐに入手できないのですが(海外在住者こそ電子書籍の普及を待ってます)、アマゾンのカスタマーレビューが164件も寄せられていることからしても、わりと有名な本なのでしょう。これだけレビューが多いと、それを読んでるだけでかなり内容も分かってしまうという。
先進国で中間層、特に若者にしわ寄せがいくのは、ある意味では歴史の必然、資本主義の当然の帰結でしょう。
これもオサライですが、第二次大戦後の数十年のように自動車、家電、ITなどあらゆる局面でライフスタイルを一新させるような新商品が次々に開発されていった時代は、国民も次から次へと新製品を買うので国内需要も旺盛だし、経済は順調です。しかし、それも一巡して飽和市場になり、且つ発展途上国がのし上がってくるに従って徐々にパイを奪われていきます。戦後のしあがってきた発展途上国の"初号機"は言うまでもなく日本です。80年代に日本車がアメリカ国民の職を奪うものとして目の敵にされ、日本車がハンマーでガンガン叩かれていた映像も今となっては懐かしい思い出です。その日本もすぐに追われる立場になり、次世代にくる韓国、台湾、香港、シンガポールあたりが離陸してきて、世界の金融センターやら、流通のハブやら、マザーボードやら、そして最近では家電も食われつつあるのは周知の通り。そして、第三世代のBRICsというマンモス級の連中がズシンズシンと地響きをたてて台頭し、さらにその次はタイとかインドネシア、バングラデッシュなど第四世代が注目されています。まあ、早い話、他人の通った道を追いかけていくのは簡単だということです。
簡単ですぐにマネが出来る工業製品や産業ほど、どんどん新しい勢力に持って行かれる。なんせ地価や労働力がケタ外れに安いから価格的に対抗できない。これは二つの流れを生みます。一つは、安価でそこそこ使える海外製品が国内に流入してきて、国内生産業者が倒産というパターン。入ってくるのは「製品」だけではなくサービスもそうで、ITのプログラミングやアニメ製作など膨大な人手のかかるものを海外に外注するという流れも起きます。もう一つは、国内の企業がコスト削減のために工場を海外に移転してしまうから、その分国内の工場は閉鎖されるというパターン(空洞化)。いずれにせよ、賃金下落や国内景気の悪化と失業者の増大を招きます。
パターンは色々あるけど、要するに先進国での職の数が減ってくるということです。「職」というのは「手間暇かけてやるべきこと(&それで儲かること)」ですが、その絶対数が減る。段々やることがなくなってくる。この傾向が続いていけば、残るのはその国、その企業にしか出来ないという極めてユニークな分野になります。絶対的なブランドを持っているか、あるいはユニークな観光資源です。欧州なんか結構これで食いつないでますよね。それか、世界中に工場と販路をもって君臨する超巨大企業の中枢エリートです。あともう一つあるとしたら、国際競争が成り立ちにくいので、いくら競争力が無くても潰れずに生き残っているエリアです。お役所なんかが典型的ですね。町内の銭湯とかタバコ屋さんは「国際競争」には晒されませんが、全体の景気が悪くなれば二次的、三次的に影響を受ける。
そんなこんなで中間層が没落し、格差が拡大します。競争がキツくなれば、「皆で役職を分け与える」という家族主義的な日本企業のやり方から、戦闘力の高いシンプルな組織構造に変え、人件費の高い高給層をリストラする話になりがちです。リストラというのは、リ・ストラクチャリング(再・構築)という意味ですが、殆ど解雇と同義に使われるようになったのも意味のないことではないです。その分給与の安い派遣で切り回す。派遣で中間層(年収600万)までいく人は少ないでしょうから、結果的に中間層がゴッソリ脱落していく。
中間層という、そこそこリッチだった層は、生活必需品以外にも、オペラ見に行ったりとか文化的な消費やほどほどの贅沢をしますから、これが国内経済にとっては大きな顧客層になっていた。新ビジネスを起業するにも、面白半分にお金を出してくれる層がある程度いないと、初動でつまづきます。中間層は国の宝だと言いますが、現代世界史などを見ててもそれは頷けます。中間層が育ってきた国(中国やインド)は本格的に離陸し始めますから。ところがこの中間層が20%も減ってしまえば単純に売り上げ20%減だけではなく、「見せしめ効果」のように、自分の給料は減ってない人でも消費を控える傾向になるから、ますます景気が悪くなる。そしてその波及効果の波及効果の波及効果、、、と巡りめぐっていき、そして来季も就活は厳しいぞ、って話になっていくのでしょう。
だから就活が厳しいのは日本だけの話ではなく、先進国はどこももっとキツイ。まあ、このあたりは
Essay 485でも書いたので多くを繰り返しませんが、日本の若年失業率がいいとこ10%なのに対し、アメリカ18%、フランス、イタリアは25%、スペインでは何と43%にも達してましたから。
これを血も涙もなく一言で論評すれば、「ま、しょーがないよね」に尽きちゃいます。
だって、最初からそーゆーゲーム(世界的な資本主義ゲーム)をやってる以上、メカニズム的にどうしてもそうなる。だから、オバマ大統領や日本の首相に「景気をなんとかせい」と望んでも、それは無理な注文でしょう。「夏が過ぎたら秋になる」みたいな摂理レベルの変化なんだから。国家レベルでの対応としていえば、@対症療法的(しばしば気休め的)に悲惨な結果を緩和するか、あるいはAこのゲームを止めちゃうかです。100年単位で考えればAも十分検討に値すると思うし、世界中でその種の取り組みもあるようですが、これは国単位では無理で世界レベルでせーのでやらないと難しい。まあ、BRICsが一段落し、飽和市場になり、彼らも同じ悩みを共有するであろう2050年ころにはそういう話になるかもしれません。ただ、ルールの修正は今すぐにでもやった方がいいとは思うけど、話が横道に逸れるので割愛。
なお中間層の没落についてある程度まとまった論考集として
「中流層の没落を防ぎ、復活させるために必要なこと」が読み応えがあってオススメです(もともとは
村上龍のJMM)。11人の専門家がそれぞれの見解を述べており、このエッセイ数本分のボリュームがあります。より考えたい人のために。
「みんな教」のゆらぎ
中間層が減ってくるということは、「普通にやってたら普通に(経済的に)幸福になれる」確率が減ってくるということです。一億総中流なんて言われていた時代には、全員が中流だったんだから(真実はそんなこと無かったとは思うけど)、「皆と同じようにやれば成功する」という黄金の方程式がありました。皆がやるようにお勉強をして、皆のように大学を卒業して、皆のようにそこそこの会社にそこそこ勤めれば退職金と年金で老後も何とかなるよ、と。めくるめくようなエクスタシーに溢れた人生ではないけど、極端に不幸ってこともなく、まずまず満足すべき人生になった。
いつの時代の話じゃい?って思うけど、現在に至るまで日本社会の基本フォーマットやアルゴリズム(論理法則)はこのパターンを踏襲していると思います。つまり「皆と同じことをやってれば間違いがない」という、赤信号皆で渡れば方式です。それもこれも皆が中流と思いこめた幸福な一時期の話であって、中流層が崩壊していくということは、「みんな」が崩壊するということです。まあ、まだ5分の1くらいだから直ちに崩壊ではないので、その過渡期ですね。
日本人は無宗教だというけれど、実は「みんな教」があるのだと冗談で言ったりします。皆が基準、皆が法律。万物の価値判断の源泉・基準になるということは、それはとりもなおさず「神」に等しいわけで、「宗教」だと。でも、そのご神体が徐々にやせ細っていき、そのうち神そのものが消滅してしまうとしたら、僕ら日本人の社会規範は一体何になるのだろう?ということで、価値紊乱が起きてきます。ちょっと前まではありえないような行為や発言をする日本人がチラホラ出てくるという。すこし前のエッセイで書いたように、僕は典型B型で、意地でも皆と違っていたいタチなので「みんな教」の熱烈な信者ではないし、だからこそ海外に居心地の良さを感じるのでしょうが、その僕でさえ日本で「みんな教」がおかしくなったらどうなっちゃうんだろうね?という不安もあります。まあ、そのときはそのときで新しい「みんな」像が出てくるのだとは思うけど。
冒頭で「わかりにくい」とか「悩ましい」と書いたのは、まさにその過渡期ゆえの悩ましさです。
「みんな」というぶっとくクッキリしていた基準ラインがだんだん薄くなり、付いたり消えたりしはじめている昨今、さてどうすべきか?というと、原理的に選択肢は二つ。
(A)どんどん狭くなってきている”古き良き”「普通(みんな)」エリアになんとか滑り込むという方法論。いい大学出て、いい会社ってやつです。
(B)基準となるものが薄れていってる以上、個人個人で勝手に考え、実践していくしかないという方法論。
まあ、圧倒的に多くの人が前者(A)を選ぶと思いますが、先進国の通例としてこの美味しい領域は日々刻々と幻のように薄らいでいくでしょう。とりあえずは一流企業や有名企業に入るのが難しくなるということで、既にそうなってますよね。
昔だったら適当に大学に行っておけば、就職だって適当にどっかひっかかっていたのですが、そうもいかなくなっている。アメリカの場合、これがもっと大変になってて、何がなんでも名門大学に入るためにムチャクチャ努力するだけではなく、さらに膨大な学費を賄うために奨学金だけではなく学資ローンを組まざるを得ない。しかし返済できないとサラ金まがいの取り立てに追われている実情が「ルポ 貧困大陸アメリカ」に書かれているようです。中流層=みんなのボリュームが減るにつれ、徐々に「みんな」ではなく、質量ともに「限られたエリート」になっていく。そうなると「エリートにならなければ死ぬ」みたいな感じになっていき、「皆と同じようにそこそこ」という牧歌的なゆるい感じから、一本の蜘蛛の糸を巡って過酷な争奪戦のように状況がシフトしていく。韓国あたりも景気は良さそうでありながら、若者の就職状況は非常に過酷なようです。
それはそれで問題なのですが、日本の場合さらに問題を複雑にしている要素が幾つかあります。
一つは、人生における仕事の比重が重すぎること。仕事以外に、人間としての美質(優秀さ、勇気、忍耐、思いやり、連帯感など)を得る人生局面が、他の先進国に比べて少ない。それも極端に少ない。だから「仕事なぞ人生の一局面に過ぎない」というクソ当たり前の認識がなっかなか浸透しない。「ビジネスマンとしては優秀だけど、人の親や隣人としては劣等」という状況が是正されない。ゆえに、日本で仕事をしてないと、他の先進国以上に肩身が狭く、人間として自尊心を維持しにくい。
二つめは、日本人の「みんな教」モノカルチャーのせいで、皆と違うと(僕のような天の邪鬼は別として)疎外感を抱きがちであり、しかも悪いことに未だに「皆、普通に就職できる」という意識も強く、それも上の世代になるほど強いこと。これは後でもう少し敷衍します。
三つ目は、グローバル資本主義の展開や、終身雇用の崩壊になりながらも、未だに新卒一括採用なんてやっている。そのため大学内でも前倒しが進んで早ければ2年次、短大などでは入学式が終ったらもう就活という馬鹿げた状況になっている。それでいて、日本企業はかつてのような社会的機能を果していない。すなわち、日本の公的福祉の貧弱さを企業の手厚い福利厚生で補うという「小さな政府、大きな企業」ではなくなっている。業績が悪くなればリストラするくせに、業績が良くても給料を上げないから景気循環機能や所得再配分機能もない。数年前に史上最高益を上げたのに日本人の給与はここ20年上がっていない。さらに、企業内で一人前の社会人に育て上げるという教育機能が日本の企業にどれだけ残っているか疑問であること。にも関わらず新卒一括をやってるから、セカンドチャンスが乏しく、最初でコケたらもう人生オシマイ的なメンタリティが蔓延する。
逃げ切ろうとする世代
これも何度も書いてますが、こういった状況は日本だけのことではありません。サブプライムショック(リーマンショック)でヒドイ目にあったのも日本以上に他の西欧諸国ですし、サブプラムがあろうがなかろうがグローバル資本主義の進展という大きな枠組みはそのままあります。だから、日本だけがひたすら沈み続ける理論的な必然性はないのですが、なんか最近、ヤバいんじゃないの?という気もしてきました。いや、素材としての日本は優秀なんだけど、やり方と、メンツに問題があるというか、、、。
猛烈な勢いで後から追いかけられているのですから、ボケッとしてたら日々状況は悪くなります。だからこれまで以上に頑張らないとならないけど、そのためには経済や社会にどんどん新しい動きが出てこなければなりません。旧態依然としたこと、微温的な改革では足りず、これまで考えもしなかったような新しいチャレンジを次から次へと起こさないとならない。大体、自動車や家電で世界のナンバーワンになるなんて方向性は、戦後の頃の日本人には思いもしなかったでしょう。万博やってる頃にゲーム機器やソフト、アニメが世界に売れるなんてことも考えなかった。先進国になればなるほどトップランナーの孤独というか、同じ事やって真似されたらアウトです。余りにも新しすぎて真似しているヒマがない、やっと真似出来たと思ったらもう次のレベルにいっているという感じに、間断なく新規の試みがテイクオフしていって丁度いいくらいです。つまりはチャレンジ精神こそが何よりも求められていると。
それは日本人の誰もが分かってるとは思いますが、じゃあ、やるか?というと話は自ずと別問題です。やらないんだわ、これが。いや、やってる人達はいますよ。絶対数でいえばそこそこいるとは思いますが、全体からみたらまだまだ少ないし、そういうカルチャーになりきれてないでしょう。
JALの再建で旧経営陣が結構居残ったりして、逆に労組などで頑張ってる(会社からみたらうるさい)スタッフをリストラしてたりしますが、あれなんか見てると「あ、本気でやる気ないんだ」って思っちゃいますよね。まあ、やる側は本気かもしれないけど、これまでヌクヌクしたところに居た連中の執着力というのは、僕らがなにげに思ってる以上に強いんだと。官僚などが利権を手放さそうとしないのも同じことです。こりゃあ、本当に「叩っ殺す!」くらい勢いでやらんとダメだなと。しかし、考えてみればこれも当たり前なのでしょうね。なぜなら、例えば会社内で使い込みが発覚するのを恐れてとか、社会的地位や身分を守るために犯される犯罪って多いでしょう?本当に人とか殺しているもんね。子供の頃からガリ勉やってさ、必死に就職して、あの手この手で出世してってやってきた連中が、そう簡単に諦めるわけないですよね。その執着力たるや、マジに殺人レベルに強いだろうと。そのくらいに思ってていいのではないかと。
で、今、社会の現場の実権を持ってる50代、60代というのは、頑張ろうと思えば逃げ切れるのですね。日本は大きく変わるかもしれない、もしかしたらダメダメになっちゃうかもしれない、でも自分まではなんとかセーフなんじゃないかって。あと5年、10年会社が持てば、そして大きなミスを犯さず自分がリストラされなかったら、そこそこ退職金も出るし、年金も出るしってことでしょう。チャレンジというのは、一種のバクチですから、リスキーです。大きなチャレンジになればなるほど大バクチになる。普通ビビりますよね。そこをビビらないチャレンジジャーというのは、性格的にそういうのが好きな人(少数だけど)と、もう一つは失うものを持たない人です。ダメもとだからこそガンガンいけるという。
でも、ゴール間近で、あとちょっと波風立てずに過せばいいんだったら、敢えて進んでリスキーなことなんかやらないでしょうよ。そうなると、これは想像なのですが、今の日本の企業の中の雰囲気、特に有名一流企業になればなるほど、あんまりワクワクした雰囲気ではなさそうな気がしますね。「これが実現したらすげえよな」「おー、ゾクゾクするぜ」「おっしゃ、いこうぜ」みたいな馬鹿パワーが炸裂しているような感じではなさそうです。逆に、守りに入ってミスを恐れる、それも極端にミスを恐れるようなメンタリティになってるのではないかと。したがって部下に対しても、「よーし、好きなようにやってみろ!」「責任は俺がとってやる」とドンを背中を押すようなムードではなく、逆にあれしちゃダメ、これしちゃダメとか、江戸幕府みたいになってるのでは、と。これじゃあチャレンジもクソもないわね。あ、でも、最近のシャープの「ガラパゴス」はいいですね。ああいうネーミングセンスで最終決済が通るような会社っていいなと思います。深く考えてのことではないですけど。
ほんでもねえ、思うのですがチャレンジというのは創業者社長にして初めて可能って気もします。今僕が日本で就活やってたら、創業者社長の会社を物色するでしょう。先ほど、従来通りいい大学→いい会社というセットメニューでやっていこうという方法論Aと、個々人が勝手に自分の人生を組立てていく方法論Bがあると書きました。これは人間のタイプでもあり、なんたら定食を食べる定食A型人間と、居酒屋みたいに個別に注文するアラカルトB型人間です。言うまでもなく、創業者というのはB型です。A型だったらどっかに入社してそのままですから。そしてチャレンジというのはB型でないとしにくいだろうなーって思うのですよ。なぜなら深層心理(というほど大袈裟ではないが)、A型人間が人生や仕事に求めるものは「安定」ですが、B型人間が求めるものは「スリル」ですから。僕はBタイプですが、成功するかどうかなんか究極的にはどうでもいいのね。面白そうかどうか、もっといえば「燃える」かどうかです。チャレンジって燃えてないと出来ないですよ。で、創業者社長が退いて、二代目三代目になってくると、やっぱり自分で作ったものではないからそこまでは出来ないです。これは彼らが無能だということではなく、能力だけなら創業者よりも有能な二代目はいると思うのですが、「潰しても構わん」と思えるかどうかという立場の問題。そしてサラリーマンとして寄らば大樹でやってきた人間と、真っ暗な海に小舟で乗りだしていくという人間の資質の差だと思います。
列の前と後ろ
社会の仕組みやルール、カルチャー、そしてマスコミによる報道というのは、基本的にはA型タイプの人達、その中でもエリート集団によって育まれるでしょう。いくら日本にナニゴトかが必要とされ、多くの日本人もそのことをよく理解していたとしても、中枢実権を持っている人達にその気がなかったらあまりそういう動きにはならない。
社会というのは最も弱いところ、最もカジュアルなところ、行列の最後尾から変わっていくと思います。それは例えば軍隊の行進のようなもので、後ろの方で何か起きても前方集団には中々伝わらない。遠足でも、「先生、後ろの方が遅れてます」「○○クンがもう歩けないって座り込んでまーす」と伝言ゲームのように伝えられても、「あと、ちょっとだから頑張りなさい」というくらいでしょう。中々リアリティとしては分からない。先頭集団が通った時には十分わたれた川も、後になったら増水して渡れなくなったり、交通事故が起きて通行が遮断されても、先頭集団はその状況がピンとこないから、「頑張れ」とか「根性だ」とか言う。要するに事態が把握出来てないのですね。
ここ10年ばかり日本の雑誌、例えば継続的にAERAとかを読んでると、なんか違和感があるのですね。多分編集しているのは受験戦争を勝ち抜いてきたA型エリートの人達だから、今の30代、40代のA型エリートの視点で何となく記事が作られている。やれ「東大女子がどうした」という、そんなの誰が興味を持つのだ?という仲間内話題記事、大学別就職とか年収とか、中高一貫校とかお受験とか、マンションは今が買い時だとか、だけど仕事にそんなに自己実現できておらず、また結婚についても攻めあぐねている感じの記事が多い。最近知ったのですが、大学序列で「大東亜帝国」とか「MARCH」とかいう用語もあって、受験戦争が一番激烈だった僕らの頃でもそんな言葉なかったぞと思うのですが、未だに学歴話をやってるという。企業もそうなら、マスコミもそうだということですね。多分、昔のパラダイムで成功してきた人達だから、昔のパラダイムに慣れしたんでいるということもあるのでしょうが、昔のパラダイムのままであって欲しいという願望もうっすら透けて見える、、というのはうがちすぎでしょうか。単純に感想でいえば、詰まらなくなってます。どんどん楽屋落ちみたいな記事、読んで視野が広がる記事よりも、読むと視野が狭くなるような記事が増えてきてる。この世代の受験エリートの「世間」がいかに狭くなってるかを示す格好のデーターなのかもしれません。
逆に社会の中枢ではなく、列の後ろの方にいる人達から、結婚しなくなったとか、ニートだとか、変化がビビットに起きている。しかし、後列にいるので、「そういう人もいるそうな」「最近増えてるらしい」というのが日本のマスコミの扱いであり、それを読まされる日本人も「らしい」という間接的な感触で捉えてしまってる気がします。リストラされてホームレスになってしまったお父さんとか結構いると思うのだけど、そういう社会の後列であり、且つ最前線についてはA型ジャーナリズムは弱く、B型、つまりフリーライターとかルポライターの仕事になってますね。居場所によって見え方が違うのでしょう。ずっと前に山一証券が破綻したときのマスコミの驚天動地の騒ぎぶりにもシラけましたけど、あれは自称エリート世界内部の話だから彼らにはリアリティがあったのでしょう。でも、世間の庶民にとっては会社が潰れるなんざ日常茶飯事ですから、別に、、って感じなんだけど、そのあたりに感覚のズレがあります。
でも実際にこの20年、30年で日本社会はかーなり変わりましたよ。30年前だったら、こんなに就職しない(出来ない)人や結婚しない人が多くなるなんて、あえりえないことでしたもん。30年前までは、25歳で結婚しない女性をオールドミスとか、クリスマスケーキとか言ってたんですからね。今はそんな表現や発想こそがありえないでしょう。カジュアルなものから変わる。政治の世界は、一般的にいえばまだ変わってる方だと思います。普通選挙というのはやっぱり有り難いもので、所得に関わらず一人一票ですから選挙ともなればあらゆる階層、あらゆるエリアの票を掘り起こさねばならず、社会が変われば政治もそれなりに変わる。それが予期した効果を収めているかどうかは別として政権交代も起きたし。一番変わってないのは、だから、列の先頭集団でしょう。旧来からのエリート層A型の人達であり、それにどっぷり浸かって、もうちょっとでゴール間近な人達。ここが一番変わってないような気がする。まあ、変わると最大の被害をこうむる層だから、変わりたくないだろうし、変わる必然性を最後まで認めたくないだろうから、当然といえば当然だけど。
で、今の就活は?
上に述べたような背景事情を前提に、じゃあどうするの?です。特に就活に臨み、あるいは成功し、あるいは思わしくない人に何をどうアドバイスすべきか?あなたならばどう言いますか?
ところで僕自身就活なんかしたことないし(弁護士事務所を選ぶために事務所訪問をした程度)、もう高校生の頃からB型パターンでいくと決めてたし、17年もオーストラリアに居るので「日本人」ですらないかもしれず、いったいどれだけ実のあることが言えるか自分でも疑問です。しかし、だからこそ8000キロほど距離を置いて、傍目八目的に見えることもあるかもしれません。アドバイスなぞエラそうなことは言えないのですが、自分がその立場に置かれたら多分こうすると思う、ということを書きます。既に紙幅も超過しているので急ぎ足で。
仮に僕がA型就職が出来た場合、真っ先に思うのは「この幸せは長くは続かない」ってことでしょう。終身雇用なんて夢みたいな話は論外としても、仮に結果的に終身雇用だったとしてもその「終身」の内容が地獄の日々だったら意味がないです。しかし、幸せ「らしきもの」を得たら、それがどんなに腐っていても、コアラのようにしがみついてしまうのが人間のサガというもので、中々自らそれを断ち切ることは出来ない。それが最大のネックになるでしょう。「この職を逃したら後がない!」としがみつくあまり、どんどん人間が歪んできたり、鬱になって結局退職させられたらアホみたいです。35歳過ぎて再就職が微妙になってから会社にコケられたり、リストラされても悲惨です。
というわけで、「やった、就職できた」と思った瞬間、間髪入れず「その次」を考えますね。A型の最大の弱点は、守りに入ることです。守りにはいると勝率はガクンと下がり、守りきれなかったときのダメージもまた甚大になる。従って、その対策は、とにかく守りに入らない、ある日突然会社がコケても「あっそ」「ふふん」程度の動揺で済むように、常日頃から心胆を練ることです。入社した会社が仮にかーなり良かったとしても、10年しないうちに辞めると思います。なぜかというと、これは僕が日本の弁護士業をやめたのと同じ理由で、長い人生のために早い内に一回ゼロリセット経験をしておき、予行練習をしておくためです。よっぽど天職と思えない限り、まず辞めると思います。
奇矯な言説を弄しているようですが、終身ではない=どっかで辞めるのであれば、いつ辞めるか?というタイミングこそが最重要課題になるでしょう?基本は株の売買といっしょで、一番いいときに売る(辞める)。落ち目になり出してから慌てて行動しても、安目安目で転がり落ちていく危険性大です。ではいつが高目なのか、それはそこで得られるものは何か、現実的に獲得可能なMAXポイントはどこかを常に考えることです。
A型に馴染まず、あるいは不本意でB型アラカルト人生になるかもしれない人。これは自分そのものだから違和感なく書けますが、何をするか一言でいえば、「自分を鍛える」ことです。それっきゃないでしょう。自分以外頼りにならない、独立独歩なんだから自分の戦闘能力をMAXにまで押し上げる。ワンマンアーミーになる。ありとあらゆる機会を掴んで、勉強、訓練、修行、特訓、、なんでもいいですから、バリバリ食べ、鉄の胃袋で咀嚼する。
でもこれは基本コンセプトというか「心構え」みたいなものですから、もっと具体的な「やり方」というか、とりあえず何をするかといえば、そうですね〜、まず何でも良いから職人なりプロになろうとするでしょう。僕の場合は弁護士でしたが、医者でも税理士でも植木屋さんでも引っ越し屋さんでも同じことです。この場合大事なことは、「資格」というカタチに囚われてはいけない、ということです。ハッキリ言って今の日本で資格だけで食っていける仕事なんか無いと思いますから、ありがちな「資格幻想」は今この瞬間捨てること。弁護士も医者も資格ビジネスっちゃそうですが、それも実力あっての話です。資格を取るよりも実力を付ける方が難しい。「営業」も大事だし、なによりも実際メチャクチャ働いてます。もう過労死寸前まで働く。資格があって食えてる人は、資格があるから食えているのではなく、実力があって+メチャクチャ働いてるから食えてるだけです。その意味では他の仕事と変わらん。医者だって医者になりたいからなるのであって、医者という資格が欲しくてやってるわけでもない。要は稼げるだけの技能があるか、それだけ働けるかです。
だから別に資格というカタチになってなくても構いません。てか、資格というカタチになってない方が食える方が多いのだ。優秀な営業マンはやっぱり食えるし、優秀な編集者も食えていますが、営業一種とか編集職甲種なんて資格はない。資格をとるのは悪いことではないけど、資格を取るための努力を10としたら、その資格を使って何をどう組立てていくのかという方に30くらいの労力を使った方がいいと思います。だって使えない資格が多すぎるから。せっかく2年がかりで取っても基本給が500円上がるだけだったら投下資本が回収できないでしょ。
だから、最初はバイトでもフリーターでもインターンでも何でも良くて、まずはその業界を知ること。頭ではなく、身体で知ること。実際にモノをいうのは実力とキャリアです。「前、○○やってました」と胸張って言えるかどうか。海外に出たら特にそうで、外国の資格というのは無条件にコンバートできない場合が殆どです。でも具体的に何をやってきて、今この瞬間に他人に出来ないことが出来るというのはウリになります。それがすなわちキャリアですよね。
で、この先あれこれ組立てていく場合、特に自分で起業したり、多くの人と会うような場合、「私は○○です」と言えるのが強いのですね。「ああ、この人はこういう人か」というのが分かる。「スキューバのインストラクターやってました」でもいいし、「スタバの店長やってました」でもいいし、「子供達のボランティアやってました」でもいい。それが名刺代わりになり、信用にもなり、興味を持ってもらって「とりあえず話くらいは聞いてやろうか」になる。ここがあんまり言えず、「派遣でいろんな会社で事務やってました」となると、弱いんですわね。積み上がっていかない。時間と労力が勿体ない。同じサラリーマン、同じ「派遣で事務」であっても、「○○業界の資材管理については出来ます」というカタチに立たせていくこと。総務だって「大企業の組織内の生理と病理については多少は詳しいです」というカタチにする。
当面給料がいいかどうかなんか二の次で、場合によっては無給でも良いです。WWOOFというのがありますが、有機栽培をやってる農場にボランティアで働くことですが、これも「オーガニックに興味があり、オーストラリアで約30カ所でWWOOFをやり、色々なやり方を見学してきました」といえば、十分な名刺代わりになります。何が出来るか、何を知ってるか、何を体験してきたかです。どうせ20代の給料なんか微々たるモノなんだから、そんなに囚われなくても良いと思います。
第二に、それが自分の名刺代わりになるので、何よりも自分らしいこと、自分の好きなことにこだわるべきでしょう。やりたくないこと、やっててイヤでしょうがないことが名刺になっちゃったら、残る人生それ関連の仕事ばっかりになっちゃってツライですよ。だからやるなら好きなこと、「○○をやってる俺」というアイデンティティに納得がいくかどうか、他人にそう思われても構わないかどうかです。「なりたい自分になる、育てる」くらいの気分で。
ここで好きなことがよく分からなかったら話にならないので、なにかを好きと思える自分に育てるのが先決でしょうね。その為には手当たり次第にいろんな経験をした方がいいです。好き!という心の弾性値が低い理由は、@そもそもこの世の「面白いこと」を知らな過ぎる、A心が愉快になってない、の二つが考えられます。特にAは重要で、気分がドヨヨンと死んでたら何をやっても面白くないですよね。過去数ヶ月間に、うれしくて、楽しくてじっとしてらんない!思わずスキップしちゃったぜって記憶がなかったら要注意だと思うぞ。とりあえず、「元に戻れ」と。子供みたいに「うきゃー!」という体験をしなはれ。心のGPSが壊れたまま船出したらアカンて。
第三に、B型はアラカルトなんだから、一点だけで全てを満たそうなんて思わず、三点セットのように他の職種、他の経験と有機的にリンクさせていくこと。コタツ+蜜柑+TVの3点セットで「場」が出来るように。ビール+枝豆+冷や奴のように。別に「3」という数字にこだわらんでいいけど、相乗効果というのがあるのだ。だから一つの職に就いても、同時並行的に他の業界にも関心をもって見ておくこと。それは「業界」という仕事的なものに限らず、どこがどう仕事につながるのか見当もつかないような趣味でもいいです。金融関係で働きながらニホンザルの生態に興味があるとかいうのなんか良いですよね。今の自分には全く見当がつかないくらいの方がいい。その方が後々誰も思いつかないような斬新なビジネスになる可能性もありますから。誰もが思いつくようなパターンだったら、絶対に先にやってる奴がいるし。
第四に、20代(30代も)は全部修行でいいこと。視野や体験は広ければ広いほど成功率は高まるし、アイデアも出てくる。小さくまとまらない方がいい、、というか、まとまったらダメ。人脈についてもしかりで、同じ町内、同じ業界にしかコネがないのと、世界中&あらゆる業種にコネがあるのとでは、実行面において格段に違いますから。
第五に、あれこれやるべきなんだけど、食い散らかしはダメ。ある程度モノになるまではコツコツ努力すること。「かじった程度」ではキャリアにもスキルにもならない。英語をやるなら、「日本人で俺ほど出来るやつはそんなに居ないぞ」と自惚れではなく思えるくらいにやること。でなきゃスキルにならない。一時期「鬼」になるくらいの気持ちでないと差別化は出来ない。
第六に、かーなり無理目なことに挑戦すること。「絶対、無理!」「そんなこと出来ない」と思えるくらいのことに挑戦する。そればっかだったら大変だけど、定期的に。なぜなら、A型就職をした連中は企業内でそれをやらされているからです。伝統的な日本の大企業であれば、ビジネスマンのイロハを叩き込むと同時に、実戦現場で「○○やってこい」と「ひえ〜、絶対無理!」というような無理難題タスクをやらされます。飛び込み営業毎日300件とかね。仕事だから逃げるわけにもいかないし、シクシク泣きながらでもやる。徹夜で仕上げろといわれたら徹夜もするし、場合によっては土下座もする。A型の強みはそこで、企業内でビシバシしごかれるからそれなりに戦力になっていくのですね。B型の場合、他人に強制されずに自由なだけに、そこが甘くなるのですね。修行機会をミスる。
なーんていくらでも書くことはあるのですが(ああ、もう終えなきゃ)、書いてて思ったのだけど、A型もB型も究極的には同じなのですね。A型でもA型社会で生き残っていこうと思ったら、視野を広げ、経験を増やし、自分の戦闘能力を上げていくしかないです。結局使えない奴はクビになるんだし。そしてずっと残っていられるかどうかは分からないので、常にリストラ後、退社後のことを考えざるを得ないのはBと同じです。B型だって、A型が履修する一般ビジネス教養を知らなくていいわけではなくて、自分で機会を作って学び、自分で無理目な事にチャレンジして限界を押し上げていくしかない。右回りか左回りかの差でしかない。
ああ、でも、全然書ききれないや。またの機会に。
文責:田村