「友達がほしい」、、、なんて思ったことは、生まれてこの方一度もないです。
別に奇をてらってるつもりはないんだけど、本当にそんな記憶はない。逆に、そんなこと思ったりするのか?って。
まあ、思う人もいるのでしょう。
日本で「コミュニケーション能力」なんて言葉が使われ出すのと並行して、「友達が沢山いるとエラい」みたいな奇妙な価値観が一部に流行ってるという話も聞きます。まあ、それが本当かどうか分からないのだけど、そーゆー教義に心酔している人で、しかも友達が出来なくて悩んでいる人にとっては、「友達が欲しいなんて思ったことはない」というのはイヤミな言い方に響くのでしょう。
でも、悪いけど、本当にそんなこと思ったことないです。今この瞬間もそう思ってないし。
それってなんか「酸素が欲しいと思ったことはない」に似てます。落盤事故かなんかで地下に閉じこめられ、酸素が欠乏するような体験をしたら、「ぐわ〜、酸素が欲しい!」と思うのだろうけど、さいわい僕にはそんな経験ないですから、改めて「ああ、酸素が、、」と思ったことはない。それに似てます。
友達が欲しいと思う人も、思わない人も、人間としての素材にはそんなに差がないと思います。もちろん先天的・後天的に個性の差というのはあるでしょう。生まれながらに人望やら天性のスター性があるとか、逆に極度の対人恐怖症であるとか、そういった個性差はある。でも、そういった差を考えても関係ない、、、というか、何かもっと次元が違うんじゃないかって気もします。
だってさ、
@「友達」の定義がメチャクチャいい加減じゃないですか。単なる知人をも友達にカウントするのかしないのかで天地の差が出るのだけど、別に統一基準なんか無い。友達が欲しいよ〜」と思ってるAさんだって、Bさんからしたら友達が山ほどいるように見えるかもしれない。Aさんが思う「友達」と、Bさんが思う「友達」は全然意味が違う。これって「モテる」に似てて、ハタから見てれば、常に異性に取り囲まれている人はモテてるように思うのだけど、本人は全然そんな気がしないってことはよくあります。
A、こちらが本筋であとでゆっくり書くけど、本当に貴重なのは他人と心を通わせること、その温かい「なにか」であって、「友達」というのはそれを抽出するイチパターンに過ぎない。「友達」という形式じゃなくても、他者との交流で心が豊かになることは幾らでもある。というか、そっちの方が多いと思います。
今回は別にこれといった主張はないのだけど、つっつくと幾らでも書くネタが出てくる面白いテーマなので、気の向くままあれこれいじくってみます。それに、昔っから、友情が至高のものであるかのごとき「友情神話」みたいなものに違和感を感じてたし。一時有名だった少年ジャンプの編集方針「友情、努力、勝利」に傾倒しすぎてないかとか。「友達がほしい」という心情の痛々しさは伝わってくるものがありますが、だからこそ逆に、そんなの気にするこたあねーよって言って差し上げたい気分もあります。
「友達」と「知り合い」の違いは?
「友達」の内容って、実は無いんじゃなかろか。
「竹馬の友」「刎頸の友」という言葉や、「泣いた赤鬼」(あれはいい話ですよね)や「走れメロス」をはじめとする小説、映画、マンガで友達に関するあれこれは沢山出てきますけど、でもこれらは属性というか、「そーゆー場合もある」くらいのことでしょう。もし本気で「走れメロス」レベルの信頼関係、「友の為には死ぬのも当然」ってレベルじゃなきゃ「友達」とは呼ばない、とか言われたら、友達なんか滅多にいないと思うぞ。
「友達」を無理やり定義したら、親や親族関係もなく、恋人や夫婦でもない、「相互に何らかの好感情を持っている他者」くらいでしかないと思います。だってそれ以上厳格に定めようがないでしょう。
この程度のレベルでいいんだったら、職場の同僚だの、サークルでの仲間だの、学校の同級生だの、近所の知り合い、、、要するに「知り合い」「知人」も全部含まれてしまいます。で、含まれていいんだと思います。友達と知人は違うとかいっても、何が違うの?といえば、結局は濃淡でしょ。程度問題でしょ。でもどの程度に相互に親愛感情が芽生えたらいいのか?というと、その基準は人それぞれだし、同じ人であっても時期や場合によって感じ方はバラバラだから、結局は基準なんか無いのと同じ。基準がないなら、違いもないだろと。
例えば、濃度が低いのが知り合いで濃度が高いのが友人だという言い方もあるけど、その濃度というのが分かったようで分からない。それに「親友」という概念もあって、濃度が低いのが普通の友達で、濃度が高いのが親友だという言い方もできるわけで、こうなると言葉の問題でしょう。僕もかつて、友達の大安売りみたいな趨勢というか、うさん臭い健全さみたいなのに反発して、友達のレベルを引き上げたこともあります。例えば、頼まれたら理由も聞かずに大きなお金(年収の半分以上)を貸せるくらいの間柄、「何にも聞かずに○百万円貸してくれ」と言われたら、本当に何も聞かないでポンと貸してあげられる位でなければ「友達」って言うんじゃねーよって思ってたこともあります。でも、すぐにそんな基準ナンセンスだと思うようにもなりました。濃度が高ければエラいんかい。「一瞬の淡い交情」にだって尽きせぬ価値はありますから。
ちなみに知人を意味する言葉で「知己」というのありますが、古来中国では「知己の恩」というのがあるらしいです。これは目上の人が、目下の者の賢さや才能を敬い、へりくだり、師として仰ぎみることで、戦国末期(秦の始皇帝が出てくるちょっと前)の魏の公子信陵君と門番の侯生の故事が伝わっています。知己というのは、自分を完全に認めてレスペクトしてもらうことであり、この全人格的恩義を受けてしまったら最後、命を差し出してこれに報いるのがルールとされています。ここから史記の刺客列伝に出てくる「士為知己者死」に連なり、さらには日本でも「士は、己を知る者の為に死すべし」という強烈な倫理が出てくる。ここでは、友達の方が知人よりも上とか濃いとかいうチャチなレベルでの話ではなく、もっと激しく純粋に突き詰めた人間関係の規範があります。
だからこんなもんは趣味なんですよね。「そんなのは『本当の友達』ではない」というとき、どのあたりのレベル設定するかは、その時々の気分の赴くままに言ってるだけで、要するに「趣味」です。好きに言ってればいいんじゃない?くらいの感じ。だって、「友達認定」されたら、税金が安くなるとか(友達控除とか)、別にそんなこと無いもんね。
AさんとBさんが相互になんらかの好意感情を持っていると、それだけでいいんじゃないかな?いけないのかな?要は「互いに好意を抱いている」という点で、それだけなんじゃないか。他者を理解しようとし、レスペクトする心情のうれしさ、尊さが大事なのであって、要はそれだけだと。
なんでこんな事をウザウザ書いているかというと、「友達」って難しいと思うからです。意識すればするほど変な感じになるというか、眠ろうと思えば思うほど眠れなくなるように、自然のものは出来るだけ意識の触手でなぶらないでおいた方がいいと思うのです。
オーストラリアに来て、語学学校にいって、あるいはラウンドにでて、「友達できるでしょうか?」と心配される方がいます。というか、殆ど全員が濃淡の差こそあれ、似たような危惧を持つでしょう。そういうときは、いつも「出来るよ、絶対。掃いて捨てるくらい出来る」と答えつつ、「でも別に「作ろう」とか意気込まないで良くて、自然にしてればいいよ〜」と言ってます。意識するとなんか妙な感じになっちゃうんで。友達なんか「オデキみたいなもの」とか僕は良く言いますが、気がついたら出来ているもの、というか気がつきもしないうちに出来て、気がつかないまま無くなっているようなものだと思うのです。気合を入れればオデキが出来るってもんでもないって意味でも似てる。
だから妙に気にしていじくらない方がいいと思います。目の前の人が、自分を一個の人間として認め、扱ってくれるだけで十分だと思うべしです。渇望感のあまり変にハードルを上げすぎると、目の前の人が実は友達なのだということが見えなくなるし。
それにこれは全てに共通することなんかもしれないけど、自分がいかに見られているかよりも、自分がいかに他者を見るかの方がずっと大事でしょう。他人に好かれているかどうか気にするヒマがあったら、他人を好きになり、他人の良いところを理解するように努力すべきっしょ。そんなさ、他者の視線や評価ばかりを気にするというのは、別の言葉で言えば「俺が俺が」で自分のことしか考えていない自己中野郎だということでもあり、友の有無にかかわらず、それは改めた方が良いと思います。Give & Takeは、まずGiveから始まるのだから。
「友達」よりも濃くて尊い人間関係
ところで、人間関係の濃さで言えば、友達なぞはそれほど上位にはランクアップされません。
親兄弟、家族、恋人、夫婦の濃厚さに比べたら、はるかに淡いものです。親子、夫婦の濃さは、もう鬱陶しいくらいの濃さであり、その濃さが感動のドラマを生む場合もありますが、それが仇になって殺人事件に発展することも決して珍しくはありません。愛憎入り混じったドロドロの関係、遺産分割などでの骨肉の争いなどなど。ハッキリ言って親族夫婦間でちゃんと対話をしよう、ちゃんとした人間関係を作ろうと思えば、それだけでヘトヘトになって、それ以上に「友達」なんか考えている余裕なんかないんじゃないかと思われるくらいです。
しかし、友達よりも濃い関係は親族・恋愛に尽きるものではないです。意外と軽視されがちなんだけど、仕事における人間関係というのもかなり濃い場合もあります。上司と部下という組織内でもそうですし、取引先という外部関係でもそうです。前回ちょっと書いた「恩義の貸し借り」というレベルでの関係もあります。「よし、やってみろ」とポンと1000万円貸してくれるような人間関係は、そんじょそこらの友達なんかよりもよっぽど濃くはないですか?連帯保証人になってくれるとか、大口の取引先を紹介してくれるとか。僕の場合のボスは、単に雇用者とか上司というものではなく「師匠」でしたし、多くのことを叩き込んでもらった。
でもそんな熱血ビジネス立志伝的な話ではなくても、通常業務の範囲内でも幾らでもあります。
例えば、学校の先生と生徒だって、同じ目線で話し合って本当にいい関係を築き上げることもあるでしょう。医者や看護師と患者さんでも、闘病生活を二人三脚でやるなかで芽生える交情もあるでしょう。冤罪事件を30年間戦い続けた弁護士と依頼者は、一緒に酒を酌み交わすことも一度もなく、常に刑務所の接見室でガラス越しにしか会えないけど、並大抵の人間関係じゃないですよ。これらは職場や仕事など別種の人間関係のフォーマットがあるから「友達」とは認識されはしないけど、真摯で誠実な人間関係です。
さらに淡い関係としては、例えば馴染みの食堂や生協で、金がなかったり元気なさそうだったら、こっそりコロッケ一個オマケして乗せてくれるおばちゃんとかさ。その種の人と人との情のつながりってのは幾らでもあります。僕の仕事だって、エージェントとクライアントというよりも、徒弟的な関係になりつつも、一緒にいいシェアを探す同志的であったり、なんだかよく分からない関係です。「友達」といってしまうと何か変な感じだし、ピッタリ合う言葉がない。
でも、そんなもんじゃないんですか?
友達だけが人間関係ではない。もっともっと他に幾らでも豊かな広がりがあるのだ。ドンピシャに表現する言葉はないけど、レッテルがあるか無いかなんか大した問題ではないでしょう。むしろピッタリ合う方が不思議というか、気持ち悪いというか。なんと表現したら分からない人間関係が一番尊いような気もします。また、夫婦や親子であっても、「夫婦やってます」とか「親子やってます」とかそんな気持ちでやってるわけでもないし、目に映っているのはこの世でたったひとりの個人であり、それだけです。夫婦だの親子だのという一般名詞が入り込む余地は当人間においては、無い。
いわゆる「友達」のエッセンス シガラミの無さと対等性
いわゆる「友達」の特徴の中で、もっとも中核的にあるのが「対等性」と「社会的関係性(しがらみ)の無さ」でしょう。
「関係性」というのは、同じ職場の上司と部下とか、専門家とクライアントであるとか、親子恋人であるとか、人間関係を規律するフォーマットのことですね。「上司と部下」「教師と生徒」「営業上の取引先」などの外在的な関係規範があると、どうしてもそっちに引っ張られて自然に上下関係があったり、ある定まった人間関係パターンに拘束されがちです。そうなると、社会的な役割、世間的なペルソナ(仮面みたいなもの)をかぶって「演じる」感じになり、人間関係のピュアさがちょっと濁ってくる。やや誇張して言えば、「仕事だから付き合ってます」「お金が儲かるから愛想笑いを浮かべてます」みたいな不純なところがあると。ゴルフで「ナイショ!」と掛け声かけるみたいな。
しかし、友達の場合は、そういった義理とかシガラミやペルソナが少なく、素の自分、地の自分でつきあえるから良いのだ、ということですよね。なーんの利害関係も義理もない無重力空間みたいな関係だからこそ、幼なじみのように自然に対等になる。関係性の無さと対等性は同じ事だと思います。「友達っていいよね」と語られるその本質は、その「素」で「地」の感じ、対等な感じ、そして嘘の少なさによるのでしょう。
それは僕にも分かるし、全然異論はないです。友達っていいもんだよなって僕だって思う。
でも、同時に、だけどね、、、と、追加的に思ってしまう部分もあるのです。
「ピュアで、対等で、地で素なのがいい」のは分かるけど、そんなの最もありふれた形態ではないか?むしろ世間的なシガラミやら、社会的役割に縛られている関係性の方が圧倒的に少ないのではないか?という点です。ピュアで地の関係が珍しくて希少価値があるかのごとく語られているけど、そんな珍しいか?と。
これはオーストラリア(てか日本以外)にいるからこその感覚なのかもしれませんが、人間関係のピュアさで言うなら、もっともピュアなのはストレンジャーです。「行きずりの赤の他人」です。道ですれ違ったり、同じバス停で並んでたりする見知らぬ人々。彼らこそが最強に「無関係」であり、最強にピュアです。これに比べたら、「クラスメート」「職場の同僚」とかいうのは「同じ組織の同じポジション」という関係性があるだけ、まだ「不純」ではないか。たまたま対等的な身分にあるだけじゃないか。
以前に、「見知らぬ他人のあたたかさ」で書きましたが、オーストラリアでは見知らぬ他人が親切だし、平気でボンボン話しかけてくるし、フレンドリーです。道ですれ違っただけでも軽い挨拶を送ってきてくれます。心があったまります。いいもんです。だからいわゆる「友達」でなくても、「友達」がもたらしてくれる人間的幸福(無償の好意のあたたかさ)は、日常的にふんだんに得ることが出来ます。よって、特に友達がいなくても全然寂しいとは思わない。ある程度普通に暮らしてたら満たされちゃいますから。
もし日本で「友達」が何か貴重な宝物のように思われたり、「友達がいない」ということが悪口になったり、引け目になったりしているのだとしたら、それは、日常的な赤の他人との人間関係があまりも空疎無内容だからではないか?という気がします。
第二に、「上司と部下」みたいな社会的シガラミですが、それってそんなに鬱陶しくて不純なものなのだろうか?という点です。まあ、鬱陶しい場合も勿論あるでしょう。でも、常にそういうものでもない。特にプロフェッショナルな職域においては、師匠やメンターの存在というのはある種絶対的で、どんなに傲慢で行儀の悪い人でも、師匠の前にでたらピシッと膝を揃えて正座すると言われます。それも強制されてではなく、自分から進んでそうする。師匠の前ではイチ修行生に戻り、その道を志した頃の初々しさを思い出すのがむしろ心地良いという。いい感じで師弟関係が築けたら、そうなるわけです。
師弟に限らず、「足を向けて眠れない」という人生の恩人みたいな存在はあり、そういった関係は友人関係からではなく、むしろ何らかの社会的シガラミのなかで生じる場合が多い。つまりシガラミはあれども、シガラミなんかを超越している関係もまたあるのだということです。思うんですけど、「友達がいない」ことを嘆くヒマがあったら、「尊敬できる師匠がいない」ことを嘆くべきだと。そっちの方がよっぽど大事だし、よっぽど得難いです。与えられるものではなく、努力して探すものですし。
あと、これもオーストラリア的なんですけど、こちらの社会ではそんなにペルソナ仮面が分厚くないです。てか、全然かぶってなくて地でやってたりします。それが接客サービス産業のレベルの低さでもあり、それは日本の接客水準の高さを逆に裏付けます。しかし、接客水準が高いというのは、それだけ人間的には「嘘が多い」ということでもあります。アホな客がアホな文句を言っても、「このドアホ!」とも言えず、「お客様、申し訳ございません」と平身低頭するという。
僕は昔っから言ってるけど、日本の「お客様は神様」意識はもう止めた方がいいと思ってます。メリットよりもデメリットの方が大きくなってきた。これも、茶道に通じる「もてなしの心」「思いやりの心」に裏打ちされていれば素晴らしい精神技術だと思いますよ。でも形骸化したら、要するに「嘘が上手になる」だけでしょ。面従腹背、慇懃無礼。と同時に、消費者が勘違いして思い上がる。金払ってるんだから何でもしてくれるとクソ甘ったれている。言うまでもないけど日本以外でそんなの通用しないし、それが日本人の海外コミュニケーション能力の劣化を招いている。お金という防御バリアが張られていない素の1対1を恐がるようになるし、現になってると思う。言い方一つ間違えたら、いきなりぶん殴られるかもしれないという緊張感や気合なくして、人間関係なんか築けるわけねーだろと僕は思う。かくして、商人は嘘つき上手になり、消費者は過保護でヒヨワになるというマイナスがプラスを上回っていると。
閑話休題、接客水準が低く、地の人間として振舞ってる度合いが高いこちらでは、社会的シガラミといっても、そんなに日本ほどキツくはないです。そうなると買物その他の場面でも、王侯貴族のように接してくれるわけではない代わりに、素の人間として接してくれる。レジのところで客と店員が延々話し込んでたり、家を修理にきたおっちゃんと馬鹿話をしてゲラゲラ笑ったりしている。
第一、第二を通じて言えば、顔見知りであろうがなかろうが、仕事関係があろうがなかろうが、ごく自然にみんな友達だくらいに思ってるフシもあります。まあ「友達」とまで言ったら言いすぎかもしれないけど、それに近い部分はあります。だから、友達における良さ=ピュアさ、対等さというのが、わりとふんだんにあるから、ことさら友達、友達とは思わない、という。
地の利
だから思うのですが、もし貴方が「友達がほしい」と強く思うのであれば、もしかしたらそれは日本だからじゃないですか?
まあ、これもイヤミな言い方なのは百も承知なんだけど、でも、そーゆー部分ってあると思うぞ。日本社会における人間関係一般が、かつての豊かさを徐々に失っていくのと反比例して、「友達」の存在が不自然に重視されてきているような気がします。友達なんか、しつこいけど、極端な比喩でもなんでもなくオデキみたいなもので、作りたくなくても出来てしまうというか、敢えて作ろうなんて思ったことは一度も無いです。ほんとに一度もないよ。友達ってのは「出来る」ものであって「作る」ものではないというか。まあ、僕が変わってるのかもしれませんけど、でもその「変わってる奴」でさえそうなんだから。変わってない貴方が悩むのであれば、それは一般的環境的に作りにくくなってるのかもしれません。
また、同じ日本、同じオーストラリア内でも、出来やすい場合と出来にくい環境というのはあります。居心地が悪かったり、居場所がないような環境だったら、友達も出来にくいですよね。居心地悪いし、つまらなかったら誰だって仏頂面になるだろうし、そんなブスっとしてる奴に話しかけようとは誰も思わないだろうし。また別に不愉快でも何でもないのだけど、ついつい引っ込み思案だから常に緊張気味になって、顔の筋肉もゆるまなくなって、仏頂面に見えてしまうということもあるでしょう。だから話しかけてくる人もいない。だから益々能面状態になる、、これ悪循環ですよね。そして前に述べたように、自然のものを意識すればするほど変な感じになるし。
単純に地の利でいえば、周囲の人間と波長が合わないとか、ヤな奴ばっかりだったら、友達なんか作らなくていいですよ。というか、なんでそんな所にいるんだ?という。人間なんかワガママだし、好き嫌いあるし、たまたま周囲がヤな奴ばっかりということだって偶然の巡り合わせでいくらでもあるでしょう。可能な限り、さっさと環境を変えた方がいいです。あんまり自分を責めたり悩んだりしない方がいいとは思いますけど。どーせ自分の至らない点や欠点は、そりゃもう数え切れないくらいあるんだから、何もその場で全てを矯正しなくたっていいんだし。ライフワークくらいに考えてゆっくり成長していけばええやん。
そういえば、オーストラリアに来られる人で、日本で対人的な悩みをお持ちの人も多いです。二人にひとりくらいはそうかもしれん。まあ、分からんでもないですよ。でも、オーストラリアに来たら楽になったという人も多いです。なんでかというと、まず第一に、「上手く話せない」とかいう悩みがあったとしても、より強力な「英語が喋れない」という事情に上書きされてしまうから、そんなに欠点にもならない。英語問題に押しつぶされて自然消滅してしまうというのが一つ。第二に、こっちの人は日本人ほど空気を読まないから、幾らあなたが仏頂面(に見える)顔をして日本人同士だったら話しかけにくい雰囲気だったとしても、ぜーんぜん気にしないでガンガン話しかけてくる人も多いです。第三に、シガラミで言えば外国で出会う外国人くらいシガラミの少ない関係はなく、ピュア度が高いです。第四に、こっちの人は異民族環境で生きているから、よそ者慣れしてるし、フレンドリーに接する技術が高い。こっちが英語が喋れず目を白黒させて「あうあう」言ってても、気にしないで、楽しそうにやってくれる。「連れてってもらう」って感じ。だから力まないで普通にニコニコしてたらええし、またそういう人と付き合えと。幾らでもいるし。
ああ、思いついたネタの半分も書ききれないうちに所定の分量になってしまった。また書きます。
文責:田村