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今週の1枚(2010/10/11)




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Essay 484 : これって「仕事」なのかな? 〜存在しない「仕事」の定義〜 

 写真は、Newtown。
 Newtownはメシが美味いのでしょっちゅう行くので写真もまた多いです。しかし、それ以上にこのあたりは「なんか絵になる風景」が多いのですね。街のたたずまいに味があるというか。


 いきなりですが、「俺って働いてるんかな?」と考えることがあります。「仕事」ってなんなんだろ?と。

  確かにAPLaCを通じて生計を立てていることから働いてはいるのでしょうが、日々の日常をかえりみると、どこからどこまでがいわゆる「仕事」なのか自分でもよく分からなくなります。なにしろ「お金を稼ぐ」という経済目的からしたら、かなり無駄なことばかりやってますから。

 いい例がこのエッセイです。シドニー雑記帳時代から延々十数年、通算500回以上。一本が長く、例えば前回分の総文字数は9618文字、400字詰め原稿用紙にビッチリ隙間なく24枚分に相当します。500回で1万2000枚。一般に原稿用紙500枚前後で「長編」と呼ばれるそうですから、分厚い長編小説24冊分に相当します。一本書くのに約20時間かかるとして、合計1万時間。もう莫大な労力がかかっているのですが、で、これで儲かっているのか?というと全く儲かっていません(キッパリ)。直接的な収入はゼロですし、これが何かのキッカケになって本業に貢献するという度合いも、まあ多少はあるでしょうが、あくまで「多少」。なんか改めて考えてみると、本当に無駄なような気がしてきたな〜。やめようかな〜、これやめると土日が楽なんだけどな〜(^_^)。

 しかし、「無駄」なことはエッセイに尽きるわけではなく、本業の業態だってかなり無駄が多いです。HPの体裁にしても、こんなに活字ばっかりで、しかもミもフタもないリアルな現実を書いたり、四の五のゴタクを並べているヒマがあったら、もっと「海外幻想」を煽り立てるような歯の浮くようなフレーズを散りばめて、チャッチャと学校紹介してコミッション貰えばいいんです。「お金を稼ぐ」という目的に照らせばもっと合理的なやり方はいくらでもあります。

 でも、自分では全然無駄とは思っていません。マズイよなあ、損してるよなあって思いますけど、じゃあ止めるかというと止めない。なんで?といえば、やっぱり目的が違うのでしょうね。「お金を稼ぐ」ことを目的とするならばあまりにも整合せず、何か別の目的のためにやっているとしか言いようがない。じゃあそれは何か?というと、自分でもよく分かりません。やりたいようにやってたらこうなった、と。強いて言えば、大事なことのような気がするから、あるいは面白いからやっている。そこを経済的に合理化してしまったら、そもそもやる意味がなくなるくらいです。

 「仕事としてやってること」と「お金儲け」のチグハグなズレというのは、僕が変人だからというよりも(それは否定しないけど)、もっと人間一般に通じることなのでしょう。

 僕らは、人間の日々の活動を、これは「仕事」、これは「ボランティア」、これは「遊び」という分類をしていますが、そういう分類法が絶対なわけでもない。それどころか、考えていくと殆ど意味のない仕分けなのではないか。

 「働く」=「仕事」=「生計を立てる」=「お金を儲ける」というのがガッチリ等式で結びついているようにみえるのだけど、本当はぜーんぜん結びついていないのではないか?

 ということが、今回の、また一銭にもならない(^_^)、雑文の要旨です。

それは「仕事」なの?それとも「遊び」?


 例えば-----、ナンパやデートは「遊び」に分類されるかもしれませんが、話が進んで「相手の両親に会いに行く」というアクティビティはどうでしょうか?「遊び」ですかね?さらに式を挙げたり、新居を探したりは?出産は?育児は?「遊び」ですか?「夫婦の語らい」や「親子の対話」はどうでしょう。「遊び」ですか?なんかそんな不真面目な要素はないですよね。すごく大事なことのような気がするぞ。でも、お金は稼げませんよね。だからいわゆる「仕事」ではない。ほかにも日常の家事や、親族会議や、法事なんかはどうですか。

 芸術家や作家の活動というのは、必ずしも商業的成功だけを目的にしているわけではないです。もちろんその種の「売れセン狙い」というのは、常に二人三脚のようにつきまとうでしょうが、まずもって自分が表現したいものを表現しようとするでしょう。自分が一番やりたいことをやってこそ、アイディアもエネルギーも湧こうというものだし、レベル的にもプロの水準に達するのでしょう。よほどの商才(マーケティング才)がなければ、そんなに器用に売れる物なんか作れっこないです。

 いわゆる「売れない作家」や「売れないアーティスト」がいます。はっきり言って作家の99%は売れてないのではないでしょうか。まあ、売れている人間だけ、それでメシが食える人だけを「作家」と呼ぶのだという考え方もありますが、それは言葉の問題でしょう。どんな人気作家だって最初の頃は売れてないわけですし、地道に活動を続けていて10年目にブレイクなんてこともあります。それまでは書き物だけではメシが食えていないでしょう。どこかの新人賞を取ってデビュー作は発行して貰ったけど次が続かないということはよくあるでしょう。ミュージシャンも同じ事です。これが画家とか彫刻家になるとさらに生計を立てるのは難しくなり、詩人とかになったらメシが食える詩人なんか滅多にいないでしょう。プロゴルファー、プロ棋士、厳しいプロテストを勝ち抜いてきた正真正銘のプロであっても、賞金だけでメシが食えている人はその中でもごく一握りでしょう。

 思うのですが、この「売れない作家」の社会的カテゴリーは何なのか?と。どうかしたら、ニートとかひきこもりになったりするんじゃないかしら。本人はバリバリ作家のつもりで、毎日自室に籠もって執筆活動を続けていたり、荒川の土手を散歩して構想を練ったりしているわけですが、「稼いでるか?」という一点だけから見たら稼いでないわけで、その意味でいえばニート同然だったりするわけです。精力的に仕事をすればするほど「ひきこもり」に見えたりもして。これら多くのプロの卵や稼げていないプロ達は、創作以外で生計を立てざるを得ない。実家の仕送りに頼ったり、あるいはバイトや正業(副業?)を持ったりします。しかしそういった生計部分は、作家=創作者というメイン基軸からすれば枝葉末節でしょう。いわば映画における制作費の捻出みたいなもので、スポンサーを探すか自腹を切るかの違いでしかない。

 「儲かってない自由業・自営業」だって似たようなものです。出店したものの開店休業状態だったり、やたら忙しいんだけど経費が嵩んで結局赤字だったり、○○評論家として売りだしてみたものの仕事が少なすぎて食えないとか。これらも「お金を儲ける」という目標からしたら非合理的なことをやってるわけです。特にやればやるほど赤字になるのであれば、経済的にはマイナスであり、そういうアクティビティを「仕事」というのか?という。

 もちろん「仕事」というべきです。仕事以外のなにものでもない。当期利益がプラスになったら「仕事」になり、赤字になったら「遊び」になるというものではない。むしろ赤字の時の方が必死に働いていたりする。

 だからお金が儲かる、商業的に成功する、経済的に利潤を生む等々、、そういったことは、ときとして本質的なことではないのでしょう。この世に生きていく以上、そして仙人のようにカスミを食って生きていけない以上、お金や生計というものはベーシックに大事なものではあるけど、それが全てではない。全てではないどころか、もしかしたら一部ですらないのかもしれない。モーツアルトが作曲をしてその対価を得て生計を立てたとしても、その金額が幾らで、それで彼の家賃が支払われたとかいうことは彼の作品の偉大さとは何の関係もない。枝葉末節ですらない。まあ、史実によればモーツアルトは売れてる割には儲けが乏しく、借金しまくってたらしいですけど、モーツアルトの業績は、会社四季報的な視点だけで見て良い筈はない。

 だから、思うのですね、「仕事」ってなんなんだろ?って。
 作家が頑張って深夜までペンを走らせている行為と、生計を維持するために夜警のバイトをする行為と、どっちがより本質的な意味で「仕事」なのか?

「仕事」の定義はない


 人間の行為のうち、漠然としてはいるのだけど、ある特定の領域を僕らは「仕事」と呼んでいます。でも仕事の定義というのは実はよく分からない。最大の分かりやすい切り札は「金銭その他の対価的利益」なのだろうけど、これとて万能ではなく、場合によっては全く関係なかったりするのは上にみたとおりです。

 利潤が切り札にならないならば、他にどんな指標があるのか?例えば、@医者や技術者、芸術家のように一定の水準の技量があること、A真剣でシリアスにやっていること、B一発ポッキリではなくある程度継続していること、C「仕事だからしょうがない」というように本人の好き嫌いを度外視してもやらねばならない義務性のあるもの、Dそれをやることについて本人の中で大きな意味があること、E社会的にも意味のあること、、、等という要素を考えつくのだけど、どれもこれも決定打に欠けます。

 なぜなら、@の技量は、アルバイトなど人手仕事は特別の技術を必要としないからボツです。いわゆる「プロ」かどうかの線引きには使える基準だろうけど、それが仕事であるかどうかの基準にはならない。Aの真剣度ですが、真剣にやってるだけなら、恋愛だってゲームだって真剣にやっていますからこれもダメ。Bの持続性は、一発ポッキリの単発的なバイトというのもある。Cの義務性は、好きでやってる仕事、損得抜きで盛り上がってる仕事もあるからこれも決定的ではない。

 そうなってくると残るはDEの意味性、つまり、本人 and/or 社会にとって「意味」があるかです。
 ズッシリした意味性のある一連のアクティビティ。画家が絵を描くように、本人の内面において「やるべき意味」があるかどうかです。逆に、実に下らない内容で、食っていくためにイヤイヤやっているようなことでも、それが社会的に意味があれば「仕事」として認められるのでしょう。その社会的評価は、端的には対価として賃金が支払われたりすることで表わされます。あるいはノーベル平和賞などで社会的にその意味が認知されるなど。本人と社会双方から意味があると認められる相思相愛パターンは幸福ですが、そうでない場合でも本人か社会のどちらか一つが意味があると認めたら「仕事」として認めていいのでしょう。

 ただし、これも「意味」って何よ?という曖昧さは残ります。その内容を広げていけば、風呂に入るのも、ご飯を食べるのにも、何らかの「意味(必要カロリーを摂取するとか)」はあるでしょうから、決定的ではないことになります。それに「意味」といっても、「なんとなく仕事っぽく感じられる」ことを「意味がある」と言ってるだけの話で、煎じ詰めれば「仕事っぽく思えることを仕事という」という全く無内容な定義と言えないこともないです。

 以上くだくだ書いてきたのは、「仕事とは○○である」という明確な定義は存在しない、ということを検証したかったからです。

 まあ、もしかしたら本当はあるのかもしれないし、あったら教えて欲しいのだけど、今この場で僕がつらつら考えた中では「仕事」をビシッと表現する定義は思いつけなかった。試みに国語辞典を見てみると、「1 何かを作り出す、または、成し遂げるための行動。2 生計を立てる手段として従事する事柄。職業」と複数の定義が出てきますが、これだって決定打に欠けます。例えば、主婦/夫の家事は立派な仕事だと思うのですが、買物とか清掃は「作り出す」「成し遂げる」とかいうニュアンスからはちょっと違う。むしろ純然たる趣味で帆船模型を作ったりジグソーパズルをやってる方が「成し遂げる」という感じに近い。

 こうなってくると、よくある3分説=@主観説(本人が仕事だと思うことが仕事である)、A客観説(社会的にみて仕事として認知されるものが仕事である)、B折衷説(主観と客観を統合して判断する)になっちゃうんでしょうかね。しかし、いずれにしても概念の遊びのキライは免れません。

 で、結局何なのかといえば、何をもって「仕事」というのか分からん!ということです。
 そして、分からんのだったらどうするのかといえば、各人勝手に決めればいいじゃん!てことだと。だから、まあ、主観説になるのでしょうけど、本人が仕事だと思ったらそれは「仕事」なのだと。これも、そーゆーモノだ、というよりは、そーゆー風に考えたらいいんじゃない?ということで、定義というよりは「提案」です。

イヤなことやってれば「仕事」なのか?

 さてここで冒頭に戻るのですが、「俺って仕事してんのかな?」という疑問がふと頭をよぎります。
 オーストラリアに来てから17年、貯金を食いつぶしつつ暮らし、現地で見たこと学んだことをメモ代わりに書こうとAPLaCという趣味サイトを立ち上げ、それが嵩じて起業らしきことになり、現在に至ってます。しかし、もしかしたらこっちに来てから17年間ぜーんぜん働いてないんじゃないの?という気もするのですよ。

 いや、確かに収入はありますよ。微々たるものでありつつも、ないことはない。だからまだ生きているわけですけど。でも、あんまり「仕事している」って気がしないのですね。いや、遊び半分とか不真面目にやってるつもりはないですよ。ハンパな気持ちで500回もこんなエッセイ書いたり、早朝から空港まで出迎えに行ったり出来ませんって。真面目度でいえば、弁護士時代から変わってないし、訴訟一件引き受けるくらいの気持ちでやってます。でも、働いてるんかな、仕事なんかな?って思うんですよ。

 ここではたと気づいたのですが、いわゆる「仕事をしてる!」って気分になるときはどういう時かというと、「イヤイヤやってる場合」なんですよね。冬の朝に無理やり早起きをするときとか、行きたくないところにいって、会いたくない人に会って、下げたくない頭を下げて、やりたくないことをやっているときに、「仕事なんだからしょうがない」って自分に言い聞かせますよね。そういうときは「仕事している気分」が満ちてきます。そして、1日の仕事が終って退勤するときには、束の間の開放感を感じたり、日曜の夕方とかになると「ああ、休日が終っちゃう〜」と切ない気分になったり、、、要するに僕らが「仕事」と強く認識できるときというのは、上でいえばB義務性を感じているときです。

 それは確かにそうかもしれないけど、でも、仕事ってそんなもんなの?イヤなことやってりゃ仕事なんかい?そんなお手軽なものなんかい?って根本的な疑問もあります。それって「よくある属性」であって「本質」ではないんではないか。この「イヤイヤやってる感」に一番ニアリーなのは小学生の頃です。ガッコ行きたくない〜、メンド臭い〜、勉強やだ〜って思いながらも、ランドセル背負って行かなきゃいけないトホホ感。ああ、あのランドセルの皮に匂いにすら、幼い心の憂愁のようなものが染みついています。この感覚こそが一番仕事の感触に近い。

 そういう意味では、やっぱり僕はオーストラリアに来てから殆ど「仕事」してしません。基本的にイヤなことやってませんから。HPも好きで書いているんだし、皆のいわゆるサポートも好きでやってる。来られる人は、僕にとっては依頼者でも顧客でも消費者でもなく、友達だと思っているし、そう思うのが一番近い。もともと、オーストラリアくんだりまでやってきて、やりたくない事やってられるかという地点から出発してますし、十数年以上延々やっているのは、「下げたくない頭は絶対下げない!という超ワガママな態度でいて、人はどれだけ餓死しないで生きていけるかゲーム(or 実験)」みたいなものです。もっとも、オーストラリアでは(てか日本以外では)、仕事であっても下げたくない頭はあまり下げませんから、実験環境としては不向きなんだけど。

 頭云々はともかく、主観説=自分が仕事だと思えること=意味があると思えることだけやるというスタンスに移行してしまえば、前述の「イヤなことをすると”仕事してる感”が盛り上がる法則」からいって、仕事してるって感じが薄らいでいくのです。だから「働いているような気がしない」と。実際のところ、「仕事」とか「働く」ということとか、どーでもいいんじゃないかって思うようになってます。そのアクティビティがどう呼ばれようが、他人にどう思われようが、どう自分が考えようが、そういう区分け自体にだんだん意味を感じなくなって久しいです。

 だとしたら、、、、ここでまた考えは四方八方に飛び散るのですが、なんでヤなことやってると仕事なわけ?なんでそう思うの?やりたくないことをやるのってそんなにイイコトなの?仕事ってそんなに薄っぺらなものなの?だったら仕事なんかこの世から消滅した方がいいんじゃないの?誰かが「働いている気分」を抱けば抱くほどこの世の中が不完全である証拠ではないか。

いくつかの視点

 ああ、もうそろそろシメに入らないとならんのか。全然書き足りないぞ。儲からないけど。
 スペースがないので、論点だけ箇条書きにしておきます。  

@、イヤなことのイイコト

 イヤなことって意外と捨てたものではなく、ヤなことをするとイイコトがあります。ご褒美があるのね。
 No Pain No Gainといいますが、だいたいにおいて成長やら成功には苦痛が伴う。ビビりながらも新しいドアをノックしないと世界は広がらないし、イヤイヤでも毎日やってれば上手になるし、技術が身につく。それに人間アホやし、実際に失敗して身に染みないと、ほんとのところが分からん。世界というのは甘い部分も苦い部分もあるから、世界の真実に近づくほどに苦みを味わう。しかし苦い思いをした分リアルに世界が見え、チャート図が明確になるから成功しやすくなる。対人関係も、難しくしている根源=相手も自分と同じく感情の生き物だということ=が明瞭に見えるほど恐くも難しくもなくなる。かくしてイヤなことをした分、一定のリターン率でイイコトも返ってくる。言わば苦痛という貨幣で成長を買っているようなもの。

 そして、いわゆる「仕事」にはこの苦痛→成長機会が含まれている場合が多く、ゆえに仕事をしてないと半人前に見られがちになる。逆にいえばいわゆる仕事をしてなくても、きちんと成長できていればそれで良い。(詳しくはEssay 468 : CONCEQUENCE
 

A、大変度数と嫉妬

 これはシドニー雑記帳の大変度数をごらん下さい。日本では「大変」であるとエラいとされ、大変でないと軽んぜられる傾向があるけど、その根源は多くの場合ただの嫉妬、「いいご身分だね」というやっかみだったりするという話。ここからさらに、対世間的な戦術=冷たい視線をクリアしむしろ賞賛を浴びる=を編み出せば、つまりAの大変度の演出さえ上手に出来れば、本当のところはいわゆる「仕事」なんかしててもしてなくても良い。
 

B、自分にとっての「仕事」

 「子供は泣くのが仕事」というように、その時期その時期で必要な栄養素やアクティビティはある。「学生さんは勉強が仕事」のように、その時期、そのポジションにいれば働かなくても勉強していれば世間は納得するし、また自分にとっても栄養価が高い。しかし、そういった世間的な通説なんかどうでもよく、「今の自分に大事なこと」を自分で考え、自分で価値付けしていく方がはるかに大事だと思います。例えば、中高生は入試のために勉強するのが仕事とされますが、そんなものは「世を忍ぶ仮の姿」に過ぎず、本当に必要なのは肥大したエゴを持て余し、うぬぼれと劣等感の間をのたうち回ることだったり、ガビーンとなる音楽やマンガや小説に出会うことだったり、3年間想い続けて結局告白できずに涙がチョチョ切れる経験だったり、友達同士で馬鹿やってたりすること。それがその後の自分の原型を作っていくのであり、その重要性は入試が終ればあっさり忘れる歴史の年号とは比較にならない。

 同じように20代、30代にはそれぞれ本質的な「仕事」があり、それは給与所得があるかどうか、経済的対価がどうのとは、ぜーんぜん違うレベルにある。例えば20代の「仕事」は、僕が思うに、初めて社会にでて歪んだ社会観に染まらず出来るだけ視野を広げること、そして「このくらい行為をするとこういう反作用がある」という世界のレスポンス比率を正確に把握すること。この程度頑張るとこの程度のご褒美があり、このくらいワガママ言ってるとこれだけ反発を食らうとか。ボールの弾み具合です。弾性定数Kですね。そのためにピンボールみたいにあっちこっちで小突き回されること。つまりは失敗するのが仕事であり、ボコられるのが仕事だと思います。

 その人その人の時期やらポジションにおいて「やるべきこと」があるのでしょうし、それが本来の意味での「仕事」なのだと僕は思います。しかし、それが具体的に何であるかは、自分が決めるしかない。
 

C、いわゆる就職と仕事

 今年は氷河期といわれ「仕事」に就けない人も沢山いるでしょうが、日本経済が成熟し西欧型に近づくほどにこの傾向は常態化するでしょう。したがって「いわゆる仕事」をしてこそ一人前という、旧時代の発想をアップデートする必要があるのでしょう。逆に言えば仕事さえしてれば何とかなった昔よりも遙かに難しくなっているし、遙かに自由になっている。一般に自由演技が一番難易度が高いですから。

 とりあえず就活に失敗して秋風が身に染みる人に何か言って差し上げるとするならば、一言、「それでいいのよ」と。
 なぜならあなたは既にボコられており、20代に必要な本来的な「仕事」をちゃんとしているのだから。「いわゆる仕事」はゲットできてないかもしれないけど、本質的な意味での仕事はしっかり実行している。

 これは単なる口先だけの気休めではなく、マジにそう思う。なぜなら、上手いこと仕事に就けても、そのあと社内でボコられるのが待ってるだけであり、そしてまたボコられることこそが大事なのだから、いずれにせよ本質的には同じことなのだ。就職さえすれば良いというものではなく、就職した後こそが本当にしんどくなる。有名企業だからOKかといえば、巨大企業ほど企業内競争が激烈であり、リストラされるリスクも高い。また歯車的仕事しかやらされないので、総合スキルを磨く機会にも恵まれない。バブル時期に簡単に入社できた世代が、バブルが去った後、どれだけ白眼視され、リストラされ、いじめられてきたか。

 もちろん給与が出る/出ないの差は大きいかもしれないけど、その分、より世間の目や自分の価値観を真剣に考える機会に恵まれる。仕事を得るにしても、とても感情移入出来そうもないくらいしょーもない仕事をゲットした方が、いわゆる仕事に対する幻想が打破され、次にステージに進めるからラッキーとも言える。モノは考えようなのだ。てか、仕事を得る/得ないという簡単なON/OFFゲームゲームではない。いつかはどこかで、あるいは「常に」というべきか、「生計を立てること」と「自分らしく生きること」の大矛盾をマネージしていかねばならない。自由度(=不安定度)が高まった分、ここの上手下手がかなり致命的な差になるでしょう。適当に名門企業に入り、適当に収入に恵まれてしまったら、そのマネージメント意識と技術を習得し損ね、そこから先は守りの人生になっていくリスクも高い。しかし日本経済の今後50年、守って守りきれるものだとお思いか?

 世の中上手く出来ているもので、Aに行こうが、Bを経由しようが、トータル的にはそんなに変わらないと思う。質量保存の法則が働いているかのように。なんか、これ、原理があるんじゃないかって思うくらい。カネがあるときゃヒマがない、ヒマがあるときはカネがないというが、仕事や収入が得られたら、それだけ可処分時間は少なくなり、心身共に消耗する。有名人になればプライベートが無くなる。ステイタスが高まれば、些細なこと(交通事故や離婚ひとつでも)でボロカス言われる。
 

D、仕事概念と経済

 読んではいないけど、最近の国内外の新刊本などをみていくと、資本主義における経済秩序以外の原理で世の中が廻ってることを指摘する本が多くなってるような気がします。市場における等価交換とか、労働力と賃金の交換ということだけが人間社会の原理ではない。宗教的、思想的なコミューンであるとか、NGOをはじめとするボランティアであるとか。しかし、考えてみればこれって別に21世紀の新しい傾向ではなくて、もう何千年も人類がやってきたことです。キリスト教や仏教における修行僧の集団生活メカニズムやネットワーク。あるいは徒弟制度もそうで、親方の家に住み込みで働き、3年間は給料ゼロで見習い修行をしたりする。そこでは時給や年収という短期的な交換ではなく、世代レベルでの大きな交換原理が働いている。

 NGOでも大企業並の組織規模になっているところもあり、給与つきの専従職員も沢山雇っている。考えてみれば、営利を第一目的にしない組織など世の中に山ほどあるのだ。公益法人、財団法人がそう。小さくは恋人や家族、大きくは国家そのものが営利を目的としない非営利的人間集団です。チャリティ団体が専従職員を配する一方、純然たる企業だって企業理念は「社会貢献」だったりするのである。松下幸之助の水道哲学にせよ、三菱(岩崎家)の家訓にせよ、成功した経営者が晩年にカッコつけてキレイゴトをいってるだけではなく、あれってかなり本気でそう思っていると思うし、そう思っていたからこそ成功できたのでしょう。そうなると、ますます普通の企業とNGOの差がなくなってくる。てか、これも仕事概念と同じく、本質的な差なんかあるのか?と。「いわゆる仕事」こそが正道であり、その他は異端であるという発想は、戦後の数十年だけ、一時的に生き方のハバが極端に狭まった資本主義成長期における一時的錯覚に過ぎないとすら言えるのではないか。


 最後に、英語で「あなたの仕事はなんですか?」という聞き方で、"What is you occupation(job)?"ではなく、実際にこちらの生活でよく聞く表現は、"What are you doing for living?"です。さすがに「わかってるな〜」って思うのは、「とりあえず食うために何やってるの?」と。職業=人格=人生ではない、という大前提あっての表現です。

 だから---、こんな文章も日本人相手だから成り立つのであって、英訳してオージーに見せても、「言ってる意味分からん」って言われてしまうかもしれませんね。なにしろ、仕事の数倍のエネルギーと情熱で休日を過す彼らにとって、人生の最大の目的はいかに遊ぶか、いかにハッピーになるかですから。その人の人生や人格は、仕事や生計手段ではなく、ハッピーになる道筋や方法においてこそ現れれるのですから。最近は結構日本みたいになってるオーストラリアではありますが、根っこのところはやっぱり全然違います。


文責:田村




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