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今週の1枚(2010/09/27)




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Essay 482 : あきらめていいこと、いけないこと 無力感と迷い=ストレス

 写真は、今日、ウチに庭先で撮ったもの。藤の若葉が出てきました(ウチのはなぜか花が咲かない(泣))。その上に見える白い花はジャスミン。夜にはむせかえるような芳香を漂わせます。これが楽しみで(^_^)。「春っていいよね」って、こちらに来てから心底思えるようになりました。


子供時代のストレス

 あなたはもう一回子供の頃に戻りたいですか?

 過ぎてしまうとつい美化してしまいがちなのですが、子供やってて純粋に楽しかったのは幼稚園くらいまでという気がします。あんまり自我もなく、単に遊んでれば良かったような時期くらいまで。段々と自我が芽生えてくるに従って、自分の無力さが辛くなってきます。子供なんだから当たり前なんだけど、自己決定権がない。晩ご飯のオカズも自分で決められないし、学校に行くのも強制的だし、親戚の家に連れて行かれたり、着たくもないよそ行きの服を着せられたり、大人の意向に従って右に行かされたり、左に行かされたり。

 僕個人としては親に対して感謝の念こそあれ、恨みは毛頭ないです。また世間の親も、ウチの親も、子供のために良かれと思って精一杯のことをしてくれているのでしょう。それは分かる。ここで言っているのは個別的な境遇ではなく、子供一般のことです。自分の好き勝手にやりたいけど、やれないというフラストレーションです。改めて考えてみると、子供って滅茶苦茶ストレスたまるんじゃないかなって。だから、まあ、反抗期ってのがあるのでしょうけどね。

 結局、何が一番ストレスの根源になっていたかというと、自分がまだ小さく、非力だからなんですね。ちっぽけで無力な存在だから自分の思うとおりに進まない。そりゃあ、駄々をこねて、おねだりすれば買い与えられるかもしれないけど、それも所詮は「与えられた」ことにすぎず、自分の力でつかみ取ったものではない。しょせんは他人にやってもらわなければ何にも出来ないひ弱な存在。そういった自分の存在のあり方そのものがストレスなのではないかと。

 中島らもさんのエッセイに、彼の学校時代の思い出が実に上手に書かれていました。すぐに手許に原本がないので記憶だけで再現すると、、、頭ごなしに自分の価値観を押しつける教師。生徒の言い分も聞かず、ビンタしながら、バシバシと生徒を叱責する。教室は水を打ったように静まり返り、僕らは自分の机に向い、恐怖にかられて、うなだれているしかなかった。いいがかりとも思える教師の理不尽な説教はまだまだ続く。僕らは恐怖にかられながらも、身体の中から激しい怒りと願望が突き上げてくるのを感じている。背中がバリバリと音を立てて大きくなろうとする。その願望とは、「早く成長したい!一秒でも早く大きく、強くなりたい」。幾ら納得できなくても子羊のように震えているしかない無力感に打ちのめされながら、いつの日かこんな奴にビビらなくても済むように大きくなりたい。歯噛みをするような痛切な思いこそが、実は子供達の成長ホルモンなのだと。

 忘れていたけど、そういった思いは確かに僕にもあった。
 らもさんも書いてたように思うけど、教師は教師で実は子供以上に無力感に打ちひしがれていたりするのだけど、でも、それは大人になってから分かること。

 さて、何の話かというと、ストレスというのは、無力感や自己決定権の無さに基づくのではないか、という話です。
 子供に限らず、大人だって同じことで、「自分の好きに出来ない状況」がまずフラストレーションをかきたてる。そして、その根源的理由が自分の無力にある場合、そのストレスはさらに強まる。

 なるほど、そうか。いや、待てよ。本当にそうか?
 この着想からもうちょっと敷衍してみます。

ストレスの条件

 ストレスの正体ですが、僕にも詳しいことは分かりません。ありふれた日常的な言葉なのだけど、いざ「その正体は?」となると実はよく分からない。何らかの圧力下における不安や怒りなどの精神的緊張、とか説明されます。うん、まあ、そうなんだろうけど、もうちょっと突っ込んだところを知りたい。かといって生物学方面に進んでも、「副腎皮質ホルモンである糖質コルチコイドの一種のコルチゾールが、、」といいう話になって、うーん、そうなんだろうけど、そうじゃないんだよな。

 そこで僕なりにテキトーに考えてみました。外堀から順々に埋めていきます。

 まず、ストレスというのは、どうも一発ポッキリの不快感ではなく、一定持続している感情のようです。一回的な不快感というのは、例えば宝くじが外れたとか、パチンコでスッたとか、海水浴にいったらクラゲに刺されたとか、犬のウンコを踏んでしまったとかその種のことですが、それはあんまり「ストレス」とは言わないような気がしますね。やっぱり延々とイヤな状況が続いているという「持続性」に特徴がありそうです。不快から免れたいんだけど、それが出来ずにずっと我慢していなければならない状況、とでもいいましょうか。

 じゃあ、例えば虫歯がシクシク痛むというのはどうでしょうか?不愉快な事情が一定期間続きますよね。あるいは、最近肩凝りがひどくて大変だとか。うーん、これってストレスなのかな。まあ、そうも言えるけど、なんかドンピシャじゃない。典型的なストレスの事例というのは、例えば理不尽な上司と使えない部下の板挟みになっている中間管理職とか、消費者のクレームの矢面に立たされているサラリーマンとかでしょう。「そんなにイヤなら辞めたらいいじゃん」ってなりそうなんだけど、そう簡単に辞めるわけにはいかない。家族もあるし、ローンも残っている。諸般の事情とシガラミで、イヤなことがあっても辞められない。その「自由のなさ」がストレスを生むのでしょうか?

 虫歯や肩凝りは、それはそれで辛いのですけど、止める自由というか、まだ対処法はある。歯医者に行けばいいんだし、肩凝りもマッサージその他の治療法もないわけではない。それを、やれ面倒臭いとか、お金がかかるとかで我慢しているだけです。歯医者に行くイヤさに比べたら、まだ我慢している方がマシだということで、そこには何らかの選択の自由があり、自分の選択の結果でそうなってるという。まあ、仕事だってその気になったら辞められるんだけど、そのハードルの高さが比較にならない。辞表を叩きつけるのはいいけど、その後にセットになってついてくる(かのように思える)家計の困難や、ヘタをすれば一家離散、ホームレス、、だから現実的には自由はない(かのように思える)。それが辛くてストレスを生む。あ、この「かのように思える」ってのが伏線ね。

 ということで、ストレスとは、@一定期間持続する、A選択の自由のない不快な状況下に生じる、らしい。

 しかし、それだけではまだ不十分でしょう。

 例えば、地震等の天災の被災者や、観光船が難破して皆が無人島に打ち上げられたような状況を考えてみましょう。一定期間持続するし、選択や自由もありません。ましてそのハードさは会社云々の比ではないです。もう生きるか死ぬかだもん。ホームレスがイヤだというレベルではなく、既にもうホームレスになってる。だけど、なんかあんまり「ストレス」っぽくないです。いや、それはそれで強烈なストレスだと思いますよ。でも、典型的なストレスじゃないような気がします。「ああ、胃がキリキリ痛む、、、」のではなく、「ぐああ、腹減ったあ、、」って感じ。もっとワイルドに困っている。

 何が違うのでしょう?
 もっと極端な例を挙げます。鳥は自由に空を飛べるけど、あなたは飛べない。バッタやハエすら飛べるに自分は飛べない。大空を気ままに飛べたらどんなに楽しいだろうなあって思うけど、でも飛べない。自由無し。選択無し。期限は?一生。絶対確定。ねえ、ストレスの極致じゃないですか、、、といっても、あんまりそれをストレスに感じたりはしないです。なんで?

 人間というのはもともとそういうものだとか、天変地異とか、いわゆる Act of God(神の御業)レベルの状況は、あまりストレスを産まない。最初っからそーゆーもんだと思ってるから不幸感もないし、天災なんかどーしよーもないことだからでしょう。どーしよーもない方が不幸度が高そうなんだけど、一定レベルを超えてしまうと感じなくなってしまうようです。

 ということは、ストレスは、どーしよーも「ある」事柄に生じるのでしょう。
 物理的にはコントロール可能で、選択の自由も本当はある。だけど、現実問題として種々の制約がある場合、、、つまり、B理論的には自由も選択もあるのだけど、事実上その行使が非常に制限されている場合、ってことでしょう。

 もう一点付言すると、(A)いじめっ子に脅迫されてイヤイヤ万引きをやらされる場合、(B)ビルの屋上で大事な物(パスポートとか)をうっかり落としてしまい、柵を乗り越えて取りに行かねばならない場合、を比較すると、(A)の方がストレスきつそうです。命に関わるという意味では(B)の方がはるかに厳しいのだけど、でも胃が痛いのは(A)。

 簡単に言ってしまうと、不快感の原因が、自然的・物理的なものよりも、人為的(人間関係的)なものの方がストレスを生みやすいということです。にわか雨に降られたり、海で溺れそうになったり、すっ転んで泥だらけになったり、蜂に刺されたりするよりは、職場でイヤミを言われたり、好きでもない接待の場で引き出されたり、アホな客に頭を下げたりする方がストレスになる。つまり人間的な要素が入っていた方がストレスは生じやすい。

 以上の特徴を総合して練り直すと、(甲)人為的な要素に基づく不愉快な状況が、(乙)一定期間継続し、(丙)理論的には拒絶する自由もあるのだけど、実際問題それをする余地がほとんどありえないような場合、にストレスは多く発生するということになりそうです。

なんでそれがストレスになるの?

 さらにパラノイア的に追求します。もういいじゃないかって思う人もいるでしょうけど、まだまだ。僕は諦めが悪いんです(これも伏線)。

 じゃあ、なんで上記甲〜丙の条件が揃うとストレスが発生するのか?
 「イヤだからに決まってんじゃん」ってなりそうですけど、なぜこの特定の種類のイヤさがストレスを生むのか。もっと言えば甲〜丙はストレスを呼び出す条件に過ぎず、ストレスそのものではない。悪魔を呼び出す魔法陣と山羊の血と呪文かもしれないけど、悪魔そのものではない。では、ストレスの本体はなにか。

 はい、そこに「無力感」が出てくるわけです。無力感が何かのキーになりそうな気がする。

 無力感というのは、100%無力なこと対しては生じにくいです。例えば大地震が起きてヒドイ目にあったとしても、「なんで俺は神のように地震を止める力がないんだあ!」って思わないですよね。そこで無力感を感じる人はいないでしょう。いたら凄い。同じように鳥が飛べても自分が飛べないことに無力感は感じないでしょう。しかし、地震予知研究所で働いている人が、「なんでこれが予知出来なかったんだあ」という無力感を抱くことは、ありえるでしょう。無力度でいえば前者の方がずっと高いんだけど、これも一定レベルを超えてしまうと無力感は感じない。

 無力感というのは、単に無力であることの客観的認識とは違う。「ああ、大自然は偉大だなあ」とほのぼの思っていても、無力感は覚えない。無力感は、無力であることの認識に苦い思いや痛みが伴う場合に生じるようです。無力であることに納得できていない場合。

 どこに分水嶺があるのかといえば、「頑張れば到達可能かどうか」ということでしょう。
 自分の能力の射程距離にある、あるいはありそうだ、あってもおかしくないと思えるかどうか。無力でありたくない、あってはならないと思うかどうか。およそ全く不可能だったら、そこには無力感はないです。自然現象よりも人的なものにストレスを感じるのも、相手が自分と同じ人間だったら原理的になんとかなりそうな気がするからでしょう。火山の大噴火とか目の前で見ちゃったら、到底自力で何とかなるような気がしないし、無力というのも愚かしいという。

 到達可能、解決可能な筈なんだけど、到達できていないそのギャップに無力感を抱き、ストレスを感じる。
 会社でのストレスだって、実現可能な解決策はいくらでもあります。人間関係だったら誰とでもうまくやっていけるような自分になるとか、辞表を叩きつけても余裕で再就職できるくらいのスキルを身につけるとか、そもそもその会社のてっぺんまで登ってしまえば誰もが自分にヘーコラするとか。でもそうなっていない現実がある。それが無力感を生み、ストレスを生み、キリキリと胃を苛む。


 ある状況があまりにも圧倒的だったら無力感もストレスもない。天災や鳥レベルですね。人為的なものであっても、そう思えることも多々あります。封建社会の身分制度なんかそうでしょう。百姓に生まれたら一生百姓、奴隷階級の奴は一生奴隷。だから皆さんそれを不幸だとも思わない。運命や宿命だと思って諦める。

 しかし、中には諦めない人もいる。「なんでだよ、畜生!」と怒る。状況が厳しければ厳しいほど、逆に諦めない人も多くなる。それが反逆を生み、暴動を生み、革命に至る。江戸時代の徳川幕府は圧倒的な力で日本人の上に君臨していたのですが、黒船の頃から「あれ、幕府って意外と弱いんじゃない?」って気分が出てくる。そういう気分がちょっとでも起きたら、一斉に反逆の気運が盛り上がり、あっさり潰れてしまった。つまり、実現可能だとは到底思えなかったことが、意外と可能なんじゃないか?と思えた瞬間、つまり到達可能だと思えた時点で、爆発的なパワーが生じ、本当に実現してしまう。人類の歴史はこの繰り返しでしょう。

 余談書いてるヒマはないけど、一言だけ。「蟻の一穴」といいますが、ちょっとでも疑問を持たれたり、「大したことないんじゃない?」と思われたら、いかに強勢を誇る者もあっという間にひっくり返されるという、空恐ろしい原理があるように思います。「ヤクザは舐められたら終わり」といいますが、教師だって、上司だって同じ事です。およそ「威」というものはかくも脆い。絶対ありえなさそうことが、いきなり生じてしまう。自民党が野党に転落し、息絶え絶えになるとは3年前に誰が予想したか。権威者はそれを知悉し、それに脅える。昨今中国政府が異様にムキになって怒ってますが、あれも国内からちょっとでも弱腰に見えると何かがひっくり返るような恐怖にかられているのでしょう。悲痛な叫びのようにも思える。閑話休題。話を戻します。

 天災や鳥ですら諦めない人達がいました。「俺も飛べる」「実現可能」と信じた人達、ダビンチからライト兄弟に続く人々が飛行機を作りあげ、ついには飛ばしてしまった。「できっこない」と思ったら、欲も湧かない、パワーも出ない。しかし、「もしかして?」と思えたら、やってしまうという。

二つの選択肢

 このように、自分の力と現実の間に不快なギャップがある場合、その選択肢は、

  @諦める
  A諦めないで頑張る

 という真逆のベクトルになります。まあ、当たり前なんだけど、その意味は深いです。そのギャップを埋めること、現状をひっくり返すことが不可能だと見切りを付けるか、それとも可能だと思い頑張り続けるか、です。

 @は、真正面から取り組んで、正しく自分の限界を知り、正しく諦めることです。これは辛い。身を切られるように辛い。しかし、断腸の思いで、潔く諦めるのもまた大事なことだと思います。力及ばず、運に恵まれず○○の道を諦めるとか、いろいろな事情で好きな人と別れるとか、思い通りの人生なんか誰も歩んでおらず、数からいえばこっちの方がずっと多いでしょう。でも、挫折感の苦みを口いっぱいに頬張りながらも、真正面から受け止めるべし。

 Aは、出来ない自分、無力な自分を見つめ、歯噛みをするような思いで成長しようとする。この場合はイバラの道ですが、イバラの道を行くためにアドレナリンが出ます。「くっそー、なんで出来ないんだよ!」という、「こんちくしょうパワー」が出ます。部活の対抗試合で予想以上にボロ負けして、悔し涙が出るような状態ね。「ちっくしょおおお!明日から特訓だ!特訓!」「おお〜!」という感じ。冒頭で書いた子供達のように早く大きくなりたい、強くなりたい、成長したいと思う。かくして背中バリバリの成長ホルモンが分泌されるのでしょう

 とりあえず現状においては無力です。無力感というのは、丁度階段の踊り場、あるいは山の尾根道のようなものなのでしょう。上にも下にも行けるし、右にも左にも行ける。

 そして、ストレスというのは、その踊り場にさしかかって、「うう、どうしようかなあ、、、」と悩んでる状態なのではないでしょうか。いっそのこと諦めてしまおうか、でも、諦めちゃったら自分が自分でなくなるような気がする、@もAもかなりハードな選択なので、めっちゃ悩むという。この迷いこそがストレスの正体だと思います。ストレスとは迷いであり、ストレスを感じてるときは必ずや心のどこかに迷いがあるのではないか。逆に迷いのないところにはストレスもないのでしょう。

 迷いがない=腹を括れたということは、いわゆる「吹っ切れた」「突き抜けた」という状態ですね。右に行っても左に行ってもそれなりに辛いのだけど、一旦腹を括って正面から向き合い、ビシッとガードを固めたら、しのぎ切れないほどのこともないです。案外大したことないのよね。しかし右と左でハードさの質がまるで違うから、迷っているうちはガードを定めきれない。態勢がグラグラしてるから、ちょっとジャブを食らっただけでもうアゴが出てしまう。辛くてたまらなくなる。その辛さがストレスなのだと思います。

 ここで冒頭の子供の話に戻ります。
 子供というのはすごいストレスフルな環境に見えながらも、本質的にはストレスはないのでしょう。だって、成長して、大きくなれば解消するのは見えているし、ほっておいてもそうなるし。もうA確定ですから、そこに迷いはない。もし子供がストレスを感じているとしたら、そういうレベルではなく、なんらかの迷いを抱えている場合でしょう。本当は○○なんだけど、それをするとママが悲しむから言うとおりにしている、でも本当にそれでいいのか?と幼いながらも迷っているような状態でしょう。体調がおかしくなる子供、悲痛な事例ではイジメを苦にして自殺する子供もいます。しかし、単に「子供だから」「無力だから」というだけで自殺する子供はいないと思います。

 ところで@に似てるけど、「@モドキ」という邪道があります。安易な逃げ道ですね。「挫折した」と自覚することすら苦痛を生むので、それを麻痺させるために「あんなもん無理無理!」と「鳥のように飛べなくても当たり前」にように思うことです。これはこれでBにしてもいいけど、@Aと同格に列するのもイヤだから@モドキにしておきます。最初から不可能だと思ってしまえば、それはそれでニルバーナですよ。涅槃の境地で、無力感もストレスも、痛みも苦痛も麻痺します。一種の精神的な麻酔薬のようなものでしょう。

 同じように「Aモドキ」というのもあるのでしょうね。「頑張る」とか口先ではいいながら全然頑張ってないとか、シビアな@Aの選択をするのが辛いから頑張ってることにしておくとか。はたまたストーカー行為など、頑張る方向が犯罪まがいに間違ってしまうとか。

 モドキと正統派の違いは微妙だったりするんだけど、モドキというのは結局本質的なところで腹を括ってません。表面的には麻酔で誤魔化すから一見ストレスは減るけど、そのストレス毒素はより深部に向うから余計に恐い。つまりストレスが減った分だけ性格や人格が歪むってやつです。シンプトン(症状)としては、やたら他人のせいにするなど他罰的であるとか、他人への悪口ややっかみが激しくなるとか、他人の幸せを願えなくなるとか、批判に対して過度に敏感になるとか。こうなるとちょっと厄介ですので、モドキには気をつけましょう。

諦めるべきこと、諦めてはイケナイこと

 @のように正しく無力感とストレスを感じ、正しく諦めるのも「大人」への道です。@モドキとの差が難しいんだけど。
 子供の躾なんかもそうですが、人間の欲望には、法外で、身勝手で、犯罪まがいのものだってあるわけです。気に食わない奴をブン殴りたいとか、欲しい物は奪ってもいい、、なんて欲求には、ガツンとかまして徹底的に無力感を与え、諦めさせ、そもそもそんな欲求が起きないようにする。それがディシプリン(訓練)というものでしょう。

 しかし、本来望んではいけないことを望むのが犯罪になるのと同じように、本来望まなければならないことを諦めてしまうのも、それと同じくらい良くないことなのでしょう。微妙なところなんですけどね。

 例えば、あなたが社会に出て、あれこれ会社や世の中の不正義に直面したとします。教師になったらなったで、PTAやマスコミがうるさいから○○にしておけと上から言われる。会社に入れば、談合だ、リベートだがある。「バレなかったら何やってもいいんだよ」と教えてくれる先輩もいる。「ええ〜、そうかあ?」って思う。不本意なことでもイヤイヤやらなければならないこともある。

 さて、そのときに、これは良い意味で諦めるべき事なのか、それとも諦めるべきではないのか、迷うと思います。自分の力ではどうすることもできない無力感も感じるでしょう。ストレスも感じるでしょう。Welcome to the 踊り場、です。さあ、どうする?

 ところで、僕個人で言えば、かなり諦めの悪い方だと思います。「なんでだよ、畜生」と思う方ですね。暴力に負けたくないから柔道をやり、権力に潰されたくないから司法試験をやった。不正があったら叩きつぶせばいいじゃん。だってその方が気持ちいいじゃん。だから相手が暴力団だろうが、大企業だろうが、国家だろうが喧嘩三昧できる弁護士を選んだ。だけど、世の中、そんなにシンプルではないことも分かってきた。叩きつぶすとかそーゆー問題じゃないんだって。で、何が一番この世を鬱陶しくさせているかといえば、「諦めてはいけないところで諦めること」なんだろうなと思います。つまり@モドキです(ここ、論理の飛躍があるのですけど、埋めてるとまた一回分くらい書くことになるからワープします)。

 社会正義やら天下国家はさておき、まずは自分のことです。
 諦めてはいけないことってあると思う。@モドキに逃げれば楽なんだし、Aに進むのは辛いことなんだけど、そうであっても。ここまで書いて、マイケル・ジョーダン先生の名言を思い出しました。「『お前なんかに出来っこない』という人の言うことに耳を傾けてはいけない。僕もさんざんそう言われた。彼らは諦めてしまったんだ。寂しいんだ。仲間が欲しいんだ。だから君も仲間にしたいんだ。」

 僕も、少なくとも、他人を@モドキのニルバーナに連れて行くのだけは止めようと思います。特にあとの世代には。それがどんなに大変でも、可能な限り実現できる方法を考えたいです。「何か方法はないか?」って、AがダメならB、BがダメならC、Cがダメなら、、、って。諦めは悪い方ですからね。とりあえず身近なところでいえば、「英語なんかできっこない」なんて思わない方がいいです。出来ます。絶対。ネィティブ並なんてのは難しいけど、そこまでいく必要もない。困らない、十分楽しめる程度だったら誰でもいける。もちろん楽ではないけどさ。

 それに何かが実現可能だからといって、それをやらねばならない義理は全くありません。でも、「やろうと思えばやれる」「選ぼうと思えば選べる」という選択肢が増えることは、場合によっては大きな救いになるでしょう。他の選択肢がぶっ太くなれば、仮にそれを選ばず現状のままであっても、「現状を選んだ」って意識が強くなるから、迷いは減り、ストレスも減るでしょう。なぜならイヤなことであっても「好きでやってる」「敢えて選んでそうしてる」のですから。好きでやってるんだったら、辛くてもしょうがないし、文字通り「諦めもつく」でしょう?

 でも、まあ、「待てよ?もしかして、、?」って思いはじめるときのワクワク感といい、諦めないのはイバラばかりではなく大きな快感を伴います。実際、「諦めない快楽」というのは圧倒的で、だから僕も喧嘩道楽から諦めない道楽に乗り換えたのですから。めっちゃ大変なんだけど、そこにストレスはないです。





文責:田村




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