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今週の1枚(10.07.19)




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Essay 472 : 発想の技法   「政治」という日常スキル(2)



 写真は、CityのWynyard(ウィンヤード)駅地下街。
 Cityの二大駅、Townhall界隈とWynyard界隈のどちらが好きかと言われたら僕はウィンヤードですね。昔のシドニーの中心はWynyardだったらしく、すぐ近くのMartin Placeなどもそうですが、中央郵便局や銀行本店など古めかしい建物が多くて雰囲気があります。またお店もいい感じに古ぼけたりして、昔ながらの渋い店が多い。これに比べてタウンホールは、後から資本を投下して作りましたって感じで、ピカピカなんだけど渋みがなく、コドモ向けというか、チャライ感じがします。



 前回に引き続き、日常生活における「政治」という技術について書きます。僕もあなたも日常的にやっている、やらざるをえない「政治」の話です。前回は、「これだけの素材があったらこれだけのことが出来る」というビジョンや発想がいかにキモであるかを書きました。では、その発想というのはどうやって得たら良いのでしょうか。何か効率的な方法論があるのか、また優れた発想が出てくるメカニズムというのはどうなっているのか。

 発想といっても、何でもかんでも思いつけばそれでいいってものではありません。当たり前ですけど。ありがちで陳腐な発想だったら人は惹きつけられません。どこかしら「ほう?」という斬新さは欲しい。しかし荒唐無稽に過ぎたら逆に白けてしまいます。実現性に乏しい企画はしょせん「絵に描いた餅」です。斬新でありながらも、良く聞いてみると意外と簡単にできそうだという、その美味しいあたりをどうやって思いつくか。また、どこまでが実行可能でどこからは不可能なのかをどう見極めるか?

ワンランクの高・広・深・長


 より良い発想を得るためには、ワンランク上の視野を得る必要があると思います。いやこれは僕独自の持論ではなく、世間一般に言われていることですが。タテでいえば一次元高く、ヨコでいえば一回り広い視野。深浅でいえば一段とディープな視点であり、長短でいえばロングスパンな発想。より高く、より大きく(広く)、より深く、より長く、です。

 例えば、大学入試でどの大学・学部を狙うかを考える場合、まずもって偏差値的に入学可能かどうかというところから入っていくでしょう。入試というのは合否が全ての一種の「勝負」ですから、勝てそうかどうか、つまり実現可能性が重要視されるのは分ります。しかし100%数値的なものだけで決める人もいないでしょう。多少は視野を広めに取って考える筈です。いわく将来的に就職に有利そうだとか、法学部はツブシが効くとか、その分野が好きとか嫌いとか、家業を継ぐとか、実家から通えるとか、逆に一人暮らしをしたいとか、いろいろな付帯事情をもとに決めていくと思います。

 そこをもっと少し突っ込んで少しでも大きな視点で考えると又違った考えも浮かんでくるでしょう。
 そもそも何で大学に行かないとならないの?大学に行くと専門知識を修められるとかいうけど日本の大学生は勉強してないじゃないか?専門知識なんか必要なの?大学にいった方が良い就職先が得られるというが、具体的にどの程度の大学でどの程度の企業という対応関係にあるのか?生涯年収や年金や社会的信用などどれだけの格差が生じるのか?その種のデーターをどれだけしっかり把握しているか?データーは常に過去の記録であり将来的もそうだという保証はないではないか?ところで「良い就職先」とは何か?「ツブシがきく」って具体的にどういうことか?専門領域でいえば、有望な分野だといっても30年後の世界状況や日本経済においても尚も有望でありうるのか?かつての炭坑のように廃れてしまうのではないか?だいたい経済学部で何を学ぶか知ってるのか?考古学、文化人類学、地球資源学科って何をやるのか知っているのか?全ての選択肢をちゃんと知っているのか?

 このように広く広く考えを進めていくと、意外と何にも知らなかったり、基準らしい基準もろくすっぽないことにも気づいたりします。でもって「何となくここかな」みたいな決め方になってしまう。まあ、それでもいいですけどね。人生なんか大事なものほど偶然に決まったりしますから。でも、もう少しちゃんとしたビジョンが欲しいなと思うなら、そうやって考え続けるのは大事なことだと思います。

 そして、全てが未知数、未確定なのだとしたら、じゃあ何を基準に決めるか?さらに決められなかったらどうするか?ということまで考えます。
 そこでの結論は人それぞれでしょう。例えばAさんは、「要は自分がハッピーになるかどうか!」だと辿り着き、さらに「ハッピーって何よ?」と考え続け、ハッピーになるためには物質的条件とハッピーを感じる精神的条件の二つがあり、全てはそのレシピー配分と時間的先後関係だと喝破します。しかし、じゃあどうなったら自分がハッピーになるのかという肝心な部分が未だによう分らない。だったらとりあえず物質的条件(お金など)を満たすことを先にやっておこうという暫定目標を設置し、将来的確率的に最も生涯所得が多くなりそうな分野に行くことにする、とか。

 一方Bさんは、こんなことすら分らない、決められない自分自身の無知無能こそがまずモンダイだ!と思い、世界に武者修行の旅に出て、3年くらいかけて自分を徹底的に鍛え直し、その上で考えようという結論に至ります。

 Cさんは日本社会の学歴の本質は卒業ではなく入学にあり、特に文系においては専門知識は殆ど必要とされないのであれば、射程距離にある大学で最も学歴神通力がありそうな学部を猛勉強して突破し、入試突破の金看板だけもらったら、あとはさっさと中退してゆっくり先のことを考える事にしようと思います。

 はたまたDさんは、わからないときはジタバタしてもダメだから、とにかく流れに逆らわず、日本人の大勢に流されながら、いつか覚醒する日を目指そうと思う。

 Eさんは、人生100年時代にモノをいうのは手に職であり、それもちょっとやそっとじゃ習得できないレアな技能を30年かけて最高レベルにまで磨こうと思い立ち、とある伝統芸能の名人のところに弟子入りします。

 Fさんは、あーでもないこーでもないと考え疲れたときに、前後の脈絡なくペンギンと戯れている自分の姿がやたらリアルに降ってきたりして、「そうだ、俺はペンギンと生きるんだ」と天啓を得るかもしれません。

 このように発想の方向など無数にありえるのですが、要は考えて考えて考え続けていくうちに、自然と視野は高く、深く、広く、長くなっていくだろうということです。縦横無尽に思考の翼を広げていった方が、しっくりくる発想に出会えるでしょうし、また神がかった着想を得られるかもしれません。偏差値の数値だけ見てても広がっていかないということですね。大学を選ぶためにはその先の就職を視野に入れざるをえず、就職を考えるならば人生における仕事の位置づけを考え、さらにはどういう生き方にしたいのかと発想が広がっていくということです。

 カレーを作るに際しても、ジャガイモとタマネギだけを百万年見続けていても「そうだカレーを作ろう」という発想は出てきません。その発想が出てくるためには、「この世には”料理”というものがある」「料理にはこういうバリーエーションがあり、カレーという料理法がある」というワンランク上の世界に行かなければなりません。

 「料理」の定義や概念はよく分りませんが、おそらくは食物をそのまま食べるのではなく、切断など物理的形状を変え、加熱などして化学変化を生ぜしめ、あるいは他の食物と混合させることによって、味覚を増進させる行為とでもいうのでしょうか、そういった行為をするという発想世界に至るかどうかです。大昔の人類はまだその発想に至らず、単にそのまま食べてただけでした。現在でも人間以外の動物は殆ど料理という発想に至っていません。海水で芋を洗う猿とか、獲物の肉を地中に埋めて熟成させる、、程度の料理の初歩はあるかもしれないけど、その程度。人類だけが「どうせ食べるなら美味しいものを食べたい」「工夫次第で味はよくなる」という発想世界に到達し、あとは文明史=料理史といってもいいくらい世界各地で工夫が凝らされています。ちなみに20世紀後半からは「美味しいモノが食べたい」に加えて「楽をしたい」という対立欲求が出てきて、インスタントやレトルト、保存剤などが開発され、この「楽欲求」によって本来の美味感覚が後退してしまって、ああ嘆かわしいというのが「美味しんぼ」の世界だったりするのでしょう。


 いわゆる一般で言われる普通の「政治」についても当然ながら話は同じです。
 日本の政治を考える場合、どういう日本になればいいのか?という問いに対する回答は、日本の現状だけを見てても得られないでしょう。今世界はどうなっているのか、そしてどちらの方向に向って進んでいくのかという広い視野と正確な知見がなければ、日本をどうするという発想は得られないでしょう。

 要は「それだけ見てても分らない」ということですし、よう分らんときは発想を広げていけということです。

パターンとストック

 発想を生み出すのは大変ですし、ゼロから全てを思いつくのは時として至難のワザだったりします。
 そこで、予め幾つかの発想のパターンをストックとして持っておくと重宝するでしょう。「こういうやり方がある」「ここをこうヒネると面白くなる」という。

 「森に子供が5人います」という状況で、どれだけ楽しい遊びを知ってるかです。かくれんぼでもいいし、鬼ごっこでもいい、基地を作ってもいい。どれだけ「遊び」のバリエーションを持っているか。これは勉強や練習についても全く同じで、例えば英語の勉強方法だったら幾つ知ってるか?です。最低でも数パターンは必要だろうし、上達するまで自分であれこれ工夫するから、ある程度出来る人なら20ないし30パターンは知ってるでしょう。単語を覚える方法だけでも数パターンはありますから。出来る人ほど沢山の勉強方法を知ってる筈です。

 カレーを作るにしても、料理の種類を沢山知っておいた方がいい。あまりにもジャガイモが美味しそうで、ジャガイモの美味しさを生かすんだったらカレーではなく肉じゃがの方が良いのではないかとか。何もカレー粉があるからカレーにすべき義理はなく、カレー粉は後日に取っておいて別の料理を作ってもいいわけです。マッシュポテトにカラメル・オニオンをかけ、人参はソテーにするというやり方だってあるわけです。

 先ほどの大学入試の例でも、発想を豊かに膨らませていくには、どれだけ「生きるパターン」を知っているかどうかです。大学には行かずにいきなり起業するというパターンもあるし、結婚して主婦におさまるというパターンだって十分にある。人生のバリエーションなんか無限にあります。働くにしても、NYで金融取引をやっててもいいし、白神山地で森林保護をやっててもいいし、頭文字Dみたいに群馬県で豆腐屋さんをやっててもいいわけです。もう人の数だけバリエーションはあるのだ。「大阪で弁護士やりながら、いきなりオーストラリアに行っちゃう」というのもアリです。それを具体的にどれだけ知っているか。世間のマジョリティとは違った、「変わった生き方」をしている先輩達をどれだけ知っているか。

 日本をどうするという話でも、世界にはどういう成り立ちで、どういう運営をしている国々があるかを沢山知っておいた方がいい。日本だけ見てても発想が限定されてしまうし、やがては枯渇する。江戸時代の日本「だけ」見てたら次の明治時代は到底思いつかないでしょう。あれだって当時の連中が他の西欧諸国を見て「おお、ああいうやり方があるんだ!」という発想を得ているわけですし、その後に海軍はイギリス式で陸軍はドイツ式というのも諸国をいろいろ見てストックがあったからこそ出来たチョイスでしょう。だから今の日本をどうするかも、日本だけ見てたら答は出てこない。他の国々だって、日本以上に問題を抱え、ハンデを抱えて必死に頑張ってるんだから大いに参考になるでしょう。

 美味しいものが食べたかったら(作りたかったら)、出来るだけ色々な料理を食べろということであり、良い曲をプレイしたかったら出来るだけいろいろな音楽を聴けということであり、豊かな人生を歩みたかったら出来るだけ沢山の人の生き方を知れ、ということです。
 抽象的で分りにくいけど持ってると非常に便利なストックは、お笑い芸人の技術のように「こうすると人間は笑うものだ」という笑いのパターンのストックなどです。この種のコツやストックは目に見えないので分りにくいのですが、それだけに持っておくと使い勝手の良いアイテムになります。この「笑わせストック」を多く持っていると、対人関係などもスムースになるでしょうし、職場での対応、営業の現場やクレーム処理、顧客へのプレゼン、あるいはナンパ、あるいは部下や人心の掌握などに威力を発揮するでしょう。

 この笑わせストックを親戚のようなものに「こうすると人間は面白く感じるパターン」があります。同じような話でも視点を変えるだけでガラリと感じが変わって面白くなるとか。例えば、有名な「吾輩は猫である」は猫の視点から書くというのが発想の目玉です。推理小説でも倒叙推理というパターンがあり、最初に犯人が犯罪を犯すという描写から始まり、名探偵がいかに追い詰めていくかという逆立ちした叙述方法をとります。刑事コロンボなんかが有名ですが。二つの異なるスートリーを一章づつ交互に書き、それが徐々に近づいてきて交錯するという村上春樹の「海辺のカフカ」「1Q84」のようなパターンもあります。これを延長していけば、同じ企画でも「こうヒネると面白くなる」とか、実生活に幾らでも応用がききます。

 前出の「絶対的に情報不足で決められないけど決めねばならない」という場合にどうするか?にもパターンがあります。@最も確実にゲットできそうなものから先にゲットしていく、A最もやりたいことから先にトライしていく、B下手な考え休むに似たりだから鉛筆転がして決める、C周囲の皆に最も人気がある方向にする or 最も人気がないものを敢えて選ぶ、D最も惹かれているが、なぜそうしたのか最も説明しにくい選択肢(つまり直感以外に理由がない)を選ぶ、、、などなど。

 この「決められないけど決める技法」は、例えばシェア探しなどにも有用です。何件か良いシェア先候補が出てきたとき、@パターンでいくということは、例えば値段だけで決めることです。諸条件がいろいろあるけど、全てが未知数だから最も確実な数字で決めるという。仮にダメだったとしても最も出費が抑えられたという意味では得点1はゲットできます。Aは自分が「いいな」と思えるシェア先なんだけど、敷居が高そうでビビってるようなところです。アジア系の人は話しやすいのだけど、敢えて若いヨーロピアンが4−5人いるシェア、つまりは機関銃のような早口&スラング英語の嵐に日々見舞われるシェアにチャレンジしてみる。Bは「所詮は運」と割り切って「どれにしようかな」で決める。Cはよくあるパターンの安全パイを取るか、未だ誰もやったことのないパターンに初挑戦するか。

 ちなみに、僕がオススメし、成功率が高いのはDですね。「○○にしたいけど、なんでそうするのかと聞かれたら言葉では説明できない(言葉で説明できちゃう選択肢は外す)」という直感決定はアタリが多いですね。そして、第6の選択肢として「多少時間がかかってもいいから、もっと探す」があります。これも有力。そして第7としては、「もし失敗したとても最も得るもの(教訓など)が大きいもの」という基準もあります。他人に言われて決めて失敗しても得るものは無いです。せいぜい「○○さんの言うことはアテにならない」ということくらいだけど、そんな教訓ゲットしても仕方がない。やはり自分なりに決めて、それで失敗すべきであり、そうすれば「ああ、そこまでは考えなかったあ!」とか「詰まらんことにこだわりすぎた」とか貴重な教訓を得られますから。


 なおストックがあるとか、パターンを知っているとか言っても、「さあ、思いつくぞ!」と腰を据え、おもむろに頭の中の引き出しを開けながらストックを物色して思いつく、、、というプロセスを辿ることはマレでしょう。実際にはもっとナチュラルに出てくる。そんな地下のワインセラーに降りていってワインを選んでくるような感じではなくて、アイデアそのものは「何となく」「自然に」思いつくものであり、いわば天から降ってくるような感じでしょう。その「自然に思いつく」という現象の母体になるのがストックであり、逆に言えば自然に思いつかないようでは、ストックを持っているとは言えないでしょう。


正確な知識と体験

 縦横無尽の広い視野と豊富な選択肢パターン、これを裏付けるのは正確な知識です。知らなかったら視野もヘチマもありませんし、間違った前提で発想を練っていてもまるで時間の無駄だったりします。

 ありがちな失敗例は、単に本やネットで調べて「知ってるつもり」になることです。実際に自分がやってみたり体験してみないと本当のところは分からんです。「大自然に抱かれてキャンプ生活!」という美しいキャッチコピーに惹かれたものの、実際やってみたら、やたら虫は多いわ、地面がジメジメして気持ち悪いわ、テントの張り方がいい加減だから夜中に倒壊したり、豪雨で浸水したり、大変だったりするわけです。僕の身近な例で言えば、オーストラリアの気候は寒暖の差が非常に激しいとHPでさんざん書き、また皆も読んでわかっている筈なのだけど、結局の所リアルに分る人はマレです。多くは実際に体験してはじめて「なるほど」となります。

 車の運転での「安全確認」も、教習所時代から耳にタコが出来るほど聞き慣れていて、「はいはい、わかってますよ」と思っているのだけど本当のところは分ってない。実際に事故で他人を轢き殺してしまい、留置場に入れられ、遺族から人殺しと面罵されて初めて「ああ、安全確認は大事なんだ」と分っても too late です。水泳の本を読んでて「息継ぎが大事」と書かれていて、「はいはい、息継ぎね」と分った気分でいたとしても、鼻の中に水が入ってしまったときの苦しさを知らないと、実際にそうなったときに容易にパニックになってしまう。

 あるいはこういうパターンもあります。あまりにも皆が「いい!」というので段々聞き慣れ、感覚も麻痺してきて、それが当たり前になり、ひいては懐疑的、天の邪鬼になったり、、で、結局自分ではまだ体験していない、ということがあります。でもって、何かの拍子に体験してみたら、これがものすごく良かったという。で、「いいじゃん!」ということになるのですけど、こんなの最初っから知ってたことです。知りすぎてしまっているから、逆に全然知らないという、「知っていたけど知らなかった」という事柄があります。東京生まれの東京育ちが30歳過ぎて初めて東京タワーに登ったら感動した、みたいな話です。この種のことって沢山あると思いますよ。

 世の大人が子供に向って口癖のように「勉強しろ」と言いますし、僕もよく言われました。あれって「勉強して成績よくなって、それでいい大学、いい就職に至る」という「処世術」として言ってるだけではなく(その部分も大きいのだろうが)、それだけではなかったのですね。ほんと、知らなきゃ話になんないもん。いい歳になってからようやく言ってる意味が分ったという。これも知っていたけど知らんかったというパターンですね。

 いやあ、勉強しろ、ですよ、ほんと。
 勉強ってのは何も教科書読んでテスト受けることだけではなく、何にでも興味を持って、調べて、実際に足を運んで、自分でやってみろってことです。それをすると何かイイコトがあるのかというと、大アリで、そうしなければ正確な知識は身につかないし、視野も広がらないし、選択肢ストックも増えないし、ひいてはビジョンも出てこない。

 ここが豊かにならないと、貧しい選択肢にしがみつくことになります。カレーしか知らなかったら、例えカレー粉が腐っていたとしても、泣きながら腐ったカレーを作らなければならなくなる。すぐ人生行き詰まってしまう。なんで行き詰まるの?といえば、選択肢が乏しいからであり、なんで選択肢が乏しいの?といえば、要するに「知らないから」、あるいは「知ってるつもりになってるから」でしょう。

自分自身に対する政治

 なにやら「政治」の話から個人の人生の組み立て方法へと話が逸れているように思われるでしょう。でも、それは不思議なことではなく、究極的には同じことだからです。

 現状における素材と環境をいかに有効に活用していくかが、政治力の原点たるビジョンや構想力だとしたら、別にその対象が何人であっても同じことです。1億人であっても、一人であっても原理は同じ。その一人が誰か特定の他人(友人、自分の子供)だったら、アドバイスやカウンセリング、さらには子育てや教育論になり、その一人が自分自身である場合には人生工学ともいうべき技術体系になってゆくということです。

 こと自分についていえば、自分を取り巻く環境を、ワンランク高い次元から俯瞰し、ディープに掘り下げ、且つ正確に、実体験とともに知悉し、そして自分自身のポテンシャルを知れば、「自分の生かし方」も見えてくるでしょう。皆のことを考えるのも、自分のことを考えるのも、はたまた一つの国家を考えるのも、その原理においては同じです。まあ、早い話が昔から言われていること、「敵を知り己を知れば百戦危うからず」であり、「天の利、地の利、人の利を知れ」ってことなんですけどね。

 そして、国家政治のメカニズムと自分の人生の組立てとの同質性は、何もビジョン/発想を得るという局面に尽きるものではないです。豊かな発想で素晴らしい発想を得たとしても、次にそれを以下に伝えるかという表現や伝達の問題が出てきます。さらに軌道に乗ったあとにやってくる中だるみやマンネリをいかに打破するか、集団内部での不協和音の収拾、外部との調整などにおいても基本的には同じ事だと思います。集団内部での世代交代という面ですら、自分の中に次々に「新しい自分」が生まれているのだとしたら、どんどん新しい自分に仕切らせていくという意味では同じことと言えなくもありません。

 ともあれここでは、政治論と人生論がグチャグチャになってしまうのは、ともに「人を活かす」という意味では同じ作業だからだ、ということを指摘しておくに留めます。以後も話がごっちゃになるかもしれませんが、それはそういう意味ですし、多くの政治的局面やその構造メカや処方箋は、基本的に全部自分のライフプランに応用可能であるということでもあります。強大なアメリカにデカい面をされて悔しい、でも本気で怒らせるとしっぺ返しが恐い、さてどうするか?という構造は、なにやら会社とサラリーマンの関係、大口取引先と自営業者の関係に似てたりするでしょう。

 ということで今週は発想編、来週はそれを人にいかに伝えるか、どう説得するかの伝達編をやりたいと思います。といっても、こんなことがスラスラ分るくらいなら、僕だって自分の人生で苦労してないのですけどねえ(^^*)。



文責:田村






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