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今週の1枚(10.06.07)



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Essay 466 : いつもおなかに太陽を!





 写真は、タウンホール駅にて。おっちゃん、ホームの電光表示を見上げるの図。一見地味なんだけど、よく見ると二人ともけっこうオシャレだったりして。


はじめに

 今週は、書きにくいのです。頭のどっかにコンセプトは胚胎した気配はあるのだけど、なかなか形にならない。どこから書きだしたら良いのか、、、うーむ。えーと、結論的にいえば、自分に自信があったら何もかもがうまくいき、世界も平和になるでしょうってことなんですけど、これじゃ分からんですよね。

 まず大きな問い掛けをしますね。
 僕もあなたも、時として周囲に対してやたら闘争的、攻撃的になったりしませんか。あるいは逆に自分の周囲がやたら攻撃的、闘争的に感じられたりするとか。それは世相風俗でも、周囲の職場や人間関係でも何でもいいんですけど、なんとなく感情的に波立ち、トゲトゲしてくる。妙に競争的な感覚にとらわれる。他人が馬鹿に見えたり、他人から馬鹿にされているように感じたり、人をみてもあんまりラブリーな存在に思えなかったり、「人間っていいよね」という温かく満ち足りた気分になれない。「くそ、どいつもこいつも」って感じに殺伐としてくる。

 まあ、これは人間だったら誰しも生じる感情なんだけど、ここで問いたいのは、なんでそうなるのか?ということです。その根本原因は何か?です。

 第二に、食わず嫌いとか、苦手意識というのがありますよね。私はパソコンやメカには弱いとか、部屋をキチンと片付けるのが苦手とか、社会科が苦手で歴史や政治の話をされるとさっぱりとか、料理はからきしダメとか、ファッションには疎いとか、スポーツや芸事は全然ダメとか、、、、幾らでも挙げられると思います。で、ここでも問いたいのは、なんでそう思うの?であり、何故それを改善しようと努力しないの?ということです。あとでも言うけど、苦手意識を転換するのは思っているよりもずっと簡単なことですから。

 この@他者や周囲とトゲトゲしくなってしまう心理傾向と、A自分の不得意領域を放置する感覚とは、どっかでつながてるんだろうなって話です。


不細工な殺気

 今や知らない人が少ないくらい有名になった「バガボンド」という宮本武蔵を描いた漫画があります。僕も大好きなのですが、初期の方に、武蔵が宝蔵院槍術と対決するために奈良に赴く場面があります。この物語の序盤の白眉となる胤舜との闘いがあるのですが、その前に、胤舜の師匠である胤栄とたまたま出会った武蔵は、達人胤栄に「不細工な殺気」と喝破され、こき下ろされます。その趣旨は、自らが抜き身の日本刀のように殺気を撒き散らしているから、出会う人を皆敵にする。周囲が攻撃的だから、防衛意識が高まりついつい殺気も高まるのではなく、因果関係が逆で、まず最初に自分が殺気をまちきちらしているから、周囲の人間が警戒し、敵になる。要するに、周囲を敵にしているのは他ならぬ自分自身であるという話です。

 で、この話は、最近の32巻にも微妙につながっていて、かなり精神的に成長した武蔵が自己分析をするシーンがあります。脚を怪我した武蔵は、脚を怪我をしているという意識が恐れをうみ、恐れは怒りと最強幻想への執着につながり、またそれを失うことの恐れを産み、循環していき、ひいては殺し合いの螺旋に至るのだと悟ります。

 これは同じ根っこのことを言ってると思うのですが、本当の自分は弱いのだという意識(無意識)、自分に対する本質的な自信のなさが、外界への過剰な反応を産み、それが攻撃性、闘争性に連なり、トゲトゲしてくるということです。

 簡単にいってしまえば、「弱い犬ほどよく吠える」ということですよね。
 心のどこかにコンプレックスがあるから、それを糊塗(こと=塗り固めて誤魔化すこと)するべく強がってみせる。学歴や家柄に自信がないから資産の多さを誇示してみせるとか、異性にモテなかった青春時代に深く傷ついているからこそ、エリート経歴を誇示するとか。逆に自分のダメダメぶりを露悪的に誇示するとか。まあ、代償とか補償作用ということで、それはそれで心のバランスをとるために必要なことなのですけど、ときどきオーバーランしてしまう。極端な例をあげれば、何をやらせてもダメダメなんだけど、ある分野だけ抜きんでて知識を持っている人が、その点に関してだけ「えー、そんなことも知らないの?」と力一杯他人を馬鹿にしてみせるという。何にも出来ないくせに、いや何にも出来ないからこそ、やたらプライドだけはお高い新入社員君とかさ。まあ、わかるよね。

 でも、これは、他人事じゃなくてさ、あなたもそういうところがあるでしょうし、僕にだって多分にあります。”Nobody is perfect”ということで、完璧な人間なんかこの世にいませんし、誰だってどっかにジクジクした心の痛みをひきずってるわけで、そこを突かれると厳しいから、どうしてもその点について防衛的に物事を運んでいこうとします。大は人生キャリアの選択から、小は飲み会での会話の流れの誘導にいたるまで、いじこい戦略を巡らしたりするんですわね。無意識的に。

 まあ、そんなのは当たり前のことで、特に目くじらを立てる必要はないのだけど、こと自分自身に関していえば、「しょせん誤魔化してるだけなんだよね」とカラリとした認識を持つのはイイコトだと思います。そして、俺もあなたもアホやねん、アホ同士仲良くしよな、という意識もまたイイコトだと思います。世界がちょっぴり平和になります。

 だから、自分が妙に他者に攻撃的になってたり、他人に優しくなれなかったりするときは、「ああ、俺は弱っちー犬だからトゲトゲ吠えてるんだなー」と思えば良いのだと。


メチャクチャおいしい不得意科目

 次に苦手意識です。不得意科目ですね。「私、○○は苦手だから」ってやつ。
 まず、先ほど書いた点、この苦手意識をひっくり返すくらい簡単で、果実300%増という美味しいイトナミはないぞよということから、先に書いておきます。本筋にはあんまり関係ないのだけど。

 まずは受験必勝法。英語90点、数学70点、でも国語だけ30点というあなたがいます。2週間後には入試があります。さて何を勉強すべきでしょう?というと、もう問答無用に国語。ここで愚かな人はつい英語を勉強しちゃうんですよね。得意科目をやるのは気持ちいいですからね。しかし入試なんか総合点で決まるのだから、いくら英語を必死にやっても「伸びしろ」はあと10点しかない。それに90点を100点にまであげようとするのはかなり大変です。100点というのはミスがゼロということで、実質的には150点とか200点くらい余裕で取れる実力が必要です。試験というのは100点の人と99点の人を選別しようというのだから、最後の数点部分にとびきりの難問が入ってたりもする。90点といっても10回のうち1回は間違えているわけで、その程度のボンクラが完璧を目指そうと思えば、今までの勉強と同じくらい労力がかかる。とんでもなく効率が悪いです。

 そこへいくと国語30点は舌なめずりしたいほど美味しいです。30点を50点にあげるのはそんなに難しくないのだ。しかし、それでトータル20点増なんだから、もうそれだけで英語をやってた場合(10点)の倍くらい合格可能性が上がる。でも、そんな苦手科目がいきなり点数があがったりするか?というと、多くの場合上がります。なぜか?苦手科目って、殆ど勉強してないからです。苦手だから勉強してないのか、勉強してないから苦手なのかニワトリ卵ですけど、要するにそんなに真面目にやってないのだ。本腰を据えて徹底的に取り組むということをやってない。これが全回0点のオンパレードだったら、根本的に何か問題があるのかもしれないけど(試験問題の日本語が読めないとか)、とりあえず20点とか30点とか取れるということは、そこそこは出来る。これを50点とか60点近辺にまでもっていこうとすれば、そこそこ×2くらいの勉強量でいける。要するに「量」の問題であり、適性とか向き不向きとかいう「質」のレベルの問題ではない。量の問題ならば、やれば必ず上がるということで、投下資本に対する回収効率が抜群に高い。だからおいしい。

 ちなみに本当に天職とかプロのレベルでの適性をいうなら、学校の試験ごとき余裕で100点取れてなければダメでしょう。余裕で100点を取れる全国の強豪の中から、さらに飛び抜けて優秀な怪物クラスの連中をなぎ倒していってなんぼの世界ですから。だって国語で5(五段階評価で)取れたら小説家になれますか?美術で5の人が芸術家になれますか、体育で5だったらプロスポーツの選手になれますか?音楽で5だったら、、、わかるでしょう。才能とか適性とか、それでメシを食うとかいうのは、もっともっと遙か上空、成層圏とか電離層くらいの「神々の争い」です。あるいは破格の天才の巨大な才能は、学校の試験がごとき凡庸な物差しでは測れず、O点を食らうかもしれない。いずれにせよ、学校レベルなどは全て「量」の問題だと言ってもいいです。

 あと、この設例は、英語が90点数学が70点取れる人の場合で、全科目30点の場合は又話が別です。そういう人は本来的に頭が悪いから絶望的なのかというと、話は逆です。日本語喋れる程度の知能があったら別に知能面には問題ないでしょ。「ABCが言えたらシェア探しは出来る」と別の所に書いてますし、現に出来ますが、それと同じ事。ただ、総じて勉強とは何か、テストで点を取るとは何かという根本的なところを誤解してる可能性が高い。非常に生産性の低いことをしている疑いがある。だから、一つ分ったら一気にドカンと全科目点数があがる可能性があり、美味しさでいえば最高に美味しいです。

 これは学校や受験だけの話ではないです。
 自分が何となく不得意に思っている分野、敬遠している分野を、得意科目とまではいかなくても、人並みレベルにまで持って行くのはそれほど難しいことではないです。そして、注ぎ込んだ努力量に比べて得られる果実がデカい。なんせ伸びしろが大きいのですから。それだけではなく、これまでダメだと思ってたことがそうではなくなると、世間の見方も、自分の人生の可能性も一気にガラリと変わります。

 例えば、マンガによくある設例で、「眼鏡を外したら実はメチャクチャ美人」というケースを取り上げましょうか。本人自身もブスだとかモテないとか思いこんでいる。「どうせ、私なんか」と最初から決めてかかってるから、ファッションにも熱意がないし、全ての行動や思考が引っ込み思案になる。だから余計に「華」がなく、地味な存在になる。さらにモテない。悪循環です。ところが、何かのキッカケで(大抵マンガでは鋭い洞察力で彼女の美しさを喝破する素敵な彼氏のプロデュースによる)、「これがわたし?」という素敵な自分を再発見したら、もう人生ドカンと楽しくなるでしょう。単にチヤホヤされて楽しいだけではなく、積極的に世間に出て行くし、そうすれば新しい扉を開けるような出会いもあるし、あんなことにもこんなことにも興味が湧くでしょう。それに、「土中の蝉の子」「醜いアヒルの子」的な地味だった時代に色々本も読むだろうし、思索にも耽るだろうから、外見だけの薄っぺらな美人ではなく、ずっしり内面も充実した「大人の女」になれる。

 なんか雑誌の通信販売の広告みたいな話だけど、人生なんかある意味チョロイもんで、何か一つ「基本設定」を変えたら、ガラリと変わります。自分でダメだと勝手に思いこんで、それで本当にダメになっていく。なんか、景気が悪いと言いあってるうちに本当に景気が悪くなってしまった今の日本経済みたいですけど、そーゆーことってあります。それも頻繁にある。人間の行うあらゆる「失敗」の99%は「自滅」であるというのを何かで読んだことがありますが、真理だと思いますね。


なぜ「苦手」だと思いこんでいるのか

 それでは本題。なんで苦手意識を持つのか、なんで不得意なのか?です。
 先天的な向き不向きというのもあるでしょうけど、それは非常にマレだと思います。先ほど書いたように、本当の適性とか才能というのは、はるか上空世界の話で、人並み、世間並みレベルであれば、よほどのことがない限り、誰でも到達できる。

 「よほどのこと」というのは、身体が不自由だったりすることですが、それすら絶対ではない。ベートーベンだって、途中で耳が聞こえなくなりながらも作曲を続けてます。音楽家にとって音が聞こえないというのは死刑宣告に等しい筈なのに、それでも天才の名に恥じぬ作品を作り上げてます。指がないのにギタリストになるというのも、ブラックサバスという老舗バンドのギタリストにトニー・アイオミという人がいます。彼の右手(左利きだから弦を押える重要な方)の中指と薬指の先端は工場での事故で失われています。それでもメゲずに洗剤のプラスチック容器を溶かしたチップを指先にはめて弾いています。彼がそうできたのも、同じように指を無くしたプロギタリスト(ジャンゴ・ラインハルト)というという先達がいたからです。薬指というのは、チョーキングやビブラートをきかせる生命線ともいえる指ですが、彼のビブラートは叙情的でスリリングで僕は好きです。指が無くてもプロのギタリストとして40年も君臨し続けられるなら、大抵のことは「よほどのこと」ではないです。強度の近視でありながら画家って人も多いですね。片目を失明している有名人というのもかなりいます。

 だとしたら、五体満足でプロよりも遙かに低い「人並みレベル」に到達するのなんざ、別にそう難しい話ではない。だいたい普通の人が普通にやってるようなことは、普通の人だったら出来ます。パソコンでも料理でも普通の人が普通にやってれば出来るように、最初から準備されてますからね。それが出来ないとか、苦手とかいうのは、「やってて楽しくないからやりたくない」「面倒臭いからやりたくない」と言ってるだけじゃないですか?そう言ってれば誰かが代わりにやってくれるんじゃないかとか甘いこと期待してるんじゃないの?もうバッサリ斬っちゃうけど。

 誰だって不得意なこと、馴染みのないことをするのはイヤですよ。なかなか上手に出来ないからイライラするでしょうし、面白味が分らないから詰まらないでしょう。でも「やりたくない」と言ってしまったら余りにもワガママで根性ナシみたいで外聞が悪いから、「苦手」とか「不得意」とか、あたかも生来的、宿命的なように言ってるだけでしょう。イヤなことをやらずに済ませる方便として「苦手宣言」をしてるだけ。この傾向は、若い人よりも年配の人にむしろ多く見られる傾向で、人によってはもうガンとして、もう意固地になってでもやろうとしなかったりします。「もう歳だから」「難しいことは分らないから」と。

 だからといって僕は何が何でも「やれ!」と言ってるわけではないのですよ。やりたくなければやらなければ良いです。イヤイヤやる義理はどこにもないです。それと、本当は苦手でも不得意でもないのだけど、社交儀礼としてそう言っているだけという例外的なパターンもあります。例えば、妙な屁理屈を並べて山歩きやハイキングの誘いを断る人がいる。楽しいですよ、一緒にどうですか、気分いいですよと誘っても、「いやあ」といって絶対にやろうとしない。この場合、もしかして他人には言えない事情があるのかもしれません。今の配偶者と結婚する前に、当時の恋人と心中覚悟で冬山に向かい、自分だけが生き残ってしまった、だからもう二度と山には足を踏み入れたくないとか。そんなことを得々と喋っても今の配偶者は傷つくだろうし、場の空気もどうしようもなく重くなってしまう。そこで「もう歳だから」という当たり障りのないところでかわしておく、ということはありえます。だから、なんか妙だな、、と思ったら、それ以上は突っ込まないのが大人の礼儀というものでしょう。

 ただ、ここで言いたいのは、そういう深い事情もなく、何となく思いこみで苦手意識を持ってるだけだったら、それは「自分自身を知る」という意味で、再検証しておかれた方がいいということです。なぜかというと、これって先ほどの「眼鏡を外したら実は美人」というパターンと全く同じだからです。それも本人だけが「私なんか」とかいってガンとして認めようとしないパターン。出来ない、苦手だと思いこんでたことが、実は簡単に出来るようになったら、ガラリと世の中変わりますから、勿体ないのですね。で、「ちくしょう、なんでもっと早くやらなかったかなあ」ってなる。

 そもそもなんで苦手/不得意なのかというと、それをマスターするための練習の絶対量が足りないからでしょう。要するにやってないから出来ないだけ。それって苦手とか不得意以前の話です。練習もせずにいきなりできたら、それは天才ですよ。スリランカにシンハラ語という言語がありますが、あなたは喋れますか?喋れないでしょう。それはやってないから出来ないだけであって、「苦手」でも「不得意」ではないでしょう。

 大体、なんで苦手とか「私には向いてない」とか思うの?と突き詰めていくと、実は大した根拠なんかなく、勝手な思いこみが多いです。よくあるのが「ちょっとやったけど挫折した」というパターンですが、これも「挫折」というほどのめりこんでいるわけでもない。ちょっと囓ってみたけど、その面白さに到達する前にイヤになってしまったというのが実態じゃないですか?

 ある物事をイヤに思うのは何故かといえば、詰まらないからです。なんで詰まらないか?といえば、分らないから、出来ないからです。分ったり、出来たりする人で、それが詰まらないという人は殆どいません。あまりにも簡単に出来てしまうから面白くないというイヤミな奴もいますが(^_^)、多くの場合は、分ること、出来ること、それも人並み以上に分ったり出来たりすることは、誰だって嫌いじゃないし、詰まらないとは思わない筈です。

 で!ここが大事なのですが、ちょっとやって分らない!出来ない!となったときに、絶対に自分の能力や資質のせいにしちゃダメです。「ああ、こんなことが分らない俺は馬鹿だ」とか「運動神経や楽才がないからダメだ」「向いてない」と思ってはいけない。

 そこでそう思うから宿命論的な不得意領域になり、ひいては「私の人生なんてこんなもん」という限界を自分で作ってしまう。さらに、自分で作った限界の外の出来事については「私なんかには到底無理」で、やりもしないで諦めるという。ありもしない幻想の限界を自分でシコシコ作って、その限界に絶望するという。自分で作った落とし穴に自分が落っこちて骨折するみたいな。馬鹿馬鹿しいじゃないですか。勿体ないじゃないですか。

適性と初期習熟速度

 習い始めの時期の習熟進度というのは、人によってバラバラですが、その進度とその人の適性とは実はあまり関係ないです。むしろ、将来プロとして頭角を現すような人の初心者時代というのは、結構ダメダメな場合が多い。もちろんモーツアルトのように最初から神童としてぶっ飛ばしている人もいるけど、その逆のパターンも多い。子供の頃病弱で泣き虫だったから、親が心配してスポーツをやらせたみたいなパターンは多いです。坂本竜馬なんかまさにそれで、外に行けばいつもいじめられてビービー泣いて、いつまでたっても寝小便が直らず、かなりどーしよーもない少年時代だったそうです。それが北辰一刀流の免許皆伝という日本の最高峰の剣士になるわけですからね。名前は忘れたけどアメリカの雄弁家で有名な人も、子供の頃ドモリで赤面症だったといいます。お笑い芸人でも、素顔は人前に出るのがイヤで、出てもモジモジして何も出来ないくらいの人の方が向いているといいます。

 逆に最初からスイスイ器用にこなしている人というのは、「器用貧乏」になる恐れが強い。そこそこはできるけど、そこそこしか出来ない。英語でも、"Jack of all trades not a master"(何でも屋のジャック、でも名人級に出来るのは何もない)という表現があります。学校でもクラスのベスト3くらいにはすぐに行くけど、そこから先には進めない。クラスの人気者だけど、卒業したら凡人人生。これを打破するほうが遙かに難しいですよ。空手などの格闘技でも読んだことがありますが、器用にスピード昇級を重ねる人よりも、成長進度の遅い不器用な奴が必死に努力して獲得したワザの方が、一撃で倒せる必殺技になる。

 「1+1」が理解できず、教師から匙を投げられたエジソンの話は有名ですが、人間の本当の才能なんか最初の段階では全然分らないです。才能というのは巨大な質量を持っていて、それを計るのは難しい。言うならば、東京〜大阪の距離を、地面に30センチのモノサシをあてて計ろうとしているようなもので、最初の数メーターや数キロなんか誤差の範囲であり、あんまり意味がない。だから初期習熟進度なんか気にするだけ愚かだと思います。それにやってれば名人とはいかないまでもそこそこは行く。昔の庶民はいきなり丁稚奉公にあがらされ、向き不向きもヘチマもなく、「辞める」という選択肢がなかったから、誰でも一人前になり、やがては親方になれた。

 でも、その最初の段階で、あんまり楽しくないからもう止めてしまい、あとは苦手、得意じゃないことにしているだけって場合が多いです。本当はそれが天職かもしれないし、その分野でメシは食えないまでも楽しいサークル活動が待っていて、そこで未来の伴侶と出会うかもしれないのだ。チャンスをみすみす逃している。ああ、勿体ない!


不可侵領域にしちゃった自分の弱点

 さて、ここで、どうやったら一見苦手と思える分野を攻略できるか、そのコツは何かという論点があるのですが、書いてたらそれだけで数百行になってしまいました。本題から離れすぎ。というか、もうそろそろシメないとならんですよね。どうしよう。ダメだ、テーマが大きすぎて、これは一回では終らんわ。

 適当に切り上げますが、最初に戻って、@「弱い犬が吠える」という自分の弱者意識が攻撃意識を生むという構造、A苦手意識の構造がつながってるという話でした。ね、つながってるでしょ?っていってもわからんか。

 何がつながってるかというと、自分の弱さ、自分の弱点、自分の不得意で苦手でイヤな部分をしっかり見つめていない、という点でつながっているのです。

 自分のダメな部分を余りにも恐れすぎていて、もうアンタッチャブルというか、不可侵領域というか、腫れ物のように1ミリたりとも触りたくない。だから正確に査定できていないし、しようという気にすらならない。1ミリでも触られたら激痛が走ると思ってるから、絶対に他人にも触れさせない。触れようとする人がいたら、「そんなの関係ないじゃん!」と全力で排除!って感じ。この激痛感覚はあまりにも強烈で、まるで放射能汚染地域みたいに半径100キロを立ち入り禁止にする。やりすぎなんだわ。

 弱点とか欠点とかって、案外と自分で思ってるほど致命的なものではないです。自分はデブで醜いと思いこんで、実はハタから見たらデブどころかガリガリなんだけど、それでも本人だけ固く思いこんで、拒食症になって栄養失調で死んでいくみたいな感じ。無意識での欠点感覚、ダメ感覚があまりにも強いから、攻撃されたら一貫の終わりだという恐怖感情に常に支配される。だから安らがない。絶えずイライラするし、人をみたらまず攻撃されないように威嚇するし、トゲトゲした関係にもっていく。善意でやってくれたことでも、いちいちありもしない裏の意味を探し、勝手に悪意に受け取り、それで恨みに思う。まるで抜き身の日本刀をぶら下げて歩いているようなものだから、周囲の人々も警戒するし、敵対する。

 ま、ひとことでいえば馬鹿ですわね。でも、その馬鹿に、僕らは往々にしてなりがちだということです。
 なぜそうなるかといえば、あまりにも強烈な自分の弱者感覚です。魂の芯まで深々と突き立てられているコンプレックス。だけど、それって幻想だって。そんな思うほど悲惨な話ではない。なのにそう思って半径100キロ立ち入り禁止にするから、人生の可能性も著しく狭まる。右足の小指をちょっと深爪してるくらいなんだけど、もうそれだけで右足は永久に使えないくらいの制約をしてしまう。

 カラオケで歌ったら、ちょっとばかりキーが合わずに調子っぱずれになって笑われてしまった。だったらキーを変えたり、「音痴の愛嬌」で一緒になって笑ってればいいものを、それを一生の恥辱と気に病み、トラウマ化する。そしてもう二度と歌なんか歌わないぞとなり、ひいては音楽なんか嫌いだとなる。どんどんエスカレートしていって、ちくしょう、カラオケなんかやってる奴は全員死刑だ、カラオケ設備のある店には絶対に行かないぞ、もう飲み会なんか嫌いだ、人間なんか嫌いだと、そもそも職場単位で飲みにいくという生温かいファシズムのような日本社会の慣行が嫌いだ、だから日本はイケてないんだ、どんどんカタクナになる。そんなもんで一々ダメ範囲を拡大してたら、本当に何もできなくなっちゃうし、実際に何も出来なくなってニッチもサッチもいかなくなる。


弱点を冷静に見つめるストレス耐性

 何が足りないか?といえば、自分の失敗や欠点を正確に、冷静に見つめる精神的なタフさです。そのストレス耐性が致命的に乏しいのでしょう。

 怪我をして、ぶわーっと血が出てるからそれだけでパニックに陥り、消毒もしなけりゃ止血もしない。ただギャーギャー泣いてるだけ。大事なことなんだから、気をしっかり持って、「ふむ、運動機能に支障はないから腱は切れてないな」「先端部分に痛覚もあるから神経も大丈夫だ」「骨も折れてないぞ」と傷口を冷静に分析し、必要な措置を必要なだけやれば足りるのだけど、それが出来ない。だから深爪=右足切断くらいに大袈裟に思ってしまう。

 苦手意識も同じ事で、もう頭から苦手と決めてかかって、それ以上突っ込んで分析しようとしない。なぜ出来ないのか、なぜ分らないのか、なぜ詰まらないのか、何が悪かったのか、悪いとか良いとかいう以前に絶対量が足りないだけではないか、それどころかそもそもトライすらしてないのではないか、と。

 どうしてそんなに弱っちーの?なんでそんなに怒りっぽいの?悠然と構えてられないの?なんでそんなに打たれ弱いの?どうしてそこに触れられまいとカタクナになってるの?触ったら痛いの?死ぬの?あのさー、一回、腹据えて触ってみたらいいです。実は全然痛くない筈ですから。そんな痛み、幻覚なんだから。せいぜい深爪してる程度なんだから。自分でグロテスクな自画像を描いて、そのグロテスクさに自分でうんざりしている。

 まあ、それこそが人間という愛すべき存在の、愚かしくもチャーミングなところだとは思うのですね。頑固ジジイが一人でプンプン怒ってて、「ああ、嘆かわしい!」と悲憤慷慨していて、家族の者は陰で「うふふ」「また始まった」と笑ってるという。ねえ、ラブリーな情景じゃないですか。でも、そうやってトゲトゲやったり、意固地に決めつけるのって、正味の話、損か得かでいえば損ですよね。それも途方もなく大損ですよね。自己破産3回分くらい大損ぶっこいてますよね。だったらそれをちょっと直せば、これも「設定」をいじくるだけの話なんだけど、ドカンと人生変わります。おいしいじゃないですか。


生命と存在  いつもおなかに太陽を

 と、そうはいっても無意識レベルのことなので、一朝一夕に治すのは難しいかもしれません。
 しかし、治し方は山ほどあります。まずこの原理を理解すること。理屈レベルで結構直ると思います。

 第二に、現実レベルで実証すること。ちょっと手間暇かかるけど、適当に一つか二つばかり不得意科目や苦手分野を得意分野に変えてみたらいいです。いかに自分が思いこんでいた世界観や自分観がデタラメか、一回自分でやって思い知ったらいいです。こんなにも他愛なく世の中の見え方が変わるのかと。実際主観というのはびっくりするくらい変わります。プールサイドにいるのと水中に潜っているのとでは見え方も感じ方も全然違うけど、客観的には距離にして数メートル、別に何が違うというほど違っているわけでもないのだ。でも主観だけは天地がひっくり返ったくらい変わって感じられる。

 第三には、カウンセリングとか瞑想とか精神的なレベルでの癒しですね。悟りといってもいいですけど。これは専門家と相談したらいいんでしょうけど、素人ながらに僕が思うのは、要は自分をまるっぽ肯定してあげればいいんでしょう。自分は生まれながらに充足していると、既に全てを得ている、ジタバタする必要などこれっぽっちもない、と。

 この世に生まれて一番最初に学ぶことは、自分は祝福されて生まれてきたということでしょう。何も出来ない、何もしてない無力な存在なんだけど、ただ自分がこの世に存在するという、本当にただそれだけのことで、こんなにも愛され、祝福されているということ。それをこの世界に出てきたときに、真っ先に体験し、学んでいる筈です。基本中の基本。初歩の初歩。そーゆード基礎を忘れているんじゃないかと。もちろん顕在意識としては覚えてはいないけど、無意識では覚えている。催眠療法で年齢遡行をすれば胎内のことさえ覚えていると言いますから。

 ねえ、居るだけ、存在しているだけでいいんだから簡単でしょ。それだけで天と地と人々の愛と祝福を受けているのだから、別にもうあれこれ欲しがらなくてもいいでしょ。他に何がいるのさ?「生命」と「存在」以上に大事なことってこの世にあるの?What else?何かが出来なくても、見てくれがどうであろうとも、カラオケが下手であろうとも、そんなの全然関係ない。そこに居る、生きているというだけで、あなたには最高の価値があるのだけど、それを忘れている。自分が完璧に充足した存在であるなら、弱味や弱点など何もないです。だって出来るとか、出来ないとかいうのと、「価値」とは本質的に別次元なんだもん。

 これって、なまじ自分のことだからピンとこないのかもしれないけど、今あなたの目の前に赤ちゃんがいたら分ると思う。あるいは他人のことならわかるでしょう。さらにいえば、一度でも愛する存在と死別してみたらわかるでしょう。地に伏せ、身を揉むように慟哭しながら、生命と存在以上に大事なことなどこの世にないってことが。その他のことは些細な雑事に過ぎないって。しょせんは雑事、しょせんはトリビア。

 そんな些細な雑事ごときに振り回されるなんて、馬鹿馬鹿しい話じゃないですか。些細な雑事なんだから、些細な雑事レベルにレーセーに対処すればいいだけのこと。
 この世で一番大事なものは、もう既にしっかりちゃっかりゲットしているのだから。あとは余裕。

 おなかの中で大きな大きな安心と自信を持てばいい。
 そういえば自己催眠でも、瞑想でも、「気」を扱う分野でも、チャクラでも、レイキでもなんでもそうだけど、腹の臍の下あたりに臍下丹田というのがあって、そこに太陽があると思えってよく言うでしょう?「太陽神経叢(そう)」って言い方をする場合もあるけど。命の源、気の源みたいなものです。

 「いつも心に太陽を」というフレーズがあるけど、「心」って言われても心臓部分なのか頭部なのかよう分らんので、「おなか」と思った方がピッタリくるんじゃないでしょうか。「腹を据えて」「腹を括る」とか言うし。精神だけではなく身体もひっくるめて全存在の中心点。だから、お腹のなかに湯たんぽのような温かいものがあると思うといい。

 まあ、こう言われたからといって、いきなりポカポカするものではないでしょうが、それでも思え、と。その温かさこそが、あなたの存在と生命であり、それさえあればこっちのものでしょう。What else do you need?

 あああ、最後走りすぎです。また書きます。




文責:田村






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