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今週の1枚(10.05.31)



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Essay 465 : 生まれたときからスタンプカードを持っている





 写真は、Wareemba。っていっても聞き覚えがないでしょうから、Five DockとAbbotsfordの間のサバーブ。と言ってもわからないか(^_^)。まあ、主役は空と雲ですから場所なんかどこでもいいです。湖のように見えるのは、Parramatta River。



 前回のエッセイの最後でポイントカードという比喩を使いましたが、「おお、そういえば」ということで、その比喩がもっとドンピシャと当てはまるような話をします。

 仕事とキャリアと履歴書の話です。

 言うまでもなく日本社会における終身雇用や年功序列制度が崩壊し、徐々に新しい雇用システムに移行しています。まあ、「崩壊」というのも言い過ぎで、そんなに何もかもぶっ壊れてしまっているわけでもないし、オールドカスタム・ダイ・ハード(古い慣習はなかなか死なない)というわけで、終身雇用や年功カルチャーは今も尚、厳然とあると思います。それは例えば不況になると就職ランキングで公務員に人気が集まるという面でも現れていますよね。公務員というのは終身雇用を前提とするからこそ価値があるのであって、途中で公務員から転職しようとしてもよほどの特殊技能でもない限りツブシがききにくく、転職には不向きな職業でしょう。だからこそ「天下り」なんて慣習があるくらいですし。というわけで、終身雇用(を好ましく思う)傾向はまだまだ根強いと言っていい。

 また、年功序列ですが、これはもう職場や労働環境というレベル以前に、汎アジア的儒教的な長幼の礼として日本人のDNAに深く根ざしたもので、経済環境ごときでは変わらない。その証拠に、実力主義である筈の暴力団やヤンキー社会、さらには芸能界など技芸世界でも先輩後輩の規律が厳しい。オーストラリアにくる日本人ワーホリの中でも長くいる方がエラいという妙な意識があり、それは日本人しか泊まってないという不思議なバッパー(そんなところがある)に泊まった人がやっぱり感じてました。「そんな年功意識は俺には無いぞ」と言う方、そのへんの小学生に「お前、つかえねーなー」と頭ごなしに叱られて、「くそ、なんでこんなガキに」というムカつきが1ミクロンも生じないならそう言ってもいいです。でも、普通「小学生ごときに」ってムカつくんじゃないすか?小学生どころか学年イッコ下の奴に、「おまえ、全然ダメじゃん!」とか先輩扱いしてもらえなかっただけで傷つきませんか?だったらやっぱり年功意識はバリバリあるんじゃなかろか。というわけで、年功序列も終身雇用も「崩壊」はしていません。僕らの心の故郷にそれらは厳然としてあるし、実際には崩壊どころか全く変わらないといってもいい。

 そう考えてみれば、職場の方が僕らの心情なんかよりも遙かに急進的・革新的で、終身雇用も年功もヘチマもなく、激しくリストラされたりしています。10年ほど前に、多くの日本の大企業は能力給制度を導入してそれが流行になりましたが、実際には結構挫折してるみたいですね。能力給といっても、「能力ってなーに?」というところが曖昧だから、恣意的感情的な判断で左右されたり、縁の下の力持ちという職場に欠かせない人材が冷や飯を食う、そんなこんなで「やってられっか」とモラール(やる気)がガタ減りする弊害が出てきたからといわれています。最近は職能給とかミックス形態を模索する動きがあるようですが、まだまだ試行錯誤状態でしょう。

 とは言いながらも、一旦入社したらよほどの不祥事でも起こさない限り定年までその会社で働けるという期待は、今となっては幻想に近い。そのあたりの感覚は、若い人ほど切実に感じているでしょう。また、一回目の就職の離職率も昔に比べたらかなり高いし、それを見込んで「第二新卒」という、昔には考えられなかった概念も出てきています。

 このようにどんどん時代は進んでいくのですが、なんでそんなに進んで(変わって)いくのかというと、そうしないと生き残れないからです。資本主義経済というのは煎じ詰めれば競争であり、同業他社と相争って勝ち抜いていくこと、常に他社よりも良い商品を提案していくことでのみ存続が許されます。負ける企業に存在価値はないというか、負けた時点で潰れます。したがって優れた結果を出すために、もっとも優れた人事システムを採用したところが勝ちます。殆ど人間扱いされないような土民出身の秀吉やら、初老になるまで諸国を放浪していた光秀などをガンガン採用し、専務や常務クラスまで抜擢した信長軍団が、譜代門閥家老で和気藹々とやっていた周辺諸国を滅ぼしていったのと同じです。

 そして、こういったドラスティックな変化は、中堅幹部以上よりもむしろ下に強烈に生じる傾向があります。強い組織を作るためには、時代遅れになった人材、使えない人材をバサバサ切ることを意味しますが、何十年も同じ釜のメシを食った仲間を切り捨てるのは猛烈なストレスがかかるでしょう。リストラ担当になった部課長が精神に変調を来すというのは分ります。ある程度の年齢層の人にクビ宣告をするのは、「死ね」というのとほぼ等しいですから。だから心を鬼にしないといけない。そこへいくと、つきあいの浅い勤続10年未満や、途中入社の連中はまだ切りやすいですよね。精神的にも楽です。さらに、もっと気楽なのはこれから雇う人達です。なんの義理も心の痛みもないですから。というわけで、下に行けば行くほど変化がキツくなるという。

 ま、こんなことは僕がここでオサライするほどのこともないでしょう。皆さんも僕以上にご存知の筈。
 そこで、何を今回言いたいかというと、日本の労働事情も段々グルーバル化というか、西欧を中心とした先進国エリートクラブに入って久しいのだから、だんだん西欧風になっていくだろうなってことです。それは頭では分ると思うのですが、本当に分ってるかどうかとなると、実は怪しいんじゃないかという話です。本気でこれを理解し、世界(先進国、西欧)風にやろうと思ったら、ことは単に仕事とか労働とかの範囲に限らない。まさに全人生のフォーマットを組み直すくらいの感じでやるべし、と思うわけです。だからスタンプカードなんです。って、飛躍してますね、もう少し書かないと分らんよね。


「キャリア」とは

 仕事の捉え方を西欧先進国的な世界標準に合わせていく、というのは簡単なことではないです。
 幸い、ここオーストラリアはその標準に近いので、こちらの常識をそのまま持ってきて、日本社会の常識とすり合わせ、「ここがハミ出してる」とかトレースしていくと分りやすいです。そうやって、幾つかのポイントを上げると、、、

 @、仕事など全人生の3分1程度の比重しか占めない、と思うこと。年収数十億の仕事でもフリーター感覚でやること。その代わり仕事以上に自己実現できる領域を仕事以上の真剣さで探し、没頭すること

 A、ある程度成功するためにはストレス耐性が必要だが、日本人がやってる「頑張る」は、実質的には「ガマンしてる」だけで、本当に頑張らねばならないポイントは他にもある。つまり成功の確証が無くても、自分の人生を充実させるために果敢にチャレンジするという面が足りない。シンドイ状況でも現状維持という持久力的なストレス耐性=我慢する=ことには強いが、全てを投げ打って勝負に出るという「不安と勇気のせめぎ合いを乗り越える精神的耐性=つまりは頑張り」には欠ける面がある。

 B、今まで生きて得ていた技術、経験などのキャリアが一直線に結合せず、バラバラになってしまうのだが、それをどう統合的に把握し、再フォーマットをかけていくかという視点

 の3つがあると思います。それぞれ一つだけでエッセイ数回分のボリュームがあるので、ここではBについてだけ集中的に論じます。

 カンの良い方はもうお分かりでしょうが、このBが「スタンプカード」なんです。

 その前に巷間よく言われる「キャリア」という概念を再点検しましょう。
 就職や起業という経済社会におけるいわれる「キャリア」というのは、労働市場において何らかの価値が認められるだけの技術・経験のことです。早い話が「使えるかどうか」です。

 これはメッチャクチャ実質的な概念であって、決して形式的な概念ではありません。例えば某名門高校、大学を卒業し、某有名企業に入社というだけでは、キャリアの説明になってません。それは単に名目的なヒストリー/履歴であり、キャリアではない。知りたいのは本当にこいつは使えるのか?です。名門学校に入ったといっても裏口入学かもしれないし、在学中は遊びほうけてきたかもしれないし、有名企業だって親のコネかもしれない。だから全然使えない奴かもしれない。これだけでは分らない。

 問題はそれぞれの段階で具体的に何をしてきたのか、どういうことにトライし、結果はともかくそれで何を学んだのか、何を獲得し、現在も「手腕」として保持しているか、です。履歴書、こちらではCV(カリキュラム・ビテー)ないしResume(レジュメイ)といいますが、そこで書くのはそういう実質的なことです。自分がいかに○○に関して優秀な手腕を持っているかという「主張」と、それを裏付けるための「立証(過去の事実)」です。例えば、○○業界における新規出店に関わる抜群のノウハウを持っているという主張を立証するために、前の会社でのプロジェクトの内容を詳細に書く。予算はどのくらい、当時の市場状況はどのくらい、そこをどのような経営目的をもって、どのような戦略を建て、どう実行し、どういう想定外の事態が生じ、どうそれをクリアしていったのか。それを事細かに書く。だから1枚では到底足らず、数枚以上に及びます。しっかりしたCVを、ミスのない英文、しかも格調高い英文で書いておくことは一つの財産になりますので、皆さんももし語学学校などに入るのでしたら在学中に先生に添削して貰うといいです。CVの英文自体がファニーだったら、「私はこんな情けない英文しか書けない無能者です」ということを、論より証拠で相手に示しているわけで、オウンゴールの自殺点です。

 ここで分るように、日本の場合はまさに「履歴」書であり、ヒストリーや年表を記せば足りますが、西欧のCVは、それを「履歴書」と訳していいかどうかすら本質的に疑問があります。全然別物でしょう。CVというのは、自分のカタログであり、労働市場に提出する販促資料、プレゼン資料です。もう自分を褒めまくる。こっぱずしくて死にたくなるくらい褒めまくる。それは一般の商品広告がそうしているのと同じ感覚です。「最新鋭○○コーティングシステム搭載!最高級○○使用!」みたいな感じ。なんでそこまでこっぱずかしいまでに自己を褒められるのかというと、「所詮は仕事だから」です。これは@に関わりますが、仕事というものにそんなに感情移入しない。しょせんは買物、しょせんはゼニカネ、人間の本質や尊厳とは基本的に関係ない、バーター契約でしかないからです。だから割り切る。割り切れる。


 その延長線として、せっかく採用された新入社員でも、入社後すぐに辞めたりもします。これはべつに「根性がない」わけでもなく(まあ、そういうのもいるだろうけど)、そこで与えられた仕事内容を見て、「こんな仕事をしたって自分のCVの足しにならない」と見切りをつけるからです。つまり仕事というのは、自分の履歴書を充実させるためのものでしかなく、新職場でどういう経験と技能を積み、自分の「新機能」を増強させ、自分に付加価値をつける。そのためのチャンスでしかない。

 実際、こちらでは内部昇進というのは少なく、上のポストを狙うならば、「課長募集」「部長募集」という採用に応募します。たしか、オーストラリアでは一定以上の役職の公務員は必ず公募しなければなかったんじゃないかと思います(確認してませんが)。皆の税金を使う以上、可能な限りもっとも優秀な人材を捜すべきで、役所内の仲良しクラブのために税金は使うべきではないからです。上昇志向の強い奴ほど、ほとんど詐欺まがいに吹きまくったCVを書き、インタビュー(面接)でもさらに吹きまくって、チャンスをつかみ、それをステップにしてまた上に駈け上ります。もう、これはそーゆーゲームなのです。ラグビーや野球と同じです。隙があったら盗塁してもよし、フェイクのようなシザースパスもありです。


履歴書(CV)=スタンプカード


 さて、キャリアというものがそういう実質を持つこと、そして履歴書(CV)がそのキャリアを主張立証する書面であるということになると、こちらのCVというのは、まさにスタンプカードみたいなものではないかという比喩的理解になるわけです。

 なぜなら、某会社で○○という仕事をしました。経験値○○ポイント、技能上昇度○○ポイントということで、ポイントが貯まるわけです。あるいは、その分だけスタンプカードにスタンプをペタペタと押してくれるわけです。このポイントなりスタンプが○○まで貯まると、なにかイイコトがあると。

 このスタンプカードの比喩は、現在の日本社会でも理解可能だと思います。しかし、従来これは一社内における話でした。新人権研修の時から好成績をあげました、最初の配属先での上司や先輩の評判も良かったです、研修の一環として工場現場でも働き、地方支社勤務をも果しました。海外勤務もやりました。本社人事部でも働き、また営業部でもそれなりの業績をあげました、、、と、ある部局を「履修」するとスタンプが押され、また目に付く業績をあげるとまたスタンプを獲得という具合に、これが一定数貯まってくると、人事会議で「○○君なんかどうかね、彼も頑張ってるみたいだから、そろそろ」「そうですな、一応地方や現場など部局もこなしてますし、本社中枢での働きぶりもなかなかのものです」「では、次はトータルマネジメントも覚えてもらわなきゃな」「札幌支店長あたりはどうでしょうか、ちょうど来期に空きが出ますし」なんて会話が行われ、昇進って話になるのでしょう。

 もっとも実際の会社は、生身の人間がやってますのでもっとドロドロしており、人間集団にはつきものの仲良しクラブの”陰画(ネガ)”である派閥が出来ます。こうなると単に仕事が出来るとか、優秀だとかいう直線的で分りやすい基準だけでは話が進まず、さらに「人間的」になっていきます。とある派閥が争いに負けて、冷や飯を食らっているときでも、じっと我慢して敵方陣営に走らず忠誠を尽したとか、ボスの身代わりになって敢えて冷や飯を食ったとか、そのあたりが高く評価されるわけです。

 ところで、僕がやってた弁護士という商売は、なった瞬間から独立自営業みたいなもので、せいぜいがイソ弁から独立、あるいはアソシエイトからパートナーに昇格くらいの変化しかありませんが、同じ法曹でも裁判官や検察官は組織仕事ですから、いろいろスタンプカード的なものもあるみたいですね。僕は結局その道に行かなかったので外野席的観察しかできませんでしたが。裁判官でも最初の10年は判事補という「補」つきで、合議体の裁判しか出来ない。大体、左席で事件の争点整理と判決起案の下書きをする。それを右陪席がチェックし、裁判長が最終チェックをして読み上げる。ちなみに民事と違って刑事裁判は判決全文を読み上げますが、裁判長さんはいかにもスラスラ読み上げてますが、実際の草稿は加除訂正だらけの赤ペン満艦飾で、「ココからココへ飛び、またココに戻る」なんて矢印が数頁先まで伸びて、またビヨーンともとに戻ったりして、よくあんなもんスラスラ読めるな、ワザだな〜と感心しました。で、10年たって補が取れて、単独事件をやるようになり、2−3年周期の転勤転勤を繰り返すうちに、徐々にあがっていく。高裁は地裁よりもエラいかというと必ずしもそんなことはなく、高裁の右陪席だったら地裁の所長の方がエラいとか、地裁でも高裁管区の本庁の方が格が上とか、それはもう色々あるわけですね。検事も同じ。地検だったら三席→次席→検事正になるという。

 どこの世界もそうですが、大体○○というポストに辿り着くまでには、A、B、C、D、Eのうち最低4つは歴任してないとダメとか、そういう不文律があったりします。これなんかモロにスタンプカードの世界です。


スタンプカードを持って生まれてくること


 従来の日本の体系では、会社を辞めたら(裁判官を退職したりしたら)、それまでのスタンプは無効になってしまう傾向があります。このスタンプカードは、ダイエーだけとか、ヨドバシカメラだけとか、まあ、会社単位のカードですよね。ダイエーでスタンプが貯まったから、楽天で使おうとかいう相互乗り入れは基本的には出来ない。従って、会社を辞めるということは、これまで営々と貯めてきたスタンプやポイントをパーにしてしまうというわけで、死ぬほど勿体ないぞ、というブレーキがかかるわけです。

 で、ここが発想の転換なんだけど、会社に入社した時点、あるいは何かの業界に入った時点で、見えないスタンプカードを渡されて「頑張れよ」と言われるわけですけど、それ以前に自前のスタンプカードを用意しておかれるといいです。

 「以前に」というのは、どれだけ以前にかといえば、「生まれたときから」です。このスタンプカードを握りしめてオギャーと生まれてきたのだと。そして、僕らは生まれたときから実に沢山の経験をしています。幼なじみと遊んだり、大怪我したり、小学校でクラス委員をやったり、中学で部活に燃えたり、同級生にフラれたり、趣味の世界にハマったり。家が引越をしたとか、両親が離婚したとか、死別したとかいうのもちゃんと「経験」としてスタンプが押されているのだと思ってください。なぜならそれらの経験で僕らは確実に何かを感じ、何かを学んできているわけですから。

 これは人生のスタンプカードです。どんなもんでもポイントになります。カンニングがバレて自宅謹慎になろうとも、万引きで補導されようとも、毎日いじめられてシクシク泣いていた日々も、飼ってた犬が死んだ悲しみも、初めて聴いたバンドの音に「なんじゃこりゃあ」と天地がひっくり返ったことも、バレンタインでチョコがもらえない情けなさを隠すために予めずっと前から自分で買っておいたことも、そう、あんな秘密も、こんな秘密も、こんなこと世間に知られたら即舌を噛んで死ななきゃいけないようなことも、全部、全部、ポイントになります。

 これは加算のみです。減点はないです。スタンプカードというのはそういうものです。
 なぜかというと、どんな経験であっても無価値な経験などこの世にないからです。ツラく、惨めな経験をするからこそ、他者の気持ちが分る、他人に優しくなれる。それに、人は失敗しなければ学ばないです。自転車に乗れるようになるときだって、しばらくの間はすっ転び続けるわけです。その転んでる一回一回で徐々にカンをつかんでいくので、あれは無駄に転んでいるのではない。一定の果実に達するためには、一定の失敗をしなければならず、ゆえにそれは本質的には「失敗」ではない。また、だからこそ無価値である筈がない。学校でいじめられた経験も、村八分の情けなさも味わったこともない人間が教師になって、自分の担任のクラスに必ずや存在しているだろうそういう子供と対話が出来るというのか?あの「何もかも思うとおりにならない哀しみ」を知らずして、何が出来るというのか。ただやたらと明るさと正しさと根性を押しつけても人は拒絶しますから。

 このポイントカードは、誰に見せるものでもありません。強いて言えば、死んだ後に閻魔大王の前で見せるくらいか。閻魔さんに「お前は地獄じゃあ」と言われたら、「ちょっと待ってくださいよ。あなたの記録には間違いがあります。私のこのポイントカードによれば、、」と反駁するために使うかなあ、まあ、閻魔さんなんてのがいたとして。

 なお、「スタンプが5個貯まったらコーヒー一杯無料」のように、一定まとまらないと意味がないこともスタンプカードに似ています。例えば自転車というのは一旦乗れるようになったらもう一生乗れます。記憶喪失になっても忘れないといわれるスキルになります。しかし、乗れるようになるためには、何度も何度も失敗しなければなりませんが、途中で挫折して辞めちゃったら乗れないままです。何年後かに再び練習しようと思っても、またゼロに近いところから始めないとならない。だから一定数貯まらないと意味がないし、またそれらの経験の積み上げには「有効期限」というものがあるという点でもスタンプカードに似てます。英語でもなんでも、学んでいくプロセスでシンドイ思いをしますが、ある程度まとまらないと身につかない。途中でやめたらまたゼロリセットです。その意味で、一定のストレス耐性は不可欠であり、「人間、しんぼうだ」と言われるゆえんです(ただし、辛抱は、大事な要素ではあるがそれだけではないこと、必要条件ではあっても十分条件ではないこと、冒頭Aで述べたとおりです)。

スタンプカードの「抄本」としての履歴書

 そして、こと経済活動=就職や転職、起業における営業開拓では、この自前の見えないポイントカードのうちから、使えそうな部分をピックアップして書くわけです。自分という人間を知って貰うため、自分の能力、それはビジネス技術に限らず、奥の深さ、忍耐力や決断力などの忍耐力、あらゆる経験をしてきた視野の広さ、それらを知って貰うためのプレゼン資料です。

 つまりはスタンプカードの「原簿台帳」みたいなものから抜き書きして作成した、戸籍謄本ならぬ「抄本」みたいなカスタム・スタンプカードが、経済活動用の履歴書になります。

 ここで、経済活動に焦点を絞るんだったら、そんな虐められたことまで加算されている「原簿」なんかどうでもいいじゃないか、そんなところから説き起こしているから行数がかかって文章が冗長になって読むのが大変じゃないかとお思いの方もいるでしょう。でも、そうじゃないんですよね。一段下がったところから地引き網的に作っていくから価値があるのです。「就職のため」とかいう先入観があると、どうしてもそれに関連したようなこと、何かの履歴書雛形を見てそれに合わせるように、出来損ないのコピーみたいな履歴書を書いてしまうリスクがあるからです。本当にビジネスに役に立つのだけど、表面的には関係なさそうなことを見落としてしまう。

 大体、従来の日本の履歴書だって、どれだけ「ビジネスに関係ある」ことが書かれているというのだ。そもそも新卒社員なんか働いた経験なんか殆どないんだから、ビジネスに関係ありそうなことなんか皆無に近いじゃないか。だから、「体育会系は就職に有利」とかいう話になったりするんでしょ?体育会系でラグビーやってたからといって、それが鋼鉄や建築にどう関係するというのだ。ガタイがいいから、いざとなったら現場で鉄材運べますよとでも言うのか。違うでしょ、あれは体育会系という厳しい上下関係のある社会で鍛えられているから、会社という強度な組織性をもつ集団との親和性が高いという点がポイントなわけでしょ。グダグダ屁理屈こねくりまわさないで、言われたことは全力でやるという素直さが良いと。

 ラグビーや空手やってたことがリゾート開発やパルプ業界で評価されるんだったら、もうなんでもアリじゃないですか。そういった広い視点で、「使えそうな」ポイントを原簿からピックアップすればいい。その前提としての原簿作りです。

「処女証明」としての履歴書

 とまあ、書いてはみたものの、今現在の日本の状況とはまだまだかけ離れているでしょうね〜。

 日本社会における履歴書は、先ほど書いたように、まさに年表・ヒストリーであり、「履歴」書です。
 しかし、単なる年表以上の意味もあり、いうならば製造証明、賞味期限証明、無犯罪証明に関する文書みたいなものだと思います。いかにこれまでの人生で「キズ」がないか、あるいは「まだまだ自分は賞味期限内ですよ」ということを主張立証する文書。そこでは過去にどのような職歴を経て、どのようなスキルを身につけ、どのような実績を積み、どのように人間的に成長してきたかという実質面よりも、いかに「ノーマルな日本人」であって、いかに平均的な日本人の常識が通用する良識的な市民であるかがポイントであり、ひいては「御社に予測不能のトラブルをおかけしません」ということを証明するための文書です。そこでは、とにかく「ノーマルな日本人」であるということが大事で、「組織の和を乱すような人」は敬遠されます。未だにやってるのかどうか知りませんが、新卒女性を採用する場合、自宅通勤の方が一人暮らしよりも有利であるとかないとか。そして同和エリア出身者だということも、しっかり調べられたり。

 そして、就職にあたって「35歳以下の方」なんて年齢差別がまだまだ堂々と通用している日本においては、年齢という「賞味期限」もとても重要です。3年以内を第二新卒とするというのも、まだまだ賞味期限感覚だし、そもそも「新卒」という概念自体が賞味期限バリバリです。さっきまで生け簀で泳いでた魚とか、まだ泥がついている朝堀りの野菜とかそんな感覚だもん。そこでは何が出来るかというよりは、いかにフレッシュであるかというヴァージニティ(処女性)に価値がある。花嫁衣装の白無垢のように「あなたの色に染めてください」という処女性と服従性に意味がある。他社の色に染まってたりすると、使いにくくてしょうがないのでしょう。

 なんで日本の場合にそうなっちゃうのかといえば、やっぱりチームプレイに抜群に強いという日本社会の特性がまずあります。チーム内の和を乱されると、集団活動に多大なる支障を来す。巨大な精密機械を組み立てるようなもので、部品の一つ一つが規格から外れていたり、不良品だったら全体に作動不良が起こるからでしょう。まあ、それは分ります。

 しかし、機械的な精度という物理的合理性以上に、メンタル的な「好き嫌い」が色濃く投影されているような気もしますね。それは同じような価値観、同じ趣味嗜好をもった集団の中にいるとヌクヌクしてていい気持ちという要素もあると思います。まあ、実際気持ちいいですもんね。価値観が違う、話が合わない奴と朝から晩まで顔をつきあわせているのは、かなりストレスフルです。僕だってイヤだわ。だけど、これは一種の仲良しクラブ的発想でもあります。大体、日本の企業はゲゼルシャフト(ドライな機能集団)なのか、ゲマインシャフト(メスティック=家庭的な集団)なのかというのは昔から議論されていますが、ドメスティックな要素も強い。それは古いとか新しいとかいうよりも、僕らの「好み」だとは思いますし、人間誰しもそうだとは思います。そんな機械みたいなギスギスした集団にいてても楽しくないですからね。

デリケート過ぎて脆弱なマシン

 でも、これにも重大な欠点があります。一つには、同じ趣味傾向をもった仲間的人材、というか「わが社のやり方」に染まってくれそうなノーマルで白無垢の人材だけを求めていると、人材を集める際にはどうしても新卒をメインにするなど供給源に乏しいという点が一つ。部品について厳しい基準があるのは一見結構なことのようですが、それは「純正部品でないと作動しないマシン」ということで、マシンとしての過度のデリケートさや、脆弱性をも意味します。外国人であろうが、前科持ちだろうが、なんだろうが、使えそうな人材だったら採用し、適材適所に上手いことはめこんで、全体の性能をUP出来るマシンの方がマシンそのものの性能、耐久性、汎用性としては優れているでしょう。このあたりがタフなマシン、どんな部品でもちゃんと動くという融通のきく頑丈なマシンだったら、人種国籍年齢を問わず世界中から使えそうな人材を見つけてこれます。

 第二に、なんでそんなに人間的な好みまで統一しなきゃマシンが動かないのといえば、マシン(会社、仕事)というものに、僕ら日本人が過度に感情移入しているからでしょう。そこで、@に関連するのですけど、「しょせん仕事、しょせんゼニカネ」というカラカラに乾いたドライな認識が少ないからでしょう。こちらの社会の、年収が億単位でもフリーター感覚というのは大袈裟でもなんでもなく、彼らはかなり割り切ってますね。会社なんか金稼ぎのためのスキルと金銭のバーター(交換)場所でしかないと。友達作りや自己実現のためのものではない。そういう仕事をする人も沢山いるけど、それが別にスタンダードにはなってない。

 そして仕事にそこまで距離を置けるということは、裏を返せば、仕事以外の人生がいかに充実しているか、です。もう厳然と「メインはこっち」というのがあると。それはバンドでプロを目指していて、なかなか食えないから居酒屋でバイトしたり、路上でアクセサリー売ってたりするバンドマンと同じです。皆して「しょせん仕事」とバキバキ割り切ってるから、大胆なリストラも出来るし、組織改革も出来る。意地とか人情とかに葛藤せずに、合理的に必要なことが出来る。それに職場の人間関係も、「しょせん」だからそれほど深く悩まなくてもいいし、採用基準も実力一本で決めていける。マシンのフットワークと汎用性が高くなる、だから強い、と。

仕事以外のキャリアとスタンプカード

 今後日本が伝統的で日本的な会社組織を離脱して、あるいは部分改編して、よりフレキシブルでより強靱で、より雑食性の高い戦闘機械になっていこうと思ったら、会社の人事システムや組織論もさることながら、社会全体の意識改革が重要なのでしょう。つまりは仕事以外にいかに充実するか、です。

 同時に、親が子に教えるのも「勉強しなさい」だけではなく、勉強と同時にいかにこの世界には面白いことが沢山あるか、いかに遊ぶか、そういった部分も充実させないとならない。オーストラリア社会、てか僕の住んでる隣近所を見回してみても、子供を充実して遊ばせることにはかなり熱心です。オーストラリアにも予備校(大体数学と英語=彼らもまた苦手なのだ)が多いですが、それ以上に親が熱心なのは、スポーツですね。もう英才教育やるし、キャンプには連れて行くし、ヨットには乗せるし、ボーイスカウト系もやらせるし、これを書いている今日も、十代後半の男の子が10歳くらいの男の子をつれてボランティアの募金活動に来ました。勉強→仕事以外の社会参加の方法、ノウハウ、喜び、充実というものを、子供の頃から徹底的に教えてあげる。これが結構キモだと思うのですよ。

 ところが日本の場合、親だって僕と同様そんなに遊んでこなかったから、そういうことが教えられない。だから、もう、明るい日本の未来を作るためには、僕らが率先して頑張って遊べ!ですよ。いや、マジに。また、そういう遊びなり、趣味なりのスキルを、もっともっと評価すべきだと思います。だって、それって人間として最も自然なんだもん。小学校の時に、勉強の出来る子供だけがヒーローになったわけではなく、駆けっこが早いとか、ドッジボールが上手とか、漫画が上手とか、物知りだとか、そういうことに等しくレスペクトが払われたわけだけど、それが普通じゃないの?


 で、話はスタンプカードに戻ります。
 そういう「〜すべし」という教訓めいた話にしちゃっても、これは絶対と言っていいほど実効性がないから(読んでるときは納得するけど、読み終えたら忘れる)、気の持ち方としては「生まれたときからスタンプカードを持っている」と考えた方が良いのではないかと思ったわけです。面白いから長続きするでしょう、と。

 自分が生まれてからしてきたこと全てがスタンプになって押されている。あんな体験も、こんな体験も、全部プラス加算されている。そして、これだけのスタンプが貯まっているなら、何と交換できるかな、アレと交換しようと思ったらあとどんなスタンプがどれだけ必要か、ということで将来の道も具体的に考えやすいでしょう。また、結構スタンプが貯まっているけど、自分では気づいていないようなスキルやキャリアにも気づくでしょう。また、交換可能になるためにはある程度のまとまりが必要で、あちこちで食い散らかしているだけだったら、無駄スタンプというか、スタンプ効率が悪いことにも気づくでしょう。思いついたようにやりはじめて三日坊主に終ってると、有効期限が切れてしまうという発想にも至るでしょう。

 ということで、スタンプカード、いかがっすか?というか、もう持ってるんですけど(と思えと)。




文責:田村






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