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今週の1枚(10.01.04)





ESSAY 444 : 世界史から現代社会へ(89) 韓国・朝鮮(6) 南北朝鮮の分離と朝鮮戦争



 写真は、つい先日行われた恒例のNew Year の花火大会から。この写真小さいサイズでは全然感動がないので、クリックして1680pxサイズでご覧下さい。
 97年から始まったニューイヤーの花火の見物も今年で十数回目を数えます。行ったら行ったで面白いのですが、行くまでが面倒臭いんですよね。「今年はどうする?やめようか」とか直前までウジウジ悩んでたりします。約40カ所くらいのVantage Point(見物するのに都合のよい見晴らしのいい場所)があるのですが、去年までの数年はNorth Sydneyの南のBlues Point Rdや、その隣のLavender BayのClark Parkあたりから見てました。しかし、周辺に車は停められないので、あれこれ試行錯誤の結果、Crowsnestあたりから延々30分くらい坂を上り下りして歩かねばなりません。「面倒臭い」のはそこです。
 今年は趣向を変えて、全部電車で行き、場所もMilsons Pt、ハーバーブリッジの北詰、直近真下から見ることにしました。まあ電車が来るかどうかアテにならんし、より近いポイントだから混雑で全然見れないことも覚悟の上です。ところがやってみたらこれが正解で、意外と電車は結構くるわ、開始数分前に着いたわりにはそこそこ前の方まで進めるわで、上の写真のように見えました。ほぼ真下で見るのは中々迫力で、フィナーレは橋の前後の部分まで全部使って打ち上げるため、見上げた視界全面に花火が炸裂するスペクタクルを堪能できました。帰路の電車は、これはもう小一時間の混雑を覚悟してたのですが、フタを開けてみれば結局一度も立ち止まることなく電車に乗れ、ゆったり座って帰れたのでした。楽ちんでしたね。
 長くなっちゃいました。てか、これだけで普通のブログ分くらいあるな。でも、本編はこの後です。





 11月末よりブランクがありましたが、韓国・朝鮮シリーズの第6回目です。前回は、日韓併合から太平洋戦争終了までの日本統治下の朝鮮半島をみました。今週は戦後。


被害者がワリを食う理不尽


 第二次大戦後の朝鮮半島の状況については、過去のシリーズ43回/戦後世界と東西冷戦で、すでに結構やってます。「じゃ、そういうことで」っておしまいにしても良いのですが、オサライをしてみましょう。

 第二次大戦(太平洋戦争)は日本にとって非常にヘビーな出来事でしたが、しかし、あれだけやりたい放題やって、あれだけ徹底的にボコられたのなら、ある意味では”気が済んだ”というか、スッキリしますよね。あの悲惨な戦争をして”スッキリ”などと表現すると不謹慎だと思われるかもしれませんが、朝鮮半島のいつ果てるとも知れない苦難の連続と、常に周辺大国に小突き回され続けている状況を考えると、日本なんかまだしもラッキーだと言わざるを得ないです。日本の場合、敗戦において大きなゼロリセットがなされ、戦前/戦後とでクッキリ分かれます。もう異次元世界かパラレルワールドかってくらいガラリと世の中が変わった。でも、朝鮮半島にとっては、第二次大戦の終結は、ステージ1がステージ2に移行したくらいの差でしかないです。

 考えてみれば、朝鮮というのはつくづくシンドイ国です。建国以来、大国中国と北方の満州族に常に脅かされ、支配され、中国も満州族もいなくなったと思ったら、今度はロシアと日本がやってきて、屈辱の日帝支配を堪え忍び、終戦でようやく春が来た!と思ったのも束の間、今度はソ連と米国というより巨大な国々のパワーゲームに巻き込まれて、祖国は二分割されてしまいます。そして戦後65年もたっているのに未だにそのまま。いまどき、ここまで第二次大戦の後遺症をひきずっている地域は、世界でも朝鮮半島くらいのものでしょう。有史以来、朝鮮半島が多民族の侵略を受けた回数は、細かなものまで数え上げると優に500回を超えるというのを、どこかの本で読んだ記憶があります。「半島国家は運営が難しい」とはよく言いますが、確かに。

 以前にも書きましたが、この種の国の分割騒ぎは、本来日本で起きているべきものです。なんせ敗戦したのは日本なんだし、ドイツが東西に分割されたように、米ソの陣地合戦は日本を舞台するのがスジというものでしょう。被害国である朝鮮半島でやるのはスジが通らない。どう考えても理不尽な話で、いうならば強盗事件の被害者が犯人の代わりに処罰されるようなものです。しかし、この理不尽を米ソ両国をはじめとする国際社会は認めてしまいます。理由は朝鮮半島が「東西勢力の接点という戦略的に重要な場所だから」であり、日本がなんで陣地取りゲームにならなかったのかといえば、「既にアメリカが先に唾をつけてソ連の介入を許さなかったから」です。

 しかし、この理不尽さによって一番得をしたのが日本でしょう。まず分割を免れたというラッキーその1があり、さらに朝鮮戦争の軍事特需で戦後の復興を加速してもらったというラッキーその2があります。つまり、日本の戦後の繁栄は、理不尽レベルの幸運が二つ重なっていたわけで、決して僕ら日本人だけの力で成し遂げられたものではない。このことはキモに銘じておいていいでしょう。そりゃ経済成長そのものは、個々の日本人の勤勉な努力の賜物ですが、そもそも努力をする場すら与えられないのが冷酷な国際政治の現実だったりするわけですから。


南北分離の経緯


 南北朝鮮が分離されてしまった経緯ですが、終戦の年である1945年12月、モスクワで外相会議が開かれ、戦勝国の間で朝鮮半島の処遇について話し合われました。そこで、ドイツのように4カ国統治にするという大綱だけは決まりましたが、朝鮮独立の具体的な方法について意見が分かれます。しかし、独立くらい当の朝鮮民族の好きなようにさせてやればいいのに、戦勝国側にはあまりそのような動きはありません。なぜなら、時代は既に戦後世界の覇権争い=米ソ東西冷戦の序盤戦が始まっていたからです。アメリカもソ連・中国も自分のエリアを大きくしたいから、朝鮮民族の自立的解決をゆっくり待っている余裕はなかった。

 もっとも、朝鮮の人達が全く何もせず、ただただ大国のエゴを一方的に押しつけられた、というわけでもありません。南北朝鮮の分裂は、彼ら朝鮮民族内部での覇権抗争が嵩じ、自ら招いたものだという側面もあります。

 一つには、独立のための統一的な組織や意思を作り上げる時間的余裕がなかったという特殊事情があります。
 通例、他国に支配されていた国が、圧政をはね返して解放・革命・独立となる場合には、中核的な組織があります。ことが成就する前は反政府ゲリラ呼ばわりされていますが、成功してしまえば一夜にして革命の英雄になり、人民政権を打ち立てます。キューバのカストロ政権などが典型例です。

 ところが朝鮮半島の場合、支配者であった日本が連合国に敗北して勝手に居なくなってしまったという、いわば降って湧いた解放・独立であり、中核的にこれを成し遂げた勢力があったわけではありません。日帝支配時においても、抗日組織は沢山ありましたが、それは例えば上海の大韓民国臨時政府、満州方面の東北抗日パルチザン、さらにアメリカに亡命していたりして一枚岩的にまとまっていたわけではありません。朝鮮国内にも独立を目指す人々は居ましたが、日本軍によってキッチリ弾圧され、政治犯として投獄されるなど、これまた十分な組織化は出来ていません。ちなみに、頑強に抵抗する人々は共産主義系の人々が多かったといいます。これは日本においても、日本軍部の意向に最後まで逆らい続けていたのが共産党の人達であったとの同じような事でしょう。

 日本の敗戦後、釈放された筋金入りの抗日闘士や、中国・満州方面にいた亡命抗日勢力は、超党派で建国準備委員会を組織し、9月6日に朝鮮人民共和国の建国を宣言しています。しかし、寄せ集めの急造団体だったため組織内部でも不協和音が生じてきたことと、亡命先のアメリカから戻ってきた李承晩が反共方針を強く打ち出し、且つアメリカも共産主義傾向の強さを嫌って承認しなかったため、せっかくの朝鮮人民共和国は、宣言はしたものの空中分解してしまいます。

 民族自決の原則からすれば、諸外国としては、ここで朝鮮民族の各勢力がしっかり話し合うなり、内輪揉めするなり、好きにやらせておいて、自前の統一政府が出来るのを待つべきでしょう。あるいは内乱が泥沼化すれば、国連の信託統治にして、総選挙を行わせ、民主政権を作ってから権限委譲をするべきでしょう。日本だって明治維新のときに、江戸徳川政権か薩長政権かという国内覇権を巡っての内乱(戊辰戦争)があり、諸国はそれが終熄するまで、おおっぴらなチョッカイは出さずに見守ってくれました。しかし、このときはそんな筋の通った動きにはなっていません。理由は、上に述べたとおり、東西冷戦が始まっていたからです。

 ところで、朝鮮半島内部での勢力は、亡命先のソ連から帰ってきた金日成(キムイルソン)を中核とする一派と、アメリカから帰ってきた李承晩(イ・スンマン)の一派とに分かれ、激しく対立するようになります。つまり朝鮮の北方に亡命していた抗日組織は、ソ連や中国という共産主義勢力の庇護のもとで抗日活動を展開していたので、どうしても東側の一角を担うようになり、日本が去った後の新朝鮮建国においても共産国を作ろうとします。逆に李承晩などアメリカ亡命組は、西側の一翼を担うようになる。

 もっとも最初から思想チェックをして、共産主義に共感を覚える人が北に行き、西側価値観にシンパシーを抱く人が南(というかアメリカ)に行ったわけではないです。まあ、そういうキライはあったでしょうが、当初においては抗日というのが第一義だった筈で、そこまで厳密に思想信条で行き先が分離したわけでもないでしょう。しかし、亡命先の国で援助を受け、軍事組織の頭領になるくらいのし上がっていくためには、当然亡命先の国での覚えがめでたくないとダメでしょう。ソ連の援助を受けるためには、ソ連のスターリンに重んじられなければならない。そして、そのことが北の金日成と南の李承晩の権力背景になっているわけです。

 ここで理想を言えば、金日成と李承晩が、日本の明治維新の西郷隆盛と勝海舟のように、同胞同士腹を割って話し合い、周辺諸国につけいらせないように統一意思を形成すれば良かったのです。東と西を足して二で割ったような、共産主義でも資本主義でもない高度な福祉国家みたいな政体を作り上げ、協調しつつ米ソや世界と渡り合えば良かった。しかし、とてもじゃないがそんなことが出来るような雰囲気ではなかった。何故かと言えば、そんなことをすれば金日成や李承晩はバックの米ソから愛想を尽かされ、自分自身の権力を失ってしまいかねないからです。彼らはソ連や米国と誰よりも太いパイプを持っていたからこそリーダーでいられたわけであり、それを自ら崩すわけにはいかなかったのでしょう。

 かくして、彼らの国内での覇権争いと、米ソの世界での覇権争いとが綺麗にシンクロしてしまうのですね。そのため、米ソそれぞれの占領軍政下において権力の核を構成していき、時が経てば立つほど統一に向うというよりは、むしろ二極分化が進むという状況になっていきます。

 時の流れを追いかけていくと、1946年2月には、金日成を中核とした共産勢力が朝鮮臨時人民委員会を設立し、8月には重要産業国有法を施行しています。産業国有化、すなわち共産主義国家建設の方向に進み出します。この北方の動きに対抗して、李承晩は南部における建国を目指し、47年6月には南朝鮮過渡政府を設立します。かくして、二つの政府が、ベクトルが違うまま勝手に進み始めるという異常な事態になっていきます。

 47年11月、アメリカは、この朝鮮半島問題を、出来たばかりの国連に提訴します。しかし北方は粛々と建国を進め、48年2月には人民軍を創設、さらに38度線以北に朝鮮民主人民共和国の成立を宣言してしまいます。国家主席には、"偉大なる首領様初代”である金日成が就任します。3月には、南に対する攻撃的なイヤガラセとして電力供給をストップしてしまいます(朝鮮半島の電力はダム発電所の多い北方によってまかなわれていた)。

 李承晩も対抗上、南朝鮮を建国することになります。朝鮮労働党を参加させずに選挙を行い、彼を初代大統領とする大韓民国が成立します(48年8月)。なお、李承晩の選挙の際には、済州島で労働党ゲリラが蜂起し、政府軍によって島民が虐殺された済州島四・三事件が起きています。

 このように半島情勢は日を追う毎にエスカレートし、そして次にみるように朝鮮戦争が勃発してしまうわけです。

 朝鮮戦争は、米ソという超大国のエゴとゴリ押しの産物であり、朝鮮民族は世界覇権の狭間に落ちたインノセントな可哀想な人達だという理解は一面正しく、一面間違っています。米ソという東西エゴのぶつかりであるのは事実ですが、国内的には金日成と李承晩の二大巨頭のエゴのぶつかり合いでもあるわけです。そして、朝鮮戦争は、どちらかというと金VS李のエゴが暴走し、米ソはむしろ初期においてはこれを押さえようとしていたところもあります。

 金も李も「天下統一」を目指しており、気分は織田信長状態だったのかもしれません。金日成は、南を併合するための武力攻撃をするため、”本家”であるソ連のスターリンに攻撃許可を求めていました。しかし、スターリンも、大戦直後の疲弊した状態でアメリカと正面切って喧嘩を売るのは得策ではないと考え、金日成の要求を認めていません。それどころかソ連軍の大部分を半島から撤収してしまいます。これを受けてアメリカも、軍政を解いて大部分の兵力を撤収します。つまりこの時点では、米ソともにそれほど喧嘩をする気がなかったように見受けられます。

 アメリカも実はかなり賢くて、やみくもに兵を進めるわけではないです。このあたりが関東軍など旧日本軍と違うところで、連戦連勝しつつも、なおも慎重だという。アメリカの極東戦略でいえば、半島の帰趨よりも、中国大陸の帰趨の方が大事です。ところが、中国では毛沢東共産党と蒋介石国民党の国共内戦状態に陥ってますが、形成は徐々に毛沢東有利に推移し、結果的に蒋介石は台湾に逃げ込むハメになります。アメリカも、最初は熱心に蒋介石を応援していましたが、やがて「ダメだ、こりゃ」と手を引くようになります。そして中国の共産化は避けられず、だとしたら日本、沖縄、フィリピン、グアムなど太平洋の制海権をキッチリ握ろうという堅実な方針にシフトします。さすが、引きどころをわきまえているわけです。ここでヘタに朝鮮半島に首を突っ込んで、仮に上手くいって半島全部を制圧したとしても、全体からしたら得るところは少ないだろうという判断でしょう。

 米ソは慎重に静観の構えをしているのだから、朝鮮内部の金さんも李さんものんびりしていればいいのに、そうはなりません。まあ、丸々一国の覇者になれるかどうかの瀬戸際ですから、はやる気持ちもわかります。李承晩についていえば、彼は上海亡命時代に日本の憲兵に拷問を受けた経緯があるので、日本への復讐心も強く、日本に対して敵対的でもあります(竹島領有を宣言したり)。しかし、アメリカとしては日本は可愛い我が子のようなものなので、李承晩の報復攻撃を認めるわけにはいかず、米韓軍事協定を結びつつ、李承晩を「まあまあ」となだめつつも、「勝手なことすんじゃねーぞ」と頭を押さえます。

 この点、北の金日成の方がしたたかで、スターリンに「南を攻撃したらダメ」と釘を刺されながらも、再度スターリンを訪問して攻撃許可を求め、且つ「毛沢東も乗り気でっせ」などといろいろ働きかけて、「毛沢東が良いといったら攻撃してもいいよ」という譲歩を引き出し、さらに中国を訪問して毛沢東と話をつけてきます。といっても、中国内部でも「ソ連も消極的なんでしょ?なんでウチらがやんなきゃならんの?お金ないし」という声も大きかったと言います。まあ、言うならば、金日成は、ソ連と中国という小うるさい舅と姑を説き伏せたようなものです。そして、一気に南進攻撃に打って出て、朝鮮戦争が始まります。

 このように、朝鮮戦争そのものは、東西のエゴという背景はありつつも、直接の原動力や引き金は朝鮮内部の覇権争いにあったのだという見方も出来ると思います。


朝鮮戦争

 1950年6月25日、北朝鮮軍が38度線を超えて侵攻、朝鮮戦争が勃発します。

 当然南朝鮮(韓国)軍=実質的にはアメリカ軍=は、これを迎え撃つのですが、抜け目のないアメリカは国連に話を通します。安全保障理事会に北朝鮮軍の侵略行為を訴え、6月27日には北朝鮮を侵略として認定し、進軍の停止と撤退を要求する決議案が可決されます。安保理中、賛成9票、反対ゼロです。

 あれ、なんでソ連は拒否権を発動しなかったの?というと、ソ連は安保理そのものをボイコットしていたので棄権です。何をソ連は怒っていたのかというと、当時の国連の”中国”をめぐっての扱いです。当時の国連は、蒋介石の中華民国(台湾)を"中国”として認知していたので、同じ共産国仲間である毛沢東・中華人民共和国を推していたソ連はボイコットしてたのですね。この頃はまだソ連と中国は仲が良かったのですね。犬猿の仲になるのは、フルチショフのスターリン批判以降のことでした。しかしですね、ソ連も、せっかく国連の安保理で拒否権を持ってるんだから、ウダウダ言ってないで拒否権行使をしていれば、むざむざアメリカに国連軍という”官軍”の錦の御旗を渡さずに済んだわけで、何考えてんの?という疑問もあります。独裁者スターリンの意思だったそうですが、実は70歳を超える高齢になっていたスターリンがボケていたから、という話もあります。

 ともあれソ連棄権のまま、安全保障理事会は、韓国に武力攻撃撃退の支援をすること、軍事行動の統一指揮権をアメリカに委ねます。まあ、ありていに言って国連を通じたアメリカが描いた絵そのものですが、よくある話ですな。国連軍最高司令官は、あのマッカーサーが任命され、東京が司令部になります。

 ところがアメリカが国連工作をやってる間に北朝鮮軍がドドド!と南下してきます。その勢いは凄まじく、侵攻3日後にはソウルを占拠、そのまま釜山近辺まで迫っています。つまりは殆ど半島全域を北鮮軍が支配しちゃったということです。なんでこんな一方的な結果になったかといえば、いくつもの要因があるようです。まず米国側にとっては全くの不意打ちであったこと。マッカーサーは日本の占領政策に忙しく、米国本国は東西連戦の主戦場であるヨーロッパに神経が集中していていました。大国アメリカの意識からしたら、極東の小さな半島のことなどあまり重大視されておらず、また中ソもそれほど乗り気ではないだろうと読んでいたのですね。その読み自体は正しかったのだけど、金日成のやる気がそれに勝ってしまったという想定外要素があります。次に軍備の圧倒的な差です。北朝鮮軍は、中ソ軍における朝鮮族部隊がそのまま横滑りしてきて兵の練度も装備も充実している。一方、南側は旧日本軍の朝鮮系部隊が核になりますが、それにアメリカ系が混在したりしてバラバラ。さらに李承晩の日本報復を押さえるために、アメリカはろくに軍備を与えていませんでした。

 また米軍自体も第二次大戦でかなり疲弊していたので(戦死、退役。新兵は実戦経験がない)、国連決議をもとに世界に援軍を求めます。アメリカ軍25万人を中心としてイギリス15万、フランス7400人、カナダ5400人、オランダ7200人、ベルギー5400人、トルコ4600、エチオピア1200、タイ1100、フィリピン1100、コロンビア1100、ギリシャ1000、オーストラリア900人、NZ800、南アフリカ800、ルクセンブルグ400という編成になっており、米英が殆どとはいえ、多国籍軍ではあります

 土俵際まで追い詰められたアメリカですが、さすがにしぶとく、最後の一線で踏みとどまり、反転攻勢に出ます。有名な仁川上陸作戦を成功させたあたりから形勢が逆転し、ソウル再奪回、今度は逆に38度戦を越えて北上し、平壌占領、鴨緑江岸にまで達します。今度はアメリカ軍が完全制覇に近いところまでいくわけですね。

 アメリカが北方の土俵際まで追い詰めたところで、第三勢力が登場してきます。毛沢東の中華人民共和国が、同じ共産国連合で介入してきたのですね。新たな助っ人の登場で、戦局は再び転回、中国軍+北鮮軍は38度線まで勢力を戻し、ソウルを再々奪取します。ここで初めて戦線は膠着状態になり、一進一退が続きます。51年6月ソ連は国連で停戦を提案し、板門店で休戦会談が開かれます。この会議がなんと延々2年も続きます。なお、この膠着状態において、マッカーサーは「中国を空爆しよう、原爆を使おう」と提案し、米国本国から「アホか、お前は」とポンと蹴られた挙句、クビになってます。

 この戦闘経緯を第三者的に眺めていると、逆転に次ぐ逆転という中々見応えのあるシーソーゲームですが、しかし当の朝鮮半島の人達にとっては堪ったものではないでしょう。やっと戦争が終わったかと思ったら、超大国の後押しを受けて国は分かれるわ、派手な内戦が始まるわ、わずかな間に往復ビンタ的に大軍が行ったり来たり国土を蹂躙しまくっていくのですから。実際、戦争初期に北軍に押されている時に、韓国軍は共産党関係者の政治犯やその家族、約20万人以上を虐殺したと伝えられています(保導連盟事件)。この事件に触れるのは韓国や連合国においても長きにわたってタブーとされてきました。また、南進して意気軒昂な北鮮軍も、徐々に兵力が不足してきたのを現地から徴用補充してますが、そのときの混乱がもとで大量の離散家族(家族内部で北と南で泣き別れになる)も発生しています。また、北鮮軍も忠北清州などで現地住人を虐殺したり、米兵捕虜を虐殺したりしています(303高地の虐殺)。


 
 停戦後の和平交渉は長引きました。まあ、話合いでケリがつくなら最初から付いていたでしょうし、東西冷戦初期ということで東西陣営とも気合も入ろうし(朝鮮の人々にとっては迷惑以外のなにものでもないが)、メンツもあるでしょう。しかし、それぞれの親玉の交替(アメリカのトルーマン大統領→アイゼンハワー、ソ連のスターリンの死去)で転機を迎え、1953年7月に、やっとこさ休戦協定が調印されました。しかし、これはあくまで「休戦」であって「終戦」ではないです。以後、38度線付近は、軍事境界線としてベルリンの壁以上に厳重に分断され、ベルリンの壁は崩壊したのに、38度線は未だガンとして健在です。

 朝鮮戦争は非常に激しく、数十万人にものぼる軍関係者、数百万単位の住民を犠牲にしています。これだけの多大な犠牲を払って出来たのは、北は金日成、南は李承晩という、それぞれに強力な軍事独裁政権でした。戦争前/後で、何ら事態は変わってないという。これでは米中ソの大国が最初から消極的だったのも分かります。冒頭に戻りますが、それに比べれば、日本の戦争は、戦前戦後でガラリと変わり、しかも劇的に良くなってますから、多くの人々の犠牲はその限りでは無駄ではなかった。しかし朝鮮戦争によって得られたものは、より強烈に同胞同士がいがみあう祖国分裂です。虚しいですよね。

 このいがみ合いの構図は非常に激烈で、南北朝鮮ともに頑強に相手を否定する政体になりますから、地図においても相手国の領土を自分の領土として記し、交戦中の敵国として扱いつづけることになります。東西ドイツの場合は、分離はされながらも、お互いの主権を認め、国交も行っていたからはるかにマシです。同じ国内分離といいながら、かなりの違いがあります。

 この根の深い分裂、単に東西冷戦という世界ゲームだけではなく、朝鮮民族内部に発してる分裂なだけに、今尚解消の兆しが訪れないのでしょう。分裂の原因が東西冷戦だけだったら、89年のベルリンの壁崩壊で、南北朝鮮も統一されてなければ嘘です。だいたい共産主義の二大本家だったソ連(ロシア)も中国が、それぞれBRICsの一角を担う資本主義の優等生になっているのだから、北朝鮮という国があの政体のまま未だに存在していること自体奇跡のようなものです。

 以後、韓国は李承晩政権のあと、朴正煕、全斗煥と大統領が代わりますが、日米から多くの援助を得て、「漢江の奇跡」といわれる急速な復興を成し遂げます。豊かになった韓国では、全斗煥時代に学生らの運動が強まり、民主化も促進されていきます。ソウルオリンピックも開催し、ワールドカップも行うという一流国の仲間入りです。次回以降はこの現代韓国の経過をみていきます。


 最後にちょっと補足しておきますが、朝鮮戦争の内実というのは、あれだけ派手な戦争だったわりには実はよく分かってない部分が多いようで、「実はこうだった」と諸説入り乱れているようです。視点や力点の置き方によって構図もガラリと変わります。あくまで米ソの東西冷戦構造がメインであり、その抗争に朝鮮国内が巻き込まれただけだと見るか、いやいや朝鮮内部の勢力争いがもとで米ソはむしろ引きずられたようなものだという見方もあるでしょう。僕も最初は前者的に記載していたのですが、途中で後者的な構図にシフトしました。戦後の南北朝鮮の独裁体制を見るに、金日成と李承晩という二人が、ただただ大国に翻弄された子羊的なキャラだとは思えなくなったからですし、仮に東西冷戦構造もなく米ソも無かったとしても、この二大勢力はいずれはぶつかっていたと思えるからです。ただ、それにしても僕の私見に過ぎず、数あるものの見方の一つに過ぎません。

 なお、戦後半世紀を過ぎて、韓国は経済的に成功し、北朝鮮は飢餓に喘ぐような貧困ぶりで明暗クッキリ分かれるのですが、これは建国者である金日成と李承晩の差によるのでしょう。このあたりはまた書いていきたいのですが、両名の差といっても、金日成がダメで李承晩が偉かったのではなく話はその真逆です。金日成という人はどうもそれなりの人物だったらしく、また冷酷で有能な実務家でもあった。これに対して李承晩はそれほどの器の人物ではないようで、後になればなるほど権力に執着する浅ましいジジーになり、最後には国民から総スカンを食らって失脚してます。つまり建国の英雄が英雄であり続けた北朝鮮は、それがゆえに変革の機会を逸してしまい固定的な体制になってしまったけど、韓国の場合は建国の英雄がダメオヤジだったために結果的に新陳代謝を促し、国を変化成長させることができたってことでしょう。歴史も数十年スパンで眺めると、何が幸いするのか分からない恐ろしさを感じます。



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  長くなってきたのでまとめて別紙にしました。



文責:田村




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