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今週の1枚(09.11.16)





ESSAY 437 : 世界史から現代社会へ(87) 韓国・朝鮮(4) 失われた明治維新 李朝末期から日韓併合まで



 写真は、昨日(11月15日)で終わっちゃいましたが、恒例になっている海辺の造形展(Sculpture by the Sea)の様子です。年々有名になっているみたいですね。この展覧会はボンダイだけではなく、今年の6月にはデンマークで行われ、来年の3月にはパースでやります。
 昔行ったときは曇りだったので造形アートに専念できましたが、今年はピーカンのいい天気でした。しかし、天気がいいと海がキレイです。十年以上住んでるけど、改めて感動しました。居並ぶアート群よりも海の方に気を取られてしまったのでした。やっぱ自然は最強のアートです。「くそお、水着持ってくれば良かった」とか、そんなことばっかり思ってました。

 日本はもう寒いそうですので、気分転換に、思わず泳ぎたくなるような写真をお裾分けします。






 韓国・朝鮮シリーズの第4回目、李氏朝鮮時代の次は、いよいよ近・現代史である日帝支配時代とその後南北分裂〜現在という生臭い時代に入っていきます。

 まず、19世紀中頃から。日本では黒船がやってきて、国民総発狂みたいな大騒ぎになり、その膨大なエネルギーで江戸幕府は倒壊、明治維新、文明開化と続いていきますが、朝鮮半島ではどうだったのでしょうか?まず、そのあたりから見ていきましょう。


李朝末期の推移


 時代は前回やった李氏朝鮮末期にあたります。この頃は、60年近くに及び安東金氏(という一族)が政治を私物化していました。「勢道政治」と呼ばれていますが、とにかくこの一族の力が強く、王様ですら口出しできない有様だったといいます。日本の平安時代の藤原氏みたいなものでしょう。

 こういう状況が続けば誰もが内心不満も思うもので、先代王憲宗の母である神貞王后(趙氏)と王族ながらも冷や飯を食わされていた李是応(是←本当は日の下に正と書くが日本語のフォントがない、後に興宣大院君になる)が共謀し、静かに時機を見計らいます。興宣君は安東金氏一族を騙すために、物乞いの真似すらやって油断を誘ったというから根性入ってます。その甲斐あって、彼の息子が高宗として次期王になり、神貞王后が後見人になり、興宣君は国父(大院君)&摂政として、政治を切り回し始めます。1863年のことです。この時期、日本では幕末の真っ最中で長州藩が馬関戦争をはじめ、アメリカではリンカーンが奴隷解放を唱えて南北戦争を始めてます。日米共に内戦やってたのですね。

 ところで、神貞王后と興宣大院君の構図は、どっかしらデジャヴュだな〜と思ったら、推古天皇と聖徳太子みたいですね。元皇后で、貫禄たっぷりの宮中の大女将がドーンと控えて睨みをきかせ、他の王族の切れ者が手を摂政として実務を行うという図式。興宣君も聖徳太子のように、バリバリ政治改革を始めます。当然、長年の課題であった勢道政治を叩き壊します。要職から安東金氏一族を追いはらい、ひろく人材を用い、腐敗しまくっていた汚職を厳しく改め、エリート階級両班にも課税し課税の公平を目指すなど、近代的な政策を矢継ぎ早に繰り出します。ただし、魔法のような政治バランス感覚で20年間波乱なく治めてきた聖徳太子と違って、やはり出る杭は打たれます。息子の高宗(現王)の嫁さんである閔妃(みんぴ or びんぴ、明成皇后)の一族からの強烈な反発運動が起こり、ついに1873年には宮中クデーターによって興宣大院君は失脚してしまいます。でもって、今度は閔妃一派が要職を独り占めしはじめ、勢動政治が復活します。といっても、大院君もこれで諦めるべくもなく、あれこれ画策しますので、朝廷は内紛と陰謀で混沌としてきます。

 しかし、そんな内輪もめをやってる間にも西欧列強はやってきます。日本に黒船が来て、中国でアヘン戦争やってるんだから、朝鮮半島に来ないわけがないです。摂政だった大院君は、近代的合理的な政策を打ち出していたので開国するのかと思いきや、全く真逆で、徹底的な鎖国と攘夷方針をとります。鎖国は日本だけじゃなかったのですね。攘夷なんだから、通商を拒み、外国船を砲撃するくらいにしておけば良かったのに、よせばいいのにカトリック教徒を弾圧し、1万人近くの信徒を殺してしまいます(丙寅教獄)。やり過ぎなんだわ。この弾圧騒ぎで殺されたフランス人神父の報復のために、フランスは朝鮮半島を攻撃します。いっとき江華島を占領されたものの何とか撃退します(1866)。ほぼ同時期、通商を求めたアメリカ商船が沈没させられたことを機に(ジェネラル・シャーマン号事件)、1871年にアメリカは軍艦5隻を連れて談判に赴きます。再び江華島を占領して強硬に詰め寄るアメリカでしたが、大院君の方がもっとガンコで、ダメといったら絶対ダメ!と言い続け、あまりの石頭さにアメリカも辟易として帰ってしまいます。

 すごいですよね、一応、攘夷を成功させちゃってるわけです。でもそれが後々禍根を残すことになります。本当のことをいえば、ここで一回西洋式軍隊にコテンパンにやっつけられたら良かったんですよ。そうしたら、馬関戦争後の長州、薩英戦争後の薩摩のように「力をつけなきゃ話にならん」ということで、富国強兵路線で国論がまとまったかもしれない。

 攘夷成功と喜んでた大院君ですが、前述のように閔妃一族に足下をすくわれあっさり失脚してしまいます。あとを継いだ閔妃は、一転して開国&親日方針に切り替えます。その頃には、もう日本は明治維新を済ませ(1868)、イッチョ前に朝鮮に出張ってきています。1876年、日本と閔妃政権は日朝修好条規(江華島条約)を締結します。同じように、米仏露とも通商条約を結びます。しかし、当然のことながら開国を喜ばない勢力も多数いますし、その中には捲土重来を狙う政敵・大院君もいます。これら攘夷派を斥邪派と呼ぶそうですが、開明派と斥邪派が激しく対立するようになります。

 大院君&斥邪派は軍部の不満分子を扇動し、クーデターを起こさせます(1882、壬午軍乱)。暗殺されかかった閔妃は、お隣の中国(清)に助力を依頼し、袁世凱が出張してきて大院君を連行し、上海に幽閉します。このあたりから李氏朝鮮の方針が迷走しだして、グチャグチャになっていくのですが、清と繋がりが出来た閔妃は、それまでの開国&親日路線を捨て、新中国(清)路線に転換します。そうなると、これまでついてきた親日開国派が大いに不満であり、1884年12月には、金玉均、朴泳孝らの独立党がクーデターを起こします(甲申政変)。が、又してもバックの袁世凱が出張ってきて、このクーデターは三日天下で崩壊。金玉均は日本に亡命、その後1894年に上海で閔妃の刺客に暗殺されたといいます。

 同じ頃、東学党の乱(甲午農民戦争)が起きますが、またしても閔氏は清に援軍を求めるのですが、今度は居留民保護を理由に日本も出てきます。イッチョ噛みしたい西欧列強も、日本の口出しを背後から支持します。清と日本が入り乱れつつ、東学党の乱はなんとか解決したのですが、清軍と日本軍は帰りません。侵略目的を腹に抱えているのでここで帰ったら意味がないわけです。日本軍は、閔妃勢力を追い払い、政敵であった大院君を迎えて、政治をやらせます。あれ?大院君って攘夷派じゃなかったっけ?と思うのですが、その頃には大院君も日本軍の傀儡政権になってしまったようです。

 1894年には、朝鮮半島の支配権争いが嵩じて、日本と清との間で喧嘩になります。日清戦争です。日清戦争に勝った日本は、下関条約により朝鮮半島の実権を清に認めさせ、古代から延々つづいていた中国と朝鮮の冊封関係はここで終焉を迎えます。一方、落ち目になっていた閔妃ですが、中国がダメならロシアだとばかりにロシアに接近していきますが、1895年に反閔妃派の朝鮮人と日本軍によって閔妃は暗殺されてしまいます(乙未事変)。

 ヨメさんを殺されてしまった王様(高宗)はロシア領事館に避難し、親露政策をあれこれ打ち出すのですが、あまりにロシアに行きすぎているので民衆の反発を買い、ロシア領事館から出て宮中に戻ります。既に中国との冊封関係は消滅しているので、高宗は初めて「皇帝」を名乗り(冊封関係下では中国皇帝しか「皇帝」を名乗れなかった)、国号も大韓帝国にします。高宗もいろいろ近代化を進めたり頑張るのですけど、もはや国内の混乱は彼の力では仕切れるレベルではなく、あちこちで反乱が起きます。かくして朝鮮半島の実権争いは、第一ラウンドの日本VS清が終わり、第二ラウンドの日本VSロシアに移行していきます。そして、1904年には日露戦争が勃発し、翌年、これも日本がなぜか勝ってしまいます(薄氷の勝利だったことはご存知でしょう)。

 中国、ロシアと連破して朝鮮の実権を握った日本は、我が物顔で支配していきます。まあ、もともとそれがしたくて2回も戦争してるんだから。日露戦争後、1905年には第二次日韓協約が結ばれ、日本は朝鮮の内政や外交主権を奪い、保護国化を進めていきます。高宗は、1907年にオランダのハーグに密使を送って日本の暴挙を訴えるのですが(ハーグ密使事件)、国際社会も冷たいもので、この訴えをシカトしてしまいます。まあ、当時の国際社会と言っても、西欧列強なんか日本以上の強盗の親玉みたいなものですから、植民地支配がダメとか訴えられても黙殺せざるを得なかったでしょう。

 この動きによって高宗は譲位を迫られ、いよいよ朝鮮王朝のラストエンペラー・純宗が即位します。が、実権は、日本の韓国統監府にありました。初代統監は伊藤博文です。伊藤博文は明治の元勲達のなかではおよそタカ派のタイプではなく、韓国の強制属国化(併合)は時期尚早と訴えていたのですが、朝鮮人民からみたら支配の大元締め、悪の帝王に見えたのでしょう、1909年安重根によって暗殺されてしまいます。皮肉なことに、日韓併合を食い止めてきた伊藤博文の暗殺によって、反対者の消滅と大義名分を日本政府に与えてしまい、1910年8月、日韓併合になります。ここに李氏朝鮮王朝は滅亡し、朝鮮・韓国という国すら消滅し、日本国の一部になってしまいます。そして、未だに尾をひいている「日帝支配36年」という、日本の植民地=というより国の存在すら否定するのだから完全占領・侵略時代=が始まります。


家庭内喧嘩と帝国主義


 以上がおおまかな経緯なのですが、ゴチャゴチャしててよくわかりませんねー。錯綜しすぎ。歴史や物語というのは常にそうですが、一つのストーリーがシンプルにポンとあるわけではありません。何本もの異なるストーリーが同時に走っています。この場合、第一のストーリーは宮中での権力争いであり、煎じ詰めれば王様(高宗)を間に挟んだ興宣大院君と閔妃という、お舅さんと嫁さんの確執が基軸になっています。どちらも権力志向バリバリの肉食系義父と嫁が喧嘩をしているというストーリーがひとつ。その間に立って半ば草食系の高宗がオロオロし、嫁も舅もいなくなってから自分でやろうとしたけど力不足でポシャッたということです。

 もう一つは19世紀末から20世初頭の帝国主義という国際情勢です。この点は過去の回(第33回くらいがオススメ)を復習されるといいかと思いますが、要するに砲艦外交というヤクザの縄張り争いの世界です。西欧列強は世界各地を植民地化しつつも、それなりに洗練された極道秩序みたいなものがありました。もっぱら英仏との間ですけど。そこに”遅れてきた帝国主義野郎”みたいな感じでドイツが参加し、さらに遅れてロシアが参戦、もっと遅れてアメリカ、最後に日本が入ってきます。ビジネスでもそうですが、後発参入組ほど完コピ+激安路線というアグレッシブな商戦を展開しますが、特にロシアの露骨な南下政策には英仏ともうんざりしてます。東欧方面でクリミア戦争とか大喧嘩してますから。アジア方面では、誰もが大国中国に食指を動かしていますが、そこに二周回遅れくらいの日本が突如として参加してきます。新興勢力の日本としては、何とか植民地という縄張りをもって国力をつけ、先発親分衆と対等なつきあいがしたい。だから朝鮮→中国への覇権を目指す。

 西欧列強からしたら、この日本の動きが片腹痛くもあり、また利用価値があるとも考えたわけですね。海千山千の彼らのことですから、生かさず殺さずで日本を利用しようとします。日清戦争で日本が勝ったときも、ドイツやロシアなど三国干渉を行って、日本の戦勝権利を「キミ、強欲過ぎだよ」といって値切り倒したりしますもんね。でもって、ロシアが露骨な南下を進め、閔妃や高宗が親ロシア政策を取り始めると、毒をもって毒を制すではありませんが、日本を使ってロシアの南下をとめようとします。イギリスは当時南アフリカのボーア戦争でヘトヘトになってますし。ここに日本と西欧との利害が一致し、日英同盟が締結され、またアメリカも日本の根回しを受け入れ日露戦争のレフリー役を引き受けます。

 結局のところ、西欧列強やロシア、日本は、朝鮮人民のことなんか全然考えてないです。暴力団の縄張り争いで、一般市民の生活なんか殆ど考えてないのと一緒です。だから閔妃だろうが、大院君であろうが、利用できるものは利用し、邪魔になったら切り捨てるという冷酷な国際政治の力学が働きます。日本の中には「韓国の真の独立のため」に日本政府があれこれ世話を焼いたのだと言う人達がいますが、嘘でしょ。まあ、本気でそう思ってた人もいたとは思うけど、当時の国際政治のメイン潮流からしたらそれはないでしょ。それに、もし本気で朝鮮の独立を願っていたなら、なんで日韓併合をして、植民地どころか韓国という国の存在すら否定するようなことをしたのか説明がつかない。

 この二つのストーリー、舅と嫁の家庭内喧嘩と帝国主義という世界の潮流がリンクして、話はダッチロールしていきます。舅の大院君が後先考えずにカタクナに攘夷をやれば、ヨメの閔妃が親日解放政策をとり、大院君の反撃を清の力で切り抜けてからは親清方針に転換、ところが日清戦争で日本が勝ってしまったので閔妃は追放され大院君が今度は日本の傀儡になります。アテにしていた清がコケてしまった閔妃は今度はロシアに接触しますが、暗殺されてしまいます。閔妃の旦那である高宗はひきつづき親露路線を踏襲しますが、日露戦争でロシアが負けてしまったことで、朝鮮はなしくずし的に日本の支配下になる、と。要するに、朝鮮王朝の各権力者達が、日本、清、ロシアをそれぞれ引っ張り込み、その過程でモトもコも無くして、失脚あるいは暗殺され、最終的に勝ち残った日本が支配したという構図です。

 これだけ見ていると、この国家存亡の危急時に何を内輪モメやってんだ?って気もしますが、これって今に始まったことじゃないです。国民の利益よりも王族が自らの存続をはかったのは高麗王族が元帝国に媚びを売ってたときもそうですし、内紛と派閥争いは李氏朝鮮500年の間ほぼ一貫してやり続けています。また、外国の勢力が攻めてくるに危急時にも関わらず内輪で喧嘩しているのは清朝に攻められているときも、日本の朝鮮出兵のときも同じです。要するに、李朝末期に突如としておかしくなったのではなく、年がら年中同じようなことをやってきているわけですね。


閔妃暗殺

 閔妃の暗殺事件については、誰がやったのか未だによくわからず歴史のミステリーになっています。オフィシャルには、この罪により朝鮮人3人が処刑され、また後に朝鮮人8名が処刑されています。日本側は、日本公使であった三浦梧楼ほか容疑者48名を召還し、裁判にかけていますが、いずれも証拠不十分で釈放しています。しかし、本当のところはどうだったのか、そのあたりは資料が錯綜していてよく分からないようです。

 ミステリーになっているということは、どうとでも言えるということで、現在、日韓それぞれからいろいろ”都合のいい”ストーリーが語られているようです。

 閔妃は仮にも王族、皇后陛下ですから、それを殺すというのはそれなりに重大な出来事で、それを企画実行したのが韓国・日本の一派であったことから、韓国側では、主として日本人が殺したことにして、日本人は王族を殺すというとんでもないことをしたとして反日プロパガンダに使われたりします。日本側は、それはタメにする悪意の主張であって、一部の日本人が暴発的に参加したかもしれないが、日本政府が積極的に関与しているわけではないと言う人もいます。また閔妃自身、その後韓国人からもさほど注目されていたわけでもなく、昨今になってからドラマその他で有名になり、反日キャンペーンに使えるということで「国母」として美化されているだけであると。

 思うに、この件に関しては善玉は一人もいないでしょう。閔妃という人がパーソナルにどういう人だったかは分かりませんが、大院君失脚を画策して成功したり、閔氏一族を取り立てて勢道政治を復活させたり、刺客を放って開化派の金玉均を殺したり、袁世凱とつるんだり、ロシアとつるんだり、政権奪取のためには何でもやってるわけです。それなりに血なまぐさい修羅の世界に生きる女丈夫であり、王室といっても別に楚々とした深窓の令嬢であったわけでもない。これまでも散々殺したり殺されたりをやっているのだから、いつかは自分が殺されても、突き放して言ってしまえば、それは自業自得だと思うし、政治家が暗殺されるのは珍しいことでもない。

 また、どんなにひいき目に見ても、閔妃が朝鮮人民の真の独立”だけ”を願って活動していたというのは無理があり、原動力となったのは個人的な権勢欲だったでしょう。でもそれは閔妃一人が悪いわけではなく、李氏朝鮮王朝ではそれが当たり前であり、それはお隣の清朝末期も似たようなものです。封建社会というのはそーゆーもの=国や権力を私物化することが当然=であり、それを今日の民主主義の価値判断で断罪するのは酷でしょう。また袁世凱についたり、ロシアを引き込んだりしている部分が売国的に見える部分もありますが、善意に解釈すれば、それこそが国際外交のバランスであり、その種の合従連衡は西欧では普通にあります。だから野心に燃えた一政治家が勝ったり負けたりをしているさなかに非業の死を遂げたということでしょう。

 一方、日本だって、ミエミエの侵略目的でチョッカイだしていたのだから、上に書いたように「朝鮮の真の独立のため」なんて bullsiht は通用しないでしょう。これだけのことを政府が何にも知らないってことはないと思います。また、仮に知らなかったとしたら監督不行届でしょう。いずれにせよ侵略意図をもって干渉を続け、その支配権奪取プロセスで王族が殺されているのだから、その種の汚名はかぶらざるを得ない。ところで、別に閔妃を殺さなくたって政治的に無力化していくことは出来ただろうし、また殺したからといって状況が良くなったわけでもありません(本命の皇帝をロシアに取られちゃってるんだから)。日本政府が知っててやったのなら、やり方がいかにもヘタクソだし、知らないで現場が勝手に暴発したなら、それは現場の抑えが効いていないということでもっと問題です。

 それに関係者の処罰について、全員証拠不十分という妙な始末の仕方をしてウヤムヤにしてしまうという後味の悪いやり方が一番セコくてイヤな気がしますな。結局誰も責任を取ってないという。このパターン、現場での突出+事後処理の曖昧さという日本の悪しきセットメニューは、その後の関東軍の大陸侵略においてどんどんエスカレートしていきます。例えば、張作霖爆破事件でも、河本大佐の犯行であるのが分かっているのにウヤムヤにしようとして天皇に叱られたり(それで田中義一内閣は辞職したが、それでもウヤムヤになった)、ノモンハンでは辻政信が情報を握りつぶすという軍令違反をしながらも、結局これといった処罰を受けることもなかったり。この事後処理の曖昧さ、すぐウヤムヤにしようとする無責任体質は日本の宿痾ともいうべき悪癖で、昨今の年金問題でも結局誰も責任を取ってないんじゃないの?

 閔妃事件についていえば、どっちもどっちの事件だし、どっちもどっちの時代だったと言えます。それをまた今更のように蒸し返して、また全体の文脈を無視して一局面だけミクロ的に取り上げて、一方的に非難しあってたら、なんの進歩もないって気がします。


なぜ日本では明治維新が可能だったのか

 ここで、思うのは、なんで日本では明治維新が出来たのに朝鮮では出来なかったのか?です。というか、逆に、なぜ日本では可能だったのか?です。これは、日本民族が優秀で韓国民族が暗愚だった、、とかいう、アホみたいにシンプルな話ではないです。二重にも三重にもそうなるべき歴史的必然性があったのでしょう。過去にも折にふれ触れてますが、またちょっと書いてみます。

 韓国で明治維新まで行き着かなかったのは、李朝500年の負の遺産が原因でしょう。行きすぎた儒教体質と民族病のような激しい内部抗争。儒教でいえば、両班絶対主義のような固定的な身分制度や商業を賤業として卑しむ風潮、さらに長いものには巻かれろという事大主義と新しいものをカタクナに受け入れようとしない保守性などです。これでは文明開化(資本主義化)を進めようにも社会的に受け入れ体制が整っていない。それと宿業のような内部抗争と権力の私物化。西欧列強+日本と中国が四方から攻めてきてるんだから、せめて国内だけでも一致団結してことに当たれば良さそうなものなのに、結局最後の最後まで内紛に明け暮れているという。大院君と閔妃がタッグを組んで高宗を補佐していたら、かなり手強い存在になったと思うのだけど、結局お互いにつぶし合って、漁夫の利を周囲に撒き散らしています。

 大体これまでの世界史をみてると、大国が小国を食い物にするパターンは決まっていて、その国内の内部対立を煽り、一方を勝たせて傀儡政権を作ることです。ただただひたすら力で押しつぶすというパターンは、初期の頃にスペイン軍が南米のインカ民族などを攻め滅ぼしたとか、北米のインディアンを制圧したとか、かなり力に開きがあるような場合だけです。イギリスなんかその点名人芸で、やれオスマントルコとアラブ民族の対立を煽ったり、インドにおいてはヒンドゥーとイスラム教徒の仲が悪くなるようにし向けたり。第二次大戦後の冷戦時代だって話は同じで、中南米にせよアフリカ諸国にせよ、手口は似たり寄ったりです。国家存亡のときに仲間割れをしている朝鮮は、今から思うといかにも愚かに見えますが、しかし、それが普通ですよ。人間心理からいっても、遠くの外敵よりも身近な仇敵に激しい敵愾心を持つものです。会社が倒産の危機を迎えていても、まだ派閥争いをやっているのが普通でしょ。

 日本の場合も、フランスが幕府を押して、イギリスが薩摩藩に付くという武器供与→代理戦争的様相を呈していたのですが、泥沼の内戦がはじまるかと思いきや、江戸城は無血開城しちゃうし、明治政府も榎本武揚ら旧幕臣を重く用いたりして一致団結しちゃうんですね。ここが世界史的にヘンなところだと思います。幕末をみてると、新撰組の頃は血で血を洗うテロ合戦を京都で繰り広げており、跳ね返りの長州藩は幕府や会津に激しい憎しみを抱いたし、さらに寝業師の薩摩が幕府について長州を追い落としたことから、長州人の薩摩への憎しみは頂点に達していたといわれます。薩賊会奸なんて四字熟語があったくらいですから。このままいったら、反政府勢力(薩長)の間で二次的内戦が勃発し、さらにムチャクチャになってしまっていたでしょう。それが普通です。

 それを魔術のように手を握らせ、さらに幕府の反抗を抑えたのは、ご存知のように勝海舟と坂本竜馬の師弟コンビだったわけです。坂本竜馬がなんであんなにヒーローに祭り上げられるのかというと、パーソナルな陽性な魅力もあるでしょうが、それより何より身近な仇敵よりも「日本VS世界」というより大局的な視点とコンセプトを持ち、持っただけではなく説いて説いて説きまくって実現させちゃったというフィクサーとしての実績だと思います。この師弟コンビの偉さを理解するには、日本史だけではダメで世界史を知らないと分からないとでしょう。いかにレアなことをやってのけたか。そして、勝=坂本の視点が明治政府に受け継がれたからこそ、薩長閥がウザったくハバを効かせつつも、それでも大局的に挙国一致にもっていけたのでしょう。あのまま薩・長・幕府で泥沼の内戦をやってたら、とっくの昔に日本は4つ位に分割されてた可能性が大ですし、現在のような日本にはまずなってなかったでしょう。

 ただ、いかに坂本竜馬が説こうが、皆がそれを受け入れたという点、また一般庶民も「御一新」ということで、軽く時代の変化を受け入れちゃうあたり、こだわりの無さという民族的な特徴があります。これは朝鮮の人達みたいに骨がらみで儒教に染まっているわけではないのと通底すると思いますが、一言でいえば”田舎者”なんでしょうね。世界の果てみたいな島国で、自分達だけで気持よくノホホンとやってきたから、強烈なドグマや思想で社会を統制するという必要性がなかった。この点、日本に生まれ育っちゃうと、あまりにも当たり前なのでピンとこないかもしれませんが、これが砂漠の民のように過酷な環境だったり、絶えず外敵の侵略を意識してピリピリしてる環境だったら、生きていくための絶対的な指針みたいなものが必要になったりするのでしょう。

 また数千年にわたり殺し合いばかりやってれば、強力な殺戮者の子孫だけが淘汰され、ほっといたらケダモノになっていくから、倫理や宗教、法という強烈な調教手段が必要になります。(西)ローマ帝国が滅びた後、野獣のようなゲルマン民族を"調教”するためにキリスト教が重宝されたようなものです。中国においては、文化人VSケダモノという図式があり、その差は儒教という礼法を身につけているかどうかだとされますし、西欧や中東では宗教が重い意味を持ちます。でも、日本は適当に温かく、自然も豊富で、ひときわ辺鄙なところにあるから異人も外敵も滅多にやってこない。のほほんとするわけですよ。日本人は平和ボケといいますが、平和ボケしてるからこそ日本人なんだとも言えます。その代り、微妙に温帯で熱帯植物の稲を育てるにはやや厳しい気候下においては、とにかく一致団結してないと全員が餓死するということで、やたら組織作りやチームワークには強くなるという。

 その結果、日本人はいまだに宗教については不導体のようにピンとこない、世界でも珍種といっていいくらいレアな民族ですし、強烈な思想によって人生を統制しようという意識が希薄だから、とにかく何についても「あんまりこだわらない」という特質を持ちます。だから、儒教が入ってきても、文化的学術的にはこれを尊重するのだけど、しょせんは趣味の学芸レベルであり、韓国人ほど骨身に染みて儒教を体現しているわけではない。いわば不勉強なんですよね。大国中国への冊封体制にせよ、「カッコいいからやってます」程度の不真面目さであり、いわば戦後の日本がアメリカナイズした程度の軽い気持ちでしかない。真面目じゃないんですな。だから、韓国のように姓を中国風に変えたりしないし(ベトナムでもそう=グェン(阮)姓が多い)、平気で自分の大将を「天皇」と呼んだりする。中華文明や冊封体制という北アジアの外交常識を全然理解してないし、理解しようという気もない。また理解しなくてもやっていけるだけ離れているのでしょう。

 この太平楽な国民性は、逆に言えばイデオロギーに縛られることもなく、プラグマティックに現実だけを見ることを可能にしたので、江戸時期に西欧顔負けの貨幣経済と、事実上の資本主義システムを作り上げてしまっていたのでしょう。だからこそ明治維新も上手くいったのだと。努力とか勤勉さとか先見の明とか、そういった日本民族の優秀さを称えることはいいんですけど、どっちかというと世界レベルではあんまり優秀じゃなかったり、不真面目だったらこそ出来たって気もします。

 これは強力な反作用やマイナス面もあって、集団プレイは上手なんだけど、一人一人の戦闘能力はそれほど高くない。協調性はあるけど、自主性が弱い。また、あまりにも気にしないので、過去のことをすぐに忘れる。本当は次代のために、なぜ失敗したかをとことん解明し、責任の所在をハッキリさせ、ケジメをとるべき局面でも、ウヤムヤになってしまう。解明しようという欲求に乏しく、善悪についての絶対的基準をあまり持っていない。だから、「もう、いいじゃん」の一言で流れていくところがあります。

 ということで、韓国・朝鮮の人がガンガン日本の非難をするのは、それはもう彼らの体質だということでしょう。中東でアラブとユダヤがドンパチやってたり、インドでイスラムとヒンドゥーが対立したりしているのと同じで、強烈な感情理論みたいなものに突き動かされてしまう。日本側でも、こういった韓国側のクソミソ罵倒に猛烈に反発して罵倒仕返している人達がいますが、そういう人達はむしろ体質的には韓国人に近いんだろうな〜って思います。日本人のメインストリームの感覚では、「もう、いいじゃん」って感じだと思います。そもそもそんなに興味がないという。新しい教科書を作る会が内紛に次ぐ内紛で四分五裂してしまったのもいかにも韓国的ですし、そうやって作った新しい教科書の全国採用率が1%以下だということからも窺われるように思うのですが、どんなもんでしょ。

 日本人というのは、「いいじゃん、別に」の民族で、その精神というかノリというのは、隠れた特徴なんじゃないかと最近思ってきました。これだけでエッセイ一本いくので、また機会をみて書きたいのですが、「いいじゃん」というのは「ええじゃないか」ですよね?明治維新直前に起こった正体不明の民族運動「ええじゃないか」は、その前に約60年周期で起きてきた「お陰参り」の延長にあると言われています。ある日突如として、すべての日常生活をかなぐり捨てて路上に飛び出し、狂ったように踊りながら、略奪や乱交をしながら突き進んでいくという。すごいときには日本の全人口の5分の1が参加しているというとんでもない騒ぎなんだけど正体が分からない。革命でもない、一揆でも反乱でもないのに、およそ世界史的に類例がない(あるのか?)、イベントでいえばオリンピックの数百倍の動員力をもつこの馬鹿騒ぎはなんだったのでしょう。でも、なんか楽しそうですよね。僕も現場にいたら参加しただろうな。日本語で「パーッと!」って言い方がありますが、あのニュアンスなんだろうな。「いいじゃん、もう、別にさあ、それよりパーッといこうぜ、パーッと!」って僕ら言ってるでしょ、忘年会のあとの二次会とかでも。この「パーッと」いって、ナニゴトもなかったようにゼロリセットできちゃうというところが、僕らの潜在的な特徴のような気がします。



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  長くなってきたのでまとめて別紙にしました。



文責:田村




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