今週の1枚(02.03.04)
雑文/”何かをしに行く”日本
また憂鬱な日曜日の夜がやってまいりました。あと数時間でこのエッセイを書かねばなりませぬ。でも、書くネタが思いつかない。昼間にもちょっこっと書いてたのですが、これがもう全然面白くない。そんなこんなでデッドラインに迫ってきました。
ああ、もう、別に原稿料貰ってるわけでも、誰に約束したわけでもないんだから、こんな毎週毎週書かなくてもいいじゃないかという気にもなります。それも結構長文だったりしますし。ちょっと計算してみたら、1回あたり原稿用紙で30〜40枚分くらいあります。前回なんか50枚くらいいってるかも。
でも、この習慣を止めのも怖かったりします。「「やる」と言ったことは「やる」」という姿勢は貴重です。貴重なんだけど、常に守られるわけではない。というか、「言っただけ」みたいなケースの方が多いです。それだけに、なにか一つくらいやり通してないと人間ダメになっちゃいそうで、それが怖いのですね。
前にもどこかで述べたと思いますが、何事かをなそうと思ったとき、もっとも威力を発揮し、もっとも出来る人と出来ない人とを分かつポイントは、いかに自分を機械のように動かしつづけられるかでしょう。早い話がダイエットとか、ジョギングとか。毎朝走ろう!なんて威勢のいいこと言ってたって、なかなか続くものではないです。人間、ほんとに弱いですからね。でもって、モトの木阿弥。痩せない、健康にならない、実力がつかない。でも、これを淡々とやり続けることが出来たら、もう世界が変わるのですよね。
そこまで身に染みてわかってるだけに、なにか一つくらい「やると言ったらやる」「誰に強制されなくても、自分の意志だけでやる」という、なんというのか、意思力の発露みたいなイベントをキープさせておきたいわけです。生きていくためには、心臓が動いているとか、肺で呼吸するとか、そういうことの他にも、こういう"something"が必要のような気がしますし。
さて、何度も言ってますが、こちらにやってきて、早くも8年目になります。これも何度も言ってますが、これまでの期間、「オーストラリアはもういい、日本に帰ろう!」という気になったことは、一度もありません。極端な言い方をすると、「一秒たりとも」そんな気分になったことはないです。
こんなことを言うと、「それだけオーストラリアが住みやすい所なのですね」とおっしゃる方もいるかもしれません。でも、体感的な「住みやすさ」でいえば、いつだって今自分が住んでる所が一番住みやすいと思います。なにしろ勝手がわかってますしね。オーストラリアだって、最初の頃は、メチャクチャ「住みにくい」ですよ。そりゃ言葉はわからん、社会のシステムはわからん、どうやって金を稼いだらいいか見当がつかないという、もう壊滅的に住みにくいです。だから、まあ、住みやすい/にくいで、居場所が決まるものでもないと思いますし、住みやすそうだからオーストラリアに来たわけでもないです。
日本に帰ろうと思わないのも、「日本がイヤで、帰りたくないから」というわけでもありません。日本もヤなところ、ダメなところ一杯ありますけど、オーストラリアだってあります。どこだってあるでしょう。
だから、私個人の一身上のレベルでいえば、そのような一般論としての日豪比較でモノゴトが決まるものでもないです。もっとパーソナルでしょーもない理由でモノゴトが決まったり、進んだりすると思います。例えば、日本に帰りたいと思わないのも、「またイチから生活環境を構築するのが面倒臭いから」ってのも大いにあります。それと、さしあたって日本に帰っても特にやることが見当たらないってのもあります。
そうですね〜、帰ったとしですね〜、何しましょう?という。また弁護士に戻って仕事するのもね〜、うーん、と考え込んでしまいます。逆に、日本でなにか面白そうな絵が描けそうであれば、帰るんじゃないかな。「これをやりたいから日本に居る必要がある」ということで。でも、そのときは「(もと居た場所に)帰る」というよりも、「(何かをしにどっかに)行く」という感覚になると思います。
書いていてふと思ったのですが、日本というのは「何かをしにいく場所」のような気がします。その意味ではアメリカに似てるかもしれないですね。アメリカ、行ったこと無いですけど。
オーストラリアから見ると、日本というのはエキサイティングなところだと思います。ステージみたいなもので、常にテンパってないとならない場所。こう言うと奇異に思われるかもしれませんが、あんまり安らぎに行こうという感じの場所ではないです。
オーストラリアでは、平日の昼間に、自宅で寝転がってビール飲もうが、公園で昼寝してようが、誰も何にも言いません。言わないというよりも、誰も気にしません。気にしないのは、人々が冷淡だからではないです。それがありふれているからであり、スーツ着てビジネス街を歩くのと同じくらい「普通のこと」だからです。公園で寝るどころか、平日のビジネス街を上半身裸で短パン一丁の男性が、アイスクリームをペロペロ舐めながら闊歩していたって別に誰も不審に思わんでしょう。その人が、ランチタイムのジョギングを終えた、某政府高官や某巨大企業のエグゼクティブであったとしても、そーんなに不思議な気がしません。
しかし、なぜか日本ではこれが出来ない。いい年した成年男子が、平日の昼間っから自宅でビール飲んでたり、公園で寝転がってたら、「人生の落伍者」みたいな気分になります。40代のどっかの部長さんが、平日に自宅の付近の公園で、短パン一丁でアイスクリーム舐めるのは、それなりに勇気が必要な気がします。いや、別に、具体的に誰かがそう言うわけではないです。多分誰もそんなこと言わないでしょう。でも、気になっちゃう。何故でしょう?絶えず見えない観客から見られているような感覚。常に誰かから評価されているような感じ。その不断のソコハカとない緊張感が、常に観客の目を意識していなくてはならない何かのステージのような連想を呼ぶのです。
日本で生まれた日本人だから分かるのですが、日本の中で日本人やってるのは、結構大変です。大変じゃないですか?ガイジンやってた方が楽なんじゃないかしら。だって、「人並み」とか「普通」とか目に見えないスタンダードが沢山ありますもんね。スタンダードを外すと疎外感を感じさせられるとか、ヒドイ場合は帰国子女のようにイジメられるとか。これが中々面倒臭いです。誰が決めたわけでもないけど、OLさんだったらブランド物のバッグの一つや二つ用意しなきゃいけないとか。
見えないスタンダード、語られぬ規範。これはいわゆる「法律」ではありません。ただ、広い意味では「法」でしょう。「大自然の掟」みたいな「法」、ある社会を規律する「ルール」。ルールのない社会はありません。どんな社会にだってルールはある。日本にも、オーストラリアにも、ヨーロッパにも、イスラム世界にもルールはあり、アボリジニにも、エスキモーにも、インディアンにもルールはある。マフィアにも、山口組にも、暴走族にもルールはあり、野球にも、茶道にも、ガバティ(インドの球技)にもルールはある。単なる人間の集団が、「社会」に昇格するためにはルールがいる。刑務所の雑居房の中でも、便所掃除は新入りがやるとか、なんらかのルールはある。
なんでそんなメンド臭いものがあるのかというと、その方がイイからです。その方がなにかと便利、なにかと都合がよく、なにかと安心、なにかと面白いからでしょう。「俺はルールなんか嫌いだ」という人でも、全くの無法状態だったら困るでしょう。なぜなら、完全な無法状態だったら、他人を殺すのも、犯すのも、略奪するのも自由なわけで、逆にいえばいつ自分が殺されるかもしれないということです。これはたまらんですよ。いわゆる最も原始的な「法」といわれる「法第三章=殺すなかれ、犯すなかれ、盗むなかれ、最低限このくらいのルールはないと安心して夜も眠れないでしょう。モーゼの十戒、釈迦の五戒。社会のDOSともいうべき、基本的なルール。
実際にはそんな基本的なルールだけではなく、それぞれの文化や宗教が多くのキマリゴトを作ります。「家には土足で入らない」なんてのもルールでしょう。「公衆の場では陰部は隠すこと」「他人の目の前でセックスしない」なんてのもそうでしょう。商売だって、等価交換のルールとか、双方合意しないとダメとか、お金というのは誰が持っていても価値は同じであるとか、そういうものがなかったら成立しないでしょう。
その意味でどんな社会でもルールはあります。完全に気ままに生きていこうというのは「ルール違反」であり、そんなことはどこの社会でも無理です。ひとり日本だけがルールでガンジガラメになっているなっているわけではないです。
ただ、日本の場合面白いのは、ルールなんだかただの偶然なんだかよく分からない曖昧な領域がやたら広いような気がする点です。
例えば、「ブランド物のバッグを持っていなくてはならない」「いま流行ってるTV番組や映画については、せめてタイトルくらいは知らねばならない」とかいうのは、ルールなのか?別にこんなものルールじゃないですよね。でも、それを守らないと、驚かれるとか、軽い蔑みを受けるとか、それなりの不利益なリアクションがあったりするわけで、「遵守しないと不利益な取り扱いを受ける」という意味では厳然たるルールだとも言えるでしょう。そういうのが日本の場合、やたら多いような気がします。
「どうしてそんなルールがあるのか?」と問いかけた場合、大抵のルールはそれに答えます。もちろん理由になってるかどうか怪しいような理由も多いです。「古くからの言い伝えだから」「タタリがあるから」「モーゼがそう言ったから」みたいに。それでも、まあ、一応は言える。「なんでフルチンで公道を歩いちゃダメなの?」といえば、刑法に公然猥褻罪があるとか軽犯罪法があるとかいう以上に、「周囲の人が困惑するから」という理由があります。
だけど、なんでブランド物を持ってないとダメなのか?というと、これは理由がないです。別に持ってないからといって、他人に迷惑をかけるわけではないでしょう。なんで流行りモノを知ってないとならないのか?これも理由がないです。「古くからの言い伝え」ってこともないでしょう。強いて言えば、それで不利益な取り扱いを受けるのは、それがダサいからでしょう。皆が共通して設定しているカッコよさ/悪さの基準があり、そこからハミだすからでしょう。
なんで、いい年したオッサンが、平日パンツ一丁でアイスクリーム食べてたらいけないのか?これも理由が見当たらない。これも、強いていえば、そういう常識はずれの行動を取る人間は、どんな人物なんだかよく分からず周囲の不安心理をかきたてるからでしょう。
なんで、帰国子女がクラスで流暢な英語を喋るとイジメられるのでしょうか?別に誰にも迷惑をかけてないのではないか?いや、これは「迷惑」なのでしょう。そいつに流暢にやられてしまっては、クラスの残りの連中の劣等感を刺激するから、「生意気だ」ということになるのでしょう。
そうですね、段々見えてきたような気がしますね。
日本人には色々なルールがありますが、そのルールを一言でいえば、「皆と同じでなければならない」というルールになるのでしょう。日本人社会の中では、「平均的な日本人」というスタンダードモデルがあり、そのモデルが備えている一般的な知識、美意識、行動様式、能力があり、これから外れると、「同じじゃない」ということになり、「ルール違反」になるという。
ただ、このスタンダードモデルというのは、別に皆で討論して毎年決めているわけでもないです。「あるべき日本人モデル、ヴァージョン87.02が発表になりました」なんてことはない。なんとなく、ある。もう自然発的に、ある。
そして、それがあまりにも自然発生的すぎるから、それはもう「ルール」という感じではないです。
それはもう客観的なドライな事実認識レベルですらあります。
つまり「太陽は東から昇る」という事実のように、「普通の日本人だったら、このくらいは知っており、こういう価値観を持ち、美意識やセンスを有し、この程度の能力で、こういう行動様式を持っているものだ」という。それは「かくあるべき」だからではなく、もうどうしようもなく、「だって、現実にそうじゃん」という事実認識なんでしょうね。だから、そこからハミ出す人間が出てくると、「異常事態」なり、非常に珍しい出来事に遭遇したことになる。だから注目をあつめ、面白がったり、怖がったり、イジメたりするのでしょう。
もちろん、日本人のスタンダードモデルといっても、一定の幅はあります。その幅は昔よりはずっと広がってきたと思います。例えば、「女の子は赤色のものを着て、男の子は黒か紺」みたいな狭いモデルはなくなってきましたし、「25歳までに結婚するのが普通」というのでもないですし、「正業についていない男子は穀潰しの二流市民」という意識も薄らいできています。それはそれだけ社会に生息している人間の種類が増えてきたからでしょう。ルールというよりも「事実認識」なのですから、対象事実が変化してくれば、認識もまた変わってくるのは当然でしょう。
逆にいってしまえば、それも極論を言ってしまえば、日本社会には見えないルールが非常に沢山あるようでいながら、本質的にはそれは全然「ルール」じゃないんじゃないか?「普通、このくらい知ってるもんでしょ?」「普通、そんなことしないでしょ」「普通、そんなこと出来ないでしょ」というのはルールではない、ただの現状認識です。
ルールというのは、社会内部の異質性を前提に出てきます。「この世には男と女があり、それぞれの行動様式は違うし、価値観も違う」という異質性の認識があるから、じゃあお風呂や便所は男女で分けましょうとか、そういうルールがでてくる。「いろんな人間がいて、それらが勝手に動かれたらメチャクチャになるから」こそ、キマリを設定する必要がでてくる。でも、皆が同じであるという前提からは、ルールを作る必要がない。だって、自然に同じように行動するのですから、衝突なんかしないですよね。
オーストラリアの、それもマルチカルチャルなシドニーにいるとよく分かるのですが、どこまでを「人間だったら皆同じ」という同質のものとして考え、どこから「人はそれぞれ」という異質性を前提にしてルールを作るか、そのあたりの構造が非常にわかりやすいのですね。「人間だったら普通こうするでしょ」みたいな部分は、あえてルールを作らないで放置する。いちいち言わない。ホームに電車が入ってくれば誰だって危険なのは分かるから、いちいち「白線の内側に入れ」なんて言わない。
大体多民族社会というのは、「ルール」というものに敏感です。ルールを作る必要が日常的にあるからですし、ルールを作るプロセスも透明で明瞭にしようとします。ルールというのは合理性がイノチですから、その点の検証も怠らずにやる。民主主義というものが、本当に必要に迫られて編み出されてきたものであることがよく分かります。総じていえば、「法」というものに対するセンスがいいです。
ルールは、ルールそれ自体に意味があるのではなく、それを設定し維持するコストと、ルールによって得られるベネフィットを比較考量して、有意義だったら採用するという、極めてプラグマティックなものです。軍用品のように使えなければ意味がなく、使ってなんぼの実用品。床の間に飾っておくものではない。
例えば、シドニーの電車の駅のうち、改札や自動改札になっているのは半数にも満たない。大多数は自動改札でもないし、改札それ自体がなかったりします。だからキセルをしようと思ったら、やり放題だったりします。日本的なセンスだったら許されないような現状がまかりとおってます。でも、こちらではそれが問題になったり議論になったりはしない。なぜか?大体電車を日常的に使うのは都心部や主要駅までの通勤通学だったりしますが、こういったメインターミナルは自動改札になっている。だから、入口か出口かどちらか一つが改札になってたらそれで目的はほぼ達成される。この「ほぼ達成」というのがミソで、完全には無理なんだけど(田舎駅から田舎駅まで乗ってしまえばチケット不要なんだから)、そのくらいのデメリットだったら、全駅改札を設ける人件費と設備費とを比べてみたら微々たるものだろうと。それに、放置しておいても、大体の人はキチンと切符を買うだろうという信頼があります。実際見てたら買ってますものね。広く社会全体をみたら、そんなイチイチ頑張ってキセルしまくってる比率など、そんなに言うほど多くないということです。
ハーバーブリッジの料金所が上り線にしかなく下り線はフリーなのも、M4などの高速道路の料金所が一つしかなくて、ズルをしようと思えば幾らでも下に下りてズルできるのも、同じようなことだと思います(最近作られた道路は、第三セクター式ということもあってセコくなってきてますが)。実際、高速道路で料金所エリアだけ一般道に下るのは、ガソリン代などの燃費と時間、それで免れる料金がわずか200円前後ということから、かえって無駄なんですね。払った方が得。これが、全ての出入口に料金所を設けたら膨大なコストがかかります。それは高速料金にはねかえってきます。高速代が高くなれば、免れようとする人も多くなり、料金所の監視も増やさねばならないからコストがまた上がり、またそれが高速料金に、、、という悪循環になる。だったら最初から低料金して、ほっといても大多数の人が払うようにしておけばよいのではないか、ということです。
ルール/法のセンスというのはそういうことで、「何が何でもルールは完全に守らせないと気持ち悪い」という、日本的でエモーショナルな感情反応を抑えて、「どっちの方が実用的か」ということで、プラグマティックに、カラカラに乾いたドライな考察していく。日本は、すぐにピカピカに磨いて床の間に飾りたがるけど、こっちでは法というのはシャベルやスコップのような実用品ですから、「使ってなんぼ、使えてなんぼ」です。
総じていうと、こちらでは「70%OKだったら、OKにする」という原則があるような気がします。これが最初日本人からしたら許されざるアバウトさに見える。しかし、70%を100%にもっていくためのコストと労力、30%分の利益とをクールに考えて判断してる面はあるのですね。よく例に挙げますけど、こちらのスーパーでモノを買うと、箱と中身が違うとか、部品が足りないとかよくあります。70%くらいしか正確ではない。そのかわり、クーリングオフが発達していて、買ってしばらくだったら、レシートと箱をもっていけば、無条件に返品・返金してくれるのですね。クーリングオフ返品でこうむる企業の損害と、70%を100%にするための品質管理のコストを考えたら、クーリングオフやってた方が得なんだと思います。それに「いつでも返せる」という状況は衝動買いを促し、売上向上にもなるでしょう。
要するにルールとか法律というのものを神格化しない。コストのかかる完全主義という精神傾向にも陥らない。あくまで、実用的に最小費用で最大効率のポイントを考えようとする。そのあたりは、ドライに突き放して考えます。法的センスというのは、ゴリゴリにプラグマティックなものです。妙な感情移入などはしてはいけない。そのかわりザル法みたいな、使えない法律はすぐに問題になり廃止が検討される。
一方では、感情移入すべきところ、いやしくも人間だったらしてはならないこと、すべきことは、不文律として確固としてあったりします。「子供をセックスの対象にしてはならない」という考えは日本以上強烈にあります。いわゆるペドフェリアですが、これをやったらもう全てを失うというくらい厳しい制裁を受ける。あるいは、「困ってる人を助けるのは当然」みたいな不文律。ボランティア人口が3人に一人という高比率であることとか、バスに車椅子の人が乗ってきたら誰でも気軽に手を貸すとか。そこには、妙な照れとか気負いとかはないです。
長々述べてきたのは、こちらの生活感覚でいうと、「およそ人間だったら当然〜」という文脈で行われる部分と、「実用的な法・ルール」という文脈で律せられる領域が、日本に比べればかなり明確になっているということです。前者の「およそ人間だったら」という、人間であることの最大公約数みたいなものですが、これは多民族社会の方がよく浮き上がって見えてくるのだと思います。同一民族社会では、どこまでが人類普遍のもので、どこからがその民族独特のローカルルールなのか、そこらへんがシームレスにつながってますので逆にわかりにくいのでしょう。
こういった社会においては、日本的なスタンダードモデルというものが存在する余地は非常に少ないです。あるのは、ベーシックな人類的なモデルか、あるいはゴリゴリに合理的な法か、ですから。そのどちらにも属さない領域は、それはもう個人の自由です。昼間っからビール飲もうが、寝ころがろうが、短パン一丁でアイス食おうが、裸足で電車に乗ろうが、そんなものは、"none of your business "です。自由である領域は本当に自由であるし、自由でない領域はハッキリと自由ではない。タテマエでは自由といいながらも、本当はちっとも自由ではないという場合は、無いことはないけど、少ない。
だからといって、オーストラリアの社会の方が合理的で進んでいて、日本が遅れているというものでもないと思います。そんなことを言いたいのではないです。
同質社会であれば、大なり小なり日本的な様相になると思います。同質性が強ければ強いほど、ほっといても皆同じようなパターンで行動するので、ルールや法を明確に定める必要性も薄らぎますし、そういったことへの関心も希薄になるでしょう。同じオーストラリアでも、多民族が顕著なシドニーと同質性の強い田舎とでは違ってます。
ここでは、日本社会においては、その社会の同質性に基づいて、現状認識としてのスタンダード(「普通、皆そうじゃん」という認識)があり、それは明確に意識されたルールではないのだけど、生活、センス、価値観、行動様式全てに及ぶという意味でルール以上にはるかに広範で、、ある意味ではルール以上に厳しかったりするということを言ってるだけです。
ここで話を一気に戻します。日本は「何かをしに行く場所」であり、テンパッてないとならないステージのような所だという話でした。
オーストラリアが陸地だとしたら、日本は海ですね。絶えず、手足動かして泳いでないと沈んでしまいそう。皆が無意識的に設定しているスタンダードに沿うように、絶えず気をつかって、動いてないと列からはみ出してしまう。
だからこそ、日本に行こうというときは、海に入るような覚悟、、といったら大袈裟ですが、それなりの心の準備と目論見が必要な気がします。こちらの生活が長くなった日本人の女性が日本に帰るとき、「これじゃ日本に帰れない」とよく言います。洋服とか持ち物ですね。オーストラリアのセンス悪悪の服じゃ、日本の街は歩けないという。まさに、「海に入る」ような準備が必要だったりします。
それだけに、「おし、やったろうじゃん」という攻撃的なモードのときには、日本はいいです。ですので、日本に「帰る」のではなく、「行く」という感じ、もっと極端に言えば、「攻め入る」という感じです。なんつっても、公園でアイス食ってるだけで目立てるんですからね、目立ちたい人にはいいです。
なんだかワケわからんスタンダードを押し付けられ、頭を押さえつけられ、自分が自分として行動することを事実上許されず、そのうちに自分が自分であることすら忘れてしまいそうな環境、、、というのは、ある立場から見たら、これ以上屈辱的なことなど考えられないくらい最悪の環境でしょう。自分が自分であることを否定されるという。ある種の絶対的な暴力。
だからこそ、「ファイトが湧く」という言い方もできるでしょう。逆説的ですけど、ちょっと違うことをするだけで猛烈に浮くのだとしたら、浮きまくってることで、ものすごく自己確認ができますよね。「俺は俺じゃい、文句あっか」という。なんというか、テンパってる快感みたいなものがあるとしたら、日本ではそれが十二分に味わえると思います。
あるいは、そのスタンダードに徹底的に合わせる快楽ってのもあると思います。
メンド臭いっちゃメンド臭いのですが、これはこれで楽だと思うのですね。自分で考えなくていいのですから。全部自分で決めていいよという自由は、逆に言えば全部自分で決めなさいということで、ときとして疲れるのですね。その意味では、全員で音楽に合わせてダンスを踊ってるような、マスゲームをやってるような社会というのは、楽です。頭が休まる。そして、こまごまと決められたステップを一糸乱れず踏んでいくというスポーツ的な快楽もあります。
スタンダードなんて窮屈なようだけど、守るポイントだけビシバシ守っておけば、それも高いレベルでクリアしておけば、社会の門は全て自分に向かって開かれるわけですから、こんな簡単なことはないとも言えます。とりあえずイケてるというファッションをしておけば、一応OKは出るのですから。どんなに不細工だろうが、どんなに身体のラインが崩れてようが、どんなに没個性だろうが、それでOKというのは楽ですよ。スタンダードがない自由な社会だったら、不細工な奴は、なにか自分らしさを必死に考えて演出しないことには、死ぬまで不細工なままですからね。自由にはそういう残酷さが常に伴います。
それに、そう割り切って、見切ってしまえば、スタンダードなんかちょろいですからね。自分の自我を曲げることなく、小手先の技術としてスタンダードをクリアすることも可能ですもんね。スタンダードから外れたときには、外れたなりの「世間的対処法」というものがあり、「外れているけど、こう言っておけばOK」という裏技も多々あります。「処世術」として割り切ってしまえば、なにほどのこともない。裸足で歩いていたって、「いやあ、ちょっと恥ずかしいんですけど、健康にいいって聞いたもので」と言っておけば、つまり「本当はあなたとスタンダードを共通にしてますよ」という信号を発信しておけば、それでいいですからね。夜の街をパジャマにカーディガンで歩いていたら浮きますが、コンビニ袋一枚持ってたら、「近所の人」という信号を発してるわけで、もう浮かなくなるという。そんなもん、ただのテクニック。
ちなみにテクニックで言えば、オーストラリア人や西欧人を説得するときの技法は、いかにそれが人類普遍なことか、あるいはルールであるのかを言えばよい。日本人相手に説得するときは、いかにミクロに、デテールに渡ってマイクロ波を同調させるか。「生活感覚の同調」が共感を呼び、理解を促す。歌詞でも、「父よ、息子よ、神よ、自然よ〜」という普遍的な歌はどっちかというと洋楽系で、「河原の土手」「公衆電話ボックス」「駅の改札」とか、ミクロな生活感覚の同調にフックを求めるのが邦楽系。だから、そこはそれなりにクリアの方法というのがあるのだと思います。早い話が、このエッセイだって、あちらこちらに「生活感覚の共有」をバラ撒いてます。比喩のもっていきかた一つとってもそうです。でも、英文で、オージー相手に書くのだったら、違うレトリックを使うでしょう。
というわけで日本というのは、ポンと帰って、ポンと馴染めるものではないです。それなりに準備と目論見をもって、攻め入るところだという気がします。オーストラリアは逆ですね。あんまりあれこれ考えて行くところじゃない。ポンと行きゃあいいんです。
そういえば日本にも、ここ2年半近く帰ってないですが、最初の頃、日本に帰省したときはポンと帰ってしまって寂しい思いをしましたもんね。のんびり実家で骨休み、、といっても、マンションの狭苦しい一室で昼間からビール飲んでたら、気分がダウナーになることおびただしい。一週間もしたら、「日本の楽しみ方」を思い出してきました。つまりは、せっせと予定を詰め込んで、駆け足で飲み歩いたり忙しげに過ごしているといいのですね。ランナーズハイのような妙な高揚感が出てきます。オーストラリアではついぞ味わったことないような、スパイ映画の主人公になったような、テンパってるハイな快感。忘れてましたね、こういう快感。
今度日本に帰るときも、こういう快感を得るために準備してから帰るでしょう。しかしながら、また家を2週間ほど留守にして、多大なお金を投じてまで得たいというほどの快感ではないです、ハッキリいって。
だから、ホリデーに行くデスティネーション(目的地)ではないです、JAPANは。家族の顔を見に行くくらいですね。どっちかというと、ビジネストリップしたい国ですね。今日は福岡、明日は新潟みたいに、短時間に駆け抜けていくにはいいかな、と。ただ、当面、ビジネスの話なんかないですけどね。誰かいませんかね、シドニーで暮らしたり、語学留学するんだったら、「人並」以上には役に立てますよ(^^*)。それにかこつけて、ビジネストリップできますから。
今のところ日本に「攻め入る」気はないのですが、攻め入ろうと思って頭を絞ればいろいろあるような気もします。さきほど述べた「スタンダード」ですけど、これはルールではなく、現状認識に他ならないのだとしたら、現状が変われば自然に変わる。だからこの先どっちに変わるかですね。これから10年、日本人のスタンダードが変わっていく方向を予測し、そこでのスタンダードに欠かせない物を売れば売れるということですよね。
早い話が英語。これまでは「日本人だったら英語なんか出来なくて当たり前」だったですけど、「部長になるならTOEIC800点」みたいに、「出来て当たり前」にシフトしつつあります。まあ、TOEIC800点ぽっちで実戦にどれだけ役に立つか非常に疑問ですけど、英語教育産業もこれまでみたいな趣味的・自己満足的なものから、実践的、使えてなんぼの世界に入っていくように思います。「ガイジンの彼と楽しくおしゃべり」ではなく、電話番号やアドレスを言われて迅速正確に書き取る能力(これが中々出来ない)、電話でクレジットカードの番号を伝えて購入するときの会話とかね(カードの”有効期限”を英語でなんていうか?とか)。と同時に、現地にいる人間だったら誰でも自然に弁えているノウハウ=つまり、「いかに乏しい英語力で目的を達するかのノウハウ」は、全然日本では未開発だと思います(相手の言うことを聞き取るよりも、自分で喋って相手にイエス・ノーを言わせた方が確実に伝達できるとか)。
同時に、スタンダードについては日本人誰しも感じてると思いますが、それが好きな日本人もまた居ないと思います。だって、スタンダードそのまんまな人なんか居るわけないんだから。だから、「出来るだけ被害を少なくしつつ」」「そのスタンダードから離れた気分にさせ、自我奪回が出来たかのような気分にさせる」商品が開発されれば、それはそれで売れるという気がします。
日本ではまだそんなに居ませんが、イメージカウンセラーとか、スピンドクター。いかに、対世間における自分の虚像を美しく描くか、そのためのアドバイザーです。スタンダードが強烈な日本社会であればこそ、こういうサービス業がもっと流行ってもいいような気がします。総合的なスタイリストですね。バブル時代、ホイチョイプロダクションが「見栄講座」というのをやってましたが、あそこまでスノッブではなく、もっと地に足が着いた、嫌味にカッコ良すぎない「見栄ではなく、自分に合ったスタイル」を言ってあげる仕事ですね。「ブラウスの襟はもっと小さ目の方が知的に見える」とかさ、「喋るときに”しぃ〜”と伸ばすのを止めなさい。でも同僚と喋るときは仲間意識を強調するために意識的に伸ばしなさい」「1日に3回くらい方言丸出しで喋りなさい、その方が親しみがもたれる」とかね。一回30分3000円くらいの占い料くらいの値段設定をすれば売れると思います。それが売れる以上、もっと美味しい商売、「アドバイザー養成講座」というコースを作っちゃうのですね。これは美味しいでしょうねえ。3ヶ月コースで50万くらいでも払う人はいると思いますよ。
誰でも言いますように、大きく時代は変わっていますので、これからもどんどん新しいビジネスや仕事が生まれていくでしょう。その意味では、日本には攻め込むべき余地はたくさんあるような気がします。これがオーストラリアではですね、うーん、あんまりないんですよね。カッコつけなくて、実用本位で、のんびりしてる人って、本当に物を売りつけにくいですからね。「別に要らんじゃん」といわれてしまって終わりだという。その意味では、オーストラリアでビジネス的に成功しようと思うと、日本以上に大変なんだと思います。
写真・文/田村
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