今週の1枚(02.02.25)
雑文/「自己実現」と心の栄養バランス
先日、日本のAERAという雑誌を読んでいたら、巻頭記事に「20代が追う夢 『自己実現』」という記事が載っていました(2001年12月17日号)。記事の要旨は、大失業時代ゆえに就職にあたって「自分らしさ」にこだわる二十代の団塊ジュニア達の動向と、時にはそれが行き過ぎて強迫観念にまで高まってしまっている状況についてのレポートでありました。
これを読んで、僕も「ふむ」と思ってしまいました。「ふむ」の内容を今回は書きます。
このAERAの記事を一読していくうちに、二点ほど微かな違和感を覚えました。
ひとつは、「これって別に二十代とか団塊ジュニアとかに限ったことではないだろう」ということです。
「自己実現」という言葉を使うかどうかは別として、同じような志向性は、三十代以上でもありますし、また今に始まったことではない。ちょっと前に流行った「熟年離婚」なんてのも、ある意味では「自己実現」のひとつの表現であると思いますし、もう何十年も前から言われているいわゆる「脱サラ」なんてのもそうだと思います。バンドやったり、詩や小説書いたりしながら極貧生活送っているのは古今東西芸術家のタマゴ達の伝統的姿でもありますし、江戸期以前で宮仕えが嫌で浪人になった侍はママいたりします。だから、全然珍しい話ではないのではないか。僕が弁護士辞めてオーストラリアに来たってのも自己実現っちゃ自己実現ですからね。自己実現は、人間のある種本能的な欲求ですから、誰だってしたいと思うんじゃなかろか、と。
第二の違和感は、記事のトーンが、「自己実現という青い鳥を求めて右往左往している、現実の生活の厳しさも知らない甘ちゃん達」という方向に微妙にシフトしているように感じられたことです。早い話が、「親のスネかじって、何甘ったれたこと言ってるの?」という感じですね。
確かにそういう面はあるんでしょうね。「自己実現」って、自分で言うには、かーなりこっ恥ずかしい言葉ですからね。誰もが認める実績を積んで、さらに事をなすにあたって無茶苦茶なリスクをドーンとひっかぶってる人が、ちょっと照れくさそうに、「いや、ま、カッコつけていえば自己実現とかいうところなんでしょうけどね、まあ酔狂というか道楽ですよ、ははは」と言う分には絵になるけど、ろくすっぽ自立もしてないようなそこらへんのガキが、黄色いクチバシで「自己実現」なんかさえずってもサマにならない、説得力がないってのはあります。キビシー現実からの逃避の言い訳としての自己実現。
失業時代で確かな寄る辺もない昨今、それでも差し当って食うには困らないという豊かな環境においては、「自己実現」という言葉が錦のミハタと化し、一人歩きし始める傾向はあるのでしょう。「本当に自分の納得する生き方を」というのは、レベルが高ければガンジーやマザーテレサのような凄絶な生き様にもなるけど、レベルが低ければ「あれもイヤ、これもイヤ、しんどいのイヤ、カッコ悪いのイヤ」という単なるワガママでしかない場合もあるでしょう。この記事を書かれた記者さんが、こういった傾向に軽い苛立ちを感じられても不思議ではないです。怠け者の自己弁護としての自己実現。
ただですね、老いも若きも自己実現をしたいと思う気持に偽りはないと思います。若い人が自己実現と口走ってる光景には、こういった甘ったれた部分も多分に含まれているとは思いますが、そうであったとしても、それなりに真摯で純真な部分もあると思います。どこまでが真摯な部分で、なにが甘えた部分なのか、そしてその甘えの本質はなんなのか、その点の切り込みが曖昧だったので、なにやら自己実現を求める若者がなべて甘いかのような印象を受けました。「うーん、まあ、わかるんだけど、そう一括りに言わんでも、、、」という感じです。記者さんが感じておられる、軽い苛立ちみたいなものはわかるのですが、その苛立ちの本質が明確にされていないことへの違和感ですね。
「自己実現」--かなり素敵で魅力的な言葉です。
この四字熟語、よーく考えると何を意味するのか今ひとつ不明なんですが、妙に人を引きつける磁力があります。
僕にとっても、昔は結構なキーワードとして活躍してくれました。最初に出会ったのは、なんと憲法の教科書でありました。「表現の自由はなぜ重要か」というくだりで出てきたのですが、「ほお、そんな言葉があるんか」と思ったものでした。その時期は、まあ、受験技術のひとつとして、「こういうフレーズを使うと答案を書き易い」という程度の使い方でしたが、その後社会に出て、異業種交流など種々の業種の人とつきあったり、遊んだり、語ったりするときに、「自己実現」はキーワードとして重宝しました。
今、こうしてオーストラリアでボヨヨンと暮らしていますと、自己実現という言葉は、昔ほどの神がかった威力を発揮しなくなっています。これはオーストラリアにいるからというよりは、生活環境でしょう。日々の生活から仕事から全部自分で考えて全部自分で実行しておりますと、自分の周囲の全てのモノゴトが自己実現ですから、今更言わなくてもいい、という。もう息吸っても吐いても全部自己実現っちゃ自己実現ですから。そうなってくると、後でもチラッと述べますが、「実現するのは簡単なんだよ、実現した自己が貧弱だってことが問題なんだよ」って気分になってきます。
でも、日本で仕事してるときは、あるいはこちらでもどこかの会社に入ってたりするならば、やはり「自己実現」は、なにかを守るための「呪文」として機能しつづけていたと思います。
この問題(ってほど”問題”ではないですけど)が微妙に難しいのは、ひとつの視点で一刀両断的に言い切れない点にあると思います。それなりに説得的な価値観がいくつもあって、一つの見方が他を排斥するというものではなく、どれもがそれぞれに正しく、それら相互の健全なバランスを捜すという。
厳しい現実に直面するのを避けて、ちょっとしんどいとか、思い通りいかないだけで逃げてばかりいたら、それはアカンでしょうし、その「逃げ」の大義名分として「自己実現」を使っても全然説得力がない。ましてや自分が唱える魔法の呪文に、自分が縛られてしまっては本末転倒というか、哀れでさえあります。
しかし、そうかといって、「シンドきゃそれでエラいんか?それでええんか?」というと、そうとばかりも言えないと思います。「厳しい現実に直面」とか言いながら、その現実に飲み込まれ、過剰適応するうちに、段々と自我が消滅していってしまうのも良くないでしょう。厳しい環境が人を鍛えるのも事実でしょう。しかし、厳しい環境が人を磨耗させるのも事実です。たとえば職場ぐるみで不正が行われていたとして、内部でそれに異を唱える者は周囲から浮き上がったりします。「青いね」「若いね」とか揶揄され、「生きていくってのはそんなキレイゴトじゃないんだよ」とお説教をされたり。
昨今話題になっている雪印の不正問題にしても、お役所の公金浪費にしても、ああいった歪みは程度の差こそあれ、どこでも見られることでしょう。内部において、「それはおかしい」って感じている人も沢山おられると思います。でも、「そんなキレイゴトだけでは世の中渡ってられないよ」的なムードに押しつぶされてしまう。もちろんキレイゴトだけでは渡っていけない部分もあるでしょうけど、キレイゴトを為さねば渡っていけないこともある。歪んだ社会にどっぷり浸かって、生活のために理想も何も投げ出して、斜に構えて生きていくのはある種イージーなことです。みんなが皆、そんなイージーさに浸っていたら社会は自浄能力を失っておかしくなっちゃうし、現におかしくなってます。
若い人の自己実現や理想を揶揄する人々も、じゃあそれほど人間的にレベルが上なのか?というと、必ずしもそうとも言えないでしょう。若い人が言い訳として「自己実現」を持ち出してくるのと同じように、現実に悪慣れして、理想もなにも放棄してしまった人が、言い訳として「厳しい現実」を持ち出しているという場面も往々にしてあると思います。モラル的に低下することが「大人になる」ってことの内容でもないでしょう。
はたまた、高度成長時代に「大企業に就職すればこれで一生安泰」とばかりに自分の人生を深く考えてこなかった人々が、寄る辺なき失業時代に最終的にモノサシになるのは自分の価値観しかないと思う人々よりもエラいのか?というと、そうとも言えないでしょう。より真剣に人生に向き合っていると言えなくもないです。
自己実現は誰だってしたい。
しかし、マズローの欲求五段階説がいうように、1)生理的欲求、2)安全の欲求、3)親和の欲求(他者と関わりたい)、4)自我欲求(他者に認知されたい)、5)自己実現/自己認知の欲求が芽生えるという具合に、人の欲求は階段式になっているのでしょう。今、自己実現という最終レベルでの欲求不満を感じている人だって、いざなにか起きて、食料が不足し、安全が脅かされれば、そんな観念的な欲求は影をひそめるでしょう。圧倒的な空腹に襲われれば誰だってまずメシを食いたいと思うし、それしか考えられなくなるでしょう。どうしようもない物資不足に陥れば、その物が欲しくて欲しくてたまらないでしょう。
これは人間という生き物が、生存していくために先天的にインプットされたプライオリティなのでしょう。パソコンでいえば、BIOS設定とか、コンフィギュレーションみたいなもの。第2欲求まで満たされた人は第3欲求を感じ、第4欲求まで満たされた人が第5欲求を感じるだけのことで、だからといって、第5欲求を感じるひとがより「甘ったれてる」わけではないと思います。自己実現は誰だってしたいけど、たまたま置かれた環境がそこまでいってるかどうかなのでしょう。
そして、その欲求のレベルが上昇していくことは、「際限のない欲張り」として一概に非難したものではなく、むしろ良いことだ思います。なぜなら、生理欲だけのレベルで終始していたら、「食えりゃいいんだ食えりゃ」だけの世界で、文化もヘチマもないでしょう。ある程度ベーシックな部分の飢餓が満たされないと、人は落ち着けないし、優しくなれない。だから、高度な文化も社会も築けない。飢餓が残っている間は、やっぱりガツガツしてくるし、自分さえ満たされればそれでいいんだ状態になりがちですし、自分一身の利害を超えて社会がより公正で豊かであれとまでは気が廻らない。
その意味では、生理・安全欲求=金がたくさん欲しい(より高給へ)、社会認知欲求=人に誉められたい(より有名企業へ)という就職動機よりも、自分が自分であるためにという就職動機は、それだけより社会が成熟した証でもあり、それだけとってみれば、喜ぶべきことでこそあれ、悲しむべきことではないと思います。
余談ですが、マズローは欲求5段階と言ったそうですが、本当はまだ第6段階も、第7段階もあると思います。自己実現を果たしたあと人は何を欲するのかというと、僕も詰めて考えたわけではありませんが、それは自分と同じように他人も幸せになって欲しいと思う欲求かもしれません、つまりは公共心、公徳心のようなものなのかもしれません。そう思ってみると、日本人の全員が日本の将来を真剣に考えて一票を投じているわけではなく、それどころか半分くらいしか投票せず、その投票も自分のところに補助金を廻してくれるためとか、賄賂をもらったとか、しょーもない義理とかでやってたりする現状は、まだまだ「飢えている」のだと思います。
ところで、生理的欲求のろくすっぽ満たされなかった昔の日本の方が、人々の公徳心は深かったと言います。あるいは貧しい発展途上国の方が、むしろ豊かな人情に溢れているといいます。これってマズローの段階説に矛盾してるのではないか?という指摘をされる方もいるでしょう。非常に鋭い指摘ですよね。でもって、ここが難しいところだと思います。
ここは色々な見方が出来ると思いますが、一つには、昔の日本と言えども、また発展途上国といえども、そうそう絶対的に飢えてはいない、少なくともそんな時ばっかりではなかったということです。今から思えば、昔の人の食事は粗末だったかもしれないけど、それでも生きていけるだけの食料はあった(からこそ子孫の僕らが生きてるわけですし)。当時の感覚でいえば、今の僕らと同じくらい心理的には満足してたかもしれないのですね。物欲でも、最初からテレビなんか無いんだってことになれば欲しいとは思いませんからね。今と比べてしまえば、すごい貧しいように思いがちですが、飢餓なんか主観的なものですから、本人が満たされたと思えばそれで満たされたのでしょう。また、昔でも、本当に飢饉になったり騒乱になったら、キッチリ修羅場は出現してますし。
第二に、ベーシックな欲求が適度に満たされず、且つ適度に満たされているという状況は、結構幸福なんじゃないか?ということです。まったく満たされなかったら本当に修羅場になりますが、過度に満たされているよりは、適度に飢えていたほうが満たされたときの幸福感は大きいと思います。つまり飽食のような状態になっちゃうと、もうよほどのことでは食べる快感と幸福は訪れてこないから、また別の欲求を捜して名誉欲に走ったりしますが、適度に飢えていたらそこである程度満足が得られますから、それ以上の欲求に走りにくいという面はあると思います。
第三に、第二と関連しますが、ベーシックなところで生活していると、あんまり自我が肥大化しないんじゃないか。また、封建社会における庶民というのは、セルフエスティームがきっちり抑圧されてますから、あんまり「俺が俺が」という感じにならず、適度につつましく、秩序だってくる。それが豊かになってきて、欲求水準があがるにしたがって、慎ましくなくなり、段々統制しにくくなるのだと思います。食欲だったら、胃袋という物理的限界がありますから、どんなに肥大してもしれてますが、名誉欲とかになってくると際限がありませんからね。そして、第6段階における公徳心というのは、自我肥大の段階を超えたところで出てくる感情であり、自我が痩せてるからこそ出来る他者との協調とは、自ずとレベルが違うのではないかということです。
こうツラツラ書いていて、いきなり先の方にある結論がポンと浮かんでしまったのですが、結局アレですね、豊か過ぎてしまわない方がいいんですよね、でも豊か過ぎるくらい豊かになった方がいんですよね。うん、そういうことなんだなあ、、、と一人で納得してても始まらないので、そう思った過程を簡単に走り書きしておきます。
まず、マズローの欲求五段階は、これはキチンと満たされた方がいいです。ちゃんとゴハンも食べられて、過度に脅えることもなく、愛し愛され、それなりにレスペクトを受け、自己実現もそれなりに果たした、、という環境になった方がいい。これはもうそうなった方がいい。そうなれば人間柔和になるでしょうし、より高度なものに向かうことが出来るし、より他者への思いやりは深まり、素晴らしい社会を作ろうと思うでしょう。そのどこかの欲求過程でひっかっかって、飢餓感を覚えているうちは、やっぱりそこで足踏みしちゃって餓鬼亡者になっちゃうでしょうしね。その意味ではもっともっと豊かになった方がいい。
でも、豊か過ぎない方がいい。何故か。豊か過ぎると満足感が得られない、幸福感が得られないからです。最初から食べ物が豊富にあり、有り余るほど物があるのは、ある種不幸なことです。飢餓感がなくなる。飢餓感なきところに充足感もない。「五段階が満たされる」というのは、5つの段階でそれぞれに適度な飢餓があり、その充足があるという意味で、最初から全てが満たされているということではないです。
人間は欲が深いようでいながら、意外と簡単なことでハッピーになれると思います。幸福になるためには、飢餓という器があり、それが満たされればいい。その器の大きさは人それぞれでありながら、別に思ってるほど大きなものではないのかもしれない。適当に空腹でありつつ、でも満腹にもなり、脅えているけど安らぎも得られ、寂しさを感じつつも愛する人がいて、バカされることもあるが尊敬されることもあり、なかなか思うようにいかないけど「やったぜ」というときもある、、、という具合に、それぞれにちょっとづつ飢餓があり、そして満たされるということをしていけば、ハッピーの総量に達するような気もします。一種の「心の栄養バランス」みたいなものです。
それが最初から飽和状態だったら飢餓もないからハッピーの総量が減ってきてしまう。5段階/5種の欲求があるとしたら、うち3種まで最初から飽和してたら、残りの二つでハッピーを獲得しなければならなくなってしまう。これは大変です。なかなか難しいと思います。古来歴史に出てくる王様なんか、天下をとったあとは、美食に飽きるだろうし、周囲はおべんちゃらばっかり言ってるだろうし、けっこう飽和しまくってツラかったんじゃないかと思います。そんで何をするかというと、もうピラミッド作ったり、巨大なお墓つくったり、そうまでしなければ満たされなくなってくるのではないか。
そこで冒頭のAERAの記事に戻るのですけど、「豊かな日本」を前提にしてしまった今の若い人(に限らず日本人全員だと思うけど)の場合、もう食物や物で獲得できるハッピー度というのは昔に比べてぐっと減ってきてるんじゃないかと。だから、他者と関わりたい欲求(友達作りとか)、自己実現とかで満足を得なければいけないからシンドイのではないか、と。
で、やっぱりそれって心の栄養バランスが悪いと思うわけです。
やはり、自分の力でメシ食ってという第一段階から、テメーの力でやっていった方がいいと思うのですね。「金が無い→食料がない→ひもじい」という原始的な体験は、やっぱりした方がいい。これ、思うのですけど、欲求段階が低いものほど、充足の形がクッキリ見えやすく、体感し易いんですね。もう生理欲求なんかダイレクトですからね。満足度高いし、満足するまでの過程も比較的容易。これが、友達とか、自己実現とか、社会的認知とかになってくると、欲求が満たされたかどうかよく分からんですもんね。時間もかかるし。
「現実の厳しさ」というのも、かいつまんで言えば、『働かないと金がないから飢えて死んじゃう』ということだと思うのですね。これをやっぱりうっすらとでもいいから体感してたら、生きている実感はすごい増すと思うのです。それに、第一から第四までの欲求を満たすために努力をなすことは、そのまま自己実現になるとも思うのですね。自分で必死こいて働いてお金を得て、それで今ゴハンを食べてますってことになれば、目の前にあるゴハンは、自分の能力と努力の結晶としてあるわけだし、一口一口の美味しさはまさに自己実現の味になるんだろうと思います。
そういえば僕も受験やってるときはバイト君でして、ビンボーでした。タバコは一日1箱と決めてましたから、あまり午前中の早い時間帯に吸いすぎて夜に哀しくならないように、タバコに「○時用」とか番号打ってましたもんね。銭湯いくのも財布と相談してましたしね。まあ、それほど大したことではないにせよ、「ビンボーな受験生」だったわけですけど、その間不幸だったか?というと、これが全然。過ぎたから言えるって部分もあるのでしょうが、あんな楽しかった時期はそうそう無いよ、と。今書いてて思ったけど、あれ、ビンボーだったから良かったんですよね。勉強が進まず落ち込むようなときでも、晩飯に近所の定食屋さんで、「今日は奮発してオデン一皿つけよう」なんてことで他愛なくハッピーになってましたからね。
オーストラリアに来てからも、右も左もわからず、英語も通じないで泣きそうになりながらやってた初期の頃の方がハッピー度高かったですもんね。必死に喋ってテイクアウェイをゲット出来たというだけで、「おっしゃあ、食い物じゃあ」みたいな感じで、原始的にハッピーでしたもんね。大体思うんだけど、ビンボーな状況の方が、人は原始的に元気だと思いますよ。
レジャーだって、擬似的にビンボーになったりしてるじゃないですか。キャンプとか。キャンプとかアウトドアとかカッコよく言うけど、要するに野宿でしょ。ホームレスでしょ。薪を拾って火を起こしたり、川までいって水汲んできたり、わざわざ御苦労なことするわけです。言うならば擬似的にビンボーになってるわけですが、ああいう泥臭いことをすると人間って結構ハッピーになるのですね。コゲたカレーが何故か美味いという。
何度も例にあげてますけど、お寺なんかでも裏に畑を持っていて自分で耕したりしますし。高度に観念的、哲学的なことをやってる人ほど、土臭いことをやった方がいいんでしょうね。こういう食い物を作るとか、獲るとか、極端にベーシックなことをやってると、人間というのは文字通り地に足がついてきてバランスが良くなってくるのかもしれません。ちなみに、皇居にも田んぼや畑があるそうですな。
「オーストラリアに来ると面白いですよ、人生と世の中が多元的に広がって、より充足しますよ」というのが、このホームページの趣旨ありますが、なんでそうなるの?というと、心の栄養バランスが良くなるんだと思います。生理的欲求(食べ物を買うとか、美味しい物を見つけるとか)から、基本的な安全欲求(治安とか、安らげる居場所を見つけるとか)、他者との関わりでの喜びとか(タドタドしい英語で交流できた心の温もりとか)、段々自分が成長していく喜びとか、人間がもってる心の五大栄養素みたいなものがバランスよく摂取できるんじゃないか。
AERAの記事でいう団塊ジュニアの人が、いまワーホリできてたりしますが、日本で飽和してた諸要素が、ここでは絶対的な飢餓として感じられるでしょう。なんたって、まず「住むところがない」「知り合いなんか一人もいない」「お金が無い」「物も無い」という状況ですものね。で、すごいシンドくて、泣きながら修行してるのか?というと、結構爽快に頑張れたり、ハッピーになれたりしてますもんね。
自己実現について、他にも思うことを幾つか。
一旦社会に入って仕事してから、自己実現を考えるのは基本的にイイコトだと思います。少なくとも社会に入る前の就職時点で考えるよりも。なぜなら仕事した方が、それもどっぷり真正面から正社員としてやった方が、色々な社会の局面に出食わしますし、色んな物を見ることができます。要するに考える材料が増えるし、より具体的に、より正確になります。そのなかで、自分は何ができるのか、自分は何をしたいのかを考えた方が実りが大きいからです。
ちょっと前のこの駄文でも述べましたけど、人は自分が思ってるほど社会のことを知らないし、自分のことも知らない。ほんの断片やイメージだけで分かったと思ってるだけでしょう。そんな貧しい情報で、「何がしたいのか?」なんて考えたって、そうそう思い浮かぶものでもないと思います。
というか、「何がしたいか」というのは、以前にも述べました「天から神殿に降ってくる」ようなもので、データー集めてどうってものではないと思います。現場に出たら、それが降って来る場面に出くわす確率が高くなる。例えば、自分の作った料理を楽しみして来てくれるお客さんの顔を見て得られる充足感を感じて、人は料理人になったりするんのでしょう。「手に職をつけておくと何かと有利だから」だけではないでしょう。人(自分)をして本気で衝き動かすものは、データーでも情報でもなく、「感動」しかないと思います。富士山の魅力、感動を得たかったら、データー集めて本を読んでないで、とっとと登ったほうが早いんじゃないの?ということです。
語学学校のサポートをした方と、どうして語学留学しようと思ったのかという動機についてお話する機会がありました。その方の場合、「かつて海外旅行したときに、見知らぬ人にすごくお世話になった、でも英語がうまく喋れないから十分にお礼が言えなかった。それはもうすごい情けなかったし、人間として当然なすべきことが出来ないのは本当にダメだなあと思った」と言っておられました。こういう人って、「なにか英語を使った仕事をしたくて」という抽象的な動機の人よりも、動機が人間的に深い分だけ、やっぱり英語は上手くなるのが早いと思います。
だから、とにかく現場に入って、いろんなものを貪欲に摂取して、喜怒哀楽も山ほど経験してから考えた方がいいんじゃないかと思います。
と同時に、日常の激務のものすごい情報量に押し流されそうになりながら、いろいろ感動を得ながらも、しかし、尚も踏みとどまって、「俺は本当は何がやりたかったんだ?」とさらに突き詰めて考えるときの「自己実現」は、それはもう自分の人生に関する真摯な問いかけであるわけで、非常に重要だと思います。
ただ、基本的に「就職で自己実現」「自己実現のための就職」というのは100%は無理というか、虫が良すぎるでしょう。本当に100%自分の思うとおりにやりたかったら、自分でゼロからやるしかないでしょう。どっちかといえば、社長やオーナーの自己実現を手伝っている、その対価としてお金を貰っているのが、より正確なところでしょう。それがたまたま自分のやりたいことに合致していればラッキーという程度だと思います。
あと自己実現ですけど、実現すべき「自己」が貧弱だったら、悲しいんですよね。実現すればするほど、「こんなもんなの、俺って?」ってますます悲しくなるという。
バンドを作って自己実現とかいって、さあ、オリジナル曲だ、作曲だといった時点で、はて、そうまでしてまで歌いたいことなんか今の自分にあるんだろうか?とか、ブチ当ったりするんですよね。「どうしてもこの音を鳴らさねばならないんだ」という確固とした欲求があるのかどうか。
本当に問題なのは、どうやって実現するかということよりも、実現すべき自己を豊かにすることだと思います。それが溢れんばかりに豊富な人は、もう敢えて「実現」とか言わなくなって、もうタダズマイだけで、存在するだけで自己実現になっちゃってたりすると思います。就職について言えば、自己を実現するためにするのではなく、後々実現すべきである自己を豊かにするためにするくらいに考えておいた方がいいのかもしれません。
写真・文/田村
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