今週の1枚(02.02.18)
雑文/頭が良くなる方法
オーストラリアの近況を先週に挟んで、能力開発シリーズその2です。なんでこんな話をしてるのか自分でもよく分からんのですが、ま、成り行きということで。
今回はズバリ頭が良くなる方法です。
わはは、すごいタイトルですね。しかし、頭が良いと何かと都合いいですからね〜。僕も昔は頭が良くなりたかったです。今でもですけど、昔は「頭が良くないと目的を達せられないよ(具体的には司法試験合格しないよ)」という切実な状況があったわけですね。でもって、「じゃあアタマ良くなればいいじゃん」と素朴に思ってしまったのですね。
あの〜、多くの人々は、なぜかアタマの良し悪しは生まれついてのものであって、後天的にいくら努力してもダメなものはダメと思い込んでたりしますが、なぜそう思うのでしょうか?僕はそうは思わなかったです。そりゃ、大脳に物理的損傷があるとかいうのであれば話は別ですし、突然変異的にアタマの良い人はいます。しかし、そういった生物学的な例外を除けば、大抵の部分は努力でなんとかなるもんだと思ってます。この「大抵のことは何とかなるんじゃないの?」という楽天的というか、諦めの悪さが僕の身上なのでしょう。
そもそも「アタマがいい」という現象はどういうことか?です。
まあ、脳味噌の性能がいいってことなんでしょうけど、それって何か?というと、情報処理能力が高いということでしょう。じゃあ、情報処理能力が高いってのはどういうことかというと、情報処理のパターンを豊富にもっていて、それぞれが高度に作動するように整備されていること、だと思います。
あのですね、アタマが良いといっても何も無限に良くなる必要はないのですね。生きて生活している範囲内で良ければそれでいいんです。「生きている範囲内」といえば、森羅万象にわたってメチャクチャ広いようでありながら、結構限定されていると思います。たとえば、1+1=2であるという一定の論理法則が貫徹していて、時間はかならず一方向にだけ流れ、しかも均質であるとかね。別に四次元的に頭が良くなる必要もない。論理においても、人間の論理レベルなんか知れてますから、その範囲内でアタマがよければいいわけです。たとえば、人間の脳味噌の構造、すなわち短時間記憶の容量(RAMみたいなもの)の肉体的制限から、人間は関係代名詞が7つ以上入り組んだ文章を理解することは絶対に不可能であるとかね。いろいろ制限がある筈なんですね。
ちなみに関係代名詞が7つ云々というのは本当かどうかは分かりません。これは、大学のときに読んだ山田正紀氏のSF「神狩り」に出てきたから知ってるだけです。ただ、こういったSF的発想、そのベースとなる大脳生理学の発想なんかが結構参考になりました。いや、別に医学的に完璧に正確でなくても、またそれを完全に理解しなくていいのです。「脳味噌はマシンなんだな」、というのが分かったというのが僕にとっては大きかったわけです。それがマシンであって、しかも使用方法が限定されているならば、多少のチューンアップは出来て当たり前ではないか?という気になったわけです。
「思考」とか「記憶」というのがどういうメカニズムで生じるのか? 要するに大脳に億単位の神経細胞があるわけですが、思考も記憶も、その神経細胞を電流パルスが流れることであり、その流れる道筋/回路であると。その回路も、頻繁に使用されるとそれだけブッ太くクッキリしてきて、より早く簡単に流れるようになる。一回通っただけの回路は、また時間が経つにつれて段々見失っていってしまう。ちょうど、草むらを歩いて道が出来ていくように、一回通れば草が倒れて道らしきものが見えますが、時間がたつとまた草が戻ってわからなくなる。何度も踏みしだいていくうちに確固たる道になるという比喩をどこかで読んだことがあります。
この説明なり比喩は、ものすごくピンときました。何十回も練習したギターのフレーズはなかなか忘れませんが、譜面を見てチロチロ弾いただけのものは弾き終わったらもう忘れている。生まれてから最も多く繰り返している情報、つまり「自分の名前」などは、もう踏みしだかれまくってパンパンの道になってますから記憶喪失にでもならない限り忘れない。小学校のときのクラスの友達の名前は、そのときは全員覚えているけど、卒業してしまうと忘れてしまう。昔住んでた家の電話番号は、住んでるときは絶対忘れないけど、引っ越してしまった途端忘れてしまう。
ここでメカニズムらしい第一物理法則が出てくるわけですね。繰り返さないと記憶は定着しない。一度定着した記憶であっても、しばらく使わないと忘れてしまうということ。まあ、当たり前っちゃ当たり前ですが、この物理法則を徹底すればいいわけですね。生来的に記憶力のいい人というのは、一回電流パルスが通ったときのその通り方が普通の人よりも強いのかもしれません。草むらを踏みしだくその力が人よりも強いのかもしれません。だとしたら、記憶力をよくするためには、何度も繰り返してやればいいということになります。単語覚えるのでも、2〜3度口の中でモゴモゴやるだけではなく、10回言ってみるとか、その都度やるように心がけていると、記憶の定着率はよくなるわけでしょう。
それは別に記憶力が良くなったわけではないのですが、記憶力のいい人と同じだけの結果を導くことができます。「記憶の本質は反復である」という大原理をオロソカにして、適当にやってはまた忘れ、、という無駄な繰り返しをするよりは、一回一回を強力にしてやれば、効率ははるかによくなる筈です。単語を3回口で唱えるのも、10回唱えるのも、つまり7回余計に唱えるのも、大変なようでいて、時間にしたらわずか10秒もかからないでしょう?5秒かそこらでしょ。その5秒を惜しむか惜しまないかで、結果が天と地ほどに違ってくるわけですよね。だったら、5秒やった方が得ですよね。アタマが良くなるコツというのは、例えばそういうことだと思います。つまりアタマが良くなることは出来なくても、頭のいいヤツと同じ結果を出せば、それで多くの目的は達せられるでしょ?現実に生きて生活している範囲でよくなれば、それでいいわけでしょ。
記憶についてついでに付言しておくと、記憶というのは連続技、複合構造にしておいた方が忘れにくいらしいです。これは、中学のときに読んだ、多湖輝さんの「ホイホイ勉強術」という本に書いてありました。例えば、昔住んでいた家の住所や電話番号は忘れても、もう一回そこに行ってみろと言われたら難なく行けるんですよ。あそこの角のタバコ屋のところを右に曲がって、、とかね、かなり覚えてるものです。それは複数の記憶情報がお互いに入り組んで、補強しあってるからだと思います。相互に思い出すきっかけになっている。曲の歌詞でも、一部分だけ取り出して言えといわれたら言えないけど、頭から歌っていけば自然と思い出せるという。暗証番号も口で言えといわれたら忘れているけど、ATMのボタンを押す順番というか形は覚えているとか。
このようにAという記憶情報に、BもCもDも付帯するものをくっつけておくと忘れにくい。
英単語も、実際に現場で使った単語はほぼ一生忘れません。そのときのドキドキした心情、相手の顔、状況などなど、「現実」は単なる活字情報の数百倍の付帯情報がくっついていますからね。だったら、同じ単語を覚えるのでも、無理やりなにかの情報とひっつけてやると覚えるわけですね。だから受験のときは、年号覚えるのに、「ナント(710)大きな平城京」とかこじつけて覚えてたわけですね。英単語も、結構こっちきてからも覚えにくいのは無理やりダジャレにして覚えたりしました。ダジャレにも出来なかったら無理やり暴走族の漢字名前みたいにするとか。例えば、chromosomeで「染色体」という意味ですが、覚えらんないですよね。発音もわからん。だから、これ「クロウマソウム」と読むのですが、もう「黒馬双無」とマージャンの役満みたいな名前にしちゃうとか。そういえば、「英単語連想記憶術」なんて本がありましたな。「ラーメン食べる悲しい受験生」とか未だに覚えてますな。lamentable(ラメンタブル、悲しい)です。
このあたりの話になってきますと、単なる受験テクニックですけど。しかし、本題から逸れますが、受験テクも、やろうと思ったら何回分も出来ますな。大学入試はまるでサボり倒していたから何も語るべきものはないですけど、その代わり司法試験では鬼になってましたから、その意味では受験戦争の申し子のようなものです。もう、論文試験で使用すべき筆記具はなにがベストか?だけで何時間も語り合えたりします。汗でにじまない、ぶっとーし4時間書いてもかすれない、しかもペンダコに優しいペンはどれか?とかね。あと、ペンによって、字が上手に見えるかどうかかなり差があり、その人の字体のクセによって相性があるとか。神経質な字体の人はちょっと太字のペンの方が肉厚になってバランスがいいとか、筆圧の強い人の場合は、、とかね。なんせ冗談抜きに人生かかってる試験ですからね、工夫できる余地のあるところは極限まで工夫して当たり前です。だから幾らでも語れるという。
まあ、いま話している「どうやったら頭が良くなるか」も、広い意味では受験テクニックから出てきたものです。それが必要であれば、何でもやる、ということで。
話が記憶ばかりにいってしまいました。記憶なんて、頭のシステムのうちのほんの一部分に過ぎません。もっと本質的な「思考能力」です。
「思考」というのは何か?
これも色々あると思いますし、とてもじゃないけど体系的にいえませんので、断片的に申します。
人間の思考には、拡散思考と収縮思考の二つのパターンがあると思います。これは僕が勝手にそう思ってるだけですけど。収縮思考は、頭の中をふわふわ浮かんでいる情報の断片を、強力な鎖でコネクトしていく力で、その鎖が論理の力だと思います。だから、優れた論理的貫徹力ともいえます。拡散思考は、まったく逆に、論理の制約から逃れた、いわば思いつきやヒラメキです。殆ど脈絡も無いようなことを、「連想」というまさに人間の脳しかできない(コンピュータではここまで出来ないと聞いています)特殊なワープ能力をつかって、宇宙の果てまで瞬時に行ってくる能力です。この相対する二つの能力を強力にしていき、相互補完させていくこと。
一休さんのトンチ話で、「このハシ渡るべからず」で「ハシ」を「橋」ではなく「端」と読み替えるという頓知が出てきますが、あれなんか拡散思考だと思います。同じ思考回路をグルグル廻っていても解決がつかないときに、全く違う観点から切り込んでいける力。これも、頭の良さ/回転の速さを言う場合、かなり核心的な能力でしょう。
よく知能検査で、「欠勤、遅刻、借用、外出の4つのうち、仲間はずれはどれか?」みたいな問題が出ます。この問題を解くときに、ありとあらゆる視点でこの4つの概念をチェックしていくわけですが、このとき可能な限り多く視点設定が出来て、波状攻撃のように次々にチェックしていけるかどうかになると思います。この問題の正解(?)は、「遅刻」で、他の3つは「無断(欠勤、借用、外出)」がつくが、「無断遅刻」とは言わないから、だとします。このときに、「何かの別の言葉をくっつけてそれで成立するかしないか」という発想を思いつくかどうか、そのなかで「無断」という言葉を思いつくかどうかにかかってると思います。これを思いつくということは、同時に数十パターンの視点設定を思いつけているということで、その切り込み口の豊富さこそが頭の回転の速さの一つの特徴なのだと思います。と、同時に切り込み口を素早くチェックしていく力、情報相互のコネクション、関連性を精査していく力、これが論理検証・貫徹能力である収縮思考になるのでしょう。要するに、一瞬にしてパッっと散らばり、スクリーニングしてきて何かを見つけ、また一瞬にしてもとのところに帰ってきてチェックをカマすということを、絶え間なくやっていける力、これが頭の良さのかなり核心的な内容の一つだと思うわけですね。
これを鍛えておくと、色々な局面で事態を打開するのにそこそこ役立ったりするでしょう。例えば陳腐な例ですが、なにかに勝とうと思ったら策はゼロなのだけど、発想を変えて「負けないようにしよう」とすれば、それなりに策はあるとか。要するに「物は考えよう」みたいな世界ですが、違った局面からいろいろ考えていくと、また解決の道筋が見えてくるという。
で、これも結局は「鍛えりゃいいんだ、鍛えりゃ」の世界だと思います。構造さえ分かってしまえば、それを意識的に強化することは可能です。拡散思考の練習ですけど、僕もいろいろ考えました、基本的にヒマだったんでしょうね。ひとつは、まーったく意味のない文章を書いたり喋ったりする練習。「木星の揚げダシ豆腐における三振は、留守番電話とマストの恋敵だから、隣の客は因数分解を氷イチゴ」みたいに。これ、難しいですよ。1フレーズでも意味が通ったり、連想の跡が見えたりしたら失格。書くだけでも大変だけど、これを喋れといわれたら、相当頭の切り替えが早くないと出来ません。でも、いい練習になります。嘘だと思ったらやったんさい。なかなか出来ないから。
収縮思考の練習でいえば、これは無理矢理関連性をデッチ挙げてコネクトすることで、例えば先ほどの「木星と揚げだし豆腐」だったら、もう強引に「木星と揚げだし豆腐の関連性」を論じるわけです。もう何の接点もないようなことでも、無理にでも接点を見つけて力ワザで論じてしまう。例えば、「木星は離れて見えるとしっかりした固体の惑星のように見えるが、実はブ厚い雲なり、固体なんだか液体なんだか分からないような濃密なガスなりスープに包まれ、そのなかに本体があるのである。その構造は、周囲にトロミをつけた出し汁をかけた揚げダシ豆腐に良く似ていて、、、」とかね。
でも、これは古典的な練習方法があります。落語の三大噺ですね。お客さんに相互に関連の無い3つの題を言ってもらって、即興でその三つを織り交ぜた小話を披露してみせるという。これもよほど頭の回転が速くないと出来ないです。
ありとあらゆる可能性なり発想を同時並行的に沢山走らせて、そのうちに最も脈のありそうなものを絞り込んでいって形にしていく、ということ。拡散思考の飛距離が遠ければ遠いほど、斬新で突拍子も無いアイデアが出てくるわけですよね。ただ出しっぱなしだったらアホのたわごとで終わってしまうから、それを強力な論理性でくっつけていくわけですね。
論理性についてちょっと書きます。
論理って何なんだろ?と考えていくとよく分からんです。なんとなくそう考えた方が人間の脳味噌はしっくり来るという、いわば感覚的なものだと思います。で、その感覚はどこからやってくるのか?というと、結局はこれまでの自分の経験してきた現象のパターンと同じかどうかだと思います。例えば、山登りしてました、ザイルが切れました、登山者は落下して死にました、、となったら可哀想だけど経験的な法則性に合致しているからしっくりくる。これがザイルが切れました、でも(何の説明も無く)ぷかぷか空を浮かんで、また何事もなかったように山登りを続行しました、、と言われると、しっくりこない。「なんでやねん?」という気になる。
ですので、論理というのは、「有限の生命をもって地球という星に生きている人間が社会を構成して、、」という人間の経験範囲内における法則性に合致してるかどうかなのでしょう。端的な例でいえば、たまたま指が10本あったから10進法が一番馴染みやすいとかね。1+1=2という論理が成立するためには、僕らの周囲の世界において、分子構造のわりと安定している固体が沢山あって、ある物体Aは次の瞬間もまたその次の瞬間もAのままであるという連続性が約束されているという前提条件あっての話だと思います。万物が水みたいに流動的で、一瞬といえどもモノが固定して存在していないのだったら、「1」という具合に認識できるような確固たるものが存在しないのだから、「数」という概念自体が成立しにくい。
というわけで論理といっても、その論理が成立するための前提的な世界というものがあると思います。そしてその前提世界における経験事象によって、その論理の流れ方は違ってくるのでしょう。同じように、僕らを取り巻くこの世界においても、僕らが活動する色々な局面に応じて、世界はさらに細分化されていき、それぞれに独自の論理が存在するのでしょう。論理といっても、数学的論理、物理的論理、社会的論理、文章修辞的論理、、、などなど、いろいろあると思います。料理には料理独自の論理があり、野球には野球の論理があり、セックスにはセックスの論理があると。そしてそれぞれの世界における経験値によって、その独自の論理を感得できる深さも違うのでしょうし、その世界をよく知る人はその世界の論理については、もう皮膚感覚でわかるのだと思います。話が非常に抽象的でわかりにくいと思いますが。
数学的論理でも1+1レベルだったら僕らでも感得可能ですが、5桁以上の割り算掛け算が入り乱れてくると、出てきた答が「あれ、一桁違わない?」とは直感的にはわからない。でも、数字のセンスのいい人は、すぐわかる。さらに、微積分とか行列とか高等数学になってくるともう素人には感覚的には追いつけない。ましてや虚数とか無理数の世界になると、「ありえないものを、あることにする」というメチャクチャをやりはじめるわけで、ついていけなくなるわけです。でも、常日頃から数学的世界に親しんでいる人は、自分の脳味噌にその数学世界のフィールドが出来てますから、このあたりの数学的論理がコロコロと小気味よく転がっていってくれるのでしょう。
同じように、将棋やマージャンの得意な人だったら、頭のその世界が出来上がってますから、もう見た瞬間「ああ、これ詰んでるわ」とすぐにわかってしまう。
料理の上手な人だったら、調理法を聞いただけで大体の味を予想できるし、調理をする際どこが急所になるかがだいたいわかる。「ははあ、これは最初に十分にアクを抜いておくのがミソだな」とか「煮込みすぎるとグジグジになるからそこの見切りがポイントだな」とか、さらに「Aという調理法とBという調理法を合体させることはできそうだけど、AとCは味が喧嘩しちゃうからダメだ」みたいな方程式みたいな発想もできるようになるのでしょう。
社会的論理でいえば、「こういう立場に置かれた人間が、こういう形で人を裏切るということは現実では結構起こりうることである」とか、「一回別れた女性がなおも後ろ髪をひかれて、○○という行動にでるというのは、一見ありそうだけど、実はそんなことは滅多にない」とか、「これだけの企業を経営しているAさんが、こういう無謀な土地取引をしたというのは何か裏があるのだろう」とか。まあ、このへんはシャーロック・ホームズみたいに、「Aという立場に置かれた人間がBという行為をするのは不自然である」というのをキメ細かく吟味することができるか、吟味する際にどれだけの社会経験というデーターベースを自分で持っているかにかかってくると思います。
文章修辞論理でいえば、肯定論拠55、反対論拠45くらいの僅差の場合の結論の出し方の表現は、単純明快にパーンとでるのではなく、苦渋に満ちた決断のような書き方の方がしっくりくるとかね。言葉や単語にはそれぞれ含意や強弱がありますから、絵を描くように、メロディを弾くように、含意強弱を適当に変化をもたせつつも粒を揃えてやらないとならない。それが上手く出来ていると、一読了解の流れのいい文章になるけど、そこがバラバラだと非常に読みにくい駄文になる。論文でも、大した論拠を提出できないくせに、最後の結論だけ「○○なのは当然である!」みたいに書いてしまうと、非常に浅薄で、アホみたいに見える。
何を長々と書いているかといいますと、頭のよさの中核を占める「論理貫徹/構成力」ですが、これとてもピュアな形で存在しているというよりは、各業界・世界によって違う。その世界で人間がこれまでに経験してきた事象法則にもとづいて、それぞれに論理の成り立ち、転がし方、結論の出し方が違う。そしてその論理が通ってるように思えるかどうかは、かなり直感的な「しっくりくる/こない」の感覚的なものとして感じられるのだと思います。そしてそれは自分の頭の中に、そのフィールドがどれだけ広がっているかによって決まってくるのではないか、と。
一方、論理と聞いて一般に連想するような、パズル的に「論理的にはこうならざるを得ない」みたいな技術的な論理も勿論あります。ありますけど、そんなものが日常生きていく中でナマの形で使われるケースは非常にマレだと思います。だから、実践的な頭のよさを目指すならば、各分野ごとに論理の成り立ちが違うということ、それはその分野の経験値を増やすことによって感得できていくのだということを意識すれば良いのではないかと思います。
長くなってしまいました。もう2点だけ。
本質把握、構造分析能力というのがあると思います。複雑に入り組んだ問題の構造を見切って、なにがメインでなにがサブかを分解していき、そのエッセンスの構造だけを把握する能力です。これも、頭のよさを構成をする大事な要素だと思います。
これも常日頃から、「○○の本質は〜」と考えるクセ、そしてどんなにメチャクチャでもいいからとりあえず「本質は○○」という結論を出すクセをつけておくといいと思います。
例えば「オーストラリアの本質は」「日本の本質は」とか。ある一つの視点から複雑な問題を切り分けて整理していく練習ですね。「オーストラリアの本質は、歴史と伝統というオーストラリアがどうあがいても持ち得ないモノに対する憧憬と反発である」、とか、なんでもいいから強引に言っちゃう。日本の本質は、なんてのも100通りも1000通りもあると思います。「日本の本質」は、いわく「文化的雑食性である」、いわく「いかに自我を確立せずに一生を終えるかにある」、いわく「かつて一度も世界のスタンダードにはなりえず、これからもなりえないだろうという自文化の特殊性に対する自意識過剰な思い込み、その自意識過剰性から発する疎外感と劣等感と優越感等の感情エネルギーの躁病的なドタバタである」などなど。
この「本質」とやらも、「論理」と同じく、一義明白でありそうでいながら、実はかなり曖昧だったりします。
はっきり言って思いつきで幾らでもいえますし、人によっても違うでしょう。物の見方なんか、もう、無限にあるわけで、その無限にある見方のなかから、一番まっとーそうなものを取り出していけばいいのだと思います。この本質把握力とかそのための練習の本当のベネフィットは、「本質が把握できること」ではなく、幾らでも沢山本質を思いつくことによって、たまたま一つだけ思いついたことを真理であるかのように誤解して突っ走ってしまうことを防ぐところにあるのかもしれません。また、沢山思いつくことによって、選択の幅が広がることだともいえるでしょう。
最後に、いろいろ言いましたけど、記憶法にせよ、思考法、論理、本質いずれの領域においても、実践的にその能力を向上させるキモは、「パターン認識」とその「ストックの豊富さ」だと思います。
最後に述べた本質把握にしてもそうですが、「本質」という形で強引に整理していくにあたっては、その整理するためのモトとなる発想を、最初から幾つかのパターンに分類しておくと、速やかに作業が行えると思います。「○○(例えば「日本」)の本質」といった場合、「○○の典型的な長所と短所をピックアップして、その長所も短所も、結局は同じ根っこから生じているのではないかと仮定していく発想パターン」とか、「○○の特徴点を挙げ、なぜそうなるのか?なぜ?なぜ?なぜ?と繰り返し追い詰めていき、最後にカチンといきあたった部分を取り出すパターン」、「一般に言われている本質論に、敢えて真っ向から反論してみて、構造をいぶり出していくパターン」、、、など。
「論理」だってしっかりパターンがあるでしょう。「一つの原型パターンが形を変えて幾らでも複写していく論理パターン」、「AがBを招き、BがCをと連鎖反応的に派生していくパターン」、「そのパターンが最終的に円環を描き、循環していくパターン」、「循環しながらも徐々に程度や質を変化させていくスパイラルパターン」、「対立する二元的な価値観が終始綱引きをしているパターン」、「3極構造になっているパターン」「3極構造がジャンケン的に3すくみになってるパターン」、「4個以上の多元価値パターン」などなど。
その他、記憶の方法にしても、拡散収縮思考についても、同じように幾つかのパターンに分類できますし、そのパターンのストックが多ければ多いほど色んなパターンを試せるから、結果として、より迅速に、より広範囲に、モノを考えることが出来るようになるわけで、結果としてそれが出来ている状態が「頭が良い」と言われる状態なのだと思うわけです。
パターン、パターンとしつこく書くのは、人間の脳の構造はパターン認識に馴染むからと聞いたことがあるからです。たとえば、どんなに精巧なコンピューターでも、人間の顔の同一性を識別するのはかなり難しいらしいです。同じ人間でも、笑ったり、泣いたりするわけですが、「曲面座標軸上の目鼻の配置」というデジタル的に解析からは、泣かれたりして顔がくしゃくしゃになるともう別人として認識されてしまうとか。ところが人間は、泣こうが笑おうが易々と同じ人間であることを認識できます。なんでこんなにフレキシブルに同一性を認識できるのか、どうしてこんなに弾力的にパターンを認識し、活用していけるのか、そこはよく分からんそうですが、ともあれ人間というのは、パターンで分類し、それを機軸に活用していくという脳の使い方、つまりは情報処理の方法に長けているらしい。でもって、実感的にはそれは正しいように思います。
そして、前々回に「一芸に秀でたものは、、」と書きましたが、もうお分かりだと思いますが、一芸を習得する過程で誰だってこのパターン的分類とストック強化をやってきてると思うのですね。先ほど、「同一パターンの終始反復」とか「二元価値の綱引き」とか色々いいましたが、これって例えば曲作りのパターンに非常に似てるのですね。キメキメのリフが、イントロから最後まで(多少変化しながらも)延々と鳴り続けるなかでボーカルが乗っかっていく曲構成とか、二つの印象的対照的な主題が交互に出てくる曲構成とか、「まんま同じじゃん」という気がするのです。
でも、考えてみれば同じで当たり前なんでしょうね。音楽を聴くのも、哲学するのも、同じ脳がやってるわけですからね(左脳右脳とか部位は違うけど)。同じメカが作動してるんだから、そりゃ作動パターンも、そして作動の「クセ」も同じでしょうよ。だから、一芸に秀でた時点で、その人はもう十分に「頭が良い」のだと思います。というか、「頭が良くなってる」。もっといえば、既に起動してあれこれ動かしてみて、メカに十分に潤滑油がいきわたって、一発で始動できるように「あったまってる」んだと思います。頭が良いか悪いかは、つまるところは、この「あったまってる」かどうかだと思います。
写真・文/田村
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