今週の1枚(02.02.04)
雑文/能力開発
つい先日、恒例となっているオペラの野外コンサートに行ってきました。入場無料。
去年は雨天で中止になってしまったのですが、今年はこのときだけ雨もあがって無事開催されました。
「椿姫」をやってましたが、オペラなんか滅多に見ないものですから、良いのか悪いのかも分かりませんが、それでも結構楽しめました。終わったのは11時過ぎということで、ミッチリ「見た〜!」という感じがしました。
なお、主演の男優はチャイニーズでした。特設画面(わかりにくいけど、写真右下)の画面一杯に東洋系の顔がバーンと出て、しかもなかなか恰幅のいい人でしたから、一見すると「大相撲カラオケ大会」みたいな感じでしたが(^^*)、堂々とやっておられました。
そうそうオーケストラの指揮者が女性でした。背中のガバッと開いたドレスで、全身を躍動させて指揮する後姿は、メチャクチャカッコ良かったですね。すっごい色っぽかったし。
なんだかシリーズ物のようになりつつありますが、前回、前々回の続編的なことを。前回は能力発見に関する雑談でしたが、今度は能力開発/発展に関するヨモヤマ話です。
「能力開発」というとなんか大袈裟ですけど、要は上達のコツですね。
コツの第一番目は、「コツなんか無い」ということです(^^*)。これではミもフタもないので、別の言葉で言うと「近道」なんか滅多にないから探すだけ時間の無駄だよ、ということですね。
よく「面白いように上達する」などのタイトルを冠した実用書が売られてます。「面白いように英会話が上達する本」とかね。他にも「メキメキ」「スラスラ」「グングン」という魅力的なフレーズが頻用されています。なにを隠そう僕も結構これまで騙されたクチです。一番最初にオーストラリアに行こうと決めた頃、書店に寄っては英語教材本の棚を漁り、「メキメキ」系の本を買ってたりするわけです。
月日が流れ、現地の英語圏で暮らし始めて7〜8年。「メキメキ」なんか伸びないっすよ。伸びたら誰も苦労してないですよ。メキメキ、グングンという代わりに、タラリタラリ、ポツンポツンという感じです。
このように、なにか「魔法のメソッド」を使えばグングン上達するかのように錯覚しがちですが、錯覚はあくまで錯覚。そんなに世の中上手いこといきません。頭では誰だってそんなこと分かってると思うのですが、でも、「もし、そんな魔法があったらいいな〜、楽だな〜」と思ってしまうのも弱い人間のサガですから、つい「もしかして」とかいって探ってしまうという。
それに別にそういう本を書いている著者の方々が「騙してる」わけではないと思います。その昔買ったメキメキ本を今読んでみると、非常に良い本だったりするわけです。「おお〜、いいこと書いてあるじゃん、役にたつじゃん」と感心するわけです。たしかにこれを全部きっちり勉強すれば、そこそこ実力はつくだろうなと思えるわけで、その意味で著者は嘘をついてはいないと思います。
しかし、「本一冊キッチリやる」というのは途方もない労力がかかります。「現場でよく使う基本イディオム500」とかいう本があったとして、500個覚えるのは大変ですよ。1日1個覚えても500日かかる。しかも一発で覚えられるわけないでしょ。現場で咄嗟に口を突いて出てくるくらい脳髄に叩き込むには同じ単語を10回くらいやらないとダメ。だとしたら500単語といいながら5000単語あるのと同じ。1日1個だったら5000日、13〜14年かかります。これを1年に短縮するためには1日13〜4単語やることになりますが、これだって1年休まずに続けられる人はマレ。1000人に一人もいないと思います。さらに、ボキャとかフレーズというのは、実際に使われている現場のニュアンスとセットになっているものですから、リストに羅列してあるものを丸暗記したってそれだけでは実戦で使えなかったりします。ある程度英語が出来て実戦慣れしてきてから、「おお、こんな便利な言い回しがあったのね、今度使ってみよう」くらいの地力がないと結局使いこなせない。だから結局イディオムだけ出来ても仕方がない部分もあります。
著者にしたって、そんなに簡単に英語が出来るわけないのは百も承知でしょう。大体英語を一生の仕事しておられるわけですから、英語力というものが膨大な分量の努力の上にやっと築き上げられるものであることはよーく知ってる筈です。だから英語教材を本音で書くならば、「一に努力、二に努力、、」という精神論の本になっちゃうと思うのですね。「1ヶ月でそこそこペラペラに〜」なんてクソ甘ったれたことを囀ってるガキがいたら、「ナメんじゃねえ!」とその場でケリを入れたくなるでしょう。ですので、善意に解釈すれば、彼らがいっている「メキメキ上達」というのは、「相当な(少なくとも本一冊キッチリやりきるくらいの)努力を積み重ねたら」という前提で言っているのでしょう。まあ、しかし、そうであっても、わざわざ「メキメキ」みたいなタイトルつけるか?という気はしますが、おそらく出版社としては、そういう甘っちょろいタイトルでもつけないことには、誰も買ってくれないのでしょうね。これはもう「馬鹿に媚びなきゃ売れない」という経済原則だと思います。
繰り返しになりますが、そんなことは一人前の大人だったら誰でも知ってることです。知ってるんだけど、騙されちゃうんですよね。それはもう積極的に騙されにいってるんでしょうね。とにかく人間というのは、楽をしたくて楽をしたくてどうしようもない生き物だと思いますから(だから文明が発達したのだし)。楽をしたい、最小の努力で最大の効率を、というのは、もう人間の本能みたいなものですから、ま、本能には勝てないというところですか。
だから、コツでいえば、その「楽をしたいという本能に勝つ」ことだ思います。妙な幻想を持たない、と。
こんなことは、なにか一芸に秀でている人、プロとはいわないまでも素人離れしたスキルを持ってる人だったら分かると思います。その分野でとりあえず一人前になるまで、どれだけ膨大な量をこなさないとならないか、を。また「適当に上手くなる」ことと「本当に上手くなること」の巨大な差を。本当に上手くなるためには、異常にジミなことを、異常に執拗に繰り返す必要があります。これはなんでも同じだと思います。基礎練ですね。野球でコントロールをよくしようと思ったらとにかく走る。走って走って足腰を頑丈にするしかない。
ところで一芸に秀でた人は、他の芸でも秀でるといいますが、これは真理だと思います。
「電話帳一冊丸暗記」みたいな、「げ〜、うそ!」と普通の人だったら瞬時に諦めるようなことを黙々とこなしていかないと一芸には秀でないです。でも、そんな異常なことでもやってのける人々は実在するわけです。彼らは一芸に秀でるまでのプロセスで「上達のためのサムシング」を体得するわけで、あとはその「勝利のメソッド」みたいなものを応用していけばいいわけですもんね。
余談ですが、分野は問わず、過去においてどれだけ自分が素人離れしたレベルにまでいけたかが、その人の器量を限界付けると思います。それは別に職業的スキルやスポーツでなくても、ロックでも、マンガでも、カメラでも、パソコンでもなんでもいいです。パソコンでもそこそこ出来る人は幾らでもいますが、全国レベルでその人ありといわれるところまで行くのは並大抵ではないと思います。上には上がいますし、バケモノみたいな連中がウジャウジャいたりしますもんね。ハマって、ハマって、ハマリまくった結果、どこまでいけたか。どれが大事で、自分が過去いけたレベルまでは再びいけると思うもんです。過去遠泳で3キロ泳げた人は、それから生涯「俺は3キロは泳げる」と思って生きていけるわけです。それが「実証された自分の能力」として自信になるわけですから。
逆にいえば、過去自分がインターハイに出たことがあるなら、これから英語を勉強すればインターハイレベルくらいには上達できると思っていいと思います。あるいは、ギターが上手だったら、その上手さくらいには英語が出来ると。
上達のプロセスというのは、大きく抽象化してエッセンスを取り出せばみな同じだと思います。
僕の経験でいえば、例えばギターと柔道と法律(司法試験)と英語の上達過程は、同じでした。同じと言い切っていいと思います。例えば、一番最初に「これを知らなきゃ・出来なきゃどうしようもない」という「必須知識・技術」があります。ギターだったらピッキングやコード、スケールなどの基礎知識、司法試験だったら受験科目の一通りの内容知識、英語だったらひとあたりの文法、ボキャ、発音など。これは料理をするにあたって材料を調達するようなレベルの話です。材料が揃ったからといってすぐに食べられるわけではない。だから「本番はこれから」なんだけど、とにかく材料が揃わないと話にならない。このド基礎レベルを習得するのに、ジャンルによりますが、半年〜3年くらいかかると思います。
まずはこの最初の異常にクソ詰まらない時期を乗り切ること。ここで90%以上の人は脱落しますから、やり続けるだけで、特別な才能なんかなくても無条件で上位10分の1に入ります。逆にそう考えれば、こんな楽は話はないですよね。あと、こういったスキルと知識の「原始的蓄積」は、基本的に「量のプロセス」です。で、やってるそばから忘れていくものですから、「どれだけ短期間にどれだけの兵力を投入できるか」で決まる部分が大きいです。
これらの材料をもとに、「自分なりのやり方/実戦的体系」を構築していく第二段階になります(実際には、第一段階をやりつつ自然と第二段階も習得しますから、同時並行的なんですけど)。柔道でしたら、受身とか一本背負いとかいう技の基礎は習得したとします。しかし、それだけでは誰も技にかかってくれません。そこで自分なりにカスタマイズした「実戦体系」というものを作る必要があります。例えば、右の背負い投げではありきたりなので(右利きが多いので)、左背負いを必殺技として研ぎ澄ませてゆく。そしてメインの技をかけるためには、その前提に「崩し」というのが必要ですから、最初に右の出足払いやら支え釣り込み足やらで右方面に相手の気持と体重を集中させたところで、一気に反対側の左背負いに持っていく、などです。その他、「相手が体落としにきたときの切り返し方」「腕ひしぎ十字固めに入るための必要な前提ステップ」などなど、自分なりの必勝パターンを模索してどんどん築いていって、磨きをかけていくことによって強くなっていくわけですね。
ギターもまったく同じで、誰かの曲を一曲まるまるコピーしてもその曲しか弾けません。大事なのは、エッセンスをパクって自分なりにフレーズのストックに加えておき、フレーズの組立や構造をたくさん覚えることです。「ゆっくりめのブルースで覚えておきたい必殺の30フレーズ」とかね。速めのハードロック系のソロで、高音チョーキングでキメキメのフレーズを弾く前に、コントラストを際立たせるためにその直前で低音ゴリゴリの音で手続きのようなフレーズをカマしていくとか。コード進行でも、最低音のルート音だけ半音進行で
動かすとか(例でいえば古いですけど、ZEPの「天国への階段」、ジャニスジョプリンの「サマータイム」とか)。この音とこの音を加えると和音階になり、この音を加えるとバロック調になるとか。
司法試験でも、基礎的に知識を叩き込んだあと、いわゆるドメジャーな論点(論争になってる問題)を潰し、それをいかに答案に表すかという実戦に移ります。そこでは、他人の優秀な答案や、あんまり誰も読みそうもないような学者の論文などを漁って、「光るフレーズ」というものをストックさせていき、そのうちに自分なりの必勝パターンを構築していきます。だからギターとまったく一緒。
例えば、憲法で表現の自由の優越的地位を説く場合、「近代憲法および日本国憲法において、表現の自由は他の人権に比べ別格的に優越的地位を与えられているものであり」なんて書くわけですが、それだけでは「甘い」答案になるわけです。「なんで表現の自由が優越的なのか?」です。そこで、「近代市民社会における究極的価値は言うまでもなく個人の尊厳である。そして、人格というものが高度に知的・情的な精神活動の集積の上に構築されるものであること、およびその精神活動は情報によって構成されていることを考えると、情報の自由な流通、すなわち表現の自由は、究極価値である個人が個人として自立するための不可欠な要素であると言わざるを得ない、だから〜」と掘り下げて、しかも教科書を丸写ししてるような十把一絡げの退屈な文体ではなく、まぎれなもなく自分だけのオリジナルなフレーズで書くことによって、試験官をして「うん、こいつは本当に理解してるな!」とうならせることが出来るわけです。いかに抜きん出るか、です。
ここで大事なのは、基礎段階においては、知識や技術は体系別に淡々と登場してくるわけで、そこには順番なり難易度なりがあるわけですが、第二段階に入ったらその枠組を一旦全部叩き壊し、全ての知識をドロドロのミックスジュースにしたうえで、自分なりの体系で新たな意味を付与することです。ギターで言うなら、あるフレーズは、基礎段階においては「ペンタトニックスケールに則ったオーソドックスな展開」とか「ルート音と短三度と五度を基調とした」とかいう意味づけなり解説がなされるわけですが、これが第二段階に入ると、「キメキメのフレーズばっかりオンパレードで弾いてたら逆に聴く側は感覚が麻痺してインパクトが弱まるから、途中で敢えてノーマルでカッタるいフレーズを入れてやることによって、全体にメリハリを出す。そのためのノーマルのフレーズの一例」という意義付けがなされるわけです。
英語においても話は同じだと思います。単語や文法を覚えるのは当然としても、その単語を使うことによって、或いはその文法用法を使うことによって、実際の現場でどんな効果を得られるか?です。例えば、接続詞や関係代名詞の”that”がありますが、僕なりの実戦解釈では、「長いフレーズを一気にいうのは大変だから、途中で一休みするためのブレイク信号」および「次の本題に入る前に、喋る内容を整理する時間を稼ぐためのフレーズ」と思ってます。ネィティブがノーマルな状態で喋っている(原稿のあるニュース、シナリオのあるドラマではなく、そこらへんの人へのインタビューなど)のをよーく観察していると分かると思いますが、やたら途中で、「だった〜」「だった〜」って言うのですね。"Yeah, I think that,,,"のthatが「だった〜」と聞こえます。つまり、そこで喋るスピードが遅くなる場合が多いんですね。
最初にそれに気づいたとき、「なんで、そこでゆっくりになるんだろ?」と思ってたわけです。その頃は、まだ第一段階(今もですけど)バリバリで、「使いこなす英語」というレベルまで達してなかったので、英語というのは、あらかじめ喋ることを全部考えてから喋るもんだと思い込んでるわけです。「喋りながら言うことを考える」なんて芸当はとてもできませんからね。だからネィティブだって最初に全部喋る内容を考えてから喋るんだろうと思ったりするわけです。
でも、ちょっと考えたら分かるように、当然そんなことは無いわけです。僕らだって日本語を喋るときに、最初に全てのフレーズを完成させてから喋るわけではない。大体「こういうことを喋ろう」という漠然としたアイディアがあり、それに使い慣れたフレーズ(「ていうか〜」とか「これは聞いた話なんだけどさ」とか)を発射台として出発し、途中途中で言葉を捜しながら続けていくもんです。その原理に、英語日本語の違いはない筈です。
で、文章を途中で考えながら喋るにしても、適当に中休みを取るべきポイントがあるだろう。だとしたら英語ネィティブはどこで考えているのだろう?ということで、そのひとつがこのthatなんだろうなと思ったわけです。他にも、”well”とか、意味なしの”er”とか、"You know"なんてのもありますが、一文の途中で一休みするのはthatが多い。"He said to me that--"のthatも、「ヤツは俺にこう言うわけよ、なんて言ったかってゆーと」みたいな感じなんだろうと思います。あと、関係代名詞のwhichですね。これも時間稼ぎに使われます。"I think it is a quite serious issue, which we've been warning....."「これは非常に深刻な問題だと思うわけですね、ほんでもって、この問題は我々はこれまでも警告を発してきたわけですけど」という。もちろんthatやwhichで常にゆっくり喋るわけではないです。既に文章が決まってる場合はズララと喋るわけですが、考えをまとめるために小休止する場合は、ここで止まる場合が多いように思います。あと、出だしで考えるときは、"and"。「あんだん〜」と聞こえます。
ですので、普通の人の英語というのは、「ゆうのう、(なんたらかんたら)、、だったぁ、、(なんたら)、あんだん、、(かんたら)、、ふぃちずあ(which is a)、、」という具合に聞こえると思います。さて、だとするならば関係代名詞とか接続詞とかそういった第一段階での文法知識とはまったく別の見方で、thatなりwhichを意味付け、再構成することが出来ると思うわけです。同時に、一回に考えなければならない英文の量というのは、上記の(なんたら)部分程度でいいということになります。そこまで喋って、また「あんだん」とか言いながら次の短いフレーズを考え、喋り、また「だった〜」とか言っていればいいという。
別にこれが正しいかどうか分かりませんが、言いたいのは、第一段階の基礎のベタ覚えから、第二段階では実戦的に、まったく違った視点から自分なりに再構成をしていく必要があるのだろうな、ということです。
総じていえば、物事の上達というのは、第一段階の基礎知識・スキルと、それを使いこなす第二段階のソフトウェアとに分かれると思います。基礎スキルがあっても、それを使いこなすソフトウェアがダメだったら結局モノになりません。しかし、ソフトウェアが正しくも巧みな指示を出していても、基礎スキルがダメだったら絵に描いた餅です。料理でいえば、第一段階が「食材」であり、第二段階が「調理方法」のようなものでしょう。いくら超人的な料理の腕を駆使しても、食材自体が既に腐っていたらどうしようもない。
第一と第二とはフィードバックしあう関係にあると思います。第二段階の技を実現しようと思ったら、結局第一段階の基礎を磨くしかない。柔道で必殺の連続技パターンを発見して、技をかけるタイミングを計る能力も身に付けたけど、思ったように身体が動かなかったら意味がないわけです。時には、自分と相手の全体重である百数十キロを右足親指一本で支えなければ技がかからなかったりします。あるいは、コンマ何秒の瞬時に片足一本でしゃがみこみ、さらに相手を背負ったまま又片足一本で立ち上がることをしなければならなかったりもします。そうなってくると、強靭な足腰というのが究極的には決め手になってくるわけです。だもんで、技を完成させるためには、片足スクワット○回とかいうトレーニングが必要になってくる。
ギターでも、せっかく目が醒めるような素晴らしいフレーズを考えても、自分で弾けなきゃ意味がないです。32分音符が延々続くような早いパッセージを一気に駆け上がっていき、また駆け下ってゆくワイルドさとスリリングさがそのフレーズの妙味だったとした場合、そういうフレーズってモタモタ弾いたら意味ないのですね。一定以上の速さで、しかも力強く弾くからカッコいいわけです。でも、それを弾きこなすためには、基礎のフィンガリングやらピッキングをもう一回見直して、ジミに基礎練をやる必要があります。はたまた、泣きのフレーズを弾こうとしても、どうも情緒が出ない。プロが弾いてるお手本のCDの音色は艶々と色っぽく泣いているのだけど、自分が弾くとどうも田んぼで牛が鳴いてるみたいにしか聞こえないということはママあります。それはもう弦の押え方が甘いとか、ビブラートの掛け方が粗雑だから微妙なニュアンスをつけることができないという問題に帰着すると思います。
英語でも、せっかくネィティブ顔負けの自然なフレーズを喋っていても、一つ一つの発音が不鮮明だったりしたら、結局何言ってるのか聞き取ってもらえないということもありますしね。
これが、数多あるプロやその道の人がみな口を揃えて言う、「基本が大事」「基本に帰れ」ということの実体だと思います。
でもって、基礎スキルの実体はなにか?というと、@身体能力、A正確な知識(記憶)に尽きると思います。
@の身体能力は、意外と軽視されがちだけど、別にスポーツでなくても、どのジャンルでも等しく求められると思います。ギターでも、
ある程度弾けるようになるためには、常人離れした指の筋力が必要です。同時に柔らかさも。これは右手左手で使う筋肉の場所は違いますが、等しく筋力イノチというのは変わりません。だから指立て伏せとかやったりするわけですし、歩いたりバス乗ってるときに小指と中指を交互に出したり引っ込めたりして絶えざる鍛錬が必要だったりするわけです。
英語でも発音に関しては殆ど筋力で決まるといってもいいでしょう。顎、喉、舌の筋肉。舌を瞬時に歯に挟み、瞬時に戻す ”th”の発音なんて、相当舌の筋肉が発達しないと出来ないです。そりゃ、そこだけ発音すればいいんだったら誰でもできますけど、長いフレーズの中に出てくるとき、それを意識しないで自然にできるようになるためには、相当舌(と顎や口の筋肉とのコンビネーション)を鍛えてやる必要があります。でないと、5th(fifth), widthなんて、thの前にFがきたり、Dがきたりする複合技はこなせないでしょう。th,th, th, th,......と1秒間に4回、5秒間に20回連続してth音が出すこと。はたまた、f・th、f・th、f・thと乱れないですばやく連続20回。その次はdth、その次は、、、といくらでもコンビネーションはあります。そのあたりの基礎練習の要領は、ギターとか柔道とかと全く同じだと思います。
それからですね、、、、って、こんなこと喋ってたらいくらでもあります。
もうかなり長いこと書いてしまいましたので、今回はこのへんで。
写真・文/田村
★→APLaCのトップに戻る