今週の1枚(02.01.28)
雑文/アテにならない自己診断
前回の「あなただけの神殿」の続編めいたことを書きます。
前回は、自分の感性にフィットするもの、本当に自分がやりたいことを発見するため、心を研ぎ澄ませて天から降ってくるいろいろな「エネルギーの元」をキャッチしましょう、キャッチしたら卵を雛に孵すように孵化させましょうという話でありました。パワーの源となるものを発見するステージと、発見したものを展開実現させるステージとの2段階あるわけで、それはゴッチャにしない方がいいと思うよということでしたが、後半の孵卵器ステージはかなり端折ってしまいました。ちょっと省きすぎたかなと思うので、もう少し敷衍してみたいと思います。
「神殿」はいかに雑音を排除して、気持ちをクリアに、純粋にするかという「引き算」の世界でしたが、孵卵器は「何でも作れる巨大な工場」みたいなものを目指すわけで、そこでは足し算/掛け算の世界になると思います。人間的能力・性格の全てといってもいいと思います。
最初に大事なことを言いますと、人間の能力やら性格というものは、幾らでも変わるということですね。それは勿論、天才というどうしようもない人種はいます。持って生まれたものが違うということはあります。しかし、天才以外、だからこの世の99.99999%の世界に関していえば、そうそう大差ないです。だから、ちょっとやったくらいで「俺には才能がない、不得意だ」と諦めない方がいいと思います。これは別に理想論を述べてるわけでも、あるいは無責任にエールを送ってるわけではないです。単純な事実/ファクトとしてそうだと思うのです。そりゃ、下半身不随で100メートル走選手になれというのは無理でしょうけど、そういう物理的な障害がないのでしたら何とかなると思います。
ただ、当然ながら、じっと部屋で祈っているだけでは何も起こりません。
それなりに能力発見→開発プロジェクトを起動させないと伸びていきません。では、どうやって能力を開発、発展させたらいいのか?
自分自身の能力/性格に関する自己判断があります。「俺はメカは苦手だ」「わたしは運動は駄目」「人前で喋るのは苦手」などなど、いろいろ自己判断を持っておられると思います。まず、それを一遍ぜーんぶ白紙に戻すといいです。自分に関する、自分の判断を信用しないこと。特にネガティブなことに関しては、「本当かな?」と疑惑にマナザシで見て、「いや、やっぱり嘘かも、早トチリ」と撤回していったらいいと思います。
得意だの不得意だのってのは、過去の自分の実体験からそう判断しているわけですよね。例えば、小学校で図工の成績が悪かったとか、草野球ですらレギュラーになれなかったとか。でも、それってごくごく限られた狭い世界の狭い体験に過ぎないんじゃないんですか?あんまりアテにならないですよ。というか、全然デタラメだったりするケースの方が多いと思います。僕個人で言えば、幼少期から思春期に思ってた自己評価って、後になって殆ど全部ひっくり返っています。20歳以前の自己評価なんか全部マユツバくらいに考えておいたらいいと思います。
根拠を言います。まず最初に自己判断のベースとなる基礎データーが結構デタラメである、ということです。
第一に、大人になったら忘れがちだけど、あの頃って物凄い成長過程にあるわけです。早い話が、10年で自分の身長が2倍に伸びたりするわけです。これ、とんでもないことですよ。今でいうなら、10年後に身長が3メートルを超えるわけですよ。身長は無数にある成長のほんの一例に過ぎず、同じように筋力も、思考力も、知識も、対人関係能力も、ガンガン成長しているわけです。いってみればラフティングみたいな激流状態にあるわけです。で、皆そうやってラフティングしているなか、ある一時期を取り出して、自分はクラスで何番目とかいうのって、意味あります?
成長といっても、そんなに機械的に成長なんかするわけないですから、当然バラつきはあります。人によっては運動能力から先に開花していくかもしれないし、思索能力が長ける人もいる。容姿に関しても、20歳過ぎてから「化ける」人はいくらでもいます。激流に浮かぶボートの上で、長さ測ったり、重さ計ったりしても、意味ないです。計測ミスやら測定誤差がありすぎます。だから、そんな腐ったデーターなんぞ自分を評価する基礎データーとしては使えない、と考えた方が合理的じゃないですか?
第二に、能力とか性格というのは、その場にたまたま居合わせたメンバーとの相関関係で決まります。
性格なんか顕著にそうで、たまたま居合わせたメンバーのなかで自分が一番賢そうに思えたら、自然と人間そう振る舞うようになります。中学のときの友人で、あんまり勉強面ではパッとしないヤツがいました。だから中学のときは、別にワルとまではいかないまでも、ちょっとハスに構えてサブカル方面にいっていました。彼は運悪く第一志望の高校を落ちて、滑り止めの高校にいったわけですけど、そこで彼はいきなり全校一位の秀才になってしまったわけですね。数ヶ月ぶりに会った彼は変わってましたね〜。結構難しそうな本とか読んでて、口を開けば、「もう、周囲の連中バカばっかりだしさ」という。
勉強でも、サッカーでも、喧嘩でも、自分の所属している集団内部で順位が決まり、それなりにキャラが設定されますが、あれは単なるテンポラリーな「役割」にすぎず、状況が変わればまた一新されます。自分が一番凄いと思える環境にいけば、誰だって帝王然としてきますし、周囲がもっと凄かったら逆に卑屈にパシリ的な性格になっていきます。「環境が人を作る」といいますけど、「作る」というほどのこともなく、単に演じてるだけです。ただ、問題は、自分が単に演じているだけということを忘れて、自分の演技に自分が騙されてしまうことです。
第三に、その子の未開花の能力を鋭く見抜く大人がいたら話はまた違っているでしょうが、そんな大人はマレです。他人のポテンシャルな能力を見抜くという技術は非常に難しいし、そんな技術を持ってる人間はマレです。大体、大人になってからも、子供時代の幻想データーに縛られてる人間が多いんですから、そんなものは無理な注文ともいえます。ましてや、時代が下っていくに従って、宮台真司的にいえば「社会の学校化」が進むわけで、クラスの成績だけで世の中全てが判断されるようになります。「あの子は○○という進学校にいってるからいいコで、あのコは不良高校に通ってるからペケで」というものの見方ですね。言い換えれば、社会の大人達の、人(子供)を見る目はますます劣悪になっていっている。さらに、大人自身もストレスが増えていっていて、とても子供どころではなくなっていっている。「手間をかけさせないコがいいコ」みたいな。要するに、鋭い眼力で、ゆっくり考えて判断するという態勢がどんどん崩れていってしまっている。
以上の3点を総合すれば、揺れ動くボートの上で誤差だらけの測定をしたデタラメデーターと、たまたまその周囲にいた連中との相関関係と、そのデタラメデーターを修正するどころかむしろ強化しているボンクラな大人達に囲まれるという、「正確なデーター採取」という観点で言えば最悪に近い環境で得た自己認識などに何の意味があろうか?ということです。
さらに次に、、、って、こんなの幾らでも指摘できますよね。
他に言うとするならば、そうですね、例えば自分の能力を引き出したり発見したりするそのやり方が結構メチャクチャというか、行き当たりばったりというか、評価の方法としては全然ペケだったりというか、そういう問題があると思います。
自分の中にある何かの能力を発見したり、引き出してやる方法というのは、意外と難しいと思います。いきなりポンとやって出来ちゃったという場合もあれば、ダンドリ正しく引き出さねばならない場合もある。例えば鉄棒の場合、必要な能力としては筋力もあるでしょうが、素人考えですが平衡感覚も大事だと思います。月面宙返りなんかやろうと思ったら、なまじの平衡感覚では追いつかないでしょう。
ここに平衡感覚は抜群という少年がいたとします。しかし、彼は少年期にたまたま太っていたので体重に対して筋力が足りなかったりします。どうなるかというと、逆上がりができないでのはないか。逆上がりの理屈は僕も良く知らないけど、身体の重心の位置と腕の筋力などの前提条件があると思うのですね。そんな初歩的な条件は、例えばちょっと筋トレをやったり、あとで痩せたりしたら、自然とクリアします。そういうことってあるでしょ?ある時期どうしても出来なかったことが、後になってみたらひょいと出来てしまうということ。要するにただそれだけのことであるのに、彼は「ボクは鉄棒がダメなんだ」と思い込んでしまいます。周囲もそれを助長する。さらに「このコは根性が足りない」とかいう余計なことをいうアホがいたりして無駄な被害が拡大する。結局、将来のオリンピック候補になったかもしれない才能を、皆でよってたかって潰してしまうという。これは大学の体育の時間に教わった話です。
そういえば、こんな話も聞きました。野球が下手だと通常ライトに廻されるんだけど、ライトくらい難しいポジションはないと。大体日本人の場合右利きが圧倒的に多く、また少年野球だと技術も下手糞だから、奇麗に流し打ちが出来るようなヤツはマレ。だからライトにフライがあがるときは大体当たり損ねである。当たり損ねというのは、ボールとバットがちゃんと接触してないわけで、要するに卓球とかテニスでいう「変化球」みたいな状況になる。だから、軌跡はフラフラするし、非常に捕りにくい。一方、子供の頃の球技というのは、大体視力がいいか悪いかで決まる部分が大きい。下手というよりも単に目が悪いだけってケースが往々にしてある。子供の近視は急に進行するからメガネがアジャストされているケースは少ない。だからよく見えない。もともとメガネは遠近感が今ひとつ正確ではないから尚更である。さらに、「ここで捕球しないと又馬鹿にされる」という精神的プレッシャー、、、などなどの悪条件が幾つも重なり、結果的にエラーをしてしまうという。で、「あいつは下手」という評判が確立し、本人もそう思い込んでしまうという。「下手にされた歴史」というタイトルで講義されていました。なかなかいい授業だったですね。
僕も「下手にされた」例は沢山ありましたから、この種の話は実感的に分かります。
今、人よりは得意かなと思える技芸、例えば絵とか、文章とか、ギター(音楽)とか柔道(運動)とか、全部が全部ネガディブ評価されてましたからね。絵なんて、叔父も従兄弟も芸大だし、弟もデザイナーだったりするから、血筋的にいいと思うのですが、ダメ評価でした。今でも覚えてますけど、図工の時間、暖色と寒色を教わって、それぞれをモチーフにした絵を描きましょうということになりました。で、そのとき僕は、一枚の絵に暖色と寒色とがせめぎあっているという両方取り入れた絵を企図したわけですけど、全然理解されませんでしたわ。まあテクもなかったですから、見てくれはゴチャゴチャになっちゃったし無理もないのですけど。で、挙句、暖色寒色がわかっていない馬鹿だとか、このコは話を聞いていない反抗的なコだとか、まあクソミソに怒られたりしたわけですね。今となっては、別に恨みはないし、その先生が誰だったかも忘れたくらいですけど、「そーゆー不幸なことってあるな」とは思いました。
それがどうして「自分は絵が得意かな?」と思えるようになったかというと、結局落書きなんかを友人に誉められて、クラス中でマンガ描くのが流行って、それで喜んで描いているうちにそうなったという。だけどねー、余談ですけど、しょせん小中学校の頃の絵なんか、所詮テクニックで大方決まってしまうのですね。スケッチだったら指の腹でボカシをつけるとかさ、マンガだったら好きなマンガをコピーしてカッコいい構図を沢山知ってるとかさ、その気になったら数時間でマスターできるようなテクニックを知ってるかどうかで、見栄えが全然違いますもんね。ただ、それだけの話です。でも、本当の絵の才能というのは、例えばアボリジニの落書きみたいな絵にアート性を感じるかどうかという、もっと深くて、感性鋭いものであるはずなんですよね。
ビジュアルイメージが、何故か人間の魂の奥底を揺さぶることも(非常にマレではあるが)あるという、まさに「神のみぞ知る」という「不思議なコネクション回路」の存在を、感覚的にピンとくるかこないかが、それこそが本当の画才だと思うわけです。それは音楽でも文学でも基本的には一緒です。今はどうなってるのか知りませんが、小学校こそ教科担任制を設けた方がいいかもしれません。それも美術だったら、ほんとうにアートの才能とは何なのかを理解している先生。教職課程とっただけの、所詮はド素人にこんな難しいことを教えるのは無理だと思います。もちろん才能なくても、ド素人でもその深さ楽しさを教えることは可能だとは思いますが、それを全ての先生に期待するのは酷に過ぎるでしょう。
あとはですね、才能を発見して開発していく過程がありますが、そこには一定の快楽なり報酬がないと続きません。
例えば、上手な絵を描いて誉められるとか、クラスでチヤホヤされるとか。特にとっかかりの部分は大事で、ここでいい思いをして、味をしめないと、調子に乗って続いていきません。生まれて初めてゴルフのスィングをしてみたときに、たまたま居あわせたプロに、「おお、いいスィングしてますね、スジがいいですよ」とかナニゲに誉められようものなら、その人、それから一生ずっとゴルフやると思いますよ。
その意味では、煩悩にかられて何かをやることはイイコトだと思います。文化祭でスターになりたいからギターをやるとかね。とくに「女の子にモテたいから」というのは強烈な煩悩ですから、このエネルギーを利用しないテはないです。動機なんか不純でいいんですわ、とっかかり部分では。むしろ不純な方がいいくらいです。柔道とか空手とか格闘技をやるやつは、大体、「悪漢を鮮やかに倒すカッコいいボク」という他愛のない動機でやってたりするもんだと思います。
で、そこそこハマってその世界の本当の面白さがわかってきたら、不思議なもので煩悩は消えていきます。女の子にモテる筈に始めたギターだったのが、デートの最中女の子がいかに退屈しようがギターの話を熱く語ったり、弾いて聴かせるときでも、自分な好きな曲を「これがいいんだよ」と押し付けたり。コンサートなんかに一緒に行こうものなら、もう彼女なんか完全に無視してステージ釘付けになったりするもんです。
どんな世界でも、最初のとっかかりは詰まらんです。ジミな体力作りや基礎練習の繰り返しでしかないです。でもそれを通過しないと本当に上手にならないし、その世界が自分に合ってるかどうかということは、ある程度上手になってから出ないと判断できません。さらに、厄介なのが、才能あるからといって必ずしも出だしが順調であるとは限らないことです。その逆のケースも結構あったりします。始めた当初は他の連中よりも下手糞でどうしようもなかったのが、あるときを境にメキメキ頭角を表していって、しまいには凄腕になってしまうということは多々あります。
そのジミで、アテにならないとっかかり部分をクリアするのは、なんらかの快楽が必要だと思います。本当はこんなこと全然面白いとは思わないのだけど、たまたま教室にいる可愛い女の子が目当てでとにかく通っているとか。釣りなんか楽しいとは思わないけど、とにかく海に出るというのが面白いとか。やってる最中は地獄だけど、終わったあと皆で一杯やるのが楽しいとか。なんかそういう楽しいことがないと物事続かないと思います。でもそういった楽しいことって、かなり偶然の産物だったりします。
一方ではその逆のケースもあります。それこと自体は楽しいのだけど、教師が気に食わないとか、建物が陰気だから行きたくないとかね。これも偶然の産物です。
以上、つらつら書いてきましたけど、自分の能力/才能に関する過去のデーターも結構いい加減なものだったりするし、またその才能を発見開拓する最初のステージというのもまたかなり偶然に左右されているんじゃないか?ということですね。
ですので、「自分は○○は苦手だから」といってもあまり決め付けないほうがいいと思います。
いかん、能力発見話だけで終わってしまった。
本当は能力増強話をするつもりだったのですが、またいずれ別の機会に。
写真・文/田村
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