今週の1枚(02.01.14)
雑文/Borne to sleep
動物園に行きますと、大体いつも動物たちは寝ています。動物は夜行性が多いといいますが、それにしてもよく寝ています。オリに囲まれて他にやることがないとか、ノイローゼ気味ということもあるのでしょうが、それにしても良く寝ている。寝てないときは、なんか食べてます。いわゆる「食っちゃ寝」、というやつです。上の写真のコアラ君なんかその最たるものでしょう。
ウチにも猫がいますが、やはりよく寝てます。寝てないときは、食べてます。食べるための努力(人の食卓にやってきて愛想ふりまいて美味しい物をゲットする)は惜しみませんが、それも「食べる」というひとつの目的に収斂されます。だから結局、食って寝てるだけです。
しかし、そういった動物達に対して、「キミ達はなんのために生きてるんだ!」「もっと目的意識をもち、日々を充実させなさい!」とお説教をする気にはなりません。それは動物に言葉が通じないからではないです。所詮畜生にそんなこと言っても仕方が無いからでもありません。なぜ言う気がおきないか?それは動物たちを見ていると「食って寝るだけで別にいいんじゃないの?」という気にさせられるからです。
食って寝ること。それが彼らのライフ・プランの全てであります。生命を維持すること、「生きる」ということを、このうえなくシンプルで純粋にやってるから、何となくすごい説得力があるような気がするのですね。
村上龍の「愛と幻想のファシズム」という小説があります。狩猟にハマっていた主人公は、狩猟中に接する野生動物たちの、気高いまでにシンプルでハードな「生きざま」「たたずまい」に感動を覚えます。その感動は、返す刀で、野生を忘れた現在の人間社会への痛烈な軽蔑に変わり、やがて「弱者死すべし」というファシズムを唱えるようになり、日本の権力を握っていきます。自然賛美的モチーフと、ハードな政治経済とが融合した風変わりな小説です。
ハードボイルド系の世界の場合、登場するアイテムというか場面は大体決まっていて、暴力、銃、権力、車だったりします。これらの世界に共通する価値観というのは、「機能美」なのだと僕は思います。ナイフや銃、戦闘機には機能美があります。ある機能のために極限まで研ぎ澄まされていくこと、そのことに価値を見出し、感動を覚え、美しさを感じる。
ところで、F1レーサーの超絶的テクニックを熱く語り、スイス・アーミーナイフの写真をうっとりと眺め、険しい表情で備前長船の名刀に打粉をはたき、格闘技で誰が世界最強なのかを議論し、猟銃を手に雪山を命がけでグリズリーを追っているのは、多くは男性だと思います。男は機能が大好きなのでしょう。それは、もともと自然社会において、「存在することにこそ意味がある(例えば赤ちゃんのように)」という存在論的価値観に根ざす女性とは異なり、「何かやって(出来て)なんぼ」という男性の機能的価値観に根ざしているのかもしれません。
そして、人を人とも思わず冷酷に殺すようなハードボイルド系の主人公達は、なぜか不思議と狩猟をやってたりして、また彼らは不思議と野生動物に一目置いたります。
機能美的世界というのは、単に姿形が美しいだけではないと思います。
まず、「より速く」「より強く」「より高く」などシンプル極まりない目的がバーンとあります。この目的は揺るがず、そして異様に単純です。その単純さは、哲学的といってもいいくらいのもので、「なんのために速くなくてはならないの?」という本来あるべき大目的すらもあっさりシカトし、「手段の目的化」などと評するのが空しくなるくらい「速きゃいいんだ、速きゃ」という世界であります。まずこのシンプルさが「良い」わけです。「なぜ山に登るのか?」なんてのは、やっぱり愚問だったりするわけです。
次にその機能のために、極限を目指して突っ走るわけです。その盲目的爆走がまた「良い」わけです。なんでいいのか分からないのだけど、ある目標のために全身全霊を傾けて頑張ってる「ひたむきさ」は、不思議と人の心を打ちます。アーミーナイフの何がいいかというと、やっぱりそこには「ひたむきさ」があるからでしょう。
第三に、自分自身が己れの能力を最大限に発揮し、パワー全開で頑張ることは、それ自体に肉体的・精神的快感が伴います。全力を出し切る充実感。それは練習に励むストイックな日々の生活の積み重ねを経て、本番前日の寝付けない夜を過ごし、いよいよ本番というキーンと音がするような緊迫感、無我夢中で真っ白になっている本番、全てが終わって抜け殼のように虚脱しているときに至るまで、これら一連のプロセスが、他では得られないほどの「快感」を与えるのでしょう。それがまた「良い」わけですね。
最後に、これは滅多に生じないでしょうが、機能追求が極限にまで達してくると、自然の真理のようなものに近づいていくのでしょう。いわゆる「達人」レベルにまでイッちゃった人が、なにかを悟り、より高次の哲学的認識にいたること、人間的にワンランク上の存在になるという話は古今東西たくさんあります。宮本武蔵の「五輪書」みたいに。いわゆる「修行」ですね。これもまた「良い」のでしょう。
総じていえば、無理やりシンプルにした迷いのない世界観と、そこに没入することによって得られる肉体的精神的快感。そしてこれらの感動を連想させてくれるところに、機能美というものの深いルーツがあるように思います。
そして、機能フェチの男性が、「生きる」というシンプルな目的のために極限までその能力を酷使し、厳しい自然淘汰の嵐をかいくぐってきた野生動物達に対して、畏敬の念とシンパシーを感じるのは、言ってみれば当然なのかもしれません。
野生動物の日常生活というのは、次の瞬間に自分が殺されても何の不思議も無いというとんでもない環境なわけで、これを人間におきかえてみれば常時戦場にいるようなものなのでしょう。弱い奴は殺され、足の遅い奴は食われ、頭の悪い奴はワナにかかり、醜い奴はパートナーに恵まれず、そして運の悪い奴は殺される。誰もが平等に幸せに、、なんてことはなく、徹底的に不平等で、残酷。
そこでは生きるというだけで既に難事業であり、生き残るために全力で戦うそのシンプルさとひたむきさは、機能的価値観を十分に満足させるものと言えるでしょう。
ところで、ハードボイルド系や機能フェチの人々が、野生動物に強い共感を示したとしても、野生動物と彼らとは全然違います。「違う」というのは、動物と人間だから違うとかいう話ではありません。ベクトルが正反対だからです。
機能フェチに限らず、豊かで安全で、適当に働けば食べられる現代社会に生ぬるさと嘘臭さと苛立ちを感じている人は沢山いるでしょう。より輝ける「生」を感じたい、より強烈な快感が欲しい。だから、よりシンプルでハードな局面に自らを追いやり、厳しい戦いに挑むというパターンは、登山家の例をひくまでもなく、いくらでもあります。あなたの周囲にも幾らでもいるでしょうし、大なり小なり、あなたもまたやっておられるでしょう。
でも、野生動物はそんなことしないと思います。
食えるんだったらそれでOKでしょう。それ以上のものは求めないし、「俺の生きざまは生ぬるい」と思いつめ、修行に打ち込んでる野生動物なんかいないでしょう。食べたいのを我慢して減量に打ち込む力石徹みたいな存在は、野生動物ではありえない。
おそらく神様は(それは「自然は」ということですが)、生存の為に必要なことを行うときに、それ相応の快感をあたえてくれたのでしょう。食べること、寝ること、セックスすることにはみな快感が伴います。快感にひきずられそれらの行為をするから、生命が存続する。そして、この地球という環境は、そこに住む生命体が全身全霊で戦ってようやくカツカツ生きていける程度の厳しさに初期設定されているのと同時に、生物達には、己れの能力を全開にして頑張るほど、それに見合った強い快感が訪れるようにプログラミングされているのでしょう。だから、必死に頑張ると、どこからともなく「生きている実感」「生命の燃焼快感」がやってきてくれるのでしょう。
その「頑張る快感」が生命維持という効果と釣り合ってる限りにおいては問題はないのですが、人間のように知恵が発達してくると、「そんなに頑張らなくても生命が維持できちゃう」という異常事態がところどころで生じるようになります。適当に食えてしまうこの社会に、なんとはなしに生ぬるさや嘘臭さを感じてしまうのは、実は鋭い直感というべき部分もあって、まあある意味「嘘」と言えないこともないわけですね。ともあれ、普通に生命を維持するだけだったら、野生動物ほど悲惨な努力を払う必要もないけど、その分気持ち良くもならないのでしょう。
だもんで人類は、「もっと気持ちイイことがあるんじゃないか?」ということで、生命維持という本来の目的から、快感追求だけが突出してしまい、野生動物だったら絶対にやらないようなことを、ご苦労にもやりはじめるのでしょう。
ところで、機能美的ガンバリズムが気持ちいいのは、それなりに理由があると思います。
まず目的のシンプル化の気持ちよさ。これは世界観のシンプル化でもありますが、生きる目的がシンプルになると、うざうざ悩んだり迷ったりすることがなくなります。これは相当に気持イイでしょう。
だいたい自殺したり、鬱になったりする場合というのは、「なんのために生きているのかわからない」「生きてて虚しい」という気分に取り付かれたりするときでしょう。「誰よりも速く走る」とか、「人よりも一枚でも多く切手を集める」とか、そういうシンプルな目的で盛り上がっていられる間は、人はそう滅多に自殺はしないでしょう。でも、「人より速く走って、それが何なの?」とか思い始めたらヤバイわけです。こういうのはシラけちゃったらまずいわけです。逆に鬱状態から脱するためには、どんなにしょーもなくてもいいから、シンプルな目的を持つことだと思います。
もうひとつ、フクザツな現代社会に生きている人々は、あちらを立てればこちらが立たず状態の中、シンプルにやっていけません。部活と受験勉強の両立にはじまって、家庭と仕事の両立やら何やら。上司の意を汲み部下をなだめ、配偶者と子供のケアをし、両親の面倒を見て、自分の健康にも留意し、友達の愚痴電話に相槌を打ち、ローンも払って、、、とか、滅茶苦茶フクザツなことをしているわけです。そこへ、「馬鹿野郎、速きゃいいんだ、速きゃ」という、ほとんど破滅的なまでにシンプルな人生観は、ときとして強烈に魅力的だったりします。
次に盲目的に爆走すること、そして体力気力知力を極限まで酷使することは、最初はとりあえずシンドイですが、次第にハイになってきて、非常に肉体的に気持ちが良くなったりします。それは、エンドルフィンやら脳内快楽物質の分泌などの生理学的理由もあるでしょう。それより何より、生き物というのは自分の能力を発揮すること、そのこと自体に大きな快感が伴うように最初から作られているのでしょう。頭を振り絞った挙句見事にあがったマージャンとか、周到に準備して五感を研ぎ澄ませて遂に大物を釣り上げたときとか、きれいに一本背負いが決まったときとか、もう滅茶苦茶快感に包まれるのでしょう。それは結果が良かったからということもありますが、ストレートに自分の能力を発揮できた喜びの方が大きいと思います。
また、突っ走ってると迷いが少なくなって精神的にも気持ちいいのでしょう。よく自動車教習所で、時速60キロのときの視界、時速160キロの視界とか教わりますが、突っ走れば突っ走るほど周囲が見えなくなります。それと同じで、人間、目的に向かって爆走しているときは周囲が見えなくなります。それは視野狭窄で本来は良くないのかもしれませんが、余計なことをいろいろ考えないから、やってる本人としては、結構ハッピーなのだと思います。
迷いなく自分の能力を十全に発揮すること、これに勝る快感は少ないと思います。
なんでそんな疲れることが気持ちいいのか?というと、肉体的にはある程度動いて適度に疲労した方が新陳代謝が順調になってより健康で気持ちいいのがひとつ。精神的には、激しく能力を発揮するときに、強烈な自己確認、自己実現ができるからなのでしょう。
そのトライアルが過酷であればあるほど、自己確認の度合いもより強烈になり、気持ちいいのでしょう。だから、ゲームでもなんでもより難しいものの方が燃えたりするわけですよね。
なお、爆走戦闘状態が連綿と続き、スキルが向上していくことによって、より高次の認識に至るという「悟り」的効能もあるのでしょうが、これはどちらかというとオマケみたいなものかもしれません。本人は盲目的にオラオラと爆走してるだけなんだけど、これを他人が好意的に見ると、「修行」とか「精進」とかいうこと状態になるのでしょう。だから、古来、刻苦勉励をして偉業を成し遂げた人というのは、それがエラいからやってたというよりも、やりたくてやっていたのでしょう。本当はやりたくないんだけど世の為人の為だから嫌々やっていたというよりは、単に気持ちいいからやっていたという部分が強いと思います。
しかし、冒頭で述べた、「食っちゃ寝」の動物達の説得力は、機能世界の快感原理からはストレートに説明し尽くすことが出来ないように思います。
飼われている動物達は、野生世界のように食べること、生き残ることに必死にならなくても済みます。待ってりゃ勝手にエサが出てきてくれますから。だから、全身全霊で戦わなくても生存できてしまうということで、その意味では人間と同じ状況にある言えます。
しかし、彼らは人間がそうするように、剰余エネルギーを使って失われた快感を求めようと足掻いたりしません。時間が余ったら、もう、ひたすら寝る。多少遊んだり、散歩したりもしますが、基本的には寝てます。まるで寝るために生まれてきたかのように、寝る。
そして彼らの姿には、寝ることに迷いも罪悪感もありません。余暇時間をもっと有意義に、とか考えません。「このままではオレは堕落していく」と焦ったりもしません。
なぜそんなに確信ありげに、何もしないで寝てばっかりいられるのか?
なぜ寝てるだけの彼らの姿が、堕落の腐臭を感じさせず、それどころか、ときとして気高くさえ見えるのか?
それは、「不必要なことは一切やらない」という、これまた機能主義の徹底した表れだからなのかもしれません。
彼らは、生きるという、ただそれだけで十分に満ち足りることができる。
贅肉を削ぎ落とし、シンプルにシンプルに研ぎ済ませていく機能主義世界は、究極的には「生きる」という超シンプルな世界にたどり着くのでしょう。命がけで難事業に挑みギリギリのところで生命を燃焼させる快感すら、また「贅肉」に過ぎないのだと削ぎ落としていけば、最終的には食べて、寝るというシンプルな姿に行き着くのかもしれません。
若い頃から厳しい身体的修行と、難解な哲学的思索を繰り返し繰り返し行うことによって悟りの境地にまで達した禅寺の和尚さんの日々の佇まいは、無駄を削ぎ落とした、超シンプルな生活だったります。テレビも見なければコンビニにも行かない。趣味もなければ、スポーツもしない。朝は早く起き、掃除をし、読経勤行をなし、裏庭の畑の手入をし、質素な食事を摂り、夜は早く寝る。まるで囚人のような、僕らがちょっと真似したらシンドイ&退屈で発狂しそうな日々だったりするのでしょう。
しかし、そこには「必要なことは行う」「不必要なことはやらない」「それ以上思い惑わない」というスイス・アーミーナイフばりの研ぎ澄ませたものがあるのでしょう。なにかをジタバタやることによって自己実現を果たそうとすら思わない。今ここに生きていること、ただそれだけで十分に自己実現できてしまっている。だから無駄なことはしない。他人の誉められ賛美されることによって、自分を確認したりすることも必要ではない。
悟りには程遠い僕などからは気が遠くなるほど彼方の話なのかもしれませんが、機能的世界観を極限まで推し進めていくと、なにも時速300キロでぶっ飛ばさなくても、高い山に登らなくても、世界を征服しなくても、アレをしなくても、コレをしなくても、「いま自分がここに存在する」という圧倒的に不可思議な事実に思い至り、そこで爆発的な歓喜を得られるんじゃないかと思ったりします。
機能的価値観を推し進めることによって、存在的価値観に至る。
赤ん坊や子供は、この世界に自分が存在するということだけで十分にハッピーになれる。それがいつしか自我が芽生え、自分をもっと確認したくて色々やり始めるようになる。機能世界の快感原理にのっとり、散々あれこれやり尽くした末に悟る。別にそんな御苦労なことをしなくたって、自分がここに存在することに変わりはないのだと。
だから、まあ、一生かかって、もと居た場所に帰ってくるのでしょう。
そう思うと、人間の知性ってそれこそ何のためにあるのか?と複雑な気分にもなりますよね。妙な知性があるから余計な疑問(自己懐疑)を抱き、その疑問を晴らすために大汗かいて大廻りをしてきて、もとの場所に戻るという。それでも元に帰って来れる人はまだいいです。多くは行ったきり、どっかで野垂れ死んでしまうという。巨万の富を築き上げながら、「結局オレの人生はなんだったんだ」と深い懐疑に取り付かれて死んでいったりする。動物はそんな余計な知性を持ってませんから、生きるということを最初から最後までピュアに楽しめる。機能主義だ存在価値だと面倒臭いことも考えない。機能すなわち存在であるという、梵我一如みたいな境地に最初から到達している。
「禁断の知恵の木の実を食べたアダムとイブは、エデンの楽園を追われました」という聖書の一節は、妙に示唆的ですね。
というか、「妙に小利口になったがゆえに、却って不幸になってしまう」なんてことは、昔っから実は誰でも知っていたことなのかもしれません。
縁側の日当たりのいい場所で、スヤスヤ眠る猫も、そんなことは先刻ご承知なのでしょう。
かたわらでドタバタ走り回っている人間たちの姿を薄目で見ながら、「ほっほっほ、若いのう」なんて心で呟いているのかもしれませんな。
写真・文/田村
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