今週の1枚(08.03.24)
ESSAY 354 : 勇気というVIRTUE
写真は、Manlyに向かう途中にあるBalgowlah HeightsにあるTania Park。ここは眺めもいいし、オススメスポットであるのですが(車がないとちょっとツライけど)、超だだっ広い芝生は、夕暮れ頃になると犬の楽園状態になります。これだけ大きなところを全力疾走してて、いかにも楽しそうです。
はい、ここでまたブレイクを入れます。シリーズも長くなってきたので、これまで以上に頻繁にブレイクを入れることにします。その方がChange of paceで新鮮味があるでしょう。またここから先、近世から現代史になると話が複雑になってきますので、「あー、もう、早く仕上げなきゃ」ってモードで書いてると不十分になる恐れがあります。
VIRTUEという英単語があります。”ヴァーチュー”と読み、日本語訳は「美徳、徳目」などで、人間の素晴らしい特徴です。
これも調べ出すと道徳、倫理学、宗教、哲学と果てしなく広がっていき、とてもフォローしきれそうにないですのですが、簡単に概観すると、西洋において人間の美徳(VIRTURE)というと、まず出てくるのは”Cardinal Virtues ”と呼ばれるクラシックな美徳、4つあるので「四元徳」とも言われるそうで、justice(正義), prudence(思慮), temperance(節制), fortitude(堅忍) です。ギリシャ哲学のプラトンとかアリストテレスが唱えたものです。これに、キリスト教神学でのfaith(信仰), hope(希望), charity(愛)の三つ(THEOLOGICAL VIRTUES という)を加えて合計7徳目になったりします。
古来人々は、人間はなぜ素晴らしいのか、人間のどういうところが素晴らしいのか、どういう人間が理想なのかということをあれこれ考えていたわけですね。もちろん西洋やキリスト教だけではなく、イスラム教においては”Righteousness、Respect、Justice、Perseverance(忍耐)、Frugality(質素)、Sincerity、Honesty”がVirtureと考えられているそうです。一方、仏教においては例えば八正道という概念があります。Right Viewpoint、Right Values、Right Speech、Right Actions、Right Livelihood、Right Effort、Right Mindfulness、Right Meditation =正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定 というそうですが、まあ要するに、正しく見て、正しく考え、、、という人が正しくあるための規律を述べています。そのほか、ニーチェはこう考えたとか、孔子の儒教、日本の武士道、里見八犬伝の仁義礼智忠信孝悌、、など、各民族各時代あれこれ考えていたわけです。
これに対して「人間のここがダメ」という悪徳を、VICE(ヴァイス)と言います。
これもまた7つあって「七つの大罪」=The seven capital vices あるいはSeven deadly sinsと言います。Lust (色欲)、Gluttony (暴食)、Greed (強欲)、Sloth (怠惰)、Wrath (憤怒)、Envy (嫉妬)、Pride (傲慢)の7つです。ここまで書くと、「ああ、あれか」と思い出す人もおられるでしょう。モーガン・フリーマン、ブラッド・ピット主演の映画「セブン」です。この7つの大罪をなぞった連続殺人事件の話です。この概念は創作者をインスパイアするのか、他にも沢山の作品に取り入られています。僕はあまり見てないけど最近では「鋼の錬金術師」などにも7つの大罪に相応する敵キャラが考えられているそうですね。
余談ですが、7つの大罪を敵キャラになぞらえる発想は大昔からあって、この7つに対応する悪魔もちゃんといます。プライドはルシファー、ジェラシーはレヴィアタンとかね。以下、サタン、ベルフェゴール、マモン、ベルゼベブ、アスモデウスです。7つの大罪そのものは、13世紀のスコラ哲学、トマス・アクィナスの「神学大全」が出所ですから、正当派キリスト教神学です。しかし、ルシファーがどうしたいう対応関係は、16世紀のPeter Binsfeldというオッサンが考えたものです。ビンスフェルドという人はカトリックの聖職者だったのですが、頑張って魔女狩りやってたりして、かなり頭の中身は中世だったようです。一応地方のビショップ(司教)になってるからキリスト教のバリバリの聖職者ではあるのですが、キリスト教本流からすれば「無かったこと」にしたい魔女狩りなど中世的錯乱の王道、悪魔研究に没頭していってしまった人ですね。ビンスフェルドが7つの罪と7つの悪魔の対応関係を書いたのは1589年らしいのですが、当時にしてもすでに時代遅れの発想だったのではないでしょか。ここでキリスト教シリーズでのお勉強が生きてくるわけですが、ルターが宗教改革はじめたのは1517年、ヘンリー8世が破門になってイギリス国教会を作ったのが1534年、コペルニクスが地動説を発表したのが1543年(同じ年に日本に鉄砲伝来)、エリザベス一世が女王になったのが1558年、スペイン無敵艦隊が敗れたのが1588年ですよ。彼がこの本を書いた頃(1589)には、ガリレオはもう慣性の法則などの物理実験やってます。日本だって秀吉が天下取ってます。ここまで時代は進んでいるのに、まだ悪魔がどうしたとか研究しているってのはちょっとね、、と思いますよね。
しかし、話としては面白いので、彼の7つの悪魔類型は通俗的な悪魔系・オカルト系サブカルチャーで人気アイテムになっていきます。こういう話が大好きな人は今も昔もいますからねー。悪魔系サブカルのことを西欧ではグリモワールというそうですが、「ソロモンの鍵」「黒い雌鳥」とか古典ともいうべき人気作品が沢山あるそうです。内容は、皆も知ってる、魔法陣書いてエロイム・エッサイム(正しくは”Eloim Essaim frugativi et appelavi」”)とか唱えて、、とかいう例のアレです。これって中世ヨーロッパにおける秘儀がどうしたとか権威付けっぽく語られますが、大体が17世紀以降に盛んになったと言われていますから、本当は中世じゃないのね。どんどん世の中が合理的になっていくのに逆行したい人達がやってたような感じがします。だいたいこういうのが世に流通するというのは、要するにルネサンスで活版技術が出てきて、その後時代を経て一般庶民にまで活字メディアが普及し、メディア産業というのが起こってきてからじゃないかなあ。儲かるからサブカル関係で出版して、、、って感じじゃないんですかね?今とあんまり変わらんような気もします。
いきなり話は逸れましたが、人間の美徳の話です。
最近このことをよく考えます。といって別に僕が道徳的に目覚めたとか、倫理的に正しくあろうと一念発起したわけでもないです。まあ、そうなればいいんですけど、中々ねー。じゃ、何を考えているんかというと、「いやあ、結局、そういうことなんだよなあ」とつくづく思うという、、、これじゃ、分からんですよね。
文化とか民族性とか、主義主張とか、思想とか、好き嫌いとか、いろいろありますけど、煎じ詰めればこの美徳のアクセントの付け方なんじゃないかと。美徳というのは、4つとか7つとか言われますが、思いつくまま数え上げていけば数十という単位であります。またVirtue(美徳)も、じゃあなんでそれが美徳なのよ?と言えば、それが何らかの価値(Value)を含んでいるからで、美徳は価値に分解されるとも言えます。美徳は分子で、価値は原子みたいなもので、酸素と水素が結合してH2O(水)になるように、ある種の価値を結合・具現しているものを「美徳」という、と。まあ、このあたりは言葉・表現の問題という気もしますが。
数十もあるという美徳、ここで列挙してみましょうか?
思いやりや慈悲心にあふれること、勇気をもつこと、忍耐力のあること、他者や現実を受容出来ること、純粋であること、柔軟に受け入れ対処できること、大事な物事に厳格であること、聡明で深慮深いこと、堅実であること、節制できること、信頼し/されること、熱情あふれること、友情に厚く、人を愛すること、他者に対する敬意、清廉であること、どんなときも希望を忘れず、陽気でユーモアもあり、正義感が強く、高潔であり、協調心に富み、創造力にあふれ、公正であり、規律を大切にし、分け隔てせずに公平に接し、虚飾に走らず素朴であり、他者に依存せず自立し、先見の明があり、大胆にして細心であり、克己心、平常心、魂の強靱さ、物惜しみせず、正直であり、探求心にあふれ、、、、、、キリがないからこのくらいにしておきますが、メチャクチャ沢山あるってのが分かればいいです。
その裏返しとして悪徳もやたら沢山あります。
今度はちょっと趣向を変えて、Wikipedia(英語版)の"VICE"で出てくる "example of vices(悪徳の例)"を一気に羅列します。はい、英単語テストです。あなたは以下の単語をどのくらい知ってますか?
absent-mindedness, addiction, aggression, alcoholism, animosity, antagonism, apathy, bigotry, bitterness, blindness to alternatives, callousness,
capriciousness, carelessness, child sacrifice, cowardice, corruption, cruelty, denial, dependence, despair, diffidence, dishonesty, dishonor, isobedience,
disrespectfulness, drunkenness, excess, favoritism, filthiness, flippancy, flightiness, foolishness, greed, hatred, hostility, ignorance, inconstancy, indecision, indifference, indolence, indulgence, inequality, infidelity, inferiority, ingratitude, injustice, insincerity, intemperance, immodesty, immorality,
impatience, impiety, improvidence, irresponsibility, irreverence, lack of commitment, laziness, lewdness, licentiousness, lightmindedness, malevolence, malice, misanthropy, misandry, misogyny, moral relativism, negativity, omissiveness, officiousness, paranoia, parasitism, passivity, permissiveness,
perversion, pessimism, poor judgment, prejudice, presumptuousness, pride(hubris), procrastination, promiscuity, purposelessness, rashness, rudeness,
ruthlessness, secretiveness, self-degradation, selfishness, sensuality, shortsightedness, slackness, slavery, slothfulness, suppression, stinginess, stubbornness, stupidity, tactlessness, treachery, unfairness, unforgiveness, unkindness, unscrupulousness, unsophistication, vanity, violence, wantonness, weakness, wildness, uncivilization, wiliness, worldliness
わりと見慣れぬ単語が出てきますので、適当に訳しておくと----、
放心(うっかり)、中毒、攻撃的、アル中、反感、敵意、無感動、尊大、辛辣、他の手だてを考えない、冷淡、気まぐれ、注意散漫、子殺し、臆病、腐敗、残虐、否定、異存、絶望、反抗、不誠実、侮辱、不服従、不敬意、酩酊、過剰、偏愛(エコヒイキ)、不潔、軽率、あだっぽさ、愚かさ、強欲、憎悪、敵対感情、無知、首尾一貫しないこと、優柔不断、冷淡、遊惰、耽溺、不公平、不倫、劣性、迎合、不正義、不誠実、放縦、不作法、不品行、短気、不孝、先のことを考えない、無責任、不遜、何に対しても関わりを持とうとしないこと、怠業、卑俗、放蕩、軽薄、悪意、恨み、人間嫌い、男嫌い、女嫌い、倫理についての相対主義、陰湿、手抜かり、専横(おせっかい)、偏執、寄生(おべっか)、過度に受動的、過度に許容的(甘やかし)、濫用、悲観、貧しい判断能力、偏見、出しゃばり(生意気)、虚栄(うぬぼれ)、ぐずぐずして先延ばしにする(因循)、乱雑、無目的、無分別、傲慢、無慈悲、秘密主義、自己卑下、自己中心的、好色、近視眼的、だらしない、奴隷的拘束、無精、抑圧的、ケチ(吝嗇)、頑固、愚かさ、無計画、裏切り、不公正、不寛容、不親切、破廉恥、粗雑、虚栄、暴力、放埒、弱さ、ケダモノ的、野卑、ずる賢い、俗物
ってな感じになるのでしょうが(疲れた)、翻訳の宿命で日本語にしちゃうとニュアンスがズレるもの沢山あるけど、まあ、大体のところで。
なんとなく悪徳の方が親近感ありますね。美徳は、確かに素晴らしいのだけど、「どっかのエラい人」という距離感があるのに対し、悪徳の方がより人間的って気もします。「あ、俺のことだ」とか思ったりして(^_^)。
さて、その星の数ほどある美徳、悪徳がどうかしたのか?というと、僕らの社会システム、僕らの行動原理というのは、こういった美徳/悪徳の力学の物理法則に従っているんじゃないかってことです。
美徳も悪徳も、それ自体強烈な吸引力をもっていて人を惹きつけます。いわば宇宙空間における星系間の引力みたいなものです。僕らは、さまざまな引力が乱れている空間を、無力なタンポポの種子のようにフワフワ浮遊し、より近く、より強力な引力にひきつけられ、自らもそのように染まってしまう。朱に交われば赤くなると言いますが、周囲が粗雑で怠惰な人間ばかりだったら、やっぱり自分もそのようになってしまうし、周囲が明るく公正な人達だったら自分も又そうなる。絶対そうなるとは言えないけど、それなりに多大な影響は受けるでしょう。
このような力学法則があることを前提に、僕らの倫理、道徳、宗教、教育、法律、システムが作られているのではなかろうか。
子供の躾けや教育などは典型ですが、子供がなにかの悪徳方向へ引っ張られそうになったら親が叱って押しとどめ、またより良き方向へ向かって欲しいから偉人の伝記なんぞを読ませたりするし、過度に暴力的だったりセクシャルなTV放映や出版を規制しようという話になったりもします。そこには、放置するとフラフラ〜と変な方向にいって取り返しがつかなくなったりするという危惧があるわけで、その危惧というのは悪徳・美徳の人間への干渉力を前提にしています。これは何も子供の教育だけではなく、刑法とか警察のような司法システムや、政治献金やインサイダー規制などのシステムにも現れているでしょう。要するに、ほっておくとフラフラとそっちに向かう人間もありうる、だから法律や刑罰で歯止めをかけましょうってことですね。
上にだーっと列挙した美徳や悪徳の数々ですが、ひとつして僕らに無関係なものはないです。自分の心のあちこちには、VICEと呼ぶべくイヤらしい性根が潜んでいるし、同時にVIRTUEもまた宿しています。また、それらに対する感応力もあります。明るくて素朴な人を「いい奴だな」と思うし、エラそげで傲慢な奴を「イヤな奴だ」と思う。そう思う=感応する力を持っている。こういった美徳悪徳の影響力や感応力が無かったら、物語もドラマも作れないですよ。善玉悪玉がなくなっちゃうんだから。誰が見てもイヤな奴が出てきて、そいつが最後にやられちゃうからカタルシスを得るわけですから。
しかし、自分の中に無数の美徳と悪徳を飼っているように、他人にも美徳と悪徳が入り乱れています。ある美徳を追求していくと不可避的になにかの悪徳とジョイントしてしまうこともあります。「自己の信念に忠実」というと美徳になりますが、そういう態度は同時に「頑固」「独善」という悪徳を現実的にはらんだりします。親切さは人によってはお節介、過干渉になり、思慮深い人は優柔不断に見えたりもする。また、「悪の魅力」ともいうべきものもあります。冷酷で無関心なのが孤高に見えたりもする。
このように美徳と悪徳が入れ乱れ、万華鏡のように千変万化する人間性において、人々をよき方向に導くにはどうしたらいいか、何が最も根本的な原理になるのか、それを考え続けてきたのが哲学であり、宗教なのでしょう。もちろん論者により、宗教によって、どのエッセンスを根本に据えるかはバラバラですけど、なんとかこれらを整理し、一つの原理体系に整えようとしている点では共通しているでしょう。さらに道徳や宗教においては、これらの価値を現実化するため、あたかも健康体操のように、日常的に実践可能なパッケージしたりします。食事の前にお祈りするとか、仏前に手を合わせるとか、日曜に礼拝に行くとか、朝早く起きて勤行するとか。定期的に「ああ、そういう美徳もあったよね」と思い出させてやらないと、人間というのはすぐにフラフラどっかに行っちゃうのでしょう。食後の歯磨きのように、日常的に思い出しメンテナンスをしましょうってことだと思います。
僕らが他人を好きになったり嫌いになったりするのは、これら美徳や悪徳が体現されているからだと思います。
誰かを好きになるのも、ルックスや身分もあるでしょうが、近くに行けば行くほどその人の人間性、何らかの美徳をその人が持っているという点に惹かれるからでしょう。「優しくて面白い人が好き」というのも、思いやりとか明朗さという美徳がそこでは認められているわけです。逆にある人を嫌いになる場合でも、なんだかんだ表面的な理由はありますが、究極的には「人間的に嫌い」という、なんらかの悪徳を感じ取って嫌っているのだと思います。離婚事件などをやっておりますと、双方の非難罵倒合戦になるわけですが、よくある「稼ぎが悪い」「家にお金を入れない」「家事をやらない」「子供の面倒を見ない」などというのも、「怠惰」「冷淡」「自己中」「無責任」「無計画」などのVICE(悪徳)が発現しているといえます。
ところで、また余談なんですけど、往々にして夫婦間の喧嘩って話が噛み合いませんよね。これって相手に対する非難(改善ポイント)の表現が微妙にズレてるからだと思います。例えば「家事をやらない」という言い方で表現されているからといって、やりゃあいいってもんでもないんですよね。イヤイヤやってられても嬉しくはない。「家事を分担”してやってる”」みたいな意識が感じられたら、それがイヤなわけです。なんでイヤかといえば、家事の分担というのは「苦労は一緒にシェアしていこう」という基本コンセプトがあってこそであり、それは相手の苦労や立場に対する深い洞察力や理解力、思いやりがなければ出てこない。それなのに「本来自分がやらなくてもいいけど、自分は優しいから相手の分もやってやってる」という意識でやってられると、それは優しさというよりも「恩着せがましさ」に感じられる。なぜかといえば根本部分で苦労シェアという発想がないから、ひいては相手を一生懸命理解しようという思いやりも理解力もなく、それは他者に対するレスペクトがないからという究極的な悪徳につながっていくわけです。しかし、そんな複雑な論理を、あの夫婦喧嘩の興奮しきった修羅場で説得的に展開できるわけもなく、「家事をやらない」という非難をされれば、「やってるじゃないか、これ以上何をしろというのだ!」という売り言葉に買い言葉の応酬に陥ります。
しかし、これは合わせ鏡のようなもので、自分が理解されていない、レスペクトされていないと思ってるときは、自分だって相手を理解もレスペクトもしていないと疑った方がいいです。非難された側にしても言い分はあります。家事以外に夫婦間で分担すべき事は山盛りあるわけで、シェアをいうなら夫婦の生活を含めて全体で見ていかねばならない。より社会的に効率的に稼げる人が働いて「外貨獲得」をし、他方が内政をやるというのも一つのシェアのあり方です。そこで大きな分業やシェアがなされているにも関わらず、自分の負担分をもやれというのは自己中にもほどがあるとカチンとくるわけです。結局、どっちも同じことを要求しているのですね。「ちゃんと理解し、相手の立場を洞察しろ、その上で公正に判断しろ」と。
でも、人間というのは、どうしても自分が貢献した部分の方が相手にやってもらってる部分よりも大きいように感じられます。加害意識よりも被害意識の方が常にデカく感じる。自分の足が踏まれたら1秒だって我慢できないけど、「踏まれているのが他人の足なら100年だって我慢できる」という名言があるくらいです。職場なんざ不愉快の巣窟のようなもので、まず満員電車で不愉快になり、下げたくもない頭をさげさせられ、出来の悪い新入社員が拗ねてたら、ブン殴りたい衝動を押し殺して猫なで声で誉めたりするわけです。それもこれも生活のため、ローンのためです。一方、家事内務だって不快の塊であり、むずかる子供を自転車に乗せてスーパーに買物にいけば途中で土砂降りになるわ、腕力の限界まで買物袋をぶら下げ子供を抱きかかえていれば、最近めっきり弱くなったビニール袋がブチンと切れて中の缶詰や冷凍食品がエレベーターホールに散乱したりするわけです。般若の顔して廊下をのし歩けば、角で近所のうるさ型の奥さんに出会い、女優ばりの演技でコンマ3秒で優雅な笑みに切り替えたりするわけです。相手の苦労なんか考えてる余裕なんか無いです。それが普通の人間でしょう。だから、「自分ばっかりワリ食ってる」という意識は一日ごとに累積され、ドリップコーヒーのように心の中に一滴、また一滴とコールタールのような毒が貯まっていく。そして自分で作った毒に自分が当たってしまう(自家中毒ってやつですな)。このいったどーしよーもない生理感覚をベースにしているから、本人的には公平に考えているつもりでも、基礎データーが狂ってる(=自分の苦痛の方が相手よりもはるかに大きいという錯覚がある)以上、客観的には自己中心的な主張にしか写らない。ましてや相手の基礎データーも真逆に狂ってるわけだから二倍のギャップで感じられるしょう。これは互いにそうなる。だから喧嘩になるという。海幸彦・山幸彦。
で、恒例のように、定期的に大衝突が起きるわけですが、おそらく長く続いている夫婦や、永続的な家族においては、このあたりの原理が何となく分かってるんだと思います。相手がふっかけてくる無理難題(でも相手は正当だと思ってる)も、それが他者への不寛容と冷淡さ、エゴイズムといった救いのない悪徳の現れとして出てきているのではなく、あまりにもアップアップしてるから冷静な判断が出来ないだけだと。ついつい自分のことしか見えないような状況に置かれているからムチャクチャな発言になるだけで、「本来的にこの人は悪い人間ではない」と思えれば、まだ我慢も理解も出来ます。ところが「こいつはそういう冷淡な人間だ」と悪徳にダイレクトに結びついてしまえば、もう許せなくなる。一緒にいれなくなるでしょう。アホなのはまだ我慢できるが、悪党なのは我慢できないということです。このあたりが分水嶺でしょうね。
離婚事件などをやっていますと、あるいは我が身の夫婦喧嘩を省みますと、相手に対する怒りの感情というのは、ある地点を越えると私憤というよりも公憤に近くなりますな。個人的な恨みつらみ、被害感情ではなく、「このような不正義が許されて良いわけはない」「このような悪魔のような人間を放置してはならない」という、妙にパブリックな怒りになっていきます。そうなると、環境問題や政治家の不正を訴える活動家のように、「ここにこんなヒドイ人間がいます」という訴えになります。まあ、本人的には正義のために糾弾しているような気分になったりするのですね。普遍的な悪徳を介在して、話が一般的になっていき、しまいには公共の利益のために弾劾するみたいに盛り上がってしまうという。しかし、まあ、頭を冷やす意味で冷水をぶっかけておきますが、所詮はどこまでいっても夫婦喧嘩。「犬も食わない夫婦喧嘩」です。よほど極端な事例を除けば、第三者から見たらどっちもどっち。
ところで、オーストラリアは、基本的に西欧的価値システムによって動いている社会であり、日本とはさまざまな面で違う。とはいつつ、均一化されつつある現代の消費社会では、そーんなに大きく何が違うというものでもありません。ただ、個々の美徳のアクセント、強弱の付け方は確かに違うなあって思います。どこがどう違うか、断片的に色々感じることはあり、このエッセイでも過去に色々書いてます。
そんな中で最近よく思うのは、日本は「忍耐」という美徳を強化する社会であるのに対し、オーストラリアは「勇気」をエンカレッジする社会だなと。あ、こう書くとちょっと違うか、別にオーストラリアや西欧が突出して「勇気」を称賛しているわけではなく、一般的に重んじられるのは個人の自立性であり、行動力であり、「個」が「個」としてしっかり立つことだと思います。これに加えてオーストラリアの場合は、マルチカルチャル国家なので異文化に対する許容性(トレランス)というものが特に国策的にエンカレッジされている部分もあります。だから「勇気」だけを取り出して重んじているわけではない。冒頭の4大美徳にも、7つの美徳にも勇気は入ってませんもんね。
むしろ、オーストラリアに馴染んだ目から見なおしてみたら、日本の社会においては「忍耐」を称賛する文化は多いのだけど、「勇気」を称賛する文化は少ないという特徴に気がついたということです。日本人は辛抱したり、我慢したりすることには強いです。子供の頃からそう訓練されていますし、忍耐力のある人間を高く評価する傾向があります。また、忍耐力のない人間を軽蔑したり、学級崩壊のように辛抱の足らない子供達を苦々しく憂いたりもします。それは悪いことではないし、その忍耐力があるから日本という社会が成り立ち、ここまで成長して来れたわけで、むしろ世界に誇っても良い。
ただ、それに比べると「勇気」を養う機会には乏しい。乏しいどころか、考えてみたら正規の教育ルートで勇気を学ぶ機会というのは殆ど無いかもしれない。勇気というのは、恐怖や不安を乗り越える強い意志の力であり、状況がどんなに悪かろうとも自分の足だけで立っていけるという強い自信です。恐怖を乗り越えない限り本当の意味で自信は付かないし、自信がなければ意思も力も弱く、また勇気も湧かない。
僕らがこれまで生きてきた中で勇気を養う機会というのは、例えば子供の頃の「危ない遊び」です。高い塀から飛び降りたり、木に登ったり、自転車で危険なワザに挑戦したり、どっかの家の窓ガラスを割ってしまったときに謝りに行くことであったり、取っ組み合いの喧嘩をしたりという場面でした。長じては受験や面接、あるいは個々の仕事の局面でしょう。特に弁護士をやっていれば、暴力団なりガラの悪い連中に取り囲まれたり、対決したりする機会(倒産処理とか)もあるし、どんな仕事でも圧倒的に逆境の中で足が震えながらもたった一人で頑張らねばならない局面はあるでしょう。それが人を鍛え、勇気を鍛えます。ある意味では、ヤンキー文化に染まっている方が、喧嘩やバイクなどで勇気を鍛える機会は多いかもしれない(例えそれが蛮勇であったとしても)。
西欧においては、ジョージワシントンの「桜の木を切ったのは僕です」話に始まって、コロンブスの航海にせよ、ひとりぼっちで恐怖と戦う姿勢をエンカレッジする文化があるように思います。特にアメリカなんかその傾向が強そうですね。だから、こちらの社会で最も人間として軽蔑される悪徳の一つに「臆病」があります。カウアード(coward)、スラングではチキン(chiken)呼ばわりされるのは、仲間内では死刑宣告に近いくらいの侮辱だったりします。だからたった一人で皆の前で反対意見を述べるのを比較的恐れない文化があり、オーストラリアでも「おかしい」と思ったら一人でも近所にビラに配ったり、デモをしたりします。そしてそうやって戦う人を世間は好意的に見るし、応援するところがあります。"Hey, come on, do it! do it now! At least you must try!"てな感じで。
これはどちらが良いとか悪いとか、優れてるとか劣ってるとかいう問題ではなく、数ある美徳のうちの価値序列やアレンジ配列が違うように思うと言ってるだけです。しかし、もしこれを前提にするなら、日本からオーストラリアにやってくる場合、特にワーホリや永住権を取って来る場合、我慢と調和の国から、勇気と自立の国に来るわけですから、それなりに発想を転換しておかれると良いように思います。特に海外ひとりぼっち状態ですから、ある意味では地元民以上の勇気を振り絞らなければならない局面も多いでしょうから。
しかし、昨今の日本では、これまで以上に勇気がスポイルされる傾向があるように見えます。
まず、子供の頃にあんまり「危ない遊び」をしなくなったというか、出来なくなりましたよね。まず環境的に危ない遊びが出来ない。僕は特に活発な子供ではなかったですが、小学校低学年までに何針か縫う怪我を、えーと幾つかな、5回か6回はやってますよね。こんなの別に平均的な数字じゃないかな。縫うほどではない怪我は数え切れないし、だから手当も慣れたものだし、血を見ても別にどってことないです。しかし、今これだけ怪我しようと思っても、空き地もないし、鉄条網もないし、廃材置き場も少ないし。それに、山林の中にはいって”探検”するとか、幽霊話を確かめに廃屋に行くとか、恐怖を抱かせる場所は環境的に沢山あったけど、今はどうかしらね。
それに親や周囲がそういう危ないことをさせなくなったって部分もあります。まあ、僕らの時も親が怪我するのを応援してたわけではなく、さんざん怒られていたわけだから、親が何を言おうが子供は言うこと聞かないもんです。そんな親の言うこと聞いてる子供がいたら気持ち悪いわ。だから親がどんなに注意してても、普通だったら子供は怪我するもんでしょう。特に男の子は。でも、あれ、意味あると思いますよ。どういう状態がシャレにならないくらい危ないかというのが身体感覚で分かるから。そのせいかどうか証明は出来ないけど、現に僕の場合、大怪我はしたこともないし、骨折したこともないし、入院経験もほとんどゼロ。死なない程度、重大な後遺症を残さない程度の怪我だったら、これも一つの教育機会なんだとは思います。喧嘩も同様。でも、最近は、そういう機会が少ないし、子供に怪我をさせた親を周囲が非難しすぎって部分もあると思います。でも、これって、自分がそうやって育ってないと分からない部分ってあると思います。
オーストラリアの場合、子供を良く外で遊ばせます。トランポリンが盛んで結構な家庭でトランポリンが庭にあって、幼稚園くらいの頃からポンポン飛んでます。ウチの隣もそうで、近所の子が遊びに来て公園状態になってたりします。危ないっちゃ危ないんだけど大人がついていて、ここまでだったらOKという見極めが上手なんですよね。毎年、うちのストリートで同じストリートの住人が集まって近くの公園でパーティするのですが、子供達もそのあたりを走り回って遊んでます。感心するのは、子供が一人で変なことしないように、さりげなく大人が見てるんですよね。それは他人の子でも同じで、一番近いポジションにいる大人がさりげに見ている。で、「あ、これは不味いな」と思うと、「いけません」って叱るのではなく「こうやるともっと面白いよ」と巧みに方向を逸らすのですね。結局彼らはそうやって育ってきているし、親もまた運動神経バリバリだから、そのあたりの見極めが上手なんです。だから何かといえば安全なのを一番だとは思わない。多少恐くてもやることに意味があることがわかっていて、子供は恐いけど客観的には安全ってラインを上手に作るわけです。
もう一つ、身体的な勇気ではなく、社会的な勇気です。学校でいじめられているクラスメートをかばったら自分がイジメられるという阿呆なシチュエーションが多い。しかし、このシチューションは大人社会がまさにそうだからでしょう。一人で社内の不正を告発してクビになった人間に対して社会は冷たい。偉いと言う人もいるし、皆もそう思ってるんだろうけど、「馬鹿だなあ」って空気もある。「もっと利口に生きればいいのに」という。挙句の果てに、KYとかいって空気読めよとか言う。たった一人で大勢に立ち向かう姿勢は、カッコいいもの、ヒロイックなものという価値観があったし、昔の少年マンガはそのパターンが多かった。ひとつのロールモデルにもなっていたし、それは極道などワルの世界では尚更強かったのだけど、だんだんそういう感じでもなくなっていってるみたいですね。なにかの本で読んだけど、中年の暴力団員がインタビューに答えて、「ワシらの頃は、一人で何人ブチのめしたというのが自慢話になったけど、今の若いのは15人で一人をボコボコにしてやったってのをあっけらかんと自慢するんですよ。まったく何考えるんだか」と。
まあ、こんな状況証拠とも言えない噂話程度で何が分かるものでもないけど、ただ言えるのは、社会の美徳の配列から「勇気」という栄養素が抜け落ちていくとどうなるか?です。人間から勇気を取り除いてしまったら、その人は臆病になり、自分に自信が持てなくなるから卑屈になり、無力な自分が人並みに欲望を満たそうとしたら正規ルートではダメだからズルい”近道”ルートを開発するでしょう。つまりは卑怯になり卑劣になるでしょう。そしてそういう人が増えた社会は、カラリと晴れた陽性な社会ではなく、陰湿なものになるでしょう。正々堂々と愛を告白する勇気のない人は、どうせ俺なんかダメだと思い、それでも諦めきれなかったら、やってはいけない”近道”をするかもしれない。つまりはストーカー行為に走り、痴漢行為に走り、イタズラ電話やネットを使った愉快犯的な行動に出るでしょう。そういう人間が増えた社会は、やっぱり陰湿な社会になりませんかね。
また、民主主義というのは最低限の勇気を人々が持っていることを前提にします。「おかしい」と思ったらちゃんと言うという。その「言う」権利、表現の自由を保障するのが民主主義の根幹ですが、「言う」にも勇気が要ります。しかし、その勇気を人々が持ってなかった場合、表現の自由は絵に描いた餅になります。したがって民主主義も機能せず、ただのお飾りになり、儀式になり、ひいてはその集団に自浄能力は無い、ということになります。
しかし、勇気といっても程度問題で、あまりにもハードルが高い場合、勇気は単なる自殺行為になります。人々の勇気を励起しようと思うならば、勇気を出して行為した人を称賛する文化や雰囲気を作ることでしょう。勇気をだして頑張った挙句、総スカンを食ってイジメられ、失業し、近所から白い目で見られたら、馬鹿馬鹿しくてやってられないでしょう。電車の中で誰かが酔っぱらいに絡まれているのを誰もが見て見ぬふりをするというのは端的にいって卑怯です。日本にだって昔から「義を見てせざるは勇なきなり」と、勇気を称賛する文化はありました。そりゃ酔漢なり暴漢がマシンガンを片手にラリっているとかいうなら話は別ですけど、普通の人だったらそれこそ多勢に無勢で収めることくらい出来るでしょう。それを大の大人が揃いも揃っていながらやらないというのは、世界的な感覚でいえば醜態であり、国辱といってもいい。また、止めに入った人が逆ギレした暴漢に刺されて死んだら、国が音頭とってその人の国葬をして、遺族に100億円の年金を贈り、駅に銅像を建てるくらいしてもいい。
僕の言ってることが冗談に聞こえるのだとしたら、それはあなたが勇気という美徳をそれほど重視してはいないということでしょう。僕は冗談で言っているのではなく、勇気のない社会、勇気のない人生がどれだけ不本意でミジメなものになるか、ある程度思うところがあるから言っているのです。親権変更の申立というのをしたことがあります。いわゆる暴力夫(しかも空手三段)と離婚した奥さんは、子供の親権をその夫に取られてしまっていたところ、勇気を出して親権者を自分に変えて欲しいと訴えたものです。いっときは自殺するつもりで海にまで入ったけど死にきれず、一回死んだ気になってやり直すというものです。家庭裁判所で調査が行われますが、子供の意見も当然聞きます。しかし子供は父親の暴力に脅されて「お父さんと一緒にいたい」と言わされたりします。でも子供は本当はお母さんと一緒にいたい、でも恐いから言えない。家裁の調査期日の朝、小学校6年になる男の子に言いました。もし、本当にお母さんを助けたかったら、勇気を出して言ってごらんって。男の子なんだからお母さんを守ってごらん。妹も守ってごらん。出来る範囲で構わない。恐くて言えなくても別に誰も責めはしない。逆にお父さんが仕返しするなら、僕や裁判所の人が君たちを守ってあげる。危害はない。でも恐いものは恐いよね。俺だって同じ立場だったらビビるよ。恐くてやってられないだろうよ。でも、ここ一番ってときはある。戦わなければいけないときはある。出来る範囲でいい、とりあえず頑張ってみようと思うだけでいい。やってみる?って。結局、本番でその男の子は何も言えず俯いていたけど、その意を汲んだのか、裁判所は親権変更を認めてくれました。子供の親権を取り返したお母さんは、親子三人で質素ながらも幸せに暮らし、あのとき真っ赤になって俯いていた男の子は、その後急速に大人びて、中学に上がって学級委員長になったりリーダー格になり、妹思い母思いの立派なお兄ちゃんになったそうです。
最後に繰り返しになりますが、ワーホリその他でオーストラリアに来られる方へのアドバイス。日本にいるときよりも、ほんのちょっとでいいから、自分の勇気というものを考え直してみてください。それが、ある意味では一番の準備になるでしょう。また、勇気を出した人間を、日本以上に温かく支援してくれる社会でもあります。トライすることを大事にする、エンカレッジする文化があります。だから、やってみたら意外と拍子抜けするくらい簡単に出来ちゃったりします。
もう一つ、これは勇気ではなく、美徳悪徳の話だけど、この世界には何百という民族や国家があるけど、そんなのあんまり気にしなくていいです。○○人はどうとか先入観があるなら全部捨てた方がいい。結局のところ、この世界には二種類の人間しかいない。グッドガイとバッドガイがいるだけだ。これは僕だけではなく、多くの人がそう言う。人間としての美徳を持ってる人は好かれるし、そうでない人は嫌われる。○○人でもいい奴もいれば気にくわない奴もいる。それだけのことです。話はとってもシンプルです。同時に、あなた自身の美徳を世界中の人から見られることにもなる。でも、ビビることはないです。自分がこんなにも世界の人から愛される人間だったんだってことに気付くと思うよ。それは、決して悪い気分のするものじゃないよ。
文責:田村
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