今週の1枚(01.12.31)
雑文/学力低下と自発的選択
ずいぶん前から、日本の若い人の学力が低下しているという話が出ているようです。
僕は、日本にいる日本人ほど頻繁に日本人に会ってないので、つまりサンプルケースが少ないので実感としては良く分からないのですが、どうなんですかね?火の無いところに煙は立たないといいますし、教育関係者などずっと同じ地点から継続して観察できる人=定点観測のできる人達からそういう議論がでてきているようですから、それなりの実態はあるのだと思います。
なにをもって「学力」というかですが、まあ、漢字の読み書きができないとか、簡単な算数が解けないとか、そういうことなのでしょうか。
しかし、いきなり脱線しますが、ここ十数年来のワープロ&パソコンの普及によって、漢字力の低下はこと若い人だけではなく、日本人全般の問題じゃないでしょうか。言語なんて、自分が思ってるほど確固たるものではないですからね。使わないとドンドンン忘れます。英語は勿論そうですが、日本語もそうです。大体こちらにきて半年位の人というのは、「英語は大して伸びてないけど、日本語だけは着実に劣化している」という、まるで「近眼は直らないけど、老眼は進行する」みたいなトホホ的状況になったりします。手で字を書く機会が乏しくなると、おもしろいように漢字を忘れますよね。また、意識していい文章を書こうと努めてないと、ボキャブラリも退化します。同じようにこちらで英語学校に通っていても、日本に帰ってしばらくすると忘却しちゃったりして、空しいものがあります。
算数ですが、これは自慢ではないですけど、僕は昔っからダメでした。「分数のできない大学生」とかいうようですが、分数、ヤバいですね。未だに覚えているのですけど、小学校3年のときでしたか、分数の割り算ができなくて、居残り授業をやらされたことがありました。教室のガラスがストーブの暖気で曇っていて、外は悲しいくらいに青空だったなあ。うん。よく覚えてますよ。
ハッキリ言いまして、分数の割り算、未だに理解してません。これね、なんで分からなかったのか、今でも覚えてます。というか、未だに同じ疑問点に留まっているのです。それは、「”分数の割り算”というのは自己矛盾ではないか」という気がするからです。だいたい、分数というものが割り算でしょう?9つのリンゴを3人で均等に分けました、9÷3ですよね。これを分数で表記すると「9/3」になるわけですよね。週300ドルのレントのフラットを3人でシェアしました、一人頭幾ら?で、300/3ですよね。割り算というのは、英語でいえばディバイド、分割であり、シェアであるから、まあ皆で仲良く分け合う「シェア算」だと思うわけです。ここまでは分かります、よく。
でも、分数の割り算って何よ?と思うわけですね。割り算の割り算でしょ?
これ、一回割ったものをまた別の基準で割る、つまり割り算を積み重ねていくのだったらわかります。例えば、週300ドルを3人で割ると一人週100ドルだとして、さらに「1日あたり幾ら」ということで7日で割るとかいうなら分かります。300÷3÷7ですからね。でもね、これは分数にしたら割り算ではなく掛け算でしょう?300/3×1/7だもんね。100÷7で、1日あたり14.28ですね。「そうか、1日15ドル弱か」と納得できるわけですよね。
ここで「分数の割り算」ということになると、分数の割り算は「分母と分子をひっくり返して掛ける」ですから、300/3×7/1でしょ?要は100×7で700でしょ。この700って何よ?って気がするわけですよ。700ドルがどうしたの?どっから出てきたの?なんか意味あんの?と。
分数の割り算が分からんのは、そんなこと実際にないから、ではないか。「分母と分子をひっくり返して掛ける」ような面倒なことをするなら、最初からシンプルに掛けてますよね。これまで40年以上生きていて、分数の割り算を使わねばならなかった現実的な場面というのは無かったように思います。三角関数とか、微積分とか、常用対数とかは、これは「ああ、こういう場面では確かに要るよな」ということが分かります。建築の現場とか。でも、分数の割り算というのはよう分からん。
これ、思うのですが、メチャクチャ難しい哲学的というか、形而上学的な作業だと思います。
「掛ける」の本質は何か、「割る」の本質は何か?ですよね。今、漠然と思うに、「掛ける」というのは、ある存在なり、メソッドなり、考え方なりを、「ストレートに適用」することだと思います。一人100ドル出資する人が3人存在する。だから、100×3であるという。今まで、10人の女の子に声をかけたら1人はOKといってくれた、成功率10%だった、だから今後300人に声をかけたら30人はOKといってくれるだろう、300×10%(1/10)という。つまりこれまでの経験によって導き出された法則(10回に1回は成功する)を、将来に向けて「ストレートに適用」するのが掛け算だろうと。反復生産していくものです。
割り算というのは、逆ストレートというか、ネガティブに適用するわけですね。人数が3人いれば、一人のときよりも3倍のパワーがある筈だからポジティブに見えますけど、人数多いのが逆にアダになることもある。ここに100ドルあります。一人だったら一人で100ドル独り占めにできるのだけど、3人いるから3分の1に減ってしまう。冬山登山で遭難して、食料があとチョコレート1枚しかありません。でも3人いるから、3分の1づつしか食べられません、という。拡大生産せずにどんどん縮小分割していく。
この「割っていく」という作業。深いですね。ただの割り算、ただの分数だけだったら、「一人頭いくら」のシェア算であるからついていけるのですが、分数の割り算になった時点で、「割る」ということの意味が純粋に抽象的になり、現実世界から離陸すると思います。割るということの記号的意味を考えて、「災い転じて福となす」みたいに、ネガティブのネガティブはポジティブであるという。これはもう「算数」ではない。それは、マイナスとマイナスを掛けるとプラスになるとか(なんで?)、二乗すると−1になるという(現実世界にはありえない)虚数とか、無理数とか、まさに数学が哲学と並んで人文科学に分類される所以であるところの数学=哲学世界の領域だと思います。
マイナスとマイナスを掛けるとプラスになるというのも嘘臭いですよね。僕は未だに納得できてません。
数学世界では、マイナスとプラスしか無い事にしてるから、つまりネガとポジしかなく、さらにマイナスというのはネガを意味すると同時に、ネガポジ変換スィッチでもあるという役割を設定してるからそうなるだけでしょ。そんなもん誰が決めたのよ。結局決め事でしょ。マージャンのルールみたいなものでしょ?マイナスとマイナスを掛けたら、ダブルマイナスになるということでもいいじゃん。文学的、社会的、法学にいえば、そっちの方が納得しやすい。不幸の上に不幸が積み重なってド不幸になるわけじゃん。「災い転じて福となす」ということだろうと強引に納得してやってましたけど、そんなこと滅多にないよ、実際。
思うに割り算までは自然科学っぽいのですね。現実の事象の裏づけがある。でも分数の割り算になった時点で、もうこれは自然科学的な現実感がなくなる。強いていうならこういうことでしょうか。月収10万円稼いでます。自分ひとりだけだったら10万円だけど、嫁さんと子供がいるから実際には一人頭3万円ちょっと。親子4人だと2万5000円。人数多いほど一人頭のお金が減る。しかし、一人頭のお金が減ることによって、生活保護の基準(月収一人頭3万以下とか)を満たして、逆に生活保護のお金が支給されるようになるという。不幸になればなるほど幸福になる可能性が高くなるという逆説的な関係。でも、これもドンピシャじゃないです。どなたか、分数の割り算を、現実の事例に即してピシッと説明してくれる方はいらっしゃいませんか?
というわけで小学校3年のとき、この問題にぶつかり、どうしても現実感覚として分数の割り算が理解できず、居残り授業を受けたのでした。で、居残り授業で分かったのは、数学的理解ではなく、「なんだか良く分からんけど、ひっくり返して掛ければいいんでしょ、そうすれば万事丸く収まるのでしょ」という社会的理解でした。それはつまり「世の中生きていくためには、納得できないこともしなければならない、納得したふりをしなければならないのだ」という世間智だったわけです。でも、そのとき僕はエジソンになり損ねたわけですな。
そのときの先生はとてもいい先生で、カーディガンがよく似合った、小柄で温厚な紳士でありました。
でも、その恩師のためにも言いたいのですが、『こんなもんただの約束事なんだから、わからんでもいい。世の中分からんけど皆で分かったふりをしてることなど幾らでもある』と言っていただきたかったです。というか、先生に「この問題の本質は決して「勉強」なんかじゃない」ということを言わせる自由を与えていただきたかった。
閑話休題。
「分数の出来ない大学生」というのを聞いて、僕の頭を去来するのは、あの冬休みの教室の風景でありました。
しかし、巷間語られているのはそういうことではなく、単純に「分数の掛け算」が出来ない(習ったはずなんだけど忘れた)みたいなトホホ級の話のようです。
まあ、でも、僕も大分忘れてますよ〜。円周率の出しかたとか、球の体積の求め方とか、小学校レベルでも結構怪しい、、というかダメなののも多いです。これ、覚えている奴のほうが少ないかもしれませんね。円錐の体積の出し方、覚えてますか?
若い人ばっかり攻撃するのも可哀想な気がしますし、僕らオトナも人のこと言えるほど賢いんか?という気はします。それ以上に、学力なり教養というものを問われるのがいっつも若い人だけってのが釈然としないです。なにが引っかかるかというと、若いとき、もっと端的に言えば、大学受験のときをピークとして学力というものは落ちるものだという日本人の暗黙の前提です。年をとっていくと、年相応に成熟しますし、知識も増えますが、いわゆる「学力」的なものについては低下して当然という意識がありますよね。英文法だって、日本史だって、どんどん忘れていってしまうし、そのこと自体を不思議にも思わないという。
この違和感は、さらに分割すると二つの異なった要素があります。ひとつは。「年をとっていったら力が落ちていって当然」という「加齢=能力低下」論に対する違和感です。これは、ことあるごとに述べてますが、僕は「年を取った方が若いときよりも殆どの領域において優越してなきゃ嘘だ」と思ってますから違和感があって当たり前ですけど。でもね〜、ほんと、若いときのほうが優越している部分も無いことはないけど、クールに見ればそんな領域は少ないんじゃないですか?体力だってメンテさえしっかりしていれば普通に考えるほど落ちるものではないです。性的魅力だって、実はそんなに落ちるものではない。「若くてピチピチの〜」みたいな魅力って、僕は未だにピンと来ませんしね。あれって、自分が若さという大切なものを失ってしまったという自己規定をしちゃった人だけに魅力的なのではないだろか。おっさんになるとセーラー服が恋しくなるみたいな。
日本の場合、年を取るととにかく何でもダメになっていくという、ほとんど宗教的とさえいえる不思議な「信仰」があって、その上で年を取ったことを言い訳の材料にしてるというか、自分を甘やかしてるような気がします。若さを持ち上げ、自分を貶める反面、そのことで自分がどっかで楽になってるような。僕は自分で若いとは思ってませんけど、そもそも若いということ自体がそんなに素晴らしいことだと思ってないんですから。自分が若いときのことを思い出してみればいいと思うのですけど、要するに未熟で、半人前で、使い物にならなかっただけですもんね。若いときは若いことが素晴らしいなんて思わなかった。誰だって思わないでしょう。それがいつしか美化されて素晴らしいことのように思えるらしいんだけど、僕は未だにそうは思えないだけです。まだまだ未熟だし、「こんなに未熟でいいんだろうか、いや、よくない」と思うくらいモノ知らんし、人間的にもダメだし。いや、卑下してるんじゃなくて、上はまだまだ青天井といってるだけど。まだまだ良くなる可能性は幾らでもあると感じてるだけです。だからハッキリいって、若い人がどうのなんてどーでもいいです(^^*)。まずは自分のことです。
もう一つの違和感は、「学力」って本当に必要なんだろうか?ということです。 逆にいえば、本当に必要な知的能力とは何なのだろうか?大体、ちょっと前まで「実社会に役に立たない詰めこみ受験勉強」とか言ってたくせに、だからこそ「ゆとり教育」とか叫ばれ実施されたわけなのに、いまさら学力低下なんて嘆くのは違和感があります。「学力」なんて言葉は、それまで文部省とか教育関係者くらいしか口にしなかったし、はっきりいって「学力」なんてオトナ世界では誰も気にしてなかったように記憶してます。それが、いきなり、なぜ?という。
いっくら学力優秀でも、いわゆる「受験エリート」とか「偏差値秀才」はダメなわけでしょ。それは今でもそうなわけでしょ。
で、いま問題になってるのは、「それはそうだが、なんぼなんでもこれはヒドい」「ここまで知らんというのは、これはもうアホというしかない」という感じなのだと思います。
偏差値秀才がダメなのは、知識はあるけど、智恵がないとか、創造的な知力がないということでしょう。マルバツ試験は出来るけど、実社会の変幻自在なスチェーションではてんでヘナチョコであるという部分がダメなのでしょう。で、「学力」で問われているのは知識レベルだと思いますが、これも、「学力はないけど野人的で荒削りな天才が増えてきている」というような感じではないですね。創造的知力は相変わらずダメなんだけど、今はもうそれ以前のレベルでダメってことでしょうか?
そう思うと、かなり、これ、ダメダメですよね。
学力、知力、教養、創造力、、いろいろな種類の知的能力がありますが、なんに寄らず人間やっぱりアホよりは賢い方がいいでしょう。「男ドアホウ〜」的なアホの美学もありますし、スノッブな教養よりも純な魂をということもありますが、それは要するに知的能力も、人間全体の魅力の一部に過ぎず、他の魅力(思いやりとか、包容力とか、健全な魂とか)もあるんだよというだけのことだと思います。いくらモノを知っていてもバランスが悪ければ仕方がないということで、だかといってモノを知らない方がいいとはならんでしょう。単純に、賢いかどうかでいえば、賢い方がいいでしょうね。
そりゃ、「日本の首都って京都でしたっけ?」「え、江戸時代にパソコンって無かったんですか?」とか言う奴がいたら、やっぱり脱力しますよね。そのあたりのレベルは人それぞれ、世代それぞれで、明治の昔だったら、漢詩のひとつも詠めなければならないし、書も書けねばならない。もっと昔は四書五経だったのでしょう。旧制高校だったら、16〜7歳でカントの純粋理性批判をドイツ語の原書で読むくらいしてないとカッコ悪いとか。そういった基準でいえば、今の日本人は全員死刑みたいなものでしょうな。
ただまあ、そういった一般教養・一般知識は、時とともに移り変わります。
昔は物事複雑ではないから、覚えること、考えることもシンプルで良かったです。パソコンとインターネットを使いこなすだけでかなりのエネルギーを消耗させられますもんね。そういえば、昭和20年代の司法試験の問題やら、当時の教科書とか見ると、あまりの単純さに愕然としたのを覚えてます。あの頃は、定数不均衡問題も、公害も、知的所有権問題もろくすっぽなかったですからね。ロックだって、70年代に生きてたら、チャックベリー→ビートルズ/ジミヘン→パープル程度の流れを押さえておけば良かったですからね。すぐに「現在に至る」という。今はもう一通り聴くだけでも数百枚聴かないと追いつかないという。
まあ、そういった一般教養的な学力が落ちてるかどうか、落ちて何が悪いのかってのは難しい問題だと思います。情報がありすぎっちゃって、却ってやる気がなくなるとかいう側面もあるでしょうし。
ただ、大学生の問題となると、話はもう少し的が絞れてきます。もともとこの問題は、大学の現場あたりから提起されてきているようですので、そこが本題なのでしょう。大学の理系の学部に入ってきて、それで割り算が出来ないというのは、確かに問題だと思います。
でも一番の問題は、どうしてそんな奴が入学できたの?ということでしょうし、そういうアホは大学内で淘汰すれば足りる筈なんだけど、そうはいかないか?ということでしょう。オーストラリアの大学だったら話は簡単だと思います。進級できない、卒業できない、それ以前にクラスで大恥かくでしょうし、居たたまれなくなるんじゃないでしょうか?
結局、これって大学って何のためにあるの?ということだと思います。
西欧でも、発展途上国でもそうだと思いますが、大学に行くってことは、知的プロになるということでしょ。将棋でいえば将励会に入るとか、お笑いでいえばヨシモトなり落語家なりの弟子入りするとか、極道でいえばどっかの組の行儀見習になるとと、要するにそのくらいのレベルの話だと思います。半端なことではない。ともあれプロになるための登竜門なのですから、入ってくる奴の自負もやる気も違うと思います。で、入った後に、ボコボコに鍛えられ、卒業する頃には曲がりなりにも準プロくらいには鍛え上げられているという。まあ、これも全部が全部そうではないでしょうし、日本みたいにユルい大学も結構あるとは思いますけど、一応通念的にはそういうことになってます。
言うまでもないけど、日本の大学はそうではないです。世界レベルに劣らず、厳しく真摯な学部やゼミがあるのは確かですが、大多数は「なんとなく大学」でしょう。教えてる方も、入ってくる方も、また卒業生を受け入れる社会も。そもそも、日本では、あーんまり大学に期待してないですもんね。これは、ひいては、日本社会で「知」というものが、どれだけ必要とされ、どれだけレスペクトされているか(いないか)の裏返しなのでしょうか。
だからといって、諸外国が大卒ないし大卒者に多くを期待してるかというと、うーん、どうなんだろ?と思ってしまいます。オーストラリアでも、就職でもなんでも実力がメインだろうから、そんなに学歴が日本ほど重視されてないような気もします。それに大学の勉強が、企業で即戦力になるというものでもないし、就職したかったら大学行くのは却って不利という説もあるくらいだし。経済人、政治家、作家なんかでも、「○○大学卒」という履歴は、日本ほど登場してこないし、あまり誰も聞かないし。僕も今のハワード首相がどこの大学出てるのか知らないし。
これが昔の日本のように発展途上国だったら話はわかりやすいでしょう。大学は即ち将来の国家エリートの養成機関なのですから。選び抜かれた人材が大学に入り、されに厳選されるという。これは、現在の先進国でも、超一流とされている大学では同じことだと思います。
昔の日本で大学生といったら、もうほんの一握りの存在でしかなかったし、東京の大学に行くとかになったら、村人全員が見送って、「男子志を立て、郷関を出ず」の世界だったわけですよね。もう本人もメチャクチャエリートとして自覚してるだろうし、プレッシャーもバリバリあったと思います。最初から自覚が違うし、自覚が違えばやることも違う。それまで教わったことくらいだったら完璧に満点とれなかったらプライドが許さないという。そんな連中が、全国から集まって切磋琢磨してたわけですよね。そりゃ学力も高かったでしょう。
でも、大学が大衆的になり、誰でもお金と余裕があったら行けるようになったら、平均的な賢さは当然落ちますよね。また、「大学生」といっただけでは誰もがそんなエリート意識を持てるわけもないし、自覚も違うから、知らないこと出来ないことを恥ずかしいとも思わなくなりますよね。
大学生の学力を上昇させる方法は、大きく分けて二つあるのかなと思います。
ひとつは、強力なエリート意識を持たせること。それはもう階級社会でも、差別社会でもなんでもいいのですけど、大卒者が『学士様』として優遇され、同時に期待されるということ。イギリスのオックス・ブリッジ、フランスの国立行政学院、アメリカのハーバードやMITなどなど、そこに進学するということイコールその国の将来に責任を持つことくらいの超強力なプライドとプレッシャーとエリート意識。このくらい強力に期待され、優遇差別されたら、いやがおうでも学生は頑張るでしょう。
でもこれは、その性質上、その数が「ほんの一握り」でなければ成立しないです。名実ともにズバ抜けてないと、そういうプライドは出てこない。これはもう大学に限らず、どんな職業でもそうだと思います。
実際に、いまの日本でも高校生の成績上位者の学力はそんなに下がってないし、場合によっては上がってるものもあるそうです。河合塾のホームページの「高校生の学力低下問題を検証する」によると、そのような統計結果が出ています。それによると、統計数値を挙げたうえで、
『難関大学をめざす上位層では学力低下の度合いは少なく、分野によっては上がっているところもある。一方、入試プレッシャーの緩む中位・中上位での学力低下は大きいようである。また、下位層であまり正答率が下がっていないのは、95年度の時点ですでに正答率が低く、いわば下げ止まり状態にあるためだと考えられる。いずれにせよ、学力レベル別に見た場合には、上位と下位への二極分化が起こっていると言えそうである。』
とされています。
だから、今も昔もエリート意識を持ってる連中は変わらないということでしょう。
中位から下の連中がダメになっているのは、いわゆる受験による締め付けがなくなったということですが、もし明治とか昭和初期にこの調査をしたら、上と下との差はもっと極端だったと思います。この層は本来、大学はおろか尋常小学校卒くらいですぐに働きに出ていたわけですから、勉強なんか出来なくて当然だったのでしょう。その代わり丁稚奉公に出て、ゴキゴキしごかれ、お辞儀の仕方に始まる社会教育を受け、いっぱしの商人や職人さんになっていたわけですな。その意味では、日本も昔に近づいているのかもしれません。
ただ、丁稚に出ていたのが、大学にいくようになって、エリート教育も社会教育もどちらも受ける機会を失い、のほほんとしたまま社会に出てしまうということでしょう。これが続くと、日本の末端現場、一般労働者のレベルが下がるということでしょう。どうですか?今の日本では、「気がきかない」とか「アホちゃうか、こいつ?」とか感じる窓口とか、ウェイターとかが増えてますか?
もう一つの方法は、こっちの方が望ましいと思うのですけど、学生に、エリート意識ではない自覚、プロ意識みたいなものを持たせることです。前述のエリート意識が、「大衆を指導する」という傲慢な臭みを伴うのに対して、誰がエライというものではない分業社会において、自分の持ち場においては自分がプロであり、プロとしての自覚と実力を持つということです。
例えば、手打ちうどん屋さんだったら、うどんを打つ限りにおいてはそこらへんの素人に負けるわけにはいかないという自負があると思います。先日、柔道二段を持ってる人と話してましたけど、二段と初段の違いは「二段の奴は絶対に初段に負けられない」という意識があるかどうかと言ってました。常に百戦百勝を義務付けられるプレッシャーと自覚というのは相当なもので、日頃の立居振舞いから全部変わってくるという。
だから、大学生も、その学部に関しては、世間の人達からは抜きん出ていて当たり前という自覚を持てばいいんだと思います。オーストラリアで、大学出たからといってそう優遇されるわけでもないのに、大学の勉強がかなりハードで、学生もかなり根性入れてついていくのは、それはエリート意識からではなく、「自分で選んだんだからやんなきゃ」という自覚があるからだと思います。
その自覚はどこから出てくるかというと、自ら「敢えて選んだ」という行為からでしょう。
別にやってもやらなくてもいい、誰もやってくれと頼んでもないし、脅されたわけでもないのだけど、自ら進んでそれを選んだという「自発的選択」があるかどうかだと思います。
日本の大学に、というか日本社会全体に、一番欠けているのは、この自発的選択なんじゃないかと思います。
「大学くらい行っておけ」的な感じでしょ?大学だって、学部だって、入試の難易度で決めるでしょ。「高卒で働きたいと思うほどの職場もなし」で消去法的選択で大学進学を決め、学部も決める。中卒で料理人の世界に入った人の方が、高卒で看護学校に入った人の方が、よっぽど自覚もプライドもあるでしょう。 だから、日本の大学生というのは、(多くの例外はあるのは承知の上だけど)、その世代でいえば、「一番何も選ばなかった人」だと思います。少子化で大学への門が広がり、受験が緩和されるにしたがって、「何も選ばず、何もしなかった人」が相対的に増えてきたのでしょう。自分で自発的に選ばなかった人間に自覚は芽生えないし、自覚のない人間にプライドも芽生えない。プライドがあれば実力は自然と身につきます。無能が自分が許せないから。
じゃあどうやって自覚させるの、どうやって自発的に選択させるの?というと、まあ、そこは主体性の復権みたいな話になるのでしょうが、一番大事なことは、可能な限り多くの人にプライドを持たせることだと思います。理想論だけど、中学卒業した時点で、中卒で働くのも、高校にいくのも、まったく等価に思える社会、まったく同じようにレスペクトされる社会にすることでしょう。同じく大学に進学するにも、「大学に行かないと何かと不利」と思えるような環境から変えていくしかないと思います。
大学に行ってもいいし、いかなくてもいい、どっちにしても何もやらない奴、何も出来ない奴にはそれなりに扱われ、何かをやった奴、出来る奴にはそれなりにレスペクトされる社会。
逆にいえば、これまでの日本社会が、「アホでも大学を出てるというだけで優遇されてきた」という歪んだ事実があったわけですよね。一握りのエリート養成機関だった大学が大衆化された時点で、大卒の優遇も止めたら良かったんだけどそうならないで無意味な優遇が形骸化されたという、過渡期の現象があったのでしょう。そこで、悔しい思いをしたお父さん達上の世代の怨念が呪縛のように数十年も戦後日本社会を覆ったのだと思います。まず、この歪んだ無意味な優遇を止めること。
その意味でいえば、大学生の学力低下を問題視すること自体まだ旧態依然としてるのかもしれません。事実を直裁に見つめ、「日本の大学生は分数もろくすっぽできないアホである」という事実認識からはじめ、大学生=賢いという推定を排除し、逆に個々の大学生側に「いや、俺はアホではない」という事実を立証させるという、訴訟法でいうところの「挙証責任の転換」をさせたらいいんだと思います。半分ギャグですけど。
「大卒者への歪んだ優遇の廃止」といっても、当事者以外の周囲の日本人(つまり僕ら全員)に「人を見る目」が無かったら意味ないです。人を見る目の無い奴は、肩書きで見るようになるから、やっぱり大卒の看板を掲げている奴が有利という傾向は続くと思います。猫も杓子も大学に行くという傾向は、それだけ社会の人々の人間洞察力のレベルが低いということを意味します。恥ずべし。学歴や出身大学に基づく採用基準を用いている企業、それは難関大学のみ指定している大企業も、とにかく大卒に来て欲しいとか思ってる小企業も等しくダメなのでしょう。
ちなみに本当のエリートって、医師でも裁判官でも高級官僚でもなんでもそうですけど、大学入試なんかよりももっとハードな選抜試験とさらにハードな実務があります。学歴なんかを気にしてる組織は世界レベルから遅れを取ります。ほんまのエリートには、超人的な激務、つまり骨の髄まで優秀でないと切りまわせない仕事が待ってるはずで、本来学歴なんか気にして派閥つくって遊んでるほどヒマではないはず。そういうヒマのある組織は、やっぱりダメなんだと思います。例えば日本の官僚組織とか。大企業だって、倒産したところって学閥派閥硬直人事その他で組織として死んでたって言いますもんね。
同時に、ここがもっと大事なのですが、学歴のない人達に対し、その職業的スキルに対する当然のレスペクトを払うことでしょう。
そもそも、なんで「ゆとり教育」なんて最初に言われ出したのかというと、もう忘れられちゃったみたいだけど、誰も彼もが受験受験で汲々としていくなか、勉強が苦手な奴はそれだけで全人格的コンプレックスを背負わされ、弾き飛ばされ、グレざるを得なかったという背景があるわけでしょ。宮台真司氏のいう「社会の郊外化」「社会の学校化」であり、学校での成績で、その子供が全人格的に判断されてしまうという背景があったわけでしょ。
話は簡単で、大学進学にあたって、大学に行くメリットというのは、その分野に関して専門的に知識が得られるということ以上に何もない、とハッキリさせればいいのだと思います。別に就職で有利になるわけでもないし、世間で大事にされるわけでもない。そうですね、ちょうど「ワーホリに行く」くらいに思えたらいいのだと思います。行くことによって、却って世間的にはデメリットが多いかもしれないが、個人的には貴重な体験ができるかもしれないから、行く、と。大学も同じように思えたらいいわけだと思います。そうしたら学力問題も自然に解消するでしょう。自発的選択に伴って生じるナチュラルなプライド。
じゃあ、なんでそうならなかったのか、なんで社会の学校化みたいな状況になってしまったのか?というと、結局、戦後、オトナも子供もひっくるめて、日本人がそんなに自発的に選んでこなかったからだと思います。戦後の混乱期は選べるような余裕はなかったのですが、高度成長になった時点で、もう少し自分を大切にして「断固として選ぶ」という文化を作れば良かったんだろうなと思います。しかし、まあ、ほっといても成長してる時代というのは、個人としては波に乗ってればいいのですから楽だったんでしょうね。また、選んだ奴が往々にして損したりしてたし。
将来的には学力低下問題も、自発的選択問題も、自然に解消すると思います。
そこはすごい楽観的です、僕は。
なぜって、選ばないわけには行かなくなるでしょうし、大学出たという事実だけで何とかなるほど甘い世の中にはならないでしょうから。日本ももっとこれから行き詰まってくるでしょうし、「こらアカン、他人見て、真似してたってなんの参考にもならんわ。自分で考えんと」と自然に思えるようになるでしょう。また、職場がグルーバルになるに連れて、いやがおうでも世界の秀才達と競わされることでしょう。「なにも選ばないで道の中央を進む」という方法論が通用しなくなるということですね。
それはそれで「ダメなものはダメ」とハッキリしていくことでもあり、不可避的に失業率ももっと増えるだろうから、悲惨な話なのかもしれません。それにともなって選ばないカルチャーが変わっていけば、あとはまた発展していくと思いますから。
あ、そうか、分数の割り算ってこういうことなのかもしれないですな。
*写真はシドニー大学
写真・文/田村
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