今週の1枚(07.07.30)
ESSAY 321 : 永住権 〜大いなる空白と濃密なる自己
写真は、DarlinghurstのWomerah St。都心至近なのにエアポケットのように古い街並が残るこのストリートは結構有名みたいです。定番のテラスハウスではなく、ヨーロピアン風佇まいのアパートが建ち並んでいるのが珍しいです。
永住権なんぞを持って外国に暮しておりますと、「この先ずっとオーストラリアに永住するんですか?」「もう日本には帰ってこないのですか?」という質問をときどき受けることがあります。「そんなことは分からない」というのが正直なところですが、そういう答だとあんまり皆さん納得されないようなので、いつもこうお返ししています。「では、あなたは日本に永住するつもりですか?」と。
永住、すなわち「死ぬまでその地の住み続ける」という問いかけは、「死ぬ直前には何処にいるつもりですか」「死ぬまでの予定が立ってますか」という問いかけでもあるので、誰だって答えるのは難しいでしょう。死ぬまでの予定がキッチリ出来ている人なんかそんなに居ないと思いますよ。それに、もしかしたら何か突拍子もないことが生じて突拍子もない所に住むようになってるかもしれません。誰にだって可能性はあります。ある日突然白馬の王子様や眠れる森の美女に出くわして、数奇な運命をたどるかもしれない。「絶対無い」とは言えない。まあ、常識的は無いだろうとは思うけど、でも万が一ってことがあります。
そこで、大事なのは、その「万が一」を好ましく思うかどうかです。そういう運命の変転が自分の将来に待ち受けているかもしれないと考えると、ちょっといい気分になれるのか、それとも不愉快になるのか、です。多くの人は前者=ちょっといい気分じゃないでしょうか?将来に何があるか分からない、百万分の一の可能性であったとしても、「絶対無いとは言えない」ってところが人生のミソだと思うのですよ。今あなたの前に神様が現れて、「お前は死ぬまで今のまんま。今と同じような場所に住んで、今と似たようなことをして死んでいくのじゃ」と告げられたら、結構ガックリきませんか?だから、「絶対無いとは言えない」程度の可能性であっても「無い」と断言されちゃうよりも、「さあねー、人生何があるか分かりませんからねー」といってた方が、緑の草原のように未来のフィールドが広がってる感じがしてちょっといい気分になれるんじゃないかと思います。
そんな微少な可能性なんか真面目に考えるだに愚かしいって理性的な人もいるでしょう。そりゃ、まあ、そうなんですけどね。じゃあ、なんで皆さん宝くじなんか買うのでしょうね。宝くじで一等賞が当たる確率なんか極めて低いですよ。もう語るにも愚かしいくらい微少な可能性でしょう。それこそ、「将来海外に住む」なんて可能性に比べたら遙かに遙かに低いでしょう。でも皆買ってる。「夢を買う」とかいいますが、将来はある程度不確定である方が楽しいです。
というわけで、未来は空白にしておいた方が楽しいので、「ようわかりまへんな」とお答えしているわけです。
しかしながら、これは質問に対する”はぐらかし”の答でもあります。おそらく質問者は、「ずっと住み続けたいくらいオーストラリアが気に入っているのですか?」「それとも中長期的には腰掛け的な滞在なのですか?」「永住する人の将来設計ってどんな感じなんですか?」という意味でお聞きになっているのだと思います。それも分かりますから、その点についてもお答えはします。
オーストラリアが気に入ってるかという点についてはYESです。かなりご機嫌に暮してます。将来設計はどうなんですか?というと、これがよう分かりません。全然分からないと言ってもいいです。「ほんと、どうなっちゃうんだろうねー?」という他人事みたいな感じなんです。そして、そういう感じでいられるのが僕がオーストラリアを気に入ってる理由でもあります。
この国は、個人がハッピーになるなら何でもアリという文化があるので、本当にどのようにでも転がっていけるところがあります。例えば適当なところでリタイアして、乏しい年金もらって(オーストラリアの基礎年金部分は掛け金ではなく税金から出るので永住権持ってたら貰える)、海辺かなんかで海の絵を描いたり、70歳になってから突如サーフィンを始めたりして慎ましく暮すなんてのもアリだろうし、ボランティアなんかにハマって野生動物のシェルターで若い獣医さん達のパシリをやってるかもしれないし、碁とかチェスにハマってるかもしれない。もちろん上手い具合にビジネス展開して面白おかしく暮らしているかもしれません。いずれにせよ、その気になったら何でもやりやすい環境なので、あんまり若いウチからキチキチ決めなくてもいいという点が僕にとっては魅力です。(日本人の感性からしたら)「暴挙」のような人生上の大きな決断を、こっちの人達は気楽にボコボコやってるところがあります。いきなり何の目算もなく転職しちゃったり、他国に行っちゃったり。また世界の可能性がゴロゴロ転がっていたりもします。どっかのパブでブルガリア人と意気投合して、いっちょやったるかとなって、ブルガリアに行っちゃうかもしれません。なんせ人種には事欠かないところですから。このように「あんまり決めなくてもいい」「何がどうなるか分からない」という領域が日本に比べたら広いわけで、そこが気に入ってるところです。
どうも僕は将来が決められてしまうと哀しく感じてしまうタチのようで、できれば未来は白紙にしておきたいという意向が強い。この年になるまで(貧乏学生時代の友人からの寸借やクレジットカードを除けば)住宅ローンを含めて借金というものをしたことがないのも、未来を縛られたくないという心理が潜んでいるのかもしれません。ただし、何にも代償というのはあります。この種の自由を得るための代償として、世俗的金銭的には損するだろうし、生活は非常に不安定になるでしょう。また、最終的にどっかの路傍で野垂れ死んでも本望であるという根性は要りますし、極貧生活を強いられてもそれでも案外楽しくやってけちゃうだろうなって自信もそれなりにはあります。
「将来設計は?」といえば、「いかにフリーハンドの余地を残すようにもっていくか」というのが基本方針になるでしょう。70歳のことは70歳の自分に任せる。あんまり今から決めてしまうと70歳の自分に怒られそうだし。ただ、70歳の自分が動きやすいようにしておいてあげようって気持はあります。すわなち、幾つになっても「何かをやりたい」と思えるだけの好奇心と精神を維持すること、実行可能な体力を維持すること、さらに変転時期には一時的に乞食同然の境遇に叩き落とされるかもしれないけど、それをクリアできるだけのタフさと楽天性を鍛えること。もちろんお金はあるに越したことはありませんから、貯められるときに貯めておくこと。それらは前提条件でありつつ、その条件を満たすように生きていくこと自体が同時に生活設計になっているような気がします。なんのこっちゃか分からん人もいるでしょうし、具体性が全然無いと批判される方もいるでしょうが、ある意味、具体性があっちゃイケナイのですよ。「ゆくゆくは取締役になって、関連会社に出向して」などという具体性は、安定には資するけど拘束でもあるわけですから。
とまあ、僕にとっての永住権はこんな感じ、つまり将来的にフリーハンドの余地を広く残しておきやすい環境なので、とりあえずこの環境をキープする法的権利(パーマネントビザ=無期限滞在許可=永住権)はゲットしておきましょうかね、くらいの感じです。永住権というのは、「永住しなきゃいけない権利」ではないです。「ことによっては永住してもいいよ」という権利であり、より本質を摘出していえば「何にも決めなくてもいい権利」です。つまり、学生ビザだったら特定の学校に出席率80%で通学することが条件になるし、労働ビザは特定の雇用関係を結ぶ必要があり、ワーホリだったら1年ないし2年でサヨナラだし、他のビザは何かと制約が多い。でも永住権は、何をしてもいいし、何もしなくてもいい、決めなくてもいい、拘束されることもないという権利です。唯一、一定期間オーストラリアに住み続けるという条件があり、あまりにも長期間住んでないと「もう、要らないでしょ?」と言われちゃうくらいが拘束くらいです。
逆に言えば永住権とは限りなく範囲が広く、限りなく範囲が広いということは限りなく無内容であるということでもあります。日本人にとっての日本国籍みたいなもので、日本に死ぬまで住んでてもいいし、日本を出て行ってもいいし、仕事をしてもいいし、しなくてもいい。在日外国人が悩んでいるビザやら就労条件やら公的権利の問題を一切気にしなくてもいい万能の権利ではあるものの、これだけ何でもアリになると何も言っていないに等しい。日本人が日本国籍を持っているからといって、だから「○○せねば」「○○しなくては損だ」という人生の方針が直ちに導き出されるわけでもない。空気みたいなもので、無いと色々困るけど、あるからといって別に何か強力なツールになるってものでもない。
日本にいる日本人が「かく生きるべし」という具体的なルートがないのと同じく、オーストラリアに住む日本人永住者はこうすべしってルートも別にないです。好きなところにいって、好きに暮したらよろし、と。
しかしながら、外野の人にとって、あるいは新たに永住権をゲットする人にとっては、永住権を何かの「仕事」みたいに思ってる傾向もなきにしもあらず。プロの棋士とか、お相撲さんとか、政治家みたいに、永住権者はこう生きていくというパターンがあるかのように思う人もいたりします。あまりにも特殊過ぎるから、なにか濃密なパターンがあるかのように思うのかもしれないけど、他の国ならいざ知らずオーストラリアのようなイージーな国の場合、別にそんなパターンないです。在住日本人社会に溶け込んでいかねばって義務も必要性も別にない。仲間が欲しいとか、ビジネス展開上必要とかいうならどんどん交わればいいけど、ねばならないってものでもない。大体、永住権それも独立移住永住権を取ってくるような奴は一匹狼的な気質な奴が多いというし、あんまりヨコのつながりはないんじゃないかしらね、よう知らんけど(って、知らないという時点で既にヨコのつながりが希薄なことの証明みたいなものですな)。
それに長く住めば、別にここが外国だという気持もないし、外人見ても外人だとは思わないから、そんなに特殊な環境で生活している気にはならない。”オーストラリア人”といってもあまりにも色んな人がいるので、「オーストラリア人=人類」くらいにしか思えなくなっていく。これは、例えば地方から東京の大学に出てきて、そのまま東京で就職して数十年って人と同じだと思います。最初の頃は何かにつけて「東京人は○○だ」とか思うだろうし、同郷の人や事物に郷愁を抱いたりするだろうけど、だんだんどーでも良くなっていくでしょ?そのうち気がついたら、「東京人とは自分のことだ」になっていく。僕にとってのオーストラリアは、そういう人にとっての東京みたいなものでしょう。「あなたはこのまま東京に永住するのですか」と聞いたって「さあねー」くらいの感じでしょう。これはもう似ているとかいうレベルを超えて、まんま同じコトだと思います。国家の違い、文化の違いとか、そりゃありますけど、思ってるほど大したことじゃないよ。そんなことよりも、昔の女性が結婚して「○○家に嫁ぐ」というメンタリティの方が遙かにジャンプ距離はデカいと思います。別にオーストラリアに来たって、箸の上げ下げにイチイチなんか言われたりはしないもん。
だから、永住権をとって住むというのは、地方の人が東京に住む程度のことで、別にどってことないです。本人にとって、慣れてしまえば、ね。
ただ、中々そうは思えないって現実もあろうかと思います。なんせ地方の人が東京に出てくるにはビザもパスポートも要らないですけど、こっちはビザを取らねばならない。そしてまた永住権取得は年々難しくなっていってますし、あと10年もしたら「昔はそれでも永住権が取れたんだよ」って言ってるかもしれません。しかも、中国とインドが離陸してきて、永住権の対象となる「若くて優秀でスキルも英語力もある人」というのは毎年増加しつつあるでしょう。つまりライバルは増え、競争は激化する一方。
こういった難関を乗り越えてきたら、イヤでもなんか期待しますよね。崖を必死の思いで登り続けるのも、崖の上には天国が広がってると思うからだろうでしょう。ところが、登り切ったら何にもなかった、永住権なんか空気のようなモンだよという余りの無内容さにガックリくる人がいたった不思議ではないでしょう。そういうワケでもないのでしょうが、永住権を取ったはいいけど日本に帰国される人もいます。というか、結局帰っちゃう人の方が多いかもしれませんねー。
帰国される人にはそれぞれに事情があるのでしょう。もっと充実した仕事をしたいと思えば本国の方が言語やコネなどの関係で圧倒的にやりやすいですし、最初から束の間の休息を求める人もいるでしょう。人生をゆっくり考え直したいという人もいるでしょうし、ご家族の関係でどうしても帰国を迫られる場合もあるでしょう。日本に帰国するといっても、それこそ一時帰国に過ぎず、またオーストラリアに戻ってくることを前提にしている人だっているでしょう。到底、一概に言えるものではありません。
しかし、老婆心ながら一つ言うとするならば、永住権という器の中に何かが入ってると期待されない方がいいでしょう。永住権の中身はカラッポです。その器に何を盛り込むかは、全て自分次第です。海外で暮すときに死ぬほど苦労させられるのがビザと言語だといいます。ビザが無ければその地に存在することすら許されませんし、言葉が分からなかったら話になりません。それが必要前提条件であり、それを得るためにえらい苦労をさせらるのだけど、いざその両者をゲットしたといっても、それでやっとスタートラインに立ったに過ぎません。つまり、日本にいる日本人と同じ。日本国籍を持ってるから国外退去を命じられることもないし、日本語も出来るという。日本国籍持ってて日本語喋れたら日本での人生はバラ色か?というと、全然そんなことはないのと同じく、永住権をゲットして英語もやっとそこそこ出来るようになったからといっても、特に素晴らしい人生を保障するものでも何でもないです。
だからそれ以上のモノが必要なのですね。それは、あなただけの「オーストラリアの使い方」です。オーストラリアに来て何をするの?どうしてそうするの?何の意味があるの?という部分です。これはどんなことでも構いません。別に経済的に成功する必要もないし、極端な話ハッピーである必要もない。例えば社会の最底辺を這いずり回っていようとも、全然楽しいことが無かったとしても、「それが修行だ」「それをこそしたかったのだ」と思える人にとっては意味はあります。
これは本当に何でもいいんですよ。日本の網の目のような相互監視社会に嫌気がさして、「どこの誰でもない自分に戻りたい」という緊急避難的にやってくるのもいいでしょう。はたまた、第二の人生のスタートとしては全くゼロからの方がやりやすいって考え方もあるでしょう。あるいは、夫婦や家族関係がバラバラになりそうだったから、擬似的に”無人島に漂着”みたいなスチュエーションにして家族の絆を再確認するという人もいるでしょう。もしかしたら日本でヤバいことになってて、しばらくほとぼりを冷まそうとして来てる人もいるかもしれません。でも、何でもいいです。「だから、ワタシはココにいるの」という本人だけが納得してる理由があれば(外野は納得する必要なし)、それでOKだと思います。
言いたいのは、くれぐれも永住権を取ることが自己目的化してしまわないようにってことです。適当にターゲットがハードだとついつい燃えてしまうんですよ。燃え過ぎちゃって、何のためにそれをやるの?という根本的な部分がおろそかになり、成功した後になって、「俺、やっぱり医学部嫌い」「別に役人なんてなりたくなかった」「なんでこんな所にいるの?」という気分に陥るという。まあ、よくあるミスです。これって、なまじ有能な人ほど陥りやすい陥穽なので気をつけてください。自分の能力を発揮するのはとりあえず生理的に快感ですから、永住権が難しいと聞くと「よーし、取ってやろうじゃないか」と燃えたりしがちです。
あと、こっちに来る以上、「死後の世界」に来るんだくらいの気持でいた方がいいかもしれません。これまで日本でやってたライフスタイルとか、人生の楽しみ方とか、そもそも人生の組み立て方とか全部変わります。良くないのは、日本でのライフスタイルや価値観をそのまま引きずってきて、それをオーストラリアで実現しようとすることです。そういうことやってると、絶対とはいいませんが、かなり成功率低いと思います。
例えば、オーストラリアで安定した仕事や、安定した生活という安定感を求めることです。安定を求めるのだったら日本の方がいいですよ。人々の気質として変化を嫌うし、編み物のように縫い込まれた人間関係が変化に強い柔構造を持ってます。大企業にいれば、仮に倒産しそうになっても、「社会的影響」とやらを考えて政府や関連会社が助けてくれるし、仮に構造汚職が発覚して社長の椅子を追われても、記者会見で頭を下げれば後は会長職に就けばいいという「柔構造」があります。こっちは、新聞で「社長募集」やってるくらいだし、投資家に利益を還元できなかったら株主総会で1年で問答無用でクビになります。公務員も上になるほど政権が変われば(しょっちゅう変わる)自動的にクビになりますし、公務員の首切りも平然とします。大企業でも業績が悪化すればあっさり潰れます。カンタス航空に対抗するアンセット航空(日本で言えばANAみたいなもの)も、潰れるときはあっさり潰れます。支店を出しても思わしくなかったら即閉めます。見切りが非常に早いですね。個々の従業員も、業績悪化になれば即クビ。こちらは労働組合は強いのですが、キチンとした手続きをとってクビにするのは全然適法ですからね。日本は、労働条件は非常に劣悪で労働者の権利はかなり侵害されている反面、労働法上適法なクビをあんまりしたがらないという特徴があります。
というわけで、日本社会を生き抜く基本コンセプトは「人間辛抱だ」という「我慢してなんぼ」方針になるのですが、オーストラリアでは「動いてなんぼ」方針になります。その代わり非常に動きやすい。起業もしやすい。中途入社なんかほぼ全員がやってるし、転職しないと上級職に上れないくらいでしょう。知らない人に話かけてもイヤな顔をされることも少ない。ゆえにオーストラリアで暮そうと思ったらどんどん動け、動くことによって安定を得るという「動的安定」になると思います。これは昔のエッセイでも書いたのですが、自転車に乗ってるように、動き続ける方が安定するという。
と同時に、安定していないから不安だという心理も希薄になっていくし、なんで安定してなきゃダメなの?そもそも「安定」って何よ?という価値観の根本の部分が変わっていくでしょう。つまりは生き方の原理も変わるということですね。
同じように生活のおける喜びの得方も変わるでしょう。消費型生活から生産型生活へということです。日本の場合、お金を使ってなにかを素敵なモノ・サービスを購入し生活を楽しむというパターンが多いです。高度消費社会ってやつです。お家芸の電化製品やクルマは、次から次へと魅力的な付加価値をつけてくるし、同じことをするにも流行だのセレブだの付加価値をつけてその付加価値を楽しむ傾向があります。だから、日本に住んでてお金が無いと結構ツライものがあります。オーストラリアの場合、昨今のバブルで消費社会に傾いていますが、それでも根っこにあるのは「自分で何か作って(やって)楽しむ」という生産型の社会のように思われます。例えば、せっせと自宅を日曜大工で大改修するとか、自分で自動車作っちゃうとか、ガーデニングに凝るとか。そしてクレイジーなくらいに熱中しているスポーツ。旅行でもアウトドア系の遊びを盛り込むし、ホームパーティーやBBQは年がら年中やってるし。とにかく腰が軽いというか、何でも自分でやるし、やることを楽しむ。他人が付けてくれた付加価値を消費するのではなく、自分で付加価値をつけていくその過程を楽しむ。だからモノを買うにしても、そういった付加価値創造道具ともいうべき物品は非常に多い=スポーツ用品、大工道具のホームセンター、BBQ用品、アウトドア用品、ペンキ屋、絨毯屋、パーティ用品(花屋、カード、ギフトのラッピング)、芝刈り機屋、プール関連道具屋、ボート屋などなどは、人口比から考えても異様に多いと思います。しかし、「おお、これが欲しい」と購買欲をそそるようなものは少ないです。
したがって、オーストラリアに来て日本のような生活な楽しみ方をしようとするとスカを食らいます。「買いたいものがない」病にかかるし、購買意欲も減退します。日本でやってた「モノを買って楽しむ」というライフスタイルにこだわることは、山に行ってマリンスポーツにこだわってるようなもので、日々鬱々として楽しまずって感じになりがちです。でも、そのあたりを割り切ってしまえば、そんなに買わねばならないモノもないから、生活は楽だし、そんなに必死に働かなくても良いことになります。そういえば、僕がお世話するワーホリさんでも、「お金、お金」と心配しているのは最初の頃だけですね。ラウンドやって逞しくなって帰ってきた1年後は、滅多にお金の話は出ないですもん。「物価が高い」とかこぼしているのも日本っ気が抜けてない人ほどそうなるのかもしれません。食事でもそうで、日本的にやってたら、やれテイクアウェイが高い、レストランが高いとか泣き言ばかりになりますが、オーストラリア流に馴染めば、世界の食材と料理技法が宝石箱のように集まってるのですから、幾らでも安くて、美味しくて、珍しくて、勉強になる食べ物を作ることが出来ます。
つまり、自分でやろうとしない人、新しいモノが苦手な人にとっては地獄のような国なんだけど、自分で何でもやってみたい人、好奇心あふれる人にとっては天国みたいな環境だったりするわけです。
あるいは、家族のつながりも大事にしますし、特に夫婦間のつながりは緊密になる傾向はあるでしょう。男は一家の大黒柱で、外で頑張って稼いで、、とかいうロールモデルのままでいると、なにかとやりにくいでしょう。確かに、「大黒柱」に相当するブレッドウィナー(breadwinner)という言葉も概念もありますが、それは別に男性に限った話ではないし、男は金さえ稼いでいればそれでOKというわけではない。前回も書いたけど、乳母車を押すのは男、レストランで最後の会計をするのもほとんどが男、パブのビストロなどで料理を受け取って自分のテーブルに持っていくのも男で、カミさんはテーブルで待ってたりします。また「家事」といっても、クルマを修理したり、塀を直したりという重労働系が多いのでこれまた男性がやる場合が多い。と同時に、奥さんもまたそれなりの力仕事をやります。一家の奥方が、あのクソ重い芝刈り機を押してたりもします(ウチのお隣さんもそうですね)。
また、パーティーや集まりには夫婦揃って出席というのがデフォルトスタンダードだし、旅行をすれば当然のようにダブルルームが多い。ペンションや民宿(B&Bという)でも、ダブルルームが当たり前で、シングルルームなんて最初からなかったりしますし、一部屋幾らだから一人だろうと二人だろうと料金は同じだったりします。
したがって家族関係などにおいては、「○○だけやってれば文句ないだろ」というパターンが日本よりも少ない。こっちだって夫婦間のすれ違いは沢山ありますし、離婚率だって日本以上に多いわけだし、日本だってお互いのロールモデルに対する認識の差が家庭争議になるケースはザラにあります。だからあまりにも差異を誇張して理解するのは危険なのですが、家族や夫婦の関係がより立体的になっていく面はあるだろうし、お互いに話し合ったり、なにかを共有する機会は多くなると思われます。だから、そういった面を鬱陶しがらずに積極的に楽しんだ方がやりやすいと思います。なんせ、70歳になっても80歳になっても夫婦で手をつないで喫茶店にお茶を飲みにいくという感じですから。
このように、ありとあらゆる点で異なるわけで、ライフスタイルから、人生哲学まで総取替えに近いくらいの意識改革が必要なんじゃないかなと思います。プライドの持ち方だって出身大学なんか誰も聞いてくれないし、気にもされない。職場の連中と飲みに行くのもクリスマスくらい。日本人だ!と肩肘張ってても、そんなに気にしてくれないし、アジア人で一括りにされちゃうことも多い。というか、こっちも何人かなんて気にもしなくなってくるし、最近では聞きもしなくなりました。日本人に会って「ご出身は?」と聞く機会の方が多いかもしれない。年齢だって大して気にもされないから、自分の年齢すら、「あれ?」とときどき分からなくなったりするし。そういえば血液型占いなんて殆ど誰も知らないです(血液型のパターンはABO型の他RH型やMN型など少なくとも300種類、数え方によっては何万通りもあると言われている。ABOと性格の関係に注目しているのは世界でも日韓中だけらしいから、それ以外の国の人にこの話をしても全く通じなかったりする)。
だからといって、オーストラリアに来たらオーストラリア人なりきれというつもりは毛頭ありません。そんなことする必要ないです。あんまり日本ローカルな方式にこだわらない方がいいよと言ってるだけです。ではどうすればいいの?といえば、「あなた方式」でやりなはれってことです。あなただけの気持ちよくて、納得できる生き方をすればいいよと。
たまたま日本に生まれ育ってしまったから日本方式が身体や脳髄に染みこんでますけど、でもそれは染みついているだけのことで、本来のあなたのスタイルと日本の標準スタイルとは必ずしも同じわけではない。子供の頃からずっとやってるから、何となく自分はこういう生活スタイルをするもんだ、人生ってこんなもんだって思ってるだけの話で、こんなものはちょっと意識の角度を変えただけで、ハラリと抜け落ちたりするものです。大体今の日本人のスタイルだって、近々ここ数十年に流行っただけの話で、伝統的な日本人のスタイルでもなんでもないって場合も多いです。また、消費生活に染まった自分であっても、子供の頃には身体を動かして、原っぱを駆け回ってたのが楽しかったわけですから、もともとはオージースタイルだったとも言えるわけです。
オーストラリアにもオーストラリアローカルな価値観やスタイルがありますが、別にこれに縛られることもないです。ただ、この異なるスタイルを、自分に染みついた日本スタイルにぶつけてやると、「あ、なるほど、そういう生きたかもいいかも」とかそれまでとは違った発想を持ったりしますし、そのことで日本スタイルの「染みつき」が抜け落ち、ニュートラルになるので、自分なりのご機嫌なスタイルというものを考えやすくなるでしょう。そこが一番大事なトコロだって気がします。
以上、思いのままにあれこれ書いてきましたが、国が違うと総取っ替え!みたいに全部違う、ものすごい意識革命だぞ言いながら、同時に「そんなに大したことではない」と言ってるわけで、えらく矛盾してるように聞こえるかもしれません。でも、これって結局同じコトなんですよね。要するに、核にあるのは「あなた」であり「自分」であり、そこにまとわりつくように国や社会によって価値観やらスタイルやらがあるわけですが、しかしそれはまとわりついているに過ぎないってことです。女性などは着ているファッションを変えるとガラリと別人のようになったりしますよね。見た目だけではなく着ているものによって本人の意識や性格も変わったりします。だからといって別にそれほど驚天動地の出来事が起きているわけではない。単に「着替え」をしただけに過ぎない。それと同じことです。
繰り返しになりますが、永住権はカラッポの器であり、何も乗っていないテーブルのようなものです。その器に何を入れるか、テーブルに何を乗せるかはあなたの個性に基づくあなたのスタイルです。ですので、これから永住権を取られる方にアドバイスするとしたら、あるいは期間限定永住のような(形容矛盾だ (^_^))ワーホリさんや留学生さんにアドバイスするとしたら、日本にもオーストラリアにも、国にも文化にも囚われない、自分の色というものを強烈に意識しておかれるといいかもしれません。自分という、この濃密な存在に意識的になるってことです。
といっても、自分くらい分かりにくいものも無かったりします。「なんでオレはあんなことをしたんだろう」と後になって不思議になってたりするくらいですから、分かってるようで分かってない。だから「自分探し」なんて話にもなるのでしょうが、色々な環境下に自分を置いて、実験動物のようにクールに眺めるのも面白いかもしれません。ほう、美味しいものを食べるとここまで機嫌が良くなるのか、人見知りするようで意外とすぐに図々しくなるもんだなとかね。僕の場合は、どうも先のことが決まってしまうと人よりも詰まらなく思う性質らしいなってことは分かりました (^_^)。
文責:田村
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