今週の1枚(01.12.18)
雑文/年末の構造
今年で、数えてみれば、7回目のクリスマスを現地で迎えることになります。
しかし、何年いても、「夏のクリスマス」というのは気分が出ません。これまで冬のクリスマスに馴染みすぎたから、夏という季節に違和感があるのは確かなのです。しかし、それだけではなく、この「暑い」という精神状態は、厳粛なセレモニアスなことをやるにはあんまり向いていないのかもしれませんな。
もっとも「セレモニー」としてなら精神的に引き締まる寒い時期の方がいいのでしょうが、これを「フェスティバル」として考えると暑い方がいいのでしょう。サマーフェスティバルや、盆踊りみたいに。夏のクリスマスもフェスティバルとして考えれば結構イケそうな気もするのですが、、、、やっぱり、どうも、あんまりそんな気分にならない。「サイレント・ナイト」という雰囲気じゃあないですもんね。
だいたい、クリスマスというのがどうしようもなく北半球の産物ですもんね。トナカイとかソリとか出て来るんだもん。北半球でも、かなり北極に近い寒いエリアの風物です。
しかし、キリスト生誕を祝うという趣旨と、フィンランド出身らしいサンタクロースと、いったいどんなつながりがあるのだろうか。キリスト教には詳しくないのですが、よく考えると変だぞ。キリストはもともとユダヤ青年だったわけで、聖地エルサレムがどーしたという、今で言えばイスラエルとパレスチナがドンパチやってる砂漠エリアで生まれたわけでしょ。あんまり寒そうじゃないよね。雪なんか降ってそうなイメージないし、トナカイというよりはラクダでしょう。キリスト関係の絵を見てても、皆さんそんな寒そうな格好してないし。
この素朴な疑問は、実は非常にもっともな疑問らしく、ちょっと調べてみたら、基本的にはキリストの誕生日とサンタとは全然関係無かったようです。サンタクロースというのは、オランダ語の Sint Klaas(=Saint Nicholas) から出たもので、 Nicholas は小アジアの Myra の僧 で、326年に死んだキリスト教の聖者の St. Nicholas の名からきている、、、長い時間の間にいろんな伝説がごちゃ混ぜになっているようですね。
http://www.netlaputa.ne.jp/~koumi/christmas.html
http://www.netlaputa.ne.jp/~koumi/christmas2.html
http://www.s-shibuya.com/essays/santaclaus.html
などを見にいくとわかりやすい解説をしてくれています。
さて、クリスマスというと、今をさかのぼること10年前、日本ではバブル景気で浮かれていた頃(もはや歴史の教科書的な記述になってしまうな)、イヴに10万円(以上)デートコースなんてのが流行っておりました。ディファニーでプレゼントを買って、リッチに食事をし、お洒落なシティホテルに部屋を取っているという。その部屋の予約が半年前から一杯だったという、「本当にそんなことやってる奴なんかおるんか?」という気もしますが、マスコミによりますと、そういうことになっていました。
ですので、クリスマスイブの晩に、若いミソラで一人で過ごすというのは、すごくミジメなこと、「青春失格」というか、万難を排しても避けねばならないことであるかのように思われておりました。当時の日本では、です。今はどうか知らんけど。どうなんですか?まだそんな雰囲気あるんですかね?ところで、ワタクシ個人の場合、イブもへったくれもなく仕事してたような記憶がありますけど。
しかし、こちらに来ますと、イブというのはそれほど重大なことでもない。なんつっても本チャンのクリスマスがバーンとあって、その翌日にボクシングデーがあって、それらがメインイベンターですから、イブというのはそのための段取りをする最終日でしかありません。でもってクリスマスというのは、これはもうファミリーデーですから、家族で過ごすわけです。ことあるごとに触れてますが、こちらのクリスマスは、日本でいえば元旦にあたります。だから、イブは「大晦日」でしかないです。あまりロマンチックなものではない。日本の場合、クリスマス=クリスマスイブですから、25日クリスマス当日になったら、みなさんケロッとして、「12月25日、今年も押し迫って参りました、師走の一日」でしかない。面白いですよね、イブだけやって、本チャンはシカトしてるのって。前座だけ見たら皆帰ってしまうコンサートみたい。
イブはどうでもいいけど、クリスマスに身よりも無く一人でいるということは、こちらでもかなりツライことみたいです。それはモテるとかいう意味ではなくて。この時期になると、よく恵まれない子供達への募金活動が盛んになるのですが、「クリスマスを一人で過ごさないとならない子供達のために」というフレーズが出てきたりします。こんなフレーズが使われるということは、それだけ「おお、なんて可哀想な」というインパクトがあるからなのでしょう。よく考えるとこの流れは、遠くは「マッチ売りの少女」からあるように思います。あれも確かクリスマスだった。つまり、クリスマスと家族の絶対性みたいなものが、キリスト教文化圏では非常に巨大なのでしょう。つまりクリスマスに家族の愛情に包まれていないということは、とんでもなく awful なことみたいです。不幸の象徴みたいな感じ。
日本のクリスマスにそんな象徴性はないのですが、その代わり、元旦というものがメインになります。
よく「年を越せない」というフレーズが頻用されますもんね。「これでやっと年が越せる」みたいな言い方しますから。越すも越さないも、時間は止められないのですから、何もせんでも勝手に新年になってくれるわけですが、そうは思わない。新しい一年を迎えるには、それなりに身辺雑事を整理して、綺麗にしないとダメだという。
話は逸れますが、弁護士やってる時期、12月は非常に多忙でした。年末進行という一般的な意味もありますが、多くの事件が発生し、また終結するからです。発生するのは破産関係。年末ということで、勘定を締めたりしますので、そこでどうしようもなく資金ショートを起こして倒産するという。ただでさえ慌しい師走に、一刻を争うような破産案件が入って来たりしますから、どこの事務所もドタバタしますし、殺気立ってきます。
終結するというのは、長いこと裁判が継続していて、話し合いも膠着しているような案件が、一転終結に向かったりするのですね。「すっきりして年を越そう」というメンタリティのなせるワザです。それに、新年に会う親族達に「まだ、あの事件やってるのか?」とか経過を説明しなければならないのが鬱陶しいという心理もあります。だから、多少納得のいかない結論であろうが、とにかく終わらせてしまいたいという意識が敵味方双方で盛り上がってきますので、事件も、いわゆる「落とし時」になるわけですね。
というわけで、日本の場合、年末→元旦というのは、節目・精算・スッキリというの意味が大きいと思います。
こちらでは、あんまりこの「節目」意識というものが無いようですね。
一応元旦は、New Year Dayで休みだったりするのですが、その日一日だけです。31日も2日も余裕で平常どおりになってたりします。語学学校のスケジュールなどを見ておりますと、来年の最初のタームは、12月31日(月曜日)から平気で始まっていたりします。31日月曜授業、1日火曜休日、2日以降平常どおりという。
しかし、日本人らしく、元旦やら新年に向けて、キリリと意識を引き締めましょうといっても、このダルい暑さのなかでそんな気分になるのは中々難しいです。セミ鳴いてるもん。気だるい夏の昼下がり。プール帰りの昼下がり。かき氷とカルピスの夏、、(なんてものは簡単に手に入らないが)。炎天下の静寂というか、カッと照りつける直射日光の下、妙に世界がシンと静まり返る瞬間があります。これはこれで、僕も好きなのですが、でも「あけましておめでとう」という心理状態とは波長が違う。
そんなわけで、毎年この時期は、クリスマスにも気合が入らず、かといってお正月にも気分が乗らず、ただダラ〜っと過ぎていくのでした。
オーストラリアはもともとそれほど四季が峻烈にあるわけでもなく、春と秋しかないようななだらかな1年になってます。季節感がない。そのうえに、節目節目の盛り上がりにも欠けるわけですから、どんどん時間感覚が薄いでいきます。うっかりしてると、今がどの季節なのかも忘れてしまいますし、何月なのかもわからなくなってしまう。今年で7回目のクリスマスとかいっても、平らなグランドを走っていて、「今、何周目?」と数えるような感じです。
このダラダラ感は、毎年この時期になると、ひときわ強く意識させられます。
「これでいいんかい?」という気もしますが、なす術もないですよね。窓のない部屋に監禁された人間は、一日もたたないうちに時間感覚を失うといいますが、季節とか気候という外部環境というものの大事さが分かります。
その昔、まだ妙にマセてひねくれていた十代の頃は、この世のすべての慣習はくだらない「因習」にしか思えなかったです。クリスマスっつっても、キリスト教のなんたるかも知らんし、信仰もしていないのに、なーにがクリスマスだ、くだらねえ。お正月おめでとうっつっても、なんで年が明けただけでメデタイんじゃい?これから一年何があるか分からないわけで、それこそ今年死んでしまう奴だって確実に居るわけなんだから、年が明けただけで無条件でめでたいワケないじゃん?だいたい、実感として全然めでたいという意識なんかないぞ、嬉しくもなんともないぞ。新年なんだっつっても、しょせんは人間が勝手に決めたキマリにすぎないわけで、実態は地球が太陽公転軌道上の任意の一点を通過しただけの話で、そんなもん、自分で決めて自分で祝ってりゃ世話無いわい、なんでそんなに無邪気に喜べるんじゃい?モノ考えたことないんか?阿呆めが。
とまあ、胸中悶々と、トゲトゲとしていたわけですね。まあ、そこらへんにいくらでも転がってる典型的な十代ですね。ガキですね。
結局、何にムカついていたかというと、押し付けられるのにムカついていたのでしょう。
なんでもかんでも押し付けられていたような気がするし、全部他人が作ったルールとコートのなかで、やりたくもないゲームをやらされて、やらないと怒られるという。その延長線上に、「正月はめでたいんだから、キミもめでたがりなさい」という強制を感じて反発してたのでしょう。「何がそんなにめでたいんだよ、馬鹿野郎」という。
それは、職場の慰安旅行などで、任意参加といいながら事実上強制参加になってて、嫌々付き合わされる若手社員が感じる反発に似ているのでしょう。一方的に予定を決められ、都合があるから参加できないというと、「これは職場の親睦を深める大事な行事なんだからね」と言われてしまう。親睦もヘチマも、ありていは、古株連中が楽しみたいだけで、若手はその場のダシにされるようなものに過ぎないんだけど、それを美辞麗句でごまかして、正義の御旗をおしたてて他人に強制するその偽善性、その強圧性。まあ、いまどきそんな封建的な職場も少ないかもしれないが、、、、少なくないかもしれない。Old custom die hard.
しかし、自分が年食って、別に誰も強制するような奴がいなくなってみて思うのですが、別に正月なんてめでたくないよ、やっぱり。そりゃ昔は、厳しい冬の寒さがあって、しかも食料保存技術も十分ではなく、冬を越せずに死ぬ奴がゴロゴロいたんだから、旧暦正月、文字通り「早春」は、シビアな時期をサバイブしてきた生還の喜びがあったと思う。正味の話、生きるか死ぬかなんだから、そりゃめでたいと思うと思う。でも、いまは、時代も環境も違う。ダンボールの家で頑張ってるホームレスの人々にとっては話は同じなのかもしれないけど、新暦正月はこれからが寒さも本番になるわけだから、全然気を緩められない。そういう元々の理由も根拠も失われて、ただ惰性のように慣習だけがゾンビのように残って、メデタイと言ってるだけの話なのでしょう。だから、無条件にめでたいなんてことは、やっぱり今考えてみても、無いと思う。
ただ、年が改まるという、リニューアルに対する素朴な喜びはあると思います。要するに「新しい」ってことはイイコトだという、単純なレベルで。
日本人は新品が大好きで、節目が大好きで、そしてケガレの思想があり、その対としてキヨメの思想がある。これ、思いつきですが、全部底でつながってるような気がします。
生きてれば垢はつきます。やりたくなかったこと、やるべきでなかったこと、果たされなかった約束、傷ついたり傷つけたり、嘘ついたりつかれたり、曖昧のままほったらかしになっている色々な物事。冷蔵庫の奥でひっそり腐ってる野菜のように、一定期間生きていれば、どんな人でも汚れます。何がどう汚れて何をどう掃除すればいいのかわからないくらいゴチャゴチャになってきます。それを引きずって一生生きていくわけですけど、まあ、シンプルに気持ち悪いよね、それは。
特に日本人はそれを気持ち悪いと感じるようです。千年の恩讐、、、なんてものはあんまり流行らなくて、そんな昔の話は「水に流して」さっぱりする方を好む。これは、おそらくは温帯湿潤気候でかつ水源に恵まれた国土で生きてきた民族の生理なのかもしれない。モノは放置すればどんどん腐敗していく、文字通り水で流して綺麗にしていかないと、衛生面でも生死に関わったりもしたのでしょう。伝染病や病原菌に対する民族の根源的恐怖が、穢れを清めることを厚生面における生活の柱にさせたのでしょうし、発想の根幹になったのかもしれない。また、「やれば出来る」という位に適度に温帯な気候もあったのでしょう。本当の熱帯になったら、いくら人間が清めようとしたってどうしようもないもんね。逆に乾燥地帯だったら、ほっておいても腐敗しないもんね。だから、砂漠のパレスチナで2000年の喧嘩が連綿と続いているのかもしれないけど。
そんなこんなで、衛生面に関しては日本人は世界でもまれなる潔癖民族だし、それ以外の局面においても、「汚れは嫌い、キレイが好き」という性格性向を生んでいったのでしょう。そこでいう「キレイ」も、ゴテゴテとデコレートした綺麗さではなく、青竹や青畳のような、清浄な感じを好んだのでしょう。
そんな感情生理を持つ民族としては、生きていく中で不可避的に身体にこびりついていく「垢」をどっかで落としたいと思うのは自然なことだったのでしょう。だから、節目というものが編み出され、そこでガチャっとリセット・リニューアルして、過去の垢は全部落とした、ということにして、さっぱりしたかったのではないか。
正月こそは、最大のリセットチャンスでありますから、気合を入れるわけです。
家中大掃除をして、人間関係のメンテをして(すなわち年賀状のやりとり)、すべてを掃き清めて、新しい新年を迎えるわけです。だからめでたいのではないか。新年はまだ誰も踏み込んでないから「新品」であり無垢であるのですが、その無垢のものを迎え入れるためには自分も無垢でなければならないと、どういうわけか、思い込んでる。新年そのものがめでたいというよりも、新年を迎えることができたこと=「穢れを落として無垢にもどった」ことがめでたいのでしょう。もっと身も蓋もなくいえば、「無垢になれたかのように自分を誤魔化すことが出来た」「そういった心理的な自己カウンセリング&ヒーリング作業が完結した」からめでたいのでしょう。
言うまでもないことですが、なんぼ大掃除をしようが、めでたいと百万回連呼しようが、過去に犯した過ちは過ちであり、あなたが傷つけた人の心が癒えるわけではない。恨みも憎悪も嫉妬も消えて無くなるわけではない。そんな幼稚な自己欺瞞で物事うまくいくなら、誰も苦労はしない。
しかし、皆さんオトナですから、そんな自己欺瞞は百も承知なのでしょう。
百も承知でそれをやる。しかも、国民全員せーのでやる。他人を傷つけたことも忘れるけど、傷つけられたことも同時に忘れようとする。せーので全員それをやれば、民族全体のストレスやらネガティブエネルギーは確かに減るでしょう。人は皆さん阿呆だし弱いし、誰だってミスは犯すからこそ、せーのでそれらを無かったことにしましょうという。もちろん万能ではないけど、確かに効能もあなどれないものがある。実際、裁判も和解で解決しますもんね。実効あるんだわ。そういった意味では、非常に巧みな、民族レベルの精神&社会のメンテナンス機能を持っていると言えなくもないです。
もちろん、日本人皆がこのように意識的に自覚してるのではないでしょう。ただ、無意識的・感覚的に「正月の機能」を理解してるような気はします。
ただ、感情が豊かで起伏も激しい十代の人間に、そんな「リセットしましょう」「なかったことにしましょう」みたいな子供だましは効かない。なんせ、傷つくのも傷つけられるのにも慣れてないから、オトナのように、「ま、今年もいろいろあった」の一言でそれらをクルクルと丸めてポイとゴミ箱に捨てるような真似はできない。
ところでここオーストラリアではどうかというと、やっぱり空気が乾燥してるからでしょうか、そんなに汚れたという気がしないです。シャワーでOKみたいな土地柄ですから、それに付随してリセット願望もそれほど強く膨らまないような気もします。個人的にいえば、「あんまり気にしない鈍感B型」ですから、一晩寝たら適当に忘れちゃう体質だもんで、日本にいる頃から、別に正月を必要としなかったです。いい加減だから年賀状もチャランポランだったしね。だから、なおさらオーストラリアでは、正月といっても盛り上がらないのでしょう。
なんだ、別に夏だからというのが盛り上がらない理由の全てでもないわけですね。
そもそも自分でもそんなに盛り上がろうと思っていなかったのですね。なるほど。
写真はダーリングハーバーのクリスマスツリー
写真・文/田村
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