今週の1枚(07.06.04)
ESSAY 313 : やたらプライドの高い人
写真は、Ashfield。ショッピングセンターの上の駐車場から、下の大きな八百屋さんのバックヤードを撮影。
最近よく聞く話で、「やたらプライドの高い人」というのがあります。男女、それぞれにパターンはあるけど、どっちかというと男性の方に多いような印象があります。この「やたらプライドの高い人」というのが、いわゆる「困ったちゃん」で、周囲の人々はたまったものではなかったりします。職場や取引先その他で「やたらプライドの高い男の子」の被害にあってる女性は挙手ねがいます、といったら結構手があがるのではないでしょうか。
プライドの高いことは一般的にはイイコトです。自らを高く持ち、誇り高く、自尊心高く生きていくことは、誉められこそすれ、嫌がられたり、けなされたり、馬鹿にされたりするようなことではない筈です。でも、そうなっていない。実際には、鬱陶しがられていますし、ありていにいって馬鹿にされています。何が悪いのかというと、「プライドの高い」の前に「やたら」がつくような感じが問題なのでしょう。単にプライドが高いのではなく、「やたら高い」。あるいは、別な表現でいえば、プライドが「お高い」人ですね。つまりそのプライドの高さを周囲の人は尊敬していないし、納得もしていない。「はいはい、わかったよ、アンタはエライよ」ってな感じでしょう。なぜこんなに他人の共感を得られないのか?問題はそこにあります。
僕が思うに、そのあたりの文脈で使われる「プライド」というのは、本当の意味でのプライドではないでしょう。真のプライドというのは、武士道とか騎士道とかに見られるように、「武士は食わねど高楊枝」「渇しても盗泉の水は飲まず(幾ら喉が渇いても盗んだ水は飲まない=盗みを働くくらいなら死んだ方がマシ)」という具合に作用します。
それが真のプライドなのか、それともニセの「プライドもどき」なのかを判別する簡単なリトマス試験紙があります。それは、プライドを持つことによって本人が損をするかどうかです。プライドが高ければ高いほど本人が損をするようになっていたら、それは本当のプライドである可能性が高い。逆に、プライドが本人の利益になるように作用していたら、ニセモノ臭いと思ったらいいでしょう。
例えば、道に落ちていた1万円を拾って「ラッキー」といってネコババするかどうかです。プライドの高い人は、「俺ともあろう者がこんなことは出来ない」といって警察に届けるでしょう。親に頼めば簡単に交通違反のもみ消しをして貰えるにもかかわらず、そういうことはプライドが許さないといってちゃんと免停になるとか、裏口入学出来るにも関わらずそれをしないで浪人するとか、身内のコネで就職するのを潔しとしないとか。なんにせよ、プライドが高い方が「損」をするわけですね。皆がカンニングやってるときに一人だけやらないとか、職場ぐるみで不正が行われていても自分だけやらないとか、そのために職場で村八分になり、いじめられ、最後には追い出されてしまうとか。さらには、脅迫を受けても屈しないでいて最終的には殺されてしまうとか、身に覚えのない濡れ衣を着せられたので潔白を証明するために自殺するとか、、、、。
このようにプライドというのはかなり致命的な劇薬です。「○○するくらいなら死んだ方がマシ」といって、本当に死んでしまうくらいのものがプライドです。戦後の食糧難に、闇市での食料品を食べるのを潔しとせずに配給食糧だけ食べて、栄養失調で餓死した裁判官がいましたが、ああいう人が真のプライドを持っているというのでしょう。
プライドというのは、僕が思うに、今まで何十年も営々と築いてきたものをたたき壊したり、人生をメチャメチャにしたり、場合によっては生命を失ったり、そのくらいの多大な自己犠牲を払っても、それでも「これだけは譲れない」といって守り通すものでしょう。人生も命もかかってないような局面でのプライドなんか、本当の意味でのプライドたる名に値しないと思います。大した犠牲も払わずやってるのは、単なる「ええカッコしい」だけなのかもしれないですしね。逆に言えば、「カッコつけて死ぬ」「ええカッコして人生破滅する」くらいのレベルがプライドだと思います。
まあ、そこまで命がけでなくても、第一の基準は「プライドが高ければ高いほど本人が損する」という構造にあるかどうか、です。
第二のリトマス試験紙は、プライドが自分自身の行動に作用するのか、それとも他人に向かうのか、です。他人に作用するプライドは、プライドではなく、虚栄心とか思い上がりとか言われるものでしょう。
例えば、他人の対応が気にくわないといって、「この俺に向かってなんて口の利き方をするんだ」と怒るのは、プライドではないです。なぜなら、「もっと丁寧な言い方をしなさい」と他人の行動を求めるわけですから。「この俺がこんな仕事なんか出来るか」「いい年して雑巾がけなんかできるか」なんてのも同じ。だって、「もっと私を大切に扱ってください」「私を傷つけないでください」と他人に求めているわけですから。
難しい言葉でいうと、プライドというのは自己規範だと思います。自分自身を律するオキテです。「どんなに腹が立っても絶対に他人の陰口は言わない」「弱いものイジメはしない」「他人の信頼を裏切ることはしない」「約束は守る」「一度口にしたことは絶対に実行する」とか色々ありますが、いずれも「自分は○○してはならない、○○しなくてはならない」ということで、自分自身に対して宛てられた法律のようなものです。
第三の法則は、プライドの内容が倫理的なものであるかどうか、です。
プライドに従っていくと、どっちの方向に向かうのかということですね。自然と人間としての高みを目指すものかどうかです。卑怯な振る舞いはしないとか、不言実行とか、より立派な方向に向かっていくものでしょう。
第四の法則は、これは第二とやや重複しますが、プライドが自分内部で完結して、他者を必要としないかどうかことです。
虚栄心は、あくまで他人と比べてどうか、他人から誉められたい、馬鹿にされたくないという他者との関係性の中で生じます。もし、世界人類が絶滅して、自分一人だけが生き残ったら虚栄心もヘチマもない。でも、プライドは残ります。「くそお、こんなことでメゲてたまるか」と思えるわけですから。ともあれ、他人との文脈で話が展開してきたら、「あ、これはプライドじゃないな」と思ったらいいと思います。
これら第一〜第四法則をあてはめていくと、プライドというものは、自分自身の人間性を高めるために、自分内部で完結する、自律のオキテであり、高ければ高いほど対世間的には損をする、ときには身の破滅を招くような劇薬性をもってるものだと言えるでしょう。
そう考えていくと、本当の意味でのプライドが問題になる局面というのは、そうそう滅多やたらとあるものではないです。それは例えば、車内暴力の被害者を助けようとして立ち上がって逆にボコボコにされるようなケースであったり、「お客さんに嘘は言えない」と馬鹿正直に良心的な経営を貫いて倒産するようなケースであったり、むしろプライドのない世間の人達から「馬鹿だな〜」「もうちょっと利口になればいいのに」と蔑まれるくらいの行動です。そんなこと滅多にあるものではないですよ。またこのレベルでの真のプライドを持ってる人もまた、100人に一人もいるかどうかってところじゃないですか?僕だって全然ダメです。そうなりたいなとは思うけど、じゃあプライドを守るためにたった今死ねるか?っていわれたら死ねないでしょうねー。良心的経営を貫いて倒産するくらいだったら出来るかな、どうかな、、あああ、ダメじゃん、俺。
一方、そこまで純粋結晶のような形にこだわらなければ、誰にでも、そして日常的な瞬間瞬間にプライドは関係してくるとは思います。
「いくら何でもそこまでは落ちたくない」という。ズルをしたり、誤魔化そうと思えば幾らでも出来る、汚いことなんだけどやろうと思えばやれる、だけどそこまではやりたくないって局面はあるでしょう。キセルしようと思えば出来るし、絶対バレないだろうけど「いや、やっぱりちゃんと払おう」とするとか、面倒臭いからもう嘘ついちゃおうかなと思うけど「いや、なんぼなんでもそれはヒドイわ」と思って踏みとどまるとか。出張旅費を誤魔化そうと思えばできるけど、「いやいや、待て待て」と思いとどまるとか。誰かに八つ当たりしたい、愚痴もいいたい、自慢もしたいけど、そこをぐっと我慢するとか。それをやってしまっては、自分の人間としての値打ちが下がる、そこまで自分を下げたくない、それこそがプライドであり、そういうことは誰にでも一日に3回くらいはあるでしょう。
そういう意味でのプライドならば、誰にでもプライドはあるし、誰の日常にもそれはあるでしょう。
ただし、それらのプライド局面は、圧倒的に自分の内心における自問自答、自分の心の中のささやかな葛藤や逡巡だったりして、他者との関係で生じるようなものではないです。だから、他人から「あの人もプライドが高くて困ったもんだ」という状況にはならない。むしろこれらのプライドが機能することによって、他者とのトラブルを未然に防いでいるわけだし、その人のプライドのおかげで周囲の人も不愉快な目に遭わなくても済んでいるわけです。
そう考えてみると、人間関係でプライドに関して何か問題になってるときというのは、ほぼ大部分のケースが真のプライドではなく、ニセプライドだと思って良いのだと思います。単なる虚栄心とかうぬぼれ屋さんで、「面倒くせえな、こいつ」と厄介をかけているという。なぜなら、真のプライドというのは、ひたすら本人の内部において進行し、外部に出るときはその本人だけが損をして、周囲は心地よくなるという形で出てきますから。縁の下の力持ちで、割の合わない仕事を皆のために黙々とやって、愚痴一つ言わず、いつもニコニコしているような人って、目立たないけどどこの職場にもいます。それこそが真のプライドの保持者なのでしょう。プライドというのは、高ければ高いほど、周囲の人間からはお人好しのように思われる場合が多い。大賢は大愚に似たり。
ところで、上の法則や定義は、あくまで僕個人の意見に過ぎません。プライドを良いモノであるとした場合、その内容は何か?と考えていっただけの話であり、そもそもプライドを悪いモノ、出来ればプライドなんかない方が人間的には健やかであるとする発想もあるでしょう。それどころか、実際に用語例ではむしろ、プライド=悪というニュアンスで使われる場合が多いようにも思われます。
宗教においては、どこでもプライド=悪という形で言われているようです。
キリスト教においては、「7つの大罪」の筆頭にプライドが来ています。7つの大罪というのは、傲慢、嫉妬、憤怒、怠惰、強欲、暴食、色欲であり、英語で言えば、pride, envy, wrath, sloth, greed, gluttony, lustであり、これがモチーフになってモーガン・フリーマン&ブラッド・ピット主演の映画「セブン」が撮られてますよね。この筆頭にくるのがプライド(pride)。ここでは、虚栄心(vanity)と同義の言葉としてプライドが用いられています。プライド=傲慢であり、「担当者」まで決まっていて、この悪を担当する悪魔はルシファーです。
なぜキリスト教においてプライドや傲慢さが「罪」として、しかも筆頭として挙げられるのか?僕もそれほど詳しくないのですが、要するに傲慢であることは自分自身を過信することであり、過信するがゆえに神の恩恵が理解できなくなるからイケナイのでしょう。例えば、俺は○○が出来る、優れている、偉いんだぞ、ガハハと傲慢になってたとしても、それは元々遺伝子的に恵まれていたからとか、たまたま出生門地が恵まれていたとか、つまりは自分自身の努力の結果にそうなったのではなく、最初から与えられていた場合が多いです。俺は貴族の出だと自慢してても、貴族の家に生まれたのはキミの努力の結果でもなんでもないわけで、いわば天の恵みにすぎない。もっといえば、今この世界に自分が存在していること自体、自分が頑張ってそうなってるわけでもない。気がついたら生まれていただけのことで、何にもしてないじゃんって。だから、自分自身がここに存在することにはじまり、全てのことは天の恵みであり、神の恩恵なのだ。でも、それを当然のこととして「オレ様がエライんだ」とのぼせ上がってる馬鹿には、その神の恩恵が分からなくなってしまう。だから、「こーゆー馬鹿になっちゃいけませんよ」ということで、傲慢=プライドをキリスト教は戒めているのでしょう。
プライド=傲慢を戒めているのはキリスト教だけではないです。仏教でもそう。仏教では罪、原罪という言葉ではなく「煩悩」という言葉を使いますが、六煩悩=貪欲、瞋恚、愚痴、慢、疑、見の、「慢」がそれに当たります。「慢」とは、「自ら他を比較して軽蔑し、みずからを恃み高ぶること」とされ、さらに細かく慢、過慢、過慢、我慢、増上慢、卑慢、邪慢と分かれているそうです。儒教でも、傲、驕、慢といって戒められています。
宗教から離れて一般的な使い方をみても、プライドという言葉は良い意味と悪い意味の両方に用いられますが、どちらかといえばネガティブな意味で使われる場合の方が多いように思います。
ポジティブな意味での同義語 = 自尊心、誇り、矜恃(きょうじ)、自恃、自信、自負
ネガティブな意味での同義語 = 虚栄心、うぬぼれ、高慢、傲慢、驕慢、思い上がり、自慢、尊大、高飛車、何様のつもり?
どっちの意味で使われる場合が多いかは一概には決められないですが、例えば「自尊心、誇り」という言葉を使う局面と、「思い上がり、うぬぼれ」という言葉を使う局面とで、どちらが日常生活で多いか?というと、やっぱり後者じゃないでしょうか。「うぬぼれてんじゃねーよ」「それは思い上がりというものだ」「ナニサマ?」「傲慢な奴だ」という言い方は日常的によく言いますけど、「自尊心」とか「誇り」は、「あなたには誇りというものがないのか?」という感じで、映画かドラマでもない限りそうそう使いませんよね。僕も自尊心なんて言葉、最後に使ったのはいつなのか覚えていないです。「プライド」という言葉を映画やドラマ、団体のタイトルにするケースは良くありますが、ドラマのタイトルに使えるくらい日常的には使わないのかもしれないです、逆に言えば。
ネガポジいずれの意味にせよ、自分自身を大事に思う、自己肯定の感情であることに変わりはないです。誰にも自己肯定感情はありますが、それが行きすぎるとネガティブな意味になるのでしょう。自尊心の定義は「自己の存在や在り様を尊重する感情」であり、傲慢の定義は「他人より重要、魅力的になりたいという欲望、他者へ賞賛を送ることの怠慢、過度の自己愛」ということで、too muchな自尊心がネガティブになるのでしょう。
逆に、自己肯定感が適正レベルよりも低い場合、つまり自己否定感情が強過ぎるとどうなるかというと、「卑屈」「卑下」「劣等感」にとらわれ、精神医学やカウンセリングのお世話になることになります。自尊心の欠如は、時としてセルフ・コントロールを失わせ、依存症や摂食障害などの精神障害を引き起こすこともあるそうです。また、うつ病の患者は自尊心を失っていることが多いそうです。要するに、自己肯定感情が低すぎるのも一種の病気であり、好ましいことではないと。
自己肯定感というのは、言うならば血圧みたいなもので、高すぎても低すぎても問題だということですね。いかに「適正レベル」の範囲にとどめておくかが実戦的には大事なことである、と。
話を最初に戻して、「やたらプライドの高い人」の場合ですが、この「やたら」って部分が、トゥーマッチ、過剰なんでしょうね。つまりは「高すぎる自尊心」ということで、ネガティブな意味で使っているわけです。本人はポジティブな意味で使っていて、自分の肯定感情レベルが適正であると思ってるけど、周囲は不適正だと思ってる。
さて、この「やたらプライドの高い人」が、なんか最近増えている、とくに若い男性に多いという話はよく聞きます。「やたらプライドの高い部下を使うのに苦労する」とか、ちょっとしたモノの言い方でキレたり、拗ねたりする、なんだかんだ屁理屈並べて絶対に非を認めようとしないとか、キツイ仕事や汚れ仕事は自分がすることではないものと思いこんでいる、などなど。
今、適例が無いかと思ってネットで色々さがして見ましたが、とある男性を振ったら逆ギレされた例で、「すると、その男の子は突然怒り出し、『なんでだよ、オレは○○(彼の勤めている会社の名前)だぜ』、っていったみたいなんですよー。そりゃあね、つらいのはわかるけど、そういうこというのはなしですよね」 ……なぜでしょう、女の子だったら、たとえ男の子にふられても、「なんでよ? 私は△△(勤務先名)よ」「どうして、私は美人なのに」(中略)みたいなことは間違ってもいいません。しかし、どういうわけか男の子は、ふられると、「有名企業で働いているオレをふるなんて」「一流大学を出ているオレがふられるなんて」というようなことを口にしてしまう。そういえば、私も若いころに、お付き合いをお断りしたら、「なんでだよ、オレの車BMWだぜ?」といわれた経験がありました」という文章がありました。酒井冬雪さんの書かれた「理系のための恋愛論」というコラムです。
あるいは、ITmediaというIT系のニュースサイトの高橋美樹さんという方の書かれた「女性システム管理者の憂鬱」のコラムで、「このM君、非常にプライドが高い。いちいち「こんなことは簡単ですね、常識ですね」と作業時にコメントを入れる。そのくせ、突っ込んだ質問をすると「それは僕の担当ではない」と逃げる、扱いに困る人種だった。絡みづらいなあ、という空気が運用チーム内に流れ始めていた。」という文章があります。読み進んでいくと、結局、このM君はプライドの高さが災いして、職場で仲間はずれ状態になります。
プライドの高い部下をもってお嘆きの貴兄に対する処方箋は、これまた沢山ありました。
プレジデントオンラインの松下信武氏の「「プライドの高い人材」の活かし方」というコラムは、EQ(Emotional Quotient:情動の知性)などに言及して中々読み応えがあります。
ほかにも、夕刊フジの「樋口裕一「ダメ部下操縦術」」、 リクナビの著名人相談コラムでは「プライドの高い後輩をどうすれば?」というお悩みの相談に、カルーセル麻紀先生がアドバイスしています。
プライドが高いと言われる本人自身もお悩みで、
「プライド高い性格をなおして、素直になりたい・・・。」という素直な相談が、教えて!gooに寄せられています。
あと、日本人論の関係で、大塚いわおさんの「日本=高プライド社会論」という手記は、なかなか面白かったです。戦時中の大本営発表と、いつまでたっても英語が出来ない日本人の共通項として、プライドの高さ=他者から非難されることへの過剰な恐れを指摘しています。なるほどね。
とまあ、ネットをちょっと巡回するだけで、プライドについて、いろいろな人がいろいろな意見を言ってるのがわかります。共通の日常的な課題なのでしょうね、多分。
さて、「プライド」という言葉にはネガポジ二つの意味があり、周囲はネガの意味で使ってるのに、本人だけポジの意味に受け取っていい気になっているという皮肉が構図があります。一つの言葉に相反する二つの意味があるというのは、用語の混乱を招き、ひいては話がグチャグチャになるので、以下「プライド」という言葉は使用禁止にします。ポジの意味で使うときは「(適正なレベルの)自尊心」といい、ネガの意味で使うときは「うぬぼれ」「虚栄心」などの言葉を使うようにします。
これ、日本全国で実行してくれると、日常生活も話が見えやすくなるんでしょうねー。「キミ、プライド高いね」というのを禁句にして、「キミ、虚栄心が強いね」というようにすればいいわけです。まあ、そうなると非難であることは明白ですので、逆に誰も言わなくなってしまうのでしょうね。プライドという言葉が便利なのは、非難する意味で使っていても、受け取り方によっては誉めてるようにも聞こえるので、あからさまに敵対しなくても済むという、日本人特有の「対立回避の心理傾向」にフィットするのだと思います。
でも、プライド高いと言われる人は、この際よく分かっておくといいのですが、心底から誉める意味で使う場合なんて滅多にないです。十中八九ケナす場合。「のぼせ上がってんじゃねーよ、この野郎!」って意味で使われてるので、そのあたり勘違いしない方がいい。また、自分がプライドが高いと思ってる人も、「自分は虚栄心の強い、見栄っ張りのイヤな奴だ」と自覚しておけば間違いはないでしょう。で、まあ、実際そうでしょ?
男女ともに虚栄心の強い人はいます。女性の虚栄心は、もう何千年も昔から語られてきた人類普遍の現象です。「なぜ女性はお化粧をするのか、綺麗な服を着たがるのか?」というくらいコモンなことですので、今さら別に言うほどのこともないでしょう。また、この種の「美やカッコよさへの願望」は、男女を問わず誰でもあるし、ビジュアル的に見えやすし、話も分かりやすい。まあ、可愛いっちゃ可愛いレベルですし、古来からあるので対処法もしっかりあります。だから、それほど対人関係に深刻な問題を生じさせることはないでしょう。
一番イヤらしくて問題になってるのは、職場その他の人間関係における、学歴、職歴、キャリアに関する虚栄心でしょう。なにか簡単な仕事をさせると、「馬鹿にしないでください、何で今さら僕がこんな仕事なんかやらなきゃいけないんですか」という不満げな顔になるボクちゃんとか、先ほどのコラムに出てきたように学歴や職歴が良いというだけでモテて当たり前だと錯覚する勘違い野郎であったり、大したキャリアでもないのに「今さら私が若い子に混じってあんな仕事なんか出来ません」というツンツン女だったり、、、が、面倒臭いんですよね。あーもー、鬱陶しいな、お前らって。
問題は、なぜこういう現象が最近多いのかです。
まあ、本当に多いのかどうか分からないんですけどね。単に僕の周囲でそういう話がよく聞こえるというだけで、別にそういうケース数が増えているという実証は何もないです。だから、話半分のエッセイとして読み流して欲しいのですが、この種の「小生意気な奴」というのは太古の昔からいます。生意気こそが若者の特権のようなものであり、大人達は苦笑を混じえつつ、「少年ノ客気、愛スベシ」とかなんとか言えたのですが、この「やたらプライドの高い方々」は、「生意気」というのとはちょっと違う。「天狗になってる」という表現もありますが、それとも違う。
生意気とか天狗というのは、それなりに実力があっての話です。「天狗」などという表現は、グランプリで優勝したとか金メダルを取ったクラスの、本当に超一流の実力のある人に対して使われるものですし、「生意気」というのも超一流とまではいかないけど、それなりに頭角を現しているくらいの実力は必要です。でも、近時の「プライド君」はそれとは違う。実力が無いんだわ。人よりも優れているわけではない、どころか人よりも劣ってたりするんだわ。それでもプライド=虚栄心だけは異様に強い。「普通この程度の実力でそこまで思わんだろう」という限度を超えて自惚れが強いから、周囲の人も困っちゃうんですよね。ちょっとくらい自惚れが強いくらいだったら、「阿呆か、お前は」とさくっと凹ましてあげられるんだけど、ここまで実力と主観の差が激しいと、軽い精神病なんじゃないかと疑われるというか、見てて痛々しいというか、あんまりヘコませたら取り返しのつかないような事態(自殺するとか)になってしまうんじゃないか、ちょっと恐いんですよね。引いちゃう。で、もう、ハレモノ状態になる。
なぜ、こんな自我肥大症候群のような症状を呈するようになるのか?というと、よく言われる一つの仮説は、育ってくる過程で十分にヘコまされてこなかったんじゃないか?と。前述の「ダメ部下操縦術」というコラムでも書かれてますが、「現在は、とりわけ優等生でなくても、両親に可愛がられ、辛い目にあわないように周囲に常に気遣われながら、育ってきている。つまり、ずっとプライドを保つように育てられてきている。叱られることに免疫ができていない。だから叱られると、すぐに傷つく。傷つくだけなら、まだいい。叱られたり、ミスを指摘されたりすると、上司に嫌われていると思い込んで、いじけたり、逆恨みするダメ部下もいる。そして何の根拠もなく、自分は他の同僚よりも、上司よりも優れた人間だと思おうとする。」と描かれているように、世間の荒波に慣れていないのでしょう。というか、こんなの別に荒波でもなんでもないんだけど、世間的には妥当で客観的な評価が、不当に厳しい評価のように感じられてしまうのでしょう。過保護もここに極まれり、という。
これって、最近話題になっている学校に怒鳴り込んでくる馬鹿親と軌を一にしているような気がします。「ウチの○○ちゃんは悪くありません」「そんなに厳しく叱らなくても、もっと優しく言い聞かせればいいじゃないですか」とかいう馬鹿がいるらしいのですが、教育関係者の方々には深い同情を禁じ得ません。運動会で順位をつけないとか、身体的特徴を言ってはいけないとか、ましてや体罰なんかとんでもないという環境に育ってるんですよねえ。すごいな。僕の頃は、特に中学の頃は、男子は全員有無を言わさず丸坊主という学校、しかも東京の下町で江戸っ子気質バリバリだったので、今から思うと異次元世界ですよね。先生が生徒のことを普通に「てめえ、ちょっと来い」って言ってたし、授業でも「てめえらみたいな馬鹿でも、このくらいは分かるだろ」とか、「おう、そこのデブ、続き読んでみな」とかやってましたわ。当然体罰アリアリで、正座一時間に仕上げはケツに竹刀ビシハシは普通、校内でのタバコが発覚した連中は授業中立たされてビンタ十数連発食らってました。
そういう教育が格別素晴らしいとは思いませんが、別にダメであるとも思いません。だって、そういう教育を受けてきた僕が、別にそれを不満にも恨みにも思ってないですし、そういったことよりも子供の心にひっかかるのは差別的な扱いでしょう。ジャッジが公平かどうです。ジャッジが公正だったら、多少刑罰がひどくても納得できます。大体こっちが悪いことしてるんだしね、ビンタ食らっても「そりゃ、そうだよな」と納得してました。効用というか、そこで学んだのは、因果応報というか悪いことをしたら罰があるということであり、「罰を受ける段階では相手に罰の内容を決める決定権がありこっちは何も言えない」ということであり、「世間はそんなに甘くない」ということです。別に殴ったり、罵倒しなくてもいいでしょうが、そういう認識は早いうちから適当に植え付けてもらっておいた方がいいでしょう。だって現実の社会がそうなのだから、現実に適応するという意味でも早く正確なシュミレーションは受けておいた方がいい。
時代が変わろうが何が変わろうが、世間の厳しさというのは変わらないと思います。世間というのは人間だけで構成されているわけで、人間と人間との対立関係の強弱によってその厳しさが決まります。例えば、新幹線の自由席車両に乗り込もうとして、空席が10席しかないけど、乗り込んでくる人間は自分を入れて15人だったら、5人は席からあぶれるわけです。その10席をめぐって各自が思惑に沿って行動を展開するわけで、早くから並ぶとか、多少ヤクザがかった人の隣で誰も座りたがらない席でもいいから座るとか、もう最初から諦めるとか、それなりに戦略はあるわけです。15-10=5という初等算術は、これはどんな時代になっても変わらないでしょう。これが世間の厳しさの原型でしょう。誰だって安くて質が良いモノを買いたい、だけど安く売ったら儲からないというジレンマがあり、そこをなんとかするのがビジネス商戦というものでしょう。そこそこ詰めたら4人座れる長い座席があった場合、お互いに詰め合って4人座るのが世の中のルールであり、そんなのカッタるいから一人で二人分のスペースを占めたいと思うのは誰だって同じだけど、そうしてはいけない。多少不愉快だけど、公平の見地から自我を引っ込めましょうってことです。
人間の自我、エゴというのはアメーバのようなもので、ヌルい環境にいたらどんどん広がっていってしまう。だから、広がりすぎたら、適当にピッピッって枝葉を切ってやったり、整形してやらないとならないのでしょう。そうでないと、他者と協調できないくらいエゴが肥大化しちゃって、結局損をするのは自分ですから。心理学的にいえば、適度なストレス耐性を身につけておくということです。過保護環境は、このストレス耐性を殺しますから、やたらエゴの肥大したとっちゃん坊やが出来てしまうということですね。でもって社会適応が出来ず、オートマティックに社会の片隅に押しやられていき、最後は年食って誰も保護してくれる人もいなくなり、世間を恨んで恨んで真っ黒い怨恨の固まりみたいな存在になって老いていくという。だからもう他者を過保護にするというのは、拳法の「3年ごろし」ならぬ、「30年ころし」のようなもので、「ゆっくり地獄を味わってからくたばれ」という緩慢で残酷な殺人罪みたいなもんだと僕は思います。
だから、思うのですが「プライド」というのは、これまでヌクヌクと自分を甘やかしてくれた温かい繭のような環境がなくなったあと、しょうがないから自分で紡ぎ上げた自閉的な繭みたいなものだと思います。世間はどうあれ、プライドという繭の中に入れば、そこでは自分はエラくて、カッコよくて、ヒーローになれるわけですから、居心地いいですよね。だから、ひとり白昼夢を見てるようなものであり、周囲の人も付き合いきれないんでしょう。
でも、そんな繭の中に籠もってたって、話は何も始まらない。なにかを始めようとしても、身を立てるだけのスキルは必要ですが、ある程度ストレス耐性がないとどんな技術も習得できないです。だって、習い始めはつまらんですからね。ひたすら忍耐って時期が続きます。ここで諦めてしまうと、何をやってもモノにならない奴、ハンパな奴になってしまいます。
でも、それでは新技術を身につけるのには不適当だから、技術を身につけさせるということを至上命題にするような局面では、そんなプライドを、象に踏みつぶされるティッシュケースのようにクシャッと粉砕します。アメリカ軍のマリーン(海兵隊)を描いた映画というのは沢山ありますが、古くはキューブリック監督の「フルメタル・ジャケット」、新しいところは「ジャー・ヘッド」などがありますが、あそこの教育は凄まじいですよね。教育係の下士官が新兵達のプライドを徹底的にブチ壊すところから始めます。「このウジ虫どもが!」ということで、本当に"maggot(ウジ虫)"呼ばわりし続けますし、立派な成人男性に向かって「お嬢ちゃん」呼ばわりします。挙げ句には、「お前の名前はお前には不似合いなくらい立派過ぎる、今から○○と呼ぶぞ」と名前まで強制的にカッコ悪く変えられ、罵倒と暴力で狂気の沙汰のようなシゴキが延々続く。個々人の権利意識や人権保障に関しては日本よりも遙かに強いアメリカで、なんでこういう野蛮な風習が延々続いているかというと、単なる悪習という側面もあるでしょうが、それ以上にその必要性があるのでしょう。生きるか死ぬかの戦場では、身内の下らないミスで味方が大勢死んだりするわけです。爆薬の取り扱いをミスっただけで自軍陣地は壊滅しますし、後方にいる兵士が恐怖に駆られて銃を乱射したら、前にいる味方の連中は背中から撃たれて死ぬわけですから、人間精神の極限みたいな状況でも機械のように正確に動けないとならない。そのためには、それなりのトレーニングが必要なのでしょう。そして、そのトレーニングにあたってとりあえず邪魔になるのがプライドだというわけでしょう。
新技術を身につけるとき、新しい職場や環境に入ったとき、ことの成否は、いかに虚栄心を捨てるか、いかに下らないプライドを捨てるかにかかってます。これは、デキる奴はもう分かってますよね。新人は雑巾がけやら、パシリから入る。詰まらない基礎練習を延々やらされる。意味のないシゴキという部分もありますが、多くの場合は、これはある技術を速やかにインストールするためには最も効率的なダンドリだったりします。基礎体力も、基礎知識もない奴に、いくら見栄えのする高等技術を教えたって身につくわけないし、カッコだけ真似しようとして変なフォームが身体に染みこんだりして、結局一生ハンパモノで終わりますから。
そういうやたらプライドの高い人=虚栄心が病的に強い人は、本来なら周囲からタコ殴りにあってボコボコにされても良さそうなのに、意外とそうなってないですよね。これには理由があると思います。すなわち、周囲の人の優しさと残酷さです。あまりにも病的なので、痛々しく感じてしまい、病人に対するように接するという。これが優しさ。反面、適当に叩いてモノになるくらいなら、とっくの昔に叩いているでしょう。でも、もう「処置なし!」「馬鹿につける薬はない」レベルの場合は、「勝手にくたばれ」って感じで放置するでしょう。残酷さってのはそういうことです。
しかし、翻って考えれば、やたらプライドの高い人も気の毒です。多分、内心は戦々恐々としているのでしょう。自分がこの世界でイケてないということを、一番よく知ってるのは本人でしょう。世間のプレッシャーに負けないとして、必死になって虚勢を張らないとならない心情は、ある意味哀れでもあります。上記のコラムにも書いてあったように、プライド君は、自分が分かることだと「こんなの簡単ですよね」とエラそうな口を叩き、自分の能力を超えた部分になると「それは僕の担当ではありませんから」と逃げを打つ。
プライド君の特徴は、やたら逃げを打つのが上手なことです。そして口達者であると。なんだかんだ理屈を並べて、それも流れるように美しく理屈を並べて、自分の弱さが露呈しないようにするのが上手です。そりゃあ上手な筈だと思いますよ。世間が恐いから、朝から晩まで四六時中そういった「自己救済の論理」を考えているのだから、上手で当たり前です。逆にいえば、上手であればあるほど、その人の内心の恐怖を物語っているとも言えます。それが見える人には見えるから、というか普通の社会人だったらミエミエに分かるけど、もう腹が立つというよりも、哀れを誘ってしまって何も言えなくなるという。人道的に。
あああ、こんなところでもうページが尽きてしまった。軽く一本にまとめるつもりだったのに。
まだまだ、語り足りない部分がありますので、以下次回です。語り足りない部分というのは、例えば、昔からいる尊大なオヤジや気位の高い奥様連中のプライド構造は昨今のプライド君とどう違うか、お客から非礼な言動を取られたときにムカッとなったり言い返したりするのは「プライドが高い」という問題なのかというと僕はレベルの違う問題であるとか、大体どの程度の実績があるとどのくらいエラそうにしていてもいいものか、日本人の自尊心の異様な低さとか、虚栄心と自尊心は反比例する場合が多いとか、そういったことです。
文責:田村
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