今週の1枚(01.12.10)
雑文/坂の途中で猫と暮らしています
ここ数日、一人暮しをしております。
先週はじめにカミさんが日本に一時帰省し、数日前に一人おられたお客さんもめでたく嫁ぎ先(シェア先)に移動されたあとは、ガランとしたこの6部屋プラスアルファのデカい家に、ぽつねんと、文字通り一人暮しをしています。猫が2匹いるので、一人&二匹暮らしですね。
ウチの周囲は意外と緑が深く、今これを書いている夜などは、外では虫の声以外ほとんど何も聞こえません。パソコンのファンの音だけがヒュワ〜と鳴っています。
最初、なんかの拍子でこの家で一人で寝起きすることになったときは、多少ブキミではありました。部屋数以上にだだっぴろい感じがする家で、今これを書いている僕の仕事部屋から一番遠い部屋まで、普通のマンションでいえばお隣か二軒先くらい離れているくらいの距離感があります。今計ってみたら、片道で、歩数にして30数歩、秒数にして20秒以上かかります。階下の玄関や、前庭/後庭までいれてたらかなりのものです。まあ、オーストラリア的に言えばたいした広さではないですし、日本でも住民一人あたりの占有面積が一番広いエリア(たしか富山県だったかな)の方にとってみれば普通なのかもしれませんが、日本の都会育ちの身には、広く感じます。そんな「遠距離」まで自分のウチ/自分の支配下として始終意識する経験がなかったので、なにか物音がするたびに、「あれ?」とか意識してたら身がもちません。新米の夜警さんみたいな感じになってしまいます。
その昔、日本で、わりと広めの3LDKのマンションに、家人が引っ越してくるまでの数ヶ月、一人で暮らしてたことありますが、
あのときは怖かったですね。1階でしたから、基本的には地続きということでまだ開放感があったのでマシではありましたが、それでも玄関横の自分の部屋から、深夜、暗くなっている奥の居間なんぞを垣間見るのは背筋が寒い思いがしたもんです。
ただ、僕としては、マンションのような閉鎖空間の方が怖い感じがします。
閉ざされた密閉感のある空間の方が安全な感じがするのか、それとも昔の日本家屋やお寺のように玄関以外にも広い縁側など開放空間の多い建物の方が安全に思えるのか、なかなか面白い問題だと思います。不安は、攻撃を受けるかもしれないという可能性を漠然と意識することで、攻撃対象がなにかによって違うと思います。不安の対象が泥棒や強盗だとするならば、外敵の侵入を防ぐ密閉空間の方が安全な気はします。しかし、一旦に中に入られてしまったら、今度は自分の逃げ場も限られてきますので、これはコワイですよね。その昔、豊田商事の会長が、マスコミが自宅マンションの玄関先に詰め掛けるなか、暴漢二名に部屋の中に押し入られ刺殺されてしまいましたが、ああいう死に方だけはしたくないものです。どうせ殺されるなら、戦場とか、時代劇の辻切りのように、開放空間で殺された方がまだマシな気がします。
あと、強盗のような即物的な恐怖ではなく、幽霊とか超常現象の場合でしたら、閉鎖空間のほうが絶対怖いと思います。同じ幽霊に出くわすにせよ、富士の裾野や浜辺のような開放的な場所で会いたいものです。マンションの30階の部屋みたいなところでは会いたくないっす。
---と書いていたら、ピンポンと玄関で呼び鈴が鳴りました。時刻は深夜の0時前。オーストラリアの深夜0時は、日本でいえば深夜2時くらいの感じです(皆さん早寝早起きだし)。そんな深夜に呼び鈴が鳴るわけで、ちょっとドキッとしますよね。行って来ました。階下の薄暗い玄関先には、誰もいませんでした。これも慣れるまでは、結構おっかなかったですね。今はなれましたけど、って、原因はどっかの携帯電話の電波。ウチの呼び鈴は、玄関先にあるボタンと本体とがワイヤレスの無線になってまして、これがマレに携帯電話の電話によって誤作動するらしいです。周波数を変えることもできますが、携帯電波も一つではないので結局同じことなので、ほっておくしかないです。
しかし誤作動ではなく、本当に誰か立ってたらどうなるかというと、これはこれで普通の話ではあるのですが、「あ〜、また英語喋らなきゃ」という、これはこれで恐怖だったりします。まあ、今はそう恐怖ではないですが、昔は、恐怖というか、教室で先生に当てられたくらいの緊張感が走ったりして(^^*)。そういえば、オーストラリアに来た当初、こっちで幽霊に会ったらやっぱり英語で喋らなきゃダメなんかな?とか、妙なことが気になりました。幽霊そのものよりも、ガイジンと会話することの方が鬱陶しかったという。オーストラリア人の幽霊って、日本人の幽霊に比べてなんか怖い感じがしないですな。まあ、会ったことないので分からんですけど。
ところで、今は、このだだっ広いところにポツンとおっても、別に怖いともなんとも思いません。
慣れたといってしまえばそれまでなんですけど、ちょっとしたコツとしては、ウチとソトの感覚を曖昧にしてしまうといいです。つまり、「ここまではウチのエリア、自分の支配下」とかウチ意識を働かせてると、自分が今存在していない他の部屋とかが気になりがちなのですね。だから物音がするとドキッとするという。
音なんかナチュラルにしますからね。湿度による木材の伸縮とか、階下の倉庫の深夜電力給湯器とか、風でドアがバタンと閉まったりとか、いい加減に積み重ねておいた書籍が崩落するとか。あと、音といえば、ウチの場合は、猫が家内のみらず家の周囲(含む屋根)に徘徊してます。ポッサムも居ます。鳥もいます。最初、猫やポッサムが庭の枯葉を踏む足音が、異様にリアルに人に足音に聞こえて、夜中ガバッと起きたものですが、これも慣れました。
そんなのイチイチ気にしてたら身がもちません。だいたいウチだのソトだの、自分の支配下だのいうのも、アーティフィシャルな、人工的な概念ですからね。事実は、「地球の上に俺がいる」だけのことです。「自分の家」とか「自分のテリトリー」とか、心理学でいう「延長自我」ですか?あんなのは思い込みですから。自分というのは、今ここにいる自分だけなんですから、それだけセーフだったら100%それでセーフなんです。だから、家がデカかろうが狭かろうが一緒。極端な話、家で寝ようが、野宿しようが基本的には一緒。そんな30歩先の部屋なんか俺の知ったことか、くらいにいー加減に思っているのがコツのような気がします。そりゃ勿論、あからさまに妙な物音がしたら見にいきますけど、それはそのときになって考えたら済む話です。事前になすべきは戸締りくらいなもので。大体、「防衛」という点を純粋に技術的に考えたら、軍事的にも格闘技的にも、不安という心理状態はむしろ防衛力を阻害させるでしょう。有事の際は、落ち着いて対処するのがベストなんだから。
ときに、一人暮しで、悠々自適にのんびりと、、というと、案外そうでもないです。
家の掃除にせよ、庭の手入れにせよ、忙しいときに半端で済ませてきた案件が山ほどあります。資料の整理なんかやりだしたら、それだけで何日もかかります。ガレージ倉庫なんか見たくも無いし。
もともとパソコンを新調してそのセットアップとカスタマイズだけに、トータルでいえば何百時間もかかります。日常的につかうソフトのインストールにしたって、ホットキーのカスタマイズやら何やら、改善課題はいくらでも出てきますから。また、そこへもってきて、ケーブルインターネットシェアで3台LAN接続なんてのに取り組んでしまったから、床下でケーブル這わせたり、ネットワークのコンフィギュレーションやら、ルーターがどーの、ファイアーウォールがどーの、目眩いがするくらい前途遼遠だったりします。パソコンは、ほんと金も食うけど、時間も食いますね。あの再起動の時間がかかるのは何とかならんのか。いくらパソコンが進化しても再起動だけは早くならんですね。3秒で再起動できるパソコンを作って欲しいものですが、なんでそうならんのよ。
そんな折、猫がまた家内で粗相をしおってからに、臭くてかなわん。犬じゃないので、臭いはするけどその原因場所を的確に感知できないからイライラしますよね。これも又結構頭が痛かったりして。
今日も庭掃除をしようとして、草刈機を使ってたら壊れてしまった。バラしてみたら(こっちにきてからこのテの修理物には強くなります)、やっぱりモーターが寿命っぽいし、モーター修理(交換)したものか、新調したものか、新調するとしたら今度はどういうものがいいか、値段の相場はいくらか。これも課題です。やれやれ先週洗濯機が壊れて、これまで何度もバラして直してきたけど、さすがに寿命と観念して新調したばかりになのに。
日ごろは忙しさにかまけて放置しておいた家事やら仕事やらの雑務、英語でいうといわゆるチョーズ(chores)ですね、これが実に沢山あったりするわけですね。「こうすればいいじゃん」という改善案は死ぬほど思いつきます。思いつくだけだったら楽なんだけど、それを実行してたら、ほんとに朝から晩までキリキリ働き通しになります。でも、それがツライとか、イヤだとかはあんまり思わないですね。どっちかといえば、結構楽しいです。
この話、前に雑記帳でしたと思いますが、ブランキー・ジェット・シティという解散しちゃったバンドの曲で、”Orange”という佳曲があります。湖の近くに住む家族の生活を淡々と、でも美しく描いた曲で、「冬が来る前にもう少し食料を集めなくちゃいけない」「ライフル片手で一人で山の中、友達は青い空」「水を汲みにいく子供の後ろ姿が草むらに消えていく」という情景描写が続くだけの曲なんだけど、心が洗われるような気がします。
これも見方を変えたら、「生活に追われる貧しい田舎の家族」なんだろうけど、そしてまたここが価値観の分かれるところなんだろうけど、それがベストじゃん?それ以外に何があるの?って思えるかどうか。お金持ちになってうんと贅沢したり、有名人になってチヤホヤされたからって、それが何なのよ?という。
この曲で語られている世界は、実は昔からいろんな人がいろんな物語で語ってきたことでもあります。
クリント・イーストウッドの"unforgiven"という映画があります。邦題は『許されざる者』だったかな。その昔、西部をビビらせた有名な凄腕アウトローだったクリントイーストウッドが、今は亡き奥さんに出会って、「まっとー」になり、地味に生活してたという話です。子供二人と、荒野の掘建て小屋に住み、泥だらけになりながら豚の世話をしてるという。子供が汚い言葉を使うと、「天国のママに謝るんだ」とすぐさま叱る。その昔は、「動いてるものは、女だろうが、赤ん坊だろうが全部殺した」という極悪非道な無法者だった彼が、180度転換して、メチャクチャ真面目になっているという。ボソッと、"She's straightend me"というあたりがグッときます。
なんの話かというと、この主人公にしたって、荒稼ぎしていたときは思いっきり贅沢したと思うわけです。金で買えるような快楽はかなり堪能してきたと思う。それが出来るだけの凄腕を持ちながら、なんだって泥だらけになって豚の世話をしてるのか?というと、道徳的に言えばそれが正しいからなんだろうけど、それだけではない。そんな道徳映画だったら、こんなに感動を与えはしない。おそらく、金で買えるような快楽よりも、西部中に恐れられる帝王的な地位よりも、豚まみれになって「まっとー」にやってる生活の方が、数段快感度が高いのだと思う。早い話が、そっちの方が気持ちいいのだろう。そして、それは僕にもなんとなくわかる。おそらく多くの観客も分かったのでしょう。
もっと古くは西行法師という人がいて、武家の名家の棟梁として生まれ、当時でいえば超エリートだったのが、いい年してそれを全部捨てて出家し、あとは全国を放浪して歌を詠んだ。彼もまた、当時の贅沢はほとんどしまくってきたのではないか。でもって、そんなことよりも、無一文で出家した方が気持ち良かったのだと思います。
年収何十億という、アメリカの企業のCEOが、リタイアしたら農場を買って働いたりするのも同じことなんじゃないかと思います。
なにがそんなに気持ちイイのか?
それは、やってることに100%嘘がなく、それをやるべき理由が100%理解でき、100%納得できているからではないか?
豚が病気になったから、病気になった豚を他の豚から隔離しなければならないとか、冬が来るまでに食料を集めないとならないとか、面倒くさく地味な仕事なんだけど、それらには嘘がなく、なすべき理由は明確。
ではなぜ100%理解と納得ができると気持ちいいのか?
それは、多分、100%ピュアな自己確認ができるからなんだろうな。
それをやっている自分を100%承認出来るし、その仕事には自分の姿がクッキリと投影される。
思うに、自分が自分であることを確認する喜びは、(本当に意味での)プライドのある人間にとっては、これに勝る快感はないのではないか?自分が自分であることの快感は、何事にも代えがたいのではないか。
もっといえば、やりたくないことをやって金だの地位だのを得ても、100%は嬉しくないんじゃないかな。やりたくない事をやった分だけ、もうそれは自分じゃないんだもんね。そこにストレスが生じる。そしてそのストレスは、いかに豪邸に住もうが、いかに贅沢をしようが、いかにチヤホヤされようが、終局的にはペイできない。一時、誤魔化すことは出来ても、いつまでも誤魔化しきることは出来ない。だから最終的には帳尻が合わない。赤字なんだわ。でも、それって一回それをやってみないと分からんのかもしれんけど。
さっき、「本当の意味でのプライドのある人間にとっては」と留保をつけました。
これも結構大事なポイントで、これを話し出すとまた長くなるのですが、簡単に。
本当の意味でのプライドというのは、いわゆる虚栄心ではなく、「渇しても盗泉の水は飲まず」系の、自分が納得できないことをするくらいなら死んだ方がマシというプライドです。セルフ・エスティームの意味で、僕は使ってます。
以前、実際にフィールド調査をしている専門家の方に聞いたことがありますが、しっかりした調査においても日本人はセルフエスティームが低いと言います。これは僕もそう思う。自分も含めてそうだと思う。「自分の出来ることはたかだかここまで」という無意識に設定している自分の限界が低い。出来ない自分、ダメな自分を前提に物を考える傾向があると思います。「俺はその気になったらなんだって出来る」と心底思ってる人は、意外と少ないよな気がします。僕がよく表現する「根拠のない自信」にあふれている人。自信なんて、根拠があるうちはまだホンモノではなくて、なんの根拠もないけど、「でも、俺は出来る」と思ってる方がホンモノ度は高いような気もします。もちろん、薄っぺらな虚栄で他人に自慢するのではなく、自分自身の内心の声としてですよ。
何かの大会で賞を貰ったとか、有名な大学を出たとか、著名な仕事を残したとか、エラい人は沢山いますし、人は誰だって何かあると思います。で、例えば、アインシュタインでもホーキング博士でもいいですけど、彼らは有名になりたくて、金持ちになりたくて、ああいう偉業を成し遂げてきたのか?というと違うと思います。彼らのプライドはもっとデカい。
例えばあなたが何かに成功して、社長だの先生だの皆に言われるとします。東大に合格して、周囲から東大生として祭り上げられる場合でもいいし、医者や弁護士になった場合でもいいです。でも、会う人会う人、そればっか褒められたら、段々イヤになってくると思います。社長であるという、ただその一点だけに注目され評価されてたら、「じゃなにかい?社長をやめた俺はただのゴミかい?」って気にもなってくるでしょう。そうじゃなくて、話は逆で、社長になったのは、俺の能力や努力やパーソナリティの一つの現れとしてそうなってるだけで、そんなのは俺の一部に過ぎない。「社長にでもなりうる自分」というのがまずあるという。もっと直截な言い方をすれば、俺は社長だからエラいのではなく、俺は俺だからエラいのだと。これが端的に出てくるのは、連鎖倒産を食らって破産して無一文になったとしても、「ふーん、じゃ、また最初からやろか」で出来ると本気で思ってるかどうかですね。これが本当のプライドだと思います。
だから、だからです。だから、そういうプライドのある人は、せっかく掴んだ社長の座だろうがなんだろうが、栄光の座を、あっさり放り出すことが出来るのだと思います。だって、俺は俺だもん、社長であろうが無かろうが関係ないもんね、ということですよね。クリントイーストウッドも、「西部一の凄腕」なんて称号よりも、自分自身のプライドの方がずっと巨大だったのでしょうし、西行にしてもしかり。
逆にいわゆる成金根性とかいって馬鹿にされる人がいます。これは、成金の人にありがちなセルフエスティームの低さが問題だからだと思います。つまり、「お金持ちじゃなくなった自分は無価値な存在である」と本人自身が思ってるという。だから、お金持ちであることが自分のプライドの根拠であり、それが崩壊すると全て無くなる。だからそれにすがりつき、事あるごとに自分が金持ちであることを確認し、誇示してないと気が済まないという。「卑しい」ってのはそういうことなんでしょうか。でも、まあ、根拠のある自信なんてそんなもんだと言えなくもないと思います。
だもんで、子供や家族の出身学歴自慢をしてる人々は、その意味でもセルフエスティームが低いのだと思います。プライドの高い人は、まず自慢しない。まあ、子供のような自慢心は無邪気にあるでしょうけど、それが人生の支柱になりはしないでしょう。ましてや、自分自身ではなく、自分の関係者という他人を自慢してる時点で、いかに自分がカラッポかということだと思います。悪いんだけど、そういう人は、あんまりレスペクトできない。
でも、プライドだってやることやってプライドもまた育っていく面があります。最初はなにかを成し遂げる、で、「お、俺って出来るかも」と調子に乗って、また何かやって、、、と繰り返しやっていくうちに、そのうち、別に何もやらなくても大丈夫という具合になっていくのでしょう。だから、最初の一歩としては、なんでもいいから、「お、俺って、、、」ということをやることなんでしょうね。
話がちょっとそれましたが、プライドのある人にとってみれば、自分が納得するかどうかが全てになるのでしょう。周囲の評価とか、段々どうでも良くなるという。
そうなってくると、自分が自分であることを確認させてくれる作業というのは、やっぱり快感なんでしょう。
ただ、先走るようですが、そういった僕から見たらイケてる人達って、もうプライドなんてものも必要じゃないのかなあって気もします。自信とかプライドとか、そういったものは、もうナチュラルに存在しすぎていて、いちいち意識してないののではないかしらん。僕らがいつも生きていて、腎臓とか膵臓とか持っているのを意識しないくらい。でも、確固としてあるには、あるという感じじゃないのかなあ。
なんつーのか、生きてるだけでハッピーになれちゃってるんだろうなあ。
生きるといっても、そんな複雑な話じゃなくて、寝るとか、食べるとか、草むしりをするとか、掃除をするとか、そういった淡々とした日々の作業に、結構充実を感じちゃってるような気がします。
クリント・イーストウッドの映画を見て、これって禅寺の和尚さんとおんなじじゃんって思いましたもんね。
禅宗という高度に知的に哲学と、高度に鍛えた肉体がミックスして、結局どこにいくかというと、日々の作務ですもんね。朝早く起きて、掃除をして、畑の手入れをして、読経して、、、、という。それで結構本人はハッピーなんですよね。でもって、出家とか、浮世で贅沢三昧、やりたいことやり尽くしたような人がなったりするもんね。
多分、日常家事というのが、実は一番人間にとって気持ちいいのかもしれません。
人生のゴハン、主食みたいなもので、これに比べたらなんたらプロジェクトみたいな仕事って、ハデだけどオカズみたいなものなのでしょう。オカズだけ食べてると、なんか落ち着かないけど、それに似てるかも。
そういえば、日本の家電化が進み、薪割ったり、風呂に水入れたり、洗濯ゴシゴシしなくなったりして、その先もどんどん全自動化が進んでるわけですが、どんどん便利になるにしたがって、日本人にストレスが溜まり出してるような気がします。単なる偶然なんだろうって気もするけど、案外関係してるのかも。
そのうち、「家事センター」みたいな高級会員制のクラブが出来て、入会金1000万円払うと、自分で薪割って、井戸で水汲んで、風呂沸かして入れるようになるのかも。たしかに、その風呂、気持ちよさそうですね。
というわけで、おかげさまで1000万も払わずに、バケツに水汲んで、雑巾しぼって、猫の粗相の後始末をゴシゴシやってます。とほほ&ハッピー。
写真・文/田村
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