特に「オーストラリア行こうかな」と思ってた14年前くらいは直近の出来事なので結構覚えてますが、Blankey Jet Cityの"Punky Bad Hip"あたりが、もうオーストラリアに行くぞというテーマソングのように鳴り響いてましたもんね。あの曲、今聴いてもクるものがありますが、当時は特にフックが強かった。それは、今まで営々と築き上げてきたものを捨て去ること、そしてまったく何のアテもないまま知らない外国に行くということについて、「それをやってもいいんだな」と自分自身で強く確認したかったのでしょう。自分が本当に望む価値世界はどうも今の日本の周囲の環境には無さそうだ、無いなら探しに出かけようという。周囲に自分の価値観を合わせるのではなく、あくまで自分の価値観や好き嫌いを核にして、周囲を変えていこう、必要があれば国さえ変えるぞ、総取っ替えするぞという。そのためには、それだけの強大な自我が必要で、自分が何にピピッとくる人間なのかを確かめるために音楽が鳴っていたわけです。
それに周回遅れのように、「そうか、そういう意味だったのか」に思うこともあります。ビートルズが「愛こそは全て(All You Need is Love)」と高らかに歌ったとき、最初は熱狂しつつも適当な大人になってから聴くと「なんとまあ、能天気な」と思っちゃったりする。しかし、もっと大人になってから聴くと、違う意味で歌ってるのに気づきます。なぜなら何にも知らないナイーブな青年がナイーブなことを歌ってるわけではなく、あれだけのビッグビジネスになって、世間の汚さも、人の小ずるさもイヤというほど思い知らされた彼らが、それでもヤケクソのように「愛しかねーんだよ」と歌ってるわけです。歌詞もよくみると、「出来ないことは出来ないんだよ」「歌えないことは歌えないよ」「見せられてないものを見ることは出来ない」「知らされないものは知ることが出来ないんだよ、しょせんね」という凄い諦めというとか、苦い歌詞が入ってたりするのですね。
だけど"but"で一転し、"Nothing you can say but you can learn how to play the game""Nothing you can do but you can learn how to be in time
""Nowhere you can be that isn’t where you’re meant to be."と続くわけです。なーんも出来ないんだけど、「ゲームのやりかた」(=これは意味が広く、人を愛することから、セコい駆け引き、世間の渡っていき方まで、何事かを成し遂げるためのやりかた)を「学ぶことはできる」、大事なタイミングに間に合うように「学ぶことはできるさ」といい、「本来居るべきじゃない場所にいるから居心地が悪いんだよ」と言う。しかも、"it's easy"と言い切るわけです。だから、意訳したら、「そーだよ、世の中汚いよ、人間汚いよ。俺ら無力だよ、無能だよ、何にも出来ないよ。だけどやり方を学ぶことは出来るし、タイミングもつかめるようになるさ。そんなの実は簡単なことだぜ。居場所がないように感じるのは、あんたが間違った場所にいるからだよ。そんなのやり方ひとつだよ、簡単だぜ。だからさ、結局愛しかねーんだよな。愛だよ、愛。わかる?」という感じなんでしょうね。世の中の汚さも不正も全部引き受けろ、そんなことくらい上手くやんなよって歌であり、恋する若い二人が有頂天にポワーンとなってる歌ではないのですね。だから、飲み屋のオッサンが”おだ”を上げてるような、なかばヤケクソのようなノリになってるんでしょうね。フランス国歌で威風堂々はじまりながら、最後は飲み屋のどんちゃん騒ぎ的になり、「はい、みなさんご一緒に!」と合いの手が入り、しまいにはポールが酔っぱらって''She loves you yeah, yeah, yeah!'"と叫んで終わっていくという。結構深いんですよね、この曲。だから、周回遅れ的に、「そうか、そういう意味だったのか」と分かるという。
あるいは評論家タイプ。いろいろなアーチストを聞き、それを体系立てたり、自分なりに評論するのが面白いという人。大なり小なり誰もがそうなりますけど、going too farな人だっているでしょう。「今月は新譜が沢山出るから大変だ」という「聴かなきゃ!」って人。別にしんどい思いして聴かなくたっていいじゃん。仕事だったら仕方ないけど、趣味でやってんだからさ。音楽にやたら詳しい人とかそうなりがちです。最初は自我の培養液的に聴き始め、のめり込むんだけど、だんだん自分の知識体系や評論体系を完璧にすることに力点がシフトしていっちゃうという。これも、一種のマニアだと思います。