今週の1枚(07.04.16)
ESSAY 306 : 気候変化と国家安全保障
写真は、チャイニーズ系の店でよく見る関羽の神棚。関羽といえば三国志で有名な武将ですが、神様としてまつられています。商売の神様としても知られているので、世界各地の華僑の集まるところには関羽を祭った建物(関帝廟=かんていびょう)があります。日本にも横浜、神戸の中華街の他、函館にもあるそうです。横浜中華街の関帝廟のサイト。
当然シドニーにも多数あり、チャイニーズ系のお店の中に、日本の神棚のような感じで祭られています。上の写真は、Newtownのチャイニーズレストランのもの。どこに置かれているかというと、、、→こんな感じです。
今週の現地の新聞を読んでいたら。"The Climate Wars"という特集記事がありました。
前々回も書きましたが、昨今「毎度おなじみ」になりつつある地球温暖化や気候変化(Climate Change)に関する記事なのですが、視点がちょっと違う。国家安全保障、つまり軍事力や国際紛争という観点から書いています。「ほう?」と思って一読したところ、そんなに「目からウロコ」というほどのものではないのですが、「なるほどね」「こういう視点も必要なのかもね」と思いましたので、これをネタに書いてみたいと思います。
この長い記事の主軸をなしているのは、Thomas Homer-Dixonというトロント大学の国際安全保障の専門家の理論です。彼は、気候の変化が国家内外の紛争を生じさせる恐れがあるとの論文を15年も前に発表していたのですが、当時は殆ど注目を集めませんでした。しかし、現在急に注目されるようになり、「The Upside of Down」という著書がベストセラーになるわ、国連安保理事会でも講演をするわで人気者になっているようです。
ちなみに、この本、日本で売られているのかどうかアマゾンジャパンで見てみましたら、The Upside of Down: Catastrophe, Creativity, And the Renewal of Civilization(ハードカバー版)、あるいはThe Upside of Down(ペーパーバック版)がありました。まだ、日本語の翻訳はでてないみたいですね。
このディクソンおじさんの主張は、簡単に言ってしまえば、地球の気候が(温暖化を含めて)変動すれば、エネルギー資源や食糧などをめぐって国際的には戦争、国内的には暴動が生じ、しかも地球規模で生じるために、世の中やワヤクチャになっちゃうよというってことだと思います。こんなに簡単に要約したら殴られそうですけど、まあ、大意としてはそうでしょう。いわゆる警世の書ですね。そして、そのメチャクチャになっていくシナリオを、膨大な資料やデータをもとに推論しているという。おそらく日本でも、この種の外国の文献をつまみ食いして、もっと日本人に分かりやすくポップに仕立てたり、恐いもの見たさ心理に迎合したりした本が刊行されるでしょうし、すでに沢山出ているでしょう。まあ、そう考えれば珍しくもない現象かもしれませんが。
しかし、一過性のポップ・ペシミズムや、「えらいこっちゃ」系のカタストロフィ本だけだったらこのエッセイで取り上げたりはしません。問題はディクソン氏の著作や理論ではなく、彼が今注目されているという世界の動向の方です。新聞記事によりますと、アメリカの議会では共和党・民主党の両党一致で、軍や諜報機関に対して、地球の温暖化がアメリカの国防や世界戦略にどのような影響をもたらすかを突っ込んで研究されたしという決議を出したそうです。また、来週(今週か)からのイギリスで行われる国連安保理事会でも、気候変化と国際安全保障についてかつてない位に熱心な構えを見せており、あまりこのテの問題に乗り気ではない資源産出&消費国であるアメリカ、中国、ロシアを説き伏せて、活発に論議されるようです。つまり、一般大衆的なベストセラーがどうのという話ではなく、アメリカ議会や国連安保理レベルでかなりマジメに取り上げられつつあるということです。
たしかにマジメに考えた方がいい問題ではあります。特に起こりうるトラブルの最終責任者であり、第一線の現場責任者である各国首脳や軍部にとっては、いやでもマジメに考えざるをえないでしょう。
しかしながら、この種の問題は、気候変化の規模や各国各社会の情勢によって出てくる結果も無限のバリエーションを持ちますから、正確に予測しがたいという難しさをはらみます。地球温暖化によって、冬期に凍り付く港が凍らなくなり、そこに縛り付けられていたロシア艦隊が活発に動き始め、それによって大西洋の軍備バランスが変わってくるとか、気候変化によりエネルギー危機が生じ、アメリカ軍と中国軍がペルシャ湾で武力衝突を起こすという第三次湾岸戦争が勃発するとか、無責任はシナリオは幾らでも書けます。樺太の地下資源をめぐって、日本の自衛隊とロシア軍が戦争になるとか、シベリア油田をめぐって中ロが対立するとか、経済的に離陸し膨大なエネルギーを必要とするインドが北上し、例によってパキスタンと喧嘩し、アフガニスタンやイランも交えて喧嘩になり、インドは核兵器持ってるからドサクサまぎれにドカンといくとか。もう幾らでも言える。
しかし、このあたりの話になってくると、しょせん正しいデーターも与えられていない僕ら庶民があーだこーだ言ったって無意味です。それらの問題を司る専門家である軍部や、その軍部をシビリアンコントロールをする官僚、さらに政治家に任せるしかない。僕らが出来るのは、より優秀で公正な政治家を選ぶことであり、彼らのアカウンタビリティ(説明責任)を不断に追求し続けることでしょう。そこは役割分担だと思います。でも、僕が、今自衛隊の幹部や高級官僚だとしたら、やっぱり「むむむ」と脂汗流していると思います。
戦争や紛争の最高の対処方法は、それを「未然に防ぐこと」であり、それは犯罪に対する警察活動と同じです。だから高度な外交交渉は軍事とワンセットになってるし、外交がボロボロなのに軍部が突出した場合、多くの場合悲惨な結果が待ってます。前の大戦もモロにそうだったし。あれだって外交がヘタクソだからABCD包囲網で石油資源から閉め出されてしまったのが遠因でしょう。要するにエネルギー危機が戦争を招いたという構図は今回と同じ。挙げ句国連から脱退し、国際法上43カ国(だっけな)と戦争状態に陥り、足腰立たなくなるまでブチのめされたというのが正味のところでしょう。でも、あれだけ突っ張っていながら、ドイツや韓国みたいに東西・南北に日本が分割されなかっただけでも、日本史上(というか世界史上)非常に幸運だったと思いますが、そんな幸運が何度もあるわけもない。今度失敗したら国ぶっ潰されるぞというくらいのシリアス感は持ってていいと思います。
そういったシリアス感バリバリで考えた場合、地球温暖化や気候変化の問題は、理系プロパーの問題でありつつ、より政治経済という社会学系の問題であるということを実感します。よく言うじゃないですか、大地震による死傷者は、天災によりものよりも、パニックその他の二次災害の人災によるものが多いって。地震そのものは数分で終わるけど、群衆パニックに巻き込まれ転倒して背骨を踏み折られたり、乏しい食糧を奪い合って暴動になったり、商店や家屋敷が襲われたり。日本民族は、神戸地震とロス地震を比べてみても分かるように、この種のパニックや社会騒動にはかなり強いです。いきなり暴動が起きるなんてことは、そんなにない。しかし、それも神戸という限られたエリアの話で、日本の大部分が無傷であり、全国から援助がなされたから治安維持が出来たわけであり、日本全国同時に起きたらそれもどうなるか分からない。大体、石油ショックのトイレットペーパー騒ぎやら、古くは米騒動なり、「ええじゃないか」なり、ある臨界点を越えるといきなり大騒動になったり、ラテン系になってしまうのも日本民族だったりしますから。
気候変化といっても、一本調子に温度があがりました、それだけって話ではなく、「そういえばそういう問題もあるのか」という形で、ありとあらゆる局面で段階的に生じます。前々回ちょっと紹介したように、海面レベルの上昇は沿岸部の汽水域の生態系を狂わせ養殖産業に打撃を与えるとか、沿岸部の建築物に海水の塩分によるダメージを与えるとか、単純に水位が上がって陸地が減るというだけの話ではない。水没が予定されている南海の島国では海岸線の進入による塩害でタロイモ栽培が崩壊したりしています。さらに、気候の断続的でピーキーな変化により、洪水やら干ばつやらが生じ、天災や農作物に甚大な被害を生じるかもしれない。つまりどこで何が飛び出してくるかよく分からない、精密にシュミレートすれば分からないことはないんだろうけど、範囲があまりにも広範であり、しかも生じうる変数が多すぎて、対策といっても「どこから手をつけたものやら」と頭を抱えたくなりそうです。
これに加えて資源エネルギー問題があります。温暖化とエネルギー問題はセットにして語られたりしますが、別に温暖化が進むからエネルギー危機が起きるというわけではないんでしょ?ともすればこの関係がややこしいのですが、もともと気候変化や温暖化があっても無くても世界の化石燃料の埋蔵量は有限であり、おそかれ早かれ枯渇する日が来るであろうという絶対的な品薄状況がまずあります。且つこの化石燃料からエネルギーを取り出す過程で二酸化炭素などの温室ガスを発生させそれが温暖化を招いているという因果関係があると言われているわけで、エネルギー対策(省エネやクリーンエネルギー開発)は資源問題対策であると同時に温暖化対策にもなるという関係にあるのでしょう。つまり温暖化がエネルギー危機を招いているのではなく、エネルギー問題が温暖化を招き、エネルギー対策は温暖化対策でもあるという。
「こういう気候にこういう資源」という所与の自然条件を前提にして、人間の社会が複雑に、それも思いっきり複雑に広がってるわけです。自然=親ガメの上に、子ガメたる人間社会が数十数百の階層で緻密に構築されている。その前提たる親ガメががちょっとでも狂ってきたら上に乗っかってる子ガメ群は右往左往するというメカニズムになっているのでしょう。たまたま今年大西洋の海流がおかしく冷害が起きたので穀物生産量が激減し、そのためにシカゴあたりの先物相場が大変動し、その結果極東の日本で先物に手を出していたどっかの誰かが首を括ったりするとか。資源だって、ある日突然ゼロになるってものではなく、生産量がちょっと下がった段階でスペキュレーション(推測)が飛び交い、価格も乱高下する。だいたい今の原油高だって、結局何によって生じているのかというと諸説入り乱れているわけで、複数の原因が複合的に絡み合ってるとしか言いようがないようです。でも、原油高→生産輸送コストの上昇→コスト削減努力&経営合理化(という名の下請イジメやサービス労働や不当解雇)になり、そこから先は万華鏡のように社会内部で化学変化を起こしていくでしょう。人件費カットの為の派遣社員の増加と福利厚生の低下、ワーキングプアの大量発生と格差社会、社会内部の閉塞的メンタリティと懐古趣味的情緒的論議の横行などなど、無限に因果の連鎖が続いていく。
このように無限の変化バリエーション&全面展開という超ややこしい状況は、体育館一面に並べたドミノが、同時多発的にあちこちで倒れだしているようなものなのでしょう。しかも、いつどこで新たにまた倒れ始めるかわからないという。各国首脳は「むむむ」と脂汗を流すでしょうし、今回のテーマである国家安全保障という局面においても、やはり脂汗を流すでしょう。
さて、上に書いたとおり、予測や対策といっても、いったいどこから手を付けたらいいのか途方に暮れるのですが、前述のディクソン氏や他の専門家達で「これだけは確かに言えるだろう」という二つの点があるそうです。それは、@地球気候の変化は何らかのインパクトをもたらすこと、Aそのダメージは国際間の紛争よりも国内社会における治安低下や混乱という形で生じるであろうこと、です。@はまあ良いとして、注目すべきはAですね。戦争など国際的なドンパチも起こるだろうけど、より重要なのは国内秩序の維持であるという点。そして、ディクソン氏は指摘するのですが、アフガニスタンやイラクの現状を見れば、精強なアメリカ軍が上手にやってるとは言い難い。ありていにいって泥沼化している。国家間の紛争そのものは数日や数週間で決着がついたとしても、社会内部の治安維持や、健全な社会を建設することは、何年かかっても難しい。つまりそれだけ国内問題というのは難しいということです。
これは分かるような気がしますね。戦争というのは、敵味方まとまっていてくれるから分かりやすい。要するに武力衝突だし、喧嘩である。しかし、国内治安となると、戦争&軍事というよりは犯罪&警察レベルの話であり、強大な軍隊を持っていても対処しにくい。例えていえば、他人との間の武力闘争は、木刀やら拳銃やら武力が勝った方が勝ち、勝敗も見えやすい。しかし、自分の身体に関する不調、ノミや蚊にくわれるとか、病気であるとかいうのは、木刀やライフル持ってたって何の役にも立たない。要するに健康な生活習慣を作るしかなく、喧嘩系の道具立てや論理をもってきても効果は薄い。たしかにそうだと思います。
しかしながら、これらの事柄も国家の安全保障という意味では同じです。外敵からの侵襲を撃退するだけが国家安全ではない。早い話が、日本の自衛隊も他国の軍隊も、イラクや外国に派遣されているのは一部に過ぎず、その多くの活動は、実は災害復旧だったりします。異常事態を前提にした堅牢な指揮命令系統、ハードな環境を前提にしたヘビーデューティーな装備を誇る軍隊というのは、災害復旧の火事場にこそその力を発揮します。そこは警察と違うところで、警察にはロジスティクス(食糧物資の輸送)や、工兵的な要素=わずか数時間で橋を架けるとか野営地を設営するという強力な土木工事能力はない。だからこそ、国連安保理やアメリカ議会も、この問題をシリアスに考え始めてきているのでしょう。
記事では、シドニー大学のAlan Dupont氏の意見が紹介されていますが、氏曰く、「オーストラリアでは、毎年200億ドルの予算が国防費に計上されています。これはオーストラリアに対する、(他国が攻めてくるという)あまり起こりそうもない従来のタイプの侵害に備えてのものです。しかし、これが無意味であるとは思えない。だとしたら、気候変化に伴う侵害に備えるために多額の予算を計上することもまた意味があると言えるでしょう。近隣諸国からオーストラリアに対して軍事攻撃が行われる確率は、まあ1%以下でしょう。しかし、次世紀にかけて海面が6メートル上昇する確率は、ある程度信頼すべき科学データーによれば5〜10%に達するとも言われています」。
ここで再びディクソンおじさんが登場するのですが、ローマ帝国がなぜ滅んだかと言えば、結局のところエネルギー危機によるものだ。文明文化が高度に発達し、社会が爛熟すればするほどより大量のエネルギーを必要とするようになった。そして、エネルギーが足りなくなった時点で崩壊していった。そして現代の世界は、それ自体がローマ帝国のようなものであると。彼によると、過去100年の間に、食糧を生産&輸送するためのエネルギー消費量はなんと80倍にも増大しているし、世界人口は4倍にも増えている。増大するエネルギー需要を満たすために、次々に新しいエネルギーが発見され技術革新がなされてきているが、それも限度があるだろう。また、新しいエネルギーを開発すること、例えば原発施設を建築すること自体またエネルギーを消費するし、気候変化に備えるための諸政策も=例えば防波堤を建築するとか、人々を避難&移住させることにも膨大なエネルギーを必要とする。いつかどこかで、アンサステイナブル=持続不可能になっていくのではないか、と。
もっとも、オーストラリア国立大学のPaul Dibb氏によれば、大事なのはパニックになることではなく、クールに考えることであり、"knee jerk panic"(膝蓋腱反射のように盲目的に反応すること)は差し控えるべきだと主張します。気候変化という巨大なテーマに対して、非の打ち所もなく精確にこれを予知する科学力は今のところないのだし、これは勃発後24時間に1億8000万人が死ぬといわれる世界核戦争の話でもないのだ。それに、気候変化にともなうエネルギー危機によって、例えば中国政府が経済優先のために軍事部門を劣後させるかもしれないし、全ての出来事が悲観的に進むわけでもない。「なんか、皆、人類規模の体験というか、アーマゲドンのような、宗教みたいな感じに捉えているキライがあるんじゃないかな」と、ちょっとこのディブ氏は苦々しげです。
このような人類共通の試練を迎えて、国家間は紛争状態に陥るというよりは、むしろ協同関係を築くであろうという予想もあります。Griffith大学のMichael Wesley氏は、「経済的に深く関連しあっているアメリカと中国が、なんで原油をめぐってペルシャ湾で戦争しなきゃいけないんですか?」と言います。資源が枯渇しそうだからって、人類は常にいがみあって、紛争を起こすってもんでもないでしょう。歴史でもそんな証拠は見あたらない。しかし、ディクソン氏は、「いや、第一次大戦におけるフランスとドイツの参戦はまさに資源問題が戦争に至った例である」と論じます。
また、ディクソン氏は、市場メカニズムが現在のところ資源分配において最も優れたメソッドであることは認めつつも、あまり過信しない方がいいと警告します。「必要は常に発明の母になるわけではない」。「市場が全てを解決するなどという論議は、墓場を通り過ぎる風のささやきのようなものだ」と。
さて、オーストラリアにおいては、周辺の国々の援助という形でさしあたって生じてくるでしょう。日本ではあまり知られていないでしょうが、オーストラリアは周辺の国々に軍隊を派遣しています。東ティモール、パプアニューギニア、ソロモン諸島などです。あのあたりは年がら年中、暴動や社会不安が生じており、南太平洋においては相対的にダントツの大国になってしまうオーストラリアは、周辺エリアの安全保障のため、ドンパチが生じる度に軍隊やら警察やら援助物資やらボランティアを派遣しています。
ただでさえ政情不安なエリアですから、これに加えて気候変化による食糧物資不安が出てきたら大変でしょう。それに伴う治安の低下も激しくなるでしょう。またおっとり刀で出て行かねばならないし、援助もしなくてはならない。また、いずれは海没することが予想されるツバルのような島国家からの難民受け入れという問題も浮上してくるでしょう。先週ひっそりとリリースされた、国防に関する政府のレビューには、"The current range and nature of military operations is causing stress in Defence, and excessive pressures on senior people(現状における国防活動の範囲と状況はストレスを生じさせ、組織上層部に格別の緊張を強いている)."ということで、現状においてすら苦しい事情が記されています。このストレスがさらに増加したらどうなるんだ?という。憔悴しきっているブラス(軍の上級幹部)のオジサン達の顔が目に浮かぶようです。
なお、オーストラリア周辺の海洋国家群のちょっと上(北)のアジア諸国においても情勢は楽観を許しません。人口がやたら多い上に、その多くは沿岸部に住み、かつ河川が生活の重要な資源になっているために、海面レベルの上昇は河川の氾濫を招き、あるいは沿岸湿地帯や汽水域の変容を促すでしょう。あるいはオーストラリアのように干ばつに見舞われるかもしれません。フィリピンなんかの島国国家もそうですが、ベトナム、タイやカンボジアなんか水上生活しているくらい水とはなじみが深くいから、水との関係が狂ってきたらそれなりにダメージは生じるように思います。そうなった場合、どうなるか?と。タイなんかクーデターが年中行事だし、ビルマ(ミャンマー)はまだ軍事政権だし。
ただ、ペシミスティックなことばかり言ってる印象のあるディクソンおじさんですが、希望もあるのだと説きます。これが彼の著書の"The Upside of Down"の"Upside"にあたる部分なのですが、社会不安が起こるとき、場合によってはヒットラーのような人物を生み出すかもしれないが、同時に優れたリーダーであり変革者であるフランクリン・ルーズベルトを生み出す場合もある。また、社会を救う大きな発明や技術革新も起きるかもしれない。特に、次の数十年のスパンに、巨大な技術革新が起きる必要があろうと彼は述べています。
以下、雑感です。「えらいこっちゃ」という状況はわかったけど、「じゃあ、どうすんの?」という話、さらに「本当に出来るの?」という正味の話があると思います。この「出来るの?」というレベルの話ですが、煮詰めていけば、資源や食糧の枯渇などに直面して人類がどう振る舞うか、協同関係を築くか、それともアナーキーな暴動状態になるか?という問題になろうかと思います。危機に際して、人類はあくまで協力しあって困難を乗り越えていく方向に進むか、それともヤバくなった時点で「他人のことなんか知ったことか」とばかりに利己的に振る舞い、結果として紛争や暴動が頻発し社会内部から自壊していくか。あなたはどっちだと思いますか?
僕はこう思います。おそらくは限度の問題であろうと。法哲学や刑法学に古くから語られている命題に「アルネアデスの舟板」というものがあります。船が難破して、一枚の舟板に二人の人間がしがみついている。舟板から手を離したら溺れ死んでしまう。しかし、二人が一枚の舟板にしがみついていたら、身体の重さで板も沈み共倒れになってしまう。このような状況で、自分が助かるために他の人間を追い落とし、死なせてしまった場合、その人間に罪は問えるか?というものです。「緊急避難」の原型になるもので、このように自分の命が危ないときは他人を殺すのもやむを得ないとされています。道義的倫理的には問題があるだろうが、少なくとも法のレベルで罪を問うのは難しい。一般の人間は聖人君子ではない。聖人君子のように自らをの命を失っても罪を犯すな、と要求するのは酷であり、妥当ではないと。
思うのですが、二人でも沈まないくらい舟板が大きかったような場合は、おそらくその二人は励まし合い、協力し合って危機を乗り越えようとするでしょう。しかし、二人揃って助かるのは不可能であると思えた場合、もはや協同関係は望めないだろう。同じように、気候変化や自然災害によって資源や食糧物資が枯渇するとします。しかし、尚も力を合わせてやっていった方が助かる確率が高いと思える限り、人は協同関係に入ると思う。しかし、そんなことをしていても無駄だと思えたときは、殺し合いになるだろう。
そして、その分岐点は、客観的に真実がどうかというよりも、「そう思えるかどうか」という主観的なものにかかってくると思います。
おそらくですね、為政者やリーダーシップを握る人々の苦悩はそこにあるのではないかと。どんな状況になっても希望があるうちは、人々はまだ生産的に考えるし、秩序も維持される。だから「頑張ればなんとかなる」という希望だけは消してはならない。しかし、反面、あまりにも希望が大きすぎると、すぐ楽観的になって何の努力もしなくなるのが僕ら人間の通弊だったりします。受験を目の前にして、あまりにも絶望的に思えた人は自暴自棄になって何もしなくなるが、「なんとかなるでしょ」と楽観できると、今度は勉強の手を抜くようになる。これは自分自身の日常心理を返り見てもそうですよね。大変すぎるとあきらめちゃうし、楽勝と思えると何もしないしで。「ヤバイぞ」という緊迫感は残して手を抜かないようにさせつつ、「もうダメだ」と絶望させないようにするという、シーソーのバランスが丁度釣り合ってるような一点を目指さないとならない。難しいです。
かといって為政者にマインドコントロール権能を認めたら、情報操作や洗脳が横行することになり、戦時中の大本営発表や北朝鮮の国営放送みたいな話になっていってしまう。でも、無責任なデマを放置しておくのもいかがなものかという気もする。結局は、その国民の、ひいては人類の成熟度なんでしょうね。どれだけ正確に状況を見極められるか、デマに惑わされないか、どれだけ自暴自棄にならずに自分を保っていられるか。それと、社会内部の格差や差別が激しすぎる社会は、モロいかもしれません。なぜなら、貧乏籤ひかされた階層は「こんな世の中ぶっ壊れてしまえばいい」というメンタリティが強いから、破局ですらも彼らにとってはチャンスに映りかねない。その国や社会がどれだけ安定しているか、持続的な発展ができるかは、中産階級がどれだけしっかりしているかにかかっている、というのはよく言われることです。
その意味で日本の場合、大部分は安心しつつも、ちょびっと不安が残ります。一つは、格差社会の進行がどの程度までいっているかです。まさか「階級」というレベルまで達してはないだろうけど、社会の下部に組み込まれてしまった人々のルサンチマン(怨恨)の絶対量がどれだけ大きくなってるかです。もう一つは、日本人ってペシミスティックな話が好きでしょ。「日本はもう終わりだ」みたいな本がよく売れる。思うのですが、ストレスが多い人ほどペシミスティックな話が好きなような気がする。小学校の頃、新学期の前には「学校が火事になればいいのに」と思う心理と同じですね。ストレスきついと全部ぶっ壊したくなる。というわけで、日本列島に累積しているルサンチマンとストレスという精神的廃棄物のようなものがどの程度になってるか?だと思います。これが大きければ大きいほど、その社会は不安定になるでしょうから。
ところで、話は変わりますが、衆議院で憲法改正のための国民投票法案が強行採決されたそうですが、日本の安全保障という観点でいえば、今まで述べた点も十分に頭に入れておく必要があろうかと思います。つまり戦争をするかしないかというデジタル的な二者択一ではなく、いかにエリアにおける安全保障をはかるか、どのように未然にトラブルを防止するか、どういう協力関係を構築するかです。
安部さんが首相になって、これまでの彼の言説とは裏腹に親中的に行動し、中国との関係を強化していますが、結果的にはイイコトだし、素直に評価すべきだと思います。あの人が首相になってやったことで唯一評価できる点です。その裏事情については、いろんな憶測があろうし、最新の田中宇氏の論考にもそのあたりの分析がなされています。彼がみるところ、この地域から撤退したいアメリカの意向がまずあって、そのアメリカに「ほれ、中国と仲良くしなはれ」と突つかれてやったのではないかということですが、そのあたりの真偽はさておき、中国とはうまくやっていくべきでしょう。もう、好きとか嫌いとか感情的なことでウダウダやってられる余裕はないです。北朝鮮についても同様で、ただでさえ飢餓状況にあるあの国民を、この先の気候変化においていかにケアするかという点が焦点になってくるんじゃないかな。ある日突然、日本海側に数百万人の難民が押し寄せてくる前に、受け入れる数なり枠組みなり近隣諸国と根回ししておく必要があるでしょう。まあ、もうやってるとは思うんだけど。もしかしたら日本は拉致問題に忙殺され、その他のことは太平楽に何も考えていないかもしれないけど、6か国協議の他の国はそこまで馬鹿ではないだろうから、いざというときのために考えていると思います。
以上、大風呂敷広げすぎてとっ散らかったエッセイになってしまいましたが、この問題は範囲が広すぎて何をどう書いても収集がつかなくなりそうです。かといって、対象をあまり限定して論じても意味ないような気がする。他領域との関連性こそに問題があるように思いますから。とりえあず、トピックとして言えば、地球の温暖化という環境問題と軍隊がどーのという国家安全保障の問題は、今やセットにして考えるべき時代になってきているということなのでしょう。リサイクルやゴミの分別に心を砕くことは大事なことですが、それらの活動や思考能力の5%ほどを割いて、国家安全保障の問題についてもひととおり考えてみても良いのでは?ってことです。また、日本の安全保障や国防という場合、君が代歌って、嫌韓嫌中感情を爆発させて喜んでてもしょうがないってことです。そんな好き嫌いや趣味でやってられるほど状況は甘くないでしょう。人間、メシを食わないと死ぬわけで、米が無ければ死ぬし、米があってもエネルギーが無ければそれを炊けないわけで(それ以前に輸送できない)、今はそのレベルでの議論をやってるわけですから。好き嫌いは食ってから言えって感じです。
文責:田村
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