今週の1枚(07.04.02)
ESSAY 304 : Earth Hour と Climate Change
写真は、Undercliffeからシティの遠望。アンダークリフなんて地味なサバーブ、知ってたらエラいです。マリックビルの南、アールウッドの東、チュレラの北、テンピの西にありますが、こういってもまだ分からない人が多いでしょう。空港に近いくせに、川と公園に囲まれたエアポケットのようなサバーブです。
先週の土曜(3月31日)、夜の7時半から1時間、シドニーではアースアワー(Earth Hour)というイベントが行われました。シティのビルをはじめとして、広く住民にこの1時間だけ省エネのため電気を消すように呼びかけるもので、参加したのは約2000企業&政府機関、そして約6万世帯のシドニーの住人でした。
交通安全のために信号とか街灯は消しませんでしたが、オペラハウスのライトアップも減衰し、ハーバーブリッジも橋梁部分が消灯し、キングスクロスの入り口にある大きなコカコーラのネオンサインも1974年の設置以来初めて消灯したそうです。ウチもこの1時間だけ家中の電気を消し、キャンドルをいくつかつけて過ごしました。なかなかいい感じでありました。昨夜は満月に近く、月光が強かったため、それほど真っ暗という感じではなかったですし。
このアースアワーについての正確な説明は、公式ホームページ をご覧ください。呼びかけたのは、WWF(World Worldlife Fund)Australiaと、Sydney Morning Herald新聞を出しているFairfax社です。これは単に一日だけ、1時間だけのイベントではなく、この日から1年間、シドニーの温室ガス排出量を5%削減することを目的としています。昨日の「皆で、せーので消灯」イベントは、そのキックスタートとしての意味を持ちます。
WWFはパンダマークでお馴染みの世界規模の環境保護団体であり、シドニーモーニングヘラルド社は地元で一番の新聞社ですが、この両団体がタッグを組んだだけでは、ハーバーブリッジやオペラハウスの消灯が叶うはずもありません。WWF日本と日本の朝日新聞あたりが組んで呼びかけても、東京タワーや国会議事堂や銀座のネオンが消えたりすることはありえそうもないです。その呼びかけに広く政治家、役所、他のマスコミ、そして大多数の市民が賛同して、自発的に行動しない限りこうはならない。シドニーの場合、役所や政治家の賛同を得て行われ、昨夜の公式行事の場所には、シドニー市長のクローバー・ムーア、野党党首のケヴィン・ラッドさらには女優のケイト・ブランシェットが出席し、Sky TVというケーブルTVでライブ中継されてました。
ところで地球の温暖化対策と電気を消すのがどういう関係にあるかというと、地球の温暖化には人間が排出している二酸化炭素などの温室効果を招くガス(greenhouse gas emissions=温室効果ガス)が大きな要因になっており、このグリーンハウス・ガスの出所は自動車の排ガスや森林破壊など様々あるが、一つの身近な要因としては火力発電所であり、皆が省エネ、省電力につとめればそれだけ温室ガスの排出につながるという理屈です。そして、いきなり今日から自動車をやめて全部歩けとか、電気を一切使うなとか、そんなことは無理だから、まずは出来る範囲で、無駄につけっぱなしにしている電灯を切るとか、待機電力状態の機器の電源を切るとか、そういうところからやっていこうということです。
まずは身近で、小さな一歩からってことです。森林破壊を防ぐために割り箸を使わないとかそういう話ですね。
ただ、違うなと思ったのは、そういう身近な一歩から国政の中枢までの距離が短いというか、連続しているのですね。日本の場合、そういうことに熱心な人がいますが、それが地方議会の選挙の焦点になったり、ただちに国会で優先的に議論されたりもしないし、具体的な法案や政策、予算案という形で実現することも少ない。要するに、一部の熱心な人が頑張ってるけど、そこで終わってしまいがちで、そこから大きく連続的に広がっていかない。経済界では経団連が反対し、役所の腰も重く、政治家も口先だけであまり熱心に動かない。いや、もちろん政財官界に本当に熱心な人は沢山おられるとは思います。また、そういう活動をしておられる方が努力不足だと言ってるのではないです。沢山の人が熱心にやっておられるのだけど、でも、なかなか広がっていきにくい社会の土壌の差を言ってるわけです。だから、日本で頑張ってる方々がオーストラリアに来たら、「なんて楽チンなんだ」って思うでしょう。呼びかけて、「なるほど」と思えば、皆がチャッチャとやってくれるし、役所も政治家も比較的腰が軽い。というか、腰が重かったら次の選挙で落ちますから、彼らもフォローアップに必死でしょう。それに、「前例のないことをやるのが大好き」という国民性の差もあるでしょう。
そして、シドニー全体が消灯している間、TVで何を話しているかというと、政策議論だったりするわけです。WWFのスポークスマンや、野党党首などが、「じゃあ、具体的にどうする」というアイディアや法案を伝えるわけです。炭素税の導入の他に、ニューエネルギーの促進、それも例えばソーラーシステムを屋根に設置した家は年間○万円の税金のリベート(控除、リベートという単語は本来こういうところに使う)をしようとか、ハイブリッドカーを生産する企業や購入する消費者には政府からリベートを出そうとか、その財源はどこからひねり出したらいいかとか、その種の話が延々出てくるわけです。要するに1時間電気を消してそれで終わりというのではなく、これを契機に皆で考えよう、知恵を出そう、実行しようというキッカケでしかないってことです。ただ、このキッカケイベントは良くできていて、家中真っ暗にしてキャンドルつけてると、まあイヤでも意識は高まりますよね。一般の人々の意識改革を促すために、また既に分かってる人はその認識をさらに深めるために、そして深い認識を持ってる人は認識から行動へステップアップするために、確かに機能してるなとは思います。
また、この種の運動にありがちな、教条的な色合い、「我々が正しいんだから従いなさい」的な、傲慢さというか、セルフ・ライチャス(ひとりよがりの正義)が薄いのも「ほう」と思った点の一つです。日本にいる頃、医療関係などのNPOなんかにちょこっと参加してたことがありますが、あの種の「正しいことをする活動」というのは非常に難しく、押しつけがましくなった時点で人は引くんですよね。「啓蒙してやる」という傲慢さが匂ってきたら、聞いてる方はその傲慢さが鼻につく。結果として、理解&賛同というリアクションではなく、「そりゃ、正しいか知らんけどさー」という反発になります。だから、正しいことを呼びかければ呼びかけるほど、遊び心を満載にして、取っ付きやすさ、気楽さを出していかないといけないという。「正しいから従え」と人に押しつけるのは、新興宗教の勧誘と変わらんもんね。「真っ暗にしてキャンドルをつけよう」というのは、一種の「遊び」としても成り立ってるんですね。暗くなったシティの摩天楼が見えるよとか、キャンドルの灯だけで二人だけでロマンチックなムードに浸ろうとか、ボンダイビーチでは無料のパーカッションのコンサートが開かれ、人々がキャンドル持参で見物するとか。そのあたりは上手だなと思いました。その種の「遊び」をすぐに思いつく文化、「遊び」を不真面目だといって否定せずに、公的にも支持する文化というのがあるように思います。「正しいことをやってるんだから、楽しくなければ嘘だろう?」という。
しかしながら、オーストラリアが環境問題について世界的に優等生かというと、そんなことはないです。むしろアメリカと並んでキョート・プロトコル=京都議定書を批准していない数少ない国でもあり、優等生どころか劣等生といってもいいです。人口一人あたりの温室ガスの排出量では世界4位という不名誉なポジションにあります。
さて、ここで、地球の温暖化や気象変化の構造、その中での京都議定書の位置づけ、オーストラリアの取り組みなどを、ここで正確に書くことは出来ません。書いてる僕自身がよく分かっていないからです。「今、勉強中」って感じです。頑張ろ〜。ただ、わからないまでも、「多分こうなんじゃないかな?」くらいのことは書いてみたいと思います。
従来のオーストラリア政府の立場は、京都議定書だけが温暖化対策の特効薬ではないし、自然条件や産業構造の違う国に、一律に二酸化炭素の排出量という基準で目標数値を設定するというのは無理があるということでしょう。このあたりのは在日オーストラリア大使館の「温室効果ガス排出対策で先端を行くオーストラリア 」というページに、述べられています。ただ、分かりにくい官僚的文章であり、言い訳っぽいニュアンスはあります。
オーストラリアは他の先進国と違って資源国です。石炭も液化天然ガスもウランも出ますし、輸出もしてます。オーストラリアは世界第1位の石炭輸出国で、世界の輸出総量の約3分の1を占めます。そしてオーストラリアの輸出相手の第一位は日本だったりします(50%以上)。自国でこれだけ豊富に石炭がとれれば、それを燃やして発電するいわゆる火力発電がオーストラリアのメインの電力供給源になるもの当然なのですが、それが温室効果ガス発生の大きな原因にもなっています。ウランに関していえば、確認埋蔵量は世界一、生産量では世界第2位です。ただし原発はありません。また広大な森林があるので木材(チップ)輸出もしてます。ここでも日本は、オーストラリアの主要な輸出先であり、紙の原料として使っているそうです紙と森林伐採を考えるページ、日本の紙によるオーストラリアの森林破壊問題。
オーストラリアは、鉱物あるいは森林など天然資源に恵まれた国であり、その昔ラッキーカントリーと言われたゆえんでもあるのですが、逆に言えば資源を食いつぶして国が成り立っているという側面があります。同時に、この種の第一、二次産業依存から、商業やサービス業(観光や教育など)の第三次産業へむけて産業構造を変えようと営々と努力している国でもあります。しかし、屋台骨としてはまだまだこういう天然資源構造は残っていますし、それがカントリーに住む人々の経済を支え、生活を支えている以上、一朝一夕には変わらない難しい問題をはらみます。
人間が何らかの文化的な生活をしようとすれば、なにかしら自然破壊をせざる得ません。オーストラリアのように火力発電中心でやってると大量の温室効果ガスを排出するからといって、じゃあ水力発電にすれば一件落着かというと、今度はダムを造りまくって河川の生態系はグチャグチャになります。じゃあ、原発か?というと、一発ドカンときたらその環境破壊度は計り知れない。釣った魚を焚き火で焼いて食べても、木材は消費され、煙が出るから温室効果になります。製鉄やら、陶芸やらやるだけで、大量の火力が必要ですから山ははげ山になります。ギリシアも韓国もそうやって森林資源がはるか昔に減少しました。日本の場合は森の再生力が強いのではげ山にはならないで済んでいるものの、温室ガスが出ることに変わりはない。
それでも少しでも努力しましょうということなのですが、節電やリサイクルという消費レベルで努力するのはまだしも簡単で、鉱工業や森林業という生産レベルでの削減はそれよりも難しいと言えます。なぜなら生産部門の縮小削減は、ある地方や人々の失業や生活破壊を伴うからです。僕らが省エネに協力しても、それは月々の電気代が安く済むとか、自転車通学に切り替えたから足腰が丈夫になってヘルシーになったとか、プラス効果をもたらします。省エネに協力したから失業したとか、破産や一家離散を招くということはないです。でも、産業構造がこれにからまっていると、モロに暮らしに関わる。だから難しい。
オーストラリアの場合、欧米など他の先進国に比べて、温暖化の原因が消費レベルではなく生産レベルにシフトしているため、京都議定書のようなモノサシで計られても困る、「お前らと一緒にすな」と言いたくなる政府の気持は一応はわかります。そんな各国のお家の事情とか言い出したら、どこだって内情は苦しいんだから同じである、自分だけ辛そうな顔をするなという批判は批判で有効だと思いますが、国土も小さく人口密度も高い欧州や日本などの都市型国家と、広大な領土と豊富な自然を抱えた国家と同じにしないでくれという「言い分」もまた、これはこれで聞いてやるべきだと思います。そのあたりの経済面に関する理解を深くしていかないと、議論が空中戦になり、「何が正しいか」という抽象的な神学論争になり、ひいては「正しいものは正しい」という教条的な議論に陥り、結局それではも誰も説得されずに不毛になるからです。
しかし、ここ1ー2年で急速に世界の世論は変わりつつあるように思います。アル・ゴアの世界行脚もそうですが、いよいよ環境問題、温暖化に伴う気象の変化が目に見える形で出てきたからだと言えます。
ここのところ世界的に異常気象が続いてますし、日本もまた例外ではないでしょう。オーストラリアでも、何年も続く干ばつで地方の農家は壊滅的な打撃を受けてますし、シドニーのような大都市ですら、解除される見通しもないまま給水制限が施行され、ダムの水位レベルを皆が固唾を呑んで注目している状況にあります。さらに、オーストラリアにおける過去暑かったベスト10年が、全て1990年から2005年の15年に集中しており、2005年は観測史上最高に暑かったという事実は、そういう記録を知らなくても、夏になるたびに「なんか今年はやたら暑いな」という実感となって市民の間に広まります。また、去年はサイクロン・ラリーがQLD州を直撃し、バナナ農園を壊滅させたため、以後1年ほどは従来の価格の10倍ほどのバナナを食べる羽目になりました。要するに「身近なこと」として、異常気象が頻繁に感じられ、且つそれが生活にダイレクトに影響を及ぼすようになってきているということです。アメリカにおいても、相次ぐハリケーン被害が生じ、他人事ではなくなってきています。
地球の温暖化や環境変化というのは、膨大な観測データーと気の遠くなるような計算、それを裏付ける自然科学やデーター処理の知識と理論が求められます。口で言うのは簡単だけど、実証しようとすると、途方もなく難しい。また不確定要素も多い。それゆえ、ちょっと前まで、むしろ寒冷化しているという議論もあったりするわけです。また、温暖化の傾向を認めるにしても、それが人為的な原因に基づくものか、太陽黒点の移動などの自然的な原因に基づくものかでまた議論があったりするようです。
ただ、徐々に温暖化の方向で意見が収束しつつあり、また20世紀前半の温暖化は自然的要因が強く、20世紀後半は人為的要因が強いという見解が支持されつつあるようです。また、温暖化といっても、単に気温がちょびっと上がるというだけの呑気な話ではなく、海面が上昇して海岸線が変わり、地形そのものが変わる。それだけではなく、もっともっと精密な気象や地球物理のメカニズムが検証・推論されるようになります。 例えば極地の氷が溶けることで、海水の塩分濃度が微妙に低下し、比重が軽くなり、それが結果として赤道から極地方に流れる海流に影響を与えるという見解もあるようです。
海面上昇の影響は、既に有名になりつつある南太平洋のツバルという島国が水没するとか、今週の新聞の特集ではキリバティという国のことをやっていました。またTVでも頻繁に見るようになりました。海面上昇による水没は単に陸地がなくなるというだけではなく、海水の侵入による水分の塩分濃度の上昇により耕作ができなくなるとか、湿地帯になることで根が枯れることで食べるべき作物が取れなくなる。また珊瑚礁の死滅し、結果として魚もいなくなりタンパク源が無くなるという形で、居住不可能島になっていくメカニズムが紹介されています。
また、海面上昇は日本も無関係ではなく、海水の侵入によって汽水域(海水と川の淡水が混じり合って塩分の少ない水域)の変化が生じ、汽水域でのノリやカキの養殖業に大きな打撃を与えるという形で生じていくようです。また、海面上昇になると地下水の水位も上昇し、地下鉄などの地下空洞設備の浮力が上昇し、地下道が破壊されるなどの影響もあるようです。実際、東京では、地下駅の浮力上昇がリアルタイムの問題となっているそうです。さらに、海面上昇による地下水や塩分濃度の影響は、臨海工業施設の工業用水の問題、干拓地の農地問題につながります。真水を必要とする工業や農業において、塩分の侵入というのは死活問題になります。
つまり、ちょっと暑くなりましたとか、海水が増えましたという単純な話ではないということですね。自然のメカニズムの精密なバランスの一角が崩れれば、あとはビリヤードの球のように玉突き効果で、波及していき、思いも寄らないところで影響が出るということです。
以上は海岸線に接した沿岸部での局所的な影響に過ぎませんが、水の惑星といわれるくらい水の豊富な地球において、その水の量や温度が変化するということは、考えてみたらドエライ話になりそうです。これだけの水量にこれだけの温度、これだけの自転力と海流という所与の条件のもとに、どれだけの海水が蒸発して水蒸気になり、どれほどの雲になり、また気圧変化が風を起こし、結果としてどういう気象になるかというのが、まあ大体決まってるわけですよね。だから、日本は一年に四季があり、二百十日に台風が来ますという定例的な気象変化になってたわけです。でも、その水の量とか温度が変化するというのは、これら複雑なメカニズムのベースとなる基礎定数が変化するということで、以後の複雑な計算や因果関係が全部変わってくるということでもあります。
刻々と変わりつつある状況のなかで、精密にいつどこでどんな気象になるかなんか神様でもない限り言えるわけはありません。天気予報は今でも外れて当たり前ですからね。でも、気象というのがかなり微妙なバランスによって成り立っているのだとしたら、ちょっとした変化が、玉突き効果をもたらして、とんでもない異常気象をもたらすことは予想できます。大自然の規模からしたら、取るに足らない微少な差であったとしても、それ以上に微細な存在である人間にとっては死活問題になります。大体、「母なる大地」とかいっても、地球規模からしたらマントルの上にのっかってる地表部分なんか微々たるものであり、「牛乳に浮かべたコーンフレーク」みたいな存在らしいです。だから、ほんのちょっと揺れただけで、もう関東大震災レベルの災害になったりもするわけです。
だから、地球レベルでいえば、「いつもよりもほんのチョッピリ風が強いかな」というだけで、巨大な津波がどこかの都市を襲い、台風や竜巻がある都市を壊滅させたりもするのでしょう。また、河川が氾濫して大きな水害が起きたり、逆に干ばつ化したりすることもあります。これらの変化によって、地球の自然バランス以上に超精密なバランス関係の上に成り立っている複雑な現代社会は、右往左往させられることになります。現代社会というのは、「風が吹けば桶屋が儲かる」式の因果関係が無限に続いてる社会とも言えるわけで、現実に何かが起きなくても、単なる噂一つで原油価格が高騰したり、株価が大暴落したりするわけです。これで現実に何かが起きると、その騒ぎは大きくなるでしょう。その昔オイルショックが起きただけで、日本中に人々がトイレットペーパーの買い占めに走ったりしたように。今でも暖冬冷夏でレジャー産業が落ち込んだりしますが、その振幅が激しくなれば経済に与える影響もより激しくなるでしょう。厳しい冷夏が続けば野菜の値段は高騰するだけではなく、米作が壊滅し、タイ米を緊急輸入なんて話にもなるでしょう。
このように温暖化がほぼ確定的な見解になりつつあり、且つ生活レベルで実感できるようになってきたこと、さらに日進月歩の観測技術により細かな部分のシュミレーションや仮説が考えられるようになってきたことで、世界の関心はここ1ー2年かなり高まってきていると言えると思います。
最近よく目にする言葉は、"Climate Change"(気候変化)です。それまでは、地球の温暖化(Global warming)や環境(Environment)という言葉が主流だったのですが、去年あたりから新聞の見出しや、政治家の使う言葉に、Climate Changeというフレーズが頻用されるようになってきてます。何がどう違うのか、今ひとつわからないのですが、今年の1月に行われたアメリカのブッシュ大統領は、演説で初めてこの言葉を使い、ガソリン消費量の削減を謳っています。うがった見方をすれば、これまで環境問題に対して冷淡だった政権が今までの用語(global warming)を使うと、いかにも「今更」「やっと」というイメージになるので、目新しいフレーズを使ったのだとも言えるわけですが、ブッシュに限らず、この言葉は去年から今年にかけて一気にメジャーになりつつあります。
また、「温暖化」と言ってしまうとある特定の仮説を意味しますが、「気候の変動」と言う分には温暖に限らずあらゆる気候の変化を含み、概念が広がった分だけ、より多くの立場の人を巻き込みやすいという利点はあろうかと思います。「本当に温暖化してるかどうかは尚も慎重に検証すべきかもしれないが、少なくとも地球規模で何らかの気候の変化が起こりつつあるのは確からしい。それが何かはまだ正確には解明できてないが、今まで以上に真剣に考え、対処すべきだ」というニュアンスは、細かな立場を超えて皆を集結させる言い方でもあるのでしょう。これまで反対していたアメリカ、オーストラリア政府も、この言い方だったら従来の立場と抵触せずに口に出しやすい。
まあ、こんなの単に言い方の問題であり、日本でよく行われる例のパターン(「敗戦」を「終戦」と言い換えたり)なのですが、頑固な米豪政府の姿勢を緩和させる柔軟剤的な役割はあるのでしょう。逆にいえば、あの愚かなまでに頑固だったブッシュ政権にしても、この種の問題に言及せざるを得なくなっているわけで、それだけ世論の高まりは無視できなくなりつつあるということだと思います。オーストラリアでも、ハワード首相は概してこの種の問題に冷淡だったわけですが、最近ではそうも言ってられなくなり、新たな政策プランを提唱し、今年後半に行われる連邦選挙を前に、「私らもやってまっせ!」というポーズを取らざるをえなくなりつつあります。
総じて言えば、911以来の世界のトレンドが「テロ」だとしたら、去年あたりから環境に焦点が移ってきつつあると言えます。テロや国防が焦点になってる間は、政治的には右翼的な政党が強かったりしますが(アメリカの共和党、オーストラリアの自由党)、環境になるとむしろ左翼的な政党(アメリカの民主党、オーストラリアの労働党)が勢いを盛り返してきます。オーストラリアの連邦選挙はまだ半年先であり予断を許しませんが、現在のところ、野党労働党の優勢が伝えられています。先日のEarth Hourでも、野党党首のケビンラッドが登場して自党の政策をまくしたてていましたし。
ただ、「気候の変動」とかけ声が一致しただけでは何も変わりません。これから先もうんざりするほど緻密な観測と検証が必要でしょうし、それぞれがそれぞれの出来ることをやらねばならず、その方策たるや無数にあります。
考えてみれば環境問題や気候問題というのは、おっそろしいほどの知識量が必要な分野なのですね。これが戦争とかテロだったらまだ楽なんです。局地的な世界史と国際政治の流れ、あとは多少の軍事技術知識があれば、そこそこは語れる。日本でやってる「美しき国」とか「品格」とかいうのも、膨大なデーターを緻密に検証して、、、って話ではなく、雰囲気や情緒の話ですから、頭脳も労力も要らない。楽なんですよね。しかし、気候や地球の問題なると、まず気象のメカニズムについて最低限の知識が必要です。さらに大気中の二酸化炭素の排出量が増えるとあーなって、こーなってという科学用語のオンパレードになります。ましてや気候モデルのシュミレーションともなると、気が遠くなるくらいの検証が必要です。
以前、日本にいるとき僕が働いてた法律事務所の先輩弁護士が、西淀川公害訴訟の原告側代理人をやっており、その証拠資料や立証活動の話を聞かせてもらいましたが、気が遠くなりました。すぐそこに工場群があり、高速道路が走っており、ここに被害者がいるという一見明々白々な状況のように見えて、いざ科学的に立証しようとなると、京大の研究者の力を借り、スーパーコンピューターを駆使して解析しなければならないそうです。日本のこのエリアの○月の風向きはどうとか、朝と夜で海風はどのくらい吹くか、煤煙などの有毒物質の落下速度はどのくらいで、それが自転の影響でどうなってとか、しかし地表100メートル以下と数百メートル以上とでは風の向きが逆になるという対流現象がおき、だから操業中の煤煙がこのくらいの速度で落下し、このくらいの位置にきた時刻にはこの方向に風が吹き、、、というのを、数年、十数年スパンで追いかけていくわけです。段ボール数箱の解析資料や文献を見ながら、気が遠くなったわけですね。
たかが日本の一エリア、原因も工場や道路というわかりやすい局面ですらこのくらいの難解度になってしまうわけです。これが全地球規模で、しかも数十年数百年というスパンになったら、計算式にいれる要因だけでも数万項目に及ぶかもしれんし、それらの相互影響やフィードバックを考慮してたら、気が狂いそうになるでしょう。だから、概要を理解するだけでも大変。
しかし、気候変化の概要を把握するのは、問題の全体の半分以下しか占めません。あとの半分以上は「じゃあどうするの?」という戦略論になります。ここで、省エネやリサイクルの話、エネルギー代謝効率の話になり、技術的にトライできそうな分野の話になります。石炭でも、クリーン・コール・テクノロジーというのがオーストラリアで盛んに論議されているようですが、いかに温室ガスを排出せず、熱効率の良い燃焼方法はないかという話です。また、ニューエネルギーになると、風力や地熱発電、さらに原発論争になります。さらに、自国経済や世界経済の成り立ちに対する造詣も必要です。京都議定書で提案されている方法だけでも、CDM(クリーン開発メカニズム)=開発途上国に援助をしてそこでガス排出を削減できたらその分自国のポイントに加算できる制度、ET(排出量取引)=ガス削減部分について国連がクレジット(ERU)を発行し、このクレジットを国際的に売買する制度、JT(共同実施)、吸収源活動なんてのもあります。また、炭素税、環境税導入による国内産業や経済成長の変化、短期的な景気予測なんて話も出てきます。こうなるとバリバリ経済学の分野になります。また、途上国の焼き畑をやめさせろとか、中国やインドの猛烈な工業発展をやめろとか言い出すと南北問題やややこしい国際政治の話になります。
これらを概括的に理解するだけで、大学4年分くらいの勉強はしないとよう分からんような気がしますね。世界人類全員にこの種の基礎知識を常備させよというのは、到底不可能でしょう。でも、不可能でもやらねばならないとして、じゃあ具体的にどこから何をやりましょうか、自分が出来ることは何なのでしょかって話になるのだと思います。
シドニーで行われたEarth Hourは、まさにそのためにキックスタートであり、これから長い長い旅になると思うけど、まあ、皆で倦まずたゆまずやっていきましょうという儀式なんでしょう。
さて、土曜日に行われた Earth Hourイベントの結果が報道されています。電力消費に関する計測数値によると、イベント施行時である土曜日の7時半から8時半1時間で都心部分の電力消費量は10.2%削減され、これは自動車4万8000台分の温室ガス効果削減に相当するそうです。シドニー住人1000人弱へのアンケート調査によると、なんらかの形で参加した人は57%にのぼるそうです。53%の人が家のライトを消し、25%の人はその他の家電の電源も切ったそうです。主催者側の当初の予測は、6万5000世帯の参加ですから、住民の57%の参加=約220万人の参加という結果は、主催者側の予測をはるかに上回って、人々の関心の高さと行動力を裏付けることになってます。また、10.2%の電力消費減少は、電力会社の予想の二倍だったそうです。
Earth Hourは来年も、その翌年も、毎年行われるそうです。毎年決まった時期に行い、毎年の成果を比べ合うという。また、WWFは、この成功を世界に広めようということで、そのうち日本でも行われるかもしれません。
ただ、最初の方にも書いたように、あまりにも高らかに「正しいことをするんだ」と高揚したり、セルフ・ライチャスになったり、あるいは深刻になるのではなく、さらりと自然体でなんかするってのが大事だと思います。
Earth Hourのサイトの「イベント中何をするか=What to do during Earth Hour 」というページで、そのあたりを上手に書いてます。
Celebrate at an event
When the lights go down in Sydney for Earth Hour on Saturday 31 March 2007, the best place to be is with friends and family.
Take part in one of the many events taking place on the night. Or you could organise your own celebration.
Get the neighbours together for a BBQ or head out to your local park for the hour. Take some binoculars and look at the stars. Or just go for a stroll. Talk with your family and friends about the state of our planet and the need to make a change to keep the place we live the way we need it to be.
Do something non-electric as a family ? have a picnic or a have a candlelit dinner ? but most importantly enjoy!
イベントを祝おう!
2007年3月31日午後7時半からのアースアワーでシドニーの灯りが消えるとき、あなたは何処にいるべきか?最高の場所は、あなたの家族や友達と一緒にいることでしょう。
この夜、行われる様々なイベントに参加するのもいいでしょうし、自分なりに企画を立てるのもいいでしょう。
隣近所の人とバーベキューをやってもいいし、近くの公園に歩いていってもいい。双眼鏡を持ち出して夜空の星を見上げるのもいいでしょう。単に散歩にでかけるなんてのもいいし、家族や友達とこの惑星の状況やどのような変化が求められているかについて語り合うのもいいでしょう。
さて、家族で電力フリーのなにかをしますか?
それともピクニックにでかけたり、キャンドルディナーにしますか?
でも、最も大事なことはエンジョイすることです。楽しんでください!
この一番最後の、” but most importantly enjoy!”というあたりが、オーストラリアらしいですね。だから成功したんだろうけど。
文責:田村
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