今週の1枚(07.03.19)
ESSAY 302 : ホリエモン実刑判決について
写真は、Ashfieldの住宅街の風景。中国系住人が多く、表通りは本格的な中華料理店の建ち並ぶ、”真正”チャイナタウンであるアッシュフィールドですが(シティにあるのは”観光”チャイナタウンだと思う)、一歩裏通りに入ると、Western Suburb特有の眠ったような平和な住宅街だったりします。
先週の金曜日(07年3月16日)に、ホリエモンこと堀江被告の実刑判決が下されました。2年6月だそうですが、「なんで、実刑なの?」というのが僕の率直な感想です。なぜなら、この事件は、ホリエモンやらライブドアというキャラが肥大化しているだけで、事件内容そのものは極めて地味な帳簿上のものだからです。この程度の犯罪に初犯でいきなり実刑というのは、刑罰の平等性を欠いているのではないか。問題となっているのは「53億円の粉飾決算」ですが、何千億という規模の企業においてこの程度の額の粉飾は言わば日常茶飯事とも言えるでしょう。ましてや無から有を作り上げたのではなく、「『資本』の部に計上すべき自社株の売却益を『売り上げ』に計上した」というような会計方法の過ちであり、グループ全体の実質財産の総額をごまかしたわけでもない。素朴に疑問なのですが、「そんなに悪いことなのか?」と。
判決は僕らには手の届かない細かな事実を検証してのことだろうし、情状はありとあらゆる事実を酌量しますから「ふてぶてしい」「生意気」という事情を入れて判決を下すのもアリだとは思います。だから、まあ、プロの判断ということで、それなりに敬意は表したいのですが、「あれ?」と思ったのは、これに対する世間一般の受け取り方です。特にマスコミ。
量刑の公平性に関する疑問は、例えば、「これは公平?」というサイトに指摘されています。今回の堀江氏の事件は、53億円分の粉飾のうえ、子会社売却も本体は引き続き財務上は健全(国費が投じられることはなし)という状況において懲役2年6月が下されていますが、他の経済破綻事件、カネボウ社長の帆足隆氏の場合は、800億円の粉飾を行い、会社の実質破綻(巨額の国費を投じて再建)という税金まで使わせておきながら懲役2年執行猶予3年でした。
この種の話は幾らでもあるでしょう。例えば、税金一兆円投じた長銀破綻だって、破綻直前まで一兆円粉飾していたわけでしょう。バブル崩壊後の住専だってそう、最近の日興證券だってそう。規模の巨大さにおいてホリエモンとは比べものにならない事件がゴロゴロしてますし、皆の税金を使って穴埋めさせたという「実害」をまき散らしているケースも多々あります。量刑の公平性という観点からしたら、ホリエモン程度で実刑になるんだったら、死刑にしなきゃいけない連中が沢山いるんじゃないのか?(経済事犯に死刑という法定刑はないですけど)
決算の粉飾なんか、ぶっちゃけて言ってしまえば経営者なんて殆ど誰でもやってることでしょう。銀行や取引先には「儲かってまっせ」と景気のいい帳簿を出し、税務署に対しては「さっぱりワヤヤ」という景気の悪い帳簿を出す。さらに広げて会計やお金の処理にまつわる「嘘」なんて、日本人の殆ど誰でもやってると言ってもいい。例えば、チケット屋で安い新幹線チケットを買っておきながら、会社の経費としては正規の値段を請求しているサラリーマンなんか普通にいるでしょ。あなただってやったことあるでしょう?私用電話、私用コピーまで含めたら、全員有罪ですよ。
皆叩けばホコリのでる身体でありながら、誰のどんな犯罪が刑事事件として立件されるのか?また執行猶予になるか実刑になるかの基準はどこにあるのか?ケースバイケースであるだろうから一義的に明瞭にするのは難しいけど、誰がみても「そりゃそうだ」という基準は欲しいです。あなたは欲しくないかもしれないけど、僕は欲しい。そうでないと、「気にくわない奴は実刑だけど、可愛い奴は許してやる」みたいな、情状に名を借りたエコヒイキが国に蔓延することになる。ひいては元気な若い世代の活力を阻害し(元気な若者というのは大体ナマイキなものだし)、国家百年の計を危うくする。へコヘコ頭下げて、愛想笑いする奴は許してもらって、つっぱってる奴は、些細な罪でもほじくり出して何が何でも叩きつぶそうというのが、この国のシキタリ、この国のメッセージだとしたら、それは問題でしょう。
何が悪いと言って、あまりにも度量がなさ過ぎるからです。たしかに国の権力の中枢を担う老人達は、往々にして「あいつ、生意気だ」みたいな子供じみた発想、老年性小児症みたいな発想で動きやすい。「身の程知らずの若造が、思い知らせてやる」というアティチュードは、何も日本に限ったことではない。しかし、そんな感情に振り回されるのは権力者の器としては余りにも小粒というか、大人げない。「ほっほっほ、若いモンは元気があっていいのう」くらいの余裕はカマして欲しいです。また、別に国の中枢権力を握ってるわけでもない一般市民や、形式的には尚も社会の木鐸たるべきマスコミが、このチャイルディッシュな反応に付和雷同する必要もないでしょう。「そうですよね、生意気ですよねアイツ。いじめちゃいましょう」とベンチャラ言う側近もいるだろうが、そーゆー意見一色になるのはいかがなものか、とは思う。
僕が欲しいのは、社会がヘルシーである証拠、すなわち多様な意見、多様な視点です。なるほどホリエモンは悪いかもしれない。しかし、他の事案と比べて公平を欠いていないか、本人のキャラに振り回されて冷静にモノを考える姿勢を失ってないか。
しかしながら、新聞各社の社説を読みますと、朝日新聞の場合「断罪された「錬金術」」というタイトルで、「認定された通りなら、量刑は妥当なものだろう」と量刑を妥当としています。その上で「その陰で投資家を欺いたのならば、堀江被告に期待を寄せた人々にとっては、やるせなさや憤りが募るばかりだろう。 目的を果たすためにはルールさえ無視する振る舞いは、手痛いしっぺ返しを受ける。とりわけ企業トップの責任は重く、「知らされていなかった」といった言い訳は通らない。重い教訓だ。」としています。
毎日新聞は「ルール無き拝金が断罪された」とのタイトルで、「被害の大きさを考えると、今回の実刑判決でも軽いくらいだが」と量刑に対する疑問は一切無いです。それどころか、「ウソの情報で株価をつり上げ、投資家から多額の資金を集めたのだから、詐欺と言ってもいいだろう」「拝金主義がはびこり、日本人の勤労観にも大きな影響を与えた」「独自の技術があるわけでもない学生が始めたベンチャー企業が、10年足らずでフジサンケイというメディアグループに買収を仕掛け、その後にはソニーを傘下に入れようと本気で考えていたというから驚きだ」と書いており、この論説自体ツッコミどころ満載でどこから書いたらいいのか迷うくらいなのですが(^_^)、少なくとも量刑の公平性という視点は全く欠落してますね。
読売新聞は「金銭至上主義が断罪された」として、「「法に触れさえしなければ」と言いつつ、違法行為そのものにも手を染めていた。実刑判決も当然だろう」とやはり判決支持です。ただ三大紙のなかでは一番冷静ですかね。
なんで、こうも揃いも揃って僕が素朴に疑問に思うことを書かないのだろうか?裁判というのは、言うまでもなく客観的に犯した犯罪事実に対してなされるのであって、被告人の価値観や、ライフスタイルの当否を断罪するモノではない。でも、なんかこれって本当に「価値観裁判」「人生観裁判」ですよね。少なくとも日本の大手新聞はそう捉えている。「拝金主義」とか「錬金術」が断罪されたって。
しかしながら、ホリエモンを弁護するつもりはサラサラないけど、これだけは言いたいです。その「拝金主義」と「錬金術」は何故可能だったのかといえば、マスコミが新しい時代の旗手とかニュービジネスリーダーとかさんざん持ちあげたからに他ならない。ホエリモンがどんなに吹こうとも、拡声器を使って町中を練り歩こうとも、マスコミが取り上げなかったら、近所のスナックやクラブで「自慢たらしいオヤジ」とホステスさんの間で有名になっていただけでしょう。彼の行動が錬金術になりえたのは、まさにマスコミによる知名度/注目度という魔法があったからであり、そのセレブ性が彼の業務拡大を可能にしたわけです。これまで散々自分たちが煽ってきた点をマスコミ自身はどう捉えているのか、「反省の情が無い」という意味では、マスコミはホリエモン以上に反省の情が無いとは言えないか。「お前が言うな!」って感じでもあります。自民党だって調子のいいときは散々持ち上げておいて、あとは殆ど知らんぷりだもんね。「裏切られた!」とか「人を見る目が無かった」とか言うならわかるし、あるいは断固擁護で「経理上の細かな処理なんかどうでもいいんじゃ、要するに若いパワーこそが大事なのだ」と言うならそれはそれで首尾一貫してる。しかし、この手のひらを返したような冷淡さってのは、あまりにも卑怯じゃないかって気がしますね。
ホリエモンだろうがなんだろうが、その気になったら一瞬で叩き潰せるくらいの強大な権力を持っておきながら、その権力者達の人格態度に一抹の寒々しさを感じます。そこはかとなく漂う「小物感」というか。僕は権力者=悪だなんて、子供じみた世界観を持ってるわけではないです。この世に秩序があり、そこにシステムがある以上、中枢機能はあるべきだし、その中枢を司る人間集団も当然あってしかるべき。権力者というのは社会に必要な存在です。その超人的な能力や働きに賞賛を惜しむつもりもない。それだけに、権力の座にいる人間には、権力者であることを受け止めてドーンとしていてもらいたい。コソコソとセコい態度を取らないで欲しい。明治時代の政治家のように、なにかっていえばすぐに暗殺されていて、権力につく以上は畳の上では死ねないくらいの覚悟でやってもらいたいです。明治時代の国会の議事録とか読む機会があって面白かったのですが、与党議員と野党議員で論戦になって、「君がそんなに言うなら徹底的に調べてみろ、もし僕が間違っていたら僕が腹を切る。その代わり君が間違っていたら、君が腹を切れ!」とやりやっていて、そんなやりとりが公式に議事録に残っているわけです。天下国家のために働くということは、そういうことでしょう。だからこそ国民の信頼と尊敬を集め、それこそが権力の源泉なのだから。
大新聞のもっともらしい社説に比べれば、一般の人の意見の方がずっとマトモに思えます。
例えば、「ライブドア事件・判決を識者に聞く(3) 魚住昭さん 「後ろめたさで6カ月マイナスか」 」では、「(求刑4年なら実刑3年にするのが本来の相場だが)6カ月減らしたところに、形式犯に過ぎない堀江貴文被告を実刑にすることへの裁判官の後ろめたさがあるのでは、と私は感じている」と分析し、「宮内被告は『ライブドアマーケティングにおける架空売り上げの計上以外では、いずれも中心となって計画、実行した』と今回の堀江被告の判決で指摘されたが、宮内被告への求刑は2年6カ月。反省しているからという理由でこの程度の求刑となり、おそらく執行猶予のついた有罪判決になるだろう。一方、そのように主体的役割を果たした宮内被告の存在があったため、『検察官が主張するように被告が最高責任者として各犯行を主導したとまでは認められない』とされた堀江被告は、否認したから実刑。罪を認めた宮内被告がおそらく猶予刑で、否認の堀江被告が実刑という形は、いまの日本の裁判のあり方を象徴しているといえるだろう」という指摘は示唆に富みます。
今回の判決の事実認定では、「オレは全く知らなかった」という堀江被告の主張は退けられてますが、かといって検察のいうようにホリエモンが全て主体的に仕切ったとも認定されていません。メインには宮内被告の犯行であり、堀江被告は「知らないわけはないでしょう」くらいの認定ですね。堀江被告が真実全然知らなかったかどうかは微妙だと思いますけど、宮内被告以上に主導したってことは無いでしょう。でも、主犯格の宮内被告の求刑は2年6月、脇役的な堀江被告には求刑4年。どこが違うかというと、反省してるかしてないか、否認してるかしてないか、です。
確かに、刑事弁護の戦術論としては全面無罪を争うのは、成功すれば無罪だけど、失敗したら「反省の色なし」というキツイ量刑を食らう両刃の剣であります。無罪弁護のジレンマであると言ってもいい。納得いかないけど、とりあえず一部でも罪を認め、しおらしくしておれば執行猶予がつく可能性が高いなか、「俺はやってない!」で突っ張るのはリスキーな戦術です。ましてや無罪判決の確率など1%にも満たない日本の刑事司法においては尚更です。一生弁護士やってて一度でも無罪判決を取れたら勲章になる反面、裁判官やってて無罪判決を書くのは相当の勇気がいるといわれたりします。
しかしいくらリスキーであっても、納得できないことは納得できない!という被告人だって当然いるわけです。弁護人としては、それが大きなバクチであること、圧倒的な確率で負けるバクチであることは、もちろん事前に説明します。本人もそれを百も承知でやってるわけですから、無罪を争うというのは相当な覚悟がないと出来ることではない。シラを切り続けて、もし無罪になったらラッキーなんて安直な発想で無罪を主張するケースなんてマレです。
このあたりの事情は、暴力団関係者など犯罪のプロになればなるほどよく分かっていて、だからもう完全にシステマティックになって、最初から犯人役の人間が指名され(身代わり犯人)、進んで自首し、予め計画された破綻のないストーリーをペラペラと自供し、警察や司法の一件処理に全面的に協力する(しかし巨大な真実は隠蔽する)という形になってたりします。これは政治家や大企業の汚職事件も同様の構造で、因果を含められた秘書が「全て私の独断でやりました」と自供するわけです。また、プロの窃盗犯などの場合、逮捕された時点で余罪が数十件あったりしますが、中には「これは俺の仕事じゃない!」というのが何件か含まれてたりするわけです。余罪40件中38件は自分の犯行だけど、2件は違うって場合ですね。ありがちなんですよ。でも、2件だけ無罪を争うかというと、そんなことは滅多にないです。38件認めようが40件認めようが罪状に大した変わりはないし、そこで妙に無罪を争っていたら心証悪いですから。だから、「もう、私がやったことにしておいてください。刑事さんもその方がいいでしょう?」「そうか、すまんな」みたいなやりとりが取調室の中であったりするわけです。警察や司法といっても、ある面ではお役所的、形式的な手続だったりするので、この種の茶番的な局面もあります。
こんな中で真っ向から無罪を争うというのは、それ相応の覚悟があっての話です。殺人事件のような自然犯の場合は、「人違い」という客観的な事実認定レベルでの争いであり、「真犯人は誰か」的なミステリーとして分かりやすい。血まみれのナイフについた指紋は?アリバイは?という世界ですね。しかし、今回のような経済事犯、形式犯の場合は、オフィスという密室の中で「そのときどう思ってたか」という微妙な部分が争点になります。緻密な状況証拠の積み重ねで判断するわけですけど、どっちとも言えるというグレーゾーンが広いだけに難しいでしょう。「大将は対世間、対マスコミ用に脳天気なカリスマ役をやっていて、細々とした技術的な経理の実権は切れるナンバーツーが仕切っていた」という構図は、きわめてありがちな話だったりします。政治家やヤクザの組長が「俺は知らなかった」と弁解するのも、一概にシラを切ってるだけでもないわけです。ボスを守るために部下が敢えて知らせないで事を進める場合もありますから。
ましてや今回のように、資本の部に計上するか、売り上げに計上するかという、ややもすると枝葉末節的な経理処理を、あのホリエモンが精密に認識していたか?というと疑問はあります。かといって、じゃあ、全然無関係か?というと、社長という立場上それも難しいですよね。細かなことはよく分からないけど、「本当はイケナイんじゃないか」という「違法性の認識」もそこそこありつつ、ざっくりしたところで「ま、いいんじゃない?そのくらい」って感じだったようなところはあるでしょう。今回の判決は、判決文を見てないのでよくわからんのですが、事実認定的にはそのあたり=ホリエモンが主導したわけではないけど、全く知らなかったわけでもない、に落ち着いているように思います。
さて、こういった認定も微妙なら、犯罪そのものも高度に経理技術的な経済犯の場合、無罪を争ったという姿勢がどう量刑に反映されるかは難しいところだと思います。「反省の色がない」って捉え方をされるのですが、「反省って言われてもねー」って部分もありますよ。もう、本当に心の底から正直にいえば、反省といっても、「よし、今度はもっと上手にやろう」くらいの感じじゃないですか?こういう形式犯、行政犯などの場合、(殺人や窃盗などの)自然犯のように罪の意識が自然に芽生えるものではないです。例えば、あなただって、交通違反でキップ切られたら「反省」しますか?スピード違反で捕まって、「ああ、俺は貴重な人命を危険にさらした、なんという愚かなことをしてしまったんだ」って思います?違法駐車とかね。はたまた、脱税なんかもそうですが、それで挙げられたらまず思うのは、「ああ、なんて運が悪いんだ」ってことでしょう。そして反省らしきものをするとすれば、「よし、今度はもっとうまくやろう」じゃないですか?だから、こういう形式犯に「反省」を要求すること自体が、なにやら儀式的な茶番に感じられてもきますし、あんまり反省とかそういう問題じゃないよねっていう気もします。犯罪が形式だったら、判決もまた形式的で、「この程度の罪状で初犯だったらこんなもんでしょ」的な判決になったりするでしょう。
ライブドア事件というのは、検察やマスコミが大騒ぎしたわりには、大山鳴動ネズミ一匹で、たかだか「53億の帳簿の付け方のミス」という、一般人にわかりにくい(ホリエモンにもわかりにくい)、言わばしょぼい技術的な部分だけになってしまいました。検察やマスコミが断罪したかったのは、ホリエモンという虚像、この虚像によって象徴されているマネーゲーム的な経済取引、ライフスタイル、Tシャツ着てヘラヘラしている不真面目さみたいなものだったのでしょう。「チャラチャラしてるじゃねーよ、馬鹿野郎、もっと真面目に働け」みたいなメンタリティでしょう。でも、そういった部分をぶち込むにはあまりにも今回の罪状という器は小さすぎる。企業規模全体で言えば数%にも満たない部分の経理処理の違法性なんか、普通だったら、自白しようが否認しようが初犯だったら執行猶予、「以後、気をつけるように」という訓戒で終わりでしょう。でも、あまりにもホリエモンに対する悪感情が巨大で、またホリエモンもそれを煽ったりしてるから、それじゃ済まなくなって、オーバーランしたような印象がどうも僕にはぬぐい切れない。
しかし、冷静に考えてみて、日本の司法がそれでいいのか?という疑問はあるわけです。原理的に、裁判官は検察官が公訴提起した犯罪(訴因)にのみ限定して判断し、それを逸脱することは許されない。別件逮捕みたいに、本当は殺人で取り調べたいけど証拠がないから、立ち小便みたいな軽微な犯罪で引っ張ってきて、その逮捕勾留期間中に殺人について取り調べをするみたいなことは、本来は許されない。同じように53億の経理処理の不正という犯罪で起訴されたら、その限度で判断すべきでしょう。もちろん、自由心証主義ですから量刑にあたっては本来の犯罪以外の事情(生い立ちとか)も広く斟酌することが許されますが、そこには自ずと限度がある。いかにホリエモンが挑戦的で憎々しげだったとしても、だからといって主犯格が求刑2年6月で猶予見込み、従犯的な人間が求刑4年で実刑というのは、そもそも検察の求刑からしてtoo muchな感覚があります。裁判所がそれに引っ張られたという感じが僕にはしますし、この魚住氏の所見にもあるように、裁判所にも一種の「うしろめたさ」があったのでは?というのは結構いいセン突いてるとは思います。つまり、裁判所としても「いきなり実刑なんかにしちゃっていいのかなー」という躊躇いもあるから、その埋め合わせとして、まあ半年分だけオマケしておきましょうみたいな感じでしょうか。
いずれにせよ、象徴的な「ホリエモン的なるもの」を叩いておくべしという価値判断があったとしても(弁護側のいう「国策裁判」)、その価値判断を下すのは司法の役割ではない。司法というのは本来謙抑的な存在で、国民の代表者が決めた法律を、証拠によって認定された事実に当てはめるという職人芸が要求されるだけで、それ以上に何かの政策や価値判断を打ち出してはならない。なぜなら、裁判官というのは国民の投票によって選ばれたわけではなく、本来的に非民主的な存在だからです。ある人物がなぜ裁判官として他人の人生を決めることが出来るのか?といえば、それはひとえに法律技術を持ってるからであり、国民の信託を受けたからではない。卓越した医療技術を有する医者が手術に当たって方針を決めることが許されるように、電気工事の技術者が現場の判断をすることを許されるように、優秀な技術者であるというその一点によって許される。この司法消極主義という立場は、きわめてマットーな民主的な所見であり、日本の裁判所はことあるごとにその立場を弁明してきました。特に、議員定数不均衡やら、自衛隊違憲論、政教分離などデリケートな事柄になると、「高度に政治的な判断」ということで、踏み込んだ判決をすることを避けてきています。それが弱腰、逃げ腰であるという批判は強く、僕もあまりにも消極的すぎると思いますが、とりあえずはそういう立場を堅持してきた。それはそれで一つの識見だと思いますが。が、ことホリエモン事件になったら、その立場を捨てて、「罪状はセコいけど、一罰百戒的に、日本人の価値観をマトモにするために」みたいな意識で判決を下したとしたら(当の裁判所は否定するでしょうけど)、それは裁判所自らのダブルスタンダード(二枚舌)として、批判されねばならないでしょう。また、そういう疑いを生じさせるような量刑をなすべきでもないでしょう。
次に、ライブドア事件・判決を識者に聞く(1) 松原隆一郎さん 「目立たないホリエ、たくさん出てくる」 では、「判決自体は妥当だと思う」としながらも、投資事業組合を通じた自社株売却益を売り上げに計上してよいのかどうかということ自体はもともと明確でなく、いわばグレーゾーンのまま残されている現状を指摘しています。
似たような会計手法を用いている会社はライブドア以外にも山ほどあったし、実際、去年の2月ごろには株価が収益の1000倍になっているような会社は相当数あった。このような人達に対して、今回の判決は「こういうやり方はダメだよ」という点は伝わっただろうが、本質的な意味で反省を促したということはないだろう。この種の細かな会計手法についてのルール違反については、「証券取引等監視委員会がまず摘発すべきで、地検特捜部が最初から出てきて捜査の主導権を握ったというのがいかにも場当たり的。いきなり特捜がひとつの会社だけ摘発するような手法は望ましくない。一罰百戒的効果を狙ったものだと思うが、事後規制の米国式だったら、同じようなルール違反をしている何十社すべてを立件しなくてはならないはず」「堀江貴文被告にすれば、そういうスタイルの場合、同じようなことをやっている人間は全員やられる、という思いだったはず。「なんで俺だけ」と思っているだろう」という立件の不平等性を指摘しています。
これも傾聴に値する指摘だと思います。「投資事業組合経由の自社株売却益の売上計上」という、かなり技術的な事柄は、一般人には分かりにくいし、専門的な業界で専門的な指導がなされればよい。松原氏のいうように、これまでの日本はまず行政指導でお役所が細かいところまで事前に指導していたけど、いつしか事前指導はなく、あとで検挙するというアメリカ方式になった。それはそれで良いとしても、あとで検挙し、指導するにせよ、それは第一次的には、その専門業界の役割でしょう。つまりは、証券取引等監視委員会が、ピーッと笛を鳴らして反則を指摘し、イエローカードなりレッドカードなりを出し、業界全体に注意を促すというのが本来の姿だと思います。
それを、他にも似たようなことをやってる企業が山ほどあるなか、証券取引等監視委員会ではなく、いきなり検察庁が動いて、しかも一社だけをターゲットにして大規模な捜査を展開するというのは、「ルールの徹底そのやり方」という見地からして妙な話です。「いかにも場当たり的」というのは正しい指摘だと思う。
これは端的にいえば「権力の濫用」とすら言える。なぜなら、同じような犯罪行為をしている人のなかで、ある特定の人だけを狙い撃ちにするのは、法の下の平等に反するし、捜査権力の恣意的な濫用という批判の余地を残すからです。こーゆーことはやっちゃいけないんじゃないでしょうか。例えば、あなたがクラスの担任教師だとして、10人の生徒が悪いことをしたとして、そのうち一人だけ抜き出して叱りとばし、あとの9人はほったらかしだったら差別であり、逆ヒイキでしょう?教師がそういうことやってるとクラスのムードは悪くなりますよ。教師としては絶対やっちゃいけないことです。教師に限らず、人の上に立つ人間がまずもって戒めることだと思います。公平、公正というのが崩れると社会が崩れます。
検察も司法もショービジネスじゃないです。そういう側面は大いにあったとしても、それで儲けようというマスコミがショービジネス的に盛り上げようという傾向がバリバリにあったとしても、その現実に悪慣れするべきではない。しかし、段々そうなりつつあるように思います。ライブドア事件は、犯罪事実そのものが立件可能だからいいようなものの、この先にある村上ファンド事件になると、罪状そのものもかなり怪しい。本当に公判維持出来るのか疑問なくらいです。そこを、「面白いから、いいじゃん」みたいなノリでやってもらったら困ります。そういうノリは僕は嫌いではないのですが、検察や司法がやることじゃない。
そうなった結果どうなるかというと、「日本の株式市場には米国と同様、専門のブローカーだけでなく一般の投資家が入ってきている。このように目立つところを摘発するだけだと、目立たないが、同様の行為をしている企業は表に浮かび上がらないので、「こんなマーケットは怖い」と一般投資家を遠のかせる結果になるだろう。それでは不健全だ。」「堀江被告も、(証券取引法違反罪で公判中の村上ファンド前代表)村上世彰被告も、「俺たちは目立ったから捕まった」というような主張をしているし、証券市場もそう受け取っている。つまり、これからは目立たないようなホリエがたくさん出てくるだろうということだ。突出したことをやって勝つのではなく、目立たないように、まわりと同じような手法でやらなくてはいけないという考えになっていくだろう。」ということになっていくと思います。
つまり、「一般投資家の保護」とかいいながらその逆の結果を招くのではないか。ホリエモンも村上ファンドも目立つから検挙された。罪状は、経理の粉飾によって市場をミスリードした、投資家が投資するにあたってその判断を誤らせたという点です。投資家の判断の保護、判断の材料となる情報の公正さの保護を果たすならば、公正でない情報を流している企業は一網打尽にすべきです。でも、それをしないで目立つところだけやってたら、目立たないけど嘘の報告をしてる企業が世の中に山ほどあるってことでしょう?そんなのが野放しになってるんだったら、僕が投資をしようとしても恐いですよ。逆に僕が企業の立場にあるならば、なるべく目立たないように、当局に目をつけられないようにしますよ。また、方法もさらに巧妙に、ちょっとやそっとじゃ分からないように高度にするでしょう。だから、「市場の健全化」を目指すというお題目は立派だけど、やり方そのものが全然健全じゃないから、結果として市場もますます不健全になるんじゃないかってことです。
これだけの税金使って大々的に捜査して、一体それで国民は得をするのか、損をするのかです。「生意気な若造を叩き潰してやった、あー気持ちいい」って一部の人が快感を感じること以外に、日本国にとって何かの役に立っているのか?ということです。実は何の役にも立ってないのではないか?と。
ところで、この事件は、オーストラリアの地元の新聞にも載ってます。外国のメディアの方が日本国内のシガラミがないから、率直に記事を書いていて、むしろわかりやすかったりする傾向があります。例えば、日本の新聞は、自分の広告主の悪口は書けないという暗黙の了解があります。また、記者クラブ制度によって各官庁や団体との間で持ちつ持たれつの関係になり、原理的な疑問を疑問とも思わなくなったりもします。でも、外国のメディアは(本国だったら同じ弊害はあると思うけど、他国だから)そういうシガラミがなく、ダメなものはダメ、変なことは変と、遠慮会釈無く書きますから、逆に僕らからしたら分かりやすいです。
今回の判決はオーストラリアの新聞にも載ったといっても、紙面にデカデカと載ってる感じではなく、ネットで記事検索をしたら出てきた程度の扱いに過ぎません。
Net tycoon given jail sentence for fraud March 17, 2007は国際面の記事ですが、ロイターの記事をそのまま載せてるだけですね。以下、面白いくだりを抜粋しておきます。
The sentence, handed down by the Tokyo District Court, contrasted with punishments typically meted out to Japanese executives convicted of white-collar crimes, who often receive suspended sentences after pleading guilty and showing remorse. (今回の東京地裁の判決は、日本人のエグゼクティブ達によって犯された多くのホワイトカラー犯罪(経済事犯)=彼らは素直に罪を認め反省の情を示すことで執行猶予を付される=とは、対照的なものだった。
The trial drew intense media interest in Japan, where opinions of the T-shirt-wearing, Ferrari-driving Horie were divided even before his arrest.(逮捕前においても、Tシャツを着てフェラーリを乗り回す堀江被告に対する世論が賛否両論に分れていた日本においては、今回の裁判は、メディアの強烈な関心を呼んでいた。)
Conviction of dot-com star sends mixed message to Japan's emerging businesses(March 17, 2007 - 4:20AM)の方は、もう少し細かいです。
Some expressed worries that an emerging innovative corporate culture may have stifled in this notoriously conformist harmony-loving nation, which tends to frown upon aggressive career moves that would be fairly standard in the West.(悪名高いまでに体制順応的で協調第一主義の日本社会においては、西欧社会においては別段珍しくもないようなアグレッシブな上昇志向者に対して眉をしかめる傾向にあり、ある者は、このような傾向が、革新的な新興企業を生み出す企業文化を抹殺しかねないと危惧している)。
But others said Horie, 34, a millionaire who tumbled from idol status after his arrest last year, had merely gotten a deserved taste of justice for deceiving investors about the value of Livedoor Co., the Internet portal site business he founded.(しかし、一方では、去年の逮捕によってアイドルの座から転落した34歳の堀江被告は、彼の創設したライブドア社の株価につき虚偽の情報を投資家に流したのだから、当然受けるべき制裁を受けたに過ぎないと言う)。
Both adored and despised for his brash personality and T-shirt attire, Horie had repeatedly asserted his innocence during his intensely watched trial that began last September _ a risky endeavour in a nation where 99 percent of criminal trials end in guilty verdicts, and a show of remorse can help win lenience.(いずれの側も、彼の傲岸な態度やTシャツ姿について、憧れつつ軽蔑している。堀江被告は昨年9月以来のメディアの注目する裁判の間、繰り返し無罪を主張してきた。これは、99%の刑事裁判が有罪になり、反省の情を表すことで執行猶予の温情に預かるという状況においてはかなりリスキーな試みであった)。
"It's the classic case of the nail that sticks out too much getting hammered down," said Hideaki Miyajima, professor of commerce at Waseda University, referring to a Japanese proverb warning about the costs of being different in this conformist culture."Unless we support people like that, I feel we will be crushing those young people who want to go after something new, striving for that one percent chance of success," he said. (早稲田大学商学部教授のヒデキ・ミヤジマ氏は、「これは典型的な”出る杭は打たれる”というケースです」という。これは日本の昔からのことわざで、この体制順応的な社会において、他者と違っていると高い代償を払わされるという意味である。「こういう人達を支えていってやらねば、我々は、新しいものを追い求め、1%以下の成功を夢見て奮闘している若い世代を潰してしまうことになるでしょう」。)
また、この下りが興味深かったのですが、
Still, the judge showed some ambivalent feelings for Horie. He told Horie about a letter from "a parent with a handicapped child" who was inspired by Horie's dreams to buy Livedoor stock."Although you may have been found guilty, it doesn't mean that everything about you has been condemned," Kosaka said. "I want you to make up for what you've done and start your life anew."(しかし、判決を下した裁判官は複雑な心情を覗かせた。小坂裁判長は堀江被告に対し、堀江被告の夢に励まされてライブドアの株を買った身障者の子供を抱える両親の話に言及しつつ、「今回の判決では君のやったことは有罪であるという結論になったわけだけれども、だからといって君がこれまでしてきたことが全て非難されているわけではない。行った過ちを償ったあと、新しいスタートを切ってください」と言った)。
以上、単にエッセイのネタフリのつもりで書いたホリエモン判決ですが、ついムキになって書いてしまいました。
前にも書いたけど、僕個人は別に堀江氏のファンでもないし、どちらかといえば嫌いです。個人的にも好きになれそうなタイプでもないし、そんなに賢い人とも思えない。また業績についても、それほど画期的なことをしたわけでもないと思ってます。これも前に書いたけど、リクルート社が、日本に「転職市場」という新しい市場を切り開いた革新性などは無い。だから、個人的に同情はしないけど、あの程度で実刑というのは、人の好き嫌いを超えて、「おいおい」という気になりました。おかしくないか?と。
しかし、ホリエモンといえども、海の向こうのGoogleやってる連中のように世界史を動かすような革新性なんか無いわけで、アメリカでは普通にやってるような金融手法を日本でも取り入れて大胆に活用しただけだと思ってます。むしろこの程度の存在が日本で大騒ぎになること自体、苦々しい気分でいます。こっちの方が「おいおい」かもしれない。かなり日本社会の精神が老化してないか?と。20代30代で成功を収め、途方もない資産を持つ奴が出現することなど珍しくも何ともないです。オーストラリアですら、そんな奴はゴロゴロいます。毎日新聞の社説のように「独自の技術があるわけでもない学生が始めたベンチャー企業が、10年足らずでフジサンケイというメディアグループに買収を仕掛け、その後にはソニーを傘下に入れようと本気で考えていたというから驚きだ」とか書いてますが、学生のベンチャー企業が10年足らずでそこまで成長することなどザラにあります。そんなこと言ったらグーグルなんかどうなるんだ。グーグルはスタンフォード大学学生だったラリー・ページ達によって作られたわけですが、創立者の一人のラリーページは1973年生まれだからホリエモン(72年生まれ)よりもさらに若い。彼の総資産は140億ドル以上、1.5兆円ですか。世界中を自家用ジェットで飛び回ってます。ホリエモンの個人資産が幾らだったのかよく分からないけど、絶頂期に最大限見積もっても2000億円もいってないでしょう。桁が一つ違う。ビルゲイツだってハーバード大学を中退してマイクロソフト社を作ったわけだし。だから、ホリエモン程度で「驚きだ」とか驚いている毎日新聞論説委員の精神の老化を僕は憂えるわけです。
中国とかインドなどでは、それ以上の俊英がガンガン世界に羽ばたいていこうという昨今、ホリエモン程度で大騒ぎをし、こういったムーブメントを容認出来ず、なりふり構わず叩き潰しにかかり、さらにマスコミや世間もそれを「当然だ」みたいに思ってたら、今後10年、50年先の日本はヤバイです。学生企業が10年足らずで、本当にソニーを買収しちゃうくらいに育ってくれないと、そういう動きがガンガン出てきてくれないと、これからの世界の動きについていけないんじゃないのか。
ウチの近所にはインド人の学生さんが多いです。おそらくは近くのマッコリー大学に留学してる秀才君達なのでしょうが、ガソリンスタンドやら、コールズ(スーパー)でやらでレジを売ってます。スラリとした長身に、浅黒い地肌に彫りの深い端正な容貌で、ニッコリ笑いながら、そつなく英語をこなし、"Hi! How are you?"と声を掛けてレジを打ってる彼らを毎日見てるわけです。しかし、コールズでレジを打ってる日本人留学生など、滞在13年で一度も見たことがない。
しかし、ホリエモン個人について言いますと、この裁判の結果が有罪のまま確定し服役しようがどうであろうが、「最後まで突っ張った」「懐柔されなかった」ということで彼はヒーローとしての命脈を残していると思います。今から30年後が楽しみです。ここでメゲずに、服役してですね、また地道にやり直してたら、こういった事柄はむしろ勲章になりますからね。むしろ服役するくらいの方がドラマ性があっていい。若い頃突っ張って、国家権力に叩き潰されて、、というのは、大成功者が歩む定番のルートであるとすら言えますから。だけど、もし、彼が大成功して財界の大物になり、70歳とかになったら、なんかうるさいオヤジになりそうな気もしますね。「俺の若い頃はな〜」とか言ってそうです(^_^)。
文責:田村
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