今週の1枚(07.03.12)
ESSAY 301 : ホラー映画と「現実」認識
写真は、絵ハガキショットですみません。まるでロゴのようなオペラハウスとハーバーブリッジ。
本文にも説明してますが、きたる3月18日はハーバーブリッジ75周年記念イベントが行われます。ブリッジウォークでは、ハーバーブリッジを歩行者天国状態で歩けます。ただし前日までに登録が必要。当日になって「あ〜、しまった」と思わないために、興味のある人は登録を。無料&インターネットで簡単にできます。詳しいことは公式イベントサイトへ。速攻で登録したい人はココ、当日のイベント予定が知りたい人はココからプログラムをPDFファイルでダウンロードできます。海や空のアトラクションもあります。12時予定の40隻のクラシックフェリーってのにちょっと惹かれますね。ロックスやダーリングハーバーでもイベントがあります。もっとも、シドニーって年がら年中なんかやってますけど (^_^)。
前回が「笑い」についてでしたので、今回は「恐い」という感情について書きます。
あ、こんな世間話ばっかりやってないで、もっとオーストラリアや日本のことを書きなさいという人もいるでしょうから、ちょっとサービス。先週の前半、結構ハデなサンダーストーム(雷雨)がシドニーを含むNSW州でおきました。これの何がニュースなのかというと、規模がスゴイんですね。新聞によると24時間でNSW州全域で落ちた落雷約9万発、シドニーだけでも3000発以上です。ピークタイムにはシドニーエリアに1分間に65発落ちたそうで、1秒に一回以上落雷があったという。まあ、実際夜とか凄かったですよね。ひっきりなしに空が明るく、ガリガリバリバリいってました。こっちは天気が荒っぽいのでこの種の落雷は珍しくないし、気象庁も「別に珍しくないね」というコメントでした。
新聞記事を読んでて「ほう」と思った新発見は、落雷の数をトレースして勘定している会社があるということです。NSW州全域で8万8千幾つと1の位まで正確に出ていて、「こんなの誰が数えるんだ?」と思ったら、そういうことをやっている会社があるらしい。何のために、どういう機器を使って、どうやって儲けているのかなど詳細は不明ですが、まあ、そういう会社がある、と。もう一つは、落雷にはポジティブとネガティブがあるそうです。陽極落雷と陰極落雷なのでしょう。プラス落雷の方が0倍くらい強力とか書いてありました。
ここで、そもそも「カミナリってなぜ起きるのか?」という、子供用のなぜなに大事典のような疑問が湧いてきました。昔読んだ記憶があったりするのですが、内容は綺麗サッパリ忘れてしまいました。今ここでスラリと言える人、いますか?ちょっと調べてみたら、こういうメカニズムらしいです。まず大気中に水蒸気が上り、高度が上昇すれば温度も下がるから水滴に戻り、さらには氷結して氷晶になります。この集合体が雲ですね。この氷の粒が上昇気流にのって上がるにつれ、周囲の氷の粒とくっつき合って大きな粒、つまり「あられ(霰)」になります。あんまり大きくなると今度は重力の関係で落下してくる。落下してくるアラレと、上っていく氷の粒が空中で接触する。この接触の際に静電気が発生し、上に行く氷の粒はプラスの電気を、下にいくアラレはマイナスの電気を帯びる。結果、雲の上部はプラス、下部はマイナスに分離していく。プラスとマイナスの電位差が一定限界を超えると放電現象が起きる。つまり、プラスとマイナスは呼び寄せ合い、中和しようとするから、雲の下部のマイナスは大地のプラスと結合しようとして放電がおき、雲の上のプラスは大地のマイナスと結合しようとして放電すると。カミナリというと上から落ちるものだという固定観念がありますが、大地から雲に向かって放電するパターンもあり、実際には4種類のカミナリがあるそうです。
要するに大気中に水分がたっぷりあって、且つ強力な上昇気流が起きると雷は起きやすい。大気中に温かい空気と冷たい空気が混在している状態、つまりは蒸し暑い日に急に冷たい空気が流れ込んでくると雷雲が出来るわけなのでしょう。そこでオーストラリアの荒っぽい大陸性気候を考える場合、常に「南風」がポイントになります。「南極おろし」ですね。ほぼ毎日のように天気予報で言われる"South and South West wind"とか"Southerly change"という南からの風の動向がポイントになるのでしょう。そう考えると、2年ほど前の夏に日中38度になった日に突如としてヘイルストーム(ひょう=雹)が降ってきていきなり30分で20度も気温が下がったり、数年前にソフトボール大の雹が降って、車や住宅の屋根を破壊したのもうなずけます。今回は単に雷だけで済んだわけで、まあ良い方だったのでしょう。まあ、翌日信号が破損して電車が遅れたりしましたし、二人ほど落雷の被害にあったそうですが(ちなみに二人とも病院に担ぎ込まれたけど全然命の別状はなく、経過は良好らしい)。
ということで、オーストラリアは雷が多いし、ハデだという話でした。かなり長い間夜空がネオンみたいにピカピカしてるときもありますし、アウトバックとかにいくとはるか彼方の地平線の方向に天から雷が落ちるのがハッキリ見えたりして、なかなかワイルドな光景です。
ということでオーストラリアの状況でした。って、カミナリだけ書いてもしょうがないか。大きなところではNSW州選挙を間近に控えて、与党労働党と野党自由党が選挙戦を展開しています。今年は、また連邦選挙もあり、在位11年の長期政権になってハワード自由党連合がそろそろ労働党に敗れるかどうかが争点になってます。
いつも思うのですが、こちらの選挙戦は、日本のように選挙カーがラウドスピーカーで名前を連呼するというパターンを踏まない、非常に静かな選挙戦なので、英語のマスコミをある程度見てないと選挙があったことすら知らない人もいるでしょう。そう言えば、選挙以外にも、右翼の街宣車や、街頭演説、その他の宣伝広告なんでもいいですけど、大音量のスピーカーで何かやるケースというのは非常に少ないです。なにかの式典やイベント、デモ、運動会のアナウンスくらいでしょうか。街頭をBGMが鳴り響いているというケースも少ない。店内のBGMや、電器屋のTVの音が外まで流れているケースはありますが、町全体に何かの音が流れているという記憶はあんまりないですね。そうそう一番音量的に大きいのは、街角でコインを集めて楽器をプレイしたりする大道芸の人達でしょうね。あとは募金活動にせよ、なんにせよ、拡声器は使わないです。騒音条例があるのかどうか未確認ですが(あるんだろうな)、こちらに慣れると、日本に帰ったときにやたらうるさくて閉口します。もともとうるさい国なのに、これ以上うるさくしてどうする?って感じ。
えーと、それから、今月25日は、ウチの近所のレイン・コウブ・トンネルがいよいよ開通します。クロスシティトンネル、M7に続く半官半民プロジェクトですね。これはこれでまた特集した方がいいかな。
あと、公共インフラでいえば、今年はハーバーブリッジ建造75周年です。これに伴うイベントが今月いろいろ予定されているようですので、気になる方は、ハーバーブリッジ75周年記念のサイトをチェックしてください。来週の日曜日3月18日には朝の10時から夜の7時半まで、ハーバーブリッジが一般に開放されます。全線車両通行止めで歩行者天国状態になります。ただし、前日までに人数や時間をレジスター(登録)する必要があります。登録してないと渡れませんので、上記のサイトのレジスターのところをクリックして登録しましょう。登録料は無料。ただし、一回登録したら後で時間を変えたり出来ませんのでご注意を。他にも当日は、朝からいろいろなイベントが予定されています。
さて、シドニーの近況はこのくらいにして、本題に入ります。「恐怖」です。
英語の練習という意味もあって、ちょくちょく近所のレンタルショップで映画のDVDを借りてきてるのですが、5枚一週間というパッケージで借りるときに、一枚くらいホラー映画を入れたりします。別にホラー映画のファンなのではないですが、ホラーってストーリーが比較的シンプルで見てて肩が凝らないこと、又いかに怖がらせてくれるかという点にポイントが絞り込まれていることから、楽なんですよね。
週に5本というのは結構ハードでして、いくら英語字幕があるとはいえ、しばらく画面を停めて意味を考え込まなければならなかったりします(結局分からなかったりすることも多い)。先日見たSYRIANAという映画は、911までの中東の石油をめぐる、アメリカの石油会社、CIA、アメリカ政府&中東政府の謀略や暗闘を描いた作品です。5つくらいの視点でそれぞれの人物のそれぞれのストーリーを描いているのですが、最後まで見て話がわかってしまえばスッキリするのですが、途中で「誰だっけ、この人?」とかこんがらがってきたりします。また必要最小限度の説明しかしない上に、英語が難しい。構文とか単語が難しいというよりも、セリフ回しがヒネってるから、「ん?どゆ意味?」という箇所が満載。また前提になる政治的駆け引きなんかも、ある程度「なるほど、だからそうなるわけね」と想像で補ってないとついて行けない。いい映画なんですけど、疲れます。
その点、ホラーはいいです。話は簡単ですもんね。登場人物も多くないし、複雑な心理描写も少ないし、伏線もわりとわかりやすい。それにホラー映画で堂々3時間の超大作ってのは滅多になく、大体90分前後で短めですし。ホラーなんか見てて恐くないかというと、さすがにこのトシになってくるとそんなに恐くはないですよ。これはイイコトなのかどうか分からないのですが。
子供の頃は何を見ても恐かったです。当時はホラーなんて言葉はまだ日本に上陸してなくて、怪談とか怪奇番組とか言われていた頃ですが、TVのちょっと恐そうな番組とか見ちゃうともう夜にトイレにいけなくなったりしてました。そもそも、番組自体恐くなって途中から見てられなくなって、コタツにもぐってたりしたもんね。今から思うとなんであんなに恐かったのかな?と思いますが、逆に、なぜ年を取ると段々恐くなっていくのか?という疑問もあります。なぜでしょう?まずはそのあたりから書いていきましょうか。
ホラー系の恐怖の本質は、おそらくは誰もが指摘するようにイマジネーションなのでしょう。 壁のシミ、天井の木目が人の顔に見えたりするのもイマジネーションだし、廊下がギシっと鳴ったら何か恐ろしいものが歩いているような気がするのもイマジネーションでしょう。子供の頃はイマジネーションが豊富ですが、大人になるにつれて段々イマジネーションが乏しくなってきて、あまり恐くなってくる。
確かに子供はイマジネーションが豊富なんだけど、もともと子供にはそういう想像力が豊かにあり、段々それが枯渇してくるのか?というと、半分YESで半分NOだと思います。半分NOというのは、子供というのは人生経験が少ないし、外界の知識も乏しいから、必然的に想像力で補わなければならないのでしょう。物心ついて数年くらいだったら、現実に体験してきた蓄積がそれほどないから、現実と空想話の区別がよくつかない。ましてや小さな子供の場合、童話とかマンガなどを読むから、実際の体験よりも空想話の体験の方がどうかしたら多いくらいでしょう。そうなるとホラー系の空想話をかなりリアルに捉えてしまっても無理はないです。そういう世界観を植え付けられているのだから。
しかし、年を取るにつれ、現実的にマネージしなければならないことが増えてくる。学校に行くようになると学校生活が始まり、さらに恋愛問題だ、部活だ、受験だとなるとさらにマネージする課題が増える。これが社会人になると、仕事やら、家庭やら、住宅ローンやら、遺産分割やらでマネージする事柄は加速度的に増えるし、現実社会を体験する量も増える。相対的に、空想的なお話の占める比率が減ってくる。さらに、大人の日常生活においては、結果がよく見えない、システムがわからないということは少ないです。想像力で補わないと理解できないということが少ない。
夜の10時頃に○○公園に行くと、包丁をもった狂女が走りながら追いかけてくるという都市伝説があったとします。大人にとって、ましてや身体頑健な成人男性にとって近所の公園を夜の10時に歩くことは冒険でも何でもないし、実際これまでにも会社帰りのほろ酔い気分で何千回となく歩いている経験があるでしょう。ところが、5−6歳の子供にとってひとりぼっちで夜の10時に公園を歩くというのは未知の体験だったりします。そうなるとイヤでもホラー話がリアリティを帯びてくるでしょう。でも、大人だったら、これまで1000回歩いて一度もそういうことがなかったら、1001回目もおそらくないだろうと思う。これは大人であろうと子供であろうと、人間だったらそう思うでしょう?要するに学習効果です。子供は学習効果が乏しいから、足りない部分をいろいろな仮説で補い、その仮説の中に怪談やらホラー話が混じってくるということだと思います。
このように、子供のイマジネーションが豊かなのは、単純に経験不足、知識不足、さらに経験情報を整理するフォーマットの未整備などの原因に基づく、と言えなくもないでしょう。ただし、半分YESといったのは、これまで多くの体験を積み、知識を増やしたとはいえ、一人の人間が経験できる量や質には限界があり、必ずしもこの世の全てについて知り尽くしたわけではない。にもかかわらず、たまたまこれまでがこのパターンでいけていたから、今後もずっとそうだろうと簡単に思いこんでしまう部分もあると思います。井の中の蛙のくせに、固定観念バリバリになってしまい、自由な想像ができなくなっているということで、「大人になると頭が固くなる」という現象もまた生じるでしょう。だから、半分YESで半分NOだと書いたわけです。
理想的なのは、これまで得てきた経験知識でしっかりと物を見据えることが出来て、いちいち夜道に枯れ木を見る度に幽霊が出た!と大騒ぎしないで済むようになる反面、自分の知ってることなど一部に過ぎず、まだまだこの世には自分の理解を超えることがあるのだと自戒し、思考の柔軟性を失わないことでしょう。この両者が出来てはじめて一人前の大人になれるのでしょうが、一人前の大人になる前に、狭い経験のツボにはまって「頑迷な老人」になっちゃうパターンも往々にしてあると思います。自戒すべし、ですよね。
さて、これまでの仮説からすれば、経験知識の及ばない領域では、大人であってもイマジネーションが豊かになる筈ですし、実際にそうなると思います。未だかつて体験しなかったことを初めてやるときは、人は幾つになっても、あんなこと考えたり、こんなこと考えたり、つまりイマジーネーションをふくらませて、勝手にビビッたりするでしょう。よく分からないものだから、ふとしたことに過大な意味づけをして取り乱したりもするだろうし、笑うべき希望的観測にすがったりもするでしょう。
話を極端にしたら分かりやすいですが、ロケットに乗って知らない惑星に不時着したりしたら、大人も子供も等しくビビると思います。なんせ、どんな生き物がいるのかも分からない。どんな禍々しい自然災害が襲ってくるかもわからない。全てが自分の想像を超えて、しかも確かめる方法は無い。そうなったら誰だって恐いですよ。もしかしてあの岩陰には恐ろしいモンスターが待ちかまえているのかもしれず、今こうしている間にも異星人(というかこっちが異星人なんだけど)に監視されているかもしれない。おっかなびっくり一歩一歩歩くでしょう。物心ついたばかりの子供にとって、僕らのいるこの世界は、この惑星不時着状態のようなものなのでしょうね。だから強力な保護者(肉親)を求めるし、世界に関するあらゆる情報(その過半数はおとぎ話だったりする)が未整理のままいろんな脈絡で飛び出してくるのでしょう。
惑星不時着なんて極端な事例を出すまでもなく、はじめて裁判所で証言台に立つ人、破産手続を経験する人、暴力団に因縁をつけられて困っている人は、やはり子供と同じようにイマジネーション豊かになりますし、どっかで聞いてきた、それこそお伽話や怪談話のような情報に惑わされ、必要以上に恐怖心を持つことになります。それは非常によく分かる。未経験のことは、ほんとに最悪のことまでイメージして、それで苦しみますから。僕も、大学の時に財布からキャッシュカードから免許証まで全てを落としてしまったことがあり、もしかして証明書の類を悪用されてサラ金からお金を借りられていたらどうしよう?とか、夜もほとんど眠れなかったです。大学生といっても社会経験が不足してるから、その種の事態には弱いのですね。今だったら、「あーあ、面倒くさいな」って思うだけで、何の恐怖心も感じないでしょう。それに自分が弁護士をやってた体験でいえば、仮に勝手にサラ金で借金させられて取り立てが来ても、そんなの弁護士の手がける事件でいえば最も簡単な事務処理レベルですから別に何とも思いはしないでしょう。経験と知識で恐怖が消える。
破産なんかも、「どこでそんなこと聞いたの?」という無茶苦茶な噂が、世間の間でまことしやかに流れていたりします。最近はかなり広報や啓蒙活動がいきわたって、一昔前のような噴飯物の「怪談」が流布されていないとは思うのですが。例えば、破産宣告を受けると戸籍に載るという「怪談」があります。結構いい大人、いい社会人でもマトモに信じてたりします。でも、破産しても絶対に戸籍には載りませんし、住民票にも載りません。それに選挙権も被選挙権も奪われません。まあ、弁護士や公認会計士などの○○士になれないとか、一定の職業制限はあります。国家公安委員になれないとか。でも、普通そんなに関係ないでしょうし、これらの制限も免責によって復権します。破産によって被る最大のデメリットは、「クレジットカードが作れなくなる」「ローンが組めなくなる」ということでしょう。でも、これらは法律上の制限ではなく金融機関独自の判断でやってるだけのことです。だから、破産宣告を受けた直後であっても、いきなり遺産相続を受けたり、宝くじが当たったりして数億円の資産が転がり込んできたら話は別でしょう。数億円の定期預金を作ってやれば、その銀行はクレジットカードくらいすぐに作ってくれるんじゃないかな。破産にまつわる「怪談」は、他にも「テレビは14インチ以上のものを見てはいけない」とか、「誰がそんなことを考え出したのか?」と首をひねりたくなるようなものも多いです。
海外生活なども「怪談」が多いです。海外といってもエリアによって千差万別なのですが、恐ろしい話ばかりが出回ってたりします。オーストラリアは一般にカントリーリスクが低く、特にウチのエリア、ウチのストリートはそうです。年間通じて路駐してある車の車上荒らしが一回あるかどうかです。数年単位で見ても、ガレージに忍びこんでオイル缶を盗まれたとかいう一件あって、それが最大の犯罪だったりします(エリア内の犯罪情報は定期的に刊行物で教えてもらえる)。感覚的にいえば日本の都会なんかよりはずっと安全でしょう。大阪に住んでるときは、数ヶ月に一回の割でマンションの駐車場に止めてあった原チャリの盗難未遂が発生していたことを思えば、嘘みたいに平和。しかし、オーストラリアに来て間がないときは、それですら恐ろしく思える人もいます。いつぞや、夜の7時くらいに近所の商店街に行って、半泣きになってヘルプ電話をかけてきた人がいました。「すごく恐いところにいるんです!道行く人が全員ヘンなんです!凶悪犯人みたいなのばっかり!」と言ってて迎えにいったことがあります。その人も数ヶ月してまた遊びに来てくれたときは、「いやー、ここはいつ来ても平和ですねー」とか呑気なことを言ってたりします。「あんなに怖がってたじゃん?」「うそー、私怖がったりしてませんよ!」なんて、すっかり忘れていたりします。
これらのことから何らかの法則性を抽出すると、「よく知らない物事は、イマジネーションによって現実認識が左右されることがある」ということであり、このイマジネーションは往々にして恐怖と結びつき、「勝手に話がふくらむ」傾向につながり、しまいには都市伝説まがいの怪談になっていきかねないということです。よく知らない物事であればあるほど、目をカッと見開いて現実を直視し、刮目して洞察すべし!ってことなんだけど、そうならない。よく分からない→恐い→情報を集める→またこの情報がデマレベルの都市伝説が多い→ますます怖がる→ますますデマにすがりつく→全てが恐ろしく見えるという悪循環だったりします。特にインターネットの普及によって、情報が簡単に手にはいるようになりましたが、いわゆる情報というのは7割方デマだったりしますから、善し悪しです。善し悪しというよりも悪い方が強いかもしれない。「シェア探しにいった女の子は必ずレイプされる」とか真剣に信じてる人がいたりして、やれやれと思ったりします。これって、郷里のおばあちゃんが「東京に出たら人さらいに捕まって香港に売り飛ばされる」といってるのと五十歩百歩ですよ。ここまでヒドくなくても、ピッキング(農収穫物のバイト)はどこそこがいいとか、出かける前から情報交換してたりして、やれやれです。農作物なんか同じモノが一年中なってるワケないじゃん。特に野菜類だったら数週間もすればシーズンを過ぎる。トマトの収穫とブドウの収穫だったら労働作業の内容も大きく違うから、キツさも違う。だから「情報」といっても、現地の、せいぜい48時間以内の新鮮な情報でなければ殆ど意味ないです。実際に行ってきた人はそのあたりの事がわかってるから、「あんなのは運」「考えるだけ時間の無駄」と言ったりしますが、この種の都市伝説をマトモにうけてそれだけで行動してきた人にはそこが分からない。ピッキングすらもお金を払って日本語で誰かに斡旋してもらったりする。だからまたデマまがいの情報を発信したりする。
たまたま、今、養老孟司氏の講演集の本を読んでますが、似たようなことを脳の働きという視点から述べていて興味深いです。示唆的だったのは、脳というのは情報の入力&出力マシンなのだけど、しかし全て論理的に情報処理しているわけではなく、そこには「好き嫌い」というバイアスを強くかけている。これは運動神経にも妥当して、もし利き腕、利き足という好き嫌いバイアスがかかってないと、何かあったときに右足から踏み出せばいいか、左足からいくべきか論理的に決定できないから、ウサギやカエルのようなピョンピョン跳びになってしまう。ウサギ等は左右均等の運動神経だからああいう動き方をするけど、人間の場合、利き足という好き嫌いがあるからそうはならないということ。運動神経ですら好き嫌いで情報処理しているとすれば、一般の情報処理は好き嫌いバイアスがもっと激しい。そうしないと、例えば目の前に定食があったとして、ゴハンから先に食べるか、味噌汁から飲むか、論理的に決定できないから何も食べられないことになる。だから好き嫌いバイアスは、僕らが行動するためには必要なことですらある。そして、僕らが認識している「現実」も、視神経や聴覚神経などの五感からインプットされた情報を、脳内でどう総合的に組み立てるかということであり、その情報の取捨選択や組み立て方にもバイアスが深くかかる。嫌いな情報はカットし、好きな情報を重視したりする。ゆえに、100人の人がいたら100人の「現実」があり、厳密な意味では全て人の現実が違っている。
もう一つ。脳というのは意識して情報を組み立て認識していくもので、人間にとってとても大事なものだけど、実際の世界はそれだけではない。現代の都市は、誰かが設計し、誰かが作ったものばかりで、全て脳内世界の延長線上にある。全てのことに人間に理解できる意味脈絡を持ち、一応論理的に全ての説明がつく環境、つまり極端に人工的な環境にある。しかし、「自然」は人間の思惑や好き嫌いと無関係に実在する。当たり前なんだけど、今の日本の都市生活をしているとそこを忘れてしまう。例えば、人間がいれば「死」は極めてありふれたもので、そこら中に死体が転がっていても本来は当たり前であるにも関わらず、人間はそれを嫌うので、人が死んだら人目につかないように隠し、大急ぎで火葬して処理してしまう。だから何年生きていても死体をシゲシゲと見たことがないという人ばかりになる。また、人間の精神生理は何も脳の意識的な活動だけで成り立っているのではなく、無意識的&自然的&身体的表現も重要な働きをする。例えば茶道や行儀作法や芸能は、人間の身体の動かし方、その表現技法を習うもので、論理的にはよくわからないけど、その身体表現のすごさで人は容易に説得されたり、理解させられりたする。意識や言葉とは無関係で、人間の無意識に強烈に働きかける身体表現があることを忘れてしまうし、明治以降の日本人はその非論理的だけど強力な身体表現+技法を忘れつつある。
これらを総合すると、僕らの現実認識はかなりヤバいことになっているかもしれない。つまり、首から下の身体感覚/自然世界の感覚を忘れているだけで既にこの世の半分が見えてないことになる。この世界は、情報とその整理解析、つまり脳によって意識的に処理できるものだけで成り立ってると誤解しがちである。本当はこの世の半分は、脳によって理解不能、論理や情報という形では処理できないもので成り立ってるのだけど、そこが見えなくなる。そして、異様に頭でっかちになった現実認識は、好き嫌いという強烈なバイアスがかかることにより、ますます自分好みの「歪んだ」世界観を作っていくことになる。
他にもたくさんの事が書いてありましたが、上記の部分が興味をひきました。「なるほどねえ」と示唆的でありました。身体表現のくだりあたりは、なんとなく「重要だよな」とは思ってたけど、ここまで明確に意識はしてなかったですね。行儀作法なんかしゃらくせえ!くらいの感覚が抜けなかったのですが、一概にそうしたものではないのね。確かに、貧乏揺すりしたり、頬杖ついている奴に何か言われたくはないですね。同じ事を言われるにしても、貧乏揺すりしてる奴から言われると説得力がないよね。同じ事でも、Aさんから言われると素直に聞く気になるけど、Bさんから言われると反発したくなったりします。特にこっちの社会は、言葉がろくすっぽ通じないことも普通に生じるけど、「ああ、この人の言うことだったら信じてもいいわ」という人間的、存在的な説得力というのは確かにあります。常々、コミュニケーションのうち言語が占めるのは十数%、あとはボディランゲージやオーラで会話するのよ、だから英語を喋ろうと気負うあまり、人間の自然なオーラを消したらダメだよ、益々通じなくなるよと皆さんにアドバイスしてましたけど、補強してもらったような感じです。
ちなみにこの本ですが、養老氏が諸団体のセミナー、講座などで行った講演録10本を収録したものです。講演録なので、同じような話が何度も何度も若干視点を変えて繰り返されますので、重複をカットすれば4分の1くらいのボリュームで済むでしょう。でも、同じことを視点を変えて何度も書いてくれた方がサラリと読み過ごしてしまわないから、いいかもしれませんね。ところで、この本は大和書房から文庫本で出ています。もともとは、白日社の「脳と自然と日本」「手入れ文化と日本」という題名だったのですが、文庫化にあたって新編集・改題したものらしいですが、そのタイトルが『まともバカ』というのですね。何を考えたらこんなアホなタイトルになるのか、ちょっと唖然としました。内容と全然関係ないじゃん。しっかり確認したわけではないけど、おそらく「バカ」という単語は全編通じて一回も出てこないですし、バカについて論じているわけでもない。『バカの壁』が流行ったから、タイトルに「バカ」をつけておけば売れるだろうという柳の下のドジョウ的な発想でつけたのでしょうが、著者が可哀想な気もしますね。本人は了承しているのだろうか。でも2006年9月に初版、12月には第五刷になってますから、それこそバカ売れしているのでしょう。うーむ、実際、「バカ」とついていたら売れるわけね。
それはさておき、今の話で関連するとしたら、強烈な「好き嫌い」バイアスで情報処理をする人間の脳のパターンです。つまり、「恐いと思ったらなんでも恐く見える」というやつですね。五感から入ってくるあらゆる情報を均等に処理するのではなく、バイアスをかけて処理するのだから、最初にAだと思いこんでいたら、何を見てもA的な世界に見え(非A的な入力情報があっても軽視する)、それこそが「現実」だという具合に認識されてしまうでしょう。あなたが思ってる現実と、僕が思ってる現実は違う。もう徹底的に違うのだと、この際認識を新たにしておいた方がいいのでしょうね。僕が現実として認識しているオーストラリア、日本は、あなたが現実として把握しているそれとは違う。
さて、話をホラー話に戻します。そういえば、ホラーの話をしてたんですよね (^_^)。
以上のことから逆に考えていけば、「恐いと感じる(感じさせる)」ためには、@イマジネーションの余地を沢山残しておくこと、Aなんでも恐い方向に見えてしまうように情報処理のバイアスをかけておくこと、B非論理的、自然的、身体的表現技法を駆使することだと思います。
人間が暗闇を怖がるのは、暗いからその場の情報を明確に把握できず、想像力に頼るしかなくなるからでしょう。今の日本の都会では、そこまで本当に暗いことは少ないし、真の「暗闇」は乏しい。でも、田舎や大自然の夜、数キロ平方で人工的な灯が一つもないようなところは、もうそれだけで恐いですよね。昼間は美しい木立も、夜になると恐ろしげな怪物のシルエットのように見えます。いい大人でも足がすくみます。古代の人々が、自然=神だと思ったのは分かります。特に日本のような温帯湿潤で森林が濃密なところでは、夜中に黒々とした森や山を見るだけで、「絶対に何か居る!」って思えるもん。これが砂漠の民で、夜中でも地平線が見えるようなところだと考え方もまた変わるのでしょうけど。水木しげるの妖怪物も、あの湿潤で濃密な日本の山野を重ね合わせると、滅茶苦茶リアリティがあったりします。ほの暗い田んぼの向こうを目を凝らして見てると、なにかが空中に浮かんでいるような気もします。横にいる人に「あ!なに、あれ?!」って引きつった声でどこかを指さされたら、背筋がぞっとするでしょう。この種の自然の恐怖感や畏怖心というのは、子供のうちに与えておいた方がいいんでしょうね。世界観を構築する上でも知っておいた方がいいかも。また大人であっても忘れてしまってたら、ときどき思い出しにいくといいんでしょう。
ホラー映画のカメラワークなどでいえば、暗闇部分が多いような照明の当て方なんてのがあるでしょう。あと、家の中の恐怖心を煽るためには、死角部分を多くとるような構図がいいんでしょうね。全てがあっけらかんと見えてしまう構図ではなく、例えば、ドアが半開きになっていて、いかにもドアの後ろに何かが潜んでいそうな感じがするとか、鏡に映ってる主人公のカットでも、鏡の右半分をわざわざ不自然に開けておいて、いかにもそこに幽霊の顔が登場してきそうにしておくとか。構図バランスからいって、そこに「なにか」が居ないと全体の収まりが悪いようなカットを多用すると、想像力をかきたてます。
Aの「恐い方向へのバイアスの刷り込み」ですが、映画的には色調調整でしょう。全体に青っぽくするとか、自然のカラーバランスを壊しておくとか。大体ホラーものの色調というのは、「沖縄のマリンブルー」「南海の島のエメラルドグリーン」とかいう色調の対極にあるような感じですよね。光量もバッチリで、眩しい日射し、さわやかなエメラルド色の波打ち際に、ゾンビがモモモ〜と登場してきても、「ぶはははは」って笑ってしまいそうな気がする。このように、いかにも恐そうな構図と色調によって、「何を見ても恐く見える」ようにバイアスをかけていくという。
大体、話としては全然恐くなくても、見せ方ひとつで滅茶苦茶恐く感じさせることは可能でしょう。頭の中のバイアスのかけ方ひとつですよね。子供の頃、やたらめったら怖がってた時分であっても、不思議と全然恐くないときってあります。それは何かというと、猛烈に腹が立ってるときです。「ふざけんじゃねえ、馬鹿野郎!」と怒りまくってアドレナリン出まくってる時というのは、恐くないよね。廊下の陰から幽霊がでてきたとしても、「うるせーんだよ、この野郎、ひっこんでろ!」といきなりぶん殴ってしまいそうです。要するにその時点では気持ちのバイアスが怒り方向にシフトしてるから、恐怖にならない。同じように、本来は滅茶苦茶恐くても不思議ではないような環境であっても、それが仕事であったりすると恐くなくなる。例えば、学校の宿直夜警のバイトがあります。司法試験受験時代、よく先輩や仲間が夜警のバイトをしてましたが、全然恐くないと言ってました。本来、夜の学校なんか怪談に事欠かず、超恐いはずなんだけど、それが仕事ということなり、どこかに泥棒がいるかもしれないという現実的なモードに切り替わると、不思議と恐くなくなる。同じように、夜の山でも、それが難しい登山の途中、遭難者の捜索、凶悪犯人の山狩りだったりすれば、強力な義務感や仕事モードによって恐怖は追い払われてしまいます。
今の僕の家は6LDK以上あって、カミさんが日本に帰国してるときなどひとりぼっちで夜寝たりしますが、最初は多少薄気味悪かったけど、今は全然恐くないです。でも、家の奥とか、誰もいないんだけどよく音とかするんですよ。恐いでしょう?でも、段々わかってきたのですが、夜はポッサムが盛んに活動しますし、屋根をドドドドと駆けていって一気に木に飛びついたりする運動会状態になったりするのですね。だから音なんかしても当然だという。さらに、家のあちこちが壊れて、そのたびにやれ修繕だ、不動産屋に連絡だとか大変な思いをしてくると、夜中のトイレの水が流れっぱなしになってたりすると、「あーもー!またかよ!」って気になり、恐いどころではない。
今の日本でも死体を日常的に見てる人がいます。病院関係者や葬儀屋さんです。彼らは忙しいし、慣れっこになってるから別に恐くもないでしょう。同じように、墓場が恐かったら寺の住職なんかやってられないでしょう。どんなに恐いホラー映画でも、それを撮影しているスタッフは恐くないでしょうし、それを上映している映画館の担当技師は怖がってる場合ではないでしょう。要するに、恐怖以外のモードがあれば平気なんですね。職業意識なんかその最たるものでしょう。ということは、恐いと感じる、恐怖バイアスがかかってしまう場合というのは、「怖がってる場合」の人だということです。つまりは「ヒマな人」です。ホラー映画を見てる人なんか、ヒマですからね。映画見る以外にやることがないから没頭できる。全身全霊で恐がることが出来る。でも、映画館内が恐怖の悲鳴に満ちていたりしても、突然その映画館が火事になったら、それどころじゃないでしょうから、映画的恐怖なんか一気に消えてしまうでしょう。つまりはそーゆーことなんでしょう。
Bの身体的表現ですが、ホラー映画的には、人間の動きを不自然にすると恐いです。普通に撮影しておいて、わざと途中のコマを抜き出したりして、動きを断続的にする。キョンシーが恐いのも、普通の人間はああいう移動の仕方をしませんからね。日本の恐怖映画の傑作「リング」でも、昔のシーンを再現するときに、わざと古い8ミリ映画の映像のように、シミだらけ雨降りだらけの画面にし、人の動きが断続的にバンバン飛んだりします。あれ、素晴らしいクオリティの鮮明画像で、人の動きも滑らかだったらあんまり恐くないですよ。少女が井戸からはい上がってくるシーンでも、恐いというよりも、「よし、もうちょっとだ、頑張れ」というアクション映画的なモードになってしまいそうです。同じように、僕らが今ここでホームビデオで撮影したものでも、編集を加えて断続的にすると恐怖ですよ。例えば、歩いて近寄ってくるだけの映像でも、途中をポンポンカットしておいて、足を動かしてないのに一気に目の前にズズズと近寄ってくるようにしたら、かなり恐いです。
とまあ、ここらへんがホラー映画作成のコツであり、鑑賞のポイントなのかもしれませんね。いろいろ見てると、段々分かってきたりします。「ああ、なるほど、上手だなあ」とか思ったりして。でも、こういうのって純粋に恐がって楽しむためには「邪念」なんでしょうね。
文責:田村
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