今週の1枚(07.03.05)
ESSAY 300 : 笑え!
写真は、Balmainのカフェにて。
このエッセイも今回で300回目を迎えます。普通だったら300回記念でなんか気の利いたことでもやればいいのですが、別にこれといった感慨もないので、あっさり無視して淡々といきます。アマノジャクな僕は、昔から正月とか誕生日などのアニバーサリーものにはピンとこない方なんですね。So What?(それがどうした?)って思っちゃったりして。それに、300回記念とかいってニギニギしく何かやったあと、実は一回どっかで数え間違えたりしてたら恥ずかしいですもんね(^^*)。
さて、今回はしょーもない小ネタを。
「笑いのツボ」という言葉があります。なにげない出来事でも何かの拍子に妙におかしく感じ、笑いが止らなくなってしまう状態を、「笑いのツボ」にハマったといいます。「おかしく感じる」などと表現すると、「ニンマリ笑う」「ニヤリとする」など余裕ありげな感じがしますが、実際に笑いのツボを突かれてしまったら、そんなに冷静ではいられません。しばらく呼吸困難に陥るほど笑いの発作が押し寄せてきます。こうなると「笑い」というのは、もはや感情とか知性などの頭脳の領域ではなくなります。痙攣とかしゃっくりと同じように、まさに発作と呼ぶべき「身体反応」になります。
それに「笑い」には強力な感染力があります。なにがおかしいんだかサッパリ分からないのだけど、ひたすら笑ってる人を見てると、それだけでこちらまで笑えてきてしまうという。この不思議&強烈な感染力に純粋に的を絞り、そのシチュエーションをリアルに描写するだけで読んでいる人を爆笑の淵に叩き込むという小説があります。知っている人は知っている名作、筒井康隆氏の「笑うな!」という短編小説です。
この小説は全編通じて激しく笑っている人間の描写だけです。主人公が面白がってる出来事そのものは、実は面白くも何ともないです。それだけに「激しく笑っている人がいる」という状況描写だけで、ここまだ第三者を笑いの渦に引きずりこめるものか?と感動しました。僕も最初に読んだときは、笑いすぎてしばらく起き上がれなかったです。腹筋100回+腕立て100回やってもここまで疲れないだろうというくらい。
でも何がおかしかったのか?というと、よく分からないんですよ。別に面白いことなんか何一つ書いてない。単にタイムマシンを発明したので友人に披露するというだけの話で、タイムマシンなんてそんなに爆笑を誘うようなモノではないでしょう?だから、ひたすら笑いの感染力にやられているだけなんです。そこに着眼し、純粋にそれだけで小説を一本仕上げてしまうあたり、筒井氏の天才ぶりがわかります。
おれは、しばらく黙っていた。口を開こうとすると爆笑しそうだから黙っていたのである。だが、からだ中が小ざきみにふるえ出すのを、斉田に悪いと思いながら、どうすることもできなかった。(中略)
「これがタイムマシンか」と、おれは訊ねた。
斉田はうなずいた。「うん。これ、タイムマシンだ」
おれたちは、同時に爆笑した。機械を指さしては笑い、互いの顔を指さしては笑い、床にしゃがみこんで咳き込み、痛む腹を押えながらまだ笑った。(中略)
斉田がもじもじし、大照れに照れながら頭をかき、太い人さし指で、ダイヤルのひとつをはずかしそうに指しながら、蚊の鳴くような声を出した。「こ、このダイヤルが、つまり、その、過去へ行く」
「ワハハハハハハハ」みなまで聞かず、おれはまた腹を抱えた。(中略)
おれたちは、またもやプッと吹き出しそうになり、あわてて互いの口を掌で押さえた。眼をまん丸に見開き、からだだけで笑い続けた。
なんて描写が延々続くだけの小説です。延々といっても、文庫本でわずか9ページの超短編、いわゆるショートショートです。
こういう具合に部分抜粋してしまうと大して面白くないのですが、通して読むと、独特の空気感があって、「な?なんだ、これは?」と思ってるうちに、自分ものたうち回って笑う羽目になります。
あー、でも、最初から「笑うぞー」って思って読んだら面白くないかもしれませんね。何の先入観もなく、普通の小説を読むんだという意識のまま読み進むのがイイと思います。「な、なんだなんだ?」と当惑しつつ、わずか9ページのうちに異次元世界に連れて行かれ、最後には死ぬほど笑わされているトリップ感がイイです。その意味では、ここでネタバラシみたいにしちゃったら意味ないのかもしれません。ごめんなさいね。でも、ここで紹介しないと読む機会もないでしょう。昭和50年=1975年、今から30年前以上の古い小説ですし。まあ、ゲットしておいて、忘れた頃になんの気なしに読んでください。
でも、笑いの発作や、笑いのツボというのは、自由に笑えるときにはあんまり襲ってこなくて、「絶対に!笑ってはイケナイ!」というシチュエーションでよく襲ってきます。だから、おごそかな儀式などは鬼門ですね。皆がしめやかな顔をして列席している結婚式や入社式、あるいは典型的なのはお葬式とか法事とか。葬式でも自分のよく知ってる人のときは悲しくて笑うどころではないですが、義理で出席してるようなときです。こういうことは誰でも経験があると思います。「笑っちゃいけない」という意識が、余計に笑いの発作を誘発するのですね。笑いのツボを突かれるだけではなく、グリグリされているという。
僕も、誰かの法事かなんかで似たような経験をしました。思いっきり厳粛な顔をして、うなだれながら正座していたわけですが、前に座ってるオジサンの髪の毛が寝癖でピーンと立っているのを発見してしまったのが運の尽きでありました。見た瞬間、「う、ぐっ!」と強烈な笑いの波動が身体を貫くわけですが、全身の筋力と精神力で無理矢理押さえ込みます。最初の波動はなんとかやり過ごすことが出来たとしても、寝癖ピーンは去ってはくれません。相変わらず眼前にあります。そんなもんを目にしてしまったら、こちらも無限に持ちこたえる自信もないわけですから、極力目に映らないように、目をつむったり、下をみたり、あらぬ方向をみたりして、なんとか気が静まるのを待ちます。かなり必死ですよね。だいぶ落ち着いて、やれやれ何とか無事に済みそうだと思った瞬間、また強烈なぶり返しがやってきて、またそれが不意をついて出てくるもんだから、思わず「ぐっ!」って声を発してしまったりします。それでも顔を真っ赤にしながら、咳払いのフリをして誤魔化したりします。ほんとに、使い古された言い回しですが、あれは拷問ですね。もう前に座ってるどこの誰とも知らぬオジサンが恨めしいですよ。「寝癖なんかつけて列席するんじゃねー」って。
なんでこんなことを書いてるかというと、別に深い意味はないです。教訓めいた話もないです。ただ、この種の話題に最近たまたま接したからです。久々に読み直した中島らも氏(合掌)のエッセイにも同じようなテーマで書かれていたし、なんの気なしに読んだ漫画「課長バカ一代」にも同じような話が載ってたからです。「おお、似たようなテーマで皆さん書いてるんだなあ」と思うと、なんかうれしくなっちゃって。それだけのことなんですけどね。
らも氏の話は、白夜書房の「僕にはわからない」という本の「お祓いの卓効について」というエッセイに収録されています。彼の笑いのツボにハマったのは、例えば神社での結婚式で挨拶をする際に、神社の境内になぜかトーテムポールが立っているのに気付いてしまったという事態です。「神社に、トーテムポールが、、」と思っただけで強烈な笑いの発作に襲われたそうです。あるいは、神社でお祓いをやって貰う際、祝詞をあげる神主さんの顔が、某プロレスラーと瓜二つであることに気付いてしまい、またまた笑いのツボを押されてしまったとか。これ、だけど、結構ツラそうですよね。僕も立場が同じだったら、笑いの発作に襲われそうです。
「課長バカ一代」というマンガは、野中英次という人が描いてますが、けっこう面白いです。この人の作品は「魁!クロマティ高校」など他にもあり、名前だけは知っていたのですが、あんなに面白いとは思わなかったです。絵は、まんま池上遼一氏のパクリであり、パクリであることを隠そうともしていないのですが、異様にシリアスな劇画タッチの絵に、異様にくだらない話が乗っかるとこうも面白くなるのかという。ああ、でもそれだけじゃないな。この人の場合、ネーム(吹き出し、セリフ)もいいんですね。状況はアホアホなんだけど、セリフだけはシリアスなままであるという。
笑いのツボの話は「課長バカ一代」という、これがまた池上遼一氏の「サンクチュアリ」そのまんまの劇画絵なのですが、その第2巻に出てきます。「反論することを許さない男」「ミスターイエスマン」という異名をとる通産省の切れ者官僚と、企業の命運をかけて主人公が談判に臨むというシリアスな設定なのですが、この官僚の髪型が面白すぎるから反論できないのですね。何か喋ろうとしたら爆笑してしまう。だから何も言えなくなってしまう、「反論を許さない男」ってのはそういう意味です。いわゆるスダレ頭で、ハゲてる部分を隠すために横髪をベローンと前頭部に乗せているという髪型なわけです。でもって、お辞儀をするとその髪がピョコンと立ち、クーラーを入れるとその風で髪の毛がピローンとめくれて立つという。「反論があれば遠慮なくおっしゃってください」と言われても、主人公は死にそうな思いで笑いをこらえているわけです。「どう切り抜ける?口を出してしまえば吹き出してしまうこと必至!」という絶体絶命の状況で、昔覚えた数学の公式を思い出したりして懸命に平常心を保とうとするのですが、ついに強風にあおられた髪がプチンと切れて宙に浮き出すあたりで力尽きてしまうという。
どうです?最高に下らない話でしょう?この超しょーもない話が、これ以上ないくらい超シリアスな作画の上に乗ってるわけです。しかし、よくこんなしょーもない話を考えつくよな。また、それで一本の作品にしたてようとしますよね。凄いですね。こういう純粋に馬鹿馬鹿しい作品は好きです。
さて、笑いの話ですが、あなたは毎日ちゃんと笑ってますか?これってとても大事なことだと思います。
なぜ笑うのが大事なことなの?というと、実はよく分かりません。なんとなく経験的に「大事なんだろうな」と思ってるだけです。深刻な状況に陥っていても、ひとつ笑うだけで気分が明るくなる。それだけではなく、その深刻さが解消されます。ものの見方が変わる。それまで深刻に思えていたことが、実はそう大したことではなかったということにも気付く。
逆に言えば、人間の思考回路というのは、一人でシリアスに考えていくと大体煮詰まるように出来ているのでしょう。「こーなると、あーなる、ああダメだ。じゃあ、こうしたら、、ああこれもダメだ。あああ、もう終わりだ」と絶望的な気分になってしまう。論理的に、真面目にやればやるほど袋小路にはまりこんでしまい、全てが暗く見えてくる。しかし、多くの場合、こういう思考というのは錯覚だったりします。なぜなら、世の中そんなに論理的に廻ってるわけではないからです。予期せぬ想定外のファクターも入り込んでくる。また、ものの見方なんか一つではないし、いろんな観点から見ることもできる。でも、袋小路にハマってしまうとそれが分からなくなる。「笑い」というのは、この膠着状態を解消してくれます。なにかに大笑いすることで、感情や思考がゼロリセットされます。リセットされた新鮮な視点で再び状況をみると、「なんだ、別にどーでもいいじゃん」「ま、いっか」という気分になれる。多くの場合、この「別に大したことないや」という見方の方が正しかったりします。
恋人同士や夫婦間でシリアスな喧嘩をしてたりします。延々言い争いが続き、だんだん疲れてきます。それでも意地張って仏頂面を見せたりしてますが、そのうち自分が何に怒っているのかわからなくなってきたり、そもそも自分が怒ってるのかどうかもわからなくなってきます。しかし、尚も執拗に意地を張ってしまったりするのですが、そんなときに何かの拍子でニヤリと笑ってしまったら、いきなり気分が180度変わります。いわゆる「仲直り」ですが、別にどんな話がついたわけでも、理論的に一つの解決策が提示されたわけでもないです。それでも一回笑ってしまったらもうダメで、再び怒れなくなる。でも、これは健康なことだと思います。
こんなことに解説を付するのは無粋なことだとは思うけど、人間の生理というのは波の満ち引きのように適当に循環していないとならないのでしょう。新陳代謝というか、同じ状況が固着することを嫌う。深刻になったり、怒り狂ったりするのは、それ相応の原因があり、相応のエネルギーが生じているのでしょうが、それを発散するだけ発散したら自動的に気分が切り替わらねばならない。でも、慣性の法則じゃないけど、いったん同じ状況が続くと、どこまでも続こうとする力もある。不満や怒りエネルギーが放出しきったら、本当なら工場の作業のように、「エネルギー放出完了しました」「よーし、閉鎖弁を作動しろ」「明るい感情のパイプ弁を開放し、場をニュートラルに中和しろ」「感情を正常値に戻せ」という行為が無ければならないのでしょう。でも、意固地になってるからそれが出来ない。"going too far
"になってしまう。この感情の慣性暴走状態を強制切断する作用が「笑い」なんでしょうね、多分。
僕らは経験的に笑いの効用を知ってますが、これって医学的、生理学的に根拠があるんだろうか?と、ふと思い、野暮の上塗りではあるのですが、調べてみました。Wikipediaの「笑い」の項目を参照してみると、以下のように書いてありました。
まず生理学的な作用として、「笑い」によって自律神経の頻繁な切り替えが起こるそうです。交感神経と副交感神経のバランスの状態が代り、副交感神経が優位の状態になると。副交感神経は、安らぎ・安心感を感じた状態のときに優位で、この状態が続くとストレスが解消される。これに対し、交感神経は怒りや恐怖を感じたときなどの異常な事態の時に優位になり、その状態が長く続くとストレスの原因になる。
交感、副交感神経系というのは、素人の僕らの耳にもよく入ってきますね。交感神経はいわゆる戦闘態勢的な身体の状態で、ピキピキと覚醒し、血圧や心拍数を上げ骨格筋への血液供給を増大させる。胃腸など消化器系の動きを停め、逆に肝臓のグリコーゲン分解や脂肪分解を促進してエネルギー供給に備える。これから狩りに出かけるとき、あるいは猛獣に襲われるようなとき、全能力を駆使して生き延るための身体のフォーメーションです。「うおお〜!」って雄叫びの一つもあげるような感じ。だから、緊張すると食欲がなくなったりするし、また運動をすると脂肪分解を促進してダイエットになるという。
しかし、こんなことばっかりやってると疲れちゃうから、緊張する必要がなくなったら速やかに平常に戻らねばならない。「全軍撤退」です。そして休養と補充とメンテナンスに入ります。そのため、血圧や心拍数は下がり、唾液や消化器官の活動が戻り、筋肉緊張が解け、睡眠を促す。心配事が解消したとたん、「急におなかが空いてきた」という状況ですね。で、食べたら眠くなるという。
さきほどの夫婦喧嘩の事例でも、必要もないのに惰性で怒り続け、深刻になり続けている状態というのは、交感神経系の暴走状態といってもいいのでしょうね。だから、健康な身体メカニズムはこの状態にブレーキをかけようとする。副交感系に転換させようとする。交感神経系がピキピキ放電しまくっているのを、半ば強制的に回路をぶった切って停めようとするのでしょう。その強制転換スィッチが入る状態、あるいはスィッチそのものが「笑い」なのでしょう。
もっとも、笑いというのは「頻繁な交換」と書いてあるので、何も交感→副交感、緊張→緩和(安らぎ)だけの一歩通行ではなく、その逆もあるということですよね。逆に緊張させ、全身の筋肉や血液循環を促し活性化させる作用もあるのでしょう。それは頻繁に切り替わるということは、要するに体操のようなもので、「はい上げて、はい下げて」「はい力を入れて、はい抜いて」という相反する動きを頻繁に繰り返すことによって、身体のフットワークをよくするのでしょう。深刻な会議をやってて肩がパンパンに凝ってるときに、ひょんなことから一座が大爆笑に包まれたりしますが、そうなるといきなりリラックスしますよね。大笑いすることで深呼吸を繰り返すことになるし、筋肉の緊張緩和が断続的に行われるからほぐれてくる。軽度な運動をしてリフレッシュしたのと同じ効用があるのでしょう。だから、大笑いしたあと、伸びをしたり、眠りから覚めたように一同活気づいたりします。
よく、「笑いとは緊張とその緩和である」と言いますが、生理学的にも頷ける話です。
また、若い女性など「箸が転がっただけでもおかしい」という笑い上戸状態になると言いますが、それだけ健康だということですよね。特に十代は「空気を吸っても太る」というくらい肥えたりするのですが、身体的には最高潮に達しているのでしょう。
話はそれますが、なんで十代にあそこまで身体の充実をみるかというと出産や育児をその時期にやるためなんでしょうね。もともと生物的なメカでいえば、初潮が到来したらもうREADYなわけで、それからの数年間に最高のコンディションになるようにセッティングされているのでしょう。これがヒトのDNAの工場出荷設定。逆に言えば、人間社会で生きていくためには小学校を卒業する時点で基本的なことは習得済になっており、13歳頃には大人として扱われなければならないのでしょう。昔はその頃に元服をし、男子は武士だったら初陣に臨んで殺し合いの場に行く。今は18歳や20歳に大人になるように設定され、実際問題今の日本だったら30歳くらいにならないと「大人」っぽくならなかったりしますが、身体のメカからしたら不自然に複雑な世の中になってるような気もします。いっそのこと小学校だけが義務教育で、中学以上は強制的に一人暮らしをさせ、親の援助も禁止し、学校に行きたかったら自分で稼いで行けくらいにした方がいいのかもしれません。幾つになろうが保護されているうちは大人になれないので。
閑話休題、電車の中で女子高生達がクスクス笑ってたりして、しかもこっちをチラチラみながらブーッと吹き出してたりされたら、なにやら「笑いものにされている」感じがして傷ついたりしますよね。「なにがおかしいんだ、コノヤロー」って気になったりしますし、人によっては「ああ、おれはもう一生女の子にモテない」とか深刻に自信喪失したりするでしょう。よく聞く話です。でも、気にすることはないです。彼女たちは箸が転がってもおかしいのですね。だからアナタが何か変だとしても、それは箸が転がった程度の変さでしかない。つまり全然変じゃない。笑えるときは、なんだっておかしいんですよ。机の上に消しゴムが乗ってるだけでもおかしい、普通の人の普通の顔をみただけ爆笑ってなもんです。気にしないように。
なお、笑いの生理学的効用は他にもあって、身体中の様々な器官に刺激が与えられるそうです。これによって、
★NK細胞(ナチュラルキラー細胞)が活性化しガンの予防と治療の効果がある。自律神経の頻繁な切り替えによる脳への刺激により、神経ペプチド(免疫機能活性化ホルモン)が全身に分泌される。NK細胞には神経ペプチドの受容体があり、NK細胞は活性化される。NK細胞は癌細胞などを攻撃する免疫細胞のひとつ。
★糖尿病の治療にも有効との研究がある。
だそうです。このあたりになってくると、「あるある大事典」的で「ほんとかしら」という気になりますが、たしかに多少風邪気味でダルいときとか、TVその他で大笑いをしているうちに、なんとなく直ってしまったりすることもありますので、その種の効用もあるのかな?って気もします。
医学的には、笑うことで頬の筋肉が働き動くことにより、ストレスを解消する。また鎮痛作用たんぱくの分泌を促進させ、ストレスが下がることにより血圧を下げ、心臓を活性化させ運動した状態と似た症状を及ぼし、血液中の酸素を増し、さらに心臓によい影響を与えることから、循環器疾患の治療に用いられることもある、そうです。
ということで、毎日キチンと笑うのは健康な証拠であり、健康になりたかったら笑えってことなのでしょう。笑う門には福来たる。
ところで、上記のような身体のメカニズムからいって、「笑いのツボ」というのはどう位置づけられるのでしょうか?なんでもないことが、そのときに限って妙におかしく感じ、クスクス笑い出したら最後、身体を二つ折りにしてヒクヒク痙攣し、呼吸困難に陥るほど笑ってしまうという現象はなんなのでしょう?さきほどの理論でいけば、多分その人の身体メカニズムはこう言っているのでしょう。「おいおい、緊張しすぎだぜ。ここらで一発緩和させておいた方がいいぜ」と。本人の意識では緊張を持続させねばと思っているけど、身体の方はそう思っていない。緊張に対する、強力な開放圧力がかかってきて、強大な力と力がせめぎあっているのでしょう。
今、あなたはこの雑文をどういう状態で読んでおられるのでしょうか?おそらくその状況によって、「ふむふむ」と真面目な顔で読み進んでいけるか、顔を真っ赤にしながら笑っているかが決まるような気がします。アクセス統計をとってみると、僕のHPは大体平日の日中にアクセスが多いです。つまり勤務時間中にサボって読んでいる人が多いらしい。ということは、今あなたがシーンとしたオフィスで、自分の机のパソコンに向かってこっそり読んでいる可能性もあるわけですよね。いろんなオフィスがあると思います。編集室や営業部のようにザワザワした活気に富んだ場だったら笑っていても不自然ではないでしょう。しかし、プログラミングや研究室など、広いフロアに沢山の人がいて、でも誰も喋らず、ひたひすらキータッチのカチャカチャいう音だけしか聞こえないような状況だってある筈です。あるいは静まりかえった図書館の閲覧室のPCとか。おそらく、こういうシーンとした状況にいる人が、笑いの発作に襲われている確率が最も高いような気がします。もし、そうだとしたら、ご愁傷様です。今週もシリアスな文章を期待して読まれたのかもしれませんが、ごめんさいね、こんな馬鹿話で。だから、冒頭に「今週はしょーもないよ」と書いたでしょうが。
しかし、まあ、考えると面白いですね。今こうしている瞬間にも、世界の各地で必死になって笑いを噛み殺している人がいるという。何度も書いているように、笑いというのは笑うことが許されない状況に生じます。その状況がキツければキツいほど激しくなる。緊張の度合いが高ければ高いほど、反作用としての緩和圧力も高くなる道理ですよね。葬式とか、入社式とか、深刻な会議の席上でもキツいものがありますが、世の中にはそれとは比較にならないくらい緊張度の高い状況もあるとは思うのですよ。
例えば同じ儀式や式典でも、終戦記念日の合同慰霊祭とかキツそうですよねー。それか、天皇陛下が列席する式典。園遊会とか。皆さん真面目な顔をして並んでいるなか、ひとり笑いの発作に襲われて、うつむきながら肩を震わせている人って、絶対いると思うぞ。僕が天皇だったら、イタズラ心にわざと髪に寝癖とかつけて参列するかもしれない。それも、ゲゲゲの鬼太郎の妖気アンテナみたいに、真ん中だけピーンと立ってるようなヘビーなやつ。そんな滑稽な寝癖で参加し、列席の人達を見回して、「あ、あいつ、発作に襲われているな」とか観察して遊ぶという。
しかし歴史を見渡せば、もっとハードな状況、クスリとでも笑ったら真剣に殺されてしまいそうな状況だってあったでしょうね。ヒットラー列席のナチの会議とか式典とか。あんな場面で吹き出したら、もう即処刑でしょう。思うに、当時のドイツ国民のなかには、死にそうになりながら笑いを堪えていた人がいたでしょう。歴史的な重要な場面。例えば和平交渉とか、条約の調印とか。日本が降伏文書に署名したミズーリー号の甲板にも、必死になって下を向いていた奴がいたと思う。拉致問題で北朝鮮と交渉した席上でも、もしかしたらそういう人だっていたかもしれない。あんな席上で白い歯を見せたりしたら、それこそ後でどんな目にあるかわかりませんもんね。命がけでしょう。
さて、「毎日ちゃんと笑え」って言われても、そんなにおかしいネタなんて無いよ!という方もいるでしょう。
でも、ほら、簡単に笑える方法があるじゃないですか?にらめっこですよ、にらめっこ。あれはルールにして「絶対に笑ってはイケナイ」というのを人工的に作ってるわけですね。だから、無茶苦茶ポーカーフェイスをしている対戦相手の顔を見ただけで辛抱しきれなくなってくる。真面目な顔をしてるんだから笑いを誘発される要素なんか無いんだけど、でも笑っちゃイケナイというプレッシャーが笑いを誘う。苦虫噛みつぶしたような相手の顔が、一瞬崩れそうになり、頬の筋肉がヒクヒクしたら、「よし、もうすぐこっちの勝ちだ」と思う反面、今度は「笑いの感染力」という強力な敵がやってくるという。いやあ、にらめっこというのは、考えてみたら良くできたゲームですよね。
もしあなたが職場の活性化や能率UP、QCやらレクレーションの担当をさせられていたら、毎日一回にらめっこ大会をやることを提唱したらいいと思いますね。でもって週末にトーナメントをやって、毎週チャンピオンを出す。そして、4半期に一度グランドチャンピオンを出して、豪華景品を進呈するという。盛り上がると思いますよ。一日に一回、職場で大爆笑をやらせていたら、そりゃ皆さんリラックスするだろうし、仲も良くなるだろうし、細かいことをイジイジ気にしなくなるだろうし、結果的に作業能率も上がると思います。
笑いの効用について書いてきましたが、笑えばなんだっていいってもんじゃないです。笑い論みたいなことを始めちゃうと、誰しも一家言はあろうから収集がつかなくなりますので(特に大阪の人とかうるさそうですね)、簡単に済ませたいのですが、出来るだけ罪のない笑いが良いと思います。その意味では「箸が転がった」くらいの事柄が最上。逆に、他人を笑いものにしたり、イジメたりする笑い、あるいは誤魔化したり、逃げるような笑いもダメだと思います。嘲笑とか、笑いものにするとか、愛想笑い、卑屈な笑いなんてやつです。太陽に向かってガハハハ!というのが最高品質。
今日本でどんなお笑い芸人が人気なのか知りませんが、日本にいる外人さんや、海外からみて高い評価を与えられるのが志村けんだという話を読んだことがあります。バカ殿シリーズとか(まだやってんのかな)。意外な感じがしますが、理由をきくと納得します。彼の芸は文化的背景や、高度な言語能力を必要とせず、なんの前提知識もないまま誰が見ても笑えるからです。逆に、ここで笑うためには、アレを知っていなければならず、コレも知ってなければならないという芸は、万人に通用しないから評価が低いという。
昔書いたことがありますが、僕がオーストラリアに住み始めた頃、英語がわからずヘレンケラー状態で死んでましたが、その僕が心から楽しめたのが、ミスタービーンでありました。あれはパントマイムみたいなものだから英語能力が要らないのですよ。救われましたね。逆に、オーストラリアのバラエティ番組や、参加者が面白いことをいって会場が爆笑に包まれるような番組は、今見てもピンと来ないから全然面白くないです。あれが分かるようになったら一人前のオージーなんだろうけど、徹底的に現地の文化に染まらないと理解できないです。本当は、子供の頃から皆と同じ学校に行き、同じ遊びをし、同じTVを見て、同じように教会にいき、イースターなどの行事に参加して育ってこないと、あの笑いは理解できない。
でも、笑いというのは前提知識のハードルが高ければ高いほど簡単だとも言えます。日本人だったら、日本語のちょっとした言い間違えだけで笑いにできますし、最近の流行をちょっと取り入れただけで笑いにできます。笑いは緊張と緩和、また緩和の意外性によって生じるので、Aが出てきたらBになるだろうなと予想しているところに突然Cになるから面白いわけです。この「AだったらB」という「お約束」が多ければ多いほど、たくさんの仕掛けが出来るから楽。しかし、それは簡単なだけに芸人さんの「芸」としてみればレベルが低いのだと思う。プロだったら、そんな素人でも出来るような笑いに走っちゃダメでしょうとも思う。ましてや、視聴者参加番組で登場した素人さんが、素人ゆえにドモったり、失敗したりするのをプロが笑いものにして笑いを取るのは「外道」だと思いますね。そういう番組多いけど、あれはプロの芸ではないと僕は思います。本当は外人が見ても、宇宙人が見ても笑えるのがプロでしょ。オタク的な内輪芸だったら誰でも出来る。
ついシリアスになってしまいました。力説してどうする。
最後に、僕自身の爆笑体験をいくつか。
通勤電車などの車内で笑いの発作に襲われて困ったことがありました。あれは南海電車だったかな。朝のラッシュ時が一段落するかどうかという時刻だから、大阪地裁岸和田支部午前10時の弁論くらいのスケジュールでしょうか。椅子に座って松尾貴史氏かなんかの本を、頭休めに読んでいたときでありました。軽妙なエッセイで「んふふ」くらいの感じでリラックスして読んでいたわけですが、ある下りを読んだところで爆笑しそうになってしまいました。
話としてはどってことなく、単に「某アナウンサーが本番で言い間違えた」というだけの話です。そんなに笑いのレベルは高くないのですが、某女性ニュースキャスターが、通り魔殺人などシリアスな事件を報道していて、この恐るべき事件は「付近住民を恐怖のどん底に突き落とした」と言うべきところ、「付近住民を恐怖のズンドコに突き落とした」と真面目な顔でTVで喋っていたというだけの話です。この「恐怖のズンドコ」というのが、僕の笑いのツボを刺激しました。この話は実話らしいのですが、もう経絡秘孔を突かれたようなもので、しばらく車内で悶絶していました。通勤ラッシュは一段落といえでも、周囲にはまだ沢山の乗客がいます。皆さんスーツ着て真面目くさって座ってるわけですし、僕もスーツで真面目にキメてるわけですから爆笑するわけにはいきません。あれはしんどかったですね。「あかん!これは来るぞ!」と思った瞬間、本をパタンと閉じ、腕を組んで頭を垂れ、居眠りの真似をして、外部に悟られないような防衛姿勢を取りました。それでもダメですよね、腕を組んで身体を縮めながらも、全身がクックックッと痙攣してしまうのですね。
さくらももさんこのエッセイを読んでるときも電車内でしたね。このときは連れもいたのですが、ある下りで突然僕が身体を二つ折りにして痙攣しはじめたので、「大丈夫?」と気遣ってくれたのを、息もたえだえになりながら「ここ、ここ、ここ読んでみ」と連れに読ませました。既に僕の笑いの感染力に罹患していた友人は、読むや否や「ギャハハハ!」と爆笑し、二人して電車の座席で死んでました。結構5分か10分くらい発作が続いたんじゃなかったかな。このときは、車内もガラガラであんまり我慢する必要はなかったのですが、それでも多少の乗客はいました。正面の座席に女子高生とかが居て、このときばかりはこっちの爆笑度合の方が高かったので、あっけにとられるというか、薄気味悪そうに見てましたね。
思い出し笑いなんかもツラいですよね。いちいち覚えてないですけど。
先日も歩いているとき、ふと思い出し笑いをして顔がニヤけてしまっていました。道路際で電気工事をしていたオジサンがそれを目ざとく認めて、"Are you happy?"って声をかけてくれました。こういうとき薄気味悪そうに引かないのがオーストラリアのいいところなのでしょうが、言われた僕も、"Yea, I am. Are you happy too?"と聞いたら、両手をひろげて、"Oh, sometimes!"って笑ってました。なかなかいい笑顔でした。爆笑とかそういう笑いではないですけど、この種の笑いが一番いいかもしれません。
これもつい2−3週間前ですが、スーパーでカートを押しながら買い物をしてたら、BGMの音楽に合わせて機嫌良さそうに歌ってるオジさんが居ました。僕と目が合ったオジサンは、ちょっと照れ笑いをしたあと、両手を大きく広げて、"Sing!"(キミも歌えよ!)って言って笑ってました。これもいい笑顔でした。この種の笑いが普通にあるのが、オーストラリアのいいところだと思います。もし、オーストラリアに住んでてこの種の体験をあんまりしてなかったら、それは何か間違ってるかもしれないし、ハッピーになるのをミスってるかもしれません。お取りこぼしのないように。
文責:田村
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