今週の1枚(07.02.26)
ESSAY 299 : 想像力
写真は、Haberfieldの昼下がり。イタリア人の街で有名なライカード(Leichhardt)の隣町。観光名所化、商業化し、軟弱になりつつあるライカードよりも、実はディープで硬派なイタリア人タウン。
想像力、について話をします。
想像力が豊かなことはイイコトだとか、想像力が乏しいと非難されたりしますが、想像力があると何故良いのでしょうか?
想像力というと、いわゆるSFやメルヘンチックな空想とか、荒唐無稽の妄想を連想しがちです。退屈な授業を聞きながら、「今ここに円盤に乗った宇宙人が攻めてきたらどうなるかな」と考え、その情景をリアルに思い描く、、、、そういうことが「想像力」だとしたら、そんなものが豊かにあっても直ちに賞賛されるべきイイコトだとは思いにくいですよね。まあ、楽しいことではあるでしょうし、悪いことではないでしょう。一種の素晴らしい才能かもしれない。しかし、それが貧困だといって非難されなきゃいけないほど必須なモノかというと、やや疑問です。
でも、イイコトとされ、貧困だと非難されるような「想像力」というのは、単なる荒唐無稽な空想力ではなく、より現実的、プラクティカルな思考能力でしょう。この場合の想像力とは、自分の頭でモノを考える力であり、単なる情報/データーを立体的に肉付けして再現する力、それを応用する力なのでしょう。そして、それがあると良いとされるのは、その方が物事をより正確に理解できるからだし、正確な理解に基づいてより正しい判断と行動をすることが出来るからなのでしょう。
簡単な例を挙げると、他人に対して心ない言葉を投げかける人がいます。身体の不自由な人や、あまり他人から触れられたくない過去を持っている人に対して、そのことを無神経に言ってしまう。そういうことを言われたとき人がどう感じるのか、どれだけイヤな気持になるのかという想像力が欠けているわけです。あるいは、物凄い一方的な決めつけをする人。離婚は全て結婚の「失敗」であり、転職する奴は大体根性のない奴であり、母子家庭で育った子供はどこか人間としてひねくれていて、外国人は全員犯罪者予備軍で、交通事故を起こす奴は注意力散漫な奴で、自己破産をする奴はだらしない奴で、、ということを公然と言い放つ人もいます。そういう人は、この種の出来事がどれだけのバリエーションの人間ドラマで成り立っているのか全然分かってないわけで、これまた想像力の欠如の一形態なのでしょう。そして、どうしてそんなに無神経だったり、異様に明快に決めつけられるのか?というと、自分の頭でモノを考えることが出来ないからでしょう。ちょっと立ち止まって考えてみれば、いろんなパターンがあって一概に言えないことくらいわかりそうなものなんだけど、他人がそう言っていたとか、マスコミでそう報道されていたというだけで、「ふむ、そうか」と思ってそれ以上考えない。
「自分で考える」ということの内容は、要するにデーターの分析、再現、応用です。どんな人だって、彼女にフラれたとか、試験に落ちたとか、他人にとやかく言われたくないことの一つや二つあるでしょう。だったら、他人からそういうことを言われたときにどんな気持ちがするか分かるはずです。それを他人に応用すればいい。
また、誰にだって、真実は違うのだけど簡単に誤解されがちなプロフィールがあるでしょう。「一見そう思われがちだけど、実は全然違うのだ」と。普通にこの現実社会に生きてれば、物事というのは実に様々なパターンで発生するのだということを体験してくる筈であり、そういった体験をベースに、もうちょっと考えれば良さそうなのにそれをしない。それが出来ない。
例えば、「AがBを殺害した」という事実があったとして、じゃあAは極悪非道なのか?というと、それは分からんでしょう。なるほど殺人を犯した以上、悪い奴だという推定は働くかもしれないけど断定は出来ないです。なぜなら、殺人という犯罪は多くのバリエーションがあって、真に極悪なものから、限りなく正当防衛に近いヒロイックなものまであります。現実の裁判でも、殺人罪は情状酌量の余地や、減刑や執行猶予がつく率が高いです。以前にも紹介しましたが、有名な尊属殺違憲判決の事例があります。「実の娘が父親を殺した」という事件なのですが、それだけだったら鬼畜生のような娘のように思うけど、それに至る経過が凄まじいです。事件当時その娘さんは29歳だったわけですが、彼女は14歳のときから実の父親(被害者)に強姦されてます。それも一回だけではなく連綿と強制的な近親相姦を受け続けます。その結果5人の子供を産まされ(うち二人は夭折)、6人の赤ちゃんを妊娠中絶させられています。そんな悲惨な境遇から逃げなかったのは、自分が逃げたら妹に害が及ぶと考え、自分の所で父親の毒牙を食い止めようとしたからです。そんな彼女にも職場で相思相愛の人が現れ、やっと幸福をつかみかけたところで、逃げられることを恐れた父親に監禁されてしまいます。その監禁も10日に及び、意識朦朧となり心神耗弱状態になった彼女が父親を殺した、という事案です。1968年の事件です。僕は、そして裁判に関与した法曹関係者も、おそらくはあなたも、この女性を刑務所に入れて処罰する必要があるのか疑問に感じるでしょう。ありていに言えば、こんな父親は殺されて当然というか、むしろ殺されるのが遅すぎるくらいです(延々15年も実の娘を犯し続けてるわけだし)。
このように「人殺し」は全て極悪非道かというと、必ずしもそうは言えないんじゃないかという「バリエーション」があるわけです。このケースはかなり極端な事例だとしても、程度の差こそあれ「人が人を殺す」というのはそれなりに深刻な事情があって初めて生じる出来事だったりします。もちろん、真に極悪なケースもあります。最初から保険金目当てに身体障害者の人と結婚した女性が、愛人と共謀して、風呂場に連れて行って溺死させたという事例もあります。単にクラクションを鳴らされたというだけでキレて、その車を何時間も追いかけ回し、山の中まで追い詰め、乗っていた女性をさんざん強姦したあと、殺して埋めたという事例もあります。この種の鬼畜なケース群が一方でありつつ、殺した方が正義とすら思えるような事例群もあり、本当に一概には言えない。
殺人のように一見明白に「悪い」と決めつけやすそうなことですら、よくよく見ていると一筋縄でいかないのだとしたら、横領だの、破産だのになるとさらに一概には言いにくい。破産だって、カードで浪費しまくったいい加減な人格を想像しがちですが、カード破産者というのはどちらかというと真面目で気の弱い人が多かったりします。真面目だから自転車操業的にカードローンを組み続けて泥沼に陥るわけで、太い人間の方が「無いものは払えん!」と初期の段階で開き直ったりするからむしろ債務額は少なかったりするわけです。さらにカード消費系の破産でない場合、他人の保証人になったとか、取引先から連鎖倒産を食らったとか、不可抗力的なものも多いです。僕が担当した中小企業の専務さんは、会社の業績が傾いているところにもってきて、パートに出て家計を助けていた奥さんが心臓病になり治療費が嵩み家計は破綻に瀕します。それでもこの人は50歳を超えているのに毎朝新聞配達までやるという涙ぐましい努力をしつつも、ついに力尽きて破産しました。酒もタバコもやらず、会社を立て直すかたわら、一生懸命奥さんを看病し、新聞配達までやるという、僕などよりも百倍は誠実な人だって巡り合わせが悪ければ破産はするのです。さらに、離婚だの転職だのになると、論ずるのが愚かしくなるくらい一つのパターンに収めるのは無理でしょう。
現実には千差万別のパターンがありうるのに、硬直的に「AはBだ」と決めつけてしまう。「想像力の貧困」というのは、こういう思考特性を指すのでしょう。
ところで、「想像力」というのは大きな概念であり、大きなだけに内容が今ひとつ曖昧です。それは、人間の思考能力というくらい大きい。もう少し細かく見ていくと、それは例えば、情報を収集し、分析する能力、背景構造を把握する能力、いくつかの事例から共通な特性を抽出してくる能力(帰納能力)、その特性を他のケースに当てはめていく能力(演繹能力)などに分解されるでしょう。別の日本語でいえば、「洞察力」「推理力」「理解力」などにあたるでしょう。
ただ「想像力」とポンと言ってしまう場合、データーだの分析だのといった堅苦しいプロセス面ではなく、人間の自由な思考、鳥が羽ばたいていくようなのびのびした発想の自由さにスポットが当たっているような語感があります。だからといって、こういう分析的なプロセスをしていないわけではないし、ちゃんとやってる。このプロセスがいい加減だったら、自由な想像は、支離滅裂な妄想になってしまいます。洞察とか吟味とか地味なこともやってるんだけど、そういったテクニカルな工程ではなく、人間精神の柔軟さという側面にスポットライトを当てている言葉が「想像力」なのでしょう。
そして、想像力の貧困がなぜ非難されるかというと、分析や演繹というテクニカルな工程の精度が甘いとかそういったハイレベルな話ではなく、「ちょっと考えればわかりそうなこと」でも、その「ちょっと考える」ということをしようとしない精神の怠慢さがポイントなのだと思います。
そういえば、村上春樹の「海辺のカフカ」に、この想像力の問題が盛んに出てきます。もっぱらそれを力説するのは大島さんという人なんだけど、
「想像力を欠いた狭量さ、非寛容さ。ひとり歩きするテーゼ、空疎な用語、簒奪された理想、硬直したシステム。僕にとってほんとうに怖いのはそういうものだ」。
「すべては想像力の問題なのだ。僕らの責任は想像力の中から始まる。In dreams begins the responsibility」
「想像力を欠いた狭量さや非寛容さは寄生虫と同じなんだ。宿主を変え、かたちを変えてどこまでもつづく。」
ここで大島さんが力説していることと、今僕が書いていることが同じことなのかどうかは分からないけど、「ちょっと考えたら分かりそうなもの」を「考えようとしない」ことが問題だという点では同じなんだろうなと思います。ただ、大島さんの場合、「想像力とはなにか」という点よりも、想像力の貧困=考えようとしない態度によって生じる弊害、その害悪性のひどさと普遍性を力説するわけですね。つまり、人々は狭量になり、非寛容になり、テーゼは一人歩きをし、用語は空疎になり、理想な簒奪され、システムは硬直化する、と。
「簒奪された理想」とか生硬な文章が続きますが、要するにこういうことでしょ。
例えば第二次大戦の日本です。戦時中の日本はご存知の通りファシズムバリバリの軍国主義になって、連合軍に喧嘩をすると同時にアジア各国を占拠して植民地化した。だけど、「俺たちは悪いことをするぞー」という地点から始まったのではなく、それなりに理想もあった。民族解放です。西欧列強によって植民地化されかかった日本が、ギリギリの所でそれを免れ、独立国として対抗していった。だから、それを既に植民地化されている他のアジア各国にも広げよう、革命の輸出だ、アジアの開放だ、アジアは皆で仲良くやろうぜ、大東亜共栄圏だという「理想」があったわけです。国の中枢にいる連中がどれだけ真面目に信じていたかはともかく、一般にはそう喧伝されたし、それを信じる人も多かった。それだけ聞いてればイイコトですよ。しかし、それが段々離陸していく。アジアは皆で仲良くだったはずが、日本民族だけが突出してエラいんだ、神の民族なんだと公言するようになり、占領したアジア諸国で日本語を喋らせたり、日本の名前に変えさせたり、強制的に君が代を歌わせたり、街の名前も勝手に日本名に変えたりする。さらに、連合軍側の人間は鬼畜米英で鬼扱いするし、やられそうになっても神様の国だから神風が吹いて大丈夫なんだ(神州不滅)と言い募り、最後にははるか高空を飛び交うB29を竹槍で撃退するために練習したりするわけです。
今の時点でクールに振り返れば、「いい加減、どっかで気づけよ!」ってなもんでしょう。なんでアジア解放という理想から、日本語を強制的に喋らせたりするなんて発想がでてくるんだ?全然解放してないじゃん。横取りしてるだけじゃん。それに、どこから日本人だけ特別なんだなんて思想が出てくるのだ、なんで米英人は一人の例外もなく鬼畜なのだ?普通に考えたら「いろんな人がいる」という当たり前の事実があるわけで、日本人だっていい奴もいれば悪い奴もいる、だから英米人だっていい奴もいるし悪い奴もいるだろうと、「ちょっと考えれば」わかりそうなものなんだけど考えない。理想なんかただのタテマエに成り下がり、ひいては非道な行為を正当化する呪文になる(簒奪された=奪われた=理想)。とにかく日本人だけが絶対的に優秀で正しく、それ以外の外人(独伊の同盟国以外)が全て劣等で悪逆だと決めつけ、例外を許さないという狭量さ、不寛容さ。神州不滅というテーゼは一人歩きをし、最後には言ってもムナしいだけになる(空疎化する)。何かといえば天皇陛下のためという決まり文句で、人々を強制し、ぶん殴るという硬直したシステム。
「海辺のカフカ」では教条的なフェミニズムの女性二人組が登場し、なにがなんでも男女平等、男女トイレの配置や広さとかそういった形式的で杓子定規なことだけで、相手を徹底的に糾弾し、全ての正義が自分達にあり相手は問答無用に悪であるという、どうしようもなく不寛容で狭量な態度が描かれていますが、「想像力が欠けるとこうなっちゃうよ」という例示なのでしょう。
戦争や思想に限らず、この種の出来事は日常的にあります。「想像力を欠いた人達」によって、信じられないような馬鹿馬鹿しいこと、だけど悲惨で醜悪なことが日々行われています。クラスの中のイジメにせよ、マンションの中の村八分にせよ、何かの拍子でいじめられっ子が特定しちゃうと、段々そういうもんだという慣性ががつき、「こいつはイジメても良い人間」ということでエスカレートしていく。「イジメてもいい人間」なんかこの世にいないですよ。当たり前でしょうが。なにか悪いことをして、そのために処罰を受けるんだったらまだ話は分かるけど、一切の限定もなく「こいつは何してもいいの」なんてことがあるわけはない。ちょっと考えればって、考えるまでもなく分かりそうなことでも、いったんそういう流れが出来てしまうと人々は省みなくなる。
なぜ、こうなってしまうのか?人はなぜこうも簡単に想像力を放棄してしまうのか?答は簡単なのでしょう。楽ちんだから。考えるのって面倒くさいですよ。いちいち「本当にそうかな?」と思考を巡らせ、隠された意図を推測し、あらゆる経験データーを総動員し、演繹し、幾つもの仮説を並べて検証し、、、なんて、まあ、面倒臭いでしょう。それよりも、「AはBなの!そうに決まってるの!」って決めつけてやってった方がずっと楽ですからね。
マスコミでAという報道がバーッと流れたら、とりあえずそう思う。そこで、ちょっと待てよ、こんなの今に始まったことじゃないのに、なんで今こんなに大騒ぎするの?これって別にBもCもDも似たようなものなのに、なんでAだけ取り上げて論じるの?って、ちょっと考えればヘンだなってのは分かるでしょう。でも、考えない。メンド臭いもんね。ずっと昔に少年がバタフライナイフを持ってたら猫も杓子もバタフライナイフがどうした記事ばっかりになり、警官不祥事が出てきたらそればっか。まるで「今月のお題」みたいな感じ。「○○って言えばさー、こういうのもあるんだけど」みたいに、トピック中心に話を集めて流していくという、まるで居酒屋の雑談のようなマスコミの報道傾向があったりするわけです。姉歯の欠陥マンションなんて、もう今では忘却の海に沈んでいるでしょう。毒入りカレー事件も、宮崎事件も、三浦事件も、今の若い人は知らないでしょう。またリアルタイムに知ってた人でも結局最後はどうなったのか知らない人が多いでしょう。
ちなみに、宮崎事件は昨年1月に最高裁で死刑確定。毒入りカレー事件は高裁死刑判決に対して上告中。三浦事件は殴打事件については懲役6年確定(執行済)だが、肝心の銃撃事件については最高裁で無罪確定。毒入りカレー事件については、憲法上保障された黙秘権の使用をあたかも悪いことであるかのように報道したマスコミの姿勢が糾弾され、一審の判決文で(黙示的に)マスコミが裁判所に叱られるという異例なケース。三浦事件に至っては、マスコミの暴走はさらにひどく、それに対する三浦氏の反撃も凄まじく、彼が報道機関に対して起こした訴訟は約500件。現時点で判決にまで至ったもののうち過半数を勝訴し、また勝訴的な和解も多い。さらに注目すべきは、実行犯が無罪なのに三浦を教唆犯として訴追しつづけた検察の公判維持そのものが違法だとして、国家賠償を認めた地裁判決がある。高裁、最高裁でひっくり返されたものの、検察の公判活動そのものが不法行為であるとした判例は極めて異例。もっとも銃撃事件の一審有罪判決の方がもっと異例だと思われる(なんせ、無罪(やっていない)人間を唆した人間が有罪という奇妙な判決なのだから、検察官の公判活動よりも裁判官の判決そのものが違法なんじゃないかとすら思われる)。三浦氏は現在、冤罪や犯罪報道について著作や講演活動を行っている。
折しも今、日本では、テレビ番組の「ねつ造」がやり玉にあがってるそうらしいですね。「あるある大事典」だけかと思ったら、テレビ東京の「正月太り解消」がどうのとか、日本テレビ「報道特捜プロジェクト」がどうしたとかやってます。こういう形でマスコミの信頼性を批判的に見る態度や、「鵜呑みにしないで考える癖」がついたら良いのでしょうが、でも、これも一過性のものでしょう。「今月のお題、”ねつ造”」ってことだけでしょ。喉もと過ぎたらまた同じだと思われます。
仮に正しく報道されていたとしても、今度はそれを曲解して伝わることも多いです。その昔、HIV(エイズ)患者の感染について、キスをしたら感染するとかまことしやかに流れていましたが、あれだって、本気で感染しようと思ったら感染患者の唾液をバケツで3杯くらい毎日飲んで、それでもまだ感染することはマレだと聴いたことがあります。唾液毎日バケツ3杯なんて吐き出すだけでも無理だって。それなのに、今度は吊革で感染するとかデマが広まったりしたのを覚えてます。やれやれ。
「あるある事典」がねつ造とかいう以前に、仮に科学的、理論的に正しくても、実際的には問題にならないくらいの確率だって話もたくさんあるわけでしょう。「○○は身体にいい」とかさ。それだって、仮にトマトだったらトマトを毎日100個、30年間食べ続けてどうとかいうくらいの理論的数値だったりして、実際問題意味無いでしょう。仮に根性で毎日100個一ヶ月食べ続けたところで、その効果なんか、タバコを一服吸ったらパーになり、道行く車の排ガスを吸ったらそれで終わりってなもんでしょう。「頭がよくなる○○」なんて騒いでるヒマがあったら、勉強しろ、勉強。騒げば騒ぐだけむしろ頭は悪くなる(批判能力が低下する)実害の方が大きいのではあるまいか。第一そんなに素晴らしい新発見が毎週毎週あるわけないじゃん。
ここで導き出される法則性は、「人間は考えるのが大嫌いな生き物である」ってことなんでしょうねえ。少なくとも、自分の頭で考えるのは面倒臭いと感じる動物である、と。そう思っておいた方が無難でしょう。「人間は」という以上、あなたも例外ではないし、もちろん僕も例外ではない。自分では賢いつもりでいても、毎日必ずどっかで考えることの手を抜いているでしょう。メンド臭いからそのままにしていたりもするでしょう。だから、何を思うにしても、少なくとも一方的に決めつけるのだけは止めた方がいいだろうし、「どうせ俺の考えることなんだから間違ってんだろうな」くらいに思っていて丁度いいと思います。
音楽の基本は反復であり、ループであると言います。同じメロディ、同じリズムが繰り返されると、人間は気持ちがいい。太古の昔から伝わるドラムの響きから、最新のテクノまで同じリズムの反復であり、反復が続くと人間の脳はトランス状態になるでしょう。とりあえず気持ちがいい。なんで気持ちがいいのかな?というと、頑張って考えなくてもいいからなのかもしれません。反復ループだったらすぐに覚えちゃうし、次に何が来るか分かるし、未知の変化に対応しようと頭が構えなくても済む。現代音楽やフリージャズのように、リズムもメロディも二回と同じことを繰り返さないような音楽は聴いていて確かに疲れます。また、変化に富んだ音楽でも、その変化を全て覚え込んでしまえば、頭をそんなに緊張させなくていいから、リラックスして聴けて楽しいのでしょう。交響曲の複雑なエンディングなど、「次はこうなる」と完璧に覚えてしまえば、指揮者になりきって盛り上がれます。だから、ファシズムも選挙も全部反復。「ハイル・ヒットラー」「天皇陛下万歳」と反復し、「山田太郎、山田太郎、山田太郎をお願いします」と選挙でも反復。宗教でも「南無阿弥陀仏」とかの反復。
人間にとって頭を使うというのは、丁度「足を使う」ようなものなのかもしれません。頭を使う度合いに応じて、ウォーキング、ジョギング、全力疾走みたいになっている。試験なんか、まさに全力疾走だったりするから、終わったら知恵熱出して寝込みそうです。でも、日常生活において段々面倒臭くなって歩かなくなるように、頭を使うのも面倒臭くなるのでしょう。ちょっとそこまで行くのにも車を使い、エレベーターやエスカレーターを使い、TVのチャンネルその他でもリモコンを使う。足が退化する、ますます歩くのが億劫になる。同じように、日常のちょっとしたことで足(頭)を使うのは面倒臭いです。これが仕事とか試験とかになれば、イヤ応なく必死で頭を使うでしょうけど、「ちょっと階段を上る」くらいのことだったら面倒臭くなってしまう。
だから、そんなに本気で取り組まなくても良さそうな事柄だったら、もう面倒だから「そういうことにしておけ」ってな感じになるのでしょう。大体周囲で誰かがイジメられようが、無実の罪を着せられて苦しもうが、正直言って自分にとっては「どっちでもいいこと」でしょう。ものすごい冷淡な人間のようだけど、でも、一切の虚飾や偽善を取り去ったら、そんなもんでしょ?毎日ヒマをもてあまして、体力気力充実しまくってるんだったら、「いや、それは正しくないぞ」と戦うこともあろうけど、朝から晩までコキ使われて睡眠時間すらろくに取れないくらいだったら、そんな他人に降りかかった事柄を真剣に考えている余力はないですよ。だから、考えない。一日の仕事を終えて、足が棒のようになってるときは、マンションの3階にある自分の部屋までエレベーターを使おうと思う。二階だって乗ろうと思う。
かくして、疲労&運動不足による足腰の退化によって、歩くのが億劫になるように、考えるのも億劫になる。そして、「メンド臭いから、こう考えることにしましょうよ」という簡単な提案に乗ってしまうのでしょう。たった半年で安部首相の支持率が乱上下してますけど、彼がボンボンであって、迫力も実力もないってのは首相になる前から分かってたことでしょう。別に今はじめてそうなったわけでもないです。何を今更?って気もします。でも、首相になる前には「とりあえず安部さんが適任という具合に考えておきましょうよ」というマスコミの「提案」に乗って、首相になったらなったで、あんまりパッとしないから、「あいつはダメだっていう具合に考えましょうよ」という新提案に乗り換えているだけじゃないスか。
というわけで僕らの周囲には、「もうメンド臭いからそういうことにしとけ」という誘惑がたくさんあります。
そんな中で、では想像力とは何か?というと、ウトウト眠くなってトランス状態になっている脳味噌をバーンと覚醒させる、「覚醒剤」みたいなものなのかもしれません。「覚醒剤」というと、なにかドヨヨーンとした効果を想像しがちですが違います。あれは文字通り「覚醒」します。ドラッグには、ダウナー系とアッパー系があり、多くはダウナー系。酒に酩酊したように、思考能力が怪しくなり、ポワーンとしてくるものです。マリファナ、コカイン、ヘロイン、LSDいずれもそうです。酒みたいなものです。しかし、覚醒剤だけはアッパー系で違う。シャッキ!っとする。僕自身はやったことないけど、覚醒剤事件の被告人から話を聞く機会は何度もありました。皆さん口を揃えて、「髪の毛がピキピキ逆立つようにシャキッとする」と言うんですよね。この「髪の毛」部分は警察の調書でもよく出てくるお気に入りの文例みたいなものです。徹夜でバリバリ仕事をしても全然平気なくらい体中にエネルギーがみなぎり、頭が冴える。だから、酒の対極にある「ファイト一発!」のリポビタンDみたいなものです。実際、一般市民に覚醒剤が浸透する導入部というのは、「すごく良く効く精力剤だから」ということで友達から貰ったりしているのですね。本当に、リポDやユンケルみたいな感覚で始めるわけです。で、あとで覚醒剤と気付いても、もう後の祭り。それほど激しい禁断症状がまだ出るわけでもないけど、なんとなく無いとやってられないようになり、やめられなくなり、常用者になる。そして逮捕されるまでそれは続く。
変な喩えですけど、僕らの周囲は、ダウナー系のマリファナやコカインみたいな報道やら世間の評判やらがあふれかえっているわけです。なんとなくつけっぱなしにしているTVやら、通勤電車の車内広告の見出しから、こういった麻酔成分がどんどん流れ出している。それを無自覚に摂取していると、ポヨヨーンと眠くなってくる。それに対抗するのが、覚醒剤的な「想像力」なんでしょうねえ。ウトウトっとしかけたときに、はっと気付いて、「ちょっと待てよ、そんなワケないだろ?」って。
もう一点だけ付け加えておくと、想像力というのは、情報を立体的に起こしていく力、デテールをリアルに息づかせる力もあるのでしょう。そしてそれは、リアルな記憶力とセットになっているようにも思います。
例えば、圧倒的に無力だった子供の頃の気持ち、寄る辺のない心細さ、かつて自分が通った道をどれだけリアルに覚えていられるか。そこをリアルに覚えていればいるほど、自分が大人になったときの子供の気持も分かるでしょう。自分が病気になったときにやるせなさ、苦しさ、無力感。それをリアルに覚えていれば、病気の人を看病するときも、自然に思いやりと優しさが出てくるでしょう。この人は今どういう気分でいるのか?それはテレパシーとか超能力がなければ分かりません。でも、想像することは出来る。過去の自分の体験がリアルに保存されていればいるほど、その類推や想像は正確になる。
また、想像力は未来予測や計画などにも役に立ちます。ほんと単純なレベルでは、例えば朝に傘を持って出ていくかどうかでも、雨に降られたときのミジメさ、不快さ、靴の中に水が入り込んで一歩歩く事にグッチャ・グッチャ音を立てる不愉快さ。そういったものが感覚的にリアルに再現できるかどうかで、傘を持っていくかどうかの判断もより正確になるでしょう。
自分の仕事に引き寄せて言うならば、海外に行けば何となく英語が上手になると思ってる人は再考を促したいですね(^^*)。中学高校と6年も英語を習うチャンスがありながら、結局どれだけ手元に残っているというのか?なんであのときに勉強しなかったのか。学生時代に、宿題や予習復習をすっぽかしたときの気分をリアルに思い出せる人と、そうでない人がいます。多くの人にとって勉強なんか面倒臭くてやってられないモノでしょう。他に幾らでも楽しいことがある。それを我慢して、教科書を広げる苦痛感。それを良く思い出せばいいです。これまで意思が弱く、やらなきゃならないと思っていながらも出来なかった人間が、たかだか十数時間飛行機に乗っただけで、いきなり意志強固な人間に生まれ変われるワケがない。これまで、ついつい怠けてきた人間は、よほどのことが無い限りこれから先も怠け続けていくと思った方がいい。
もちろんこちらに来れば英語なんか出来て当たり前ですから、英語が出来ないというだけでヘレンケラー的なハンディキャップを負います。呼吸するのも苦しいくらいのプレッシャーを受けるし、オドオド卑屈に周囲をうかがったりもするでしょう。毎日が屈辱の嵐ですよ。だから、日本にいるのとはモチベーションが全然違う。この環境を起爆剤にして、一気にバリバリ勉強できたらいいですよ。また、実際に勉強する人もいますし、僕自身も「早く人並みになりたい」一心で必死こいてやりました。しかし、全員がそうなるわけではない。だって、逃げ道があるのですね。日本人同士つるんで日本語だけでやっていく、という。目の前にハードな道とイージーな道が常にあるわけですよ。そうなると、どっちに転びますか?これまでイージーな方向に転んできた人は、これからもイージーな方向に転び続けるでしょう。立案時点でそう考えておいた方がいいでしょう。今、目の前に、日本語で書かれたガイドブックと英語で書かれたそれがあったとして、どっちに手を伸ばして読むか?です。イージーな方にいくんじゃないですか?
そこで、なるべく日本人のいない環境がいいという話になりますが、ろくに英語も出来ない段階で、100%容赦のないネィティブ環境に叩き込まれたら、そこで奮起して頑張る確率よりも、トラウマでボロボロになり、自閉症になる確率の方が高いですよ。少なくともその可能性は頭に入れておいた方がいい。ここが想像力なんですが、何言ってるのか全然分からない環境で、5分や10分だったらまだしも、何時間もぶっ続けて座ってるのは苦痛です。音を消して映画一本見る方がまだ楽です。それがどれだけ苦痛なのかリアルに想像できるかどうかです。ホームステイの夕食、盛り上がってる家族や他の学生達の中で、ひとり寂しく目の前の白い皿だけを見つめて黙々と食べる食事は哀しいですよ。そこがリアルに想像できない人は、ついつい安易な計画を立てる。でもって、英語環境の中で「居場所なし!」という居たたまれなさを感じ、早々に脱落する。まあ、ここは能力というよりも、性格でしょうね。つまり、自分だけが仲間はずれ、自分だけが周囲から陥没したように無力な存在であるという状況を、あんまり気にしない人と、すっごく気にする人がいます。通例、男性の方が気にする傾向がありますが、いずれにせよ「自分だけが落ちこぼれ」という状況が延々続くことをドーンと受け止められるかどうか、だと思います。
じゃあどうしたらいいの?って、それもまた想像力でしょう?自分の頭で考えようぜ。
僕が自分の頭で考えるには、自分の特性に合ったメンタル管理をどうするか?だと思います。適当にハードな局面もあり、モチベーションを日々新たにする反面、過度にハードに流れて意気阻喪しない程度に「癒し」の場も作っておくと。そのあたりの調整を日常的にやっていくことだと思います。もっと具体的に言えば、「頑張ってる日本人」を探すこと、「話しやすい日本人以外の人」を探すことでしょう。頑張ってる日本人は刺激になりますし、元気の素になりますよ。ローカルのカフェでバイトしようとして毎日毎日トライして、毎日毎日断られて、それでも「いやー、中々大変だよ」って明るく笑ってる人がそばにいたら、「よーし、私も」って思うでしょう。癒しとモチベーションが同時に得られます。逆に、「英語なんか、かったるいだけじゃん」って言ってるような日本人ばっかりだったらやる気もなくなるでしょう。また、あなたの拙い英語をニコニコ笑いながらも真剣に聴いてくれて、ゆっくりクリアに喋ってくれる日本人以外の人がいるのは大きな救いになりますし、格好のプラクティスになります。なんとか通じてニッコリ笑顔を交わし合ったときの喜びはデカいですし、背筋に快感が走り抜けます。これまたモチベーションと癒しが同時にやってきます。じゃあ、そのためにはどうしたらいいか?って、こんな感じに話は続いていくのだと思います。それが、まあ、想像力なのでしょう。
いずれにせよ、海外に行けばいきなり「君も今日から国際人」なんてことはないです。飛行機乗っただけで国際人とやらになれるんだったら、誰も苦労はいらんですよ。それこそ、「ちょっと考えたら」わかることでしょう。でも、麻酔系の情報は多いですからね。反復されるとトランス状態になるしね。ですので、ここで想像力を喚起する「覚醒剤」を差し上げます。
文責:田村
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