今週の1枚(07.02.19)
ESSAY 298 : The Third /結婚生活における第三の人物 〜Ms Esther Perel の”Mating in Captivity”
写真は、Flemington Marketの風景。シドニーの巨大な「市場(マーケット)」は、シティのチャイナタウン(Hay Market)と西部郊外オリンピックパーク近くのフレミントン(Flemington)の二つがあります。運営母体は同じようですが、呼称は、Sydney Maeket, Paddy's Market, Flemington Market, Sydney Growers Marketなどなど入り乱れております。フレミントンにあるのも「パディスマーケット」と呼んだりするし、よう分からんです。ただ、シティのパディスが観光的要素を持っているのに対し、フレミントンはバリバリ地元系です。人種の入り乱れ方も半端ではないしディープで面白いです。Sydney Marketのサイトはここ、 Paddy's Marketのサイトはココにあります。
こちらの新聞を読んでたら、Ester Perel女史の新刊、”Mating in Captivity - Reconciling the Erotic and the Domestic"の紹介が載ってました。いわゆる男女関係本、結婚生活本なのですが、なかなか面白そうでした。今週はこの紹介を。
いきなり余談ですが、この種の男女関係本は洋書の方が大体において面白いし、内容が濃いように感じます。
と言うよりも、どんなジャンルであったとしても平均的に洋書の方が内容が濃いし、レベルが高いのではないでしょうか。日本の本でも名著、好著は沢山ありますが、「こんなもん本にして売るなよ」というものも残念ながら多い。出版王国日本、国民の識字率が極端に高く、読書率の高い日本では比較的誰でも本を出せるし、出版社も沢山あって競争も激しいから、「はじめにマーケティングありき」という売るためだけの本も非常に多い。似たような本が短期間に大量に発刊されるのも日本的な光景かもしれません。
僕がまだ日本にいる一時期、年間300冊くらい本を買ってた時もありました。社会に出てまだ間がない頃ですが、もうどんなことでも知りたかったし、知る必要もあったし、面白かったです。いい本も沢山ありましたけど、買って損したって本も多い。段々学んできて、パラパラと立ち読みしたら大体の当たり外れも分かるようになり、極端なハズレは少なくなりましたけど。一方、僕もよくは知らないけど、西欧では本を出すということはかなり大変なことのようです。本を出すとか、作家になるというのは、もう一流の文化人の仲間入りであり、「人類の英知の広がりに貢献する人」ということで相当な尊敬を受けます。逆にいえば作家になるということはそれだけ大変だし、かなり内容的にレベルが高くないと出版してもらえません。
だからこそ洋書のハズレ率は低いのでしょう。男女関係本、恋愛本なんかも、そのへんのタレントやアイドル、自称他称文化人や有名人が一杯飲み屋の雑談みたいに書いている本というのは少なく(それが一概に悪いとは言わないですけど)、ファミリーカウンセリングをやってるバリバリの臨床心理学者とか文化人類学者とか、プロ中のプロが長年の経験とデーターをもとに自説を発表するという感じです。それだけにボリュームもすごかったりしますが、1ページあたりの内容も濃い。また、プレゼン慣れしてるからか、書き方、説き方が上手です。比喩の使い回しや、パンチラインという「落ち」の持っていきかたもセンスがあったりします。
さて、この Ms Esther Perel、エスター・ペレルさんの新刊、”Mating in captivity - Reconciling the Erotic and the Domestic”ですが、なんて訳したらいいのかな。直訳すれば「捕獲された中での交配〜性欲と家庭的なるものの和解」とでもなるのでしょうが、「囚われたSEX=エロスと家庭の融和」くらいに意訳しておいた方がいいのでしょうか。それでもなんのこっちゃかよく分からんですね。英語で書くと一発で意味がわかるんだけど、日本語にすると意味がわかりにくくなるという好例ですな。
この本、かなり世界的なベストセラーになっているようです。現在でアメリカ、カナダ、ドイツ、オランダ、ベルギー、イタリア、イギリス、さらにオーストラリア、ブラジル、フランス、イスラエル、ノルウェー、スウェーデン、スペイン、台湾、トルコでも発売予定のようです。でも日本は蚊帳の外です。日本でも輸入洋書として今年の1月から売られてはいますけど。ちなみに、esther perelでグーグル検索してみると、日本のサイトでは7件のみ。その殆どが書店サイトです。日本以外のサイトで検索すると4100件のエントリーがあるのですけど。だから、日本的には全く無名でしょうし、今書いているこのエッセイが、この人を紹介する書店以外の日本語サイトの第一号になるかもしれないです(Google的には)。
エスター・ペレルさんは、アメリカに20年住んで、マンハッタンで開業している結婚や家族関係のセラピストですが、生まれはベルギー。ホロコーストの生存者という両親のもとに生まれています。彼女のサイトは、http://www.estherperel.com/にあります。8カ国語が堪能であり、実際6か国語で仕事をしています。フランス文学、教育心理学で学士号をダブル・ディグリーで取得し、心理・表現療法の修士号を取ったあと6つの研究機関で研究をしています。現在、マンハッタンの自分のクリニックでカウンセリングをしていると同時に、各国の大学や機関のメンバーであったり、各国の新聞やラジオ番組のレギュラーであったりします。専門分野における業績その他を列挙したらこのページが終わってしまうくらいありそうなので、上記のサイトを参照ください。
さて、その内容ですが、いわゆるセックスレス夫婦についての話から、結婚生活や愛情とエロスの関係、さらに一夫一婦制を支える人間心理の検証などのようです。
セックスレス夫婦については、これが増えているとか問題だとかいう議論は、日本の内外を問わずここ十数年レポートされ、論議されてきましたが、この本の特徴は「それは悪いことなのか?」と根本的に問いかけ、それって「むしろ自然なことではないか?」と発想の転換を促し、なぜなら「性欲と愛情とは時として相矛盾する存在だからだ」と説いています。
ただし、記事の紹介文でも書かれていたけど、この論旨は物凄く誤解・曲解されがちであり、事実歪曲して紹介されることも多いようです。「セックスレスでない方がヘンだ」とか、「不倫や浮気のススメ」とか、本人は一言もそんなこと言ってないのに、勝手におもしろおかしく一人歩きしていってしまう危うさがあります。が、抑制された視点で読めば、その論旨は「ふむ、なるほど」って腑に落ちますし、言われてそうで意外と言われてなかったことかもしれないなって思います。
これまでの通念では、夫婦の人間関係がうまくいってるカップルはよくセックスをして、そうでないカップルはあまりしない。だからセックス回数が少ないということは、何か夫婦の人間関係に問題があるのではないかと思われたりします。また、夫婦間の関係改善を導くカウンセリングなどでは、健康なセックスが出来るようなったらOKみたいな捉え方がなされたりもします。いわば、「幸福なカップルは幸福で健康なセックスをする」という神話があったりするわけです。
ところで、ここで注釈。精力的に欧米人よりもずっと劣る淡泊な日本人の場合、そんなに性欲が強くないから(=だからパラセックスともいうべきフェチとか覗きとか痴漢とかブルセラなどが流行る〜精力いらなそうだもんね)、結婚後一定期間を過ぎるとカミさんサービスは「盆暮れ正月だけ」みたいな風潮が昔からあったりします。しかし、調査報告などを見るとこっちの人って50代になってもまだまだ毎週ガンガンやってたりするようです。だからこそ余計にセックスを夫婦関係のバロメーターとして考える度合いも日本以上に高いのでしょう。これが注釈その1。注釈その2は、カウンセリングに関する一般的な捉え方の違い。歯が痛くなったら歯医者に行くような感覚でカウンセリングを受けにいく風土も前提として頭に入れておくとよいでしょう。注釈その3は、結婚記念日に夫婦で一緒に居られないような仕事は即刻止めるべきだ、という夫婦や家族と仕事の優先順位や価値観の差です。先日、知り合いの方に「デセプション・ポイント」という本を貸していただいたのですが(「ダヴィンチ・コード」の作者の著作)、そこにはアメリカの大統領選挙に出るというバリバリの上院議員が、仕事のために結婚記念日に家に帰らなかったという事から、実の娘から「結婚記念日に帰らないなんて!」と極悪評価を受けている下りがありました。日本人的感覚からしたら、大統領になろうという人物は公私ともに超多忙であり、結婚記念日もクソもないのが普通に思うのだけど、あちらでは大統領であったとしても結婚記念日は大事にしなくてはならないというのが一般通念なのでしょう。結婚生活というものへの価値観の違いがあるということですね。
そこらへんの前提が分からないと、「夫婦関係改善」を求めて、夫婦揃ってカウンセリングを受け、そこで「セックスの頻度」が日常的に議論されるという感覚が分からないと思います。だから、日本にそのままスライドして持ってきても、当然のことながらズレは生じるでしょう。しかし、なお、本質的な部分は同じことだと思います。
僕が読んだ記事、シドニーモーニングヘラルド紙(SMH)、2007年2月17日付の"Domestic duties in an erotic world"は、http://www.smh.com.au/news/world/domestic-duties-in-an-erotic-world/2007/02/16/1171405446862.htmlにあります。おそらくあと数週間はこのURLに残置されているでしょうから、ご興味のある人はお読み下さい。また、同日付けの新聞の別冊GW(Good Weekend)にも、カバーストーリーとして"It takes three to tango"というタイトルで、この著作の要約文がかなり長く掲載されています。
記事の方は短いので全文を紹介してもいいのですが、イントロ部分は割愛して、本論の部分を多少引用します。
Conventional wisdom is that sex is a metaphor for the state of a relationship. Trouble in the bedroom meant trouble with the relationship. The way to treat it was to fix the relationship, and the sex would naturally follow.
これまでの通念では、SEXは夫婦関係の良好度を測るバロメーターであった。ベッドルームでの問題はそのまま夫婦関係の問題を物語った。夫婦関係を良好に修復すれば、SEXもナチュラルに回復するものと思われていた。
But in her practice she was seeing many couples who reported they were still very much in love. It was just that their sex life was dull, or non-existent.
しかし、彼女のカウンセラーとしての臨床経験によると、単にセックスの回数が少ないか、あるいは全くしないというだけで、それでもお互いに豊かな愛情を注ぎ合ってるカップルは沢山存在するのである。
Her fix was counterintuitive. Often the problem was not lack of intimacy in the relationship, it was too much intimacy. One of the central tenets of modern marriage is intimacy, but she says that many couples confuse love with a merging of two people, something which is a bad omen for their sex life.
彼女の処方は直感に反するものである。往々にして問題は夫婦関係の親密さの欠如によって発生するのではなく、むしろ過剰な親密さによって発生するのである。現代における結婚の中心的な教義はこの親密さなのであるが、多くのカップルが愛情と二人の交わりとを混同しており、これはセックスライフという観点からすれば良くない兆候である。
Once, marriage was considered an arrangement - love was a bonus.
ひとたび結婚というものが二人の生活の取り決めになると(=日常生活になると)、愛情はボーナスになる(あったら儲けものくらいのもの)。
At the heart of Perel's book is the dilemma of modern marriage in a society in which advertising suggests everybody can have almost everything: how do you desire what you already have?
ペレルの著作のエッセンスは、現代社会における結婚生活のジレンマである。現代社会とは、広告で盛んに唱えているように、全ての人が全てのものをゲットできるという社会である。しかし、既に保有してしまっているものを渇望することなど出来ない。
The book is part of a growing movement looking at a paradoxical outcome of the sexual revolution: in these days of contraception, empowerment of women, a society saturated with sex, where pornography is almost mainstream, couples are having less sex - at least, says Perel with a laugh, with each other.
この著作は、現代の性的革命によってもたらされた矛盾した諸相を見つめ直そうというムーブメントの一端を担っている。避妊の一般化、女性の地位向上、ポルノがもはやメインストリームですらある、性的なものを強調しようとする世相、そこでセックスをしなくなるカップル==「少なくとも-」ペレルは笑いながら付け加えた「お互いの結婚相手とはね」。
Many therapists advise couples to rekindle their relationships by reconnecting through being open and frank - "by getting to know each other". But she says that knowing isn't everything. Many couples do nothing but talk to each other every day.
多くのセラピスト達は、お互いに心を開き率直になることで心をつなぎ直し、夫婦関係を修復していこうとアドバイスする。「もっとお互いのことを知ろう」と。しかし、彼女は、お互いを知ることが全てではないという。多くのカップルは何もせず、ただ毎日話をしている。
To create more passion, she suggests, they work on ambiguity.
"Eroticism can draw its powerful pleasure from fascination with the hidden, the mysterious, and the suggestive." Perel writes about the nature of sexual desire. Eroticism, she says, requires separateness. The caring that fosters love can block erotic pleasure.
情熱的なものをもっとかき立てようと思ったら、ペレルは言う、それはある程度の曖昧さが必要だ。
隠されたもの、ミステリアスなもの、示唆的なもの、そういったものから性的欲望というのはパワフルに立ち上がってくるのだと、ペレルは著作で性的な欲望の特質を分析する。エロティシズムというのは、お互いの距離がある程度開いているときの方が喚起される。愛情を育んでいく互いの気遣いが、逆に性欲を減退させてしまうのだ。
Love is selfless, desire is selfish.
愛情とは無私なもの。しかし、性的渇望はきわめて自己中心的なものである。
At a talk in New York's SoHo district, full of the art gallery crowd that typifies the area, one of the first questions comes from a woman: what's the solution?She describes such questions as particularly American; they always want solutions, particularly quick ones. This issue, she says, is not one with a solution, it's something which is managed.
ニューヨークのソーホー街のアートギャラリーには、彼女を講演を聴きに満杯のソーホー街的な聴衆が詰めかけていた。ある女性からの最初の質問は、「どうやって解決したらいいの?」だった。ペレルは、こういう質問というのはとてもアメリカ的だという。アメリカ人は常に解決方法を求めるし、それも即効性のあるものを求める。しかし、この問題は「解決」という形で処理されるものではないとペレルは言う。解決するのではなく、マネージしていくものなのだと。
But one bit of advice is to plan. The hot sex of paperback novels and the movies is always spontaneous. But she says that in a long-term relationship, whatever "is just going to happen" almost certainly already has.
しかし、少しだけアドバイスを。小説や映画に出てくる情熱的でセックスは常に自発的で、突発的なものである。でも、結婚のように長期的なものの場合、それが何であれ将来的に生じるであろうことは、ほぼ間違いなく既に発生しているということだ。
A common assumption is that it is women who lose desire as marriages mature. But Perel says she sees many men who find it hard to eroticise the mother of their children. She has tried to reach a male audience, but the majority of the people who turn up at her talks are women, and the majority of journalists who write about her book are women. (For some reason, they tend to write about their own sex lives.)
結婚生活が長期化すると女性は性生活に関心を失う、という通念がある。しかし、ペレルは、男性においても同様のケースを多々見てきた。自分の子供の母親に欲情出来ないという。ペレルは男性の聴衆にもっと参加してもらえるように色々試みてきた。しかし、彼女の講演の聴衆の殆どは女性であり、彼女の著作を紹介するジャーナリストの殆どは女性である(どういうわけか、彼女たちは自分自身のセックスライフを書こうとする傾向がある)。
Sometimes Perel's writings buck social ideals so that they almost sound blasphemous.
Erotic desire, she says, does not necessarily play by the rules of good citizenship - it is not politically correct. While women have spent half a century seeking equality, often sexual relationships thrive on inequalities of power.
時として、ペレルの著作は社会通念に反し、そのため冒涜的な言動に写ることもある。彼女は、エロスに対する情動は、善良な市民のルールに必ずしものっとって展開されるわけではないという。それは政治的にも正しいとは限らない。女性達は半世紀にわたって男女平等を模索してきたが、不平等性のなかに男女の性愛が燃え上がることもしばしば起こるのである。
Such ideas are open to misinterpretation. During our interview she is furious and appalled that a British female journalist wrote that she was advocating that couples should treat each other as trash; another wrote that Perel's theory was that sex and marriage are not compatible.
このような考え方は非常に誤解されがちである。我々のインタビューの最中、ペレルは、イギリスの女性記者に対して立腹していた。その記者は、ペレルの著作を「夫婦はお互いをゴミのように扱うべきだ」と唱えていると紹介したのだ。また、他の記者はペリルの理論を「愛とセックスは両立し得ない」と要約していた。
Perel lists some of the misinterpretations that have been put on her work. One of her sayings is: "Monogamy needs to be negotiated." She says people, whether they realise it or not, negotiate it, but often not explicitly. But that does not mean Perel advocates adultery.
Or because she says not all affairs are signs of trouble in the marriage; Perel says that affairs are good for the marriage.
これらの数多くの誤解のいくつかは、既にペレルの著作の中で紹介されている。「一夫一婦制は補正される必要がある」と彼女は言う。実際、多くの人々が、それを認識しているかどうかは別として、一夫一婦制を修正している。ただし公然とではないが。しかし、そのことは、ペレルが不倫や浮気を奨励しているという意味ではない。また、必ずしも全ての浮気が結婚生活の問題を意味するものではないとペレルが論じたとしても、それは「結婚生活にとって浮気はイイコトだ」などと言ってるわけでもない。
これは単なる紹介文記事でしかないので、当然のことながら、「え?それってどういう意味?」「で、結局どうしたらいいの?」という感じで消化不良を起こすでしょう。消化不良を解消したかったら、洋書を買って読んでください。日本語訳はまだ出てないようですから(いずれ出るんじゃないかな)。
ただ、それでもエッセンスの部分は分かりますよね。
性欲というのは、元来、非日常的で、突発的で、ミステリアスで、刺激的で、スリリングであった方が燃えます。恋に落ちたカップル、新婚当初の夫婦だったら、まだお互いにミステリアスな部分が残ってるからセックスに励んだとしても、結婚して5年、10年と経ってくるともはやミステリアスな部分は少なくなってくる。そうなると倦怠期になるし、セックス的にもダレてくる。
ここでペレル説が出てくるわけですが、「最近抱いてくれないから、もう愛されてないのね」「セックスを拒まれることが多くなったから、もう僕には関心がないんだ」ってわけではないってことなのでしょう。それどころか、深い相互理解、お互いに対する優しい気遣いや思いやりが進むほど、エロティックな衝動の燃料になるミステリアスな部分が減っていくわけですから、セックスが疎遠になっていったとしても当然とすら言える。愛情が進化し、定着し、日常生活化すればするほど、ケダモノのような情欲は影をひそめる。分からない話でもないですね。
まだ「セックスレス」なんて言葉が日本語に入ってくる前の話ですが、誰かがどっかで冗談まじりに書いていたけど、ウチはセックスレスですよということを言うのに、「仕事とセックスは家庭に持ち込まない!」とか、「”家族”とはセックスはしない!」とかいうのがあって、「わはは、うまいこと言うな」って笑ったことがあります。だから、セックスレスなんて言葉の有無に関係なく、現象としては昔っからあったのでしょう。
ましてや現在。風俗だの、不倫だの、セフレだの、援交だのが世の中に満ちあふれているかのような世相。まあ、真実こういったアクティビティが「満ちあふれ」ているのかどうかは知りませんけど、少なくとも僕のメールボックスにはこの種のDMメールで満ちあふれています。これだけ性的刺激にあふれてたら、愛する妻や夫のいる家庭環境こそ、この世で最も「非エロ」的な環境になっても不思議ではないです。封建社会や中世の禁欲的社会、あるいは今でも一部のイスラム圏のように女性が髪や顔を表に出すことすら禁じられて、社会全体が徹底的に非エロになってたら、家庭こそが最大にエロティックな場になりえたでしょうけど、今はその正反対ですよね。街を歩いても、コンビニ入っても、電車に乗っても、TVを見ても、インターネットやっても、四六時中エロティックな刺激に晒されていたら、しかも商業広告だからかなり先鋭に刺激的なモノに晒されていたら、それ以上に刺激的なものを長年の連れ合いに発見しろ、それも毎日毎晩発見しろって言われたら、そりゃあ無理ですわ。
だから、夫婦においてセックスがご無沙汰気味になったとしても、それをもって夫婦関係の危機だと即断する必要はないんじゃないか?ってのが、ペレルさんの所説なのでしょう。カップルが、それはイケナイことだ、ヘンだ、モンダイなのだ、我々は危機にあるのだと思いこんでしまうことの方が、却って問題を深刻にするのではないか、と。
さて、GW誌に掲載されている"It takes three to tango"の方は、この著書の要約を延々4ページにまたがって書かれています。また、当然のことながらより突っ込んだ考察が紹介されています。なぜ自由な現代社会で人々は一夫一婦制を欲するのか、一夫一婦制の何が重要なのか。カウンセリングを行った多くのカップルのケースを通じて、カップルには常に第三者"the third"の存在が見え隠れすること、その「第三の人物」のセクシャル面での結びつき、その功罪などが説かれています。なかなか面白いのですが、ちょっと突っ込みすぎていてうまいこと紹介するのは難しいです。パーッと読んでみて、印象に残る部分だけを適示しておきますね。
まず、繰り返し登場するのが「第三の人物/ザ・サード」の存在です。この第三者は、端的には夫婦の一方の浮気相手だったりするわけですが、より広く「第三の人物が登場するということもありうる」という人間の心理の機微を言ってます。幸福な結婚生活を送り、相手に対して特に大きな不満を抱いているわけでもない妻が、学生時代の憧れの人とふとしたことから再会してドキンとときめいたりするとか、子供の担任のハンサムで清潔そうな教師にふと心奪われるとか、そういうことです。それでいきなり何かが始まるとか、そんなドラマチックな展開があるかどうかに関わらず、そういう「第三の人物」は、どんなカップル、どんな夫婦においても登場するかもしれないこと。現実に登場しなくても、はたまた明確に意識しなくても、その種のファンタジーをふと心に描いてしまうことはあるだろうということです。少なくとも、これから50年にも及ぶであろう結婚生活において、一瞬たりともそんなことはない!と断言することは難しいでしょう。
そしてこの第三者の存在ですが、単純に「不貞」「ふしだら」とかいって切って捨てるのは簡単なのですが、それをもっと「有効活用」するというか、軽い意味では結婚生活の「スパイス」として生かすこと、重い意味では、結婚相手が唯一絶対でなければならないという神話の呪縛の息苦しさを緩和する作用をもたらすこともあるということですね。実例として、妻とのセックスが疎遠になった夫が、ふとしたことから職場の若くてセクシーな女性と不倫関係に入り、そこで5年余りもズルズルとスリリングでワイルドなセックスをしちゃったケースが挙げられています。でも、奥さんと別れてその新しい彼女と結婚するなんてことは全然考えないわけです。じゃあ不倫相手はただの火遊びなのかというと、それはそれなりに真剣。だけど、今の結婚を壊す気にはならないという。夫 or 妻を問わず、そーゆーケースってありますよね。ここで問題は、それが良いとか悪いとか正しいとかいう倫理的なことではなく、なぜそういうことが起きるのか?という心理学的なメカニズムの解析であり、それは結婚というシステムにおいて構造的に発生しうるものなのか、そうだとしたら結婚システムの何がそうさせるのか、その対処はどうすべきか?ということです。
高度に自由化し、豊かになった現代社会では、人は全てを欲しがるし、欲しがるように(商業広告などで)煽られてもいます。そして、愛と結婚の絶対唯一性と不可侵性の神話みたいなものは強固になり、人は配偶者に全てを求め、配偶者以外に求めてはならないというドグマがあります。結婚において夫婦は全てを話し合い、全てをシェアし、何一つ隠し事はなく、それでお互い100%充足しなければいけないという。でも、言葉を逆にすれば、それは自由の束縛であり、プライバシーの欠如であり、独立心の浸食でもある。一個の独立した人格、しかも豊かな現代社会においては誰も彼もが一昔前に比べればかなりワガママになっているわけで(じっとひたすら堪え忍ぶなんか出来ない)、そういった肥大したエゴにおいては、「全てをシェア」という絶対的な相互拘束は、頭では理想的な愛として賛美したとしても、本能的に自由を求めて反発する部分もあるんじゃないか?と。
不倫や浮気というのは、性的渇望などの単純なものでなく、人間が一個の動物として持っているケダモノ的な自由への渇望や、ONESELF(自分が一個の自分であること)への欲求とリンクしているのかもしれない。そして、その隠された情動を引き出しにくるのが「第三の人物」であったりするのではないか、と。不倫関係で溺れるようにセックスに励んだとしても、しかし今の結婚生活は絶対に壊したくないという人がいる。何故離婚→再婚しないのか?と問えば、"Because I love my wife (husband)"と躊躇わず答えられる。だとすれば、皮肉な構造なのだけど、その不倫は結婚生活を破壊するというよりは、むしろ結婚生活を補強するものとして機能しちゃったりするわけです。"So this wasn't an exit affair. Maybe more like a stabiliser, where the third person helps keep the other two in place." " With Naomi(不倫相手),he may have found the single missing piece, but with Zoe(奥さん) he has the rest of the puzzle"
結婚や愛に関する絶対的な神話や理想や倫理があまりにも高邁でありすぎ、教条的すぎるのも考え物だということで、多少は「遊び、ゆるみ」があるくらいの方がいいんじゃないかということですね。イマジナティブな「第三の人物」がいるかもしれないよ、現れるかもしれないよ、でもそういうこともあって当然じゃないかくらいの心持ちでいた方が、むしろ結婚生活はナチュラルに展開していくように思われると。
この「第三者」を有効利用するのが、一夫一婦制の「補正」であり、実際に「有効利用」しているカップルのケースがいくつか紹介されています。それは例えば浮気の自由を話し合って正面から認めてしまうカップルであったりします。ただし無制限に認めるのではなく、「同じ街には作らない」「共通の友人には手は出さない」などいくつかのルールを話し合って決める。それで具体的に浮気し放題なのかというと現実には何もないけど、「そういうことも起こりうる」という状況が、精神的な解放と、お互いの距離を適当に広げる機能を持つ。はたまた、定期的にスワッピングパーティに参加しているカップルなども紹介されています。方法は色々ありうるのだが、想像上の人物であれ、単なる可能性であれ、第三の人物を想定することで、夫婦関係を弾力的&柔構造に補正していこうという試みです。
しかし、そもそも人々はなぜ愛や結婚にそこまで絶対的な理想モデルを求めるのか?一夫一婦制というのは何なのか?なぜ支持されているのか?歴史的に言えば、一夫一婦制というのは、男性社会における一種の”資産管理”的発想から出てきたと言われます。自分の妻の産んだ子供は誰か?誰に家と資産を相続させたらいいのか、DNA鑑定はおろか血液型すら存在しない昔において、それが分からなくなったら混乱するから「浮気は絶対ダメ」というルールを作った。そこには愛情はあんまり関係なく、家族法というよりも財産法みたいな感じだったのでしょう。そして男性は浮気し放題だったりするわけだけど(側室とか妾とか)、女性は「貞婦は二夫にまみえず」とかいって強固な倫理観として定着させた。
現代ではもうそういった発想は影をひそめ、自由恋愛で結婚するわけですけど、一夫一婦制は残った。なぜか?なぜ我々は愛の神話にこだわるのか?本当に愛する人が出来たら、もう他者とセックスすることなどあり得ない筈であり、もし他に肉体関係を結んだらそれは許されざる裏切りであり、愛の神話をブチ壊す冒涜的な行為である、と、誰が決めたの?なぜそう信じるの?本当の本当は、実は信じてないんじゃないの?と。戦後、フェミニズムが広がり、女性の解放が進み、性の自由が広がった。さらに、ゲイやレズビアンの社会的認知、ホモセクシャル同士の結婚なども世界的に認める傾向にあり、性同一性障害や性転換についても理解が進んだ。先進諸国において、これ以上の自由はなかろうというくらい自由になったにもかかわらず、我々はなおも「本当に愛する人と〜」という教義は頑固に守り続けている。なにが我々をしてそうさせているのか。
この点について面白い考察がありました。それは、赤ちゃんと母親の関係です。絶対的に無力な赤ん坊の時代、母親というのはこの世の全てというくらい絶対的な存在です。肌を寄せあい、乳首を口いっぱいにほおばりながら、母親との絶対的に幸福な親密さの中にいます。人生最初の親密な経験は、「それが裏切られる」という人生第二の経験に続きます。周囲の状況が分かるにつれ、母親というのは必ずしも自分だけを見ていてくれているわけではないことも分かります。自分の父親を愛しているわけですからね。「他に男がいた」という経験をするわけです。そうなると母親はもはや絶対的に自分に忠実な存在ではなくなる。我々はこの裏切りと喪失感とともに育ってくるわけです。現代の自由社会は、自由なだけに「何がどうなるか分からない」という不安定感につながり、この孤独への不安をむしろ増幅させる方向に働く。失うこと、捨てられる事への不安を常に背負い込みながら、他者への絶対所有願望が育まれてくる、というわけです。そして、母親との間の初期の充足感が肉体的接触(頬ずりや授乳)とセットになっていたため、裏切られること、喪失する不安は、この肉体的接触と不可避的にリンクし、それゆえ「他者とのセックス」という肉体的な事象が、究極の裏切り形態として心にインプットされているのではないか、と。
「ふむ、なるほど」と「本当かしら?」という気持ちがないまぜになる所説ですが、確かに愛や結婚の絶対性と、一時的な肉体的接触に過ぎないセックスとを、なぜにこうまでリンクさせなければならないのか?と言われると、「なんでやろね?」って部分もあります。自分が不倫をする場面においては、セックスはセックスでしかない、家庭や結婚はまた全然別の次元にあるのだという気分になるくせに、相手が同じ事をすると怒り狂うという。自分自身で体験して、「あれは別。別次元」ってことをイヤというほど実感しているなら、新たに発見した真理を相手にも当てはめれば良さそうなものなんだけど、なかなかそういう気分になれない。変じゃん。なんでなんかな?って考えていくと、やっぱりどっかで「捨てられる恐れ」というのがあり、その恐怖感は肉体的なものとディープなところで密接につながってるのかもしれません。
以上、本を紹介していうる新聞の紹介という、紹介の紹介、孫引きですが、こーゆー記事がありましたということです。
アメリカでは去年の秋に刊行され、オーストラリアでは来月(3月)に刊行されるそうです。35ドル。英語を勉強していて、こういう話に興味のある人はいかがですか?
文責:田村
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