今週の1枚(07.01.15)
ESSAY 293 : 対外価値と対内価値
写真は、Stanmore駅。
僕の仕事は、オーストラリアに着いたばかりの方々の水先案内であり、メインには語学学校の選び方&紹介ですが、同時に現地での生活基礎スキルも短期集中でインストールしてさしあげることです。いわばオーストラリアの入口の案内所みたいなものなのですが、その後もお付き合いが続く場合が多いです。やれシェア先が問題が起きました、バイト探しとか、履歴書の添削とか、ラウンドの準備とか、荷物の預かりとか、永住のための方策とか、永住した後のお仕事上のあれこれとか、家の賃借その他の保証人とか、枚挙にいとまがないくらいやってます。昔取ったキネヅカ的に、法律相談なんかが舞い込むこともあります。これらのことは、あんまり「営業」感覚では捉えてません。仕事だから、アフターケアだからって感じでもなく、ほとんど友達感覚でやってます。最初にゲストルームに泊まる人がほとんどですので、友達というか、もとシェアメイトみたいな感覚になりますので。
そのような相談事の中に、いよいよ帰国の段になり、日本に帰った後どうしたらいいかという進路相談や人生相談みたいな話になることも往々にしてあります。そこで、その人の意向なりをベースに、「どうしたもんかねえ」って一緒に考えたりするのですが、これは僕にとってもいい「課題」というか、考えをまとめたり、深めたりするいい機会にもなります。
とりあえずごく平板に考えるならば、日本社会に戻って、そこでの就職市場なり周囲の評価という点からしたら、「オーストラリアに行ってきた」なんてことは、ほとんど何のメリットにもならないでしょう。日本社会ってのは自閉的だったりしますから、海外でのスキルや経験を的確に引き出したり、活かしたり、評価したりするシステムが未成熟なのでしょう。「見る目」がないっていうか、そういったスキルが求められる機会が少ないというか。
オーストラリアに限らず海外に暮らした人を、戦力なり人格という視点で僕が評価するとしたら、「洞察力、全体把握力」と「異常事態に強くなる」って部分に力点を置きます。海外というのは、たとえオーストラリアのような楽チンな国であったとしても、何一つ自分の思うように物事が進まなかったりします。また、想定外の方向からガツンと一発食らう事態も連日のように発生します。そこでサバイバルしていくためには、これまでの自分の固定観念を捨てねばなりませんし、同時に普遍的なものの見方を洗練させ、推測力と洞察力を高めていかねばなりません。
分かりにくい言い方かもしれませんが、「普遍的なものの見方」というのは、「人間は美味しいものを食べるととりあえず機嫌がよくなる」とか「人間というのは嘘をつかれると腹が立つ生き物である」という認識です。「およそ人というものはこういうものだろう」という原点みたいな部分。その上に、各国各社会の特殊性から、妙なシキタリやカルチャーが乗っかっているのですが、どこまでは人類普遍の法則で、どこからがケッタイなカルチャーになるのかをしっかり見極める必要があります。また往々にしてこの両者はオーバーラップしてたりします。例えば、「社交的」「お世辞」「おべんちゃら」「皮肉」の違いというのはどこまでが人類普遍で、どこからがカルチャーなのかを見極めることとか。また、言葉もシステムも分からないで暮らしていこうとするなら、直感力や推測力が必要です。言っていることの10%くらいしか分からなくても周囲の状況から、「多分こういうことを言ってるんだろう」と当て推量をします。外れるときももちろんありますが、外れたらキッチリ自分にツケが返ってきますので、いきおい必死に頭をふりしぼって推測しようとします。コレを連日やってるわけですから、シャーロック・ホームズのような推理力がつきます。
さらに、予想外のアクシデントが生じるのは日常茶飯事ですから、そういった異常事態に慣れます。待っていても誰も何にもやってくれませんから、自分で全部解決しなければなりません。必要とあらば、第二第三の手段をその場で思いつき、ためらいなく実行していかねばなりません。物怖じしてる場合ではないので、どんどん周囲の人に聞いたり、ヘルプを求めたりしなくてはなりません。要するに打たれ強くなるし、しぶとくなるし、インプロヴァイズ(即興)で物事をやっていけるようになる。騙されたり、助けられたりもしますから、人の怖さも、人の情けもよく分かる。人を見る目も出来てくる。
ひっくるめて言えば、人間としての総合的な戦闘能力が向上している筈です。特に決められたことをキチッとやるような局面ではなく、予想外の事態がポンポン飛び出してくる現場、種々雑多な人々と付き合わねばならない環境において、その能力は発揮されるでしょう。これは仕事においては非常に強力な能力です。「甘ったれたところがない」「自分の頭で考えることが出来る」「不完全な環境でも目標を遂行できる」というのは、「仕事が出来る」ための必要条件でもあるでしょう。
僕が日本で誰かを雇うようなことになった場合、「海外に行ってきました」という人と面接する場合、そのあたりの能力を見るでしょうね。質問内容も、「オーストラリアで何をやってきましたか」という質問ではなく、「あっちで暮らしていて一番困ったり、ピンチに陥ったことは何ですか?」って聞くでしょう。そして、そこでの状況打開方法を聞くでしょう。また、「困った状況」の説明や表現の中で、どのくらいその人が甘ったれたモノの考え方をしているかを見るでしょう。そこで、「そんなもん、”困った”うちにも入らんわ」という事態で困ってる人、あるいは勝手に期待して勝手に裏切られて困ってるような人はパスですね。これらが臨機応変の適応能力を問う質問だとしたら、洞察力を見るために「オーストラリアの家族観と日本のそれとの最大の違いは何ですか」「それは何故そうなるのかと思いますか?」あたりを聞くでしょう。そこで、「おまえ、1年に居ってその程度の分析しかできんのか」という人はパス。
だって、仕事になったら予想外の出来事なんか普通に生じますよね。今日中に納品しなきゃいけないのに運送トラックが事故にあってしまったとか、来るべき人が来ないとか、契約書締結当日に重大なミスを発見したとか。職場で上司から言われる言葉の中で最も多いのが、「何とかしたまえ!」だと思うのですが、そこで「何とか」出来るやつと、何とも出来ない奴とに分かれると思うのですよ。何とも出来ない奴は使えないから雇いません。あなただって雇用者だったらそうするでしょう。臨機応変の現場処理能力は、だから大切です。一方、洞察力や全体把握力というのは、「今、○○社とはちょっとややこしい関係になってるから、うかつな事は言うな」というニュアンスを最大限に理解できるかどうかという形で現れるでしょう。例えば、良い取引先だったのだけど、最近どうも倒産するかもしれないという噂がある。まだ噂段階だから軽率に動くわけにもいかないけど、ここで大口受注をして踏み倒されたら大損害になるかもしれない。でもあからさまに距離を置くような冷たい対応したら、もし噂が間違っていたときに困る。そこで、友好関係は維持しつつ、大口受注は微妙に避けるという難しい対応をしなければなりません。そんなときに状況把握が甘い部下が、ボコボコ受注を取ってきて、得意げに自慢してたら、首でも絞めたろうかと思うでしょう。
だから、海外でハードに揉まれてくる事は、帰国後の人生において大きなプラスになると思ってますし、就職においてもその点は十分に評価されてしかるべきだと思います。しかし、それはあくまで僕はそう思うというだけの話で、他の日本企業の人事担当の皆さんがそうするという保証はないです。多分、しないんじゃないかしら?(^_^)。
なぜそうしないのか?これは単に彼らや日本企業がアホだからってことではなく、それなりに理由があるのでしょう。理由のその一は、上に述べた現場対応能力なり、全体洞察力というものは、何も海外に行かなくたって身に付けられるということです。すなわち、普通の仕事環境で揉まれていれば、誰だってある程度は身に付くし、新人時代にさんざん叩き込まれるでしょう。むしろ仕事の現場でビシバシやられていた方がより速やかに身に付くかもしれない。
理由のその2は、海外生活で身に付けたモノと、日本企業/社会で要求されるモノとが微妙に違っていることです。海外で身に付くモノとして典型的なものは、例えば「広い視野」だったりします。同じ年のヨーロピアンと一緒に飲みながら、「オレは国籍2つ、永住権は3つもってるよ。30才になるまであちこち住み歩いて、一番やりやすそうなところに落ち着くつもりだ」なんて語られたら、「そうか、そういう生き方もあるのか」と視野は広がるでしょう。なんせタメ年でそういうスケールで生きてる奴が目の前でビール飲んでるわけですからね、人生観変わっても不思議ではない。しかし、そういうスケールで日本社会に戻ると、今度は適応障害を起こしたりします。日本社会というのは、あれこれ見えないコード(規範)が張り巡らされていますし、いかに「なりたい自分になるか」ではなく、いかに「周囲から期待された人間像を演じるか」に重きがおかれ、自我を制限してじっと辛抱することが求められる社会ですからね。むしろ視野狭窄気味の方が適応しやすいです。多少会社でイジメられようが、ツライことがあろうが、「これしかないんだ」と思いこんでいた方が辛抱はききますからね。
最近はそうでもないとか、誇張しすぎって意見もあると思いますが、でも汚職が発覚しそうになったら、因果を含められた中間管理職あたりが自殺しちゃう社会であることは変わらないでしょ。校内でイジメが発覚したら校長が自殺しちゃったりする国でしょ。なんであれ、一人の人間が自ら命を断つというのはハンパなことではないですよ。そこまで追い込まれるわけでしょ。そのプレッシャーの凄さは、イスラム過激派のカミカゼテロと変わらんですよ。そんな社会で、あまり広い視野を持ちすぎると、「別にこの会社にしがみつかなくてもいいじゃん」「別に働かなくてもいいじゃん」「別にこの国に住まなくてもいいじゃん」ってなっていって辛抱がきかなくなります。
これらの事情を前提に企業の人事担当者から見るならば、「スケールが大きな逸材だ!」とプラスに評価するよりも、「気にくわなかったらすぐに辞めてしまう、いい加減な奴なんじゃないか」とネガティブに評価する可能性の方が高いような気がします。日本人が海外に行った場合、いかに今まで抑圧していた自我を解放し、どんどんエゴを出していくかという点がポイントになります。別に、別にワガママになれって言ってるんじゃないですよ。自分は何をしたいのか、自分はどういう人間なのかということを常に自覚し、「私はこう思う」と周囲に発信してないと、一人前に人とつきあえない社会だからです。だって、誰も「察して」くれないんだし、向こうはあなたの情報発信を待ってるんだから。逆に、日本に戻ったら、このような自己発信は抑えて、「どうぞお好きなように」「適当にお願いします」という控えめで受け身な態度が求められるでしょう。「あなたの色に染めてください」みたいな。染めるんだったら、元の色は白い方がいいです。よく染まります。そこで最初からギンギラの原色に染まってる人材だったら、「染めにくいな、こいつ」と企業側としては思うでしょう。でもって、「やめとこうか」って話になりがち。要するに帰国子女がイジメられるのと構造は同じです。
第三の理由として付加するならば、「海外のハードな環境で修行してきた」なんていったって、本当にそんな「修行」の名に値するほど頑張ってる人々なんかごく一握りだということです。パックツアーに毛が生えたような、何でもかんでも日本にいる時点で時点で準備しまくり、サポートから何からお金で解決できることは解決し、安全第一、安心第一で海外に行っても修行にも何にもならないです。当然、そんな姿勢では現地社会でバリバリやっていくなんてことは無理だし、ホームステイ先で挫折し、学校で挫折し、日本人同士固まって周囲の悪口や愚痴を言い合うようになってしまう。留学で来ていながら、遅刻気味になり、最後には学校に通わなくなって出席数不足で移民局に通報されるってケースも結構聞きますから。ちなみにオーストラリアの学生ビザの条件は、出席率80%です。学校側としても、病欠はカウントしないとかいろいろ下駄をはかせてくれるけど、目に余る場合には移民局に通報します。そうする義務が法律上課せられているからです。でも通報するというのはよっぽどの場合ですよ。で、そのよっぽどの場合になって通報され、学生ビザが取り消されると、今度は「こんな酷い目にあった」「最低の学校」とあちこちで不満をぶちまけ、あろうことか親までそれに同調して「ウチの子供がこんなヒドイことをされた」と訴えるという。
このように「修行」からはかけ離れた生活をしつつ、同時に日本社会にはありえない大きな自由があります。例えば、「旅の恥はかきすて」ってヤツですね。職場や家庭では善良なお父さんだった人でも、旅先になったら酔った勢いでセクハラしまくり、買春しまくりとか、その種のパターンです。日本の会社で働いていれば、イヤでも朝になったら起きなければならないし、満員電車に乗って職場に向かい、頭も下げねばならない。でも、こっちにいたら、昼まで寝ていてもかまわないし、何にもしなくても誰からも何も言われない。楽なもんです。
結局どういうことになるかというと、修行はしない代わりに、ひたすら自堕落になるってことです。「怠け癖だけがついて帰ってきた」ってやつですね。こういう人材は、日本企業&社会では求められません。言うまでもないことだけど。
こう書くと、じゃあ海外なんか行ってもしょうがないじゃないか、行かない方がマシじゃないかって思われる人もいるでしょう。ある意味そうですよ。Partly, Yes です。海外でキチンと修行し、しっかりした自我を持ち、自己主張も出来、広い視野を身に付けてきたらいいかというと、逆に煙たがられるリスクがある。かといって、何にもしなかったら単に怠け者になって帰ってくるだけで、ますますダメだという。頑張ってもダメ、頑張らなかったらもっとダメってことで、それだけ考えてたら、行かない方がずっとマシだってことになるでしょう。そういう側面はしっかりあります。ハッキリ言って、海外経験が日本社会でプラスに評価される場合よりも、マイナスに評価される場合の方が多いと思ってます。「行くだけ損」みたいな感じですね。
だったら、こんなホームページなんか止めたら良さそうなのですが、やめません。それどころか、どんどん皆さんに海外に出て来ていただきたいです。なぜなら、ここでいう「損」というのは「対外的な評価においては」という限定付きであり、それ以外に「得」することが沢山あるからです。ただ、そのあたりの構造はちゃんと理解しておかれると良いと思います。
海外で暮らし、自我を確立し、どんな人にもきちんと自己主張出来るようになり、臨機応変に対処できるようになり、且つ広い視野と全体洞察力がつくことは、これは誰がなんと言ってもプラスでしょう?人生においては宝石のような価値があるはずです。いや、宝石どころじゃないか、酸素とかタンパク質の必須アミノ酸レベルに重要なことだと思います。それがどれだけ貴重なものか、生きていくためのリソースになるかは幾らでも語れます。
問題は、こういった大事な価値というものは、それほど他人から評価されるものではないし、就職市場という局面においては尚のこと見えにくいという点にあります。しかし、他人から評価されなくても、だからといってその価値が減じるわけではないです。対外的にはほとんど評価されないけど、内面的な価値、あるいはベーシックな価値として絶対的に存在はすると。
難しいですか?例えば、これまで親の期待どおり生きてきて、周囲に求められる人格を演じてきた人がいたとします。優等生タイプにありがちなパターンですが、なまじ適当に頭が良く器用なだけに期待に応えられちゃうから始末が悪いんですよね。子供の頃はほめられたらうれしいし、成績が良ければそれなりの優越感もあるでしょう。しかし、段々成長するに従って、「なんか違うんじゃないか?」「私ってもともとはそういう人じゃないのかも」って違和感が出てきても不思議ではないです。最近よく言われる「自分探し」なんてのもそういう文脈から出てくるのでしょう。自分なんか探し回らなくてもココにいるじゃん、爆心地じゃん、グラウンドゼロじゃんって思うのですが、それが分からない。ある意味、これだけ周囲からの期待やプレッシャーが強く、それに合わせてるだけで1日が終わってしまうような社会では、そうなっても不思議ではないですよ。というかそうならない方が不思議ですらあります。そうならないのは、僕のようにド典型的なB型気質で、周囲の思惑なんか屁とも思わないような連中くらいでしょう。
本来の自分と周囲の期待とが、何から何まで100%合致することなんか、まああり得ないです。絶対どっかでズレはある。考えてみればそういったズレは物心ついた頃からある。とっても仲の良い友達の○○ちゃんと遊んでたら、「あんな成績の悪い子と一緒に遊んでちゃいけません」と言われて、「そうかあ?」と思う。そこにすでにズレがある。しかし、子供の頃はボキャブラリもないから、「お言葉ですが、成績の問題と人格の問題は別だと思うのですが?」って明瞭に反論することもできない。優しいオジサンとお話してたら、いきなり手を引っ張られて「知らない人と話をしてはいけません!」と言われる。「でも、あのオジサンいい人だよ」と言うこともできない。自分の感性、自分の判断、自分の価値観を否定され、否定され、別の「そうかあ?」と思う価値観を押しつけられてきたんじゃないか。もちろんそれが「しつけ」というものであり、一概に悪いことではないけど、なにかそればっかりだったような気がする。そんなこんなで昨日の誕生日で30歳になってしまった。とりあえず期待通り大学も出て、期待通りいい就職もしてきた。ただ結婚だけは期待通りできない。こればっかりは譲れない気がする。じゃあ、どうしたら満足なのか?って言われると、自分でもよく分からない。なんかこのまま違和感を抱えて一生生きていくんだろうか、世の中そんなもんかしらねー、なんだかねーってな気分になったりもするでしょう。30歳だったらまだいいけど、これが50歳、60歳でそうなる人だっているわけですよ。熟年離婚なんかもその一つの現れでしょう。
ねえ、昨日読んでた書類でさえ、今日になったら何処に行ったのか分からなくなってデスクの周囲を探し回ってるわけですから、30年も40年もほったらかしにしておいた「自分」が「どっかいっちゃった」って不思議ではないですよ。だから、早い時点で「自分」というものを確認し、キープしておくことは、長い人生において計り知れない価値があるでしょう。だって、何十年単位で間違った方向に進んでたりもするわけですから。それと同時に、その「自分」というものが、単なるワガママとか、脆弱な虚栄心、単なる思いこみや勘違いだったら、人生もまたショボくなるわけです。ゆえにありとあらゆる生き方や、「人間のあり方」というパターンを見てまわり、「そうか、そういう生き方もアリなんだ」と沢山知っておいて、「さて、自分は」とやっていった方が間違いは少ないです。人生の終わり頃に、「そうか、そういうのもアリだったんだ!しまったー!」と思ってもかなり手遅れですからね。
というわけで、自分を探すこと、より広い選択肢の中から自分を規定していくこと、さらにその自分を磨いていくことは、とってもとっても大事なことだと思います。だけど、「しっかりした自分を持ってる」ということは、他人からは分かりにくい。勿論、ちょっと付き合えば、「ああ、この人はしっかりしてるなあ」って分かりますけど、ぱっと見にはわかりにくいです。ましてや就職戦線などで、○○大学卒とか、なんたらの資格を保有とかいう分かりやすい特徴に比べたら、かなり外から判別しにくいです。分からないことはないけど、そこまで手間暇かけて企業が見てくれるかどうかというと疑問です。さらに、企業側としては、あんまり自分というものを持ってなくて、言われるままに染まってくれるロボット的人材の方がやりやすいという側面もあります。だから、対外的にはそんなにメリットはない。
じゃあ就職に役に立たないから意味無いのかといえば、そんなことはないのは上に述べたとおり。ハッキリ言えば、就職なんてケチな話よりも何倍も価値があります。日本人の生涯年収は全部ひっくるめて3億円と言われます。その3億円の全人生を貫くベーシックな部分に関することと、たかだか給料20万かそこら×数年間の勤務×仕事の内容は無味乾燥なデーター入力の「就職」と、どっちが大事ですか?
ということで、これらの価値は、なによりまず本人にとって意味があります。他人にとって意味があるというよりは、自分にとって意味がある。だから、たいがい評価的にはゼロないしネガティブであっても、それでビビる必要はないってことです。
上記の例は、「自分が自分であることに自信がもてること」というほんの一例に過ぎないです。他にも、ちょっとやそっとではメゲない精神力、メゲずにやっていくうちに道が開けていくという貴重な「成功体験」、井の中の蛙が大海を知ることによって得られる世界的な座標的視座、今まで思いこまされてきた価値体系を、自分なりに納得いくように組み替えていく作業、どれをとっても大きな資産になるでしょう。
しかし、どれもこれも非常に貴重な価値であるにも関わらず、どれ一つして、対外的&就職的に大きなメリットをもたらすものではないです。そーゆーものではないのですよね。
この、そーゆーモノではないのだ、ということは、日本に帰国される際、肝に銘じておかれるといいと思います。
海外でしっかり頑張ってきた、多少なりとも成長出来た気がする人は、そこで得た様々な宝物は、まず何よりも自分にとって価値があるのだということ、その価値を第三者に理解してもらおうとは期待しない方がいいです。言うならば、自分の写ってる写真とか、自分の日記のようなもので、自分にとってのみ意味がある、と。逆に言えば、第三者から積極的に評価されなくても、メゲる必要は全くないですよ。大事なモノは、それが大事であればあるほど外部からは分かりにくいんですよ。
じゃあ、外部から分かりやすいモノって何なのかといえば、TOIECで900点とりましたとか、どっかの学校を出ましたとか、資格を持ってますとかそういうことでしょう。でも、そんなものをあんまり追い求めない方がいいです。あれは外部社会との交渉するためのアイテムに過ぎないです。就職に有利な資格を持っていた方が、対外的には物事が進めやすいというだけです。でも、それが自分にとって何の意味があるの?といえば、実はあんまり意味ないんですよね。例えば、僕は今でも日本の法曹資格は持ってますから、いつでも日本に帰って弁護士登録することは可能です。その意味で「資格アリ」ですけど、でもそんなことは今の自分に何の意味があるのか?といえば、限りなくゼロです。日本法律実務について幾らかの知識がありますが、別にそんな知識があっても、自分自身はそんなに法的問題を起こさないので、あんまり意味ないです。クソの役にも立たないといったら言い過ぎですけど、対内的・自分的にはたいした意味もない。そんなことよりも、近所の安くて美味しいレストランを知ってる方が日々の生活においては意味があります。TOEIC900点取った人なら分かると思うけど、900点取ったって、結局本当の現場に出たらそれこそ屁の突っ張りにもならない。目の前の外人さんの言ってる事がわからなかったら、テストで何点取ろうが何の意味もない。学校の成績だってそうです。例えば、自動車免許を取る際の学科試験で何点取って合格したかなんてことは、日々運転している現実においては何の意味もないでしょう。
というわけで、日本に帰られる方(に限らないけど)、(自分にとっての)対内的な価値と、世間一般に対する対外的価値というものを、ちょっと分けて考えてみると良いと思います。この二つを峻別することによって、頭が整理されてくることもあろうでしょうから。また、海外においては、どちらかといえば、対外的価値が増加する方向を目指すよりも、対内的価値を豊かにする方向で考えるといいんじゃないかってことでした。
文責:田村
★→APLaCのトップに戻る
バックナンバーはここ