今週の1枚(01.11.26)
雑文/幻想としての年齢・実体としての年齢
11月25日日曜日のシドニーは、殆ど真夏のような暑さで、うだっておりました。
まあ、この時期、このくらい暑くなること自体は、そう珍しい話でもないのですが、それまでが冬を思わせるように肌寒い日々が続いていただけに、この変化はキツいです。先週は、もう「全部雨、雷雨、嵐っ!」てな感じで、うんざりするほど雨ばっかり降っておりました。太陽が出なくなるといきなり寒くなるのはこちらの通弊で、夜間などはストーブつける日もありました。もう食べるものも、湯豆腐とかオデンとか、温かいものが恋しかったですね。ビールなんか全然飲みたくなかったという。それが一夜明けたら、ドピーカンで、真夏。麦茶とスイカが良く似合う。
なんか今年はちょっと差が激しすぎませんかね?毎年こんなもんでしたっけね?
大体去年のオリンピックなんか、9月だったというのに、結構あったかかったですよね。夜出歩いても別に寒いという記憶はなかった。あれはあれで異常に温かかったのでしょうけど、でも、あれ9月でしょう。今はもうすぐ12月ですよ。北半球で言えば、3月と6月。3月にTシャツ着ていて、6月にストーブつけるってのは、なんぼ荒っぽい大陸型とは言いながらもスゴイものがあります。
よくこっちに来られる方からメールで、「今、シドニーはどんな気候ですか?」と聞かれるのですが、こんな調子ですから答も一筋縄ではいきません。
この気温のジェットコースター的変化に翻弄されて、未だにコロコロ風邪を引きます。わかっているけど、引いてしまいますね。お客さんが立て込んでるときは、結構気合が入っていて風邪も引かないのですが、皆さんをステイ先にお送りしたりして潮がひくように誰もいなくなってホッとすると、気合が抜けるのか、すぐにヘナチョコになってしまいますね。
やっぱり、トシってのも大きいのでしょうね。なんせ、もう、厄年ですもんね。
オーストラリアって四季の変化が鈍いから時が止まってるような感じがしますし、それがひいては年を取っていってるという感じをも薄らがせるのでしょうか、年齢を気にする機会が少ないです。
これが会社とか組織に毎日出勤していて、毎年新しい人が入ってきたりしたら、多少なりとも感じるものはあるのでしょうが、自宅兼事務所でのんびりやってると、他人と比較してどうって感じもしません。お客さんも、10代から60代まで様々ですけど、話していてそんなの違和感がなかったりするのですね。
年齢というのは、肉体的年齢と社会的な年齢があるのでしょう。性別に肉体的性差と社会的なジェンダーがあるのと同じように。そんでもって、社会的な年齢というのも、あれも結構イリュージョンである部分も多いなあと思ったりします。
年齢感覚というのは、おそらくは国や民族、時代が違えば、また違ってくるのでしょう。現在の日本でずっと生まれ育ってきた人々は、その人々に共通する時系列の基軸みたいなものがあって、A時代とかB時代とかいうマッピングが出来ていて、それに照らし合わせて、若いとか、年を取ったとかいうのでしょう。
古くは、大正生まれ、戦中派、昭和ヒトケタ、団塊の世代、などなど、その時代時代で社会の状況がまるで違うから、その時代に生きてきた人間の物の考え方もまた変わってくる。それほど大きな区分ではなくても、TVのアニメ番組で何を見ていたのかということとか、共通一次かセンター入試と呼んでいたかとか。東京オリンピックをリアルタイムに知っているとか、万博を知っているとか、バブルを知っているとか。
また、20代の人と40代の人とでやってることが全然違っていれば、年齢の差というのは、実際の生活行動の差、ひいてはそれに基づいて養われる発想の差になっていきますから、結果として全然人間の成り立ちが違ってきたりもするのでしょう。学校を卒業するとか、就職するとか、結婚するとか、子供が出来るとか、身体がそろそろガタがくるとか、教育ローンがのしかかったりとか、、、。
でもそれって、「昭和30年代生まれの日本人」とか、「2001年現在の日本の40代」とか、たまたま偶然の諸条件に規定された「役割」を演じてるだけって話もあるんじゃないでしょうか?あなたが例えばキューバに生まれていたら、全然違った年齢的なアンデンティフィケーションをするでしょう。あなたが本土中国人だったら、おそらく文化大革命をリアルタイムに知っているとか、天安門を知っている世代とか、そういう形で自己規定するでしょう。
でも、そんなのって、言わば偶然じゃないですか?まあ、そりゃ、人は外界からの情報をもとに人格形成していくわけで、どういう具合に育って、何を見てきたかによって、その人の人格は否応なく決定されるわけですから、人格なんて所詮偶然の産物でしょ、と言ってしまえばそれまでです。そうであっても、自主的に何を見るか、何をするかの決定はできるわけですし、同じ時代に生まれたからって、全員が同じ人格になってるわけでもないですし。
こうしてオーストラリアで、自分で勝手に生きているとですね、そういう皆と同じ共通の時間軸が段々薄らいでいくのですね。またこっちでは、気にさせてくれるような出来事が少ないですし。だもんで、年齢なんかも気にならなくなってきます。真剣に、「あれ、今、俺いくつだっけ?」って、電卓叩いたりすることもあります。
社会的な年齢的なお約束から自由になってしまうと、年齢感覚ってのはかなりいい加減なものになります。また、僕の場合、目が極端に悪いことの埋め合わせのように、髪と皮膚は丈夫ですから、抜け毛で悩むことも無いし(伸びすぎて困るくらいです。そういえばオーストラリアでは髪が伸びるのが早いってどっかの国の人がこぼしていたとか聞いたけど、そうですかね?)、皺らしい皺もないし、あんまり意識することも少ないです。
このいい加減な感じというのは、時計を持たないで一日を感覚的に計る場合、早朝、朝、昼前、昼、昼過ぎ、昼下がり、夕方、宵のうち、、、くらいの大雑把な区分になるのに似てます。
毎年百名くらいの10代から60代まで様々のお客さんをお迎えし、接していれば、反射的に否応無く自分の年齢も意識せざるを得なくなりそうなもんですが、これが意外とそうならないんですね。面白いことに。
僕が接するのはオーストラリアに来たばっかりの人達です。もうこちらに着いてしまえば、日本的なお約束というか呪縛はかなり無効になってるのですね。そして、見知らぬ外国に来たという高揚感、これからここで全部一人でやっていかねばならないという不安感と緊張感、これって、年齢を問わず誰もが同じなんです。そして、これからやっていくことも殆ど同じ。つまり、公共交通機関を自分で乗りこなしてみたり、英語で苦労してみたり、宿探しで苦労してみたり、落ち着いた頃に日本食が恋しくなってみたり、、、これまた同じなんですね。
だから、こちらにくると、20代と40代の年齢の差があまり気にならなくなります。というか、同じようなものにしか思えなくなります。日本の話をすれば、それなりに差が出てきますけど、日々の話をしてる分には、やれチャイナタウンで安いところを見つけたとか、だれそれがシェア探しで苦労しているとか、そういう話になるから、ほんとあまり変わらないのですね。特にワーホリや留学で来られている人はそうです。on the move の流動的な立場だから尚のことそうなるのでしょう。日本年齢とはまた別に、「オーストラリア生後3ヶ月」「オーストラリア3才」という具合にまた新たにカウントが始まるような感じです。
よく、語学学校などで、「私はもう30代の大台に乗ったから、あまり若い人ばかりじゃない所の方がいいです」とかいうリクエストがあったりします。気持ちは分かるのですが、こちらに来ると、この年齢感覚の消失、といって言い過ぎならば「薄らぎ」も考慮に入れておかれたらいいと思います。
社会的なお約束から解かれてしまったら、人間なんか、子供と大人と老人しかいないんだなってな気分になりますよ。
オーストラリアと日本とで、年齢に関するお約束の仕方が違うという面もあると思います。
日本は、年齢に限らず、性差、立場によって、行為規範がキメ細かく律されています。「○○たる者、○○すべし」というオキテが細かく、量が多い。
たとえば、「30代の男性が背広も着ないで、平日の昼間に公園でアイスクリームを食べている」という情景は、オーストラリアではメチャクチャ平凡な光景であるわけですが、日本ではちょびっと「お約束違反」だったりします。いい年をした男は、平日の昼間は仕事をしてないとならないわけです。だから、「今日は休日なんですよ」とか「服はカジュアルなんだけど、これでも仕事中なんですよ、今はちょっと息抜きしてるんです」的な雰囲気を漂わせていないと、なかなか周囲の目が気になったりもします。
年齢についても日本はシビアです。まず就職。「35歳以下」とか平気で求人広告に書いてますからね。オーストラリアでそれをやったら法律違反です。男女差も書いてはいけないし。就職が年齢によって差別されるってのは、これは社会で活動するにあたってはかなりキツイことだと思います。あと、○才だったら年収いくらで、、とか、シュミレート出来ちゃうってのも凄いことだと思います。逆に言えば、日本人の場合、それだけ皆さん同じような人生パターンをなぞているのでしょうかね?そう思いこんでるだけと違うのか?
知り合いのオージーのおばちゃんで、メチャクチャ元気な人がいます。自宅にオフィスを構え、携帯電話を持ちながら、自動車を乗り回して、道端で出会えば千切れんばかりに手を振って駆け寄ってきて、"I'm everywhere!"と豪語しながら、ガンガン仕事してます。お年は、聞いたこと無いけど、まあそこそこいっておられるのでしょう。50歳は超えているんだろうなあ。が、全然元気というか、トレードマークのショッキングピンクの帽子被ってます。自宅にお招きを受けたこともありますが、家までピンク。でもって、全然変な感じがしないんですよね。あれだけピンクを嫌味なく着こなせる人ってのも珍しい。
日本の場合って、年をとると、周囲から「老け込ませよう」圧力がかかってくるような気がします。50代の女性が大学いったり、いきなり自宅で開業したり、自宅でセミナーやったりということが、オーストラリアほど気楽にできない。「素晴らしいこと」として周囲が拍手で応援するという具合にはなりにくい。
「年齢を意識させ」「年齢相応に行動を制限させよう」という日本的な言い回しは沢山あります。「いい年して〜」なんてのもそうですし、「もうそんな年じゃないんですからね」「いつまでも若くないんですからね」なんかもそうでしょう、さらに「年寄りの冷や水」「50の手習い」。
日本人のいう「若い」ってのは何歳なんでしょうか。政治家だったら「40、50は洟垂れ小僧」と言いますが、まあ、一般的には20代くらいだと思いますが、それを過ぎたら、ほんと何にもやらせてもらえなくなるキライがあります。だったら、若い時分はなんでもやらせてもらえるかというと、「まだ若いから」ということで、これまた何もやらせてもらえないという。結局、いくつになっても、自分のやりたいことはやらせてもらえないじゃないの。
僕は中学高校から、若さを理由に行動を制限されること、それもエクセッシブに制限されることにカチンと来る方ででした。それが年をとったら自由にできるかというと、今度は若くないことを理由に冷ややかだったりするわけですね。またカチンとくるわけです、、、、といって、実際には日本に住んでないのでカチンときたことはないですが、帰ったらカチカチくるでしょう。
じゃあ、結局日本では何をやらせてもらえるのよ?というと、「やりたいこと」ではなく「やらねばならないこと」だったりします。学生のときは勉強、そして仕事、結婚。結婚すれば子供。そして子育て。それってしかし、「やらねばならない」ことなのかどうか。思うのですが、順番なんかどうだっていいんじゃないのか?ちょっと見方を変えたら、10代に結婚したくて、30代に勉強したくなったりするのが人間の生理じゃないですか?
英語でも "Act your age"というイデイオムがあります。「年相応に振る舞いなさい、大人げない」ということですが、これは日本的に「年取ったら行動は控えめに」なんて意味ではなく、「成熟した大人としての包容力、洞察力、行動力を持て」という意味でしょう。
今の日本も、これだけ就職状況が変化していってますので、それに伴って、「○歳は○をすべし」みたいな規範が薄らいできているのではないでしょうか。それはそれでイイコトだと思います。
ただ、「30年人間やってりゃ、それなりに識見を持て」というのは、万国共通の通念だと思います。30年だったら30年、50年だったら50年、ベテランになればなるほど成熟度に対するう要求水準は高くなるでしょう。
日本の場合、キツイ締め付けのような行為規範がバリバリあったりするわけですが、あれも全部が全部駄目なわけでもないです。新入部員は球拾いと草むしりとパシリみたいな厳しい序列というのは、人間をある高いレベルにまで育てるには有用なメソッドだったりもします。実力による歴然とした差別は、「こんちくしょう」という人間最大のモーターを廻すにはいい仕組みかもしれないし、レベルの劣る人間がそれゆえに厳しく叱られるのも、それはそれで必要なことだ思います。痛みを伴わないと覚えないという大切なこともありますから。
こういうと何か保守的なこと言ってるみたいですが、例えばですね、若い医者がつい技術を過信して患者の心の不安や悩みに疎くなってしまうということがあったとします。若さゆえの傲慢さと鈍感さですね。それを先輩の医師が、バカヤローっつって厳しくたしなめるのは、これは必要なことだと思います。人間なんか馬鹿だから、特に自分が頭がいいと思ってる人間ほど馬鹿だから、ときには頭ごなしにバシッと引っぱたかれないと分からないこともあると思います。
友人に大きな企業に勤めていた男がいました。彼いわく、出入りの業者さんと商談するとき、ふと見ると見習いで同席していた若い新入社員が足組んでふんぞりかえってたりする。そういうときは、かなり厳しく叱るそうです。ただでさえこっちは大企業、相手は出入りの業者ということで力関係が歴然としてる。だからこそ、あくまでも対等に、相手を立てるべし、虎の威を借りるような愚劣な真似は、その企業が名門であればあるほど許されない、お前は我が社のツラ汚しだ、お前には本当の意味でのプライドなんかないんだとか、かなり叩くそうです。彼もまたそうして育てられてきたわけですし。こういうことはあっていいと思うのですね。だからこそ、「30年生きたら30年の識見」というものが育まれるのでしょうし。要するに人間として成長せよ、ということです。
僕も弁護士の駆け出しの頃は、ボスによく怒られました(^^*)。手紙一本書くのも、「今の日本の最高水準の文章をもってこい」といわれ、書き直し、ボツの連続でした。「これ以上のものは自分には出来ない」という限界ギリギリまで要求しないと人間なんか伸びないんだよって言われましたよね。今、この雑文を読まれたら、また「手を抜くんじゃない」といって怒られるでしょう。
そういう意味では、日本でキチンと就職することは、それなりに有意義なことだと思います。日本の小中高が大学の入学試験の予備校化し、大学がレジャーランドとなって久しい昨今、現代の日本で本当の意味で最高の教育機関は、しっかりした会社/職場ですから。口の利き方にはじまって、文章の書き方、礼儀礼節、もちろん各種業務の内容のスキル、どこの業界にもいる「鬼」のような人々、人間の営みの恐ろしさ、汚さ、美しさ、虚しさ、「成熟した人間」が持っているべきエッセンスを叩き込んでくれるでしょう。
もちろん全ての職場がそうだというわけではないです。しょーもない所も多いかもしれない。だからこそ、「キチンと」という部分に意味があるのだと思います。フリーターでもバイトでもハケンでも何でもいいんですけど、オノレを高めてくれるところがいいのでしょうね。人間には「キャリア」なんて表層的なものよりも、もっと大事なものがあるわけで、それが分かってる大人の人と、それがまだ分からんガキがいるだけだと思います。それはキレイゴト的・オトギ話的に、言ってるのではなく、実践的なノウハウとして。だって、「大人」の人達は、あなたのその部分を的確に見抜くわけで、その大事なものがあるかないかで一生レベルで言えば全然違った展開になるからですね。
だってさ、さっきの医者の例でいえば、ここに技量互角の2人の医師がいるとします。ひとりは患者を物のように扱う医師で、もうひとりは人間として対等に扱おうとしてくれる。あなたが患者だったらどっちの医師にかかりたいですか?あるいは、あなたが大企業と取り引きしている出入りの業者さんだとして、相手の大企業の社員のうち、ふんぞりかえってる奴と、真剣に向き合ってくれる社員がいたとします。どっちを応援しようと思います?例えば、その二人がそれぞれ会社を辞めて、独立して、あなたのところに多少無理メのお願いをしてきたとき、あなただったらどっちの人を応援します?そんなもん、決まってるわな。世の中には、「頑張ってください」と声をかけたくなる奴と、「ざまーみろ」と言いたくなる奴はいるわけだもん、実際。
「海外で働きたい/留学したい」という夢をお持ちの方もたくさんいらっしゃるでしょう。それはそれで素晴らしいことだと思います。でも、こんな仕事をやってる僕がこんなことを言ってはいけないのかもしれませんが、日本の、それもビシッ!!と背骨が通ってる職場で働いて、「本当の仕事」をすることも、大きな選択肢の一つに入ると思います。というか、その方が有意義でしょう。問題は、その有意義な職場、教育機関として今なお優れている職場をどうやってみつけるか、どうやって入るかでしょう。でも、まあ、腐っても鯛で、結構あるような気もしますけど。
年齢の話に戻ります。
社会的年齢はさておき、肉体年齢ですが、これ、自分が年取ることによってわかってきたのですけど、いわゆる筋力とか持久力とかそういったものはそんなに落ちません。今こっちで、ヘルシーな生活をしてまして、時々早朝などに坂だらけの家の近所をジョギングしたりするわけですが、これも慣れてきたらかなり出来るようになってきます。筋力だって、やってりゃかなり付きます。だから、日本から来たばかりの10代や20代の人と一緒に歩いても、僕の方が歩くの早いし、疲れないです。その意味では、高校の頃とそんなに変わらない、どうかするとジョギング分野では高校のときの自分に勝ってるかもしれない。
実際、医学的にいってもそのあたりの身体的能力は、メンテしてたらそんなに落ちないみたいです。だって、60代以上の人が平気でマラソン完走したりしてるし、プロレスラーだって50過ぎてバリバリやってるし。
だから若いと思ってしまいがちなんでしょうね。それが落とし穴だったりする。
つまり鍛えようがない部分が落ちてくるのですな。例えば、酒飲んですぐに眠くなったりとか、二日酔いがキツクなったりすることとか、徹夜明けでモーローとしちゃうとか、風邪ひいたときの踏ん張りがイマイチ弱くなって全体にヘナチョコになった感じとか。
ですので、ヘナチョコ度が上昇してる身としては、この乱高下する天気をちょっとばかり愚痴りたくなったりするわけです。
上の写真 : 太陽の陽射しがキツくなると、車乗ってても照り返しがキツくなるのですよね。目が疲れて頭痛のネタになるという。
写真・文/田村
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