ESSAY 289 : 人生100年時代(その2) 〜3つのピーク
写真は、Maroubra Beachの海の家みたいなカフェにて。これを撮影したのは、まだ結構寒い時期(9月=日本でいえば3月)でしたが、しかし陽射しが強いのでこんな雰囲気になります。寒さに強いオージーは既に泳いでいる人もいます。
先週に引き続き、「人生100年時代」をお送りします。
結構な確率で僕もアナタも100歳前後まで生きてしまうかもしれないよ、という時代になってきてるわけで、そうなったら何が変わるか?何を変えていくか?ということです。
まず簡単に思いつくのは、これまでよりもゴールが延びたので、全体の走る距離が長くなった。だから中距離走だったのが長距離になった、1500メートル走だったのがマラソンになるようなものでしょうか。もちろん1500メートルが一気に42キロと30倍も距離が伸びるほど寿命が延びてるわけではありません。1500メートルで言えば、いいとこ2000メートル走くらいでしょう。
しかし、メンタリティや全体の組み立てでいうと、普通の中距離がマラソンになったくらいの差があるかもしれません。
なぜかというと、従来の日本人の人生設計、高度経済成長の頃から現在に連なる人生の組み立てというのは、大体20歳前後にピークをもってくるペース配分だったと思うからです。18歳の大学入試と22歳頃の就職ですね。この時点でどれだけ高い偏差値の大学に入学できるか、そしてどれだけいい就職することができるか、あるいは特殊専門業界に入るか、これによって殆ど人生が決まるという。もちろんいい大学を出て、いい所に就職できたとしても、その後も競争は続きますし、それなりに努力をしなければなりません。運不運による浮き沈みもあります。しかし最初にいい所に入ってしまえば、あとは余程ドジを踏んだり、不運に襲われるのでなければ、まあまあソコソコの一生が保障されています。だから、人生の最初の時点、20歳前後に巨大なピークがやってくるといっていいでしょう。そこで波に乗れるか乗れないかで一生が決まる。
これはジェットコースターに似てると思います。ご存知のようにジェットコースターというのは、出発してから動力によってキリキリと一番高いところまで引っ張り揚げられます。あとは、自由落下の法則であっち行ったりこっち行ったりするわけです。つまりジェットコースターを動かしているエネルギー源は、一番最初に引っ張り揚げられた最高地点のところで得られた重力エネルギーだけです。そこでどこまで高い地点に上がったかで、あとの軌跡が決まるという。同じように、今までの日本社会の人生においては、20歳前後のときにどれだけ高い地点まで登れるかであり、そこで獲得した位置エネルギーを原資として、あとの人生は自由落下の法則で動いていくという。
と言っても、人の人生はそんなにシンプルではありません。色々なサイドストーリーもあれば、裏技もあります。例えば学歴&就職というエネルギー源の他のエネルギー(上昇原動力)としては、結婚があります。玉の輿or逆玉の輿に乗るということですね。あとは、思わぬところで遺産が転がり込んでくるとか、宝くじに当るとか。大金を持っていればそれで人生OKってものではないのですが、それでも一つの大きな転機にはなりますよね。ですので、医者や弁護士との合コンがあったりするわけですね。普通の合コンは男の会費の方がずっと高いのですが、こういう合コンは男の方が安いです。しかし、これらはあくまで裏技であり、予備校通って大学入試に励む人々の数からしたら、真剣に玉の輿狙いをしてる人の数はずっと少ないでしょう。
このように20歳前後に人生決定のピークが来るような社会では、ペース配分も自ずと違ってきます。物心つくかつかないかの頃からお受験に走り、以後15年ばかり受験と偏差値でスパートを掛けるという生き方になります。レースとしてはかなりヘンな展開で、人生の最初の25%かそこらで勝負が決まってしまうという完全な先行逃げ切りパターンです。それって誰が考えてもヘンだから、当然のことながら様々な歪みが出てきます。情操を豊かにするべき少年期〜思春期に勉強ばかりやらされるから、テスト的には優秀でも人間的にはダメだとか、だからゆとり教育にしようと右に振ったら、今度はモノを知らない奴が大量に出てきたので急いで左に振りましょう、ついでに愛国教育もしましょうと、文字通り右往左往したりします。また、初期の段階で人生レースの勝敗がほぼ決してしまうとしたら、勝ってる奴はいいけど、早々に振り落とされた人間は敗北的な自己認識を押し付けられ、グレたりもするだろうし、学校に行っても面白くもない、社会に出ようという気にもならないという人も増えるでしょう。また、勝てばいいのかというとそういうものでもなく、受験的に有利であるというだけで人生の選択をし、あとで後悔するパターンも多々あるでしょう。また、先手必勝でお受験に走った方がいいなら、これはもう親の資金力の勝負にもなっていき、階層の固定化、階級社会化するでしょう。特に、成長が止まり閉塞状況が長びくと、必然的に競争も厳しくなり、二極分化し下流社会が出現するということもあるでしょう。
これらの問題性は散々この数十年語られてきたし、今でも語られています。その根源は、結局はスタート早々勝負がついてしまうという、レース展開の異常性に起因にしているように思います。教育とか学校などを幾らいじってみても、全体のフレームワークがそうなってたら、抜本的な解決にはならないでしょう。
普通、レースというのものは、最初のスパートも大事だけど、中盤に駆け引きがあり、いかに終盤までスタミナを温存してスパートをかけて追い込むかという展開だったりしますよね。そして人生90年100年になると、なんぼなんでもこんな先行逃げ切りしかない奇妙なレース戦略では長続きしなくなっていくのではないでしょうか。前回書いたように、これだけ人生が長くなり、稼動期間と老後期間がトントンくらいになってくると、いかにいい大学を出ていい会社に就職しようとも、それだけでは老後の蓄えも年金制度も持たなくなります。ジェットコースターの理屈でいえば、距離が伸びた分、最初の地点の位置エネルギーだけでは最後まで走ることが出来ず、途中で止まってしまうってことですね。
そうなると、ジェットコースター的構造そのものを変えていかないとならないでしょう。最初にどれだけ高く登りつめられるかが勝負であり、それが全てという構造ではなく、最初にそこまで高くのぼらなくてもいいから、その代わり中盤においても終盤においてもコンスタントに推進エネルギーを得られるような構造。つまりは、普通のレースです。最初から最後まで自分の足で走れってことです。
一切の先入観に囚われず、シンプルに「100年時間があります、どういうペース配分にしますか?」という問題にして、白紙から描いていくとするなら、序盤−中盤−終盤に等しく山がくるように考えていくのが自然でしょう。つまり、20歳前後、40-50歳、70歳前後にピークを持っていくように組み立てるわけです。いや、「本当にそれが正しいのか?」と問い詰められたら、僕もわかりませんよ。今テキトーに考えているだけのことです。しかしね、20歳にピークがきてあとは何もなしというのよりは自然な展開でしょう。逆に最後の80歳くらいに最大のピークがきてあとは全てのそのための準備というのも息苦しい感じがします。かといって、50歳に一つ山があるだけってのも何かツラそうだし。だから、適当なところで3分割して行った方がやりやすくないですか?それだけのことです。
第一ピークである20歳前後は今と同じです。この時期にひとつのピークがくるのは、ある意味自然でしょう。なぜなら、小学校から大学までずっと学習に専念できるわけですし、これだけ長期間勉強できるのはこの時期しかないわけですから、その学習期間の最後に何らかの小結論みたいな結果が出たほうがいいでしょう。ただ従来と違うのは、それで全てが決まるわけでもないし、この先第二、第三のピークがくるわけですから、「まず、とりあえずやってみる」というお試し的なものとして位置付けられるでしょう。
また第一のピークが最大のピークになるという人生を歩む人も確実に存在します。特に高度な専門職などはそうでしょう。典型的な例は、オリンピック選手などのスポーツ選手です。彼らは小学生の頃から才能を見出され、ティーンエイジャー時代に精進を続け、その時点で既に結果を出したりします。女子体操や水泳の選手などは十代で金メダルを取ったりしますから。スポーツによって、求められる身体能力が違いますし、高齢になってからも技量レベルを落とさないものもあれば、十代にピークが来るスポーツもあります。そういう場合は、20歳前後のピークを目指して頑張るということになるでしょう。そして、そのピークが過ぎたら、一応そこで一区切りをつけ、第二のピークを目指すと。タイムリーなところではイアンソープの引退なんてまだ24歳ですし、サッカーの中田英寿も29歳かそこらでしょう。
あるいは、シェフとか、医者、学者さん、役者さんなどの専門職についても人生の早い段階でその世界に入っているでしょうし、そのまま突っ走ったりするでしょう。いわゆるエリート官僚やビジネスマンなんかも然りです。このように20歳前後の第一のピークは歴然と存在しますし、それはそれであって当然だと思います。
では、スポーツ選手や特殊な才能に恵まれていない(あるいは気付いていない)圧倒的大多数の人の場合はどうなるか?というと、それでもやっぱり第一のピークは考えていいと思います。人生のキックオフだし。ただ、これまでのようにそこに全てのエネルギーを集中してあとは燃えカスみたいになるのではなく、第二、第三のピークのために第一があるという感じの位置付けになるでしょう。
やたらガムシャラに受験受験でやってたのに比べて、そのあたりのペース配分が難しくなると思うのですが、@とりあえず高いところへ登ってみる、Aその後の人生のためというロングスパンでの準備という二つの側面が出てくると思います。@は案外語られないけど、結構大事なことだと思います。高いところに登ると眺めがいいし、高いところでないと見えないものもあります。「なんだかなあ、こんなん役に立つのかよ?」と思いながらも受験に励んで東大などに入ったとしたら、今まで周囲に居なかったような連中が出てきます。つまり、自分が日本を変えるんだと本気で思ってる奴、この社会の支配層になるのが当然だと思ってる奴がいます。また支配階級の連中と知り合ったりすることもあるでしょう。ホームパーティに招かれたら、そこに大企業の社長や総理大臣が普通に座って居たとかいう世界もまたあるわけです。「はー、こういう世界もあるんか」ということを知っておくのは悪いことではない。そういう場に行けば、やっぱり社会の見え方が変わってきます。別に勉強だけではなく、野球をやってるなら、地区大会一回戦敗退ではなくベスト8クラスまで頑張ってみる。すると、それなりに超人的な連中に出会えます。甲子園までいけばもっとバケモノみたいな奴が出てきます。
そして、その世界が気にいればそのままそこに留まればいい。でも、別にそうする義理も義務もない。「高いところはこんな感じ」というのを見ておくのは、その後の人生にとって貴重な経験になるでしょう。また、なんだかんだいってジェットコースター的力学は尚も健在だろうから、その後どういう方向に進むにせよ、一旦高いところにたって位置エネルギーを獲得しておくのは悪い話じゃないです。例えば、将来的にあなたが起業するにせよ、「元○○」という肩書きは絶対ではないにせよ、あって困るってことはないでしょう。特に日本は肩書社会ですから。徒手空拳でゼロから物事を立ち上げるのは容易なことではないです。周囲の視線も必ずしも温かくはないでしょう。どこの馬の骨?って目でも見られるでしょう。そういうときに、何らかの過去の看板があると、多少なりとも物事は有利に運ぶかもしれません。勿論、そんなもので全てが上手くいくわけもないし、それだけに頼っていてもダメですけど、何らかの材料にはなります。
Aのロングスパンでの準備という側面は、健全な肉体と健全な精神と健全な常識という、文字にしてしまうとこっ恥ずかしいような事柄です。健全な肉体というのは、これはあとでも書くと思いますが、なんせ長生きしちゃうわけですから、かなり頑健な肉体でないと途中でヘバってしまいます。人生100年とかいっても、60歳くらいで早々にボケが始まり、身体がワヤになった状態で後40年暮らすというのはキツいものがありますから、60歳でも飛び蹴りが出来るくらいになっているのが望ましい。そのためには、30代過ぎた時点でコンスタントに運動をしておく必要がありますが、やっぱり若い時に部活などで鍛えて身体が出来ている奴は強いです。一回そこで逞しい肉体を作っておくと、年を取って錆び付いた後でも、再度それを磨くことは、その年になってゼロから身体を作るよりはずっと楽です。また運動の仕方も知ってますしね。というわけで、受験一本槍でやるのではなく、適当にスポーツもやっとくといいよって話になります。
同じように、健全な精神というのは、適当に遊んだり、趣味にのめりこんだり、恋愛関係でUP&DOWNしたり、バイトしたり、グレたりすることによって育まれるのだと思います。十代の頃に培った価値観や審美眼というのは一生続きますし、その後それらを発展させる基礎にもなります。でもって、この部分がショボイと100年持たないですよ。感動というのは、すればするほど心が耕されるわけですし、この時期にガビーンとなったことがその後の第二、第三のピークの原資になったりします。
したがって高いところに登るために勉強等も頑張らなければならないけど、同時にごく普通の山あり谷ありの青春にしておくといいよってことです。だから、何が何でも受験でもないです。それも大事だけど、ワンノブゼムに過ぎない。学習、知識、経験、体力、技術、精神力、あらゆる観点を総合して最大値に持っていくようにってことですね。
40-50歳の第二のピークは、これは今まであまり語られなかった部分ですし、新発明!って部分もあるのですが、それだけに難しいです。第一のピークが初期の基礎固めとその第一次的集大成&トライアルだとしたら、第二のピークは、社会に出てからの約20年の経験をミックししての作品になります。人生40年以上生きて、実社会で20年ほどやってれば、自分はどんなことが好きで、どんな感じのことがやりたくて、それを実社会で実現するためにはどれだけの困難性を持ち、且つどういう方法でやっていけばいいかの戦略も立ってくるように思います。頭ごなしにゴチャゴチャ言う「上の人」も少なくなってくるから結構ワガママも言えるし、身体もまだまだガタがきてないでしょうから、いわゆる「力技」もまだ出来ます。いわば一番油の乗ってる時期であり、人生で一番やりたいことをやれるのはこの第二のピークだって気もしますね。ここで何をするか?ですよね。
そこで何をするか?これはまだ定型パターンは出てきてないです。あるわけないよね。そもそもこんな「第二のピーク」なんて僕がこの場で言い出してるだけなんだから。だから、これは
up to youです。アナタ次第です。好きなようにおやりなさいってことですね。でも、今40歳前後の人にとっては、「やれって言われても....」って立ちすくんでしまうのが普通だと思います。だって、そう思って準備してこなかったもんね。
だけど、これは僕がこの場で単に虚しく掛け声をかけてるだけの話ではないと思います。そういうフレームワークで捉えるかどうかは別として、現実社会はそうなりつつあるでしょう。例えば、早期退職によって40代くらいでリタイアさせられる人、リストラされちゃう人、会社が吸収合併されて追い出されてしまう人もいるでしょう。この先会社にしがみついていてもあんまりイイコトありそうもないなと愛想が尽きてくる人もいるでしょう。反面、これまでスポット的な就職しか経験してこなかった人もいるだろうし、結婚や育児にも無縁だったという人も沢山いるでしょう。結婚したけど離婚しちゃったって人もいるでしょう。いずれにせよ、40-50歳時点で「もうひと花」咲かせてみようかな、ここでドカンと打ち上げないと、そのままあと60年も人生たそがれて暮らしていくのか?そりゃ堪らんなあって人もいると思うのですよ。否も応もなく、このあたりにピークを持ってこざるを得ないんじゃないかという。いずれにせよそうなるのだったら、「押し流されて何となくここまで来ちゃいました」という受身ではなく、もっとポジティブに、「さて、ここからが勝負だぜ」って考える方が健康的だと思うのですね。
また、第一のピークにしっかり波に乗れた人であっても、40-50代になるとそろそろ「潮時」が来る頃でもあります。スポーツ選手だったら、なんぼなんでも引退してるでしょうし、後進の育成にあたるとか、力士を廃業してちゃんこ屋をやるとかしてるでしょう。エリート官僚やビジネスマン、医者や会計士のような専門職であったとしても、「このまま一生これやってるのか?」って思う年頃でもあるでしょう。「勿論やっていくに決まってるさ」と確信の持てる人はそのまま行けばいいし、次の停車駅は70歳の第三のピークです。しかし、「俺はこういうことがやりたかったのか?」と原点回帰をして考える人もいるでしょう。
例えばお医者さんになったとして、なんで医者になったの?といえば、小学生の頃入院して、そこで出会ったお医者さんの温かい眼差しと自信に満ちた技術に接し、「うわ、いいな、カッコいいな、俺もこうなりてえ」って思ったのがその人の原点だったとします。40歳過ぎて、激務の間にふっと物思いにふけるとき、少年時代にカッコいいと思った医者に自分は今なっているのか?と原点回帰で思うかもしれない。医局内政治に奔走し、診察は検査任せだったりして、あのときの医師のような優しい眼差しで俺は患者を見てるのか?と思うかもしれない。そして、「違うんじゃねーか」と思う人もいるでしょう。その上、このまま院内政治に奔走しても、上がギッシリつかえまくってるから40過ぎても未だにパシリに毛が生えた程度の身分に過ぎない。「よし!」と思ってその人がどうするかは分かりませんが、「Dr
コトー」のように無医村医療に励むのかもしれないし、国境なき医師団に参加したりするかもしれないし、あるいは身分は同じでも心の入れ方が変わるかもしれないし、もしかしたらホメオパシーなどのパラメディカルの方向にいって現代医療の幅を広げようとするかもしれない。
どういう方向に進むか、進まないか、それはその人次第だし、どうすれば成功とか失敗とか一概にも言えないでしょう。ただ、そういう転機はあるんじゃないかってことです。この年代でスピンアウトして、長年考えてきた「自分なりのやり方」で頑張ってみようと思う人が沢山いるのは事実だと思いますよ。これまで波に乗って、悪く言えばベルトコンベアの荷物のように運ばれてきたら、そろそろ自分の足で立ってもいいかもしれない。ライフワークとやらを見つけてもいい年頃です。
さて、そのように第二のピークが来るとしたら、何よりもまず「第二のピークがあるんだ」と常日頃から考えていることが大事なのでしょう。そう思えば、極端な話、日々の生き方や気持ちの持ち方も変わってくるでしょう。それは何も当の40-50歳の世代だけではなく、それ以前の30代、20代、ひいては10代の考え方も変わってくるでしょう。例えば、第二のピークを本当のピークだとしたら、第一のピークはそのための下準備や予行練習に過ぎないってことになります。その年代になってから「よし、ピークだ!」と思っても、それまでの準備が出来てなかったら空回りに終わる恐れもあります。
じゃあ、「準備」って何なのよ?ということですが、全てのことが準備になるとは思います。これまで生きて体験したこと、身につけた知識と技術、それら全てを総動員するわけですから、何をやってもエネルギー原資にはなります。刑務所に入っていましたという経験が、小説家になるという次の転機の原資になる人だっているわけです。だけど最も大事なのは「そう思うこと」であり、「意識」なんでしょうね。意識というのは、例えばペース配分です。この先中盤戦のヤマが来るぞと思って走っていれば、それなりにスタミナも温存するだろうし、戦略的に動くようになるでしょう。最初のスパートに全精力を使い果たすという真似もしなくなるでしょう。近視眼的には無駄、あるいは寄り道であったとしても、長期的には意味があると思われることがあればやればいいです。
その意味ではワーホリなんかいい制度だと思います。とりあえず外国に住むわけで、住み慣れてしまえば結構居心地がいいんだってことも知るでしょう。世界中の人と付き合えば、無知に基づく外人恐怖症も差別意識もなくなるでしょう。ラウンドでピックング(農収穫作業)をやるのもイイコトだと思います。なぜなら今度、ますます食生活に関する意識は高まるでしょう。有機農法や自然農法など語られるでしょうが、そもそも野菜を作ってる現場に参加する人は少ない。だから、地平線まで広がる農場で一定期間働いて、「そうか作物はこうやってできるのか」というのを体験するのは、これはお金を払っても体験しておいたらいいと思うのですよ。それをお金を貰って体験するのですから、いい話だと思うのですね。これらのことは、直ちに何かの役には立たないかもしれないけど、長い人生で必ずなにかの原資にはなるでしょう。年をとったとき、リタイアして外国に住むとか、あるいは海外に仕事があるとかいう場合、やっぱり経験者は強いですからね。
ところで、これまでこのエッセイで何度も書いてますが、日本社会の欠点(あえて欠点だと言いたいのですが)は、ロリコン社会と僕が揶揄して表現しているように、18歳くらいをピークにあとは落ちるだけみたいなメンタリティが支配している点です。「若さ」というものに最大の価値の源泉を置き、そこに太陽があるかのような人生観です。カルチャーでも、マーケティングでもそこに焦点を合わせています。就職なんかでも「35歳以下」みたいに区切りをして若い人を優先しています。確かに若いことは素晴らしい、それはそれで一つの「華」です。しかし、人生の価値はそれだけではない。その点、西欧社会は20歳前後だったらまだBoys
& Girlsであり、そこに半人前です。人間の本当の完成は、Lady と Gentlemanに なってからですから、30代からそれ以降に人間的なピークがくるように考えられています。実際、スターの年齢もそのあたりが多いですよね。トム・クル−ズ45歳、ジョニー・ディップ44歳、ブラッド・ピット43歳、ディカプリオなんかも若そうだけど36歳、シュワルツネッガーなんか47年生まれだから59歳ですよ。マイケル・ダグラスで62歳、最近は老齢役で渋く登場するクリント・イーストウッドに至ったら76歳です。女優さんでいえば、ジュリア・ロバーツで46歳、ニコル・キッドマンで39歳、サンドラ・ブロック42歳、デミー・ムーア44歳、メグ・ライアン45歳、マドンナ48歳などなど。日本だったら40過ぎたらいいオヤジやオバハンになってるんだけど、そのあたりの年齢で男盛り、女盛りになり、最も完成され、人間的にも美しくなるような感じですね。勿論日本でもその年代のスターは沢山いますし、佐藤浩市も真田広之も46歳、渡辺謙47歳であんまり老けた感じがしないのでいいのですが、いわゆるジャリタレも大量にいますし、マーケ的な中心点は未だにその20代前後に置かれているんじゃないでしょうか。
この差はなんなのかな?と考えるに、多分一番違うのは意識の差なんだと思います。20代の輝くような若さが盛りを過ぎた頃、それで終わったと思うか、さあこれからが本番だと思うか、そこで気を抜くか、抜かないかの違いなのでしょう。だから、第二のピークがあるという意識の有無は、30代になってから大きく差がついてくるように思います。
常日頃の心構えでいえば、40−50歳になった頃に自分が一番美しく輝くようにもっていけってことです。だから女性においても30歳過ぎたら「もうオバサン」なんて考えてはいけない。老けてはいけない。「30過ぎてもなお美しい」のではなく、「30過ぎてからが最も美しい」くらいに考えること。そして、40代以降になっても、胸と背中がガバッと開いたカクテルドレスを着こなせるように、いや40代や50代にならないと着こなせないような気品と威厳をもつように。だから化粧なんかも「若作り」じゃダメなんですよ。若く見えるってことは相対的に醜くなるってことなんだから。そのくらいの発想の転換があってもいいと思いますし、このあたりはもう「気合」の問題だと思います。30過ぎたら「もう若くないから」とチャレンジしなくなったり、逃げる言い訳に使ってるとこういう「気合」は出てきませんし、老け込みます。同時に、美しさのモデルを若さという価値にだけ置いてもいけない。40過ぎてカクテルドレスでキメて、シャンパングラスを持ちながらも、ビジネスの話になればビッとそれに対応でき、外人さんから国際問題を振られたら自分の意見をキチンと答え、それでいて男女関係の地獄もしっかり体験し、酸いも甘いも噛み分けていながら、少女のような面影を宿しているという感じ?そうなれ、と(^_^)。これは男性についても同じことで、50歳になったときの自分が、20代の自分にあらゆる点で勝ってるようにする。単純に喧嘩しても勝てるくらいの筋力は維持し(喧嘩というのは結構年をとっても強い)、見た目でも負けないようにもっていけってことですね。大変だけどね(^_^)。「もういいや」って諦めちゃうから老け込みが始まるのでしょう。
では、第三のピーク、70歳前後あたりのピークをどうするかです。
このあたりになると自分もまだ経験してないし何とも言えないのですが、まずこの時点で結構マトモに身体が動くように維持しておくのが大前提になるのでしょうね。もちろんあちこちにガタが出てくるのは仕方がないとしても、最小限にそれを留めることです。老化防止というのは、気合と根性だけではどうにもならない部分が大きいですけど、気合と根性で何とかなる部分もまたあります。退職したり、配偶者と別れたりするとガクンと老け込んだり、すぐ死んじゃったりする人(特に男性)が多いと言われますが、そのあたりは気持ちの問題だと思います。
あとは若いうちからの節制とか健康に気を配るとかそういった地道な努力が必要なんでしょうけど、あんまり若いうちから健康、健康と念仏みたいに唱えているのもどうかと思います。人生面白くなくなるし、やっぱり浴びるほど酒を飲む日々も、ジャンクフードに耽る日々もあってもいいかとは思います。ただ、程度の問題というか、飲んだくれたり、カウチポテトのコンビニ弁当ばっかで30代も40代も過ごしていたら、そりゃあガタもくるでしょうし、60歳前に死んじゃうでしょう。ただ、まあ、第二のピークが40-50に来ると思っていると、そーんなに自堕落にはならないと思います。イキイキ生きているのが、一番の健康対策なんでしょうね。やることが一杯あって、面白かったら、そうそうボケもしないでしょうし。
でも、70歳前後で何をするの?って問題はあります。ゲートボールやって、盆栽いじって、温泉旅行でもいいですけど、「ピーク」ですからね。青年期における受験や就職と同等のマグネチュードを持つ全人生的転機として、なにかドカンとあってもいいでしょう。人生の総集編ですから、今まで70年間培ってきた、全ての経験、知識、価値観、感性、感動も悪賢さも全てブチこんで集大成させるラストスパートです。もう後がないんですから、全部使ってしまっていいです。ペース配分ももう気にしなくていいです。ここまで元気で走れていたら、あとは結構いくでしょう。
何をするのか?ですが、第二のピーク以上に、ここは千差万別、人それぞれだと思います。もう定型なんか無いですよ。だから、まあ、そこは個々人で考えてください。僕だったらどうしますかね?これまで得たものを全てブチこんで、何かを作りたいですかね。それは絵でもいいし、小説でもいいし、音楽でもいいし、何でもいいですけど、「うわ、これは新しい!」というものを作りたいです。70年生きてないと絶対作れないようなモノ。一世一代の傑作みたいなもの。全てはこれを作るための「取材」に過ぎませんでした、みたいな感じの。それが何なのか70歳になってみないと分からんです。まあ、テキトーに書いてるだけですけど、70歳になった頃にまた一つ集大成的なピークが来るのだ、と思うことは、結構励みになるとは思いますね。
まあ、今そう思ったからといって、直ちに何かが変わるってものではないでしょう。一夜明けたら世界が一変するってものでもない。でもそういう考え方になることで、今までとは違ったモノの見え方はしてくるのではないでしょうか。序盤、中盤、終盤とそれぞれにピークがあるならば、これまで序盤一発の人生に比べれば、人生が3つに増えたようなものです。そう思えば、ペース配分とか、蓄積期間とかいう考え方もできるでしょう。長い人生10年くらい無駄に過ごしても大したことはないと思えるかもしれないし、それは決して無駄にはならない、いや無駄にはしないという考えも出てくるでしょう。大学なんか50歳過ぎてから行くところであり、40歳まで未婚であったり、恋愛経験ゼロであったとしても、「それがどうした?」くらいに思ってりゃいいんですよ。育児だって100年中の20年かそこらだから、しょせん一過性のものだという気にもなるでしょう。
これは経済的にもイイコトだと思いますよ。40-50代でピークがくるなら、そのあたりのカルチャーやビジネスはもっと活発に展開されてもいいはずだし、そうなった場合の潜在需要や経済効果は莫大なものがあると思います。どうも、これまでの中高年層対象のビジネスって、バイアグラに象徴されるような健康&回春商品とか、ゆったり温泉旅行とか、音楽だってリアルタイムのものじゃなくて懐メロ系ばっかりだし。もっとこう、「血が熱くなる」ような商品やカルチャーが開発されていってもいいと思います。
文責:田村