今週の1枚(06.09.04)
ESSAY 274/日本帰省記2006(5) ネコジャラシ パタパタ
写真は、比叡山延暦寺の根本中堂
長々と5回目になった日本帰省記です。もう帰省記というよりも、日本で見聞したことを発想の発端にしただけの普通のエッセイになってるような気がしますが。
前回、前々回と、「下流社会」という本を端緒に「ううむ」と考え、そこから大風呂敷広げ、広げつづけて、「さて、どうしたものか?」という状態になってます。収拾つくのだろうか。
規制緩和になったことで格差社会になり、低所得層が増え、これらが生きる意欲それ自体が乏しいいわゆる「下流」カルチャーを生み出しつつあるという指摘は、「なるほどねえ、そうかもねえ」と思う反面、「本当かなあ、そうかなあ?」という疑問もまた呼び起こします。前回書いたのは、持ってるお金が多いか少ないかと、生きる意欲というものはパラレルではないんじゃない?ってことです。金持ってると生きる意欲満々で、持ってないと「ボチボチでいいや」とショボくれてしまう・・・、人間ってそんなもんなの?そうじゃないでしょ?と。金持ってないからこそ、野心ギラギラ、殺しても死なないような雑草育ちの強さが生まれたりもするでしょう。「エネルギッシュな庶民パワー」ってのもあるでしょう。香港とか東南アジアの市場なんかパワフルですもんね。高価な宝石店の店内と、下町の屋台とでどっちがエネルギッシュよ?っていえば、普通後者じゃないの?
だから、生きる意欲が乏しいのだとしたら、所得の高低でもないし、格差社会でもなく、なにかもっと別な理由が同時存在しているのではないかと。人間というのはほっておけば生きたいと思うだろうし、それが意欲を無くすというのはよくよくのことがあったのでしょう。圧倒的な何かに打ちひしがれてしまわない限り。だとしたら、圧倒的な何かにうちひしがれているのか?
しかし、今の日本で、全ての気力を打ちひしぐような「圧倒的ななにか」があるわけではないです。暴君ネロが独裁しているわけでもないし、偉大なる首領様がいるわけでもない。ガチガチの身分制度が重い鎖となって人々拘束しているわけでもない。具体的な「これが諸悪の根源だ」という憎々しげで強大な悪役がいるわけじゃないです。いるんだったら、まだしも話はわかりやすいです。でも見当たらない。
じゃあ、なんでよ?といえば、要するに生きててもあんまり面白くないんでしょう。面白くなければ、シラけるし、やってられっかって気分にもなる。では、腐っても鯛の経済大国であり、かつ戦争も内乱もなく、厳しい国内差別があるわけでもない日本社会で、なにがそんなに面白くないのか?逆にいえば、どういう状況になると面白いと人は感じるのか。
前回、面白いと感じる感性、その感性を磨くのは技術であると書きました。前々回には、日本に帰国するたびに、段々と日本で流布されている論調や発想における視野&世間が狭くなってきているような気がすることを書きました。また、なにか今ひとつリアリティがなく、アーティフィシャル(人工的)な感じがするとも指摘しました。これらは同じことだと思います。
本来、人間なんか「生きているだけでハッピー!」にならないと嘘なのにそうならない。そうならないのは、嬉しいと思う感情や、ふとしたことで新鮮な驚きに包まれる瑞々しい感性がヘタってきている可能性があります。そして、その原因は、あまりにも世間が狭く、人工的で、本物を感じる機会が乏しくなってきているからではないでしょうか?
子猫はよく遊びます。ネコジャラシをパタパタしてやるだけで、狂喜したようにむしゃぶりついてきます。しかし、成猫になってくると、ネコジャラシなどには見向きもしません。パタパタやっても、「うるせえなあ」とチラリと一瞥するくらい。要するに、子供だましならぬ、子猫騙しは通用しなくなるわけです。何故そうなるのか?を考えると、ここにヒントがあるような気がします。つまり、「分かってしまったものは面白くない」という法則があるのでしょう。意外性のないもの、結果の見えてるものは面白くない、と。子猫の頃は、ネコジャラシ自体が意外性のカタマリだろうし、それに飛びつく自分自身の運動能力それ自体が新鮮な発見をもたらすでしょう。これは猫に限らず、人間の赤ちゃんでもそうですが、この世界に生まれたばかりで、なにもかもが新鮮だったりしますから、幼児期というのは、意外性と感動の集中豪雨みたいなものでしょう。だから好奇心バリバリで、何にでも興味を示すし、触ってみたがるし、口の中にいれてしまう。その結果、とんでもないものを飲み込んで大騒ぎになるわけです。
「面白くない」「やる気がない」と思ってる人がいるとしたら、それは何をやったところで結果が見えていて、「しょせん」とか「結局」ってフレーズで語られるような感じになるからかもしれません。俺みたいな奴が幾ら勉強したところで、しょせんロクな学校なんかいけやしないし、そんな学校出たくらいでは大した就職なんかありっこない・・みたいな感じですね。幾ら真剣に政治や社会のことを考えても、所詮当選するのはミーハー議員か二世議員で、俺らの声なんか政治に反映されるわけないよ。考えるだけ無駄。
ところで、この無力感&無気力感は日本独自のものではなく、現代社会のお馴染みのパターンですよね。倫社の授業にも出てくるアパシーってやつです。政治的アパシーとか、ステューデントアパシーとか。日本からみたら政治的にかなり「熱い」筈のオーストラリアでも、「市民の間でアパシーが浸透して」どうしたこうしたという文章を新聞の論評などでよくみかけます。モルガン・フリーマンとブラッド・ピット主演の映画「セブン」にも、アパシーがモチーフになってたりしますよね。「こんなクソみたいな社会で生きていこうとするなら、アパシーになるしかない、自己防衛本能みたいなものだ」とかなんとかいうセリフを老刑事のフリーマンがボソリと呟いたりして。そして、アパシーにならず真剣に怒ってる奴が、腐った世の中の腐った連中への天誅のような形(人間の七つの大罪を示す)で連続殺人事件を起こすと。別に日本だけの話じゃなくて、「世の中こんなもんよ、どうにもなんねーよ」って気分は、いつの時代だってあったでしょう。そんな社会の成員全てが夢と希望で瞳をキラキラさせている国なんて未だかつてこの世に存在したことなんかないでしょう。そして、社会が巨大に複雑にシステマティックになればなるほど、この感覚は強くなるのかもしれません。
そういう意味では、昨今の日本で、生きる気力そのものが衰亡しているかのような人々が増えているという指摘は、人類の趨勢を正しく反映しているだけって見方もできるでしょう。振り返って考えてみれば、アパシーになって当然だとも思いますよ。理由の一つには、これもずっと昔のエッセイで書いたけど、グローバライゼーションが加速して、巨大企業間の合併が盛んになっていけばいくほど、個々人の力ではどうにも太刀打ちできない超巨大な企業帝国が登場することです。つまり「圧倒的ななにか」が出現してしまう。そこでは、圧倒的な帝国に隷属するか、さもなくば隅っこに押しやられるかという生き方しか存在しえなくなっていく。社会に会社が100社あったら社長は100人いるけど、全部合併して一社になったら社長は一人だけ、あとは全員サラリーマン。独立起業しようが、将来自分のお店を持つのが夢だろうが、どんどん巨大資本に飲み込まれていくなら、人生において自己表現する場がどんどん限られていくってことでしょ?「やってられっか」って気分になるわね。だから、世界的に、グローバライゼーションが目の敵にされ、経済的合理性(economic rationalism)という言葉を忌み嫌う人々が増えてもいるし、WTOの大会の開催地では主に西欧系の若者を中心に攻撃的な反対デモが繰り広げられるわけですよね。
いやー、僕だってデモにいきたいくらいですよ。この経済的合理性一辺倒というのはマズイって思いますもん。一般にWTOに反対デモをしている人々の論調は、地球規模での環境破壊や、地球規模での格差の固定化(強者にとってのみ有利な自由)、遺伝子組替農産物の流布あるいはヒトゲノムの解読情報を民間企業一社が独占することの是非--つまりは強力な「私人(私企業)」が自己中的に地球をメタメタにすることへの危機感が基調にあるでしょう。
それらは勿論大事なことなんだけど、それだけではなく、僕は人々へのメンタル面や人格形成への悪影響も気になります。巨大企業系列化が進むことで、地元の商店街が潰され、個人が自分でお店を持てない、自分の名前で仕事が出来ない、自分自身が一個の生産単位になれないというのは、起業や自己実現の機会がそれだけ制限されることを意味します。別に組織に勤めたら、そこには全く自己実現は無いというつもりは毛頭ないけど、でも100%自分の価値観でビジネスをしてみたい、表現してみたいって人もいるだろうし、そういう人々に対して常に一定の場所は開かれているべきだと思います。地球レベルでのトータルでいえば、人々が仕事に感じる生き甲斐の総量が減る。つまりは「つまらない社会」になる。
また、前にも述べましたけど、今の世の中「本物」が少なくなってきています。伝統的な面倒くさい手作業でのやり方で何かを作らないとこのテイストは出ないって物事は沢山あります。それは地酒しかり、味噌も、醤油もしかり、工芸品もしかり、農作物もそう、サービス業だってそうです。杜氏さんが全身全霊をかけて酒造りをして素晴らしい美酒が生まれたとしても、手作業だから本数には限りがある。1本1億円とか法外な値段はつけられないから、企業規模としてはどうしても限界がある。だから大規模な広告も打てない。経営はいつもカツカツ。でも、金にものをいわせて全国の酒造を傘下におさめ、かつ三倍醸造とかアルコールをまぜて売れば、企業規模が桁違いになるから、広告も打てるわ、世間にも浸透するわってことになります。アルコールを混ぜて水増しした日本酒なんか、本来の意味では日本酒ではないのだけど、それがメインに流通することで、「日本酒というのはこういうもの」という認識が広まる。大袈裟にいえば人々の世界観が歪む。
漫画「夏子の酒」などによるバブル前の地酒ブームで、日本酒に関しては本物の復権が多少なりとも試みられました。僕自身、その恩恵に浴しています。日本酒ってこんなに美味いものだったのかとショックを受けたし。でも、それは数多ある領域の一部に過ぎないし、まだまだ埋もれている本物は山ほどあるでしょう。しかも、地酒ブームにしても、マスコミが売れるからその種の本を沢山刊行したとか、やはりそこにも商業主義の力はあるわけです。別に商業主義が悪いとは言わないけど、僕らが何かを知る、何かの情報を得る場合、そこにゼニカネというバイアスがかかってないことなんか非常にマレだと思います。そのゼニカネバイアスによって、本物でもないものをいかにも本物っぽく見せようとするあざとさが混入する危険もあります。
オーディオなんかもそうですが、オーディオ機器はここ数十年で飛躍的に便利にはなったけど、音の質そのものはむしろ下がってると思います。かなり下品な音というか。だから、本物を求める人は今でも1000万円以上かけて機材をそろえる。オーディオというのはその本質として「いい音」を「簡単に」という二つの要素があると思います。「簡単に」というのを外してもいいなら、ライブで聴くのが最高ですからね。ライブ行ってるヒマがない人のための機材としてオーディオがあり、そこには「簡単に」という要素は絶対入ってくる。でも、この2つの要素のうち、「いい音」よりも「簡単に」系にシフトしていって、リスナーを誘導していったって気もします。別に陰謀が行われたわけではないのでしょうし、あるいは消費者によって逆にメーカーが誘導されたのかもしれないけど、レコードがCDになり、MP3になっていくプロセスは、音質主導ではなく便利さ主導だったと思います。デジタルだから音は同じって誤った認識が広まったりしてるし。僕もそう思い込んでた時期があったけど、同じデジタルでも機種によって音は天地の開きがあります。聞き比べてみると愕然とするよ。
商売の仕方はここ数十年でどんどんソフィスティケイトされています。合併や新株発行などのファイナスにせよ、メディアミックスによる広告戦略にせよ、巨大なコングロマリットにせよ。一方の力が強くなったら、他方もまた同等に強くならなければならない。バランスがとれない。売り手が強くなったら、買い手もまた強く、賢くならねばならない。
個人的に思うに、いまの時代を人類史的にみて、何が一番大きな戦争かといえば、強力になりすぎたコマーシャリズムとの戦いが最大の「戦争」だと思ってます。イラクとかレバノンとかの局地戦ではなくして。前回ちょっと述べた「ロハス」なんかもそうですが、エコに目覚めて、環境に気遣い、自然に生きることを大事にするという動きが高まってますよね。「癒し」なんて言葉が出てきたのは、ここ10年くらいのものです。しかし、その「ロハス」という言葉やブームメント自体が、三井物産や電通の仕掛けによるものであるという商業主義はあるわけです。それが直ちに悪いといってるわけではないですし、資本主義ってそういうものとも言えるのですが、森羅万象なんであれ、僕らが今身に付けている知識それ自体、どっかのコマーシャリズムの影響を受けてるわけです。美しい海をみて感動した記憶は、これは原始的な一次体験だから影響はないぞといっても、なんでそこまで行ったの?どうしてその場所を知ったの?といえば、観光業界の広告や商品というバイアスがあったりするわけでしょ。それが雑誌に載る以上、それがTVでみのもんたが紹介する以上、そこには必ず経済的背景というものがあるはずです。
えと、ついムキになってしまった。ちょっと説明の順番が前後したけど、「なんでやる気ないの?」に対する原因として前回挙げた諸点、つまり、「@日本社会には幸福に生きていく発想とパターンが乏しいこと、A貧しいという現状を誤魔化す言葉や表現(レトリック)と発想・技術があること、Bそういった誤魔化しがきかないくらいの絶対的貧困ではないこと、Cそれが世界的な商業主義とリンクしていること、D@〜Cの相乗効果として世界観が狭くなり位置感覚が狂うこと、E観察者批判者自体も狂った世界観で見ている可能性があること」のうち、はからずもAとCを述べたことになってしまいました。これらの物事ってすごく密接に関連してるから、分離して書くのって難しいのですね。同じことをあっちから見たり、こっちの要素から見てみたりってことだから。
なにをやろうとしても、結果がミエミエのような気がして、だからやる気が無くなる、アパシーになるって話でしたね。アパシーになる原因は沢山ありますが、一つは経済的合理性ばかりが追求されると、世の中面白くなくなるってことでした。
でも、それだけではない。やや繰り返しになりますが、コマーシャリズムの隆盛によって、僕らの頭の中もコマーシャリズムによって「毒されてる」とまでは言わないけど、大きな影響を受けている。例えば、日本人はハワイはよく知ってます。よく行きますからね。でも、直線距離でいえばハワイよりも短いはずのモンゴルやシベリアのことは殆ど知らないです。なんでハワイばっかりいくの?といえば、日系移民が多かったという歴史的背景だけではなく「憧れのハワイ航路」の昔から、それがビジネスとして成り立っていたからでしょう。南太平洋の島々も、グアムにせよ、サイパンにせよ、フィジーにせよ、皆さんよく知ってます。そういう「商品」が出回ってますからね。でも、商品になってない国は知らない。ポートモレスビーって何処?って感じでしょ。だから平均的な日本人に世界地図書かせたら、海外旅行商品になってるエリアは細かく書けるけど、そうでない国はよくわからないってことになるでしょう。また、グアムやサイパンは知っていても、それは「観光客としての遊び方」を知ってるだけで、そこがどういう統治機構になって、どういう経済課題があって、国民は何を考えているのかは、あんまり知らない。東京に何度も観光にいって、二重橋とか東京タワーは何度も行って知ってたとしても、東京のことが分かったことになりはしないのと同じことです。これ、シドニーでも同じですけど。
そうなってきますとですね、自分の頭の中にある知識や世界観、「世界はこういうもの」「人生とはこういうもの」という理解が、結構ヤバイんじゃないかってのは思った方がいいですよね。「日本社会には幸福に生きていく発想とパターンが乏しいこと」ってのも、実は錯覚だったりする部分も多いと思うのですよ。だって、世界観や人生観がボコボコに歪んでたり、極端に狭くなっていたりしたら、見えている範囲や距離が狂ってたりするわけでしょ。例えば5LDKの家に住んでいるのに、一部屋しか見えなかったら、「なんて狭い家なんだ、もうイヤだ」って思うかもしれない。本当はあと4部屋あるから全然狭くないのだけど、それが分からないから狭いと思いこんでしまう。
学校の成績が良くなかったら、もうそれだけで人生が半分以上閉ざされてしまったと思い込むとか、きちんとした仕事に就いていないだけでもう二流市民に転落したかのように思うとか。こんなの幾らでもあります。若い頃、特に自意識が売るほど過剰な思春期なんか、ちょっと人より太ってるだけで絶望しちゃうし、ちょっとモテなかっただけで人生をはかなんでしまったり。とかく世界や世間が狭いと、些細なことで全世界を決め付けてしまう。本当の世界は一生かかっても見切れないくらい広大なんだけど、半径3メートルだけで考えてるから、すぐに結論が出ちゃう。
日本は、民族も、文化も、言語も、国籍も、国境も全部同じだから、日本=日本人=日本国民=日本民族=日本国領土=日本文化=日本語になってるけど、こんな惑星直列みたいに異様に何でも揃ってる国は世界的にも珍しいです。だから、たまたま日本人として日本に生まれてしまったら、それが「宿命」みたいに思い込んでしまう。でもさ、民族は遺伝子だし、文化は幼少期体験だから宿命的なものはあるとしても、国籍なんか事務手続ですもんね。国家というのは巨大なサービス産業なわけで、国家が必ずしも民族や文化を体現してるわけでもない。また個々人のアイデンティティを決定するわけでもない。だから、国籍を二つ以上、永住権を三つ以上もってる奴なんか世界にゴロゴロいます。どこの国の国民になるかは、対価(税金)に見合ったサービスをしてくれるかどうかで決めたらいいわけです。日本国籍を失ったとしても、民族やカルチャーとして「日本人」でなくなったわけではないです。話を小さくしたら分かりやすいでしょうけど、例えば秋田県から東京に出てきた人が、住民票を秋田から東京に移しただけで、その人は「秋田人」というアイデンティティを失うわけではないでしょ?あなたが転勤で東京から大阪に引っ越して、子供の学校のこともあるから住民票も移しますよね。あなたはその日から「大阪人」というアイデンティティになりますか?住民票なんか便宜的な事務手続であるわけで、そんなものでアイデンティティやカルチャーが変るわけではない。国だって同じことでしょう。
海の近くに生まれたらその人の世界観に海は不可欠な存在になるでしょうし、山に生まれたら山がそうなる。日本に生まれたら、日本の特殊環境に発想や世界観がバイアスを受ける。あなたがイスラム国家に生まれたら、ごく自然にイスラム教徒になるでしょう。これらのバイアスは、コマーシャリズムとは関係ないレベルの話です。それだけでも結構気をつけないといけないのに、商業主義や広告戦略によってさらなるバイアスが加わる。
食べ物の好き嫌いというのは、アレルギーなど生化学的反応の場合は別として、過去の記憶がモトになってたりします。マズイものを食べたら嫌いになるし、本当に美味しいものを食べたらそれが好きになる。野菜でも、コーヒーでも、ケーキでもなんでもいいですけど、本物が元来有している美味しさを含んでいない、いわばニセモノばかりが流通していたら、それを口に含んだ人は「○○は嫌い」って思う可能性が高い。同じように、就職にせよ、学問にせよ、結婚にせよ、家族関係にせよ、「あんまり美味しくないもの」が周囲に氾濫してたら、それらに対する情熱を失うでしょう。あるいは非常に特殊な視点からしかその物事を捉えられなくなるかもしれない。
かくして僕らの視界や世界観は、日ごと狭くなり、歪んでいく危険性がある。視界や世間が狭くなればなるほど、少量のサンプルケースでいきなり全体の結論を出す傾向に陥る。たった一人の異性としか付き合ったことがない人は、その一人がヒドイ人間だったら、異性なんかそういうものかと思ってしまいがちしょう。たった一人のオーストラリア人としか話したことがない人は、そのオーストラリア人がヒドイ人間だったら、オーストラリアなんか嫌いだってことになりがち。逆に視野が広がり、サンプルケースが増えるにつれ、結論は下せなくなっていく。「さあねー、いろんな人がいるからなあ」って感覚になる。
そして、視界や世間が狭くなればなるほど、「わかったような気」になれる。ここが大事なところなのですが、物事というのは知らなければ知らないほど分かったような気がするもんです。逆に、知れば知るほど分かりにくくなる。なんであれ、物事を明瞭に決め付けている人、一刀両断的にスパスパ斬ってる人って、こいつ、もしかして単なる世間知らずの勘違いじゃないか?と疑った方がいいかもしれない。言論界とか論壇とか言われているところで、皆さんスパスパ斬って捨ててますけど、僕なんか「そっかなあ?」って距離を置いてみるようにしています。だって、書斎にこもって、銀座の文壇バーみたいなところに出没して、編集者と同業者の狭いサークルにいたら、考える上でのサンプルケースが少ないか偏る危険性があると思うのですよ。もちろん論者の全てがそうだと言ってるわけではないですし、深い考えを持ってる人も多々おられるでしょうし、フィールドの狭さは洞察力でカバーってこともあるでしょう。ただ、そういう人の論調というのは、えてして謙抑的です。「もしかしたら全然間違ってるのかもしれないけど、こういう具合には考えられないか?」という、オズオズとした感じが文面から漂ってたりします。それは自信がないのではなく、世界に対する正しい畏れ(おそれ)だと思う。この広大な世界が、自分ごときが手にとるように分かるわけなどないではないか、という当然の認識を前提に、物事にアプローチし、それを語るという。「○○などと言ってる奴は全て馬鹿」みたいな簡単で分かりやすい激論をしてる人は、「失礼ながら、馬鹿なのはあなたではないか?」と思ってしまったりします。
そして、段々もう分かってきたと思うのですが、世間が狭い→分かった気になれる、とくれば、「結果がミエミエのような気がする」んでしょうね。そして「分かってしまったことは面白くない」原則にしたがって、「どうせ〜でしょ」「しょせん〜じゃないですか」って発想になりがち。そうなると意外性がない。新鮮な感動もない。シラける。楽しくない。だからやる気が起らない・・・・結局、そういうことじゃないですかね?
ベストセラーの「下流社会」という本の中に「下流読者向けの雑誌」と書かれていた「SPA!」を日本で買ってきました。それまであんまり意識したことなかったけど、「下流向け」と指摘されると、「ほほう、なるほど」と思う部分があります。十数年前に僕が日本で読んでた頃よりもトホホ度が加速してますな。昔はもうちょっと硬派だった気もしますが。そのSPA!ですが、タイムリーというべきか、8月1日号の特集が「楽しめることがなにもない症候群」というものでした。なんか出来すぎってくらい、タイムリーですな。ちなみに、同じ号に「下流社会の明るい借金入門」というハマリすぎてどうしようもない企画もありました。
この「楽しめることがないもない」という記事を読んでみると、皆さん見事に冷めてますな。まあ、記事にどれだけ信憑性があるかどうかは別として、読み物として読んでみると、例えば「不幸にも僕は要領を覚えるのが早い。今の仕事も最初の1年半でコツを掴んでしまって、『どうせこうすればうまくいくんだろうな』って達観しちゃったんです」とエリート会社員が呟けば、「そういうもんだと思ってるんです。自分の人生なんて、こんなもんだと。いいことなんか起るワケがない。自分から積極的に何かを獲得しに行ったことはないですね」と経理部のサラリーマンが自虐気味に言う。「食べないことが最高のグルメみたいなもので、やってみたらそれまでじゃないですか。やらないでいれば想像の余白がありますよね。余白を都合のいい夢想で埋めるのが自分にはちょうどいい」という東大生がいい、「今の生活レベルを50と仮定したら、100でも500でもアップできますよ。でも100や500の生活も、慣れてしまえば結局は普通になってしまうでしょう」とネット株取引で100億以上儲けた人がいう。「僕には信じられるものがないんですよ。だから宗教にハマッてる人が羨ましいと思います。心から信じられるものがないので生きている実感がない」とフリーターの人が言う。
まあ、編集方針に沿って適宜エディットしてるだろうから、本当のニュアンスは結構違うんじゃないかなと思うのだけど、いわゆる「下流」に限らず上流的な人も冷めてますな(だから下流=無気力というものでもないという逆証明にもなるんだけど)。こういった人々の述懐に対して、「おのれら、何を言っとるんじゃああ!」と反発するのは簡単なんだろうけど、でも、僕でも言ってることは結構わかりますよ。70%くらいは共感します。「そうなんだよねえ」って。でも、それって「確かにそこに居ったらそう見えるかもね」って程度の共感です。そこに居らずに3メートルくらい動いてみたら、また違って見えたりもします。
例えば、要領をいいので仕事が簡単できちゃうから情熱が湧かないってのも、確かに仕事にはそういう側面はあるんだけど、逆に言えば要領で出来ちゃうような仕事しかやってないだけのことでもあります。なんか幼稚園にいる園児が、お遊戯が完璧に出来ちゃったから人生達観してるだけって気もしなくもない。50の生活が100になっても、そりゃ慣れたらなんでも「普通」になりますけど、その時点で既に「普通」の意味が変質するのですね。違ったものが見えるようになり、違ったようにモノを考えるようにもなります。「やってみたらそれまで」というのも、本当は「それまで」じゃないんですよ。頭の中で想定していることと現実とは常にズレがあり、そのズレに気付き、感動するかどうかなんだけど、おそらくそこが見えてないんじゃないかしら。例えば、セックスやりたい一心で拝み倒して一夜を過ごすでしょ。セックスそのものは「なんだ、こんなもんか」と思ったりもするのだけど、翌朝一緒にキッチンで向かいあって朝ゴハンとか食べてると、「何なんだ、このホノボノ感は?」という新たな発見があったりするもんでしょ。「信じられるものがない」のは僕も同じだし、誰でも似たり寄ったりでしょう。特に日本人は無宗教の人多いし。でも人生を楽しく過ごすこと=信じられるものがあることではない。そんなに人生のバリエーションが狭いわけではない。でも、それが見えてないんでしょ。
通じていえるのは、世界観がものすごく狭いってことです。狭いから、達観しちゃうんだろうね、多分。狭くなきゃこんなに若年寄にならないよ。そういえば、小学校の頃、クラスで一人くらい異様に冷めてるというか、どっか達観してる風の奴っていませんでした?「結局、アレだろ?しょーもないよ」みたいに冷たく言う。これが中学高校くらいになると、特に文学少女系などが、「結局他人に優しいふりをして、自分の冷淡さや自己中心性を覆い隠してるだけでしょ」みたいな小難しい表現を好んで使って、高踏を気取ったり。少女マンガのクールキャラにありがちな。ま、一言でいえば、ガキがなに知ったかぶってんだよ?ってところですけど。
僕自身、上記の人々のような感覚に囚われたことがあり、だから共感可能なんだけど、でもそれって高校とか学生時分のことです。社会に出てからは、そんなこと思わなくなった。高校のときに抱いていた世界の広さが10だとしたら、100にも1000にも広がりますもん。法曹関係という仕事柄、社会の様々な局面を見ます。しかも現場でみますし、そこに数年間というロングスパンで付き合います。シラけてるヒマなんかないです。例えば殺人事件とかもあるわけですよ。息子があろうことか人様を殺めてしまったという老いた母親と一緒に、遺族宅まで謝罪にいったこともあります。居留守使われましたけどね。今でも覚えているけど、夕焼けの公園で、会うことすら出来ず途方に暮れて「もう、帰って、出直しましょうか」と話をしてました。こんなことが「要領」で出来るか?って思いますよ。別に業種を問わず、どんな仕事だって、これまでの頭でっかちのチャチな世界観が木っ端微塵にされるでしょう。されなかったらなんか間違ってると思います。居場所が悪いんじゃないの?
だから「わかった気」になってる奴というのは、古くからの日本語表現でいえば、「小賢しい」ってやつなんでしょうね。「賢い」んじゃないの。小賢しいの。「小」がつくの。なんで「小」がついて、大人から馬鹿にされるのかといえば、根本的には世間が狭いからでしょう。「女なんか、しょせん金だよ、金」ってうそぶいている奴が実は童貞だったりしてさ。そういう感じですよね。ホリエモンなんかも、多少スケールはデカいけど、同じようなパターンを踏んでて、それで世の大人の顰蹙をかってたわけでしょ。「ああー、スタイルという計算もあるんだろうけど、基本的に頭悪いんじゃないか?」と思ってましたけど、でも、勢いに乗って選挙に出て、ドブ板廻りをしていた頃から言うことが変ってきましたよね、彼。なんかもっと巨大な、彼の世界観からは「想定外」のものに出くわしたんでしょう。
でも、それは悪いことじゃないですよ。若い頃はそれでいいんだと思いますよ。自分では何もかもわかってるつもりになってるところに、ガンガン異物をぶつけられて修正を迫られる。「世の中の奴は馬鹿ばっかりだ、オレサマだけが」なんて内心威張ってるお兄ちゃんが、そのへんのオバちゃんに子供扱いされて、ぐうの音も出ないわけでしょ。「なにブツブツ言ってんのよ、早く食べないとお味噌汁冷めちゃうわよ!」って下宿屋のオバサンに叱られたりしてさ。高い鼻をヘシ折られる屈辱の代償として得られるものは、もっと広くて豊かな世界です。Fair tradeでしょう。
今回も長くなってしまった(年頭の誓いはどこへやら、ですな)。最後に、日本を出る前に読んで感銘を受けた本の、感銘をうけたくだりを紹介します。古い本なのですが、M.S.Dobbs-Higgingson著、大場智満(監訳)、ジャパンタイムズ社の「アジア太平洋の時代」(Asia Pacific/It's role in the New World Disorder)の本文というよりも、前書き部分です。この著者の世界体験を簡単につづってる個所があるのですが、こんな具合に書かれていました。
「冒険旅行の費用は行く先々で稼いだ。ポーク・パイの検査、フランクフルトの街角での油絵売り、アルバータでの新聞社のカメラマンと百科事典のセールスマン、バンクーバー島での木こり、サンフランシスコのアラメダドックでの港湾労働者、北太平洋上ではアメリカの測量船の実験室係、ハワイのワイキキ海岸でのサーフボード屋、日本での英語教師、タイでの数学教師、半ば強制されてなった西側諜報機関のエージェント、安っぽい日本映画の外人悪役、東南アジアでの古道具屋と宝石商等、ありとあらゆる商売をやった。
盛んな好奇心の赴くままにさまざまな体験をした。ドイツの民族文化学校で学び、フランクフルトでの絵描き、その女房、その絵描きの愛人との奇妙な共同生活をした。バンクーバー島の北西部でロングヘッド・インディアンの埋葬窟を見つけた。日本とヒマラヤの寺院で修行僧になり、日本の茶の湯と生け花を学び、剣道の有段者になった。京都大学では日本の16世紀の歴史と建築様式を学んだ。当時はまだ違法ではなかったビエンチャンのアヘン窟を訪れたり、インドのデリーの僧房で暮らしたことがある。ヒマラヤの奥深くではチベットのラマ教徒とLSDを吸った(当時はLSDが違法ではなく、それどころか存在さえもよく知られていなかった)。アジア・中東の秘境の体験(これらの秘境が開かれた地域になる前のことである)、ベイルート北部の人里離れたオリーブ林での生活、ロンドンの社交界活動(素晴らしい人類学を学んだ)、7メートルの帆船での大西洋の旅、ロンドン大学での学習。こうしたさまざまな経験を積めば積むほど、この世界がどんなに変化に富み、不思議なもので、無限の魅力に満ちたものかがよくわかった。
さなざなな体験と仕事を通じて、私は自己流の哲学、歴史、芸術、建築そして冒険を追求しつづけた。25歳になるころには十数カ国以上に住んだ経験を持ち、旅した国の数はそれよりもずっと多かった。日本語もかなり流暢に話せるようになっていたし、フランス語も特に不自由せず、ドイツ語も少し出来た。日本、タイ、ヒマラヤの僧院での生活から、仏教の理解を深めていった。日本では禅空英尊という号までもらっている。寺での修練の年月から学んだことは、物事の序列、目的意識、いかなるときも客観性を保つ大切さなどで、その後の人生の分かれ道、掃除人になるのか、ロックシンガーをやるのか、銀行家になるか、それとも政治の道に入るのか、選択が必要になったときの決断力の源泉は仏教から得られたのだった。放浪を止めると私は商売を始めた。仏教とビジネスはまったく異なる世界のように見えるが、起業家は僧侶と同じように、広い世界に加わりながら自らの個性を育てることが出来るのである。」
これを読んだ僕は「ちくしょう」と思いましたね。この野郎、楽しんでやがるなって。この人、これだけの世界体験をモトに、その後の人生は立松和平みたいなノリで進んでいくかと思いきや、起業家になり、後にロンドンの金融界に入り、さらにメリルリンチ・アジアの会長にまでのし上がってます。その後、フランスに自分で財団を作り、アジアとヨーロッパの相互理解に勤めています。要するに超バリバリのビジネスマンになってるわけです。ちなみにこの人、生まれはジンバブエ(当時はローデシアといった)です。こっちに来てから知ったのですが、西欧のエリートビジネスマン、政治家、官僚連中というのは、若い頃、大なり小なり似たような体験をしてます。つまり若いときに極限まで視野を広げておく。それも本での知識ではなく、実際に歩いて、住んで、稼いでそれをやる。ワーキングホリデー制度というのは、その前提としてこういう連中が大量に存在していたからこそ発案され、ビザ的に整備されたのでしょう。
「経験を積めば積むほどこの世界が無限の魅力に満ちたものかがわかった」という一文は、真理だと思います。海外なんか半ばお義理で行かされた香港旅行しか知らなかった僕でも、これは直感的に「そうだろうな」と思いました。弁護士業務をしていた頃は、それはそれでかなり充実していましたし、自発的異業種交流もガンガンやってて、視野と世界が広がっていくのが楽しくて仕方なかったです。でも、これを読んで(これ一冊だけではないですけど)、「むむ、これは日本でチマチマ弁護士なんかやってる場合ではないかも」という気分になっていきましたよね。34歳、遅ればせながらも、「無限の魅力」をもっと知りたいと思いました。
で、「無限の魅力」とやらはあったのか?といえば、あるある。もうメッチャクチャある。巨大な図書館につれてこられて、この中の本を全部読めと言われてるようなもんです。世界の片田舎のシドニーですら、極めようと思ったらあと百年はかかるでしょう。1000歳くらい寿命が欲しいですよ。
だから思うのですけど、世界は巨大なネコジャラシですよね。常にパタパタやってくれているのだけど、「分かった気」になってると興味を感じなくなってしまう。「毎日つまらないなあ」、「いっそのこともう死んじおっかなあ」と思ってる人は、つべこべ抜かさず、この著者と同じことをとりあえずやってみたらいかがでしょう?やるだけやって、それでもまだ「やっぱ詰まらん」と思うのであれば、そのときは「逝ってよし」です(^_^)。まあ、そんなことはないと思うけど。
ちなみに、この本、分厚いけど面白いです。こっちにワーホリや留学で来られる予定のある人は、沢山のアジア人と付き合うことになるでしょうから、いい予習になると思います。世界情勢の分析などについては古すぎて使い物にならないけど、各国、各民族の歴史や本質などについては、非常によく書けてます。別に頑張って覚えなくてもいいし、読み流しでいいです。でもそういった記述が頭を通過することによって、頭が「耕され」ますから。
文責:田村
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