今週の1枚(06.08.28)
ESSAY 273/日本帰省記2006(4) 「下流社会」と生命力キラキラ
写真は、これもまた本文とはぜんぜん関係ないのですが、京都市バスの運転手さんの席の後ろにこっそり置かれてあった英会話アンチョコ。さすが観光都市京都というか、運転手さんも大変ですよね。チラッと見るとなかなか実践的な英訳です。220はtwo hundred and twentyなんてまどろこっしい言い方をするより、two twentyの方が現場的には通じます。また、Change. Please. This Machine.という単語ブツ切り方式の方がとりあえずは通じやすい。さらに、at your stopのルビが、「アッ チュアスタップ」になっているのもナイスですね。そう発音した方が通じやすいですから。中々実戦で鍛えられているいいアンチョコだと思います。
4回目を数える日本帰省記です。いよいよ佳境に入ってきました(かな?)。
前回は、「下流社会」に関連して大風呂敷広げて収拾がつかなくなってきているわけですが、 所得格差が広がって、下半分のまったりした「ボチボチ」「そこそこ」カルチャーが浸透していっているという議論、その「そこそこカルチャー」が生きていく視野を狭め、本物のリアリティや実感を微妙に蝕んでいってるような気がすることなどを書きました。
人間生きていれば自然と欲は出てきます。すばらしい人生にしたいとか、至高の愛を体験したいとか、人類の最先端にいたいとか、「これが俺だ!」と言い切れる作品や仕事を残したいとか。まあそんな高尚なことでなくても、「白いメシを腹いっぱい食べたい」「とにかく異性にモテたい」とか、「このボロ家から脱出したい」とか、「今幾らとか暗算しないで心ゆくまで酒を飲みたい」とか、「人にクールだって言われたい」とか、いろいろあると思います。こういった、欲望とか煩悩とかいうものは、本来は所得の上下に関係ないです。格差社会で下流になってしまったから、「ま、ボチボチでいいよ」って具合に淡白になるってのは、本当はどこかしらヘンだと思います。
世界を見ても、歴史をみても、下層階級、ありていにいってビンボー人集団こそが、高尚とは言えないまでも人間臭い欲望をギラギラさせていたりします。「ハングリー精神」ってやつですね。「畜生、上にいってやるぜ」「絶対に手に入れてやる」とか思ったりします。今の日本の格差社会とやらよりも遥かにハードな「階級」のあるイギリスの場合、労働者階級=ワーキングクラスというのは歴然とあるわけだし、そのワーキングクラスの町であるリバプールでビートルズが生まれ、また時代をちょっと下るとパンクロックが生まれた。パンクなんか、"No Future!"(未来なんかねえよ!)という絶望感がバネになって、爆発的なパワーを生んだ。ファッションとか音楽スタイルになる前の原始パンクって、顔に"FUCK"とか刺青いれたりして、「一生まともな人生なんか歩めっこねえよ」という絶望感の大きさがわかるわけですが、あまりの社会的重圧で生きる意欲を奪われたものは、それでもパワーは失わない。意欲という形を取り上げられたエネルギーは、今度は怒りという形で表現される。アメリカだって、奴隷として虐げられてきた黒人層が、ブルースを生み出し、ジャズを生み出し、今も尚新しいものを生み出しつづけている。日本の江戸時代だって、士農工商のガチガチの身分制度のもと、最下層階級である町人層がもっとも活発な動きを見せ、あらゆる文化と経済を生み出してきた。さらには士農工商の枠にすら入れてもらえない枠外下層の河原者という芸人階級が歌舞伎を発展させた。
人間というのは、あるいは生き物というのは、与えられた生命エネルギーをちゃんと発揮したり、表現したり、動き回ってないと病気になっちゃうものなのかもしれません。身分や階層がいかに強固であろうとも、その上下に関らず、生きていくエネルギーは誰の中にもある。社会的に恵まれた者は、出世の階段を上り詰めるとか、手に余るような巨大な仕事に取り組んだり、自分の事業を大きくしたり、冒険をしたりする。そういったエネルギーの表現方法に恵まれなかった階層の者は、その表現方法そのものを自分らで開発する。人間集団がそこに存在する以上、エネルギーはいわば底なしに発生してくるわけで、これはもう治水管理と同じようなもので、無理に押し留めたら決壊・爆発するし、行き場を失っても必ずや何らかの方向を自ら見出し、流れ続けていくでしょう。
つまり、身分や階級などで人間のエネルギーは本来変わるものではないということです。勿論、奴隷状態で栄養失調に陥り、生命維持すら覚束ないような場合は別ですよ。またちょっとでも逆らったら即処刑という、圧倒的に過酷な抑圧によって打ちひしがれ、生きる気力を根こそぎ奪われてしまうような場合もあるでしょう。が、そこまで悲惨でなければ、どんな最下層階級であろうが、睡眠欲や食欲は誰にでもあるのと同じく、そんなものは本来階級とは無関係でしょう。関係があるのはエネルギーの表現形態がどうかということくらいでしょう。ましてや、今の日本社会のように、到底「身分」というほどでもないし、「格差」と呼ぶことすら憚られる程度の微細な差で、なんで意気阻喪し、まったりしてきてしまうのか、それこそが問題だろうと思うのですね。
別に人間性を投げ捨ててまで出世や受験競争に奔走しろとか言わないし、何がなんでも起業しろとか、結婚して子供を作れとか言うつもりもないです。逆にやるなとも言わない。これらは人間の欲望やエネルギーの発散形態の一つに過ぎないし、他にも幾らでも表現形態はあります。パターンや形態なんかどうでもいいんです。問題は、その根っこにあるパワーね。「くそお、○○してえよお!」って思いの強さ。車でいえばエンジン。ボディタイプやシェイプや2ドアとかハッチバックとか、塗装の色なんか何でもいい。要はエンジンがどれだけパワーをだせるか。そのエンジンが、なんか1000回転か2000回転したくらいで伸びが止まってしまうのだとしたら、それは問題でしょう、と。なんでそうなるのかな?と。
何度も言うけど、これは所得の多寡とは関係ないはずです。格差とも関係ない。金持ってるか持ってないかで、生体エネルギーなんか変る筈がない。もしそうだというなら、なんですか、貯金がゼロの奴は脈拍60だけど、貯金が1000万円になると脈拍90になるのか?金持ってると白血球の数が増えるのかい?金が持ってないと血液型が変るとでもいうのか?そんな生体メカニズムと、金の有無なんか本来関係ないでしょ。そりゃ、多少は環境によって変るかもしれないけど(所得が増えて美食をするから糖尿病になるとか)、本質的ではない。むしろ下層階級であればあるほど、意欲とエネルギーが盛んであっても不思議ではない。持ってるものといったら意欲と欲望くらいしかないとか。
しかし、所得格差と生きる意欲が関係あるかのごとく語られていること、また実際にもそうであるかのような現象があること、そこが問題だろうと思うわけです。
なぜか?これ、原因はひとつではないでしょうね。複合的だと思う。ちょっと考えただけで、4つも5つも原因らしきものを挙げられますから。
ざっと思いつくだけでも、@日本社会には幸福に生きていく発想とパターンが乏しいこと、A貧しいという現状を誤魔化す言葉や表現(レトリック)と発想・技術があること、Bそういった誤魔化しがきかないくらいの絶対的貧困ではないこと、Cそれが世界的な商業主義とリンクしていること、D@〜Cの相乗効果として世界観が狭くなり位置感覚が狂うこと、E観察者批判者自体も狂った世界観で見ている可能性があること、などなどです。ああ、考えていけばもっとありそうだな。でも、とりあえずこのくらいで。
@は最も根源的だけど、最も分かりにくいですな。これはことあるごとに言いますが、生物なんか本来、太陽と酸素と大地があったらハッピーになれなきゃ嘘だと思います。「生きている」「存在してる」というだけで無限の喜びが湧いてこなきゃ、「なんか間違ってないか?」と疑った方がいいです。極端な物言いであることは承知してますが、生命エネルギーというのは本来そういうものだと思うのです。プランクトンから、ウィルスから、マウンテンゴリラから、家にいる犬や猫でも、あるいは樹齢数千年の屋久杉でも、アスファルトの隙間から生えてくる雑草でも、なんで皆さんそんなご苦労なことをしてまで生きているのか?やめたらいいじゃん。そんな何千年も同じところにボーっと突っ立って、日照りの日もあれば、嵐の日もある。ナマコなんて、一生海底にゴロンと転がってて何が楽しいのだ?
でも動物や植物は絶対自殺しない。やる気がなくなることもない。盲目的なエネルギーに突き動かされるようにして、生きていく。もう、なにがなんでも絶対生きる。ようわからんけど、生命というのは、本来がそういう自然現象なんでしょうね。原始地球の原始海水のなかで、無限のバリエーションの化学反応がおき、偶然なんらかの組み合わせて、持続性を持ち、自己増殖機能をもった化学反応の組み合わせが発生し、それが生命の起源になったのでしょう。そのもともとの最初の部分で、「飽きっぽい」「すぐやめちゃう」かのような特性を持ってたら、一瞬組み合わさって、それでもう消えちゃってたでしょう。数億数兆というパターンのうち、「なにが何でも続ける」というパターンを持ったものとが、生きつづけ、進化し、細胞を作り、細胞分裂を体得し、自己増殖をし・・・ということで今日にいたるのでしょう。僕が思うに、この地球上の生命というのは、「とにかく絶対あきらめない」「なにが何でも生きる」という根本命題を、その指令中枢に持っている一群なのでしょう。そうでなかったら10億年くらい前に絶滅してただろうし、実際に絶滅しちゃった組み合わせみたいなものも山ほどあったとは思います。
こういった超初期設定は綿々と受け継がれ、僕らの中にもあるはずです。というよりも、体長1−2メートルという生命界の中ではかなり巨大な身体をもった種族が、地球上で60億まで個体数を増やすというのは尋常ではない。人類というのはあらゆる生命の中でも生きるということに関して、人一倍というか、生命一倍貪欲なスピーシーズ(種)なのでしょう。この「とにかく生きる」という盲目的なエネルギーは、万有引力でリンゴが木から落ちるのと同じ自然現象、物理や化学の現象なのでしょう。「今日は気分がすぐれないから、重力のキレが悪い」なんてことがありえないのと同じく、心理状態にお構いなく生じる。どんなに落ち込んでいても一定期間経過すれば、喉も乾けば腹も減るし、眠くもなる。
太陽と酸素さえあれば、、、というのは、生命が生きていくための環境をゲットすれば、基本的にそれで満足な筈だろうし、その満足感は幸福感につながるでしょうってことです。もちろん複雑な現代社会で、物事はそんなにシンプルにはいきませんよ。あれも考えなければならないし、これも心配しなきゃいけない。そんな空なんか見てるヒマないわと。それはよーく分かりますよ。複雑な現代社会の、複雑な人間関係と複雑な法律関係がダンゴのように凝り固まっているというのが、僕が日本にいるとき接していた日常風景ですからね、それはよく分かります。だからこそ言うのだけど、どんなに複雑であろうが、どんなに心配事が増えようが、そんなあなたの思惑に関係なく重力は重力、リンゴは下に落ちます。どんなに何を心配していようが、身体の奥底に発生している筈の原始的な幸福感は存在しているはずです。ただ見えなくなってるだけで。
しかし、大体なんでそんなに複雑にせなならんのよ。生きてるだけでOK!幸せって話なのにさ、わざわざ大汗かいてその幸福感を減衰するような真似をしなきゃいけないのさ。頭悪いぞ、それって思うわけですよ。もちろん、頭が悪いわけではなく、頭がいいからこそ、より快適なものを求めてあんなこともし、こんなダンドリもかましているのでしょう。そのダンドリの成否に一喜一憂もするでしょう。でも、なんのために?
僕は語学学校を紹介するのが仕事だけど、それ以上の熱心さでラウンドに出なはれ、バガボンドみたいに荒野に一人武者修行に行きなはれってお勧めしてます。別に行ってもらったからといって僕のところに一セントの収入が入るわけでもないのですが、やっぱりオススメしちゃいますよね。それはなぜかというと、単純に楽しいからですが、その楽しさがものすごい身体的根源的なところで楽しいからです。生活は極端にシンプルになります。気に入った方向に進み、気に入った場所で寝泊りし、お金がなくなったら農場で働く、ただそれだけというシンプルさ。それを何ヶ月か続けていくと、忘れていた身体感覚が戻ってくるはずです。生命の喜びみたいな、「生きてるだけで既にハッピー」という充足感が得られるでしょう。もちろんこれも人によりますが、生命ってもともとそう出来ているんだから、そうなる可能性は高い。それは喉がカラカラに渇いているときに水を飲んだら美味しいと感じる可能性が高いといってるのと同じことです。そら、美味しいと思わない人もいるかもしれないですよ。でも、思う人の方が多いでしょう?それは、結構生きていく基本だと思うのですよ。なにかを見失ったときは原点回帰、原則に戻れです。
ところで、あなたの生きていく基本的な快感/幸福度のバロメーターを簡単にチェックする方法があります。例えば、「今日は天気が良くていい気持ちだなあ」って日があるでしょう?そのときの「気持ち良さ」がどのくらいか、です。青空と太陽と緑をみただけで、もうイヤなことなど綺麗サッパリ忘れるくらいいい気分になれるのか、まあボチボチ「天気、いいね」くらいの感じなのか、天気どころではないのか、です。この快感度が低ければ低いほど、生物的身体感覚は磨耗してると思ったらいいです。「むむ、俺はヘタレかもしれんぞ」と思ったらいいです。僕も日本にいるときそう思って、「これはマズイ」と危機感を感じてこっちに来たんだし。
これもエッセイのかなり初期に書いた話だけど、オーストラリアに住み始めて最初の頃、ピーターというオーストラリア人とエクスチェンジをしました。二週間に一回だったかな、土曜日に家にきてくれて英語と日本語を教えあいっこするわけですね。で、なんだか知らないけどその頃は土曜日になると天気のいい日が多かった。エクスチェンジが一段落したとき、そのピーターが言うのですね、「いい天気だ!」って。「今日はこれからどうするの?今日は見てのとおりすごいいい天気だよね。何をするにも最高だよね。芝生の公園にいって寝っころがったら気持ちいいよ。フェリーに乗って海をいくのもいいよね。なにしろこんないい天気なんだから何をやっても最高だよ」って、もう目をキラキラさせて、芯から嬉しそうに喋るのですよ。彼は、僕から見てもかなり聡明で知能指数の高い人で、思慮深く、きちんとした仕事にもついてるし、かなり博識。その彼が、少年のような笑顔を顔いっぱいに浮かべて、心から嬉しそうに言うんですよ。「いい天気だ」って。
僕にとっては結構これがカルチャーショックで、「これがオーストラリアか」と思いました。だって、いい年した大の大人が、これだけ無邪気に喜んでる姿や顔というのを、僕は日本にいるとき滅多に見たことがなかったです。しかも、喜んでる理由が「天気がいい」だけでしょ?僕にとってはオーストラリアはまだ珍しいから、天気が良くて喜ぶのはわかるけど、彼なんてここで生まれ育ってるわけで、別段変り映えのしない日常の風景に過ぎない筈です。それなのに、ここまで無邪気にハッピーになれるというのがスゴイなって思ったわけです。晴れるたびにここまで幸福になれるんだったら、そら金はかからんわと。そりゃあ、いつもニコニコしてられるでしょうよ、と。でも、それって、もしかして、物凄く大事なことなんじゃないかと。
そこで@の話になりますけど、そういった「生きていく基本」からしたら、今の日本は、あんまり「基本に忠実」じゃないです。人がそこに生きているという、ただそれだけで祝福しあいましょうってムードではない。道行く見知らぬ人々が"It's a fine day!""Yah, beautiful day!"って声を掛け合い、笑い合うような雰囲気ではない。なんでやねん?なんで俺らはそんなにグランピー(不機嫌)なのよ。
日本社会というのは、どこかしら「ダンドリ命」みたいなところがあるでしょう?やれ将来の受験だとか、やれキャリアだとか、やれ老後の蓄えだとかさ、ダンドリばっかじゃん。別にそれらは悪いことではないですよ。計画的に物事を遂行するのは大事なことです。行き当たりばったりだったらロスも多いし、成功率も低いでしょう。それはわかる。でも、なんのためにダンドリをカマしているのか?です。全ての行動、全ての計画、全てのダンドリは、いったい何のために行われるのかといえば、「幸福に生き」たいからでしょう?幸福に生きること以上に重要な事柄ってこの世にないでしょう?ありますか、あるんだったら教えてください。
そして「幸福に生きる」ということが実感的に把握できてなければ、いくらダンドリを組んでもあんまり意味がないのではないか?目的地が分からないのに車走らせたり、ドライブマップを買ったりしてても仕方がない。またその目的地で何をするのかが分からなかったら行く意味自体が疑問です。日本で盛んに行われている段取りは、その殆どが消極的なものだったり、環境整備のためのものだったりするように思われます。早い話が「お金」です。こういう生き方をすると生涯収入が多いとか、老後の蓄えが多くなるとか、収入の多い職業に就く為に有利とか。そして、お金がない老後はミジメだよとか、こうなるとドツボだからそうならないように保険に入りましょうとか。実際、世界的に見ても貯金や保険が大好きでしょう。
そりゃお金を沢山持っていた方が幸福になれる環境は整うでしょう。お金のためにギスギスしなくても済むし、ボロ家に住まなくてもいいし、お金がないためにみすみすチャンスを逃すことも無いでしょうし。でも、それはそうなる確率が高いというだけで、そのことイコール幸福ではない。それはあくまで環境整備であって、幸福そのものではない。野球をやるためにはグラウンドが必要だし、出来ればコンディションの良いグラウンドの方がいいし、ナイター設備があったり、シャワールームがついていた方がいいだろう。駅から近いほうが便利はいいし、観客席も広い方がいい。でもグラウンドや球場がどうであるかというのはあくまで環境であって、いくら環境を整備しても、そこでプレイする人が居なかったら意味がないし、そもそもそこで何をプレイをするのか分からないのだったら環境を整える必要なんかあるのか?って話になる。お金は環境だから、それは必要なのだけど、何をするために必要なのか。その本体的目的、つまりどうやったら幸福になるのか、どういう状態になって幸福になりたいのかが分からなかったら意味がないということです。
これって、良くある話ですよね。「手段の目的化」という。トンテンカンと球場を作って、いい土を買ってきてグランドに入れて、それをトンボで整備して、素晴らしいプレイグラウンドが出来たとして、さてそこで何をプレイするのか?必死になってお受験やって、エスカレータでいい大学に進学して、いい会社入って、収入が安定して、老後の蓄えもできたと。いいグラウンドが出来たと。素晴らしい環境が整った。で、その環境で何をしたいわけ?という根本的な部分ですよね。そこが分からなかったら何のために何をやってるのかわからないじゃないか。
大事なのは「何のために」ってご本尊の部分をもっと考えること、話し合うことじゃないでしょうか。仏壇ばっかり必死で磨いても、なかにご本尊がいなかったらただの箱です。
じゃあ、そのご本尊ってなんなのよ?といえば、ダイレクトに幸福になるなり方でしょう。野球とグラウンドの例えでいえば、「野球をする楽しさそのもの」でしょう。投げ込んだボールが思ったとおりカーブしてくれたときの快感、ボールを真芯で捉えた打球がグングン伸びていくときのうれしさ、必死になって背走してジャンプ一番大飛球をキャッチしたときの達成感、仲間と抱き合って喜ぶときの連帯感などなど。その嬉しさ、快感、喜びこそが幸福感のモトでしょう。ボールが宙高く舞い上がる、ただそれだけのことで、ここまで心がウキウキする、ムキになる、うれしく感じる。そこが大事でしょう。そして、それを思う存分体験したいから、場所がいるよなって話になり、出来れば穴ボコなんかあいてない方がプレイしやすいよな、夜も照明がついていた方がいいよなってことになる。環境を整えましょうかって話になるのがスジだと思います。
野球をしたくてたまらない少年が、ちょっとした空き地で壁にボールをぶつけたり、部屋のなかでグローブを拳でパンパン叩いたり、椅子に座りながらボールをもてあそんだりするように、やる気があったら人間どんな環境でもやります。環境整備は大事なことかもしれないけど、もっと大事なのはやりたいというその気持ちでしょ。それさえあれば、環境なんか全然整ってなくてもやり始めちゃう。禁止されても、怒られても、殴られても、それでもやる。そんなもんでしょ。
なんか本末転倒してるんじゃないかな?と思うのは、段取りとか環境整備ばっかり考えているうちに、肝心の部分がよく分からなくなってるところってあるんじゃないかって。「○○しておくと何かと有利だから」「とりあえず○○くらいはやっておかないと」とかよく言いますけど、その「何かと有利」の「何か」って具体的にはなんなのだ。「とりあえず」とかいうけど、それってそこで思考停止していることではないのか?そんな包括的、暫定的なフレーズを使って、「自分にとっての幸福とはなんだろう?」という一番肝心の部分を突き詰めて考えていく作業を怠ってはいないか。身体の奥底の声に耳を澄ませて聞くことをサボってないか。
手段の目的化、目的なき環境整備がなぜ起きるかといえば、その方が簡単だからです。手段や環境は、思考のレンジが短いから把握しやすい。マラソンランナーの「とにかく次の電柱まで走ろう」というのと同じく、射程距離が短い方がわかりやすし、とっつき易い。それはそれで実行にあたっては重要なスキルかもしれない。しかし、最初からそんなやり方で考えていたら、大事なものを見失ってしまうでしょう。「やりたいことが何もない」「何をやりたいのか分からない」というのはよく聞く話ですが、それって「生きていても面白くない」ってことでもあるでしょう。それはマズイでしょう。なぜそうなるのか?
何故そうなるのか?といえば、すごいミもフタもない言い方をすれば、「下手だから」「バカだから」ってことになるんでしょうね。ヒドイいい方なのは百も承知してますけど、でもこういうことはハッキリさせておいたほうがいいです。幸福になるためには、運とか、資産とか、才能とかいろいろな条件があるかもしれないけど、実は一番大事なものは「技術」ではないでしょうか?「幸福になる技術」ってのは歴然とあると思います。それは、「手練手管で男をひっかけて玉の輿」っていう幼稚な話じゃないです。この技術は幾つもの階層に分かれると思いますが、根っこにあるのは「何をしていると自分はハッピーなのか?」ということを感じる能力を研ぎ澄ませることでしょう。チューナーの感度を良くすることです。「あ、今の感じ、いい!」「え?今なんかゾクッとした」ことが普通に生きていても生じます。それも思わぬところで生じます。多忙な日々だったりするから、一瞬走り抜けてそれっきりって感じでしょう。あまりに微弱でつい見過ごしてしまいがちでしょう。それをパシッとキャッチするのは、これはもう技術だと思いますよ。この感度がトロかったら話にならないでしょう。
次に感度を良くするためには、視野や体験領域を広げないとダメです。出来れば地球の隅々まで歩き回ったらいいし、100ヶ国以上の食べ物を食べたらいいのでしょうが、そこまでしなくても意図的に未知の分野に広げていった方がいいです。そして出来ればより純度の高い「本物」に出会えたらいいです。「本物」の持つ凄味というのは、それこそ「落雷に打たれたように」とよく表現されますが、圧倒的です。ただし、自分のコンディションとか、置かれている状況とが、曰く言いがたい諸条件が整わないと、せっかく本物に接していてもガビーンとはなりません。だから数をこなす必要があります。「そのうち当る」ということで。こういった体験は、ダイヤモンドの原石のようなもので、中々見つかないのですが、一ついいのを見つけてしまえば、それだけで一生OKになったりもします。
これは別に僕のオリジナルな発想でもないし、変ったことを言ってるつもりもないです。村上春樹の海辺のカフカにもありましたよね。ホシノ君が喫茶店でベートーベンの大公トリオを聞いてたら、知らない間に自分が変っていくシーンがあったでしょ。ホシノ君に「そんなことってあるの?」って問われた大島さんが「もちろん」と答えるシーン。過去のエッセイでも紹介した個所で、ここでもまた引用しておくと、「じゃあひとつ聞きたいんだけどさ、音楽には人を変えてしまう力ってのがあると思う?つまり、あるときにある音楽を聴いて、おかげで自分の中にあるなにかが、がらっと大きく変わっちまう、みたいな」 大島さんはうなずいた。「もちろん」と彼は言った。「そういうことはあります。”何か”を経験し、それによって僕らの中で”何か”が起こります。化学作用のようなものですね。そしてそのあと僕らは自分自身を点検し、そこにあるすべての目盛リが一段階上に上がっていることを知ります。自分の世界がひとまわり広がっていることに」
そういうことがあるのだということを過去の体験から導き出して知っておくこと。これが本当の生きていく賢さだと思います。そして、そういうこともありうるんだと思いながら、ほんの1−2%でいいから意識のテンションを高めて、それに備えておくことは技術でしょう。「バカでヘタ」だったら、そういうことに中々出会えないから、幸福になりにくいということです。ここで気軽にバカとかヘタとかいってますが、これは学校の勉強が出来るとか、仕事が切れるとかいうこととは、まーったく関係ないです。むしろ「いい学歴といいキャリア」なんて塗り絵みたいな人生コースは、このあたりの本質的なところが馬鹿で下手糞な人のための救済策みたいなものかもしれません。「何も考えずに勉強さえしてりゃいいんだよ」という。簡単だもんね。
このことを逆に言えば、「視野や世界の狭い人は幸福になりにくい」という法則があるのかもしれません。砂金取りやってるようなもので、半径3メートルだけで砂金取ってても見つかる確率は低い。それを半径10メートル、100メートル、1キロと広げていくことによって、ごっつい原石に出会える可能性もまた高まるわけでしょう。
あんまり幸福じゃなかったら、日々そんなに楽しくないですよね。楽しくないんだったら、やる気もおきませんよね。なにをやりたいんだか分からないけど、とりあえず環境整備事業でもやるかって話になりがちですよね。将来何になりたいかわからないけど、とりあえず受験勉強でもするかって。そういえば日本の津々浦々で、何をどう使うか誰もよく分かってないけど、やたら立派な多目的ホールが建設されてますけど、似たような話なのかもしれません。環境整備はお得意なのですな。整備された環境で何をするかは分からないし、それを見極めることは不得手なんだけど。
技術論でほかに大事なことは、まあ育て方なんでしょうね、教育です。でも、これって世の中の大人どもが生き生きハッピーに暮らしているのが大前提だと思います。自分がハッピーになるなり方を知らなくて、子供に教えられるわけないもんね。親をはじめとする大人の背中を見て子供は育つのだから、子供の教育を考えるならまず自分の教育からです。
いかん、それこそ「とりあえず」で書き始めた@〜Eの@すらマトモに終わっていないではないか。えーと何を書くんだっけな。自己引用をすると、「@日本社会には幸福に生きていく発想とパターンが乏しいこと、A貧しいという現状を誤魔化す言葉や表現(レトリック)と発想・技術があること、Bそういった誤魔化しがきかないくらいの絶対的貧困ではないこと、Cそれが世界的な商業主義とリンクしていること、D@〜Cの相乗効果として世界観が狭くなり位置感覚が狂うこと、E観察者批判者自体も狂った世界観で見ている可能性があること」でしたね、はいはい。まあ、この箇条書きだけで分かりますよね?分からないか。
A〜Cはひとかたまりのことで、前回もちらっと触れましたけど、今から書き出すと収拾がつかなくなるから持ち越し。Dも前回書いたけど、これも持ち越しですね。だからEです。Eについて触れましょう。
「下流社会」で所得だけではなく生きる意欲自体が低い連中が増えている論ですが、それも物事の一面に過ぎず、大事なものを見落としてる危険性があるかもしれないってことです。自称上流の方々の、世間の価値尺度にぴったり擦り寄って、やたら上昇志向や成功願望が強いことが正しく、「別に上なんかいかなくたっていいし」って暢気にやってる人々がダメだってこともないと思うのですよ。それを「下」流というネーミングをすること自体、一つの価値観、世界観に基づくものであり、それがいいかどうかってことも真剣に考えてみるべきだとは思います。
「下流社会」という本をパラパラとめくってみて、「さて、自分はどこなんだろ?」と思ったら、なんか箇所箇所によってすごいバラバラなんです。あるときはベッタ下流になったりして、「おお、俺は下流だったのか」と新発見をしたり、あるときはすごい上流にカテゴライズされてみたり。大体僕みたいに弁護士やめてオーストラリアに行っちゃって極楽トンボに猫と暮らしている奴なんか、「上流志向=生きていく意欲」という価値観からみたら、下流も下流、ド下流ですよ。「別に上にいかなくたっていいんじゃない?」どころか、その「上」とやらから勝手に降りてきちゃったわけだもんね。だから、のんべんだらりとしているような「下流」の人々に「おめーら、生きてんのかよ」と胸倉掴んでブンブンやりたい気分が半分ありながらも、あとの半分では妙にシンパシーも感じるのですね。「あ、俺もそうなのかな?」と。
じゃあ、いわゆる「ロハス系」?というと、このロハス="Lifestyle of health and sustainability"という、いかにも広告代理店がアメリカから引っ張ってきたっぽいネーミングには違和感があります。実際、雑誌「ソトコト」が広めて、その関連企業と三井物産、あるいは電通あたりがちゃっかり商標登録をしてたりするわけでしょ。自分で新しい言葉や概念を紹介して、広めて、広まったところで「ロハスというのはウチの商標だから、使うんだったら商標使用の許諾料を払ってね」というビジネスでしょ。サブマリン特許(広まるだけ広まったあとに特許料を請求するやり方)みたいなもんでしょ。
まあ、これらは日本国内のビジネス話に過ぎないからそれはさておき、内容的に言ってることや感じてることは自分の発想に近いんだけど、でも同時に「なんか違うんだよなあ」ってのはすごいあります。いや、別にその発想そのものは否定もしないし、嫌いでもないし、そういうエコ的な部分を大事にして生きている人をレスペクトとすることはあっても、揶揄するつもりはない。ただ、自分はどうか?と言われたら、なんかもっと不純物が一杯入ってそうで、身体に悪いものこそが好きみたいな部分もあるんですよ。ヘビースモーカーだしね。やめる気ないしね。健康も環境も大事なんだけど、今回の流れでいえば、それこそ「環境」だろ?っていう。いや大事ですよ。大事だけどご本尊ではない。ヘルシーではありたいけど、ヘルシーであることが究極目標ではない。身体を鍛えて健康にってのは賛成だし、身体を鍛えようとは思うのだけど、心身健やかだけではなくて、鍛えながらも「3秒で素手で人を殺せる技術を身に付ける」とか邪悪な要素を入れてくれた方が燃えるという。自分の中にはもっと「毒」があり、その毒もまた自分自身のアイデンティティだと思ってたりもします。詭弁を弄するわけではないですが、大自然と共生していたアメリカインディアン達が吸っていたのがタバコで、それがコロンブス経由で世界に広まったという話を聞いたことがあります。あれだけ大自然と一緒に暮らしていたエコの達人みたいなインディアンが、実は身体に悪いことが大好きだったというのがね、なんか「人間、そんなもんでしょ」って気もするんですよ。これは斜に構えて、ひねくれて言ってるんじゃないくて、そういう矛盾を抱えていることが人間の愛らしさだとも思うわけです。
あれこれ書いてますが、巨大な卵を飲み込もうとしている蛇みたいなもので、まだまだ話は途中です。ここまでを整理すると、チマタでよく言われているように、小泉内閣の規制緩和→格差社会の出現→下流社会の登場、みたいな論理の流れがあるわけですが、「本当にそうか?」という疑問は、僕のなかにすごくあります。規制緩和というほどまだまだ緩和は進んでないし、格差というほどの格差はまだない。また本当それって下流社会なのだろうかという疑問もあるし、そもそも「下流」なの?という気もする。また、格差がそれを招いたというのも、そうなのかな?って思う。
格差でいえば、オーストラリアの方が日本よりもずっと格差が激しいですよ。相続税がないからコツコツ長く住んでれば結構資産は増える。ここ10年で不動産価格も二倍以上にあがってるから持てる者と持たざる者の格差はいよいよ激しくなっている。だけど、下流が無気力に引きこもってるってわけでもないよ。日本人の目からみたら、結構ハッピーそうですよ。さらに、香港や東南アジア諸国における格差の激しさはさらに巨大でしょ。金持ちはトコトン金持ちよ。日本人のワーホリさんや留学生が週100ドルちょいのシェアを必死に探している横で、インドネシアのお金持ちのお嬢さんが、いきなりマンションを3000万円くらいで買ってたりもするわけですよ。日本人の留学生でとりあえずマンション買っちゃおうかって、そこまでリッチな人は皆無に近いでしょ。Chatswoodあたりでは、二十歳そこそこの中国人のボンボンがBMW乗りまわしているしね。お隣のインドにいけば、格差の決定版のようなカースト制度が何千年も続いているわけですよ。でも中国もインドも元気いいしね。だから格差社会→無気力な若者の増加という図式に、うなずけないものを感じるのです。
むしろ、この程度のバラエティを格差といって大騒ぎするメンタリティと世間の狭さぶりの方が問題なのではないか。もし本当に格差ともいえないくらいの微細な変化が訪れただけで無気力になるのだとしたら、それはもっと別の問題だと思いますよ。ちょっと石につまづいて転んだだけで死んでしまうとか、多少古くなった牛乳を飲んだだけで危篤になるみたいに、それは転んだことが問題なのではなく、その程度のことで劇的な症状を生んでしまう基礎体力の無さこそが問題でしょう。
最初の方に延々書いておいたように、人間のパワーは格差とかビンボーとかそんなもんでは滅多に減殺されたりはしません。30-40年前の日本人は今よりも絶対的にビンボーだったけど、バイタリティはありました。どこかの発展途上国のオジサンが毎日工場に働きにいって、月収わずか1万円だったりします。子だくさんで子供も7人います。一家9人が二部屋のボロ家にすし詰め状態で住んでます。おまけに犬まで飼ってます。お父さんが工場から家に帰ってきたら、「あ、お父さんだ!」で子供達と犬が一斉に押しかけてきて、お父さん押し倒され、犬にペロペロ舐められたり揉みくちゃにされたりしています。幸福そうじゃん。ビンボーとバイタリティは直接的には関係しない。
人間が無気力になるのだとしたら、これも前に書いたように、圧倒的に強大な「何か」によって打ちひしがれているときでしょう。根こそぎ気力を奪われたときでしょう。だから、「圧倒的ななにかに打ちひしがれているか」というのが問題だと思います。そして、それは本当に「圧倒的な何か」が実在するのか、それともその実態はショボくて屁みたいなものなんだけど、精神が弱ってるからすぐ打ちひしがれてしまうのかのどっちかでしょう。あるいはその両方か。
それを所得格差という軸で見ようとしていて、それはそれで慧眼だとは思いますが、でもそれだけで全てを解明することは出来ないのではないか。一見、「なるほどね」とすんなり説明がつきそうなんだけど、よーく考えると「それって全然説明になってないじゃん」って気もするのですよ。
「下流」やら「無気力」やら言われている人々の特徴だって、真に自由で個性的な生き方をしていこうとする人の場合、結構あてはまってしまったりするのですね。だって自分なりの価値を信じて、世間に突っ張って生きていこうとしたら、どうしても不器用になるし、金銭的には恵まれなかったりするケースが多い。でも、そういうユニークな生き方をして、自分なりに幸福のあり方を追求している人たちが増えることは、今の日本にとって喜ばしいことではあっても、嘆くことではないでしょう。反面、「こりゃあ問題だわな」と思われるような一群だっているのでしょう。玉石混交だと思う。でもって、一つのカテゴリーのなかに玉も石も混じっているのであれば、それも本質的なところで混在してしまうのであれば、それはそもそもそのカテゴリーの立て方自体がおかしいんじゃないか?って疑問もまた生じるわけです。
仕事に勤勉であると自負する日本人も、いざ政治参加になると投票率50%とか悲惨なわけで、投票率100%に近いオーストラリア人からしたら、「日本人は無気力だ」というレッテルを貼られるわけです。土日返上、サービス残業当たり前の日本人からしたら、顧客を待たせ、納期なんか努力目標に過ぎないといってちゃっちゃと5時で帰ってしまうオーストラリア人のことを「無気力だ」と非難したくなるわけです。だからどんな基準でものを見るか、何をもって良しとするか、でしょう。
じゃあ何を基準にしたら一番妥当なのか?というと、これってかなり直感的な要素だと思うのですよ。他人の生き方を見ていて、「あ、いいな」「素晴らしいな」「素敵だな」と直感的に思えたらGOODで、「なんかやだな」と思えたらNGだという。すごく曖昧なんだけど、根っこにあるのはこれでしょう。じゃあ、僕らは何をみると「いいな」と直感的に思えるのかといえば、つらつら考えるに、生命エネルギーがキラキラ輝いているようなものを見るとうれしく思うんじゃないのか。赤ちゃんとか動物を見てるとなんでなごんでしまうのか、なんでいい気分になれるのかといえば、「生きる」ってパワーが発散されてるからだと思うのですよ。もっと他に表現の仕方はあると思うけど、要するにそういうことでしょ?という。
「下流社会」的な所説がなんで物議を醸すのかというと、ドンピシャではないけど誰しも思い当たるところがあるからでしょう。「ああ、そういえば」と。何に思い当たっているのか?と突き詰めていくと、この生命キラキラだと思うのです。「なんかキラキラしてない奴らがいるな」という。それがどうにも風景としてうざったいなと思ってる。死体と一緒にゴハン食べても美味しくないように、自分の生きている空間に半分死んでるような連中がいると鬱陶しいなと。そんな感覚が根っこにあって共有してるから物議を醸すのでしょうね。でも、キラキラしないのは、格差社会だからか、下流社会だからか?というと、それも貴重なサジェスチョンではあるのだけど、それだけじゃないんじゃないかってことです。
それだけじゃないんだったら何があるのよ?というのが本稿の課題で、それを考えているわけです。日本に帰ったときに妙に感じた違和感やら、リアリティの無さやらとそれはリンクしてると思うし。続きを書きます。うーん、まとまるんだろうか(^^*)。
文責:田村
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