今週の1枚(06.08.21)
ESSAY 272/日本帰省記2006(3) いわゆる「下流社会」
写真は、JR東海道線、大垣から米原に向かう途中のどこか(よく覚えていない)。本文の内容とは全然関係ないです。なかなか好きな写真だったもんだから。
先週に引き続き、三回目の日本帰省記です。
空港から実家に帰ると三浦展氏のベストセラー本「下流社会」があったので、ヒマをみつけてパラパラと読了しました。こういう本を読みながら、日本の町を歩いていると、どうも頭がオーバーダブするというか、そういう視点で見るようになってしまって良くないです。でも、出来るだけ偏見やを取り除いて考えてみても、「でも、まあ、言えてる部分はあるかも」って思ったりもします。
この本についてはベストセラーになったということもあって、ネットで皆さんいろいろ書評を書いてます。さっき適当に見てきましたが、あんまり読ませる書評には巡り合えませんでした。特に批判的な書評は、その批判の仕方が、やれサンプルケースが少ないとか、偏見や独断であるとか、その種の通り一遍のものに過ぎず、あんまりピンと来なかった。まあ、本を読んで丸っぽ鵜呑みにする人に対しては、こういう批判も「注意しなさいよ」と警鐘を鳴らす意味はあろうかと思いますが、もともとは著者自身も認めているように「全ては仮説」であり、ある程度調査をしたところ浮かび上がってきた像をスケッチしてみたらこうなったということでしょ。「俺にはこういう風に見えるけどな」という漠然とした話をしてるんだから、いちいち細かいところで根拠が薄弱とか、定義が甘いとか言ってもしょうがないんじゃないかな。少なくとも僕には有意な批判には思えなかったし、「なるほど、そうも言えるのか」とはたと膝を打つようなものでもない。なんというか、強引に「かまやつ女」とか「ロハス系」とかにカテゴライズされ、アケスケに特徴を決め付けられた人の感情的反発という、批判のモチベーションみたいなものが透けて見えちゃうというか。
この本、日本に置いてきちゃって手元にないけど(そう何度も読み返す必要もないとは思うし)、僕にとっては示唆的でした。示唆的な部分がある、「使える部分」がある。 それを「下流」とよぶかどうかネーミングの問題だけど、現象として「下流」と呼ばれる人間集団、あるいは人々の特徴的な姿勢があるとします。すなわち、『「下流」とは、単に所得が低いということではない。コミュニケーション能力、生活能力、働く意欲、学ぶ意欲、消費意欲、つまり総じて人生への意欲が低いのである。その結果として所得が上がらず、未婚のままである確率も高い。そして彼らの中には、だらだら歩き、だらだら生きている者も少なくない。その方が楽だからだ。(「はじめに」より)という指摘があります。
それと同時に、「上流」と呼ばれている集団があるのだけど、この上流感覚がなんとも薄っぺらく感じられることです。統計的にどれだけ有意なものかは議論の余地はあろうけど、大まかな傾向としていえば、上の世代になればなるほど「自分は上流」と思う人が少なく、下の世代になればなるほど上流だと思う人が多いという指摘。本当か間違いかは、何度もいうけど未検証だけど、「ふむ」とは思った。
もう一つ、階層の固定化、流動性の低下です。下流の親から生まれた子供は一生下流というか、上に行きたくても行く術が閉ざされていくという問題点。また、二次元的な距離移動すらあんまりしなくなっていることです。大学で教えている著者本人の体験で語られるのですが、○○大学だったら、その大学のある私鉄沿線に実家がある学生が多い。あまり遠距離からやってこない。これが東大とか京大とかだったら遠距離でも入試を受けてるだろうけど、さほど有名ではない大学の場合、「手近で間に合わそう」みたいなノリがあり、これが買物、就職、結婚などにも出てきていると。これも本当かどうかは分かりませんが、「ほう」と思った。いずれにせよ、日本社会の空気が粘着性を帯びてきて、あんまり自由に上下左右に動き回りにくくなってきており、かつ人々もそんなに遠くに行きたいとは思わなくなってきていること、すなわち客観主観両面における流動性の低下。
ちなみに本屋でちょっと立ち読みしたレベルですが、規制緩和→格差社会→階層固定化/新保守化/新封建社会みたいな図式を唱えている論者もいたりして、論じている根っこは一緒なのかなと思います。
「おっかしーな、どこで間違ったのかな?」みたいなことは社会でも個人でも良くあります。規制緩和の本来の趣旨は、自由に新規参入できることによる社会のダイナミックな活性化→結果として格差は広がるかもしれないけど、それを上回る階層や就職の流動性の上昇って絵だった筈です。ニュービジネスをガンガン実現していける環境が豊かになるほど、チャレンジャーが増え、成功者も増える。昨日までプーやってた奴でも、1年後にはベンツ乗り回してたりするという夢と希望のある社会。もちろん規制によって守られてた人々は失業の憂目にあうかもしれないし、チャレンジャーが全員成功するわけでもない。というか成功するのは一握り。でも一人が成功して100人雇えば効果100倍、波及効果はさらにある。かくして、日本社会は、それぞれがそれぞれの価値観にしたがって思いっきり生きていける、自由で活力のある社会になってる「筈」だった。
もちろんそういう現実も確かにあります。むしろそういう傾向の方が強いのかもしれない。しかし、真実がどうあれ、「やあ、素晴らしい世の中になった」と誰も彼もがハッピーな顔してるって感じじゃないですよね。一つは規制緩和といってもまだまだ序の口で、本当に切り込むべき奥の院では甘い汁を啜ってる連中が山ほどいるってこともあるでしょう。でも、規制が薄くなって自由になったのに、なんで「無理せんと、ほどほどでいいじゃん」ってまったりした感じになっちゃうんだろうね。たまたま今社会の底辺的なポジションにいたとしても、本来そこで話が終わるわけではない。「今に見てろ」って野心があるうちは全然OKだし、普通下にいれば上昇意欲も湧く。多くの連中はそこから這い上がってきたのだし、僕が司法試験を受けてた周囲の連中は極貧自慢をしてました。「アルミサッシのついた家に住みたい」とか、タバコに番号振って「3時になったら3のタバコを吸ってよし」みたいなことをしてたり。でも、別に意欲はあった。というか意欲しかなかった。
「あれ、おっかしーな?」で思い出すのは、いわゆる「ゆとり教育」ですね。詰め込み式の教育だけでは知識は増えても創造性や考える力、さらに人間としての豊かな感性は育まれない、だから詰め込む量を減らしてゆとりある教育にすべきだ、と。これ今考えてみても間違ってないんじゃない?正論じゃないの?それとも知識はあるけど全然使えない受験エリートがいいわけ?それじゃダメだっていうのは、「受験戦争」という言葉が発明されて以降、国民をあげて散々言い募ってきたわけで、今更自分はそんなこと知らんなんて言わさないですよ。「もっと詰め込むべきだ」なんて言ってた奴は絶無に等しい。それがどうでしょ、今となっては、ゆとり教育こそ諸悪の根源のように言われているという。つまりゆとり教育によって、創造性溢れる人間が生まれたのではなく、ただ単純に知識もなければ辛抱もない馬鹿ばっかり量産されたから(事実かどうかわからんけど)、これだったらまだ受験エリートの方がマシだってことでしょう。創造性はないかもしれないけど、少なくともストレス耐性くらいは叩き込めるわけだし。
「自由」というのは恐ろしいもので、上にのぼる自由もあれば、下に落ちる自由もある。どうなりたいかは自分次第。規制緩和で努力した人が正当に報われるようになったら(あくまでこれまでとの比較でだけど)、さぞや皆さん生き生きするかというと、「一生ボチボチでいいんじゃない」とムードになる。ゆとり教育で子供の自発性と創造力を期待したら、怠けてワガママな子供になった。これじゃ、ここ10年〜20年の壮大な社会的な実験の結果、日本人に「自由」を渡したら上にあがる可能性よりも下に落ちる可能性が高いってことにならんか?それって人間として情けないじゃん。そういう民族だったわけ?だから、「あれ、おっかしーな」って感じになるわけです。
こんなの見てたら、エリート官僚の愚民感覚が正しいかのように思えてきちゃう。つまり、国民なんか平均を取れば愚かで怠け者なのだ、高尚な議論を理解しようともしないし、高貴な人間性を追及するために努力なんてするわけない。しょせん愚民。大衆なんてのはブタなんだから、ブタに「分かってください」と説得しても無駄。ブタに創造性とか期待しても無駄。アメと鞭で徹底的に調教しないと使い物にならない。努力すれば素晴らしい人生が待ってたとしても、怠けていても誰かに怒られないんだったらこのままで怠けていようって思うのもブタならばこそ。ブタに高尚な政策は不要。そりゃ、国民の中には素晴らしい人材も、意欲に満ちた高貴な人格をもってる人も沢山いるけど、数の問題でいえばあくまで少数派。政策に理想は必要だが、事実認識に希望的観測を持ち込んではいけない。事実はあくまで冷徹に見るべし、、、とかなんとか。
かなりデフォルメしてるけど、程度の差こそあれ、また立場の差こそあれ、ある程度日本で「責任ある立場」に立たされた人は、似たような感覚を抱いているでしょう。少なくとも、抱いてしまう瞬間が一秒もなかったとは言えないんじゃないか。あなたが教師になって熱血的に頑張っても、トンチンカンなクレームをつけてくる馬鹿な親がいたり、またそういう親に限って理解力はないわ、声が大きわでどんどん理不尽なトラブルに発展し、ヒドイ目にあう。段々と経験を積むにしたがって、「結局、無駄」「トータルでは赤字」ということを学び、事なかれ的な管理職になっていく。市町村の役場の方々も同じでしょう。大多数は常識豊かな住民だけど、ワケのわからん難癖をつけてくる変な人間はいる。毎日一回とは言わなくても、週に一回は来る。滅茶苦茶面倒臭い。「ったく、もう、こいつらは」って腹に据えかねるモノが増えてくる。これが政治家なんかやろうものなら、お上品な口をききながら息子の裏口入学の斡旋やら、交通違反のもみ消し、就職の口ききを頼んでくる選挙民の多いこと。また他にやることもないヒマな連中が後援会とかにトグロを巻いていて、やれ冠婚葬祭や盆暮れ正月の付け届けが少ないとか、第二秘書が届けに来るのはけしからんとか、挙句の果てに「誠意ってもんが感じられないんだよなあ」と愚にもつかない文句ばっかり言う。複雑な政策なんか理解してるのはただの一部。後援パーティでツーショット写真に写って仲間に自慢したい一心で詰め掛ける連中相手に笑顔で握手し、お酌返杯を繰り返し、カラオケでデュエットし、壇上で土下座する。馬鹿馬鹿しくってやってられっか、と。
誰もがどこかでこの種のことを体験し、学習し、「世の中馬鹿ばっかり」という不快な想念を抱き、人間というもの、人生というもの、その集合体としての社会というものに対して、なにかしらの「諦(あきら)め」を抱く。何十倍かに稀釈されてはいるけど、絶望感が視界を淡く彩る。「馬鹿に期待しても無駄」という意識がどっかで増えてきつつあり、アメとムチ系の分かりやすくも原始的な方向への傾斜が出てくる。別項で述べるつもりだけど、実際、ここ数年で日本には「ムチ」が増えたし、ムチを求める人もまた増えたと思います。一連の立法なんかもそうだけど、もっとムード的なものとして。もっとも「愚かな豚にはムチが必要だ」みたいな露骨な言葉では言わないし、考えてもいないだろう。日本文化お得意の言語によるすり替えでがあるでしょうね。例えば「自己責任」などという言葉も、本来の高貴な意味内容(=その人の人格に対する高度なレスペクとあってこその言葉でしょ)から離れて「馬鹿は救ってやる必要なし」みたいな文脈で使われたりしている気がします。
なんか話が大袈裟ですよね。でも、大袈裟かもしれないけど、そのくらい大袈裟に話を拡散させてやらないと、大きく一つのものとして理解できないような気がするのですよ。大きすぎてうまく表現できるかどうか心もとないけど、書いてみます。
日本に帰ったときに、「なんかリアリティがないよな〜」と感じました。前々回に「国が変ればまるで異次元世界」と書きましたが、そういう話ではなく、例えばAという現実があり、Bという現実があるとき、Aの現実はクッキリしてるのだけど、Bの現実が淡いというか、パステルトーンになってて、「あれ?」と疑わしくなるような感じ。
ものすごくフィジカルな部分でいえば、オーストラリアで見る人間は存在感があります。ほんと「人が居る!」っていう実在感がある。これには、一つには体型的なこともあるでしょう。こっちの人は、タテにもヨコにも大きい以上に厚みがあります。width(幅)×height(高さ)のほかにdepth(奥行き)がある。とりあえず男性は肩幅が広い以上に胸板が厚い。女性はバストが大きいというかグンと突き出している。あんまり堂々としてるのでイヤらしい感じがしない。僕もその昔柔道やってたからか、今でも胸囲は1メートル以上ありますが、こっちでは全然普通というか、まあ普通以下ですよね。白人系だけではなく、中東系、アフリカ系、インド系もごっついしね。ごっつくないのはアジア系くらいです。シドニーはアジア系が結構多いからあんまり感じないけど、ふとアジア系ゼロの集団の中に入っていくと、ちょっとしたプロレスラーの控え室状態になります。また、皆がみなデカくてゴツいのではなく、やたら小さいのやら、細いのやら、太いのやら、千差万別。日本に比べたら爆発的なバラエティで皆がいるから、「キリンがいて、サイがいて」という動物園的な存在感があります。そういうのに慣れた目で日本に帰ると、男も女も紙のように薄く感じる。「式神が歩いてるみたい」とふと感じたのはそういう部分もあります。「式神」って、「陰陽師」に出てくる、人型に切り抜いた紙を二つ折りにして、呪をかけて人間のように動かすモノね。
ただ、ここでいう存在感は、そんなフィジカルな形状だけの話ではないです。そんな幼稚な話をしてるわけではない。
ときに、「存在感」ってなによ?といえば、そうですね、エレベーターで二人きりになったときに感じる圧迫感とか息苦しさ感とでもいえばいいかな。オージーと二人きりでエレベーターに乗ると、「居る!」って感じがするのですよ。それは身体の大小だけに限らず、オーラというか、気というか、生命エネルギーというか、精力的なんですな。人間大の大きな動物がそこにいるような、生々しい、ケダモノ的な存在感。日本人はそんなに精力的ではないので、居てもあんまり存在感がない。目には10人の姿が映ってるんだけど、身体で感じる圧迫感は人数分に足りないから、「およ?なんか変だな」と思うという。非常にサトル(subtle=微妙)な感覚ではあるのだけど。
それと下流社会とどういう関連があるんじゃい?と思うでしょうが、まあ、お待ちくださいな。
なんでこんなに希薄なんかな、精力的ではないのかな?というと、まあ遺伝的なこともあるでしょうし、食べてるものが違うのでしょうし、教育もあるでしょうし、ギラギラしたものよりも淡く「はかない」ものを美と感じる文化もあるのでしょう。それはまあ民族的文化的個性だから別にいいです。僕も肉食いまくってギラギラするのが正しいとは思わんし。でも、そーじゃなくて、帰る度に「あれえ?こうだったかなあ?」と希薄感が増している、、、、って変な表現だな、どんどん希薄になってきているような気がするのですね。昔は、もうちょっと皆さん、クッキリ、ギラギラしてしなかったかなあ?錯覚かなあ?と。
ここでいきなり long shot、飛距離の長い当て推量を試みますと、ここのところ日本では「本物」を忘れてきてはいないか?と。「本物」というと限定的だな、うーん、「本当の姿」とでも言おうか。例えば、あるがままの「生命」とか、生命が躍動し活動していくその軌跡としての「人生」とか、その瞬間的断片である「生活」とか、その集団としての「社会」とか。はたまた、それらの活動のベースになってるこの大地であるとか、太陽であるとか、要するに世界そのもの、森羅万象ね。自分自身の人生であるとか、それを取り巻く環境であるとか、そういったものの捉え方がどんどん狭く、浅くなってるような気がします。本来1メートルあるものを30センチ分しか見ていないというか。
なんでそうなっちゃうのかな?と考えていたところ、「下流社会だから」と言われてみて、「ははあ、なるほど」と思ったわけです。もちろん全面的に「そうだ、そうに決まってる」と思い込んでるわけではなく、「なるほどね、そういう考え方もあるかも」程度ですけど。って、これだけでは分からんですよね。
僕が短い日本滞在で「なるほど下流社会ね」と感じた一番の要素は、デフレ社会でモノの値段が下がっているのだけど、「安いけど良いもの」ではなく、「安いけど良さげなもの」が増えたなって部分です。ありていに言ってしまえば「安かろう悪かろう」です。でも、いかにもチープで粗悪な感じではなく、一見「良さげ」なんです。高品質っぽい。それはネーミングであったり、パッケージであったり、広告手法であったり様々ですけど、いかにも本物っぽく、非常に上手に売っている。しかし幾らなんでもそうそう低価格で高品質なモノが作れるわけないから、やっぱりそれなりなんです。まあ、文句を言わなければ、それで十分ですよ。それっぽい気分には浸れる。でも、そこが問題で、「良さげ」である分、どうしてもそこには虚偽が混入するわけで、そういった虚偽に取り囲まれて暮らしていたら、だんだんそれが本物に思えてきてしまう、それが普通に感じられるようになってきてしまう、そこが恐いなと。それだけ「本当の姿」から遠ざかるわけだから。
今回、日本で美味しいものを食べようと虎視眈々と帰ったわけですが、かなり期待はずれでありました。いや、美味しいものもありましたよ。スーパーで売ってた白桃は美味しかったし、老舗の鰻も美味かったし、取っていただいたお寿司も美味だし、久保田の万寿はやっぱり陶然とします。それなりに美味しいものもありました。でもね、「あれー?こんなだったっけ」と思うものも多かった。その特徴を総じていえば、マズイというよりも、「味がない」のです。肉でも野菜でも、そのもの本来の味が感じられない。そりゃ全くないってことはないけど、バシッとこない。オーストラリアの野菜もここ10年でかなり味が落ちたと思いますけど、それでもまだニンジンとか煮込むと凄い甘味があって美味しいです。
そういえばビールはかなり味が落ちてませんか?オーストラリアのフルーティなビールではない、コクと苦味のある日本のビールを楽しみにしてたのですが、これまた「あれー?」でした。まあ、生ビールは美味しかったです。あと、ふと買ったどっかの地ビールは美味しかった(というかオーストラリアビール系の味だった)。でも、キリンのラガーも「なんか物足りないなあ、こうだったかなあ?」と思い、ツラかったのはアサヒスーパードライですよね。これは結構言えると思うのだけど、昔の味とは全然違う。初登場の頃、味について賛否両論を巻き起こしたパワーは感じないし、全然キレもないし、やたら水っぽい。これは僕個人の錯覚なのかもしれないけど、たまたま居酒屋かどっかで、他の席のサラリーマン氏が同じようなことを力説してたのが聞こえてきて、あながち僕だけの錯覚ではないような気がする。これ、ずっと日本に居て飲んでたら分からないかもしれないけど、スーパードライ飲むのは少なくとも3年弱ぶり、もしかしたら6−7年ぶりだから、それだけ記憶が曖昧だってマイナスもあるけど、それだけ純粋に比べられるってことでもあります。また、日本酒のいいのをお土産に買って帰ろうとしたけど、よく分からなかったです。わざわざ封を開けて試飲させてもらったお酒も、腹立つくらい不味かった。本当は「緑川」とか「春鶯囀 (しゅんのうてん)」が欲しかったのだけど、さすがにこのレベルのお酒になると通販でもしない限り、ぶらっと行って買えるものではない。緑川にいたっては、通販でも難しいという。
その昔どっかで読んだ話だけど、回転寿司のトロは、刺身にラードを塗って脂分を増やしてトロっぽくしているって。これが本当かどうかは分かりませんが、問題なのはその発想です。トロに限らず、そういった種類の虚偽やインチキを思いつく奴がいて、実行する人がいて、実行されても結構皆さん幸福に消費しちゃうってことです。なんでそんなインチキをするのか?といえば、「あくまでも低価格でなければならないから」です。世の中全体が「多少値段は張るけど、本物を届けたい」というモードではなく、「嘘なんだけど、低価格で本物っぽい満足を」ってモードになってるように思うのですよ。発泡酒なんか典型でしょう。
僕はバブルの頃に社会人として、バブル経済をモロに体験しました。そしてそれが崩壊して数年して日本を去ってしまったから、その後十数年の長期低落の日本社会は知りません。逆に、長期上昇のオーストラリアバブル社会に暮らしています。バブルからバブルに渡り歩いているような感じね。個人的には全然その潮流に乗れてないけど(^^*)。バブル経済の反省点は山ほどあるけど、いいこともありました。あのときは、世間をあげて「多少金がかさんでもいいから、本物を味わいたい」ってモードだったから、日本にイイモノが一杯入ってきたし、流通していた。本物を数多く知るという意味ではいい経験だったと思います。
でも、その後の世代はバブルを知らない。あんな馬鹿騒ぎ知らない方がマシかもしれないけど、副作用として本物に出会う機会が減ったというのもあるのですね。その結果として、世界が狭くなります。本当は10あるのに、3までしか知らなかったら、世界は3だと思う。無理ないですよ。そして今は、3までのレンジで多種多量の商品が豊富に出回ってるって感じでしょ。昔は「松茸のお吸い物」を飲んで松茸の気分を味わい、カニカマボコで蟹の味を理解したつもりになる程度の可愛いレベルだったし、「嘘なんだけどね」って前提で消費してた。でも、それがなんか全面展開してるような感じ。だからたまに7とか8レベルのものを探そうと思うと、えらい苦労するか、とんでもなく高額だったりします。ディスカウントスーパーとか、百均とかいっても、欲しいものなんか全然なかった。スリッパを探しても探しても、ピンとくるものはなかった。日本はいい製品が山ほどあるから「あれも欲しい、これも欲しい、あ、あれも捨てがたいな」と迷うかなと思いきや、こんなに苦労するとは思わなかった。
でもね、味とか、商品レベルだったらいいんですよ。別にそんなことは我慢できるし、やりようもある。マズイんでねーの?と思ったのは、「人が一人生きていく」ってことに関しても、10のうちの3くらいで留まってしまってないか?と。人間って本来相当のことが出来ますよ。生きていくダイナミックレンジにしても、信じられないくらいのバリエーションがあります。それはもう感動の嵐、ハリケーンみたいなもんですよ。そりゃ、誰でもアラビアのロレンスとか、マハトマ・ガンジーとか、坂本竜馬になれるわけじゃないですよ。でも、偉業を成し遂げたかどうかは別として、もっと山あり谷あり、地獄あり天国ありーので、死ぬ間際には遠い目をして「いろいろあった」と呟くような人生だったら誰でも送れる。嘘だと思うなら、自分のおじいちゃんおばあちゃんの半生を聞いてみたらいいです。あるいはもっと上の明治世代に聞いてみたらいい。もうハリウッド映画並みの大冒険物語みたいな人生を普通のおばあちゃんが送ってます。「結婚して僅か3日で夫は特攻隊となって散っていった」みたいな話が普通に転がってます。生死の境に立たされたことも一度や二度じゃないでしょう。成人するまでに目の前で親しい人間が死んでいく姿を見なかった人は居ないくらいでしょう。
別に波乱万丈であればいいとか、殺伐とした荒っぽい世の中がいいって言ってるわけじゃないですよ。大事なのは、そういった経験を通じて、この世界の本当の姿を知ったということです。リアルな触感です。この世界はいかに奥行きが深くて、信じられないくらいその様相を一変させるか。そこで生きていく人は、一生の間にどれほど長い距離を駈け抜いてくるか、どれほど多くのものを見聞するか、どれほどの高みに上り詰め、どれほどの深みに陥るのか。だから、本物の人間、人生、世界というものを体感的に知っている。
でも、生命とか人生という現象の、両手で抱えても抱えきれないくらいの巨大でゴツゴツした質感を皮膚感覚で知らないと、世界の縮尺が狂ってくるんじゃないか。例えば、生命が分からなかったら殺人の意味もわからんだろうし、大量の殺し合いである戦争もわからんでしょう。ちょっとムカついただけですぐ殺しちゃうとか戦争とか思っちゃう。戦争のなんたるかを知りたかったら、まあ僕も体験してるわけではないから知らないけどさ、追体験しようと思ったら話は簡単。台所にいって出刃包丁もってきて、それで自分の指を叩き落したらいいです。この痛みとショックを何十、何百、何千倍に拡大したものが戦争でしょ。違いますか。それだけのことをしようという覚悟はあるのか。分かってて言ってるのかって。本当の姿が見えなくなると、判断がおかしくなるよ。
上に書いた、下流社会で「ふむ」と思ったこと、つまり@下の世代ほど自分が上流だと思う人が多く、上にいけばいくほど少ないこと、 A生活圏が固定化し、大学も就職も手近で間に合わせようとする傾向があること、この二つの根っこには共通するものがあると思います。一言でいえば、「世間が狭い」ってことです。
最も若い世代で自分が上流だと思う人が、なぜ上流だと思うのかその根拠として「正社員として就職できたから」という理由を上げてたりします。著者自身も疑問を呈しているようですが、それは極端な例であったとしても、象徴的ではあります。正社員になれただけで上流になれるんだったら、世の中上流ばっかりでしょうがって僕らの世代は思うし、上の世代はもっとそう思うでしょう。大体、自分のことを上流だなんて、よっぽどのことがないとそう思えないですよ。僕と同年代の弁護士だったら、弁護士になったというだけで上流だなんて思ってる奴は殆どいないと思いますよ。僕だってド庶民だと思ってましたしね。謙遜でも自戒でもなんでもなく、弁護士ごときで上流だなんて恐れ多いです。冗談じゃないです。それはもう年収が幾らとか、資産が幾らとか、そういう問題ではない。
真の上流というのは、成り金じゃないです。総理大臣になろうが、資産が数十億あろうが、田中角栄は「成り金」。上流じゃないと僕は思うし、そう思う人は上に行けば行くほど多いと思う。もう二世代くらい上だったら、上流というのは、身内が元華族であるとか、少なくとも爵位を持っているとか、おばあちゃんの娘時代は鹿鳴館(ライブハウスじゃないよ、本物の鹿鳴館よ)でデビューしたとか、親戚をたどっていけば皇族に行き当たるとか、そのくらいのレベルでしょ。それだけにイギリス貴族のように躾が厳しく、人間的にも、文化的にも、技能的にも一流であることを義務付けられるし、社会奉仕やチャリティをするのは当然というクラスの話でしょう。要するに、イギリスで「サー」がつく人、ドイツで「フォン」が付く人、中国だったら士大夫とかそういうレベル。
思うのですが、いわゆる上流、貴族階級というのは、もう生まれながらにどうしようもない宿命的なものを背負わされている人々なのでしょう。それは「天皇家に生まれてしまった」とか、「生まれながらに目が見えない」とか、奴隷階級に生まれたとかと同じくらい、この世の理不尽な不平等の象徴。まさに生けるアイコンが他ならぬ自分自身であるという、天(神)から命じられた宿命みたいなものでしょう。生まれながらに天から恵まれた者は、名もなき民衆に背負いきれない負債を背負い、これを還元するために一生を捧げろというのが天の命令であるって感じなんだと思います。天から授かったものは天に返せ。だからダイアナ妃でもかなり熱心にチャリティ活動をしてたし、それをしないとイギリス上流階級では認められない。日本でも皇族だったら、かなり精力的にチャリティ活動をしてます。そういう活動を「やって当然、やらなければ人間ではない」と思える人が上流。そう思えないで、単純に金のあるのを自慢したいだけの人は上流ではないし、成金といって軽蔑される。死んだら蔵書を寄付して、それだけで図書館が一つ建つとか、資産を寄付して財団法人ができちゃうとか、なんとか記念病院が建っちゃうとかそういうレベル。
そして、実際、そういうクラスに近い人ほど、上には上がいることを身近に知ってるから、自分が上流だなんて口が裂けても言えないってところはあるでしょう。僕の依頼者でも、バブル期に資産1000億の人がいましたけど、自分では全然上流だと思ってないよね。芦屋の上流そうな人がいたけど、これはさすがに先日ベルギーで勲章を貰ってきたとか言ってたから、かなりのセンをいってるでしょう。それでもアンケートでは上流とは書かない気がする。だって、皆さん知ってるもん。本物の上流のなんたるかを。
それが今では、ちょっと偏差値の高い大学を出たら上流、ちょっと有名企業に就職できたら上流、ちょっとマスコミに名前が載ったらもうセレブ、ちょっとファンがついたらもうカリスマだもんね。上流も安っぽくなったもんだと思ってしまうのですが、ここでのポイントは一つ。世間が狭いってことです。プーやニートだったら下流?フリーターだったら中流?で、正社員だったら上流ってさ、それって全部ひっくるめて中の下から中の中くらいのレンジでしかないよ。そのくらいだったら中の上ですらないよ。要するにド庶民がセレブごっこして遊んでるだけでしょ。でも、それは人間社会のごく一部でしかないよ。
100歩進んだらこの世の果てに辿りついてしまいそうな、この異様なまでの世界観の狭さはなんなんだ?って気もします。それが手近で全部済ませてしまおうという流動性の低さ、「そこそこでいいんじゃないの?」という志の低さ、デフレであるがゆえに低価格のそこそこ商品、、、、みんなみんなどっかでつながっているような気がするのです。要するに本物を知らない、本物の凄さと楽しさを知らない、だから「そこそこ」でいいと思ってしまう。一回でも本物の凄味を知ってしまったら、「そこそこ」なんかじゃ満足できなくなると思うんだけどな。でも、そこそこでいいと思ってるから、しまいには世界自体がそこそこの広がりしかもたなくなる。
そういった、「そこそこ」感、「ま、こんなもんでしょ」感で糊塗された、何とも言えないまったりした雰囲気が日本の社会を覆ってるような気がして、それが森羅万象の輪郭の淡くボカしてしまっているし、また個々人の「生きている迫力」みたいなものをも淡くする。そこに居心地に悪い違和感を感じましたし、何に関してもリアリティが希薄に感じられたのかもしれません。
そして、この希薄さは、皆の所得が伸び悩んでるとかそういう問題じゃないと思う。お金がなくてビンボーしてるなら、いっそのことクッキリしっかりビンボーしてたらいいんです。第三世界で、日本よりも遥かにビンボーな国の人々がムンムンする生命力を発散してたりするわけで、所得の多寡だけが問題なんじゃないと思います。ビンボー人用にチープな商品があるのは当然だし、どっちかというと僕はそういう商品や、チープなテイストが好きだったりするのですが、チープなんだけどチープっぽく見せない、妙に満足の高品質っぽくなってるから、そこに虚偽が入りこみ、その虚偽が疫病のように蔓延し、人生や世界の縮尺すら狂わせているような感じ。早い話がなんか誤魔化されているような感じであり、三半規管がおかしくなって酔ってきちゃうような感じです。
なんでそんなになっちゃうのかな?と思えば、先ほど書いたように、社会や人生、世間に対する、どっかしら諦めてる気持ち、そこはかとないうっすらした絶望感があるような気もします。「どうせ〜」ってやつ。でも、日本に限らず、パーフェクトワールドなんかこの世にないですよ。どの国だって問題山積みだし、日本なんか遥かにマシな部類です。でも、なんで、そこで「どうせ」とか思ってしまうのかなあ。なんか、そこにね、根深い問題があるような気がするのですよ。文化の糖尿病というか、幾ら栄養のあるものを食べても身につかないというか。日本程度の所得のバラつき、階層のバラつきがあったくらいで、格差社会というネーミングで思ってしまうということそれ自体が、既にヤバいのではないかと。
この話、もうちょっと続きを書きます。これだけで終わったらなんのこっちゃでしょうし。
文責:田村
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