今週の1枚(06.07.17)
ESSAY 268/小学校英語必修化について
写真は、Waterlooのアンティークショップにて。Alexandoria、Waterlooあたりは殺風景なインダストリアルエリア(工場、倉庫、オフィスなどの産業地帯)ですが、コマメにみていくと面白いですよ。ファクトリーアウトレットも沢山あるし。
小学校から英語を必修科目として教えるべきではないかという議論があるそうです。最近のAREAなどにも特集記事が出てました。それによると2006年3月に文部科学省の中央教育審議会/外国語専門部会は、小学校5年生から週1時間程度英語を必修すべきとの提言をまとめたそうです。AREAでは読者の各意見を紹介してますが、どちらかというと反対派が多く、また親自身英語が出来る人の方が反対する傾向にあるようです。
僕の素朴な意見としては「要らないんじゃないの?」ってところですが、賛否いずれにせよ真剣に考えている人の意見はそれぞれ傾聴に価しますし、「なるほど」と思うことも多いです。どんな問題でもそうですが、問題領域にかかる社会的実態は実は非常に巨大です。クジラのように巨大。その巨大なクジラの頭部だけ注目するとか、尾っぽだけ見てるとか、どこを見るかによって意見は変わってくるでしょう。例えば英語は音感という感性的な要素が多いから早いうちから慣れておいたほうがいいという意見があります。それはそれでごもっともです。でも、全然視点の違う意見もあります。例えば必修科目となれば必然的に成績評価が下されるし、そうなると今の親は幼稚園のうちから英語塾に通わせてとか過熱する可能性があり、それを考えると好ましくないと。そう考えると「なるほど、ありがちな展開かも」という気になります。また、実効性のレベルで、そんなもんで実際に役に立つのか?という意見、そもそも国語力が低下してるのだから母国語をやったほうがいいという意見もあります。
全部そのとおりなんですよね。そこだけ見ているのならば。しかし、社会システム設計として正面から捉え、全ての局面に目を向けて考えるとなると、かなり難しいです。そもそも「小学校5年以上で週1時間英語をやる」ということが、一体どういう実態的意味を持つのか?という現場のカンドコロが僕にはよくわからない。小学校5−6年という2年間で週イチペースで英語をやるということは、小学校の授業週数って年42週くらいですか?だから2年間で80時間ちょっと英語をやるということにどれだけの意味があるのか?と。どうせ中学になったらガンガン英語をやるんだし、2年くらい予告編のように前倒しになったからといってどんなもんかな?って。
そうなってくると、小学校における授業の教育効果はどんなもんなのか?という検証が必要になります。ようわからんですねー。自分の体験で言えば、小学校の授業を全部咀嚼してるかといえば全然ですよ。「つるかめ算ってなんだっけ?」てなもんです。今はもっとアホ化が進展してて、大学生になっても分数の割り算が出来ない人が結構いるとか。ということはオトナになっても出来ない人も結構いるわけですよね。多分これを読んでる人の中にも結構いたりして。あれだけガンガン算数とか数学とか教えてもらっているのにまだ出来ない人々が多数いるなか、週1のチョボチョボペースで英語をやっても、まあ、そんなに目に見えて実効性が上がるってもんでもないでしょう。少なくとも過大な期待は禁物でしょう。ほぼ毎週のように留学生さんやワーホリさんがやってくるので、日本人の英語レベルがどんなもんかは他の人よりは分かると思いますが、中学生英語をマスターしてる人なんか一握りです。中学一年レベルでもう終わってる人も多い。ちょっとくらいスタートラインを早くしても、結果はそんなに変わらんでしょう。
ただ、思うのですが、どうしてそんなに英語が出来ないといけないの?ということが一点。「英語が出来る」ということに過大な幻想を抱いている人が多いんじゃないかと。そして、「英語が出来る」ということはどういうことなのかを身をもって理解している人も少ない。
もンのすごく差別的でイヤらしい言い方をしますと、自身英語が出来ない人に、この問題に決定権はないのではないか?と。「アホは黙っとれ!」みたいな物言いで、メチャクチャ暴言なんですけどね。でもね、「英語が出来るというのはどういうことか」を知らない人間が、それを議論してても、ゴルフの出来ない人がゴルフ場の設計をしてるとか、料理を作れない人がキッチンの設計をするとか、手術をやったことない人が手術室のレイアウトを考えるようなものじゃないかと。
もちろん分からなくても願望は持ちうるし、子供に最高の教育を受けさせたいという意欲は、「人類の基礎」とも言うべきもので、何にもまして尊いです。しかしながら、それは建築における「施主の意向」みたいなものでしょう。お施主さんは、日当たりのいい居間が欲しいとか、ひろびろとした空間が欲しいとか、キッチンやお風呂だけは贅沢にしたいとか、いろいろな意向を持ってます。だからといって素人の施主が自分で設計して自分で建てることは不可能です。絶対不可能かといえば、自分で鬼のように勉強すれば可能ですが、勉強しちゃった時点でその人はもう素人ではないです。だから素人=その領域についてよく知らない人が技術的なことも含めて決定権を持つのは好ましくない。だからこそ、建築士さんという職業があるのであり、建築士さんとしては、お施主さんの意向に対して、技術的&予算的に可能/不可能のアドバイスを出すわけです。例えば、ガラスを多用して光に満ちた広い空間をという欲求は、構造計算的にいえば柱や壁の数や強度が落ちるわけですから、少ない柱で重量を支えるために強度の高い素材を用いなければならず、鉄筋ではダメでH鋼などの鉄骨を入れないといけないが、そうすると予算がグンは跳ね上がりますよ、とかね(これは素人である僕が適当に考えた例なので、本当かどうかは知りません)。だから、「発言権がない」とは思わないし、発言したり意見をいう権利も必要性もあるけど、最終的解決能力はないでしょう?と。すくなくとも単独での最終解決能力はないと。
正確に言えば、厨房や病院の設計をする建築士さんは料理や医療のプロではありません。だからシェフや医療現場のプロがアイデアとコンセプトを出し、建築設計のプロがそのアイデアを最大限生かすように現実化するという協働作業になるのでしょう。英語でいえば、英語のなんたるか、日本人が英語を学び上達していく過程を身に染みて理解している人がプランニングをし、現場で日々教えている教育のプロと児童&発達心理学のプロなどがカリキュラムという基本設計をするという協働作業になっていくのだと思います。英語のなんたるかもわからない、教育についての経験も理論も分からない人が、ただなんとなく「英語が出来るとカッチョいいな」くらいの感じで意見言ってても、まぁそれも主権者たる国民の意向で大事なことなのでしょうが、それだけで物事決めたらアカンよって思うのですよ。思いませんか?
ところで教育、とくに税金を使って行う公教育の場合(私学にも補助金という税金が大量に使われています)、なんのためにやるかといえば、ひとえに子供自身の福利のためです。教育というベネフィットを享受する受益者=ベネフィシャリー(beneficiary)は、あくまでも子供自身。親は、自分の子供がすくすく育ってくれて嬉しいのですけど、それは「間接的受益者」であり、「利害関係人」に過ぎないでしょう。税金の原理からしたら、子供は国家全体の宝ですから、皆がお金を出し合って育てようとしますが、親は違う。なんで俺の金(税金)でアンタを幸福にしたらなアカンの?ってなもんでしょう。税金というのは、「募金」「カンパ」だと思ったら分かりやすいです。この人・組織・活動が大事だと思うから自腹を切ってサポートしましょうっていうことです。税金という一括徴収をされると、そのあたりが見えにくくなりますが、本質はあくまでそういうことでしょ。よその子供の幸せのためにカンパしようとは思いますが、大人である赤の他人(親)のためにカンパしようとは思わないでしょ。生活保護とかはあるけど、それは別の次元の話。
じゃあ、本当に子供のために英語が出来た方がいいのか?ですけど、そりゃ一般論でいえば、何によらず有能であった方が無能であるよりはマシです。でもそんな一般論は全く解決の指針にならない。「出来た方がいい」くらいの理屈だったら、そりゃサッカーが上手いほうがいいだろうし、車の修理ができた方がいいだろうし、ピアノが弾けたり、ヨットが操れたり、宇宙遊泳ができたり、原子力発電所の設計が出来た方がいいでしょうよ。出来ないよりはマシでしょう。だから、小学校のうちから太極拳を教えて、量子力学教えて、みたいな話になってしまう。「一般論だけでは人はどこへも行けない」というのは、村上春樹の小説に出てくる一説ですが、そのとおりでしょう。
その一般論を超えて「どうして英語なの?」という点はもっともっと議論してもいいでしょう。英語=国際派=世界に羽ばたくというイメージが強烈にあります。そりゃ英語が出来なければ話にならないという現実はあります。それは日々ワタクシが身をもって感じております。「でもね」とも思います。でもね、「国際」ってなによ?「世界にはばたく」ってどういうことよ?って。
国際といい、世界にはばたくといっても、個々のプロセスを緻密に見ていけば、要するに「どっかの誰かといい人間関係を築く」ということでしょ。言葉も文化も育ちも違う人たちの中の入っていって、そこで良好なコミュニケーションが出来て、相手を理解し、また自分も理解され、そして愛されるというプロセスこそが、国際やら世界やらの等身大の現場だと思うのです。
要はコミュニケーションが取れたらそれでいいわけです。そして言語というのは=この話は散々HP全体で書いてますが=人間のコミュニケーションのうちに僅か十数パーセントしか占めません。あとの圧倒的大多数はコトバではなく、表情とか雰囲気とかオーラです。そういったもので伝わるし、逆に幾らコトバで誤魔化しても、他人はその人の雰囲気やオーラを本音として受け取ります。それは日本人同士だって同じでしょう。同じ謝るにしても、それが誠実に響く人もいるわけだし、口先だけって印象を与える人もいるでしょ。「大変申し訳ありませんでした」とコトバ的には全く同じセリフを吐くにしても、あなたの受け取り方や対応は全く違ってくるはずです。さらに、不誠実そうな奴がいくら高級な言語能力を駆使して美辞麗句を連発しても、訥弁でほとんど何も喋っていないような誠実な謝罪には負けます。それは、官僚答弁とか、銀行さんなどの慇懃無礼を日々実感しておられるあなたが一番良く分かっているはずだ。
異文化異言語になったら、尚更この原理は鮮明になります。「この人、悪い人じゃない」っていうのは結構理屈抜きに分かりますよ。また、後天的に取得した第二言語が幾ら上手になっても、コトバだけで人を動かすことは出来ない。言葉も文化も違う外国の人たちに、愛され、信頼され、あなたのために皆が動いてくれるという状況を創り上げてはじめて、国際なり世界にはばたくという現象が生じると思うのですよ。違いますかね?
だとしたら、スキルや近道なんかなくて、堂々とした王道をいくしかないんじゃないですかね。
王道というのは総合的な人間力であり、真実他人に愛されるだけの人間にならないとダメだってことであり、そのためには早い話が「すくすくと健やかに育て」という以外にないです。こちらに住みだしてつくづく思うのは、人間というのはそのままの状態、いわば「工場出荷設定」のままだったら、人間が好きになるし、他の人間から愛されるんでしょう。ホモ・サピエンスというのがそういう種族じゃなかったら、とっくの昔に殺し合いで絶滅してる筈です。大戦争は山ほどありつつも、それでも生き残っているのは、昨日まで殺しあってた集団同士がやがて仲良くなったりしてるからで、その種の「仲良しパワー」みたいな自然の力が働いているのでしょう。そう思わないと説明がつかないじゃん。シルクロードとかありますけど、あれも良く考えてみればえらい話ですよ。当時は世界公用語なんかなかっただろうし、マスコミもないから、行く先々の部族によって言語も習慣も違っていたはずです。それでも人々が往来し、物品が流通し、商取引が成立していたわけです。日本の平安時代、空海が唐に留学した頃、かの地ではペルシャ人とか西洋人が結構いたらしいですからね。これは何を意味するか?というと、言語とかスキルとかが決め手になるわけではないということであり、言語が出来なければ世界にはばたけないというものでもないってことです。だから英語なんか出来なくてもいい、もっともっと大事な要素があると。
工場出荷状態でいいというのは、赤ちゃんが誰からも愛されるという事実によっても傍証されるでしょう。使用価値や交換価値という意味では赤ちゃんなんか最低でしょう。言葉もろくすっぽ喋れないし、電話の応対ひとつできない無能者だし、それどころかオシッコやウンチも垂れ流しという、どーしよーもない存在でありながら、もっとも愛されているという事実はなんなんだ?と。まあ、大人になってもそれじゃマズイですけどさ(^_^)、人間は人間が好きなんでしょうね。もっといえば生き物は生き物が好きなんでしょう。ウチには猫が二匹いますが、たまに小さなお子さん連れで誰か遊びにくると、子供達は「猫だ!」でうれしそうに猫に構いますから。もう本能的に生き物は生き物が好きなのでしょう。
だから、出来るだけこの自然の吸引力みたいなものを損なうことなく、ヒネたコスっからいクソガキにせず、「あると便利かも」というスキルをちょろちょろ教えてやれば、小学校なんかそれでいいんだと思います。僕もそうでしたし(今もそうですけど)、こちらに来られるワーホリさん達が一番最初にやるのは、小学校からの「育ちなおし」みたいな過程だと思います。異民族は恐いですよ。同民族同士のように、テクニックや立場や習慣という「文化的小手先技術」が通用しませんから。
小手先技術というのは、日本の場合、「最初から本音をいうことはせず、それとなく察してもらう」ことであったり、なんだか分からないけど「よろしく」と言っておけばよいとか、「どうも」と言っておけばよいとか、本気で好きなわけでもないけど疎遠になるのもマズイから、まあお歳暮とか賀状の一枚も書いて済ませようとか、そういうことです。まあ、官僚の「前向きに検討し、速やかに善処します」みたいな言い方ね。要するに誤魔化してるんですよ。「よろしくお願いします」に対応する英語は存在しません。そんなの言った所で意味がないから、それに相当する概念がない。よくホームステイに行くときに、「よろしくって英語でなんて言うんですか?」と聞かれますが、そんなん無いです。それを言いたいのだったら、その状況に応じて適宜はっきりした言葉でいうしかないです。「海外のことは全く不慣れなもんで、気付かずにイヤな思いをさせたり、困らせたりするかもしれません。出来るだけ気をつけるつもりですが、気付いたらいつでも遠慮なく指摘してくださいね」って。でも、これすら当然のことでしょう?他人の家に住む以上、そんなの当たり前ですからね。当たり前のことをもっともらしく言って、なんとなく人間関係が良くなったかのように振舞うというのは、誤魔化しです。そもそも日本語で「よろしく」と言ってるときも、どれだけの誠実さと真意をこめて言っているのか?怪しいもんですよね。
一方では英語世界には英語世界での誤魔化しというか、文化的小手先テクニックがあります。これはどんな文化にもあるでしょう。大体挨拶の言葉なんかどの言語だってそうですよ。"Good morning"にしたって、そんなに毎朝毎朝グッドなわけじゃないですよ。むしろ朝なんか眠いしかったるいし最悪だって人も多いでしょう。"Nice to meet you"は、日本語の「よろしく」に一番近いニュアンスを持ちますが、これだって本当にナイスかどうかなんか分からないです。ナイスであろうがなかろうが、ナイスといっておけば角が立たないわけです。だもんで、A国の文化的小手先技術をB国に持っていっても通用しないし、ヴァイス・ヴァーサ(その逆もしかり)です。
このように小手先技術が通用しないとなったら、まず小手先技術で人間関係を作ろうとする、各母国でのオトナの人間関係形成方法からして見直す必要があります。そうなると、子供の頃の砂場に戻って、「人と人が出会い、知り合い、理解しあう」からやっていくしかないし、それが一番確実で強力です。『育ちなおし』をなんでやるかというと、原点にまで戻らないとやっていけないからです。つまりは、嘘はつかないとか、自分の好きキライははっきり言うとか、喧嘩するときは喧嘩するとか、そういうことです。
一番大事なのは好き嫌いかもしれないですね。好き嫌いという自分の意見/感性をはっきり表現するということ。もっと遡れば、これが好き、これが嫌いという自分の感性をちゃんと建て直すこと。何が好きなのか自分でもわからないという現在の磨耗した感性を磨き直すこと。また自分にとって利益をもたらすから好きとか、そういう乞食根性に毒される前に戻ること。さらにもっともっと遡れば、子供の頃にそうしたように、この森羅万象の世界にメンチ切ること。海も山も町も人も真正面から見ること。自分の目で見ること。情報やマニュアルに頼らず、毒されず、洗脳される前の自前の目をもつこと。そういう姿勢を取り戻すこと。子供の頃、何をみても興味深く、知らない物事、初めての物事に全身でぶつかっていったでしょ。赤ちゃんなんか究極の体当たり方針で、目に付くもの何でも口に入れたりします。それがいつしかオトナになって、好奇心が退化し、知らない物事をおっかながり、未知のものを鬱陶しがるようになる。それってはっきり老化でしょ。もう10歳になる前に老化というのは実は始まってるような気もします。子供は見慣れぬ虫が大好きで、見慣れないほどに面白がり、虫こそ友達だったのに、オトナになると虫を恐がるようになる。好奇心という「前に出て行く力」が退化し、防衛本能ばかりが発達する。老化じゃん、それ。僕も日本にいる頃はいつしか虫が恐くなったけど、こちらに暮らすようになってから、また好きになりました。小さな身体で一生懸命生きてるんだな、健気だなあ、可愛いな、頑張ってるなあとか思うようになった。育ちなおしってのはそういうことだと思います。
このような観点からしたら、英語の技術だけを身につけて、それで国際人なんてのは、考え方の根っこの部分で間違ってないか?って思うのですよ。そりゃスキルとしてはやったほうがいいですよ。なんだってそうです。でも、英語が出来ないと外人さんと交流できないという発想そのものが、日本人の大きなブレーキになってると思います。時々サポートしてる人に言うのですけど、「言葉に頼るな」って。逆療法みたいに英語を一切使わずに、身振り手振りとオーラだけで買物してきてごらんって。「英語喋っちゃダメ!」ゲームです。
日本の地下鉄の車内で、外人さんに英語で話し掛けられて、これがまた全然分からなくて腰がひけてしまうとか、あとずさってしまうでしょ。だから「くそお、英語が出来たらなあ」って思う。その怨念のような思いが日本列島に満ち満ちているからこそ、英会話スクールが乱立し、英語願望が肥大化し、英語の教本が所狭しと並べられ、せめて我が子だけではと思う。その根本のところが間違ってるように思います。英語で話しかけられてわからなかったら、腰を引くのではなく、逆に「前に出ろ」と。「ん?なんか言った?」ってニコニコしながら、相手の目の前30センチくらいまでグンと踏み込めと。「よし、言葉は通じないんだから、人間同士で話をしようじゃないか」って。目の色を読め、表情を読め、オーラを読めって。ガイジンさんって通じなかったらよく顔を突き出したりするでしょ?だから、言葉が通じない時点で腰がひけてたらダメです。そこで前に出るようにならなければ、いっくら英語を勉強して上手になっても、海外の現場ではクソの役にも立たない、、、といったら大袈裟ですけど、本質に迫れないんだわ。英語は通じるかもしれないけどそれだけ。お願いする内容は伝わるけど、結局やってもらえないから意味がないという、ね。
というわけで、腰が引けてる状態で、英語教育論をやっててもなあって気がします。だから、自身英語が出来ない人(海外や国際的な現場で必死こいて恥かいてやってきた人以外)が、英語の教育方法や英語の効用論を論じたり願望したりしても、大事な部分がすっぽり抜け落ちる気がして、どうなんかしらね?って気がするのですね。解決能力ウンヌンの趣旨はそういうことです。
あと、もうちょい技術論的な話をしますと、世界=英語というのもどうなんかな?って思います。確かに事実上の公用言語になってますけど、
実際に世界にいくときには、英語を喋ってる国ばかりではない。というか、日常会話で英語を使ってる国なんかそんなに多くないですよ。世界60億人中、3-4億人ってところでしょう。圧倒的大多数は中国語、次に南米のスペイン語で、英語は三番目。そして微妙な世界情勢の話とリンクしますが、世界=アメリカという日本の路線は今後どうなるのか?アメリカ自身、世界の多極化支配を望んでる勢力があるといいますし、アジア圏は中国と、それを押さえたりアシストする日本に任せようという構想もあるといいます。日本政府はそれを嫌がってアメリカさんについていきますって姿勢ですけど、当のアメリカでは「チミもいい加減独り立ちしなさい」と思ってる人達も多い。そう思うと、立地的にも中国語が出来る方が役に立つのではないかって気もします。英語の授業を前倒しにするなら、その分英語の授業の一部を割いて中国語の授業をやったほうが意味があるんじゃないかと。
第二に、小学生程度のレベルの人間関係と言語能力だったら、そんなに複雑な内容の文章を喋っていません。日本語でだってそんなに複雑なことを言えないし、そもそも考えられない。だから、感性的なコミュニケーション言語になると思うので、いきおい会話中心、慣れ中心になると思います。そうなると、「教える」「理解する」「覚える」というよりは、「慣れる」「身体に馴染ませる」というものになるでしょう。そして、感性系の授業の場合、やっぱネィティブに接した方がいいです。この理由は3つあります。一つは、音楽みたいなものだから音感を養うには本物の発音であった方がいいこと。本物の英語は、カタカナ英語では絶対ついていけませんから。日本人だったら同じに聞こえても全然違うってのもあるし、耳を鍛えるには本物の音を聞かせるしかないです。音楽と一緒。だからネィティブないしネィティブ並みの発音の出来る人。
二つ目は、ちょっとしたものの言い方、感性言語みたいなものは、かなり海外生活が長くないと身につかないです。例えば、テーブルの上のコップを倒したときに「おっと」と言うのではなく、「ウップス」と言ってしまう。もう考えなくても出てしまうくらい。それに、この英語フレーズはこういうときにも使うのだという使用例が何よりも大切です。Sorry, Excuse me, Thank you, Pleaseなど超基本フレーズも、日本人がなんとなく思ってる使用範囲とはズレがあります。日本人はsorryを言い過ぎる傾向があり、こういう場合はThank youだし、今の場合はExcuse meだよと修正してやる必要があります。プリーズをすぐ忘れるとか。これは過去のエッセイで書いたように、日本語の場合、「すみません」という言葉ひとつで依頼も謝罪も感謝も全てやるから、つい感謝のときでもソーリーって言っちゃうんだけど、まずそこを叩き直す。このくらいだったら英語を真面目に勉強した日本人だったら出来るけど、他にもいろいろあります。長年悩みつつ、最近わかりかけているのが、オフ・コースですね。「もちろん」だけじゃないんですよ、of courseは。自分の発言だけにくっつけるのではなく、相手の発言、それも自分にとっては意外な発言にもくっつけるんですよ。つまり「え?そうなの?あ、そっか、なるほど!」ってときにもオフコースというのですね。解けなかったパズルの答を教えてもらって、「オフコース!(そっかあ!なるほど!)」ってときにも使う。どうも日本語的な感覚だと、「参加しますか?」「もちろん、参加しますよ」のときの「もちろん」にオフコースに限定して使いがちですが、むしろそういうときには、アブソルートリィ(absolutely)って言った方が躍動感があってナチュラルに聞こえたりもします。そういうことって、ふとした独り言とか、合いの手のとか、本題と関係ないところでポロっとネィティブが言ったりする場合に、「あ、そういうのか!」って発見する場合が多い。そして、それが一番現場の役に立ちます。でも、それはとことん英語を骨の髄まで染み込ませた日本人でないと出来ないでしょう。それに子供が使いたがるようなフレーズを教えてやったほうがいいんですよ。「ズルい!」「きったねー」「かっけー」「ダメじゃん、それじゃ」「やーい、騙されてやんの」「ざまーみろ」とかさ。結構その辺の言葉で英語で言えない日本人は多い。"Gotcha!"とか教えてあげたら流行ると思うよ。
三つ目の理由は、これが最も重要な理由ですが、子供の頃から異人種に触れていたほうがいいからです。もう言語技術なんかどうでもいいですよ。小学校の5-6年の英語授業で覚えるだろう知識なんか、オトナになったら現地生活に投げ出されたらわずかな間に学べると思います。そんな技術よりも、もっと大事なことがある。それはオーストラリアで昔から日本語教育を小学校からやってる理由と同じなのですが、「異文化に慣れる」ってことです。この世界には全然わからん言葉を喋る人間が実在し、全然違う社会があるんだってこと、「こんなに違うんだ」ってことを教える。そして何より大事なのは、「違うってことはなんて素晴らしいんだろう、なんて面白いんだろう」ってことを感じさせることです。異文化に接しても腰がひけないように育てる。そして若いうちから異文化についての寛容性を育てる。それがマルチカルチャル社会の次の担い手としてもっとも大事な資質だからです。それをオーストラリアは何十年も前からやってます。そして、国際だの世界だのという舞台は、当然のことながらオーストラリア以上にマルチカルチャルです。当たり前だけどさ。オーストラリアでホームステイを受け入れる家が多いのも、家賃補助という理由も大きいけど、子供の教育のためという理由もまた大きいです。自分の家に、外人のお兄さんお姉さんが一緒に住んでたら、免疫力つきますよ。恐がらなくなる。それがどれだけ大事な資質になるかは、上に延々書いたとおりです。
ですので、小学校レベルで英語の授業をするなら、ほんと外人さんさえ呼んできて、一緒に遊ばせてればそれでいいんだって気もします。そして、それは英語である必要すらない。世界中の民族の人が入れ替わり立ち替わりやってきて、その国の子供の遊びを教えてもらうっていうのでもいいと思います。語学学校いってるときに、英語圏の遊び"Simon saids"をやりましたが、楽しかったですよ。近所のストリートパーティでクリケットをはじめてやらせてもらったけど面白かったです。今週はブラジルからの留学生のお兄さんにサッカーを教えてもらうとか。もちろんポルトガル語のまんまで一切教わる。結構通じますよ。来週は、イタリアからの留学生にパスタの茹で方を教わり、インド人からスパイスの調合からカレーの作り方を教わり、イラン人からイスラム教を教わり、ユダヤ人からユダヤ教の生活を教わり、、ってね。そんな授業だったらオトナでも受けてみたいって授業にしたらいいんじゃないかな。
もっともこれは小学校レベルで、それも大人数で授業をするという前提でモノを言ってます。英語の習得には驚くほど多くの局面とレベルがあり、千手観音のようにあれもこれもやらねばなりません。単に「教える」という観点でいえば日本人教師に教わった方が効率はいいでしょう。日本人の感性と発想から出発して徐々に修正してくれるからその方が効率がいい。それに英語が出来ることと教えることとは天地の開きがあります。外人さんを呼んで来てもそれが教えるプロである保証は無いです。ただ、その強烈な「異物感」が、教えるのではなく慣れる、親しむというレベルで有効であろうと言ってるだけです。その意味では教育がどうのとかいうよりも、日本に今の数十倍の外人さんがウヨウヨするようになればいいんですけどね。そうすれば子供に限らず日本人全員、英語力や国際力はUPするでしょう。あと英語の受験勉強だったら日本人教師の方が絶対いいし、大人レベルであっても日本人教師の方がいい場合も多いです。ただ、同国人教師の場合、強烈な異物感や存在感、コミュニケーションにおける人間同士のオーラ的交流って部分が乏しいって言ってるわけですね。
あと、海外、それも英語圏にきたら英語は出来て当り前ですから武器になりません。日本で日本語が出来るのが武器にならないのと同じ。それよりは「日本語が出来る」というのが最大の武器になります。だからキチンとした日本語が出来た方がいいです。
英語教育よりも国語教育をというのは、よく聞かれる意見ですが、そうだと思いますよ。オーストラリアでも小さなお子さんをおもちの親御さんが沢山おられますけど、子供が英語を学ぶのはもう自然のことで、すぐに親よりもはるかに上手になります。半年もしないうちに、宅配ピザの注文の電話をするのを子供の係になります。親がカウンターで四苦八苦してるときに、横で子供がぼそっと一言言うだけですっと話が通じます。それは珍しいことでもなんでもないです。そんなことよりも、子供にいかに日本語を覚えさせるかに皆さん頭を悩ませるわけです。英語というのは世界の公用語になってるくらいですから、今日世界の街角で実際に喋ってる人々のうち、第二言語として英語を喋ってる人の方がネィティブの数よりもずっと多いです。だから、ヘタでも許されるのです。皆もヘタだからね。でも、日本人が日本で暮らして日本語が完璧じゃなかったらキツイですよ。帰国子女の苦悩ですよ。だから、母国語よりも英語の方がはるかに要求水準は低いってことです。なんでその低い要求水準をオトナの日本人は満たせないのかというと、何度も言ってるように英語ができないというよりは、異人種慣れしてなくて腰がひけるからです。腰の引けない人は、日本人でも結構ガイジンさんとうまくやってるはずです。
あと母国語、というか言語能力ですが、これがダメだと思考能力全般ダメになるし、情報の授受がダメダメになります。情報化社会の落ちこぼれになる。ちょっと難しい論説だったら読みこなせないとか、微妙な心情を表現できないし、複雑な思考を表現できない。表現できないどころか、そもそもそのレベルでモノを考えられなくなります。つまりはアホになると。脳内における精緻な(言語)論理操作ができないわけですから。だから母国語やってた方がいいよってのが僕の意見です。
ただし、母国語、つまり国語ですけど、国語の授業で僕らの日本語能力は伸びたのかなあ?って気はしますね。まあ、漢字の書き取りや作文なんかは強制的にやらないと伸びませんから役に立ってると思いますが。でも、国語力がある人というのは一生懸命国語の授業をやったらからというよりは、最初から出来る人はできる、出来ない人はいくら勉強しても出来ないってアートな部分がありますよね。で、出来る人はどうやって出来るようになったかというと、プライベートな時間で山ほど本を読んでたからでしょう。一般化すれば「勉強」という形で意識しないけど事実上勉強してしまってるというのが最高なんですね。それが物事習得のコツであろうと。だから授業という形態には自ずと限界があります。ですので、小学校から国語の授業を強化しろとは思いません。
だから、これ以上国語をやるくらいだったら、まあ英語でもやってた方が目先も変わって子供達も楽しかろう、くらいの意味であれば賛成します。それに、ほっといても子供の頃から皆さん英語塾に通ってるらしいので、そんなことするくらいなら、公教育でやっちゃった方が貧富の格差が均されるのでいいのかもって意見にも一理あります。格差社会になるとか言われてる昨今では。もっとも、実効性の面では何度も書いてるように疑問です。ただ、「ウチは貧乏だから英語塾に通えないんだ、だから僕は英語が皆よりもできないんだ」みたいなネガティブなレッテルを自分自身に貼るというのが最大の危険だと思いますから、それを除去するという消極的な理由ですね。しかし、そんなもんが最大の理由になるとするならば、いったいどんな社会なんだ?って気もしますけど。
以上つらつら考えるに、小学校から英語の授業をやるというのは、失礼ながら「いかにも英語の出来ない人が考えそうなこと」なんじゃないかって思っちゃうわけです。ごめんなさいね、角の立つ言い方をして。でも角を丸めてなあなあでやってて、一番ワリを食うのは当の子供達なんだから。だけど、中央教育審議会がそういうなら、それなりの理由もあるでしょうけど、そのメンバーの人って英語できるの?学会で発表するような学術英語ではなく(あんなの専門用語を知ってれば簡単だもん)、下町の修理工場に自動車の修理を出して、見積もりをモトに議論するような、本物の現場の英語が出来るのでしょうか?でも、誰もが学者になるわけではないので、そのあたりの英語が出来ないと実際使えないですからね。
文責:田村
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