今週の1枚(06.07.10)
ESSAY 267/お金、欲しいですか?/Money can buy.
写真は、Balmainのカフェ
はい、もう一週間が経ってしまいました。また次の締め切りです。今度のUPの日である月曜日の未明には、ワールドカップの決勝戦が行われますから、エッセイなんか書いてる場合じゃないです。さかのぼって早く書かねば!で書いていますが、ネタがないです。わはは、そうだよね。先週無いものが今週いきなり山ほど出てくるわけないよね。でも、頑張ります。
ネタに困ったときは根源的な話をするに限ります。今日は、「お金」です。根源的ですね。
あなたはお金が欲しいですか?そりゃ欲しいですよね。でも、どのくらいのイキオイで欲しいですか?他人を地獄に叩き込んでも欲しいですか?自分の私生活を全て犠牲にしても欲しいですか?あと、幾らくらい欲しいですか?お金があったら何に遣いますか?と、まあ、トコトン突き詰めていくと、「え?そりゃあ、、」とあんまり明快な回答を持ち合わせていないのではないでしょうか。なんとなく抽象的に、「お金?欲しいっすよ、そりゃ」くらいのことではないでしょうか?
今の僕の感覚では、「すごく欲しい」というのと「無きゃ無いで別に構わん」というのがゴッチャになっております。
「すごく欲しい」というのは、オーストラリアに住み始めてから思うようになりました。なぜって、オーストラリアというのはお金を出せばイイモノが買えるからです。そんなの当たり前じゃないかって思われるでしょうが、日本から来てみると、「おおー、そうなんだ」と結構新鮮な感動がありますよ。なんでもかんでもピンキリがあり、そのピンの度合もキリの度合も、日本の商品レンジが偏差値45から55くらいに収まってるとしたら、偏差値30から80まであるって感じです。
キリ(最底辺)の話はよくエッセイその他で書いてますが、安物の工業製品の出来の悪さには、カルチャーショックと呼んでもいいくらいの驚きに包まれます。日本の百円均一ショップ、いわゆる「百均」ですが、さすがハイエンド・ジャパンでして、百円だからって粗悪品が並んでるわけではないです。「そこそこ」どころか十分使える。しかし、こちらの百均相当の2ダラーズショップのようなお店の品物は、暴力的なまでに粗悪な品が並んでいたりします。こちらは文房具が高いので(日本はドイツと並んで文房具王国なんでしょうね)、日本で見慣れたありふれたボールペン、3本百円とかで売られているようなものが、一本200円だの300円だのします。「げげ、高い!」と思うわけですが、ディスカウントショップで3本1ドルなどで売られていると、「なーんだ、探せばやっぱ安いものもあるじゃん」ってほっとします。しかし、それが甘い。そーゆー安物は質が悪いのです。ボールペンの粗悪品ってどんなんだ?って思うでしょうが、それはもう書き味とかそんな高尚なレベルではないです。僕が買ったのはそもそもペン先にボールがありませんでした。だから一文字も書けませんでした。そういうレベルです。さすがに3本全部そうだったわけではないですが、他のボールペンもほどなくしてボールが消失しました。あと、上向きにして置いておくとインクが全然降りてこなくなっちゃうとか、しばらく使わないとインクが出なくなるとか。粗悪品というか、不良品あるいは未完製品じゃないかって気もします。「安物買いの銭失い」という日本古来の世俗哲学を改めて噛み締めるわけです。
こちらに来て皆さんがよくやる失敗(?)は、コールズのようなスーパーマーケットで、お湯で溶かすスープやスパゲティのソースなどで一番安い奴を買ってしまうという点です。安いのはマズイです。スープの素4袋入り2ドル50あたりを買うのだったら、もう1ドル追加して3袋3ドル70くらいのものを買った方がいいです。出来れば一番高いくらいの方がいいです。味が全然違います。パスタソースなんかもそうですね。だから、ウチにお泊りになった人が飲み残したスープ袋なんかがよく忘れ物に残ってたりします(意図的な置き去りか?)。このように安くてマズイものを食べて、「オーストラリアは美味しくない」と思ってる人がいたら、高いものも挑戦してください。そうでないとオーストラリアの構造、日豪文化比較ができませんからね。
ただ、必ずしも常に常に値段に比例するわけでもなく、単なるブランド料で質は変わらないようなモノも確かにあります。どれがダメで、どれが値段相応なのかは、個々人の好みもあるでしょうから、一つ一つ試してみて失敗を積み重ねて賢くなっていってください。「○○を買うんだったら、○○がいいよ。○○はダメね」と色々な商品にコメントできるようになったら、あなたも立派な地元民です。頑張ってください。
日本の場合、安くてもそれなりの品質を保っており、値段の差は人気の差、ブランドの差に過ぎないってケースがよくあります。しかし、オーストラリアの場合は、そんなに皆さんブランドに左右されずに実質主義なところがありますから、かなり値段相応になってます。これはもう学校の授業料にせよ、シェアの値段にせよ、車の売買にせよ、不動産の家賃にせよ、電化製品にせよ、市場経済とはかくあるものかと感心するくらいよく値段がつけられています。見れば見るほど納得すると思いますよ。「うわ、なるほど、それで○ドル安いわけね。皆さんよう見てるわ」って。したがってオーストラリアでいわゆる「掘り出し物」を探そうと思ったら、日本のようなわけにはいきません。掘り出し物なんか基本的には「無い」と思ってた方がいいくらいです。まあ、本当はあるのでしょうし、英語ではそういう物事をこそ「バーゲン」といいますし、掘り出し物狙いの消費者をバーゲンショッパーズといい、そのタイトルを冠した刊行物まで出ています。ファクトリーアウトレットを狙うとか、在庫一層セールや移転セールを今週はどこそこでやっているという情報もあります。ラジオなんかでもやってたりします。
日本の製品は滅多に壊れませんし、損耗したりもしませんよね。だから「商品が粗悪である」という概念そのものがよく分からなくなってます。僕もそんなにわかりませんでした。でも、こちらに住んでいて粗悪品に出会う確率が多くなると、おかげさまをもちまして、知らないうちに商品の目利き、、とまではいきませんが、安い商品は何が悪いかについては詳しくなりました。まず簡単な工業製品だったらプラスチックの出来の良し悪しがあります。プラスチックなんか全部同じでしょなんて大雑把な認識でいたのですが、全然違うのですね、これが。数年スパンで商品を使っていると如実に分かりますが、よくモノが壊れるんですよ。あまりに壊れるために、その度にダメモトで分解したり、「ははあ、この突起がこのくぼみにおさまるわけで、そしてここにバネがあって固定するわけね」と簡単な構造だったらわかるようになり、モノによっては瞬間接着剤で補修したりします。
そうこうしているうちに、プラスチックに品質の差があることがわかってきたりします。フタを留める突起部分のプラスチックが、度重なる使用にともなって脆くなっていって仕舞には破損してしまうとか、1年以上使用しているとある日バキッといって亀裂が走るとか。つまりは耐久性が無い。あるいは成型がアバウトだから噛み合わせが微妙にズレて使いにくいとか、無理な力がかかってまた壊れるとか。僕はプラスチック成型には全く無知ではありますが、これだけ経験させられると、なるほどプラスチックというのは、まず使いやすいデザインというものがあり、それを実現するための精密な成型というものがあり、型に流し込んでも均一性を保て、かつ耐久性に優れているというプラスチック合成の化学的レシピーがあるのだろうなってことが段々推測できるようになってきます。そして、その条件をクリアするためには、材料についても優れた素材を調達し、製造工程においても、一つや二つ、あるいはそれ以上複雑で面倒な工程処理を経てきているのだろうな?という推測も出来るようになります。だから値段が高いのだろう、だから安いのだろうと。
日本の工業製品はそれらの点で優れています。ほんと素晴らしいですよ、日本の職人さん気質、クラフトマンシップは。世界のトップレベルといっていいです。これはもう百円ライターひとつとっても分かります。こちらの百円ライターってガスを全部使い切れることなんかマレですからね。殆ど使用途中で壊れる。百円ライターというのは、これも腹が立って分解してみたのでわかったのですが、円形の火打ち石部分と、下の液体燃料タンクの弁の部分とに分かれます。よく壊れるのはこの弁です。これがプラスチックで出来ていて、度重なる使用に耐え切れず破損しちゃったりするのですね。だから火をつけても下から液体燃料の気化ガスがあがってこないから火がつかない。「なるほどー、そうだったのか」と分かったところで、この部品を調達しないと修理できないですから、事実上捨てるしかないです。プラスチックの材料の良し悪しが、こんなところにも反映されたりするわけです。勉強になります。腹立つけど。
さて、「お金が欲しい」の話でした。
百円ライターとかそんなレベルで切実に「お金が欲しい」と思っているわけではありません。この「値段と実質が正比例する法則」は、もっと値の張る買物、高すぎてとても手が出ないレベルにおいても健在だからです。つまりは不動産とか、居住環境です。日本で数億円持ってたって、そうそう「うわあ、夢みたい!」という豪邸は手に入りません。いつだったか、巨人の桑田選手の数億円の豪邸というのを雑誌のグラビアで見たことがありましたが、「うわ、すごい」と思うよりも、「数億円払ってもこんなもんしか建たないのか?」という失望感の方が強かったです。
しかし、こちらで数億円あったら使い出ありますよ。いかにオーストラリアの不動産価格が高いといっても、さすがに5億、10億とまとまって持ってたら嘘みたいな豪邸があります。さすがにお城みたいとは言いませんが、門があって、車で庭に入って、大理石バリバリのフォーマルラウンジ(舞踏会でも開けそうな)があって、またビューが素晴らしくて、下におりて行けばもうそこは海で、自分専用のクルーザーを停泊させておけます。それでいて、都心から車で20-30分という。
都心への利便性を考えずもう少し不便な立地でもいいんだったら、岸壁の大眺望を30畳くらいのリビングのガラス一面に楽しめたり、広い芝生の庭に綺麗なイングリッシュガーデンが広がっていたり、「わあ、いいな、こんな生活」という物件もゴロゴロ転がっています。
口では上手く説明できないので、興味のある人は、家探しの不動産サイト、例えばhttp://www.domain.com.au/にいって、「BUY」のタグをクリックし、エリアを適当に入力しつつ、値段のプルダウンメニューを from 1,000,000(1ミリオン=100万ドル=約1億円弱)に設定してみるといいです。1億ぽっちでこのグレードだと言うことがよくわかると思います。貧しい想像の範囲を超える物件が出てきたりして、溜息ついちゃいますよ。面白がるなら、もっと値段をあげてみるといいです。5億以上とかの最高レンジで。宮殿みたいな物件がでてきて笑えます。
こういう物件を見てしまいますとね、「ああ、お金、欲しいな」って切実に思いますよ。あなただって思うはず。百円ライターの分解修理なんかやってる場合じゃないっす。でもって、資産何十億とか何百億とか天文学的な金持ちでなくても、結構いい生活は出来るわけですね。日本でホリエモンとか村上ファンドとかが資産何十、何百億とか持ってるといっても、六本木ヒルズの住居棟だったりするわけでしょ?あれだけ稼いであんなところに住んでるわけかって思っちゃいますよね。箱根あたりの伝統的な旅館みたいな家に堂々と住んで、それでいて職場まで20分っていうのが理想だけど、そんな物件日本に存在しないんだもん。金持ちになる甲斐がないです。それに、幾ら稼いで豪邸に住んでも相続税で持っていかれちゃうから、会社名義にしたり、分割したりイジコイ努力をしなきゃいけない。それに、自家用クルーザー持ってるだけで羨望や嫉妬の眼差しを受けたりして、それがまた妙に本人の自意識を歪ませたりして、素直にお金持ち振りをエンジョイする環境にないです。その点、オーストラリアは相続税ないですし、はるかにライフスタイルの自由度があります。お金持ちになる甲斐があるというものです。
また、家に限らず、家具なんかでも値段相応だったりします。安いIKEA(イケアではなく、英語ではアイキアと発音する)あたりだと、やっぱりチャチな家具が多いけど、Mosmanあたりの家具屋を冷やかしていると、大人二人がかりでも持ち上がらないような年代モノの超ガッシリした巨大なテーブルとかがあるわけです。「ええなあ」とか思うけど、こんなんどこに置くんじゃ?って話ですけどね。
というわけで、お金の使い応えがあるということが分かってくると、「お金欲しいなあ」って思ってきたりするわけです。オーストラリアの場合、ファッションとか電化製品とか、そういった日本における消費生活の購買欲求というのは全然湧いてこないけど、もっと抜本的な「いい生活」「いいライフスタイル」というものに欲求が移ってきますよね。ワーホリさんや留学生さんの場合、日々の暮らしで100円200円でストラッグルしてるだろうから、中々この国のそういう一面と言うのは見えてこないでしょうけど、機会があればそういう側面も見聞されるといいと思います。家にプールがあるなんて、「そんなの普通」って感覚ね。大体、プール屋さんってのが独立して成り立っているくらいですからね(プールのメンテナンス用品(落ち葉取りとか塩素とか)を売ってる。
さて、もう一方の「別に、お金いらないもんね」って感覚ですが、これも強烈にあります。
なぜなら、上に述べた生活居住環境以外にお金で買えるものにそう大して興味ないですから。別に最新型の電化製品なんか欲しいと思いません。まあ、大画面テレビくらいかな。それ以外、別にiPodも欲しいと思わないし。そもそもヘッドフォンで音楽聴くのが嫌いですから。聴くんだったら生音と同じくらいの大音量でそのまま聴きたいです。近所迷惑ですよね。だからこれも結局居住環境問題になっていってしまうのです。オーストラリアにいると、ファッションなんかも別に大して思わなくなるし。そもそも男が着飾るといえば、バシッとしたフォーマル系なスーツが多いですし、僕も日本にいるときは結構高価なモノを着てたし、ネクタイ選びにはかなり気合が入ってましたが、今はスーツ自体年に一度も着ませんからね。要らんって感じ。
名画のコレクションをしたいと思うほど鑑賞眼があるわけではないし、だいたい絵に興味があるなら自分で描きたいと思うはずで、そうなると画材一式ですが、それも別にそんなに途方もなくお金がかかるわけでもないです。食べるのは大好きですが、これも食べるだけならそんなにやたらお金がかかるものでもない。男ってもともとそんなにお金のかからない生き物だし、購買欲求も低いです。たまに趣味とかで車に凝ったりしますが、僕にはそんな趣味はない。あるとしたらギターとかですが、もう何十年も弾いてればわかるのですが、ギブソンのヴィンテージ200万円也を欲しがる前に練習しろってことです。絵と同じで、機材それ自体よりも、自分の技術が上達する方が先決だってのが段々わかってきますし、そっちの方に興味がある。だから、練習するなら今持ってるギターで十分で、これ以上機材的に欲しいってものはないです。まあ、もう少しマトモな一本があってもいいかなとは思いますが、それとて買おうと思えば今でも買えます。買ったところで弾くヒマがなければ同じことですもんね。
僕が欲しいと思うものはお金では買えない。Money can't buyです。そりゃ最低限の生活水準とかいうのはありますが、それは別に働けばいいことであり、かつ働くことはそんなに苦ではないですから、別にそれはいいの。前述の豪邸生活もいいですが、なにがいいかって、そこに辿り着くまでの過程が面白いのであって、いきなりポンと誰かから豪邸を貰ってもそんなに嬉しくないかも知れんです(まあ、嬉しいだろうけどさ)。
結局何が欲しいかといえば、すごい抽象的な言い方になりますが、自分が「いいな」と思う物事をリアライズ(現実化)していくことですよね。そういう時間、空間が欲しいわけで、それはお金では買えない。もちろん生命を維持するための食糧とか前提条件はお金で買えるけど、なにを「いい」と思うか、それをどうやって実現していくかは、全部自分の頭で考えないとならない。また、自分の頭で考えないと意味がない。それを、「はい」って商品を手渡されても意味がないんです。だから論理必然的にお金では買えないです。お金で買えるものの中には欲しいものが無いってのはある意味当然過ぎることでもあります。
これって僕がヘンなのではなく、誰だってそうだと思いますよ。特に男性的な性格を持ってる人はそうじゃないかな。男がやりたいことって、結局は「遊び」です。生来的な凝り性だから、何か面白いなと思うことに凝っ倒していれば幸せなのではないでしょうか?男の方向性を大きく二つに分ければ、@この世の帝王になる系、Aマッドサイエンティストになる系、だと思います。@は権力欲とか、自我の無限大増幅の前納感を得たいわけです。Aは自分が興味があることだけに没入したいって欲求です。朝から晩まで研究室で怪しげな機械を組み立てていて、タイムマシンが出来た!みたいな人生って、いいなって思います。でもって、この@とAは基本的には同じことかもしれません。興味の方向性が社会的なものに向かうか、その他のものに向かうかの違いだけで。F1レーサーになって「地上最速の男」を目指すのも、@的でもあるし、運転技術の求道的追求という意味ではAでもありますから。
これは、「美味しい料理を作る」でも、「妻と子を守る」でも、「市民の安全を守る」でも、「日本の医療を少しでも良くする」でもなんでもいいです。自分が「いいな」と思うことをリアライズ(実現)すること。芸術家が、「これだ!」という快心の一作を創り上げる喜びのように、自分の手によって価値あるものを創り出すこと以上の快感はこの世にないと思いますが、違いますでしょうか?
でもって、「自分で創り上げる」という「自己の関与」がコアな意味を持ちますから、自分がやらないと意味がない。だからお金で完成品を買っても意味がない。もっとも、その目的を達するために、お金が欲しいということはあると思います。僻地医療に従事している人は、最低限の設備や薬品が欲しいでしょうし、そういった施設を建造するためのお金が切実に欲しいでしょう。その限りで「お金が欲しい」と思うでしょうけど、それは事業資金や運転資金として欲しいだけであって、自分が金持ちになりたいという意味ではないです。
以上の次第で、お金は凄く欲しいなと思う反面、無いなら無いで別に構わないとも思うわけです。
といっても、日常生活においてお金に対して超越的な態度でいるってわけではないです。郵便受けを覗くたびに、「あーもー、またビル(請求書)ばっか」「おお、もう四半期の税金の月かよ」と運転資金でカリカリしております。そんな仙人みたいに恬淡としていられるわけではないです。ほんと、何もしなくても、電気代だの家賃だの車の車検だの新聞の購読費だので「うひょー」というくらい金が出て行きます。常時風呂桶の栓を抜いているようなもので、必死に上から新しいお湯を注ぎこまないと終わってしまいます。特に自営は、何もしないと正真正銘収入ゼロですからね。
しかし、そういった日常的なウザウザは置いておいて、改まって「お金、欲しいですか?」と聞かれると、「別に。欲しかったら稼ぎますから」って答えてしまいそうです。幸いなことに、莫大な医療費がかかる身内がいるわけでもないし、膨大な借金を背負ってるわけでもないですから。それに腹さえ括れば、オーストラリアで食って寝るだけならばそれほど難しいことではないです。それこそトコトコ田舎に出てって、農作業でもやってればある程度の貯金だって出来ます。別にそんなことしなくたって、適当な職はあるでしょう。
日本だって、腹さえ括れば、どんなことをしてたって愉快に生きていける筈です。ただ、お金がないことが非常にミジメなことであるかのように感じさせられたり、他人と比較したり/されたりするので、なかなかその「腹を括る」という作業が難しいのでしょうね。一定限度の資力がないと、人格とか人生が成立しないかのような。例えば、膝のところにパッチをあてるようなボロな服を着て街を歩くだけで、もう二級市民というか、人並み以下の落ちこぼれであるかのような視線を感じたりするでしょう。多くは思い過ごしだろうし、気のせいなのかもしれないけど、「”世間”はあなたの脳内にある」という言葉の示すとおり、自分がどう感じるかが全てだったりします。自分が世間から蔑まれているように思ったら、真実は誰もそんな風に思ってなかったとしても、本人は蔑まれているんだって固く思い込むでしょう。それが不幸の始まりって気もします。
お金があるとかないとかで、人生や人格が成り立ったりコケたりするってのも、本来はおかしな話だと思います。たかが紙切れ、たかが数字じゃないですか。そりゃ食うや食わずという絶対的飢餓状況におかれてるなら話は別ですよ。江戸時代の飢饉であるとか、生活のために自分の子供を間引きしたり、売ったりしなければいけないという絶対的貧困は、これは人間自身を滅ぼすだけのパワーをもってます。しかし、今の日本はそこまでしなくたって生きていけますから、貧困という毒素は本来それほど強くない筈です。
本当に切実に「お金が欲しい」と思うのは、なんらかの困窮状態にある人でしょう。巨額の賠償債務を負ってしまったとか、治療費が嵩むであるとか。あるいは、何らかの事業資金や運転資金を欲する人。これらの状況においては、"Money can fix it(金さえあれば解決する)."
ですし、"Money talks(地獄の沙汰も金次第)"でしょうよ。でも、そこまで絶対的に困窮していない場合、あるいは具体的な事業が遂行されているわけでもない場合、お金というのは実質的な意味を離れて、かなり心理的な存在になるような気がします。よく考えると、別にお金なんかそんなに要らないんじゃないの?って思えるような状況でも、なにかしらお金に執着してしまう。なんでそんなに欲しいの?というとよく分からない。心理的な強迫観念。
お金というのは、生計維持や世間体維持のための「防衛的なお金」と、今の状況よりも前進するための「攻撃的なお金」があるとします。日本の場合、この防衛的なお金に関する強迫観念が強い。これは過去のエッセイで折にふれ指摘してきたところです。同じ事柄を何度も引用するのは気が引けますが、昭和30年代の平均的な日本の四人家族の生活費を、現在(平成時点)でインフレ率を織り込んで算定しなおしてみると、月に7万円あったら親子4人暮らせるという計算があります。昭和30年代当時は、誰もが服にパッチを当てて着ていましたし、4畳半一間に親子四人なんて生活はザラでした。でも、今の日本人よりも当時の日本人の方が不幸だったかというと疑問ですよね。今より幸福だったような気すらします。しかし、平成の今日、親子4人7万円なんかとてもじゃないけど無理です。なぜ無理なのか?というと、「格好悪いから」「世間体が悪いから」という「見得張りコスト」が嵩むからであり、「そんな生活はミジメだから」という心理的要素によるものだと思います。そういった心理的呪縛から開放されている人々、例えば日本に出稼ぎにきている外国人労働者の方々などは、6畳一間のアパートで5人くらいが雑魚寝しながら日本人よりもパワフルにやってたりします。
この防衛的なお金の心理的呪縛。なにかお金が無くなると、とても大変な出来事が起きるかのような、まるでこの世の終わりが来るかのような恐怖感に駆られてお金を求めるという。しかし、それって「単にそう思い込まされているだけ」じゃないんですかね。「腹を括ったら」というのは、そういった呪縛から解き放たれた状態をいうのでしょう。着たきりスズメのツンツルテンの服を着ながら、ベンツの横を大汗かいてチャリンコで爆走してたって、「いやあ、毎日楽しいなあ」って思うことは全くもって可能です。でも自己破産でもしないと、中々そこまで「達観」できないのかもしれません。
一方攻撃的なお金、今より前進するためのお金はどうか?ですが、新聞のページをパラパラとみていたら、朝日新聞の生活欄に「ワーキングウーマンの意識調査」というコラムがありました。今月のテーマ:「賢い消費者・生活者とは」ということで、「今年何にお金を掛けたいか」というアンケート調査の結果が出ていました。順位は@資格取得や専門知識を深めること、A語学力アップ・維持、B癒しの体験やリラクゼーション・サービス、C有機食品や無添加食品、D住空間を快適にするため、インテリア、Eマッサージや整体、Fスキンケアやメイクなどの化粧品、G健康食品(サプリメントなど)、H洋服やバッグなどのファッション、I安全のため、防犯器具や装置という結果が出ています。対象者がおそらく働く女性ということで、ある程度の資金的ゆとりもあるでしょうし、興味関心や社会的立場にバイアスがあるとは思いますが、どれにしたって「無ければ死んじゃう」ってものではないですよね。
「自分の子供が餓死しないだけのカロリー」とかそういうレベル(防衛的)の話ではないのは勿論ですが、それにしたって、なんか「そんなもんなの?」という気もします。「そんなもん」とか言ったら失礼なのかもしれないけど、そんなにザクザク前進攻撃していくって感じじゃない。これは思うのですけど、回答者の皆さんが悪いのではなく、質問が悪いというか、別に悪くないんだけど、今僕が論じている観点からしたらちょっと違うんでしょうね。つまり、前進したり、攻撃したり、いまよりもハッピーになるためには、お金の問題じゃないんですよね。何よりも大事なのは「やりたいこと」があるかどうかでしょう。リアライズ(実現)、自己実現なんだから、「何を実現したいの?」という具体的なテーマがないと話にならないし、そのテーマ=「あ、これが好き!」って部分こそが、もっとも肝心な原動力になるのでしょう。このアンケートは「消費者」というキーワードでやってますから、どうしても「お金の使い方」になるわけで、本来お金を使ってどうこうするレベルの話ではないものを、強引に「何にお金をかけるか」という聞き方をしちゃうから、なんとなく「そんなもんなんかなあ」って結果になってるだけだと思います。
やりたいことが出てきたらお金は幾らでも欲しくなったりするでしょう。でもその逆は無いんじゃないかな。お金を幾ら使っても、やりたいことが見えてくるってわけでもないでしょう。前進させる原動力はお金ではない。お金はあくまで補助手段に過ぎない。お金があるだけでは幸福になれないというのは、これは倫理や修辞やキレイゴトではなく、ある程度成熟しちゃった社会においては構造的、論理的に必然なのかもしれません。「腹いっぱい銀シャリ(白飯)を食べられたら、それ以上の幸福はない」「お金がないから妹が飢えて死んだ」とか真剣に思える社会だったらお金は大いにモノを言うでしょうけど、衣食住ある程度満ち足りてしまったら、あとは精神的満足しか残ってないです。そして精神的満足というのは、すぐれて個人的なもの、インディヴュジュアルなものであり、上に述べたようにあくまでも自分が中核的に関与しなければ意味がない。それはお金=消費=ショッピングという、出来合いのモノや、他人の労働の成果を購入するというスタイルでは満たされない。満たされるわけがない。「愛」が欲しいと渇望している人が、湯水のようにお金を使って風俗に通い詰めても満たされないってことです。
というわけで、防衛的なお金がオブセッション(心理的な強迫観念)であり、攻撃的なお金が補助手段に過ぎないのだとしたら、結局のところ、お金ってそんなに要らないんじゃないの?ってことになりゃせんかってことです。
オーストラリアに住んでいると、お金の遣い出とメリハリに気付いて「おお、お金があるとイイコトがあるのね」と食指がピククッと動く反面、防衛&攻撃においては呪縛やメッキが剥がれて本質がよく見えるようになるから、「別にそれほど大事なことじゃないね」って気になったりするのかもしれません。
だから、、、結局お前はお金が欲しいのか欲しくないのか、どっちやねん?と問い詰められたら、なんて答えましょう?そうですね、1ミリオン(1億円)以上のお金だったら欲しいけど、それ以下だったら別にどっちゃでもいい、とでも答えましょうかね。
文責:田村
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