今週の1枚(06.06.26)
ESSAY 265/サッカーワールドカップ2006
写真は、サリーヒルズ/Surry Hills。セントラル駅の裏手(東側)。
日本のワールドカップは終わってしまいましたが、オーストラリアはまだ盛り上がっています。なんせ一次リーグを突破して、火曜日の朝(27日午前1時=日本では零時)に強豪イタリアと対戦することになってます。おそらくは、まあ、オーストラリアもここまでだと思われるわけですが、もともと出場できたこと自体「ほお?」という感じだっただけに、盛り上がってます。
ただ、その盛り上がり方は、日本のそれとはちょっと違うかもしれません。といって、リアルタイムに日本にいないので、ちゃんとした比較もできないわけですが、日本ほど「猫も杓子も」的状況は薄いんじゃないかと思われます。また、母国の勝敗だけしか興味がないって感じでもないです。
日本の状況は、皆さんからいただくメールなどで間接的に何となく窺いしれるのですが、例えばこういう指摘をいただきました。冷静な分析なので引用させていただきますが、『日本の様子ですが,盛り上がりと意気消沈の波の落差が大きい(笑)。たぶんサッカーファンの過半は勝つだろうと思ってたはずです。マスコミのチョーチン報道も罪でしたが。まるで盛り上げないとスポンサーに申し訳ない,と言わんばかりのよいしょでした。』『なんて言うんだろう,どんなスポーツでもそうなんですが,こう盛り上がりなさい,と振付けられているような気がしてなりません。』と。これは何となく分かるような気がする指摘ですね。盛り上がり方が自然発生的なものではなく、経済的な思惑に支えられて、企業やマーケッティングに引っ張られるような盛り上がり方です。
オーストラリアだってそういう部分が無いとは思いません。でも、今回放映権を持っているのはSBSというNHK第二のようにマルチカルチャルチャンネルです。またその放送も淡々としたもので、試合前後にオーストラリアチームの昔の監督とかが解説をちょこちょこっとやるだけで、有名タレントがゲスト出演するわけでもない。試合が終わったらすぐに終わってしまう。各地で有名人を集めてイベントが開催されているわけでもないです。シドニーとメルボルンに巨大スクリーンが設置されて、勝手に集まって勝手に騒いでるだけという感じです。また、SBSの中継番組のスポンサー(国営放送だけどCMは入る)も、NAB(ナショナルオーストラリア銀行)とカンタス航空とあとは韓国のLGくらいです。前二社は国を代表する巨大企業ですから、「まあ、挨拶しなきゃね」みたいな感じじゃないかな。ワールドカップが盛り上がったからといって銀行の預金が増えるってもんでもないでしょうし。LGとかヒュンダイなどの韓国メーカーは、これを機会に大画面テレビを買ってもらったらという思惑はあるでしょうが、でも韓国企業はあらゆる局面でガンガンCM攻勢をかけて知名度UPをはかってますから、別に珍しいことでもないです。それにオーストラリアの電気製品って有名どころは殆どが輸入品ですからね。
実際、ワールドカップが盛り上がって、誰がどうやって儲かるのか、この国ではようわかりません。放映権取ってない民放は、完全無視とまではいわないまでも、冷淡というか、淡々としてますよね。盛り上がりが最高点に達すはずの27日未明のオーストラリアVSイタリア戦、そのあとの27日の民放のテレビ番組はどうなってるかというと、今ちょっと見てみましたけど、ものの見事に平常どおりですね。特番ゼロ。「もうちょっとなんかやってもいいんじゃないの?」ってな感じですらあります。まあ、盛り上がって得をするのは、「レベルスポーツ」などのスポーツ用品店とスポーツパブくらいでしょうか。偶然一昨日レベルスポーツに足を運んだら、レジのところにワールドカップ風のボールが積み上げられ、オーストラリアチームの旗が売られていました。50センチくらいの大きな旗で20ドルで結構高いなと思ったのですが、買っていく人多かったですね。ちなみにオーストラリア代表チームの名前は「サッカルー/The Socceroos」といいます。最後の「ルー」はカンガルーの「ルー」。なんでも「ルー」をつけて愛称にする傾向がありますね。ジャカルーとかジラルーとか(牧場で働く男女の愛称)。だから、当然サッカルーの旗も、カンガルーがボールを蹴ってる図案になってます。
あとの経済効果は、どうなんだろう?って気もします。6月は年度末なので、本来は今は大バーゲン商戦で客が殺到していなければ嘘です。自営業者である僕らも、節税対策=「この際買っておいて経費で落とそう」と6月は買物に走りまくるのですが、今年はヘンな時間に放送があるので生活リズムが乱されるわ、意識が買物方面に集中しないわであんまり何も買ってません。パソコンの一台も新調したらいいんですけど、ああ、もう時間がないって感じです。日本では、ワールドカップ関係の書物や雑誌がたくさん出版されてるでしょう。出版王国日本ですから。でも、こっちではろくすっぽないです。オーストラリア人、あんまり本買わないし、本屋少ないし、インスペクションやホームステイ等で他人の家にお邪魔しても、びっくりするくらい家に本が少ないし。また、パーティ好きのオーストラリア人のことですから、なにかにかこつけてはホームパーティでドンちゃん騒ぎをして夜更しして、翌日の仕事はパス、ないしは出勤しても上の空ってなもんでしょう。しばらく、オーストラリア人にマトモな仕事を期待しない方がいいかもしれない(^_^)。だから経済的にはマイナスかもしれない。
あと、オーストラリア国内にはろくすっぽメジャーなサッカーリーグも無いです。草の根的には広がってますし、今のオーストラリア人の子供達は伝統的なラグビーやクリケットよりもサッカーをしているそうです。プロリーグも僕が知らないだけで実はあるのかもしれないけど、あんまり耳にしない。少なくとも日本のJリーグみたいなことはないです。今回の選手も、多分殆ど全員がヨーロッパのリーグでサッカーやってる人達でしょう。つまりは全員が中田や稲本みたいなものだと考えたらいいです。まあ、国内でやりたくても活躍する場が限られているっていう前提条件が最初から違うわけですが、それでも本場ヨーロッパのリーグに行こうと思っても気楽に行けるものではないでしょうから、最初からそういう地力があるってことです。でも、今回のオーストラリアの選手について、1年前からオーストラリア人がよく知っていたってことはないと思います。今回はじめて、「ほお、こういうナイスガイがいたのか」ってなもんでしょう。
というわけで、マーケティングや企業主導でメディアミックスをガンガン仕掛けて、経済効果を発揮しましょうというノリは、日本に比べれば薄いんじゃないかなと思われます。事前にそんなに勝つとは思ってなかっただろうし、「ワールドカップ?ふーん」「なんといってもラグビーだろ」みたいな人も多かったとは思う。それが、日本戦で勝って「およよ」となって、見てみたら結構いい動きをしてるし、頑張ってるから、応援したろみたいな感じじゃないでしょうか。開始当時よりも今の方が全然盛り上がってます。車の窓からサッカルーの旗をつけて(プラスチックのいかにもチャチそうな部品でクリップのようにウィンドウに挟んで支柱を取り付ける)走ってる車の数が増えましたもんね。一番儲かったのは、あの「サッカルーの旗を車の窓に取り付けるための部品を開発販売した会社」かもしれない。
もう一点、日本と決定的に違うのは、マルチカルチャル社会だってことです。毎度のことですけど。ワールドカップ出場国出身ないしゆかりのオーストラリア人、永住権者、一時滞在者、もう山ほどいます。日本人の僕がシドニーにいるくらいですから、他の国は推して知るべしです。好試合だったオーストラリアvsクロアチア(英語ではクロアシアと発音する=もっと正確にいえば「くろうえいしあ」)戦でも、クロアチア系の移民はメチャクチャたくさんいますから、クロアチア系住民の多いサバーブでは「頑張れ、クロアチア!」的熱気に包まれ、クロアチアから移民してきた一世の両親はクロアチアを応援し、その子供はオーストラリアを応援するって風景が普通に見られたりします。たしか、この試合で、審判のミスで2回イエローカードを食らっても退場されず、不思議な3枚目のイエローを食らったクロアチアのシミューニック選手は、「オーストラリア生まれのクロアチア人」だったと聞いたことがあります。
次のイタリア戦などは、クロアチア人よりもさらに人口比率の高いイタリア系ですから、ライカード(イタリア系住民の多いシドニーのサバーブ)などは大騒ぎでしょう。大体ですね、そんなオリジン(祖先/出身)を言い出したら、オーストラリア人の圧倒的多数はイギリスやアイルランド源流なんだから、オーストラリアvsイングランドとかになったらどうすんのだ?って。実際、ラグビーの試合では、オーストラリアvsイングランドは日常茶飯事ですし、前回のラグビーワールドカップでは決勝戦でイングランドがオーストラリアを破ってます。
こういう状況は他人事ではなく、皆さんがこちらの社会や語学学校に来たら普通に体験するものです。日本に住んでると、当然日本を応援するものであって例外は無いか非常に少ないけど、こちらの社会では、オーストラリアにいる全員がオーストラリアを応援するってものでもないです。メインストリームとしてはそうだし、オーストラリア生まれでなくても住んでいれば愛着が湧くから、僕だってオーストラリアを応援しますよ。でも、日本VSオーストラリア戦で感じたように、「うーん、どっちも頑張ってもらいたいなあ」ってな感じになることもザラです。自国/他国の区別が、日本ほどクッキリしていません。これは日本における甲子園みたいなもので、甲子園シーズンになると東京在住の人がてんでバラバラに故郷を応援したりしますし、東京代表にも多少の親近感を抱くのと似てます。ワールドカップにおける日本は、甲子園における各地元みたいなものなのでしょう。マルチカルチャルであるがゆえに、一色に染め上げられるような盛り上がりではなく、ナチュラルに多様性をもっての盛り上がりになるという感じですね。だから、次のイタリア戦でオーストラリアが敗退したとしても、ワールドカップ熱がシュンと一気に醒めるってものではなく、決勝戦までそれなりに盛り上がるとは思います。
最初の日本vsオーストラリア戦で感じたことですが、オーストラリアの選手ってそんなに滅茶苦茶サッカーが上手なわけでもないです。世界の強豪からしたら、やっぱり見劣りしますし、「あんまり上手くないな」ってところでしょう。じゃあ全然ダメかというと、そんなこともなくやっぱりヨーロッパのリーグでやってきた連中ばっかりですから、それなりの水準はクリアしてます。ただ、ブラジルとかイタリアの選手のようにスーパーではない。総体的な印象としては、「最初から運動神経のいい奴がサッカーをやっている」って感じです。中学や高校のクラスのサッカー大会みたいなものですね。ブラジルの選手などを見てると、ほんとうにサッカーをやるために生まれてきたかというか、日常的に物凄いレベルの切磋琢磨をやっててその頂点に君臨する天才達という感じがするのに対して、オーストラリアの選手は「たまたま今サッカーにハマってます」みたいなノリがあります。これでホイッスルが鳴って、「はい、じゃ、これからラグビーね」と言われたら、そのままスムースにラグビーが出来ちゃいそうな。
これに対して日本の選手の場合、これはもう皆が指摘してることだし、誰もが最初から知ってることだけど、ベーシックのレベルが低い。単純素朴な印象でいえば、「ああ、サッカー下手なのね」という。そりゃ普通人のレベルからしたらバケモノみたいに上手な人達なのでしょうし、批判する気は全然ないけど、それでも毎日のように日本戦以外の世界の試合を見れば目も肥えてきますから、日本代表の選手の動きに、「ああ〜、もう!」というもどかしさを感じます。実は今回そんなに興味も無かったので、とりあえず最初に見たのがオーストラリアVS日本戦でした。そのときは漠然としか感じませんでしたが、その後いろんな国の試合を見つづけていると、どの国の選手も上手なんですね。勝ち点ゼロで日本よりもいいところがなかったコスタリカ、セルビア・モンテネグロ、トーゴも、「うわ、上手いじゃん」と思ってしまったわけです。それからしたら日本チームは?って。
僕もサッカーは素人ですし、自分でやってもなかったからどれだけの判断が出来ているか自信はないのですが、気付いたのはパスを受けてからボールを持って次のパスをするまでの時間が長い。一生懸命パス道を探しているのだろうけど、見つからない。だから持ってる時間が長くなり、ダメだからボールキープのためのバックパスを出したりする。だから見てる側からしたら、「行けー!」ってときに行かないからモタモタしてる印象があります。これが日本選手の試合しか見てないんだったら、そういうもんだと思ったでしょうけど、連日世界最高レベルの試合を見てると、トロく感じるのですね。ほかの国の選手、例えば上記の勝ち点ゼロの国でも、パスの判断が早いし、パスをせずに果敢に自分でドリブルして切り込んでいきます。これは強豪国ほどそうで、ブラジルでもアルゼンチンでもピンボールかパチンコ玉のようにパスが速い。一回足もとにホールドしないでそのままダイレクトに蹴るパスも多く、それが連続で3回も4回も続くと、めまぐるしくボールが動き、見てる側としては「おお」というスピード感を覚えます。気持ちいいのだ。
なんで日本選手があんなにパス道探しにモタつくのかといえば、素人が推測するに、パスを出したいところに味方があがってきていない。これは、中田選手の悲哀でもあるのでしょうね。ミッドフィルダーは、中盤から一気に攻撃に畳み掛けるときに絶妙なパスを出すのが仕事なのでしょうけど、味方がそこにいなかったらどうしようもない。活躍としてはぱっとしなかった中田選手が、それでも第一次で敗退した16カ国のベストメンバーに日本で唯一選ばれたのは(川口選手は補欠)、見る人が見たらすごい選手であるのはわかったのでしょう。でも、それも結果として見えるためには、味方の攻撃陣が素早く、しかも絶妙な位置にいてくれないと話になりません。見た目では再三のピンチを救ったファインセーブの川口が光ってたのですけど。
もう一つ、味方がいるだけど見えていないからパスが出せない、あるいは攻撃展開を予期し、組み立てる能力や判断力が低いってこともあるでしょう。強豪国のパスを見てると、どうしてそんなに一瞬でわかるの?というくらい的確に見えてたりします。ロナウディーニョのノールックパスなんか、右を見ながら左にパスを出したりします。特にゴールまで自分も全力で走りこんだり、敵陣をドリブルでかわしていて、前方ないしは足もとしか見えていないはずなのに、そこへ駆け込んでくる味方に絶妙なタイミングで踵でチョンと蹴ってヒールパスを出したりします。アルゼンチンだったかな、ゴール直近でシュートするぞとフェィントを掛けながら、ポンと超スローなヒールパスをして、走りこんできた別の選手がゴールしたシーンがありましたが、見ててひっくり返りました。あんなの絶対後ろを振り返って見てる余裕なんかあるわけないし、自分自身が超熱くなってるゴール前で、どうしてそんなものが見えるのか、どうしてそんなに冷静になれるのか。超能力みたいなセンスです。また、こういう体制になったらこういう攻撃があるという攻撃パターンのストックが無数にあるのでしょうし、それを瞬時に判断できるのでしょう。ブラジルだったか、シュートして防がれて、そのルーズボールを拾ってさらにシュートしたけどまた防がれて、と何回か続いてゴール前が大混乱になっているときに、最後にこぼれ球を拾った奴が的確なパスをしてゴールを決めたというシーンがありました。2秒間に3回くらいがらっとシーンが変わるなかで、どうしてコンマ数秒というタイミングでああも息の合った連携プレイができるのか?です。
考えてみればそんな連中にディフェンスされて、徹底的に味方がマークがされてたら、日本選手が途方にくれてバックパスばっかりするのも無理はないですよ。無理にパスを出してもカットされるだけだし、変なところでインターセプトされたら、一気にカウンターを食らってそれが恐いし。そういえばブラジルVS日本戦で、先制のゴールを決めた玉田選手の美しいゴールがありましたが、その前の前に稲本選手が出した絶妙なロングパスがありました。あれが中々通らなかったのだけど、このときばかりは定規で測ったように敵陣二人の間をキレイに抜けてパスが通り、受けた人(名前忘れた)がセンタリングをして玉田が決めたという流れでした。だから、ああいうパスが普通に通るようになれば日本はもっと強くなるのでしょう。じゃあ、どうすればパスが通るようになるのか、他国のようにバンバン縦パスが通るようになるかといえば、「サッカーが上手になる」しかないんでしょう。要するに他の強豪国はサッカーが上手だという平凡な結論にしかならない。もう上手すぎ。
余談ですけど、こちらのアナウンサー、日本選手の名前をよくまあ覚えるわって感心しますね。覚えにくいだろうに。ただ、言いにくそうでしたねー。ブラジル戦の玉田選手なんか、"タマーダ、Who's that?"「玉田、誰それ?」とか可哀想な扱いでした。でもゴールを決めてからはさすがに覚えてちゃんと言えてました。笑ったのは、「小川さん」と言ったときで、「え?」と思ってよく考えてみると、小笠原選手の「オガサワラ」が発音できず、「オガワサ、、」と言ったまま絶句してしまったのでしょう。それが日本語では「小川さん」に聞こえたという。しかし、これで懲りたのか、試合中二度と小笠原選手の名前を呼ばれることはなかったです。まあ、どうでもいい話ですけど。
さらにもう一つモタつく原因ですが、これが根深いような気がします。とっさの自己決定力です。前回のエッセイとかぶりますが、日本ではあんまり自己決定ばっかりしてると嫌われるし、自己判断力を深める場面も少ないです。また、前任者トルシェ監督の方式のように、バラバラにいったら各個撃破されるだけだから、キチンと必勝フォーメーションを作って全体の形で押していくという勝ちパターン、日本のお家芸の護送船団システムがまだ残ってるんじゃないかって懸念します。「決断する前にまず周囲の様子を見る」というクセが、サッカーに限らず僕ら日本人には骨の髄まで染み込んでますからね。ジーコ監督は、選手個々人の力量を上げないと話にならない、自由にやらせるという方針でいったそうですが、方向性としては僕もそれでいいと思います。そんな最初から「お前はヘタなんだから独断専行するな」みたいな方法論でやってたって、そりゃ短期的には勝てるかもしれないけど、いつまでたっても本当に強くはなれない。弱いものが寄り添いあって生きていくみたいなやりかたでは、世界の天才達にはやっぱり勝てないでしょうし、勝つためのルートも築かれないと思います。
オーストラリアでもそうですし、西欧はなべてそうだといいますが、物心ついたころから「一人でやれ」「自分で決めろ」と、日本からみたら冷たいくらい、突き放すくらいの自己決定を強いてます。幼児の頃から暗い部屋に一人で寝かすし。生まれたときから自己決定を日常的にやってきた連中と、「自分勝手をするな」といわれた育った日本人とでは、あのピッチの緊迫したコンマ数秒の決断に差が出てきても、僕は不思議ではないと思います。日本選手が中盤でボールをキープしながら、周囲の味方選手の様子を見て、態勢が整うのを待ってるかのような動きをしていると、なんか馴染みのある光景というか、僕の中の日本人の血が騒ぐというか(^_^)、なんとなく分かるんですね。これ、他国から見たら「なにやってんだ、あいつ?」って不思議かもしれない。
自己決定力がないのは、なにもサッカーの選手だけではなく、普通の日本人もないです。「皆さんそうしてらっしゃいます」と言われると従ってしまうし、「キミは人生で何がやりたいの?」といわれると答えられないという。そういう国から代表で来ているのだから、そりゃピッチ上の動きもそうなる傾向があっても不思議ではない。ラグビーのワールドカップのときもそう思ったけど、日本選手というのはなにか頭の中に設計図があって、それを真面目に忠実に実行しているようなプレイをします。優等生的というか、「サッカー好きだからやってます」「ピッチに出てしまえばこっちもんだい、大暴れしてやる」というオーラが乏しい。そういう個々人の野獣性というかケダモノ性みたいなものを抑圧する文化が日本にはあるのでしょう。実際あるしね。でも、最初のオーストラリア戦が一番その傾向が強く、あとのクロアチア戦、ブラジル戦になるにつれて吹っ切れたのでしょうか、いい動きになっていったと思います。モタモタしなくなっていったです。ブラジル戦なんか、4-1でボロ負けだけど、いい試合だったし、いい負け方だったと思いますよ。純粋に力量の差だけで負けたから。
次に日本と比べたときのオーストラリアですけど、これはもう遺伝子レベル、国や社会レベルで運動能力に差があります。ありすぎます。これは何もスポーツ選手だけの話ではないんよ。日常生活のレベルでそうなのですよ。身体の大きさとか筋力や持久力は別として運動神経という場合、要するに空間感覚と時間感覚だと思います。ボールがあの角度であああがったら、何秒後にあの地点に落ちるという判断がどれだけ早く、どれだけ正確に出来るかによって運動神経の良し悪しが決まると思います。オーストラリア人はこれがスゴイのですね。それはたとえば、道路を渡るようなときでも、右から時速80キロでトラックがきて、左から時速40キロで車がくるときに、今渡れるかどうか、渡るとしたらどのくらいの速さで動いたらいいか的確に判断するのですね。こっちの幹線道路とか、横断歩道が少ないのですが(歩道橋なんてのも殆ど無い)、皆さんひょいひょい渡ってます。僕も来た当時、目測を誤ってトレーラーに轢かれそうになりましたもんね。80キロ以上で驀進してくるトレーラーの前を走って渡るという経験を日本でしたこともないし、ましてや片道3車線合計6車線の結構長い幅を歩いたらどのくらいかかるかというタイム感も悪いから、あっという前に目の前に20トントレーラーが迫ってきて死ぬかと思ったもんです。恐かったから、もう二度と横断歩道以外では渡るまいと思ったのですが、地元のオージーは気楽に渡るんですよ、これが。それに、道路半分だけ渡って中央で待ってたりもする。中央っていったって中央分離帯もろくすっぽない白線しかかかれてないようなところでポツンとたって、横数十センチのところを大きなトレーラーが走り抜けていくようなところで、涼しい顔して待ってたりします。それも結構おばあちゃんとかがやってたりして、ぶっ飛びます。
オーストラリアは歩行者優先が徹底してますし、横断歩道に人がいたら、信号が無くてもまず絶対止まります。だから、センターラインでたたずむ人や、渡る人のことを気遣わないわけないのですが、全くスピードを落とす気配もない。それは、「このくらい余裕でクリアできるだろ?」という相手の運動神経に対する信頼なのでしょう。いや、信頼という言葉とは違うかな、それが社会のスタンダードなのでしょう。「人間だったらこのくらい出来るだろ?」って水準が高い。運転してても、例えばハーバーブリッジなんかかなり恐いですよ。80キロ制限の道で、車線幅がかなり狭いうえに、中央分離帯がないですからね。しかも車幅からハミ出してるんじゃないかって大型車がガンガン通る。自分の左車線を巨大トレーラーでブロックされ、前方からまた中央線をはみ出さんばかりに突撃してくるバスなんかが走ってきたらかなり恐怖です。数ミリハンドルさばきを誤ったら大事故ですし、おそらくそうなったら自分の身体なんか原型を留めていないでしょう。日本だったら車線を減らしても車線幅を増やすか、中央分離帯を作るでしょうけど、こっちはやらない。それは、「こんなもん余裕でクリアでしょ」って思っているんでしょうねー。そうとしか思えないですわ。実際、それで事故ないし。カミさんが免許取立ての頃、死角に入っていたジョギング中の歩行者が見えずに発進させて、冷や汗をかいたことがあったそうです。その歩行者は、ひらりと余裕でかわして、にこっと笑って立ち止まりもせず走っていったそうです。このときばかりは、オーストラリア人の運動神経のよさに感謝したとか。
これからオーストラリアに暮らす人は、ここはのんびりリラックスしているいい国ですけど、日本みたいな動きでいると、こちらでは「常識はずれにトロい」ことになりかねず、危ないこともありますから、ちょっと心持ちテンションをあげておいてください。これが筋力とか背丈になったらどうしようもないのですが、交通事故くらいだったらちょっとした気の持ちようで防げますからね。
オーストラリア人のスポーツ熱は、もう宗教的というか、すごいものがあります。アウトドア大好きだし、身体を動かしてないと死んでしまうかのようにスポーツをします。もう「愛好」とかいうレベルではなく、「信者」みたい(^_^)。
小さな子供の頃からスポーツの英才教育を受けさせたりするし、自分の庭にはトランポリンやプールが普通にあります。ウチの隣にはトランポリンが、裏にはプールがあります。見てると、もう3つくらいの女の子が飛び跳ねており、しばらくすると空中回転とか普通にやるようになります。こんな子供の頃から盛んに動いていたら、そりゃあ3次元感覚や空間感覚は良くなりますよ。
サッカーでもラグビーでもなんでも子供のリーグが沢山あるし、学校でもやりますが、組織したり世話をする大人はボランティアだったりします。ボランティア人口がやたら多いオーストラリアですから人材には困らない。困らないどころか、例えばサッカーでしたら、イタリア系とか、ブラジル系とか、バリバリ上手な大人がゴロゴロいるわけです。また、練習中にちょっと怪我したとかいって文句を言ってくる親も少ない。なぜなら、親自身がスポーツをバリバリやってるので、不可抗力の怪我かどうかなんか分かるわけですし、スポーツなんかそういうもんだってこともよく知ってる。ちょっと血が出ただけでヒステリックになるような親はあんまりいないだろうし、いたところで相手にされないでしょう。
今回のオーストラリアの選手は、オーストラリアで生まれて地元のサッカーリーグなどで大人たちの本格的な指導を受け、やがてヨーロッパなどに出かけていってそのリーグで頑張ってます。この場合、ヨーロッパに出かけるにせよ、イギリスにせよ、イタリアにせよヨーロッパなんか人脈的には非常に近い。草サッカーのコーチをやってるおっちゃんが実はイタリア系だったりして、本国の知り合いに問い合わせるとか、コネがあるとか、パイプなんか死ぬほどありそうな気がしますよね。
これに比較して日本を見てみると、まず子供が自由自在に遊ぶ空間が少ない。子供をスィミングスクールなどに通わせる親は多いかしらんけど、もっと日常的に運動をする場が少ない。庭にトランポリンがある家なんか少ないでしょう。昔はそれでも野原があったりして、僕らはそこが格好の体育の場だったですけど(三角ベースとかやったり)、今はどうなんでしょうね。プレステやって塾通いじゃないですか。次に、親自身が運動音痴ですよね。子供にスポーツをやらせたかったら、まず親がやれ、親が上手くなれってことです。でも、日本の30-40代のお父さんお母さん、気楽にスポーツなんかやってやれないですよ。最後に、草サッカーで抜群の天才性を示した子供を、横丁のおじいちゃんが「よし、イタリアにいるワシの甥っ子に連絡するから、イタリア行って来い」って言うようなことって、まあないよね。
西欧人やアフリカ人などが運動神経がいいのは狩猟民族の文化と記憶をまだ持ってるからなのかもしれないです。狩猟の場合、動いてなんぼですし、どれだけ短い時間に正確に何をしたかで餓死するかどうかが決まります。また、いきなり背後から猛獣に襲われるかもしれないから反射神経も必要。でも、日本人のような農耕民族の場合、そんなに焦らなくたって田んぼのお米は逃げません。それよりは、一つのところでいかに静止的姿勢をキープするかが運動や美の基準になるのでしょう。なにかの本で読みましたけど、格闘技でも日本の格闘技、例えば相撲なんかの場合、土俵という空間を限定し、そこから出たら負けという強い土地や場所への束縛性がある。動かないこと、バランスを崩さないことが大事だから、足の運びも「すり足」になります。これは、柔道でも剣道でも同じです。西欧のボクシングやフェンシングは、華麗なフットワークが身上で、動いてなんぼです。日本舞踊もバレエやフラメンコのように激しい動きをせず、静的な美を求めます。そういう意味では、敵味方入り混じってひたすら動き回るサッカーとかラグビー競技は、圧倒的に狩猟民族系に有利ですよね。逆に、静的バランスと、研ぎ澄ませた一瞬の動きの動きがイノチである剣道(特に居合)、相撲などは日本人に有利でしょう。だいたい日本人の性格に合って、面白かったら、日本にだってサッカーみたいな競技が生まれていたはずです。それが平安時代の蹴鞠どまりですからね。向いてないっちゃ向いてないのでしょう。
ただ、まあ、そんな大昔の文化的なもので全てが決まるものでもないし、未来が決定されるものでもないです。日本がワールドカップを制するのも、別に夢物語だとは思いません。だいたいその国でどのスポーツが強いかなんか、その国の人たちが決めることでしょう。オリンピックで数百単位でメダルをかっさらって世界を白けさせているアメリカだって、サッカーやらせたら日本と同じく一次敗退です。遺伝子や文化背景においてアメリカが遅れをとる理由は全く存在しないでしょうから、ようするに競技人口が少ないからレベルが低いってことでしょう。サッカーをやりにくい環境があるってことです。ブラジルだってサッカーやらせたら最強だけど、他に何が強いの?といったらよくわからんです。それに体格の良さだけでサッカーの上手下手が決まるものでもない。ブラジルもイタリアも別に巨大なわけでもないし、華奢で小柄だけどすごい選手も沢山います。
要するに、毎年生まれてくる天性の運動神経と身体に恵まれた若者が、何をするか?でしょう。日本だったら、ある程度頑健な身体に恵まれ、運動神経が抜群だったら、どうなんだろうな、まず大相撲か柔道にもっていかれるかもしれません。人気的には低いかもしれないけど、「スポーツで一生飯を食っていこう」というスポーツエリートからしたら魅力的な選択でしょう。大相撲で横綱になって年寄りでもなれば安泰ですもんね。柔道だって、現役の頃は世界最高レベルが地元の日本で味わえるわけですし、引退したあとも大会役員であるとか、コーチとか教育機関での雇用は幾らでもあります。これらのスポーツは、スポーツだけではなくこの国の社会機構の大きな柱になってるわけです。あとはプロ野球ですかね。Jリーグに人気を食われているとはいっても、日本の野球は世界レベルでみてもかなり水準が高いです。ここでしっかりやれば、イチローのように本場アメリカで通用するという道は開かれています。引退後の再就職なんかも結構あるかもしれない。でも、サッカーは、Jリーグは人気ですし、ちやほやされるかもしれないけど、真剣に就職とか老後とか考えたら、50年後も日本でサッカーで飯が食えるシステムがあるとは限らないですよね。まだ空手の方が世界各地にいって師範をやって食べていけるかもしれない。
野球の世界大会で、イチローが「30年は手出しできないくらい勝ちたい」といったのが物議をかもしてますが、日本の野球はそれくらい層の厚さがあります。小学生でもカーブ投げるし、高校野球ともなるとプロレベルの高等戦術なんかも使います。日本の野球をやってる高校生の
全国大会は「甲子園」だけど、サッカーの高校大会にはこういう誰もが知ってるという甲子園のような愛称はないし、連日全試合をテレビやラジオで放送するということもないです。だから、日本でサッカーが浸透したといっても、まだ端緒についたばかりなのでしょう。この時点で、強いだの弱いだの論評すること自体があまり意味がないですし、今回の結果だけを捉えて「こうすれば良かった」とか言い募っても意味のないことだと思います。
日本のサッカーを本気で強くしたかったら、サッカーをやってる人間ではなく、サッカーをやってない人間、つまり僕らのような外野の人間の姿勢と資性、つまりサッカーを取りまく社会構造にかかってるのでしょう。日本という社会からどれだけの名プレーヤーを生み出すことができるかは、プレーヤー個々人の努力ではなく、社会そのもの責任でしょう。
今回、皆さんから貰ってメールで意外に思ってたのは、オーストラリア戦で日本が勝つと思ってたという人が多かったことです。僕はよく知らないでどっちが勝っても不思議ではないなと思ってましたけど、なんで日本が勝つと思ったのでしょう?それは「そう思いたい」という希望的観測もあるし、その方が盛り上がるってのはありますけど、冷静な、真のファンとしての判断というのもまたあると思うのですね。オーストラリア選手がほぼ全員ヨーロッパのリーグでやってる連中だという事実、つまり選手全員が中田や稲本レベルだという事実からしたら、そんなに容易く勝てるとは思えないんじゃないかしら。結果論では3-1でしたけど、日本が勝っても不思議ではない試合ではありました。最初の方にも書いたけど、世界レベルでみればオーストラリアだってそんなに強豪じゃないもんね。確かに最後の方まで1-0で日本が勝ってたし。ただ、最初の中村のシュートも、ヘロヘロあがったボールでゴールになったけど、あれもオーストラリアの放送ではキーパーチャージでファールではないかと言ってましたし、実際キーパーが押されて手が届かなかったです。ファールかどうかはともかく、堂々たるゴールって感じではなく、「あ、入っちゃった」みたいな感じではあります。シュート数やボール保持時間では圧倒的にオーストラリアに押されてて、僕も見てて「これで日本が勝っても、なんかあんまり喜びにくいな。だからもう一点堂々と入れて欲しいな」とは思ってました。
日本が勝つ、勝って決勝トーナメント進出だと「信じる」ことは全然イイコトだと思います。どこの国だってそうだし、オーストラリアだって、今はイタリアに勝つんだーみたいなノリです。だけどそれは「信じる」レベルでの話。信仰レベルの話。勝負は時の運だし、理屈どおりいかないのがスポーツですから、希望や願望をひっさげて盛り上がるのは健全なことでもある。
ただ、僕がひっかかるのは、ちゃんとしたファンだったら冷静に物事見えるだろうし、冷静に判断しての発言だって沢山あってしかるべきです。オーストラリアのTV中継のCMで面白いシリーズ物がありまして、オーストラリア選手が練習している横で、よぼよぼのスキンヘッドでモンスター的なおじいちゃんが悪態をつくのですね。あとのシリーズで熱狂的なクロアチアファンのおじいちゃんであることが明かされますが、「お前らオーストラリアチームが決勝なんかに進めるわけはないんじゃ、それは歴史が証明してるのじゃ、19○○年の○○戦のとき、、」とサッカー歴史の薀蓄を垂れまくるのを、ムカついたオーストラリア選手が、ボレーシュートを蹴っておじいちゃんにぶつけてノックアウトしちゃうのですね。で、"History's against us"という字幕が入るという。「歴史をかえりみれば、勝てないんだけどね」「だけど、今度は歴史を変えようぜ」って意味ですが、客観的かつクールに見えてる部分はあるなあって思いました。日本でも、冷静に1次リーグ突破は難しいと発言した人も沢山いるとは思うのですが、そういった声がかき消されてしまって一般的に「日本は勝つものと思ってた」なら、それは「神州不滅」の大本営発表状況と似たり寄ったりじゃないかって思いますね。、メディアがきちんと機能してないし、情報の受け手が成熟してないんじゃないかって、ちょっとひっかります。
もっとも、FIFAの世界ランキングもアテになりませんよね。一位のブラジルは分かるとしても、日本が18位というのは良すぎるように思います。これじゃ僕らも期待しちゃうし、世界との目測を誤るよ。でもFIFAランキングでいえば、アメリカなんか5位ですよ。アメリカがアルゼンチンより、イタリアより、フランスより、イングランドよりも強いのか?ドイツは日本よりも下で19位。「ほんとか?」って思いますよね。韓国が29位、ポーランドが29位、スイスが35位ですもん。ランキングについても色々な算定方法があり、関係者は苦労しておられるでしょうが、でも実態からズレてる部分は確かにあると思います。だから、日本が何位だろうが、あんまりアテにしないほうがいいのでしょう。でも、そういったクールな情報というのは、開催前に伝わっていたのだろうか。
あと気付いたのは、日本の記事とかみると、「3−2−2」がどうしたとか、やたら戦術的なオタク的な解説が多いのですね。一般新聞紙のスポーツ欄でもそう。AERAなどの比較的固い雑誌ですらそう。でも、そんなフォーメーションなんか気になりますか?要するにより多く上手な選手を抱えて、より活躍した方が勝つんだからそれでいいじゃん。また、ジーコ監督がどうのって言いますが、こちらもヒディング監督はメディアでフィーチャーされてますが、でもケィヒルとかヴァイドゥーカとかキューウィル選手ほどフィーチャーされているわけではない。これも思うのですが、監督なんかどうだっていいじゃん。要は選手でしょう、プレイでしょう?なんで誰がコーチして、どういうフォーメーションで、どういう戦術で、、ってことばっかり気にするのだろう?そのくせ、日本選手や相手国選手のプレイの素晴らしさ、何がすごいのかを解説した記事は少ない。なんか企業経営の記事を読まされているみたいで、面白くないんですわ。あんなノリの記事や論評で、皆さん違和感を抱かないですか?思うのは、自分がスポーツをする人間が発信して、自分がスポーツをする人間が読んでるって感じがしないことです。サッカーに対する理解そのものが深まっていかないような気がする。
今回のワールドカップは日本にとって収穫あったと思いますよ。これが世界のレベルというのを知るべきだろうし、世界レベルの選手の天才的なプレイを見て憧れる少年たちも沢山出てくるでしょう。出てこないと困るのですよ。僕らがギター少年だったときは、日本も世界も関係なく、すごいギタリストのすごいプレイに接してガビーンとなるところから始まるわけです。「ああなりたい」というレベルを多くの人が持つこと、これが競技人口の底上げに繋がるのでしょう。そして、そういうプレイを当然のこととして要求する仲間や観客によって選手は育てられるのだと思います。
というわけで日本のサッカーを強くしたかったら、戦犯探しとかくだらないことやってないで、「まずはお前が蹴れ!」ですよ。そして日本が出なくても、決勝までバンバン特番を組んで、「すげー」といって見ることでしょう。だって、実際すごいんだもん。あんなの人間業じゃないですよ。ロナウディーニョだったかな、ボールをキープしながら、ボールの上にひょいと自分が乗っかったりしてかわしてたけど、「なんだあれは?」って感じですよ。朝もアルゼンチンとメキシコが熱い試合をしてましたが、アルゼンチンの決勝点をきめたシュートも胸でトラップして3メートルくらい高くあがったのをボレーシュートでキメましたけど、測ったように飛び上がったキーパーの両手の数センチ上空を越え、すっと落ちてゴールに入った山なりシュートなわけで、あの土壇場でどうしてこうも正確に身体が動くのか。でも、これが技術なんでしょうね。唖然としますわ。
それぞれの国でそれぞれの環境でサッカーをやってるわけで、例えば南米などでは貧しい少年が這い上がるための唯一の手段みたいな実はそれなりに暗い格差社会という社会環境があったりするのでしょう。タイなんか全然ワールドカップでてないけど、それは成り上がるためには皆サッカーをやらずにムエタイをやってるからで、ムエタイの世界大会があったらタイの圧勝でしょう。サウジアラビアの選手も出てますが、サウジでサッカーが出来るのは一部の裕福な階層の人たちだけなのかもしれないです。人口比でいえば、中国とインドが出てないわけですが、いずれブームになったり、それが整う社会環境が出来たら、最強チームになっていくかもしれません。
ヨーロッパが強いのも、サッカーというものが人々の生活の中に密着しているからでしょう。たまたま村上龍の「悪魔のパス、天使のゴール」というサッカー小説を読んでいたのですが、サッカーのことがよく分かりますし、特に最後の120ページくらいは一試合の攻防を異様なまでの綿密さで書いてます。その小説の中にイタリアリーグ/セリエAの状況がリアルに活写されていますが、ウルトラスと呼ばれる熱狂的なファンの連中は、サッカーがなくなったら明日からテロリストか犯罪者にでもなるしかないような若者、つまり人生や生活の喜びやテンションが全てサッカーに注ぎ込まれている状況が書かれてます。大試合ともなると、警察の完全警備、金網で仕切られてエリアに入れられるし、試合が終わった後はしばらく外に出してもらえない。また、場合によっては軍隊が出動して治安整備にあたるという。サッカーがどうのと言っても、所詮は他人がボールを蹴ってるのを野次馬的に見るだけでしょ。それにそこまで熱くなれるのは、社会現象としてそうなっているのは、はたして健全な社会なのかな?って疑問もまたあるのですよ。過去の歴史をみていくと、ファンに選手が射殺されたり、試合で暴動が起きて318名が死亡(東京オリンピック予選のペルーVSアルゼンチン戦)、85年にもヨーロピアンカップのリバプールVSユベントスで死者41人を出しています。そんな社会になってまでサッカーが強くなりたいか?って観点もあるわけです。
だからオーストラリアみたいにある種ノホホンとした、社会構造の暗い部分を引きずってないチームというのは、ある意味珍しいかもしれません。その意味では日本もよく似てるかもしれないです。まあ、だから、サッカーが弱いのはイイコトなのかもしれません。それに、オリンピックの昔のソ連みたいに国家が出てきて国策的に選手強化してそれで強かったとしても、そんなにうれしくないかもしれない。今の日本やオーストラリアのように、楽しくサッカーやってるのが一番だって気もしますよ。それで強かったらいうことなし、くらいの。だから、負けたからといって落ち込む必要も、選手や監督を罵倒する必要もないと思います。日本の選手や監督には拍手を送りたいですし、一生に残る大舞台に立てたのだからエンジョイしてもらいたいです。それに彼らがヘタだとしても、下手なのは彼らだけの責任ではないよ。彼らが強豪国に生まれたら、もっと上手になる機会にふんだんに恵まれたでしょうからね。それにヘタとかいっても超絶レベルの「神々の争い」での話で、FIFAの加盟国は実に178カ国、登録されている選手も5000万人いるといわれているわけで、ワールドカップの舞台に立ったというだけでとんでもない偉業だったりするわけです。出場できない国のほうがはるかに多いのですから。
ワールドカップってナンなのかわかんないですけど、でも先日、不動産探しのインスペクションで出てきてくれた中国系のオーナーの人が、ワールドカップの話題に触れて、言った言葉が印象的だったです。"Football unites the world"って。「フットボールが世界を一つにする、結びつける」ってことです。ああいう大会があるお陰で、世界中の人が一つの話題で盛り上がれる、世界で一体感を感じられる、素晴らしいじゃないかって。うん、素晴らしいことだと思います。
文責:田村
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