今週の1枚(06.06.05)
ESSAY 262/ポスト小泉論について思うこと
写真は、Newtwonのタイ料理屋で昼飯時に。
自民党総裁選を9月に控え、ポスト小泉議論が盛んになっているのですが、誰もが言うように「これだ!」って人があんまり見当たりません。といっても、小泉首相以前だって、別に皆がみんな「これだ!」って感じで総理大臣になったわけでもないでしょう。森首相しかり、小渕首相しかり。今回はなまじ小泉首相の存在感というか、キャラが立ってるから、それだけにあとに続く人は何となく小粒に見えてしまうのでしょうね。
ネットで小泉政権の評価とか、ポスト小泉論について皆さんいろいろな意見を述べておられるのですが、全部とは言わないまでも、かなりの部分「なんだかなあ、、」という脱力感を抱いてしまいました。そりゃあ小泉さんになって、「日本はメキメキと素晴らしくなったぞ」という実感はあんまり湧かないかもしれない。構造改革!と言いながら、何がどう改革できたのかよう分からんし、風穴が開いたという気がしないかも知れなし。だから、小泉首相は口ばっかり、スローガンばっかりという批判も出てくるのでしょう。一方では、小泉首相になって規制緩和が粗製濫造を生み、貧富の格差が広がる格差社会になったという批判もある。
何を言うのもご自由ですが、大きな絵図の一部だけを取り上げて、あれがダメ、これがダメとあげつらっていたって始まらない。また、「所詮口だけ」みたいな「論証なしの結論叩きつけ」みたいな論法では、子供がダダこねているのと変わらない。また、一方では構造改革は手ぬるい、口先だけと言いながら、他方では構造改革や規制緩和のやりすぎで格差社会になってしまっている言う。同一人物がそれを言うのは、それに関する何らかの説明がない限り、主張自体が矛盾しているといわざるを得ないでしょう。
別に小泉首相のことを好きでもないし、擁護しようとも思わないけど、「単なる愚痴」ではなく「議論」をしようと思うのであれば、まず@日本はどうあるべきか、A今の日本は何が問題か、Bでは何をどう変えていけばいいか、Cそれに伴う副作用、反作用をどうクリアするか、という最低限のピクチャーなり政策を、批判者は持つべきでしょう。そして、小泉首相がダメだとして、どのレベルでダメなのかをはっきりさせていただきたい。そして、なぜダメなのか、それは本人の個人的な資質によるものなのか、やりたくても出来ないという構造的なものなのかも明瞭にしていただきたい。それをやって初めて批判は批判足りえると思います。
なんかもう少し考えるネタになりそうな議論や情報がネットに転がってるかと思ったら、「こんなもんか」と思ってしまった。かなり失望しました。もちろん非常によく考えられているサイトや意見もあるのですが、世相全体の2チャンネル化というか、3行以上長いことを考えられないのか。
改めて言うまでもないことだけど、個々人の人生が明るくなるか/暗くなるかの決定因子としては、政府のトップが誰であるとかいうファクターは5%以下だと思います。日々クーデーターや内乱に明け暮れ、家族を徴兵に取られ、あるいは爆撃によって殺される、、、なんて状況においては、政治が個々の人生に与える影響はかなり大きいでしょう。しかし、今の日本程度の状況では、政治家が誰になって何をどうしようとも、あなたの生活や人生はそう大して変わらないでしょう?もし政治によって自分の生活が大きく変わると本気で思っているなら、投票率が半分とかいう惨状を招いていないだろうし、皆の意見も又もっともっと切れば血が出る具体論になるでしょう。
「二世議員がどうした」とか「スローガンばっかり」とか、そんな抽象論というか、悪口みたいなことはどうでもよろしい。あなたは彼に具体的に何をどうして欲しいのか?別に人事と予算について細かな青写真を提出せよとは言いません。「前年度○○方面に○兆円の予算が組まれているが、これが幾らに下げて、その分をこちらに廻すべきであり、それでも十分廻る筈、なぜなら、、、」とか、「執行機関たる官庁の○○の過去5年の実績が期待を大きく下回るものであり、これは長たる○○氏とその派閥の○○派が財界の○○系と過密着している事情に基づくものであるから、これを更迭し、、」とか、そこまで具体的に言えとは言いません。ただ、もう少し具体的にどういう政策をやってもらいたいかくらいは明らかにして欲しいものです。
それを、抽象的な、それこそ”スローガンばっかり”な批判ばっかりだったら、なんだか自分の人生がイケてないムシャクシャを、全部政治に責任転嫁してるだけって気もしなくもない。自分の人生がイケてるかどうかなど、今の日本の、餓死者も殆どいないようなド平和な環境だったら、すぐれて自己責任でしょう。生活がいまいちぱっとしないのであれば、それはまずもって自分の無能、先見性のなさ、知的&肉体的怠慢さなどに原因があるといってもいい。全てがそうだとは言わないし、やむにやまれる事情を抱えておられる人も、先天的に不利なポジションからスタートせざるを得ない人もいるでしょう。が、そういう正当なる弁明を持ち合わせない人も多数いると思う。違いますか?
僕が何にイラついてるかというと、「批判するものは批判されない」という今の日本のムードに対してです。「この程度の国民にこの程度の政府」というフレーズがありますが、政治家や政治などは国民という巨大な樹木に咲いた花のようなものであり、国民のレベルを上げればほおっておいても政治家のレベルは上がる。国民のレベルを下げれば、政治のレベルは下がる。「純ちゃんと叫んだ私がバカだった」という川柳が有名になってますが、これは裏切られたからバカだったのではなく、純ちゃんなどと叫んでる時点で既にバカだったのだ。そのバカは今安部ちゃんと叫んでいるでしょう。お前ナニサマやねん?総理大臣と友達にでもなる気か?今の僕らがなすべきことは、まずもって自分らのレベルを上げることでしょう。そうすれば下らない大衆操作や世論操作に惑わされず、政治家をタレントのように誤解したりもせず、クールに何をやったかを見つめ、採点をし、評決を下すという真の主権者になれる。さもなくば、ヒーロー型政治家がバカな大衆を導いてくれるという愚かな幻想のトリコになりがち。そして往々にしてそういうヒーローというのは、ヒットラーのように国を破滅させたりするもんです。ヒットラーだって、当時のドイツ国民においては超ヒーローだったんでしょう。
10年以上前から指摘されてきた日本の課題は、過度に中央集権化した権力構造の是正であり、同時に硬直して制度疲労を起こしている各行政組織や規制の是正でありました。つまりは、地方分権と規制緩和です。そのため、行政改革が叫ばれ、省庁再編は実現しています(橋本→小渕政権時)。また、国民の意向を選挙においてよりビビッドに反映させ、二大政党制より機能させるために中選挙区制から小選挙区制に改正もなされました(細川政権時)。地方分権も、小泉政権のいわゆる「三位一体改革」という形で進めようとはしています。補助金の減少、税源の割譲、地方交付税の見直しの三位一体です。
ところで、あの、この「三位一体ってなんじゃ?」という人は、もうちょい勉強しましょう。僕も他人のことは言えないけどさ、政治=皆のこと=に口出しする以上は、自分で出来る範囲のことは自分でやろうじゃん。というわけで、丁度わかりやすい教材がありました。読売新聞の子供用の説明ページです。子供ニュースウィークリーです。三位一体改革は、http://www.yomiuri.co.jp/kyoiku/children/weekly/20041127ya01.htmにあります。非常にわかりやすいです。例えば、「国の役所(やくしょ)の中には、補助金がなくなると地方に口出(くちだ)しできなくなるため、「1円も削(けず)れない」と言ったところもありました。国の財布(さいふ)をあずかる財務省(ざいむしょう)は、「国もお金が足りない」と言って、税源を移すことに反対しました。小泉首相を支えるはずの自民党(じみんとう)の国会議員(こっかいぎいん)の中にも反対した人が大勢(おおぜい)いました。これまでは役所の職員に口ぞえをして、選挙(せんきょ)で応援(おうえん)してくれる人たちに「私の力で橋(はし)ができました」などと自慢(じまん)できましたが、それができなくなってしまうからです。」 ね、わかりやすいでしょ?
ところで、小泉首相になって、不良債権問題は確かに解決の方向に向かっているし、企業は三年連続で最高利益を上げており、「景気回復」は実現してます。郵政民営化についてもそのとおりに向かっているし、道路財団の問題もメスが入れられ、それまで表の話題にすら滅多に出なかった北朝鮮拉致問題も話し合いが進んだ。また、そもそもこれまでの日本政治の典型であった料亭政治、根回しと派閥と金権政治は確かに変わってきている。その証拠に、今度のポスト小泉の議論に登場する顔ぶれも、小沢一郎を除いて、従来のように政界の黒幕・大ボス的な感じではない(だから小沢一郎以外は誰もが小粒で軽く見える)。また国民のまったく手の届かない密室の中の「永田町の論理」だけで全てを決めようという流れでもなく、いわゆる「国民的人気」も総裁選びにおいて一つのファクターになってきている。この永田町の論理が後退し、「国民的人気」というファクターが入っただけでも、いわゆる「自民党を壊す」という方向には叶うでしょう
もちろん、景気回復といっても全然実感が無い人が殆どかもしれない。郵政民営化して明るい日本になった気がしないかもしれない。道路財団改革は、大山鳴動ネズミ一匹かもしれない。北朝鮮拉致問題も突っ込み不足かもしれない。国民的人気といっても、単にムード的なポピュリズムであり、キャッチコピーの出来の秀逸さだけかもしれない。批判は山ほどあろうし、批判もまたすべきだとは思う。が、少なくともまったく何もしなかったわけでもないし、従来のように一つ覚えのように公共投資をして景気対策をやって赤字国債を積み上げるような手法に終始していたわけでもなかった。評価すべきは評価し、至らざるを批判すべきでしょう。僕だって、全然足りない、これじゃ意味ないって思うことは多々あります。全部そうだといっても過言ではない。しかし、100点満点には程遠いにせよ、O点だとも思われないわけで、だから正味36点なのか78点なのか、そのあたりが評価ってもんでしょう。100点じゃなかったら一律0点だなんて、ただの無いものねだりでしょう。
それに小泉はもうダメだ、クビにすべきだといって、だからといって、じゃあどうすんの?誰に何をやらせるの?そして出来るの?って問題はあるわけです。小泉内閣はいまだに支持率50%を誇っていますが、だから日本国民の知的水準は低んだという意見もありました。知的水準が低いことは、自分も含めて反省すべき(他人を批判する前に自分を反省すべきでしょ)だと思いますが、そんなに思いっきり日本人が馬鹿だとも思わない。それなりの支持率は、これら上記のことを踏まえての評価だと思います。政治というのは、そして現実というのは、常に限られた選択肢の中での話であり、より理想的なものを求めつつも、実際には「より最悪ではないもの」を選ぶというトホホな経路を辿ったりします。それは我々の日常生活でよくある話であり、別に政治に限ったことではない。
また、「構造改革なんか出来てない」「口先だけ、広告が上手いだけ」という意見もありますが、少なくとも「なにをやるか」という課題を明確に示したという点は評価すべきでしょう。それまでは公約といっても「景気回復」「お年寄りにやさしい住みやすい社会を」という漠然としたものだったんだから、それが明確になっただけでも進歩だとは思います。それに、構造改革なんかそんなにすぐに出来るものでもなく、5年10年スパンで見ていかねばならないでしょう。改革案も殆どが骨抜きになったという批判もあり、それはかなりの程度正しい批判だとは思うけど、改革に反対し、骨抜きにしようと一生懸命になってる人々もまた僕らと同じ日本人であり、彼らにもまた反対する権利はある。総理大臣といえども昔の国王や皇帝のように、「俺に逆らう奴は皆殺し」なんてことは出来ないんだから、歩みは遅々としたものにならざるを得ないでしょう。でも、そういう反対する人々を巧みに「抵抗勢力」というネーミングで悪者にし、先の総選挙で自民党公認から外していった大胆かつ喧嘩腰の姿勢は、これまでの日本の調整型の政治家にはなかったものです。
じゃあ、お前はどう思ってるの?日本はどうなればいいと思うの?何が問題だと思うの?と問われれば、すっごいゴリゴリにベーシックなところから答えます。「一人でも多くの人間が、1秒でも長く、1ミリでも深く幸福になれる国」になることだと。
じゃあ、「幸福になる」ってどういうことか?と言えば、第一順位に生命身体に侵害のないこと(内乱や無法状態にならないこと)、第二順位に衣食住が最低限クリアすることです。このレベルですでにつまづいている国は世界に沢山ありますが、幸いなことに日本はこのレベルでそれほど苦しんではいない。そこで第三順位として、自己実現が来ると思います。平たく言えば「なりたい自分になれる」「どういう自分になりたいのか分かる」「やりたいことが分かる/出来る」ということですけど、自然状態の人間だったら(妙にひねくれたり、イジケたりしてなかったら)、もっと強く、美しく、賢く、優しい人間になりたいと思う筈です。なぜなら、自分がそうやって高まっていくことは、問答無用に圧倒的な快感がありますからね。そして、そうやって強く賢く優しくなった自分の力を使って、自分が心の底から信じる価値を実現したいと思うでしょう。「自分が信じる価値」、それは自分の子供でも、美しい自然でも、皆に美味しいご飯を食べてもらうことでも、素晴らしい作品を作ることでも、なんでもいいですけど、それを作り出せる自分になりたいと思うし、それが出来る力を蓄えたらそれを思う存分発揮してみたいと思うはず。衣食足りた人間が「生きる」ということはそういうことだと思うけど、違うかな。人間に感動をもたらす物語やお話は、それがマンガだろうが、映画だろうが、小説だろうが、ほとんど全てこの構造を下敷きにしていると思う。
では、日本はどうすべきか?まず第一順位(治安)と第二順位(経済)ですが、これも安閑とはしていられないでしょう。特に経済を一定レベルに保つの至上命題といってもいい。なんだかんだいって貧困が犯罪を生み出すのは自然現象みたいなものだし、経済が最低限上手くいかないと人々の生活も安定しないし、ネガティブな副産物(失業、一家離散、子供の非行化、町のスラム化、犯罪や汚職の横行)が山ほど発生します。経済をキープするためには、日本のように資源に恵まれず、高度な付加価値をつけて貿易で食っている国の場合、世界を相手に「売れる」物財とサービスを生産提供しつづけるしかない。そのためには、世界経済の動向にビビットに対応でき、世界をリードするような新製品の開発能力が求められるわけだし、世界貿易を安定させるために世界政治に敏感&賢くなければならないでしょう。
戦後日本の高度成長時期は、官民一致して効率のよい大量生産を成し遂げてきた理想的な発展途上国型モデルだったと思います。行政指導/護送船団といわれる官僚統制の下で、「最も成功した共産主義」と言われるゆえんです。しかし、それは先行者の模倣をしてキャッチアップする段階では有効でも、その先になるともう神通力がなくなる。量の問題ではなく質の問題になるからです。キャッチアップの量の問題レベルだったら、労使協調で文句も言わずに皆が残業して、必死になって自分の仕事の質を上げれば、「安くていい製品」が生まれ、それで世界市場で勝てます。自己犠牲的な協働精神でいけばいい。しかし、そこから先の質の問題になると、単純に頑張ればいいというものではなくなる。天才的、革命的なヒラメキが求められる。頑張るだけでは天才は生まれない。
これがバブル以降ネックになってる日本経済の問題だと思います。再び世界をリードするような産業大国になるためには、アメリカよりもどこよりもカッ飛んだ感性が必要なのでしょう。人類のライフスタイルを変え、幸福パターンを増やすような「なにか」を絶えず産みつづける感性。「なるほど、そんなやり方があったのか」と世界中の人が思うようなもの。普通の人間には逆立ちしても思いつかないようなことを思いつける能力、です。そこまで大袈裟でなくても、第一線で生き残っていこうと思えば、絶えざる自己革新力は不可欠でしょう。悔しいけどアメリカにはこれがあります。工場設備のように巨大な産業装置のはずだったコンピューターをパーソナルなものにし、それをネットワークで繋いだ方が効率がいいということを思いつく発想、さらに世界中のコンピューターを回線でつないでしまおうというインターネットの発想(それを政治的に整備したクリントン政権の情報ハイウェイ構想)、さらにアマゾンやグーグルのように新しい形でそれを商業化していくアイデア。全部アメリカ発でしょ。平均的なアメリカ人というのはそんなに賢いとは思わないけど、層が厚いから、そういう画期的なことを思いつく人材はゴロゴロしているし、それを社会で実現していくための仕組みも整っている。でも、これを超えなきゃ。
でも、今の日本にはここが足りない。一つは共産主義的・一致団結メンタリティでガチガチに世の中が固まってしまっているから、個性的な天才は生きていきにくくなっていることがまず一つ。この問題は教育問題などに連なります。また、何が流行るか分からない、何が当るか分からない以上、大量の試行錯誤が必要でしょう。千に一つ、万に一つかもしれないけど、優れた宝石を探すためには、とにかく掘り返してみるしかない。ゆえに大量の試行錯誤が可能な社会が求められ、ここにおいて新規参入が容易な社会、つまり「参入規制緩和」が叫ばれる理由があるのだと思います。同時にこれまでの「一生おんなじ」という運命共同体的な一枚岩の組織構造はあまり有利ではなくなる、、というか、むしろ参入障壁(よそ者は談合仲間に入れてやらない)として有害になるから、よりフレキシブルな組織が求められるようになる。それが官僚世界においては行政改革と呼ばれ、社会の各分野においては「構造改革」になる。
規制緩和や構造改革が叫ばれてきた理由は、要するにこれまでの日本の構造(滅私奉公・一致団結・終身雇用)では新しい時代を乗り切れないと思われたからであり、その発想は正しいと僕は思います。実際、皆が同じことやってても新興アジア工業国に追い上げられてジリ貧だもん。ところで、規制緩和や構造改革で格差社会になったという批判がありますが、論理的にそんなに繋がらないでしょう。新規参入を許したから、ニューリッチが生まれたとしても、例えばホリエモンが巨万の富を築いたとしても、そういう事態をこそ待っていたわけですからね。むしろホリエモンクラスの人材だったら、1000人、1万人単位で出てきて欲しいわけで、1000人生まれたらそのうち3人くらいはなんとかモノになるかもしれないってな感覚だと思います。そしてホリエモンが億万長者になったからといって、それで格差が広がったと嘆くことはない。新たにリッチな奴が登場すること、新旧交代すること、そのこと自体は社会が新陳代謝を行ってるわけで、歓迎すべきことですらある。今ある格差問題は、金持ちが金持ちになることが問題なのではなく、貧乏人がミもフタもなく落ちていくことにあるのでしょう。でも、その対策は、大量に失業した人たちが再び雇用されるように新産業にどんどん伸びてもらうことにあるのだと思います。
そして、これらの経済的要請は、第一(治安)と第三(自己実現)の要請と微妙に波長同調するように思います。新しい経済成長をもたらすためには、各方面にわたる活発な試行錯誤と新陳代謝が必要であり、そのためには全国津々浦々に張り巡らされたガチガチな終身共同体が緩む必要がある。個々人の立場で言えば、従来よりも動きやすく、生きやすくならねばならない。人生の選択も多様に、それこそ無限に多様化していいことにもなる。そういった自由な空気の中で新しいものが生まれる可能性があるからです。これは第三の自己実現にとっては、好ましい環境変化だと言えるでしょうし、各人が自己実現に励んでくれることが、日本経済の新たな再生につながっていくとも思います。また、一つしかない基準をもとに、そこに達しない人々と落ちこぼれとして二級市民化し、結果的に治安悪化要因に追い込むリスクもまた減るかもしれない。具体的にいえば、例えば「土と生命に接する喜び」という自己実現によって無農薬農法を行い、規制緩和によって従来の農協ルートを経なくても販売できるようになり、それが有機栽培市場という一つの経済市場を構成し、同時に勉強は詰まらないけど土いじりに喜びを見出す人々も増えるということです。各自が「こだわり」を持ち、それを押し進めることによって新たな経済の可能性が拓かれていくということですね。
もちろん、物事がこんなにスムースにいけば誰も苦労はしないわけで、それに反対する人々もいるだろうし、上手くいかない人々も多いでしょう。例えば、ガチガチの終身共同体であるがゆえに、そこに巨大な利権という磁場を生み、それで生計を立てている人も沢山います。日本経済のもう一つの顔です。政治もまた巨大な利権市場であり、族議員などが地方と中央とのパイプを握って暗躍するという構図が、まさに日本の図式でありました。だからこそ、地方に自主財源を持たせ、パイプを細らせ、利権を減らすという地方分権が叫ばれていたわけです。この人たちは、こういった規制緩和や地方分権という、ガチガチ組織を崩す流れを好みませんから、いわゆる「抵抗勢力」として頑張るわけです。まあ、彼らにも一部の理はあります。新しい経済を再生といっても、それは新たな経済競争に他ならず、人材や立地に恵まれている者は自由競争バンザイでしょうが、そうでない人々にとっては地獄でしかない。「地方が自立してやれ」といっても自立しようにもすべき産業に恵まれないエリアはジリ貧に追い込まれることになり、大きな格差を生むことになる。また、なんでも経済優先でいけばいいのかという批判もある。
それはそれとしてわからないこともないが、だからといって赤字国債垂れ流して公共投資をやりつづけていても破滅に向かうだけってことも明らかです。また、終身共同体組織においては、新人は雑巾がけから入り、先輩に可愛がられ取り立ててもらい、先輩の尻拭いをし、時には煮え湯を飲まされ、時には汚いこともし、ガマンしてガマンしてガマンして偉くなり、偉くなったら我が世の春を謳歌するという人生モデルが、今後とも通用するという保証はないし、そういうことを詰まらないと思うくらいには、日本も日本人も豊かに成熟したと思います。抵抗だけしていても、先々のビジョンは描けない。むしろ、基本路線は開放緩和で進み、そこで生まれる歪みをどう補正するかということでしょう。
また日本的共同体秩序が緩むことによって、皆それほど結婚しなくもなり、子供も作らなくなるので、少子化とか人々の孤独化が問題にもなってます。滅私奉公や仕事に対する職業倫理が減ることにより、働かない人、いい加減なレベルの仕事しか出来ない人々が大量に増えてくることにもなるでしょう。それもこれも共同体秩序を緩めたことによるもので、想定された副作用と言えなくもないです。しかし、だからといって又昔の共同体秩序に戻したところで戻るものでもないし、戻ったところで展望もない。また、皆マジメにせっせと働けばいいかというと、そういうものでもない。マジメだけが取柄でやってこれるようになるためには、また昔のような世界環境、つまり中国では文化大革命が起こり、市場経済なんか見向きもせず、朝鮮半島やベトナムで戦争が起こり、インドではガンジーが暗殺され、ヨーロッパではEUが解消され再び中小国が各自の基準でバラバラに動き出し、ロシアが再び軍事大国になりアメリカはそれと四つに組んで膨大な軍事費を注ぎ込む、、という世界環境になれば、せっせと一人だけ働いている日本がいつのまにか世界制覇を成し遂げるという図式もありうるでしょう。でも、いまはそういう時代ではない。
今求められているのは、格差を埋めることもさることながら、格差を格差としない新たな価値でしょう。相続税のないオーストラリアは、日本以上に貧富の格差が激しいとは思います。リッチな奴はめちゃくちゃリッチです。だけど、国民に共通するイーガリタリアン(平等主義者)という性格は今尚失っていない。何が違うかというと、お金があるとかないとかいうことが、別に人間や人生の価値の全てだとは誰も思ってないからです。日本だって思ってないだろうけど、その確信の深さが違う。貧乏人が金持ちに対して恥かしそうにしないし、恥かしいとも思ってない。もちろんオーストラリアでも、"haves" と"have nots"の格差問題は話題になりますし、安穏としてはいられないですが、日本ほど深刻ではない。それは、人間としての価値、人生の価値の置き所が違うからでしょう。こちらで人として尊敬されるのは、家族や弱い人に優しい人、思いやりの深い人であり、必ずしも「仕事の出来る人」ではない。細かな話は省略しますが(いつも言ってることだし)、生きていく気持ちの持ち方一つ、価値観一つで、格差はあってもそれが毒性を帯びるものでもないということです。
日本でも格差が広がり一生どうにもあまりリッチになれそうもない層が登場するでしょう。でも、これの何が良くないかといえば、自分に自信を失うという精神的な面だと思う。それしかないです。「今はダメでもそのうち」と思えるだけで貧乏はその人を傷つけない。夢や希望を持ってる限りその人は死なない。またお金には不自由していても全然胸を張って誇らしげに生きていけます。実際、僕にしたって日本にいた頃の年収からすれば遥かに下回っていますが、それを恥かしいと思ったり、惜しいと思ったことは一度もないです。また、こちらにワーホリで来て頑張ってる諸氏は、ミもフタもないくらい貧乏してますが、それ以上に生きることの充実と、一人で生きていく誇りを抱いている人は大勢いますす。だから、そーゆーことじゃないのよ。だから、今の日本でもしあなたが「下層」だと思ったら、あなたが日本に出来る最大の貢献は、絶対卑屈にならないってことでしょう。相手が総理大臣だろうがノベール賞受賞者であろうが、基本的には俺も対等と思えってことです。また、日本人全体についていえば、お金の有無で他人を計るな、馬鹿にするなってことです。
また、今までの日本社会において、人間として本当に学ばなければならないことは、もっぱら会社において教えられてきました。人と人との付き合い方、スジの通し方、ケジメの付け方、詰めを誤らないこと、不可能に挑戦すること、、、、派遣社員やパートばかりになってしまって、これらの給料以上に大事な教育機会が失われています。そこで、仕事や職場以外でも、こういった人間として学ぶべきことを教える場が沢山必要だと思います。僕もワーホリさんのお手伝いでシェア探しの応援(スパルタ式の叱咤激励)を日々してますが、ほんの2−3日のことだけど、皆さん大人になりますもん。不可能に思えることでも出来てしまうこと、詰めを誤るとドツボにはまること、甘えているとキッチリお返しがやってくること、自分がこんなにも強い人間だということを再発見すること、言葉もろくすっぽ通じない外人さんとのコミュニケーションが実はそれほど難しくないこと、人を見る目というのは自分にもあるということ、、、、などなど、全身で学べますからね。こういった機会は、いっくらでも転がってると思いますし、知ってる奴は知らない奴に教えてあげたらよろし。
次に国際情勢に対するビビットな感性ですが、、、なんて、こんな調子でやってたら幾らでも長くなるからこのくらいにします。
ただ、一人でも多くの人を、一秒でも長く幸せにするためには、経済という物的な整備は不可欠ですし、世界経済に敏感に反応し、時代を先取りしていく人材が底なしに生まれてこなければならない。そのための環境作りをしなくてはならない。「周囲をうかがって無難に、、」という処世術&人格しかもっていない人材を大量生産していても仕方がないでしょう。変身するためには、変身できるだけのゆとりが必要であり、ギチギチに縄で縛られていたらそれも出来ない。だから緩める。緩めると反作用で弊害も出てくる。その弊害を緩和しつつ、本来の目的を達成しなければならない、、、というのが僕の考える大筋です。
日本は、この過渡期をあと何十年も続けるでしょう。フワフワして、頼りどころがなく、確固として足を下ろせる岩盤がないような時代かもしれません。でも、それが流動性というものであり、フレキシブルというものでしょう。それでいいのだ。価値は、足場は、自らが作れってことでしょう。でも、30歳より上の世代は、まだまだ従来のカルチャーに染まってるのでかなり違和感があると思います。格差社会になるといって必死で本屋を漁って対策を考えること自体が、一枚岩社会の旧来の発想をひきずってる証拠といえなくもない。そもそもこの現象をもって「格差社会」になる=一つの基準で人間が計られてしまう=というネーミングをすること自体、まだ昔の発想でしょう。それよりも「幸福になる道筋に規制がなくなった」というポジティブな捉え方も出来るはずでしょう。いずれにせよ、愚痴ってても仕方ないよね。上の世代は、旧来の時代の「いいもの」を、その価値を損なわず、新しい時代に新しい形で移植するという大事な仕事があると思います。
さて、ポスト小泉ですが、別にまあ誰でもいいっちゃ誰でもいいです。候補者誰も小泉さんのように「これをやりたい」という課題を明らかにしないんだもん。何がやりたいのか見えない。また、逆説的なようですが、こと変革という意味では、今の日本で頑張って変革をしているのが、まず元気な民間企業(ダメな企業も沢山あるだろうけど)、次に政界だと思いますもん。いや、ほんと。再編成に継ぐ再編成で、油断してる自分の足下がなくなってしまうという環境を10年以上続けてきてるし。むしろマスコミの方が、その変化に追いつけていないような気がしますね。安倍さんが普通っぽい感じでいいとか、そんな紅白の出場予想みたいなノリで報道してるもん。そのマスコミよりもさらに旧態依然として着いていけてないのが一般国民だと思います。だってさ、この種の変革というか、変容というか、時代に合わせて最適な生存形態を選び取っていく「生きていく力」というのは、基本的に政治にやってもらうことではないでしょ。政治家はお膳立てをするだけであり、国は国民が作るものでしょ。信号を作るのは政治の役目だけど、その道路を走って目的地に行くのは国民の役目。そういう意識ってまだまだ薄いと思うもん。でも、薄いなら濃くすればいいんですよ。日本を良くするのは僕であり、あなただと思いましょう。無理やりにでも思え、と(^_^)。
文責:田村
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